日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Леонид Ильич Брежнев☭Кремль☆ブレジネフのクレムリン⇔「停滞の18年?」(ゴルバチョフ言)Collective Leadership(集団指導体制)赤い帝国と超大国ソ連Ричмонд-Хилл🍁(Онтарио)2018⑦


1985年5月9日 対独戦勝利記念日 首都モスクワ 赤の広場 レーニン廟壇上
1、ソロコフ国防相 2、ゴルバチョフ書記長 3、チーホノフ首相 4、グロムイコ外相(7月に解任され、最高会議幹部会議長に栄転) 5、グリシン政治局員 6、ロマノフ政治局員 7、ソロメンツェフ政治局員 8、リガチョフ政治局員 9、アリエフ政治局員


党内ナンバー2に
アンドロポフが死去してチェルネンコが書記長に選出された84年2月の中央委臨時総会でゴルバチョフは、結語演説を行い、葬儀ではアンドロポフの棺をチェルネンコにつぐ序列でかついだ。同月末の最高会議選挙演説の順番はチェルネンコ、チーホノフに続き3番目だった。チーホノフは政府を代表しており、党内の序列ではゴルバチョフが第2位であることを示したものであった。
選挙後初の4月の最高会議では、チェルネンコを幹部会議長に推薦する演説をゴルバチョフが担当し、慣例的にナンバー2が占める連邦会議外交委員長にも選出された。このころから彼は書記長後継の最有力候補と目されるようになったのである。前記アファナシェフ・プラウダ編集長は84年3月、西独紙『フランクフルター・アルゲマイネ』紙のインタビューに答えて、ゴルバチョフが「党指導部におけるナンバー2である」と明言した。さらに同編集長は、同年10月の日本人ジャーナリスト・学者グループとの前記の会見で「ゴルバチョフは書記長の代理を務めており、呼びたければ“第二書記長”と呼んでもよい」と、驚くほど率直に述べた。
また83年5月には、連邦会議立法委員長(当時)の資格で最高会議代表団を率いてカナダを訪問し、同国の誇る大農場や農産物加工工場を見て回り、農業専門家らしい熱心な質問ぶりで側を感心させた。84年9月には、党代表団長としてブルガリアを訪問し、続いて12月、美しいライサ夫人を伴って訪英して、洗礼されたマナーとユーモアのある受け答えで人気を博し、サッチャー首相をして「私は彼が好きだ。彼となら話し合える」といわしめた。これら一連の外国訪問は、将来に備えたゴルバチョフの“帝王学”研修の一コマであったろう。
*ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(ロシア語: Михаил Сергеевич Горбачёв(ミハイール・スィルギェーイェヴィチュ・ガルバチョーフ)、ラテン文字表記:Mikhail Sergeevich Gorbachev、1931年3月2日 - )は、ソビエト連邦及びロシア連邦の政治家で、ソ連最後の最高指導者。歴代最高指導者のうち、1922年のソ連成立後に生まれ、且つ2020年現在存命の最高指導者経験者はゴルバチョフだけである。
Mihail Sergeyevich Gorbachov (en Rusiana: Михаи́л Серге́евич Горбачёв) (n. 1931 esis politikisto, lasta chefo di Sovietia, e guvernis de 1984 til 1991. Il probis chanjar la lando kun glasnost e perestroika. En 1990 ilu ganis la Nobel-premio pri paco.
*ライサ・マクシーモヴナ・ゴルバチョワ(ライサ・ゴルバチョフ、Раиса Максимовна Горбачёва, ラテン文字表記の例:Raisa Maksimovna Gorbachyova, 1932年1月5日 - 1999年9月20日)は、ソビエト連邦(ソ連)の最後の指導者であったミハイル・ゴルバチョフの夫人。ライーサ・マクシーマヴナ・ガルバチョーヴァとも表記される。旧姓はチタリェンコ (Титаренко/Titarenko)。ソ連のファーストレディとしては、公的な行事や外国訪問などで積極的に夫のミハイルに随行し、ミハイルとともにソ連のイメージ改善に貢献した。また社会運動家としても活動し、ロシア文化遺産の保存や新たな才能を発掘するための教育、小児白血病の治療プログラムのための資金調達に尽力した。Raisa Maksimovna GORBAĈOVA, naskonomo Titarenko (ruse Раиса Максимовна Горбачёва), naskiĝis la 5-an de januaro 1932 en Rubcovsk, Altaja regiono, Siberio, mortis la 20-an de septembro 1999 en Münster, Vestfalio, Germanio) estis rusia sociologino. Kiel edzino de Miĥail Gorbaĉov ŝi estis influa, socie kaj kulture engaĝita virino en la ŝtatoj Sovetunio kaj Rusio.
*サッチャー女男爵マーガレット・ヒルダ・サッチャー(イギリス英語: Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC, FRS、1925年10月13日 - 2013年4月8日)は、イギリスの政治家、一代貴族。旧姓はロバーツ(Roberts)。イギリス保守党初の女性党首(在任:1975年 - 1990年)、イギリス初の女性首相(在任:1979年 - 1990年)。1992年からは貴族院議員。保守的かつ強硬なその政治姿勢から「鉄の女(英: Iron Lady)」の異名を取ったことで知られる[2]。Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, DStJ, PC, FRS, HonFRSC (née Roberts; 13 October 1925 – 8 April 2013) was a British stateswoman who served as prime minister of the United Kingdom from 1979 to 1990 and leader of the Conservative Party from 1975 to 1990. She was the longest-serving British prime minister of the 20th century and the first woman to hold that office. A Soviet journalist dubbed her "The Iron Lady", a nickname that became associated with her uncompromising politics and leadership style. As Prime Minister, she implemented policies known as Thatcherism.



ライバルを圧倒
ソ連共産党書記長になる者の資格や書記長選出のルールがはっきり決まっているわけではない。しかし、党の創設者レーニンは別としても、スターリン以後の書記長(第一書記)はすべて、書記を兼任する政治局員から出ている。スターリンがまず書記になり、その後、組織局(後に書記局に統合)、政治局にも席を占めて書記長になったように、もともと書記長のポストは、執行機関である書記局と意思決定機関である政治局双方のメンバーシップの上に成り立っているのである。
前述のようにチェルネンコは、書記長在任中に政治局、書記局の人事に全く手を付けなかった。彼の晩年に両局のメンバーを兼ねていたのは、彼自身のほかにはゴルバチョフとロマノフの2人だけだった。
オガルコフ失脚の陰に
1984年9月、オガルコフ参謀総長が解任されたことは前述の通りである。その背景には、党と軍の確執だけでなく、オガルコフはクレムリン内の”より弱いグループ”にくみしたために失脚したという見方が行なわれた。当時のクレムリンにはチェルネンコ後をうかがう有力な若手としてゴルバチョフ(当時53歳)のほか、ロマノフ(同じく61歳)政治局員・書記が控えていた。
ロマノフはレニングラードの造船大学を卒業し、造船技師を経て党活動に入り、1970年にレニングラード州党委第一書記になって、軍需産業の一大中心である同州の多くの企業の経営改善に業績を上げた。76年に政治局員、83年6月に中央委書記となってモスクワに乗り込んだ。軍産複合体の管理を担当しており、職務上も、ものの考え方の上でもオガルコフを頂点とする軍制服組に近かったという(『ニューズウィーク』誌)。
一方、ゴルバチョフは前述の通り、チェルネンコ書記長の下で農業のほかに国際共産主義運動・イデオロギー部門をも統括し、さらに党中央委の総務部・党活動をも管轄し、党の運営と人事面での発言権を伸ばしつつあったようだ。ゴルバチョフは、軍事政策では、軍事費の膨張をなるべく抑えて、まず停滞久しいソ連経済の全般的な活性化をはかり、その上で合理的な軍事力建設をはかろうという立場をとっていたという。オガルコフ解任直後の9月8日、ブルガリアの社会主義政権40周年記念式典に出席したゴルバチョフは、「創造的課題の解決に努力を集中しながら、党とソビエト国家は国防力の強化に対する注意を弱めていない。このためわれわれは資源の少なからぬ部分を割かざるを得ない」と演説した。彼の語調は「いかにも残念そうだった」(『ザ・タイムズ』紙)という。このようなゴルバチョフの立場は、ウスチーノフ、ひいてはチェルネンコのかねての立場に通じるものであった。


ロマノフを抑える
オガルコフの罷免は、その盟友であるロマノフ書記がエチオピア労働党の創立総会に出席してモスクワを空けている間に、そして夏休み中だったチェルネンコ書記長が久しぶりに姿を現した翌日の定例政治局会議で決定された。クレムリンの力関係を暗黙のうちに示したものではなかったか。
時を同じくして9月6日、東独で急死したコスタンドフ副首相の葬儀が盛大に営まれたが、ソ連各紙は故人の柩をめぐって、ゴルバチョフが最高の位置を占めている写真を公表した。チェルネンコ、チーホノフは欠席したが、ゴルバチョフがグロムイコ、ウスチノフ、グリシンなど並みいる先輩政治局員をしのいでトップに立っていたのである。ゴルバチョフの権威はこの写真で一層高まったといってよい。このあたりで、ゴルバチョフの唯一のライバル、ロマノフをほぼ圧倒していたといえるだろう。
*グリゴリー・ワシリエヴィチ・ロマノフ(Григорий Васильевич Романов、Grigory Vasilyevich Romanov、1923年2月7日 - 2008年6月3日)は、ソビエト連邦の政治家。ロシア人。ソ連共産党政治局員、同党書記を歴任。チェルネンコ書記長の死後、ゴルバチョフが書記長に就任するに当たっての最大のライバルであった。格里戈里·瓦西里耶维奇·罗曼诺夫(俄語:Григо́рий Васи́льевич Рома́нов,1923年2月7日-2008年6月3日),苏联党和国家领导人。
慎重に出番を待つ
前にふれた84年10月の党中央委総会では、農業問題が唯一の議題だったにも拘らず、1978年以来農政を担当してきたゴルバチョフが報告を行わず、討論にも参加しなかった。彼が農政担当をはずれて、書記長代理としてより広い分野を統括することになったものとみられた。しかし、1部には、1980年以来、5年続きの不作の責任に対する暗黙の批判が党内にくすぶってきたのではないかという観測があった。総会直前の10月18日、グロムイコ外相の75歳に因むレーニン勲章贈呈式の写真で、ゴルバチョフはそれまでのように書記長のすぐ隣りではなく、グロムイコ、ロマノフにつぐ向かって右端に近い場所に立っていた。序列にやかましいクレムリンの慣例からみれば、このことは“プリンス”ゴルバチョフの地位の低下を示すという向きもあった。
しかし、賢明なゴルバチョフは、この時期、退場間近いチェルネンコとあまり密着することを避けていたのかも知れない。ブレジネフにあまりに近すぎたチェルネンコが、後継争いに敗れた教訓に学んで、精彩を欠く老書記長から少し距離をおいて、慎重に自己の出番に備えたのではないか。
社会の刷新をかかげて
ブレジネフ時代末期のソ連社会の長期停滞を受けて、アンドロポフ政権は果敢に世直しに取り組んだが、大きな成果をあげるには時間が足らなかった。チェルネンコ政権は、前政権の終盤からきびしい対決状態に落ち込んだ米国との関係を、再び対話の道に引き戻すことには成功したが、国内改革や人事の刷新にはほとんど手が回らなかった。2人の前任者より一回り以上も若く書記長のポストに就いたゴルバチョフは、就任早々からかなり大胆な社会刷新の姿勢をみせた。
継承と改善
1984年3月の党中央委臨時総会での書記長就任演説で、ゴルバチョフはまず、「第26回党大会とその後の中央委総会(複数)でユーリー・ウラジミロヴィチ・アンドロポフとコンスタンチン・ウスチーノヴィチ・チェルネンコの精力的な参加のもとで作成された戦略的路線は、不変であったし、今も不変である。それは、国の社会・経済的発展の促進、社会生活のすべての側面の改善をめざす路線である」と述べた。ここでは「戦略的路線」という大枠が不変であり、それが継承されることをうたったのである。
ソ連の内外路線は、もともと党網領にもとづき、各党大会で5年ないし15年の経済・社会発展計画と内外政策の基本方向が打ち出され、それが年2回以上開かれる中央委総会での決定で具体化され、さらに毎週1回の政治局会議で当面の問題に対する政策が決められる。この仕組みからいって、ゴルバチョフがまず第1に、すでに策定された戦略的路線の継承を確認したのは当然である。彼の前任者たちも、政権担当の当初にはみんな、既定路線―それはしばしば“レーニン的”の形容詞を冠して呼ばれたーの路襲を誓ったのである。しかし、ゴルバチョフは就任演説ではやくも、戦略的路線の枠内での社会刷新の意欲をみせ、かなり進歩的な理念をもうかがわせた。

経済関係の変革
ゴルバチョフは第1に、経済関係をはじめとする社会関係のシステムの改善が懸案となっているとして、つぎのように述べた。
「われわれは、国民経済の集約的発展の軌道に移す上で決定的な転換を成し遂げることを迫られている。われわれは、国民経済の集約的発展の軌道に移す上で決定的な転換を成し遂げることを迫られている。われわれは、短期間に最も進んだ科学技術上の地位に、社会的労働生産性の世界最高レベルに是非とも達しなければならない。この課題をより順調に、速やかに解決するためには、経営メカニズムを管理システム全体を今後もねばり強く改善していく必要がある。この道を歩み、最適の解決を選ぶにあたっては、社会主義的経営の基本原則を創造的に適用していくことが重要である。それはつまり、経済の計画的発展を一貫して実施し、社会主義的所有を強化し、権利を拡大して、企業の自主性を高め、仕事の最終的な結果に対する企業の関心を強めることである」。
ここでゴルバチョフは、ソ連経済を従来のような資本と労働力の追加投入による外延的発展から、資本、労働力の集約化による内包的発展に切り替える必要性を強調している。この方向はすでにブレジネフ時代の第24回党大会(1971年)で打ち出されていたが、具体化にはほど遠い状態であり、ゴルバチョフがこの演説で「決定的な転換」という強い表現を使ったことが注目された。また科学技術のレベルと労働生産性の向上が強調されたが、ハイテクノロジーと労働効率の分野が、米国や日本と比べて明らかに遅れていることに対する焦慮が感じられる。
またブレジネフ政権以来の経営メカニズムと管理システムの改善の問題が取り上げられたが、この演説でみる限り、それはあくまで、伝統的な中央集権的計画と企業の自主性とをよりよくかみ合わせるという方向をめざすものであった。
しかしゴルバチョフは84年12月10日の全ソ・イデオロギー活動理論・実践会議では、「経済と社会関係の全体系における根底からの、変革を実現し、ソ連人の質的により高い生活水準を確保しなければならない」と述べ、「経済学はダイナミックで効率的な経済に移行するための、またより完全な経済メカニズムを生み出すための方法を提示していない」と批判していた。さらには「基本的に重要な問題は、生産力と生産の相互関係関係である。しかし、この問題を考えるために、教条主義的な思考が清算されていない」とも指摘した。これは資本主義社会では生産力と生産関係の矛盾が存在するが、社会主義社会ではその矛盾はないとう伝統的なマルクス・レーニン主義の教条に安住することを警告したものである。つきつめれば、社会主義社会のソ連で、現に生産力と生産関係との矛盾が存在するといっているのであり、きわめて大胆な発言である。この発言の背景には科学アカデミー・シベリア総支部を根城とする革新的な経済学者たちのバックアップがあるとみられた。書記長就任演説では慎重に構えて、ゴルバチョフはそこまで言及しなかったが、彼がかなり革新的な理念の持ち主であることは以前から認められていたのである。
情報の公開へ
ゴルバチョフは就任演説で情報の公開に言及して国際的関心を呼んだ。彼はこう述べたのであるー「われわれは今後とも、党、ソビエト、国家諸機関と社会諸団体の活動の公開性をもっと拡大していかなければならない。レーニンは、大衆の自覚によって国家は強くなると述べた。われわれの実践はこの結論を完全に裏付けた。人々が情報に通じていればいるほど、彼らはそれだけ自覚をもって行動し、それだけ積極的な党を、その計画と網領的目標を支持する」。
西側ではこの発言を、先進民主主義諸国における、いわゆる情報公開の概念と同様に捉えて注目した。だが、ゴルバチョフのいう情報公開は、ロシア語でグラースノスチ、英語のPublicityであり、むしろ教宣活動、PR活動を解するべきであろう。西側のように、市民が自らの権利として国や公共団体に情報の提供を要求するという下からの発想ではなく、上意下達の徹底を期するとアイデアである。両者はむしろ対極にあるといわねばならない。情報公開はゴルバチョフのかねての持論であり、前記の84年12月のイデオロギー会議でも同様の趣旨を述べ、「社会主義的民主主義の不可欠の一側面」と位置づけていた。

*グラスノスチ(ロシア語: гласность、glasnost)は、ゴルバチョフ時代のソビエト連邦においてペレストロイカ(perestroika、改革)の重要な一環として展開された情報政策である。日本語では「情報公開」などと訳される。解説=1986年4月に起こったチェルノブイリ原発事故では、書記長であるゴルバチョフの元になかなか情報が届かず、ソ連のセクショナリズム・秘密主義が、国の最高指導者の行政にまで影響を与えている現実を突きつけた。業を煮やしたゴルバチョフによって、体制の硬直化による種々の社会問題を解決するために、言論・思想・集会・出版・報道などの自由化・民主化が行われた。ペレストロイカ推進のためには、従来の社会主義的イデオロギーの枠を超えた発想が求められた。そのため、それまで抑圧され続けていた改革派の知識人、あるいは学者をペレストロイカに巻き込む必要があった。1986年末までには、一部のテレビ・新聞がソ連社会の問題点を率直に批判できるようになった。また、ブレジネフ政権のアフガニスタン侵攻を批判してゴーリキー(現・ニジニ・ノヴゴロド)に幽閉されていた科学者アンドレイ・サハロフも釈放された。1987年頃より、ブレジネフ時代に上映を禁止されていた映画が次々と公開された。党の統制下に置かれない市民団体の結成などもみられた。歴史学においてもネップ(新経済政策)の再評価、1930年代の大飢饉の考察や、大粛清における犠牲者の名誉回復など、それまでタブー視されていたテーマが扱われ始めた。それまで西側にとって秘密のヴェールにつつまれていた軍事面の情報も徐々に公にされるようになり、1986年には、空軍の新鋭戦闘機MiG-29がフィンランドのクオピオ・リッサラ基地を親善訪問した映像が世界に配信され、1988年にはイギリスのファーンボロー国際航空ショーに出展、さらに翌年にはSu-27、Su-25、Mi-28など最新鋭の軍用機がパリ航空ショーに出品披露されるなど、積極的な公開が進んだ。このように、一連の改革はソ連邦の民主化に大きく貢献した一方で、困窮する民衆の生活とはまるで別世界のような共産党幹部による共産貴族と呼ばれるほどの豪華絢爛な暮らしや汚職なども暴かれて、国民の反共産党感情を一気に高め、最終的にはソ連解体へと国家を進めていく結果となった。
글라스노스트(러시아어: гла́сность 이 소리의 정보듣기 (도움말·정보), ‘열림’, ‘개방’의 뜻)는 소비에트 연방의 리더인 미하일 고르바초프가 1985년에 실시한 개방 정책이다. 종래에 반소적(反蘇的)이라고 금지된 문학작품이나 영화·연극 등이 공개되었다. 그러나, 모든 것을 공개한 것은 아니라서 최측근의 비리까지는 신랄하게 공개·비판하면서도 고르바초프 대통령 자신과 그 직계가족 그리고 마르크스와 엥겔스 그리고 플레하노프와 레닌에 대한 공개·비판은 금지되었다. 비록 일부 제한적인 공개이기는 하나 수동적인 국민을 활성화시키고 관료주의와 사회의 부조리를 비판하여 소련의 개방에 영향을 미쳤다.목적


1986年11月7日 革命記念日 首都モスクワ 赤の広場 レーニン廟壇上
1、チェブリコフ国家保安委員会(KGB)議長 2、リガチョフ政治局員 3、グロムイコ最高会議幹部会議長 4、ゴルバチョフ書記長 5、ソロコフ国防相 6、ルイシコフ首相(チーホノフ(前年9月に辞任、10月政治局員も解任)の後任)


政策の具体化
3月の書記長就任演説でアウトラインが示されたゴルバチョフの路線は、その後、次第に具体化に向かう。4月8日、ゴルバチョフは党中央委員会本部で工業、企業、コルホーズ、ソフホーズの指導者、専門家、学者と異例の会議を開いた。生産と技術の第一線の働き手を集めたこの会議には、ロマノフ政治局員・書記(軍需産業担当)、ドルギフ政治局員候補・書記(重工業)、ジミャーニン(マスコミ・文化)、カビトノフ(軽工業)、リガチョフ(党組織・党活動)、ルイシコフ(経済)の各書記も出席し、第11次5ヵ年計画(1981-85年)の最後の年の経済計画を首尾よく達成する問題と第27回党大会を控えてソ連社会が直面する経済、社会的な緊急課題の解決の方策が討議された。
会議ではまず第12次5ヵ年計画(1986-90年)が経済発展の転換点にならなければならないことが強調された。多くの企業が旧式の機械や需要にこたえない消費財を作っており、しかもそれらを作っている企業幹部が責任を問われていないことが指摘された。経済メカニズムと管理の改善に当たっては、主要な方向での中央集権的計画化を強化しながら、企業の独立採算制を定着させ、企業、コルホーズ、ソフホーズの責任と権限、経済的自立性を高めること、さらにより高い最終成果の達成に対する集団全体と1人1人の働き手の関心を深めることの必要性が主張された。
また会議では、いかにして経済集約化をすすめるか、科学技術の進歩を早めるかが議論され、基本投資の主要な部分を、新しい工業の建設ではなく既存企業の設備更新や改修に向けること、工作機械製造、エレクトロニクス、計画工業の分野と優先的なテンポで発展させるべきことで意見がまとまった。
この会議の結論の延長線上に、4月22日、レーニン生誕115周年記念式典でのアリエフ政治局員・第一副首相の演説が行われた。同副首相はこの演説で、低迷久しいソ連経済を活性化することが当面の最重要課題だとし、このために、①企業、生産隊(作業班)の独立採算制を積極的にすすめ、硬直した同一労働、同一委員会の原則を見直す、②労働者と協議しながら、経済改善で大胆な措置をとる、③閣僚会議の各省庁の活動を点検し、改善する、④贈収賄、投機などの重点施策を打ち出した。
特に①の同一労働、同一賃金見直しの方針は注目すべきものである。従来、ソ連では賃金は、労働の質と量によって支払われてきた。つまり労働者の階級・資格と労働時間を掛け合わせて賃金を算出する仕組みであり、実際に達成された仕事の成績(最終成果)と必ずしも結びついていなかった。怠けていてもよく働いても(最終結果にかかわりなく)同じ賃金が支払われるというわけだ。アリエフ演説は、この硬直した賃金制度にメスを入れようというものであった。また同第一副首相は、情報公開の推進についてもふれ、「国民が国家や企業の管理により多く参加するべきであり、そのために必要なのは公開性である」と述べた。ゴルバチョフの方針を再確認したものである。
4月総会での政策展開
レーニン生誕記念日に引き続いて4月23日、党中央委総会が開かれた。ゴルバチョフ政権下でのはじめての定例総会である。冒頭、ゴルバチョフは「第27回定例党大会の招集およびその準備と実施に関する諸課題」について報告した。内容は単に27回党大会をめぐる問題だけでなく、広く内政・外交全般にもふれたもので、自ら報告を「内外政策の基本方向」と、結びの言葉で呼んだように、ゴルバチョフの初の本格的な政策展開でもあった。

27回党大会の開催へ
ゴルバチョフはまず、本題について、27回党大会を「党規約にもとづき」1986年2月25日に招集することを政治局提案として総会にはかった。チェルネンコ政権末期には、同党大会は85年中に開催が予定されていた。それが延びたのは、政権交代があって、新政権が第12次5ヵ年計画(1986-90年)や80年代後半の内外政策の基本方向に新味を付け加えるため、時間的余裕を必要としたものとみられた。党規約によれば定例党大会は「5年に1回」招集される。第26回大会は81年2月23日から3月3日まで開かれており、27回党大会を86年2月に延期しても、党規約の規定には適合しているわけである。
党大会の開催期日が政治局原案通り総会で決まったほか、ゴルバチョフの提案によって、つぎの6つの議題が大会にかけられることになった。
① 党中央委の活動報告と党の課題。②党中央監査委員会の活動報告。③党網領の新稿について。④党規約の改正について。⑤1986-90年度および2000年までの期間のソ連の経済・社会発展の基本方向について。⑥党中央諸期間の選挙。
これらの課題のうち、もっとも重要なのは、①と②である。①は第26回大会以後の党中央委の内外政策の成果を総括し、当面の党の課題を策定するもので、書記長自ら報告に立つ。この党大会での書記長報告のいくつかのポイントが、4月中央委総会でのゴルバチョフ報告でほぼ明らかにされている。③はソ連共産党の戦略目標と、それを実現するための方策を内外に明示する党網領を改定しようというものである。すでにブレジネフ時代の第26回党大会で提起された問題であり、アンドロポフ、チェルネンコ時代を通じて、その輪郭が次第に浮かび上がってきたことは前にみた通りである。

“革命的な変革”を
ゴルバチョフは、第27回党大会に向けてソ連社会が政治、経済、組織、思想・理論の面での張りつめた多面的活動に入ることになると指摘して、まず「われわれは第26回党大会とそれに続く中央委総会(複数)で作成された戦略路線の継承性を改めて確認する」と述べ、さらに「実生活、そのダイナミックな進展は、一層の変化と改革を要求し、社会の質的に新しい上体を達成することを要求している。それは何よりもまず、生産の科学技術的更新、世界最高水準の労働生産性の達成である。それは社会関係、とりわけ経済関係の改善である・・・」と強調した。ここまでは3月の書記長就任演説と同様であり、その再確認である。
しかし、総会報告はより具体的、積極的になり、ゴルバチョフ色を一層浮び上がらせた。それは「再編成」「抜本的改善」「革命的な変革」「大胆な前進」といった表現がくりかえし用いられたところに端的に表れていた。ゴルバチョフはソ連の当面の主要課題が経済発展の加速化にあるとして、こう述べた。「成長率を伸ばす、しかも大幅に伸ばすという課題は、経済集約化と科学技術進歩の促進をわれわれの全活動の中心に置き、管理と計画化、構造政策と投資政策を再編成し(傍点筆者)、あらゆる場面で組織性と規律を高め、活動のスタイルを抜本的に改善するならば、十分に遂行できる」。
そして国民経済の集約化のテコとして、「科学技術進歩を抜本的に促進する」ことの重要性にふれてゴルバチョフは、つぎのように強調した。「大多数の部門で科学技術進歩はのろのろと、主に現存のテクノロジーの改良、機械、設備の部分的近代化を通じて、本質上、改良の形で進行している。もちろん、こういった措置も一定の効果を与えるが、それはあまりにも少ない。革命的な変革が、原理的に新しい技術体系、最高の効率を示す最新世代の機械・設備への移行が必要だ」。
一方、経済管理の問題については、「どんな側面から経済を取り上げるにせよ、結局のところ万事は管理を、全体として経済運営機構を真剣に改善する必要がある」と力説して、アンドロポフ時代にはじまった経営・管理改善の実験(前述)がほぼ悪くない成果を収めたので、それを経営と経済管理の全体系に及ぼす段階が来ていると指摘した。そして、企業の自主性をしばっている指示や規定の数を大幅に制限するとともに、管理の組織構造の改善に着手し、余分な環(機構)をなくし、各機関を簡素化してその効率を高める必要があると述べた。これはブレジネフ時代の1965年、79年の経済改革にも似た大がかりなシステム改変をも、ゴルバチョフが考えていることをうかがわせるものであった。少なくともこの報告で、ゴルバチョフが並々ならぬ変革への意欲を示したといえる。それはゴルバチョフのパトロンだったアンドロポフの果たせなかった夢の実現をめざしたものとみられた。                

人事の公正と刷新
ゴルバチョフはまた、総会報告で党幹部の人事問題にふれ、人材の公正な登用と人事の適切な更新の重要性を説いた。「最近聞かれたいくつかの党委員会総会は、党がいかに円熟した人材を擁しているかを疑問の余地なく示した。それと同時に、人材の選抜、配置、育成のレーニン的原則をきわめて厳密に守る必要のあることを改めて確認された」と前置きしてゴルバチョフは、「これらの原則が破られ、個人的忠誠やおべっかや縁故主義にもとづいた働き手の抜擢が容認されているところでは、必然的に批判・自己批判の衰え、大衆との結びつきの弱まりといく現象が起こり、その結果として活動に破綻をきたす」と述べた。事実上、ブレジネフ時代の地縁、血縁、職縁による露骨な情実、派閥人事を批判したものといえよう。
ゴルバチョフは、党指導部の安定性の確保が依然として原則的に重要であることを認めたが、「そのことが人事異動のいかなる停滞も伴ってはならない」と強調し、党員の中央委員会あての投書が「長期にわたって同一のポストについている1部の幹部は、新しいものを見いださなくなり、欠陥に慣れっこになっていることが珍しくない点に注意を喚起している」と述べた。ブレジネフ末期やチェルネンコ政権下での異常なまでの人事の停滞と、それに伴う党指導部の高齢・老朽化に対する反省に裏打ちされた発言とみてよい。
そうしたゴルバチョフは、「指導部幹部のより活発な異動の道」を探求するべきだと指摘し、「もっと大胆に女性や若い有望な働き手を責任あるポストに昇進させる必要がある」と述べた。もともとソ連では女性が大々的に社会に進出し、特に保健施設や流通部門では管理者の半数は女性という状況があるにも拘らず、政治の場で活躍する女性は、伝統的にきわめて少ない。形式的な国家の最高権力機関である最高会議の代議員(任期5年)のなかでは通常、女性議員がかなりの比率を占める(1984年3月選出の第11期最高会議では全代議員1499人のうち女性は492人、32・8%)が、実質的な国家の意思決定機関である党中央委員会や執行機関である政府の中枢には女性は珍しい。かつて党政治局員になったのはエカチェリーナ・フルツェワ(1910-74)ただ1人であり、首相になった女性はいない。西側ではすでに女性の大統領、首相も生まれており、この面でソ連は遅れている。またブレジネフ時代以来、中央委員クラス以上の党幹部は、死亡するか、またはよくよくのことで失脚するかしない限り、ほとんど“終身制”だった。閣僚のなかにも20年、30年と職にとどまるものが珍しくない状況だった。ゴルバチョフは、このような人事の閉塞状況を打破して、女性や若手を大幅に抜擢する方針を打ち出したわけで、前政権とは違った意気込みを示したのである。
指導部の陣容強化
1985年4月の党中央委総会は、チェルネンコ政権下で全く手がつけられなかった政治局、書記局人事を断行した。通常12,3人から14,5人からなる政治局は、チェルネンコ時代には相つぐ高齢メンバーの死去で、11人に減り、チェルネンコ死後は10人にまで減少していた。書記局も手薄になり、とくに3,4人が普通の政治局員を兼ねる書記(上級書記といわれることもある)は、ゴルバチョフ政権発足当初には2人になっていた。4月総会は一挙に政治局員3人、同候補1人、書記1人を補充して党最高指導部の陣営を強化した。ゴルバチョフが政権に就いてわずか43日目に、これだけの高級人事を行い得たことは、必要に迫られてであるにしても、その権力基盤がすでにかなり強まったことを示すものであった。
政治局に若手
ヴィクトール・チェブリコフ政治局員候補・国家保安委(KGB)議長が政治局員に昇格した。1983年生まれの若手である。前にもふれたように、もともとブレジネフの郷里、ウクライナ・ドニェプロぺトロフスク州の出身で、地元の冶金大学を卒業し、ドニェプロペトロフスク市党第一書記、同州党第二書記などを歴任して、ブレジネフ人脈につながる人物とみられた。しかし、ブレジネフ(1906年生まれ)とはほぼ二世代の隔たりがあり、いっしょに働いた経験はない。特に1967年、アンドロポフがKGB議長になるとすぐKGB本部に引き上げられて要員管理局長、副議長を歴任し、82年12月、アンドロポフ政権下でKGB議長・政治局員候補・上級大将に昇進していることからみると、むしろアンドロポフ系といってよい。同じアンドロポフ系のゴルバチョフとは近い関係にある。政治局員への昇進は、その経歴、人脈からみて不思議ではない。
また一方、アンドロポフがKGB議長としてまず政治局員候補、ついで政治局員、上級大将に任ぜられた前例からみて、KGB議長が党においては政治局員のポストを占め、上級大将の軍階級をもつことはほぼ慣例になったといえよう。ブレジネフ時代以来、ソ連の政治に占めるKGBの比重が高まったことの反映であろう。
イェゴール・リガチョフ書記(1920年生まれ)が政治局員に昇格した。アンドロポフ政権下の83年4月に中央委の党組織・党活動部長、同年12月に書記を兼ねたばかりで、政治局員候補をとばしての二階級特進である。1943年、モスクワ航空大学を出てすぐに西シベリア・ノヴォシビルフスクのチカロフ記念航空機工場に勤務した。翌年からコムソモール活動に入り、ノヴォシビルフスク州コムソモール委員会第一書記を経て55年には同州ソビエト執行委員会議長代理になった。59年には同州党第一書記、61年から連邦党中央委に勤務し、65年から83年までトムスク州党第一書記を務めた。ソ連経済の未来を担うシベリアの2つの大州で現場経験を積んだ実力派党人だ。
ニコライ・ルイシコフ書記(1925年生まれ)が同じく二階級特進で政治局員に昇格した。アンドロポフ政権発足直後の82年11月、国家計画委員会(ゴスプラン)第一副議長から党中央委書記に抜擢され、よく12月に、新設された中央委経済部長を兼ねたばかり。めざましい躍進である。1959年にウラル工科大学を卒業し、機械工場の技師長、工場長などを経て、大規模な工業生産合同「ウラルマン」の総支配人を務め、75年からソ連重機械。運輸機械製作者の第一次官、79年からゴスプランに転じていた。それまで党機関で働いたことがなく、技術と経営に通じた典型的な若手テクノクラートといえよう。     

一方、国防相のセルゲイ・ソロコフ元帥(1911年生まれ)が政治局員候補に列せられた。機甲・機械化連隊の参謀長、軍司令官として活躍した。この時期、アンドロポフはカレロ・フィン共産主義青年同盟第一書記、同共産党ペトロザヴォーツク市第二書記としてこの地域一帯のパルチザン活動を指導していたという。当時直接に連絡や面識があったかどうかはともかく、同じ戦線での戦友でもあった。戦後は参謀本部の要職や軍管区司令官を歴任し、67年4月、専任の国防第一次官としてグレチコ、ウスチーノフ2代の国防相を補佐した。84年9月に解任されたオガルコフ参謀総長、クリコフ・ワルシャワ条約機構軍総司令官ら同僚の2人の国防第一次官に比べて政治的発言が少なく、地味な存在だったが、党への忠実さが買われたのであろう。84年12月、ウスチーノフ政治局員死去の報を受けて国防相に登用されていた。
ソロコフの前任者である2代の国防相も政治局に席を占めることも、ソロコフの人事でほぼ定着したといえるであろう。
書記局にも新人
さらにヴィクトル・ニコノフ中央委員・ロシア共和国首相(1929年生まれ)が書記局入りをした。ソ連南部のアゾフ黒海農業大学を卒業し、1950年から機械・トラクター・ステーション(MTC)の主任や所長として農業の第一線で働いたあと、党活動に入り、60年代以後、タタール州第二書記、マリ州第一書記などを歴任して中央に登用され、連邦農業次官、「全連邦農業化学連合」議長のあと、アンドロポフ政権下への83年1月からロシア共和国農相を務めていた。経歴が示す通り、現場経験を積んだ農業のエキスパートである。ゴルバチョフの後を襲って農業担当の書記になった。
権力固めすすむ
4月総会の人事でめだったのはまず、政治局、書記局に新しく入ったのが、職業軍人のソロコフ元帥を別として、50歳台、60歳台の若手ということである。ブレジネフ末期以来、老朽化の著しい党最高指導部に若い血が導入された。それは当然、若い書記長ゴルバチョフの統率をより容易にした。つぎに昇進したのがすべてアンドロポフ系ないしアンドロポフに近いと思われる人材だということである。ゴルバチョフ自身、アンドロポフ系であることから、4月人事は書記長の地歩を強めたことは間違いない。
一方、書記を兼ねる政治局員が4人になったことからも、かつてゴルバチョフのライバルと目されたロマノフ政治局員・書記の地位が相対的に下がったことも否めない。こうして、全員一致で書記長に推されたゴルバチョフは、翌月には難なくトップ人事を敢行できた。まずは政治家として順調な出発であった。ゴルバチョフ政権のスターティング・メンバーともいうべき、4月総会後の政治局・書記局の陣容は(表7)の通りである。
*エゴール・クジミッチ・リガチョフ(ロシア語: Его́р Кузьми́ч Лигачёв, ラテン文字転写: Egor Kuz'mich Ligachyov[1]、1920年11月29日 - )は、ソビエト連邦およびロシアの政治家。ミハイル・ゴルバチョフ時代のソ連共産党保守派の領袖。
*ニコライ・イワノヴィチ・ルイシコフ(ロシア語: Николай Иванович Рыжков、ラテン文字転写の例:Nikolay Ivanovich Ryzhkov, 1929年9月28日 - )は、ソビエト連邦及びロシアの政治家。ミハイル・ゴルバチョフ時代のソ連閣僚会議議長(首相、在任期間1985年9月27日から1991年1月15日)。ソ連崩壊後は、ロシア連邦議会下院国家会議議員を務めた。
*ゴスプラン(ソ連国家計画委員会、Госплан Gosplan・Государственный комитет по планированию)は、ソ連における生産計画を決定する国家組織。ソ連における計画経済を実現するために、経済動態を把握し、需給のバランスを計算した上で具体的な計画を立案した。

*セルゲイ・レオニードヴィッチ・ソコロフ(Сергей Леонидович Соколов、Sergei Leonidovich Sokolov、1911年7月1日 - 2012年8月31日)は、ソビエト連邦の軍人、政治家。ソ連邦元帥。チェルネンコ、ゴルバチョフ時代、ソ連国防相(在任期間1984年12月22日から1987年5月30日)を務めた。

補説 クレムリンを守る“抜き身の刀”
クレムリンの権力を論じるとき、党組織や一般の国家機構とともに、そのきわめて強力な支柱の一つとなっている国家保安機関を見落とすことはできない。レーニン時代以来、“クレムリンを守る抜き身刀”といわれてきた国家保安機関は、現在、閣僚会議の国家保安委員会(略称КГБ(カー・ゲー・べー)英語ではKGB)と内務省(МВД(エム・ヴェー・デー)MVD)とに分かれている。厳密な狭い意味での国家保安機関といえば、KGBということになる。
KGBとは
現在の国家保安委員会は、公式には、ソ連邦の安全を保障するための国家機関とされ、「スパイ、破壊活動分子、テロリストと闘い、国家犯罪を暴露し、予審を行うことによってソ連国家の安全を守る」ことを任務としている。しかし、KGBの役割は事実上このような消極的、防衛的なものにとどまらないと西側ではみられている。米海軍情報将校出身のジャーナリスト、ジョン・バロンは、西側に亡命してきた元KGBの幹部や職員、西側の防諜関係者などから取材してまとめた著書「KGB」(1974年、ニューヨーク)の冒頭で、次のように述べている)。
「KGBは今世紀の特異な存在である。・・・もしKGBが消滅すれば、ソビエト人の思想、言論、行動を規制し、芸術、科学、宗教、教育、報道出版、警察、軍隊を統制する基本的手段も同時に消滅することになろう。また少数民族を弾圧し、ソビエト市民の国外逃亡を阻止し、個人を監視し、ソビエト支配者層の利益に全国民を奉仕させるための、もっとも効果的な手段も失われるだろう。
―また国外での諜報活動―公務員の買収、破壊活動や暗殺の計画、ストライキやデモや暴動を扇動する裏面工作、テロやゲリラ活動の育成、デモや中傷による世論操作などーの能力もあらかた失うだろう。実際、KGBの崩壊は、ソビエト社会の土台そのものの崩壊、すなわち半世紀あたりまえにレーニンが築いた土台の崩壊につながるであろう」。たしかにバロンがいうように、ソ連の内政と内外政策に果たすKGBの役割は巨大なものであるようだ。
*ソ連国家保安委員会(ソれんこっかほあんいいんかい、ロシア語: Комите́т госуда́рственной безопа́сности СССР (ラテン文字転写:Komitet Gosudarstvennoy Bezopasnosti)、略称:КГБ(カーゲーベー))は、1954年からソ連崩壊(1991年)まで存在したソビエト社会主義共和国連邦の情報機関・秘密警察。軍の監視や国境警備も担当していた。
*ソビエト連邦内務省(―ないむしょう、ロシア語: Министерство внутренних дел СССР:略称МВД:エムヴェーデー。ラテン文字での略称はMVD)とは、1946年からソ連崩壊まで存在したソビエト連邦の内政を管掌する機関。内務人民委員部(NKVD)の後継、ロシア内務省の前身。


KGBの変遷
革命直後の1917年12月、生まれたばかりのプロレタリアート独裁の政権を守るために「反革命・サボタージュおよび投機行為取締全ロシア非常委員会」(略称ВЧК ( ヴェチェカー))が創設された。初代長官にはフェリックス・ジェルジンスキーが任命された。非常委員会の任務は、スパイ、サボタージュ、分子その他の敵対分子の摘発と抹殺、1918年にはモスクワでレーニンが狙撃され、ペトログラードで著名な活動家ウリツキーとヴォロダルスキーが暗殺されるという騒然たる状況のなかで、非常委員会は超法律的な機関として“階級の敵”を容赦なく弾圧した。チェーカーがプロレタリアート独裁政権を守るために必要とみなした行為は、逮捕、投獄、流刑、犯罪の現場での射殺等なんであれ是認された。
レーニンは当時の著作『プロレタリア革命と背教者カウツキー』のなかで「独裁は、直接に暴力に立脚し、どんな法律にも拘束されない権力である。プロレタリアートの革命的独裁は、ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの暴力によってたたかいとられ、維持される権力であり、どんな法律にも拘束されない権力である」と書いている。非常委員会はまさに、直接の暴力によって、プロレタリアート独裁を貫徹しようとしたのであった。
非常委員会はその後、「国家保安部」(ГПУ(ゲー・ペー・ウー)・GPU)「合同国家保安部」(OГПУ(オー・ゲー・ペー・ウー)・OGPU)「国家保安人民委員会」(NКГБ(エヌ・カー・ゲー・ベー)NKGB)「国家保安省」(MГБ(エム・ゲー・べー)MGB)などと名前を変え、内務省に統合されたこともあったが、つねにプロレタリアート独裁の”盾“として活動した。第二次大戦中にはスパイや"人民の敵”に対する容赦ない“血の粛清”の主役として内務人民委員部、国家保安人民委員部のほかに粛清実行機関「スメルシュ」(「スパイに死を」というロシア語の略語)が設けられた。スターリン死後の1954年4月、国家保安委員会という現在の名称が確定したが、チェカー以来の歴史をふまえて総称するときは「国家保安機関」と呼ばれるわけである。その機構の変遷は図5のようになる。
スターリンは国家保安委員会に”国家的犯罪者“に対する逮捕、拷問を含む取り調べから裁判、刑の執行に至るまでの広範な権限を与えて、政敵の一掃と政策の強化をはかった。「社会主義的合法性をふみにじり、ソビエト人民に対してテロを用いた」とスターリンとべリヤを批判して、非スターリン化、民主化、合法性の順守を標榜したフルシチョフ指導部のもとでは、国家保安機関はその機構と権限を大幅に縮小され、その活動にはきびしく合法性のワクがはめられることになった。
しかし、フルシチョフを退けて登場したブレジネフ指導部は、非フルシチョフ化政策の一環として国内の政治的・思想的引き締めを強めた。また軍事力の強化を背景に、広い国際舞台で米国と対等に発言し、行動するようになったため、また軍事力の強化を背景に、広い国際舞台で米国と対等に発言し、行動するようになったため、対外的情報、諜報活動の重要性も増してきた。米ハーバード大学ロシア研究所長リチャード・バイプスは「KGBはソ連の対外政策で、外務省よりも大きな発言権を持っているのではないかと思われる」といっている。KGBの役割は、ブレジネフ政権登場以後、再び高まりつつあるようだ。たとえばフルシチョフ時代に廃止されたモスクワ市内のKGB地区本部が、1968年ごろ再び設けられ、これに応じて各企業と機関内にKGBのネットワークが拡げられたという。モスクワの郊外と都心にKGBの新しい大きなビルが建設された。

*チェーカーまたはチェカー(ロシア語: Чека‎, ラテン文字転写: Cheka[1]、英: Cheka, 独: Tscheka)は、ウラジーミル・レーニンによって十月革命直後の1917年12月20日に人民委員会議直属の機関として設立された秘密警察組織の通称である。
*ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委員部附属国家政治局(ロシア・ソビエトれんぽうしゃかいしゅぎきょうわこくないむじんみんいいんぶふぞくこっかせいじきょく、ロシア語: Государственное политическое управление)、通称、国家政治保安部(こっかせいじほあんぶ)は、ソビエト連邦のレーニンおよびスターリン政権下で、反政府的な運動・思想を弾圧した秘密警察。ロシア語での通称はゲーペーウー(ГПУ)、ラテン文字表記するとGosudarstvennoye politicheskoye upravlenieで、これを略した GPU で世界的に知られることになる。
*リチャード・パイプス(英語: Richard Pipes, 1923年7月11日 - 2018年5月17日)は、ポーランド出身で、アメリカ合衆国の歴史学者。ハーヴァード大学名誉教授。専門は、ロシア近現代史。


9万人の精鋭
このような広範な任務と膨大な機構をかかえているKGBは、西側諜報機関の基底によると、国内、国外に9万人の基幹職員を擁しているという。これに加えて、KGBは国境警備軍と多くの事務職員、技術者を翼下に置いており、おそらく約40万人の人員を動かしているといわれる。さらにKGBが指揮している国内の協力者(情報提供者)や国外で使っているスパイの数は膨大なものになるとみられているが、正確な数はもちろんつかめない。
MVDと国内軍
スターリン時代の内務人民委員部(NKVD)、内務省(MVD)は、以前の国家保安部(GPU)や合同国家保安部(OGPU)、国家保安部(MGB)の秘密警察の機能と一般警察の機能を統合した強力な機関だった。“血の粛清”の主役も演じた。しかし、フルシチョフは非スターリン化政策の一環として、1960年、連邦内務省を解体した。GPU以来の秘密警察の機能は閣僚会議付属の国家保安委員会に移し、内務省は共和国段階にのみ残して、一般警察だけを管轄させた。それも62年には、スターリン時代の内務省の暗いイメージを払拭する意味も含めて、社会秩序維持者と改称し、権力と機能は縮小の方向をたどっていた。ところが前にも述べたように、ブレジネフ政権になって、一般的な国内の政治的・イデオロギー的引き締めの流れのなかでえ66年7月、社会秩序維持者は連邦・共和国省(連邦レベルと各共和国レベルの双方に存在する省)に再編され、同年11月にはこれを内務省と改称する最高会議幹部会令が公布された。重い響きをもつ"内務省“は7年ぶりによみがえったのである。
現在内務省は、民警と呼ばれる一般警察を管轄し、刑事事件の捜査や公安の維持、交通取り締まりなどに責任を負っている。この点では西側のいわゆる内務省と変わらない。

国内軍という特殊軍隊
しかし、ソ連内務省は、国内軍(国内警備隊、内務軍と訳される場合もある)と呼ばれる特殊な軍隊を持っているのが特色である。これは西側諸国の警察機動隊はもちろん、フランスの共和国憲兵隊などともはっきり異なる完全な「軍隊」であり、兵器は戦車、装甲戦闘車を装備した「自動車化歩兵」(英語でいうmotorized infantry)である。中国でいえば人民武装警察隊が、ほぼこれに近い存在であろう。国内軍への動機は、一般兵役法に基づく「兵役」である。国内軍は内務省の国内軍総局によって統轄され、内相に服属している。ソ連軍(いわゆる正規軍)とは全く指揮系統を異にしており、国防省の命令は全然受けない。幹部養成のためにレニングラード、オルジョニキッゼ、サラトフなどに独自の国内軍士官学校をも持っている。
国内軍の任務は、平時にあっては、異端分子を制圧してソビエト制度を防衛し、暴動・ストライキを鎮圧して国内の秩序を維持し、重要施設や鉄道を保術し、矯正労働収容所を警備することなどにある。ソ連軍に対する監視も大きな任務であり、戦時においては特別な任務につく、これらの任務を遂行するに当たって、国内軍は作戦行動については国家保安委員会の指揮を受けることになっている。逆にいえば国家保安委員会は、必要と認めた場合、国内軍を動かすことができるわけである。この点、国内軍は内務省と国家保安委員会に二重に服属しているといえよう。
矯正労働収容所へ囚人を護送したり、収容所を警備するのが国内軍の仕事であることは、ソルジェニーツィンの「収容所群島」や日本人のシベリア抑留者の体験記になどにくわしく描かれている。

ジェルジンスキー師団
モスクワ市内では赤い生地(自動車化歩兵を示す)にBB(ヴエー・ヴエー・ロシア語で国内軍の略称)の文字を入れた肩章をつけた兵士をよく見かける。モスクワ警備の国内軍部隊―ジェルジンスキー師団(ソ連の国家保安機関の初代長官の名にちなんだもの)の兵士たちである。これに対してソ連軍の兵士はCA(エス・アー)の文字の入った肩章をつけている。ジェルジンスキー師団は毎年11月7日の革命記念日の軍パレードにも参加するので、モスクワ市民にはおなじみである。筆者はモスクワ勤務中、この師団の出動を何度かみた。1969年3月、ウスリー川ダマンスキー(珍宝)島での中ソ両軍の衝突の直後、レーニン丘にある中国大使館に対して、10万人以上の抗議デモがかけられたとき、内務省は数千人のBB部隊を出動させて、大使館周辺の警備に当たった。筆者はこのとき、ハンディー・トーキーを携帯した伝令兵数人を従えて現場指揮をとっている国内軍の少将を目撃した。またフルシチョフ前首相の葬儀がノヴォジェーヴィチ修道院で営まれたとき、修道院を囲む林のなかに国内軍の兵士と装甲車が配置されているのを見たこともある。自由化、民主化政策をすすめたフルシチョフ前首相をしのんで、民衆がブレジネフ指導部の「引き締め政策反対」などの声をあげることをおそれた予防措置だったのであろう。ソ連文壇の“自由派”の重鎮で、雑誌『ノーヴィ・ミール』の編集長だった詩人トワルドフスキーの葬儀のとき、会場にあてられたゲルツェン通りの「文学者の家」の内外にも、BBの赤い肩章が見え隠れしていたものである。

*アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィン(ロシア語:Александр Исаевич Солженицынアリクサーンドル・イサーイェヴィチュ・サルジニーツィン;ラテン文字転写の例:Alexandr Isaevich Solzhenitsyn、1918年12月11日 - 2008年8月3日[2])は、ソビエト連邦の作家、劇作家、歴史家。1990年代ロシア再生の国外からの提言者である。ロシア文字からそのままローマ字にするとAleksandr〜だが、英文ではAlexander〜と表記されることが多い。ソビエト連邦時代の強制収容所・グラグを世界に知らせた『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表し、1970年にノーベル文学賞を受賞。1974年にソ連を追放されるも、1994年に帰国した。ソルジェニーツィンの生涯は、彼の人生を左右した二つの価値観、つまり父譲りの愛国心と、母譲りのキリストへの信仰心に彩られている。愛国者として彼は大祖国戦争に従軍し、国外追放の身であってもロシアの再生を提言した。信仰者としての彼は、ロシアが愛国心の方向を誤った時、断固神の基準に立って幾多の人生の試練に神の信仰によって立ち向かった。彼はノーベル文学賞よりも、宗教界のノーベル賞とされるテンプルトン賞が嬉しかったという。また国外追放後にソ連市民権が回復すると彼は喜んでロシアに帰還した。

*『収容所群島』(しゅうようじょぐんとう、Архипелаг ГУЛАГ、ラテン文字表記:Arkhipelag GULAG)は、ソ連の作家、アレクサンドル・ソルジェニーツィンの記録文学。
旧ソ連における、反革命分子とみなされた人々に対しての強制収容所「グラグ(グラーグ)」への投獄、凄惨な拷問、強制労働、処刑の実態を告発する文学的ルポルタージュである。統制の厳しい本国では出版できず、1973年から1975年にフランスで発売。各国語訳が進められた結果、人権上由々しき問題として大反響を巻き起こした。当然ながらソ連では禁書扱いされた。ソルジェニーツィン自身は、続刊が出版されている最中である1974年に市民権を剥奪されて西ドイツへ国外追放されている。タイトルの「収容所群島」とは、広大なソ連領内の各地に点在する収容所の分布のありようを、大海中に点在する島々になぞらえた表現である。
国内軍の編成
第二次大戦中、国内軍はモスクワとタシケントに司令部を置く2個軍から成っていたが、現在は総兵力20個師団、25万とも、17万5千ともいわれる。編成はソ連軍と同様、小隊、中隊、連隊、師団という構成をとっている。モスクワに国内軍総局とジェルジンスキー師団があり、そのほかレニングラード、ハバロフスク、ウラジオストークなどに配備されているという。ソ連全国にはりめぐらされたKGBの監視網とともにMVD=国内軍の組織が、クレムリンを守る“抜き身の刀”となっているわけである。
軍に対する党の統制
つぎに、巨大な武装軍団である軍に対する党の統制のメカニズム、とくにKGBと MVDによる統制のあり方をさぐってみたい。問題はきわめて微妙であり、ソ連当局によってくわしくPRされることのない事柄なので、アプローチは容易ではないが、主として西側の資料に、筆者のモスクワでの見聞を加えて、いままであまり触れることのなかったこの問題に迫ってみよう。             

党組織による指導
ソ連軍(1946年までは「労農赤軍」と呼ばれた)は、その建軍の初めから党がつくり、党が育てた党の軍隊としての性格を持っており、現在も党の厳格な指導と監督のもとにある。そして党が軍を指導し、監督する手段は、大別して、①軍内党組織を通じる指導、②軍内政治機関を通じる指導、③国家保安機関と内務省による監督、の3つに分けられる。まず①と②について簡潔にふれてみたい。
党組織を通じる軍の指導は、「ソ連社会を指導し方向づける力」(ソ連共産党規約前文、新憲法第6条)であり「ソビエト社会の社会体制、あらゆる国家機関と社会団体の中核」(憲法6条)である党による、全ソ連社会指導の一環である。党は、他のソ連社会と同様、ソ連軍内にも党組織を張りめぐらせている。下は中隊から大隊、連隊、師団、艦隊、集団軍(軍管区)に至る各部隊はもとより、各種学校や各軍種総司令部、参謀本部、国防省などの軍機関のすべてにわたって党組織を持っている。たとえば中(大)隊には初級党組織(古い呼び名では細胞)とその書記があり、その上に連隊党ビューローと書記、師団党委員会と書記、集団軍(軍管区)党委員会と書記という階層構造が組み上げられている。これら党組織の宣伝・扇動活動によって、党の意思を軍内のすみずみまで浸透させようというわけである。
一方、ソ連軍では中隊以上に「政治副指揮官」(略称ザムポリト= замполи́т)が置かれ、集団、旅団、師団、空挺部隊、集団軍、軍管区、艦隊、学校、国防省内などに「政治部」が、さらに各軍種別に「政治局」(局長は大将級)が設けられている。「労農赤軍」時代の軍事委員(コミッサール=Комиссар)制度の後身である。そして、これらを統轄する機関として中央に陸海軍政治総本部がある。これは国防省の機構の一部であり、国防相の管轄下に置かれているが、同時に共産党中央委員会の一部局の権限を持って活動し(党規約第66条)、党と政府の意思を軍内で代表している。

これらを総称して軍隊政治機関(ポリト・オルガン)と呼ぶが、党、政治の政策、意思を軍隊内部に伝える上からずへの伝達機関の役割を果たしている。党(政治局、中央委員会)は政治機関を通じて党員の軍人だけでなく、非党員を含むすべての軍人に対して階級的イデオロギー宣伝、警戒心の高揚、軍紀の引き締めを行い、軍隊内の党組織やコムソモール(共産主義青年同盟)組織を直接指導するのである。
ザムポリトは軍種・軍管区レベルでは軍隊・軍管区政治局員が軍種・軍管区委員会書記を兼ね、軍・師団レベルでは軍・師団部長が軍・師団党委員会書記を兼ね、それぞれのレベル以下の党組織を指導する。連隊以下では、ザムポリトと党書記は人的に分離されるが、この場合ザムポリトの方が党書記よりも上位にある。連隊のザムポリトが中佐であるのに対し党ビューロー書記は少佐、大隊のザムポリトが少佐であるのに、初級党組織書記は大尉となっている。
これら党組織、政治機関による軍の指導が、教育、宣伝、扇動など、もっぱら軍人の内面精神に訴えるものであるのに対し、以下にややくわしく述べる国家保安機関や内務省による監視、統制は力を背景にしたものであるところが特徴である。「プロレタリアート独裁」を軍内にも貫徹する一つの手段としての「何物にも制限されず直接に暴力に依拠する権力」(レーニン)を体現したものが国家保安機関や内務省だといえるであろう。

軍内のKGB組織
軍内の秘密警察組織は、軍令系統や政治機関の系統とは全く無関係で、独立した階層を形づくっている。西側諸資料によると、その基本単位は略称 OO(オー・オー)といわれる特別部(課)である。
これは1921年に完全な秘密機関として軍内に配置され、巧妙かつ峻厳な警察活動を行なってきたが、スターリンの死後1953年に廃止された。しかし、76年9月のKGB長官の上級大将任命は、すでに OOが復活し、その指揮権をKGB長官が掌握したことを示すものではないかとみられている。党中央委員会の軍事部長として、軍内政治活動に責任を持つ陸海軍政治総本部長が上級大将であることが想起されるのである。もしそうだとすれば、かつての OOのあり方から、現在の OOの性格も次のように類推することができる。
軍の一定規程以上の部隊、施設、機関にはすべての OOが置かれる。たとえば国防省の各局、学校、研究所、最高裁判所の軍事部、各軍管区、師団、艦隊、航空隊などである。
これら OOはすべて、KGBの軍管理局(第3総局)に服属している。軍管区や集団軍のOOには通常50人か、それ以上のKGBの管理将校と補助職員がいる。師団に付属するOOは通常、課長、課長代理、先任将校1人、それに数人の管理将校(その数は監督する連隊の数によって違う)と補助職員から成っている。独立連隊には連隊のOOが存在する。軍学校には1人の管理将校がおり、学校のある軍管区または軍の直属する。各連隊または独立大隊には少なくとも1人の警察将校(管理将校に服属する)がおり、「オソビスト」と俗称されている。この将校は、兵、下士官、将校から徴募した12人ないし24人の協力者(エージェント)で情報網を作っている。大きな隊になると2人または3人以上の警察将校がいる。

KGB職員の特権
軍内KGBの全勤務員は、軍令系統とも政治部系統からも全く独立し、自分の上司に服属しているだけである。したがって、たとえば連隊配属のKGB将校は、必要とあらば連隊長の命令を拒否できる。しかし、自分が勤務している隊の制服を着ているので、歩兵にも砲兵にも戦車兵にも航空兵にもみえる。そのうえ、秘密警察員の任命、待遇、昇進、転任などに関する命令は、正規の軍命令として発せられるので、表面上は正規軍将校にみえる。しかし、棒給は、同階級の正規の将校よりはるかに多い。
作家ソルジェニーツィンはその「収容所群島」の第4章「秘密警察」のなかで、この特別部の将校の“権威”について、こう書いている。「お前さんは特別部の人間だ。ようやく中尉になったばかりかも知れないが、年輩の堂々たる大佐の隊長でも、お前さんが入ってくると、わざわざ席を立ち上がって迎える。大佐はお前さんのご機嫌をとろうとし、お前さんを招かないで参謀長と酒を飲むことはしない。お前さんの肩章に小さな星が2つしかないのは問題じゃない。・・・お前さんの星は全く別の尺度で計られているものなのだ。・・・その部隊、工場または地区に属しているすべての人びとに対して、お前さんはその隊長、工場長、地区共産党委員会書記よりも比べものにならぬほど大きな権限をもっているのだ・・・」。                           

OOの活動
 OO組織の主要任務は管理将校が行う。彼らは協力者による情報網を張りめぐらし、これによって軍隊内の政治的傾向や士気(これは時として食事のまずさとか、正規の勤務のあとの残業とか、家からの手紙によって影響される)について監視する。あらゆる私信を検閲し(ソ連内では定期的に、占領軍では常時)報告書を作成し、質問調査を行う。
部隊の指揮官は命令、計画、報告に関して写しを OOに渡し、重要な問題はすべて OOに当たってみなければならない。 OOの将校は、重要な幕僚会議や昇進の打ち合わせ会議に出席し、計画立案などにも関与する。任命、昇進、民間人の雇用などの人事問題は、すべてこの将校の認可がいる。 OOの将校はまた射撃演習に立ち会う。
 OOはまた防諜活動を行い、ことに占領地帯ではスパイや潜在的スパイの狩り出しに当たる。食糧、衣類、武器、弾薬の貯蔵所の管理も OOの特別任務である。倉庫や集積所の警備兵は秘密警察員か信頼できる補助員(エージェント)か、または厳重に警察に監視された普通の兵である。射撃場や演習で使う武器や弾薬は、 OOによって厳重に管理、割り当てされている。軍隊は反乱を起そうとしても、実際には自分で弾を管理していないから不可能な状態にある。
ソ連ではいままでの戦争で、偵察隊や偵察行動の出発命令は必ずOO が下している。ソ連では、偵察には、それにもっとも適応した将兵でなく、。政治的にもっとも信頼度の高いものが使われている。偵察に出たまま逃亡するおそれがあるからである。
OOによってあばき出された「反ソ分子」の取り扱いにはさまざまな形がある。たいした罪でない場合には、尋問を受け、讒責されて転任させられる。もし容疑者の知能が高く、戦友の受けもよく、他人からは信用されている場合には、彼らを協力者網のなかに引っ張り込もうとする。もっと重大な事件のときには、容疑者は逮捕され、投獄される。占領地内では、ほんの小さな容疑でも本国送還になる。部隊のなかの1人でも逃亡すると、隊全体が本国送還になるといわれている。
国内軍による監視
内務省管理下の国内軍もまた、一般のソ連軍に対する監視の任務を担っている。戦時においては野戦部隊の督戦、退却阻止に活動するほか、一般部隊を配備するのが不適当か、あるいは信頼をおけない場合には、これに代わって特別任務につく。また戦場の後方や占領地域における秩序維持に当たり、反ソ的ゲリラ活動を抑圧する。敵の後方攪乱のためにコマンドを派遣することもある。平時においては各軍管区ごとに、正規軍1個軍に対して1個連隊、1個師団に対して1個中隊を大体の基準として配置され、地方の国家保安機関(KGB)と連携して、正規軍の監視に当たっている。軍の大きな行事やパレードが行われるときには、いかなる事態にも対応できるよう警戒態勢をとる。
このような特殊の任務を持つため、国内軍は一般のソ連軍よりもすぐれた装備と規律を持ち、より行き届いた訓練がなされているといわれる。万一、正規軍が反乱を起しても直ちに実力で鎮圧するためである。その兵士・将校は義務兵役制に基づいて徴募されるが、政治的信頼性についてはとくに厳重に審査され、特別に選考される。したがって、国内軍の将兵は正規軍よりも高い給料、質のよい軍装、より整った兵舎をあてがわれているともいわれている。クレムリンは正規軍のほかに、このようなエリート軍隊を特別につくって、軍の監視に当たらせているわけである。そして、前にも述べたように、国内軍はその作戦行動についてはKGBと手足としての国内軍が一体になって、軍に対する監視と統制に当たっているといえるであろう。              

 政権の親衛隊
ソ連の首都モスクワの警備はKGBと国内軍のジェルジンスキー師団が独占している。ソ連軍のモスクワ軍管区には3個自動車化歩兵師団、2個戦車師団、1個空挺師団が配備されているが、モスクワ市内からはソ連軍の実戦部隊は全く排除されている。首都に一番近く布陣しているカンテミール戦車師団でもモスクワ西南80キロのナロホニンクスに司令部を置いているし、その次に近いタマン自動車化歩兵師団はモスクワの西南に200キロ以上も離れたアラビーノに司令部がある。
ソ連軍の戦車師団は、通常、3個戦車連隊、1個自動車化歩兵連隊を基幹とし、総兵力は8千。自動車化歩兵師団は3個自動車化歩兵連隊、1個戦車連隊を基幹に総兵力1万といわれる。ジェルジンスキー師団は一般のソ連軍自動車化歩兵師団以上の装備、兵力を持っているようである。もし万一、カンテミール師団やタマン師団が配属のKGB将校の制止をふり切って、武器に弾をこめてモスクワに向かっても、精鋭なジェルジンスキー師団は十分にこれを抑止できるものとみられている。かつてスターリンの死後、ベリヤがクレムリンの最高権力者の座をうかがおうとしたのは、第1副首相兼内相として、秘密警察と国内軍を一手に握る力の背景があったからにほかならない。
クレムリンの周辺やスターラヤ広場4番地の共産党本部近辺では、銃を肩にした2,3人1組のジェルジンスキー師団兵士がパトロールしているのを見かけることがある。正規軍と違って国内軍は、常に武装しているのである。ソ連軍の中枢機能―国防省や参謀本部、戦略ロケット軍総司令官などはすべてモスクワに集中しているが、いずれも“丸腰”の官庁にすぎない。武装したジェルジンスキー師団の銃口に囲まれているともいえるのだ。
クレムリンの警備
ソ連の権力の中枢であるクレムリンの警備は、KGBクレムリン警備隊の任務である。クレムリンの各門や、クレムリン構内の閣僚会議ビル、最高会議幹部会ビルの内外は、青い肩章(ГБ(ゲー・ベー)ロシア語で国家保安の略)の文字を入れ、青色の鉢巻きの制帽をかぶったKGB制服部隊(クレムリン警備隊)によって警備されている。城壁外の赤の広場に面したレーニン廟は、「ソ連邦哨所No.1」と呼ばれており、その警備もKGBの管轄である。雨の日も雪の日も銃をとってレーニン廟に立ちつくす2人の哨兵と、地下のレーニンの遺体の周囲に立ち寄せる下士官、将校たちもすべて青い肩章のKGB部隊のメンバーである。レーニン廟の線以外、クレムリンの全構内で武装し得るのはKGB警備隊員だけとされている。
筆者の観察では、このクレムリン警備隊は閣僚会議ビルと小さな庭園をへだてて向かい合う黄色い2階建てビルを兵舎としているようである。レーニン廟の衛兵もこのビルから出てくるのだ。帝政時代以来の建物で、市販のクレムリン観光地図では「アルセナール」(旧武器庫)と記されている。この兵舎の大きさからみて、クレムリンに常駐しているKGB警備隊の兵力は1個大隊前後かと思われる。クレムリンからほど近いジェルジンスキー広場2番地のKGB本部にももちろんKGB部隊が待機しているとみるべきである。国内軍の本営のある内務省もクレムリンからほど近く、モスクワ銀座ゴーリキー通りからちょっと引っ込んだオガリョフ通り6番地にある。
革命後すでに60年、党による軍の掌握は大いにすすみ、ほとんど党と軍は一体化したと思われているが、クレムリンはなお巨大な武装集団ソ連軍に対する監視と統制を怠っていないようにみえる。ソ連の国境を守る緑色の帽子の部隊のほかに、赤い帽子と青い帽子の特別の部隊を党は直接その手に握っているのである。











 

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