日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

De la position d'un débat semi-réfugié sur la responsabilité d'après-guerre et les Coréens au Japon/반 난민의 위치에서 - 전후 책임 논쟁과 재일 조선인/半難民の位置から - 戦後責任論争と在日朝鮮人(서 경식 徐京植Suh Kyung-sik)⑥



데니즌과 국민 국가 - 서구에서 정주 외국인의 시티즌십 (인종 / 민족 / 국민 <특집>)  리 코이치 Denizun et nation nationale - Citoyenneté des étrangers installés dans les pays occidentaux (Racial / Ethnicité / National )
1 在日論批判
1970年代後半以降、在日朝鮮人の間で、「本国への帰国を前提とした「祖国指向」を前提とした「祖国指向」を否定し、「日本での定住を前提とした「在日指向」を主張する論調がさまざまな形で語られるようになった。こうした論調は総じて「在日論」と呼ばれているが。概ね在日朝鮮人の未来像を「ネーション」ではなく、「エスニシティ」として描き出そうとする。しかし、ここにはエスニシティ概念そのものを批判的に検討する視点は不足しているように思われる。「在日論」の大部分は文化的多元主義の理論を借りて、日本社会での在日朝鮮人と日本人との「共生」を強調する。「共生」という言葉が日本で頻繁に使われるようになったのは、1980年代半ば以降であろう。そのことは日本企業の多国籍化が進行し、日本企業が海外(とくにアジア)に活動拠点を増やすとともに、日本社会に多くの外国人労働者が入って来るようになった時代状況を反映している。異文化間の衝突や摩擦に対処することは、日本資本主義自身のための要請でもあった。
1985年、「国際化」を唱えた中曽根康弘首相は、同時に「国民国家は汚辱を捨て未来を求めて進む」と発言しているが、このふたつの路線は彼において決して矛盾するものではなかった。むしろ、資本と情報の国際化という文脈に沿って、「外圧」と資本の要請に応じ、従来の単一民族国家イデオロギーに必要最小限の修正を施しつつ、多文化主義的意匠をほどこした新たな国家主義を立ち上げようとする路線であり、小沢一郎流の「普通の国」論にもつながるものと見ることができる。比喩的にいえば、戦後40年を経て日本は再び過去の「多民族帝国」の記憶を呼び起こし始めた、ということになるだろう。こうして「共生」という言葉は、同床異夢のごとく、市民の側からも国家・政府の側らも頻繁に用いられることになった。戦後50年にあたる1995年に、政府の肝煎りで大々的な「アジア共生の祭典」がもよおされたが、これを1943年の「大東亜会議」の再現ととらえる声がアジア各国からあがったことは象徴的である。
在日朝鮮人のよる「共生論」のひとつに、金賛汀氏の「在日という感動」(三五節、1994年)がある。これについては他でやや詳しく論じた(拙著「分断を生きるー「在日」を超えて」影書房、1997年)ので、ここでは簡単に触れるにとどめる。金氏は、在日朝鮮人の1世・2世には「現実を無視し、在日朝鮮人の生活感覚からかけ離れた観念的な祖国志向もしくは祖国追随」の発想があり、これが「在日朝鮮人社会の未来像を不透明なものにし、日本で日本人社会との共生と在日朝鮮人社会の創造を阻んできた」と主張する。中国、アメリカ、旧ソ連に存在する朝鮮民族を現地に訪ね歩いたという金氏は、各地の朝鮮民族が「移住国への定住を確固なものにし、在住国の人々との「共生」を模索する方向にある」とし、在日朝鮮人も彼らにならって日本社会への「帰属意識」を明確にして「共生」をはかるべきだと論じている。
しかし、金氏が軽視している点は、日本が、中国、旧ソ連、アメリカ合州国などとは異なり、朝鮮を植民地支配した旧宗主国であるということだ。在日朝鮮人問題は移民問題一般とはもちろん、中国、旧ソ連、アメリカ合州国における少数民族問題とも異なる。在日朝鮮人の問題は本質的にいって、移民とホスト社会の関係の問題ではなく、また一国内のエスニック集団間の「共生」の問題でもない。それは何よりもまず、日本帝国主義による植民地支配の歴史的克服の問題なのである。
次に「市民社会的在日論」についてであるが、この命名は鄭章淵氏による。鄭氏はこれを、「‘民族’に代わる在日社会の新たな統合理念として‘市民’に着目し、市民社会の一員という共通の立場から日本人との‘共生’を訴える」ものと定義している(「<パックス・エコノミカ>時代の到来と在日社会」(季刊・青丘25号1995年冬、青丘文化社)。その代表的なものは、文京洙氏の「在日朝鮮人にとっての“国民国家”」(歴史学研究会編「国民国家を問う」青木書店、1994年)だが、論旨は次のようである。


재일이라는 감동 - 진로는 '공생'(일본어) 단행본 - 1994/9/1 김賛汀 (저, 원저)Impression d'être au Japon - Le cours est «coexistence» (japonais) Livre-1994/9/1 Éloge d'or (Auteur, original)
*김賛汀(금 산정 김 창정, 1937 년 2 월 26 일 [1] - 2018 년 4 월 2 일 [2] )는 재일 두 세 의 논픽션 작가. 교토 출생. 조선 대학교 졸업. 통일 평론사 편집 차장 등을 거쳐, 논픽션 작가. 한국 · 조선 문제 외에도 왕따 문제 등으로 저작권 다수. 일단 조총련 에 몸 담고 있었지만, 김일성 과 북한 에 대한 비판으로도 알려져있다.金 賛汀(きん さんてい、キムチャンジョン、1937年2月26日[1] -2018年4月2日[2])は、在日二世のノンフィクション作家。京都生まれ。朝鮮大学校卒業。統一評論社の編集次長等を経て、ノンフィクション作家。韓国・朝鮮問題のほか、いじめ問題などで著作多数。かつて朝鮮総連に身を置いていたが、金日成や北朝鮮への批判でも知られる。


*문장京洙(문경수, 문 경수, 1950 년 -)는 재일 한국 · 조선인 2 세의 정치 학자 . 리츠 메이 칸 대학 국제 관계 학부 교수. 전문은 한국 정치사.文 京洙(ムン・ギョンス, 문 경수, 1950年-)は、在日韓国・朝鮮人二世の政治学者。立命館大学国際関係学部教授。専門は、韓国政治史。

1950年代半ばから70年代初めにいたる日本社会の「高度成長」は在日朝鮮人社会にも巨大な変化をもたらした。「“民族”という集団意識のたしかな培養基」だった「朝鮮人部落」は解体され、居住環境や生活水準が改善されると、在日朝鮮人の意識は「新中産層」化し、「祖国」や「民族」といった「抽象的な大義」は「神通力」を失った。こうした社会変化は、在日朝鮮人の「‘民族’にまつわる価値意識や歴史感覚や価値観」を解体し風化させた。こうして、在日朝鮮人旧世代の「観念的」な「当為」としての民族観と無縁な新しい世代の「市民(住民)」としての歴史感覚が台頭している。これは「国民国家の枠組みをきびしく問う」ものである。このような文民の説については、他の場所で私なりに批判した(前掲「分断を生きる」ので、ここでは、その要点を簡単に記しておこう。
まず第一に、文氏らの在日論は「一世的な民族観や祖国観」は若い世代の「実感」に合わないと主張するが、そうした「実感」の由来を検証し、「実感」こそを批判的に検討するのでなければ、それはたんなる現状の追認でしかない。
第二に、文氏が力説する「高度成長」が在日朝鮮人にもたらした変化についてだが、文氏の視点は「高度成長」に対する批判がきわめて脆弱であるように思われる。「高度成長」の結果、日本社会に自立的市民が着実に形成されたといえるだろうか。むしろ労働者階級の企業社会への包摂が進み、市民の自立性は着実に崩されてきたと言えるのではないか。
文氏は「高度成長」による日本社会の変化を「市民革命」とまで呼んでいる。しかし、「市民革命」とはアメリカ独立戦争やフランス革命に匹敵する変革を意味する筈であり、そのためには日本ではまず現行憲法における象徴天皇制の廃止や、基本的人権保障における国籍条項(第11条)の破棄などが具体性を帯びた課題として意識されるような状況が最低限、実現していなければならないであろう。だが現実は、それとはほど遠い。
鄭章淵氏は文氏の説を批判し、「まず確認すべきは、在日朝鮮人と日本人との共生は構造的劣勢に立たされた前者と国家権力を掌握する後者と不平等な共存にほかならない」。「「会社人間」の悲哀すら、多くの在日朝鮮人は味わえずにいるのである」と論じている(前掲論文)。
文氏のいわゆる「実感」とはことなり、零細な家内工業に縛り付けられている在日朝鮮人女性の実感を伝える、金伊佐子氏の文章も紹介しておこう。

「在日同胞が自営するヘップサンダルや皮革、ゴム加工や鉄工などの零細家内工業で働く女は守られているだろうか。一日中、機械を動かさなくては仕事が成り立たず、総動員された家族の誰かが休むと別の家族がその分働かなくてはならない労働条件では誰が雇い主で誰が雇われている側か、が問題ではない。(中略)若い娘が、着飾って出社するOLとなった同級生を見送りながらシンナーやゴム臭の充満する工場で油と埃にまみれ旋磐機やミシンを回す時、着飾って出社できる会社に就職できない民族的差別と、家族が家内工業を助けなければ成り立たない在日の労働状況を、身を以て知る。これを封建的な家父長制度にのみ原因を見いだし、その精神基盤となる儒教を否定するだけで解決できるとは誰が信じるだろう。」(『在日女性と解放運動』岩波書店・日本のフェミニズム!「リブとフェミニズム」)
2 「本国」という要因
「市民社会在日論」に対する第三の、もっとも重要な批判点は、それが在日朝鮮人の生を規定する社会的矛盾関係から、「本国」という要因、および、「本国と居住国との関係」という要因を捨象しているという点である。だが、現実には、在日朝鮮人の生は、南北を含めて「本国」の政治・経済・社会状況という要因によっても大きく規定されている。
たとえば、1965年の日韓条約によって在日朝鮮人社会の分断が推し進められ、朝鮮籍の人びとは長年にわたって(92年まで)韓国籍者に比べて不平等かつ不安定な無権利状態を強いられてきた。その一方、韓国籍の人びとは日本で生活しながらも韓国軍事政権による管理と圧迫の網の目に組み込まれ、少なからぬ数の人が軍事政権によって人権や財産権を脅かされてきた。こうしたことは日本の「高度成長」と同じ期間に進行していた、もうひとつの現実であり、その現実は、「実感」できるかどうかにかかわらず在日朝鮮人の生の条件を拘束していたし、いまも拘束している。
韓国の朴正煕政権が国内外の反対運動を弾圧し、在日朝鮮人の意向を問うこともなく、日本の植民地支配の責任をあいまいにする日韓条約に調印してしまったことは、在日朝鮮人に対する日本社会の偏見や差別を是正するどころか、逆にそれを温存助長する結果をもたらした。そのことが現在にいたるまで、どれほど在日朝鮮人の人間的解放の妨げになってきたことか。
このように朝鮮半島の政治的現実は国境を超えて在日朝鮮人の生の条件を根本的に規定している。現状のままでは今後も、在日朝鮮人の運命は本国と日本との政治権力によって恣意的に翻弄され続けるであろう。在日朝鮮人が「本国」や「民族」に関心をもつ理由は、文氏がいう観念的な「当為」論のゆえではない。在日朝鮮人が自己解放を実現するためには、自己の運命を左右する政治的決定のプロセスに主権者として参与する道を拓く必要があるからなのである。

재독 ·三読(4) 김 이사 코 (키무이사지ャ) 재일 여성 해방 운동 - 그 창세기에 [포함解題] (특집 <여자들>의 현재 (지금))Re-reading / Three-reading (4) Kim Isaja Women in Japan and the Liberation Movement--In the Book of Genesis

このような在日論が出現しつつあったその同じ時期、韓国籍の在日朝鮮人たちが親族訪問、墓参、留学、商用、就職などのかたちで韓国と大量に往来するようになり、リアルな意味で本国とのつながりを作り出していた。その状況の中で、70年代には少なからぬ数の母国留学生が、個々人によって程度の差はあれ、何らかのかたちで民主化闘争や統一運動にかかわり、軍事独裁政権によって弾圧されるという一連の事件もあった。その1人である徐勝は1972年11月、ソウル高等法院において、「在日僑胞は差別されるが故に自らが「韓国人」であることを意識する、つまり、積極的な意味での真の民族意識を自覚し得ないでいる。自分は積極的民族意識を確立して、いかにしても在日僑胞60万人の未来を幸福なものにしなければならない。なんとかしてそのために寄与しなければならない、と考えた」という趣旨の法廷陳述をした(『獄中19年』岩波書店、1994年)。
徐勝のこの言葉は、韓国へ渡り弾圧や投獄の苦難を経験した彼ら母国留学生すべてに多かれ少なかれ共通する思いを表していると考えられる。その数は無視してよいほど少ないものではない。彼らは「祖国指向」という「当為」論に呪縛されて、無思慮な跳躍を試みたのだろうか?少なくとも言えることは、彼らはまた日本に生まれた在日朝鮮人としての自己の現実から出発し、自己解放の道を模索する途上で、あのような経験に遭ったのだということ、言いかえれるならば、彼らの経験もまた在日朝鮮人の生を規定している現実を構成する一部分であるということである。しかし、多くの在日論は、こうした経験への考察を欠いている。というより、こうした経験は現在にいたるも、その歴史的意味が正面から論じられないままになっているのである。
옥중 19 년 - 한국 정치범의 싸움 (이와 나미 신서) (일본어)신서 - 1994/7/20  서승(저, 원저) XIX annos in carcere-Coreanica Pugnans politica scelestos (Iwanami Shinsho) (Iaponica) Shinsho - 1994/7/20 Suh Sung (Author: Remix)


ここで、梶村秀樹氏が1985年の論文において、次のような貴重な指摘をしていたことは思い出しておく価値がある。
「在日朝鮮人が日本に定住しつつも日本国家への帰属を否認するとき、それを裏返した観念は、(中略)国家への帰属意識というよりは、全体としての民族への帰属意識、南北と在日等をひっくるめて苦難と闘う民族との一体化の希求と表現した方が適当なものとしてある。強力な母国の保護を受けてこれに依存して生きていこうというのではない。民族の一員としての実存を意識化していけばいくほど、苦難を克服していこうとする母国民衆の課業に主体的に参与していこうとする意識に、到達せざるを得ないのである。(中略)国家の側の都合によって、こうした民族への帰属の志向、創造過程への主体的参与の意思を阻むことは、あってはならないことである。」(「定住外国人としての在日朝鮮人」『思想』1985年8月号)

3  二者択一論を超えて
在日朝鮮人総聯合会は1955年の組織結成以来、在日朝鮮人は朝鮮民主主義人民共和国の「在外公民」であるとの公式的立場を固守し、在日朝鮮人が日本国内でさまざまな市民運動や地域運動にかかわることは「内政干渉」であるとするがごとき形式論理から未だに脱却することができずにいる。日本国家への帰属を否認して「外国人」であり続けることと、「定住外国人=デニズン」としての市民的権利を獲得することは必ずしも矛盾しないのだが、朝鮮総聯はそのことを自らの組織論理のなかに組み込むことができないため、いたるところで論理矛盾に陥っているように見うけられる。こうした硬直した「内政干渉論」を克服して、在日朝鮮人もまた自己の市民的権利獲得のために積極的に闘うべきだとする限りにおいては、私も「在日論」に同感である。しかし、「在日論」のもつ問題はおそらく、彼らが否定しようとする、こうした形式論理の裏返しとして、自らもまた「帰国か定住化」「祖国か日本か」という二者択一的思考の枠組みにとらわれていることにあるだろう。
在日総聯にせよ大韓民国民団にせよ、既存の民族団体は分断体制を前提とした朝鮮半島之北または南に現に存在する「国家」への帰属意識を強調するが、在日朝鮮人の側に立てば、その帰属意識の対象は分断されたいずれかの「国家」ではなく、全体としての「民族」であり、未だに実現されざる、自己解放の課題としての「統一された朝鮮」であるはずだ。しかし、「在日論」もまた、こうした視点を欠いており、現存するあれこれの「国家」への帰属意識をもろともに、課題としての「統一された朝鮮」への帰属意識までも否認しようとする傾向をもっているようである。
既存の在日民族団体という小「ネーション」から離脱したものの、離脱したその先にあるのはすでに「普遍的価値」が実現された超越的な市民的空間ではなく、象徴天皇制を掲げる具体的な日本という「牢獄」が待ち受けているのではないか。この危惧に多少ともリアリティーがあるとすれば、単一民族国家イデオロギーを批判することだけで満足するのではなく、市民的な諸要求を回収しつつ進行している「多民族帝国」イデオロギーに対しても、充分に敏感でなくてはならないであろう。在日朝鮮人という存在が、それ自体として、既存の「国民国家の枠組みをきびしく問う」(文)ものであることは言うまでもない。だが、「在日論」の見解が、現に自らをとらえている日本という「国民国家」自体を「きびしく問う」た結果のものかどうか、疑問を禁じ得ない。
梶村秀樹氏は、1920年以降、日本の植民地支配に起因する「国境をまたぐ」農民層分断の結果、在日朝鮮人の日本と朝鮮との「国境をまたぐ生活圏ないし生活意識空間」が形成されたとし、1945年の解放後、朝鮮半島の南北分断、日本と朝鮮との断絶という状況が出現した結果、この「国境をまたぐ生活圏」が分断されたと指摘している(梶村前掲論文)。このように考えるならば、「もはや帰国できない。だから定住だ」という短絡した論理は、「帰国か定住か」を性急に迫る二者択一論の延長上に出てくるものであり、それこそ在日朝鮮人の「ありのまま」の生活に反するものだと言える。在日朝鮮人は、その歴史的経緯からも、また普遍的人権の側面からいっても、「国境をまたぐ生活圏」を確保し、主権者(国民)として本国とのつながりを保ちながら、日本において定住外国人としての諸権利を保障されてしかるべき存在なのである。
재일 조선인 론 (梶村히데키 저작집) (일본어) 단행본 - 1993/11/1 梶村히데키 (저),梶村히데키 저작집 간행위원회 편집위원회 (편집) Theory of Koreans in Japan (Hideki Kajimura's book) (Japanese) Book – 1993/11/1 Hideki Kajimura (Author), Hideki Kajimura Collection Publishing Committee / Editorial Committee (Editor)
*梶村히데키 (かじむら히데키, 1935 년 7 월 4 일 - 1989 년 5 월 29 일 )는 일본 의 역사 학자. 원래 카나가와 대학 경제 학부 교수 . 전공은 조선 근현대사.  梶村 秀樹(かじむら ひでき、1935年7月4日 - 1989年5月29日)は、日本の歴史学者。元神奈川大学経済学部教授。専攻は朝鮮近現代史。 Hideki Kajimura梶村秀樹 ( Hideki Kajimura(東京都出身 , 4 juillet 1935-29 mai 1989 ) est un historien japonais . Ancien professeur d' économie à l'Université de Kanagawa . Le principal est l'histoire moderne de la Corée . 

4 「遠隔地ナショナリズム編」
『想像の共同体』の著者ベネディクト・アンダーソンは、20世紀後半の地球規模の巨大市場の形成や交通・情報・通信手段の飛躍的な発達などによって、いわうるボーダーレス化が急速に進行していくのにもかかわらず、「ナショナリズムが時代遅れになったとは、とうていいいえない」と述べている。いまや「記憶や習慣、信念や食習慣、音楽や性欲を保ち続けたまま世界を流浪する人々」による新しい形態のナショナリズム、すなわち「遠隔地ナショナリズム」が生まれている、というのである(ベネディクト・アンダーソン「遠隔地のナショナリズム」『世界』1993年9月号)。
非常に興味深い見解である。ナショナリズムがそう簡単になくなるものではないという点に関する限り、私もこの見解に賛成である。しかし、私は、ナショナリズムが簡単になくならない理由を、「記憶や習慣、信念や食習慣、音楽や性欲」すなわち、広い意味での「文化」に求める見解は、ある種の「文化還元主義」ではないかという疑問を覚えている。目を向けるべきは「文化」そのものの堅牢さではなく、遠隔地にあっても、そうした「文化」のもとに人々を結集させるところのもの、言いかえれば、「われわれ意識」の「下部構造」そのものではないだろうか。
ある民族集団がその「本国」で経験している政治的現実が、国境を超えて、他国(遠隔地)に暮らす同民族の集団の生を規定し条件づけているという状況は広汎に存在する。在日朝鮮人がまさにこれにあたるが、たとえばパレスチナ人やクルド人などの例を見ても、こうした状況は、むしろ帝国主義と植民地支配以後の現代世界では普遍的な現象と言えるだろう。アンダーソンの説とは逆に、彼らにとって「本国」の政治的現実は、想像においてではなく、現実に「居住国」におけるその生を規定する条件なのである。
在日朝鮮人は「想像上の故郷(イマジンド・ハイマート)としての朝鮮半島に郷愁や愛着をもつためにではなく、逆に、「想像」としては帰属意識をあまり持ち得ないにもかかわらず、朝鮮半島の政治的現実によって日常の生を拘束されているからこそ、自己解放の条件から「本国」という要因を外すことができないのだ。つまり民族的「集団」ではなく、民族的「現実」が国境を超えているのである。国際的人口移動をめぐる議論は概して、受け入れ国(=居住国)における「移民問題」という視点に偏ったものが多く、送り出し国(=本国)の要因、あるいは歴史的/現実的な本国と居住国との関係という要因を総体として視野に収めた分析は乏しいと思われる。アンダーソンも、その例外ではない。今日こうした問題が求めているのは、当事者である定住外国人(本国から見れば「在外国民」)の視点に立った、エスニシティかネーションかという固定的な枠組みを超えた、新しい理論的枠組みであろう。

*베네딕트 리처드 오고먼 앤더슨(Benedict Richard O'Gorman Anderson, 1936년 8월 26일 ~ 2015년 12월 12일)은 코넬 대학교 국제학과 명예교수이다. 그의 대표작인 《상상의 공동체》에서 그는 지난 3세기간 세계에 내셔날리즘(nationalism)이 출현하게된 요인들을 유물사관 혹은 마르크스주의 사관에서 접근하여 분석하였다. 여기서 "상상의 공동체(imagined community)"란 국민을 의미한다.ベネディクト・アンダーソン(Benedict Richard O'Gorman Anderson、1936年8月26日 - 2015年12月13日)は、アメリカ合衆国の政治学者、コーネル大学政治学部名誉教授。専門は、比較政治、東南アジア、とくにインドネシアの政治。

*《想像的共同体:民族主义的起源与散布》(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism)是美国学者本尼迪克特·安德森在1983年发表的一部著作。1991年又出版了增订版。在书中,作者认为民族是“一种想象的政治共同体”。
おわりに
在日朝鮮人の立場からの「ネーション」構想
「国民国家の相対化」という議論がさかんになって久しい。私はこれを、正確には「国民国家観念の相対化」というべきだと考えている。いずれにせよ、国家主義者と日本版歴史修正派とが合流し「日本人の誇りうる正史」の教科書を要求しているところの動きを見るにつけ、国民国家観念を相対化する作業が引き続き重要であることは疑いない。しかし、国民国家観念の相対化にもかかわらず、政府や裁判所、軍隊や監獄を備えた国民国家という制度そのものは現に存在しつづけており、国連をはじめ国民国家を単位として構成される国際的機構は存在している。そして、こうした国民国家システムを超える将来展望は、いまのところ目に見えるものとして現われてきていない。
代議制による参政権が必ずしも唯一最高の政治参加の形態とはいえないが、それにしても在日朝鮮人は実態として、日本においてはもとより、本国においても参政権をもっておらず、植民地支配の解放後だけでも実に半世紀あまりにわたって、自己の運命に関する政治的決定のプロセスから排除されつづけている。(正確にいえば、朝鮮民主主義人民共和国の最高人民会議には数人の在日朝鮮人代表が選ばれているが、その選出プロセスは在日朝鮮人大衆が公開的に参加したものではない。他方、韓国では在外国民にも理論的には国会議員等の被選挙権を排除していないが、永住帰国しないかぎり投票券はない)。
「国民」を近代国民国家という政治共同体の「主権者」ととらえた場合、全地球を覆う現在の国民国家システムのなかで、主権からたえず排除されてきた旧植民地の人びとが自らを「主権者」に形成しようとすることは当然かつ正当な要求であるといえよう。こうした要求は、文化本質主義的な「国民」観念に呪縛されているためでも、「民族自決というイデオロギー」を無秩序に「信仰」しているためでもなく、旧植民地出身の人びとが現在も差別構造の中に置かれつづけているという事実そのものによると考える。どれほど「民族」という観念が否定されようと、民族の別による差別が現実に存在し、かつ再生産される構造がある限り、どのような形態であれ、「われわれ」意識がなくなることはない。こうした構造、つまり「われわれ」意識の「下部構造」にこそ着目しなければならない。
一方では本国と居住国の二重の拘束のもとに置かれながら、他方では同時に、たえず両者の外側へと排除されている在日朝鮮人は、そうした独自の立場から、自らにとっての「ネーション」を構想することが必要となるのである。

[図2]は現時点での、「在日朝鮮人の立場からの[ネーション]構想」を図示したものである。[1]は、現状を表わしており、①から②は現状を基本的に規定している諸条件を挙げたものである。[2]以下は、そのように分断された存在である在日朝鮮人が、自らを「ネーション」へと形成していく道筋を段階を追って描いてみたものである。それぞれのマル数字は、そうした段階ごとに達成されるべき諸条件を示している。[2]④の「PNCモデル」とは、パレスチナ民族評議会のことである。本国の南北、在日、そして在米、在中、在旧ソ連を含めた、すべての朝鮮民族が平等な資格で構成する最高意思決定機関のようなものを想像している。[3]の段階で、本国参政権の問題と日本での地方参政権の問題が浮上するが、在日朝鮮人はその両方を保有するべきだという金敬得氏の見解(金敬得前掲書)に私も大筋で賛成である。ただし、本国参政権を「韓国籍」保有者のみに対象を拙速に実施することは在日朝鮮人の韓国国民化、分断の深刻化につながるという点に留意する必要がある。[4]にいたって初めて、在日朝鮮人は、その本来の「国境をまたぐ生活圏」で、憂いなく生活することになる。EUの東北アジア版のようなアナロジーが多少とも現実味を帯びるのは、ようやくこの段階にいたってのことであろう。(初出:『歴史学研究』増刊号、1997年10月)
*追記
(1)本稿は1997年度の歴史学研究会全大会における報告をもとに加筆したものである。初出は『歴史学研究』1997年10月増刊号であり、韓国の雑誌『創刊と批評』(第102号・1998年冬号)に翻訳された。このたび本書に収録するにあたり、初出時に紙数制限のため削除せざるを得なかった部分を草稿にもとづいて復元した。
(2)本稿執筆時から現在までに、結論部分(在日朝鮮人の立場からの「ネーション」構想)にかかわる幾つかの重要な状況変化があった。その第一は、1999年に韓国で、在外同胞の処遇改善と地位向上を目的とする「在外同胞の出入国と法的地位に関する法律」(在外同胞法)が制定されたことである。同法の適用対象となれば、韓国で安定した在留資格を得られ、2年間の期間を過ぎても延長可能となる。また在留資格内で自由に就業でき、不動産や金融取引においても内国人と同等の待遇が与えられる。90日以上滞在する場合は医療保険にも加入できる。
この法律は、在米コリアンを中心とする在外朝鮮人の本国(韓国)での投資や経済活動を活発化させようという実利的要請に動かされて制定されたものであり、植民地支配と冷戦構造によって海外離散を余儀なくされた在外同胞と本国との絆を強めようという本来の趣旨から見るとまだまだ問題点は多い。同法は在外同胞を「外国籍同胞」と「在外国民」とに区分している。前者の「外国籍同胞」の概念については当初、「韓民族の血統をもつ外国人」と規定する案であったが、これに対して中国などが難色を示したため、「大韓民国国籍を保有した者、またはその直系卑属として外国国籍を取得した者のうち大統領が定める者」と変更された。その結果、韓国政府の成立(1948年)以前に海外に移った朝鮮人、すなわち在中国、在旧ソ連の大部分が適用対象から除外されることになったのである。在日朝鮮人についていえば、「韓国」籍保有者は「在外国民」に該当する。しかし、在日朝鮮人のうち「朝鮮」籍者は、外国人登録上の「朝鮮」はたんなる「記号」であって外国籍を意味しないため、同法にいう「外国籍同胞」に該当しない。

こうした規定は憲法の平等原則に反するとして中国朝鮮系の趙某氏などが憲法訴願を起していたが、2001年11月、憲法裁判所はこの訴えを認め、2003年末までに関連法案を改正するよう求める違憲決定を行なった。このため、韓国の与野党は現在、同法の改正を提案している。だが、いずれの案でも「外国国籍を取得した者」が前提となっており、現実に外国籍を取得している在中国、在旧ソ連の朝鮮民族は対象となるが、「無国籍状態」にある「朝鮮」籍の在日朝鮮人は引き続き対象から除外されることになる。(以上『民権協ニュース』2001年12月号参照)。
次に「定住外国人参政権」について述べておく。1998年に韓国の金大中大統領が来日した際、小渕恵三首相との会談において、定住外国人に対する地方参政権付与の実施を強く申し入れるとともに、相互主義の主張を念頭に、韓国においても定住外国人地方参政権を実現させることを明言し、日本側もこの提案に基本的に同意した。また連立与党となった公明党が自民党との政策協定でこの点を明記したため、外国人地方参政権が現実の問題として急浮上してきた。しかし、自民党内および民主党など保守野党内の反対勢力の動きも活発化し、ついには、外国人参政権を阻止する意図をもって在日朝鮮人や在日台湾人など旧植民地出身の特別永住者に対し届け出だけで日本国籍を付与する法案を提出する構えさえ見せた。
この国籍付与案は一見すると望ましいもののように見えるかもしれないが、実際には国籍なくして投票なしとする「国民主義」の貫徹と同時に、日本国籍取得を望まない定住外国人への差別や権利制限を正当化する分断支配を意味するものといえよう。かりにも植民地支配の反省に立つならば、旧植民地出身者に対しては、その民族的アイデンティティを侵害することなく、日本国民と同等の権利を保障するべきだが、国籍付与案はむしろ植民地支配の責任を隠蔽することを狙うものであるといえる。現時点では、保守勢力の強い抵抗にあって定住外国人地方参政権法を制定する動きは中断状態にあり、それにともなって国籍付与法案も鳴りをひそめている状態だが、近い将来、再び重要な争点となって浮上することは間違いない。日本国が長年にわたる「国民主義」のくびきを振り捨てて、真に開かれた社会に向って一歩を進めることがことができるかどうかが問われている。

第三の大きな状況変化は2000年6月に金大中大統領が朝鮮民主主義人民共和国を公式訪問し、金正日国防委員長との間で南北首脳会談を実現させたことである。歴史上初のこの会談を契機に南北和解と平和交流の気運が大いに高まったことは詳述するまでもない。しかし、その後は、南北関係は当初の期待どおりには進んでいない。また、2001年に米国で共和党のブッシュ政権が誕生し対北朝鮮強硬策に転じたことも、南北関係の進展を阻害する要因となっている。
本稿の[図2]に照らしてみるときう、前記のような状況変化はそれぞれ問題を含みながらも、基本的には肯定的な変化であったといえるだろう。しかし、その一方で、日本と北朝鮮との国交交渉はまったく進んでおらず、最近ではいわゆる「不審船」撃沈問題や朝銀の破綻にともなう朝鮮総聯への強制捜査など、日朝関係はむしろ緊張激化の方向をたどっている。日本と北朝鮮との関係正常化は、日本にとって植民地支配の清算という避けて通ることのできない課題である。北朝鮮との関係正常化に消極的であるばかりか、敵対的ですらある日本の姿勢は、「在日朝鮮人の立場から[ネーション]構想」を実現していく上での最大の阻害要因といえるのである。
(3)初出時から5年を経過しているので、在日朝鮮人の動態にかかわる最新の統計を以下に紹介しておく。(参考:『在日外国人の人口動態2001年版』民団・21世紀委員会発行)2000年末現在の外国人登録者数は168万6千人強であり、日本の総人口に占めるその割合は1・33パーセントである。91年からの10年間で、日本の総人口の増加率は2・7パーセントだが、外国人登録者数の増加率は56・8パーセントである。国籍別にみて増加率が多いのは中国、ブラジル、フィリピンとなっている。
2000年末の「韓国・朝鮮」籍者数は63万5千人強であり、91年から約5万8千人減少。「韓国・朝鮮」籍が外国人登録者総数に占める割合も同時期に56・85パーセントから37・66パーセントと約20パーセントも減少した。[以下表1]
こうした「韓国・朝鮮」籍者数の減少の背景には晩婚化・少子化といった現象のほかに、日本国籍取得(帰化)、日本人との結婚の増加、国籍法の改正という諸要因がある。1年間の日本国籍取得者は92年に7千人を超え、95年に初めて1万人を超えて現在に至っている。1952年から99年までの日本国籍取得者総数は31万7615人、そのうち「韓国・朝鮮」籍からの数は23万3920人で総数の73・7パーセントを占めている。[以下表2]
「韓国・朝鮮」籍どうしの婚姻は1995年に50パーセントを割り、1985年に20パーセントを割ったが、その傾向はますます強まり現在では約1割に減少している。
1985年の国籍法改正により、日本人との結婚で出生した子どもは日本国籍との二重国籍となり、外国人登録の必要がなくなった。そのため、1984年の「韓国・朝鮮」籍の出生数は9363人だったが、法改正後の85年には4838人と半減している。
1995年、父母のどちらかが「韓国・朝鮮」籍の子どもの出生数は3128人であり、これは過去最低である。他方、「韓国・朝鮮」籍者の死亡数は95年に出生率を超え、99年に4621人となっている。[以下表3]なお、表3にいう「国際結婚」の大部分は日本人との結婚。「特別永住者」とは1945年以前から日本に居住している者とその子孫。(2001年2月7日記)



*재일본조선인총련합회(在日本朝鮮人總聯合會,일본어: 在日本朝鮮人総聯合会)는 일본에 있는 조선민주주의인민공화국에 강한 소속감을 갖는 재일 조선인의 단체이다.

*재일본대한민국민단(일본어: 在日本大韓民国民団 자이니혼다이칸민코쿠민단[*])은 일본에 거주하는 재일 한국인을 위한 단체이다. 보통 민단(일본어: 民団)으로 약칭한다.

*남북정상회담(南北頂上會談, 문화어: 북남수뇌상봉(北南首腦相逢))은 대한민국과 조선민주주의인민공화국 정상 사이에 개최되는 회담이다.

*오부치 게이조(일본어: 小渕 恵三(群馬県出身, 문화어: 오부찌 게이조, 1937년 6월 25일 ~ 2000년 5월 14일)는 일본의 정치가, 총리다. 1989년에 새로운 연호 '헤이세이(平成)'을 발표하고 간판을 든 인물이기도 하다.

*대한민국 여권(大韓民國 旅券, 영어: Republic of Korea passport)은 대한민국 국적의 국민이 해외여행시 신분증명에 필요한 여권이다. 다른 모든 국가의 여권과 같이 이름, 생년월일 등의 기본적인 신분확인정보가 기록되어 있다. 대한민국 여권의 경우에는 주민등록번호가 포함되며, 발급은 대한민국 법무부가 관할한다.

*조선적(일본어: 朝鮮籍 조센세키[*])은 1945년 일본 제국의 패망 후 1947년에 주일 미군정이 재일 한국인에게 외국인 등록제도의 편의상 만들어 부여한 임시 국적으로, 현재는 이 가운데 대한민국이나 일본의 국적을 취득하지 않은 사람들이 해당된다. 일본 정부는 이들을 '구 조선호적등재자 및 그 자손(일본국적 보유자는 제외) 가운데 외국인등록상의 국적표시를 아직 대한민국으로 변경하지 않은 사람'이라고 해석한다.

在日朝鮮人は「民衆」か? -韓国民衆神学への問いかけ
「在日朝鮮人は「民衆」か?」という問いかけは、この研究会に参加するはるか以前から私の心にあった。朝鮮半島では70年代以後、軍事独裁体制下の政治・経済・社会学矛盾に対して、自らを解放するためには主体的に立ち向かう「民衆」の像がグローズアップされてきた。私たち在日朝鮮人もそのような「民衆」であることがあることができるだろうか?在日朝鮮人はどうすれば自らの運命をきりひらく主体になれるのだろうか?・・・
以下に、ノン・クリスチャンである私の立場から、いくつかの問いかけをしてみたい。
二重の問い
「在日朝鮮人は「民衆」か?」という問いは、それ自体、二重の困難を抱えている。
第一に、「在日朝鮮人とは誰か?」という問い。いいかえれば、在日朝鮮人はどのように自己のアイデンティティをもつことができるかという問いである。第二に、「「民衆」とは誰か?」という問い。これらふたつの困難な問いが交差する点に、「在日朝鮮人は「民衆」か?」という問いがある。安炳茂著「民衆神学を語る」(新教出版社)をみると、民衆神学は「民衆」を定義しない、と述べられている。「自分が民衆なのか、民衆でないのかという問いは馬鹿げたことです。(中略)「民衆は誰か」と聞く人は、既に知っていて何か逃げ道を探るために聞く者か、いくら言い聞かしても理解できない者かのどちらでしょう。民衆は経験できるもので、知識の対象ではありません。私たちは確かに見ました、経験しました。」
しかし、その間日本の地で生活してきた在日朝鮮人は、とてもこのように確信をもって「確かに見ました、経験しました」と語ることはできない。私自身の場合は、あの70年代に、たとえば獄中の兄たちに差し入れするため韓国に往来した母の経験を通して、きわめて媒介的に、「民衆」のヴィジョンを「見たような気がする、経験したような気がする」。けれども、それはまるで追いかけるほど遠ざかる蜃気楼のようである。安炳茂はさらに、「民衆」は「知識層の権力に抑圧され、経済的に奪われて貧しい者、力のない者」であり、「日常的な搾取の対象」であるという。「真の民衆の現場には、植民地の経験があります。日常的に搾取されている現場は、植民地ですし、今日いわれている第三世界です。そこで、民衆の事件が起こりつつあるのは事実です。」
在日朝鮮人は、その歴史的出自からいうと明らかに第三世界人であり被植民地人であるが、その生活の場は先進資本主義国・日本である。別の場所で安炳茂は、「不幸なことに日本には現場がない」と述べているが、ここに「現場がない」のだとすれば、在日朝鮮人の「現場」はどこなのか、このことがまた、困難な問いとして浮上する。

민중 신학을 말한다 안炳茂저작권 선집 (Japanese Edition) Kindle Edition by 안炳茂의 (Author), 김忠一역 (Author)  Collection d'oeuvres de théologie populaire de 안병무(安炳茂) (édition japonaise) Kindle Edition de 안병무(安炳茂)(Auteur), Traduit par Chuichi Kim (Auteur)

合流できなかった3件の焼身事件
私がこのような問いを心に描くことになった出発点に、3件の焼身事件がある。韓国での全泰壱の焼身自殺が、1970年11月13日のことであった。韓国民衆神学はこの事件を「イエス事件」とみて、民衆神学の出発点と規定している。実はそのひと月前の10月6日、梁政明(日本名山村政明)が早稲田大学文学部の前の穴八幡神社で焼身自殺するという事件があった。翌日付けの『朝日新聞』は、次のように報道している。
「6日未明、早大生が焼身自殺した。アパートに死ぬ直前に書いた「抗議・嘆願書」が残されていた。そこには、日本に帰化した朝鮮人2世としての恨み、第2文学部(夜間)学生としての経済的な苦しさ、そして紛争に絡み権力の横行する学園への怒り、が綴られていた。(中略)本人は帰化したが、幼いときからのさげすまされた体験は消えず、日本人になりきれない悩みを親しい友人にもらし「自分には落ち着く場所がない」と語っていたそうだ。」
私からみれば、このふたつの焼身自殺はともに日本による朝鮮植民地支配、民族離散、民族分断という現実に起因する、歴史的に同じ根をもつ事件である。しかし、ふたつの事件ははっきりしたコントラストをなしている。梁政明の死はほとんど誰にも顧みられないままであった。

さらにその半年後の1971年4月、私の兄、徐勝が、韓国の陸軍保安司司令部で取調中にスキをみて焼身自殺をはかり、幸い死をまぬがれるという出来事があった。日本に生まれ育った彼は、韓国に母国留学し、韓国の民衆・民主化運動に合流することによって自己解放しようと試みた。そして、同じく留学中だった弟の徐俊植とともに「学園浸透スパイ」として拘束され、友人たちの名前をいえと拷問を受け、拷問に屈して友人を売り渡し学生運動に打撃を与える結果を招くことを避けようとして自殺をはかったのである。
1970年から71年にかけて、韓国では朴正煕政権が軍事独裁をますます強めて維新体制をうち固めようとしていた。日本をはじめとする外国資本が押し寄せ、低賃金による搾取や人権弾圧など社会・経済的矛盾が噴出しよとする時期であった。日本ではいわゆる高度成長からバブル経済へ向う時期である。そのような時代の曲がり角で、この三つの焼身事件が連続的に起きたわけである。全泰壱と梁政明をつなぐ位置に徐勝がいたともいえよう。
「合流」とは徐南同の言葉だが、イエス時代の民衆的経験と今日の韓国における民衆的経験とが全泰壱焼身自殺以後の民主化闘争のプロセスのなかで「合流」したという意味で使われている。それにならっていうと、三つの焼身事件は同じ歴史的な根から発生したものであり、同じひとつの状況によってもたらされたものであるにもかかわらず、合流することができなかったのである。

*전태일(全泰壹, 1948년 9월 28일 (1948년 음력 8월 26일)[1] ~ 1970년 11월 13일)은 대한민국의 봉제 노동자이자 반공주의 성향의 노동운동가, 인권 운동가이다. 1960년대 평화시장 봉재공장의 재봉사, 재단사로 일하며 노동자의 권리를 주장하였다.

*야마무라 마사아키 山村 政明(야마무라 마사아키 보 마사아키梁政明 <리앙 · 천정명>, 1945 년 6 월 21 일 - 1970 년 10 월 6 일 )는 일본에 귀화 한 재일 조선인 2 세. 원래 성경 교회 교회. 와세다 대학 졸업.

*재일교포유학생 간첩 조작 사건学園浸透スパイ団事件, 또는 11·22 사건[1]은 1975년 11월 22일 중앙정보부 대공 수사국장이던 김기춘에 의해 발표된 공안 사건이다.[2][3] 재일동포 13명[4][5]을 포함하여 총 21명이 간첩으로 기소되었다. 중앙정보부에 의해 조작된 사건으로, 이후 진실화해위원회의 재심 권고를 통해 관련자들이 무죄를 선고받았다.[1][6]

*대한민국 헌법 제8호는 1972년 10월 17일 대통령 박정희가 위헌적 계엄과 국회해산 및 헌법정지의 비상조치 아래 위헌적 절차에 의한 국민투표로 1972년 12월 27일에 통과시킨 헌법으로, 유신 헌법(維新憲法)이라고도 한다. (대한민국 헌법을 제정한 이래로 7번째로 개정한 헌법이다.)           
*10월 유신은 1972년 10월 17일에 대통령 박정희가 위헌적 계엄과 국회해산 및 헌법정지 등을 골자로 하는 대통령 특별선언을 발표한 것을 말한다. 박정희는 이 선언에서 4가지 비상조치를 발표하고 이러한 비상조치 아래 위헌적 절차에 의한 국민투표로 1972년 12월 27일에 제3공화국 헌법을 파괴했는데, 이때의 헌법을 유신 헌법이라 하며, 유신 헌법이 발효된 기간을 유신 체제, 유신 독재라고 부른다.

조선을 알기 위해 저자 카지무라 히데키(저) , 이시자카 고이치(편)

조선인은 왜 일본에 살게 되었는가. 조선민족에 대한 공감과 신뢰에 지지된 내재적 발전론의 에센스. 저작권 미수록의 강연록·미발표 원고 등 20편. 일본인이 배워야 할 조선사. ...

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