日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Route vers la démocratisation de la Corée/Road to Democratization of Korea/한국 민주화의 길/韓国民主化への道・Di-Myonkuwan지명관池 明観②

*김구(金九, 1876년 8월 29일 (음력 7월 11일) ~ 1949년 6월 26일)는 대한제국의 승려, 교사, 일제강점기의 독립운동가, 정치인 그리고 대한민국의 정치인, 남북통일 활동가이다. 항일비밀결사인 한인애국단을 이끌었고 한국 광복군을 조직하였으며 대한민국 임시 정부 주석을 역임하였다. 1962년 3월 1일 건국훈장 대한민국장에 추서되었다.
*김규식(金奎植, 1881년 2월 28일 ~ 1950년 12월 10일)은 대한제국의 종교인·교육자, 일제 강점기의 독립운동가·통일운동가·정치가·학자·시인·사회운동가·교육자, 대한민국의 정치가·종교인이다. 1989년 건국훈장 대한민국장에 추서되었다.

金九らの南北協商の努力は、同じ民族として分裂してはならないという至上命題の下に全力を尽くしたものであった。冷戦体制は、そのような民族的要求よりは、東西両陣営の対決に、この民族を分裂させたまま最大限動員することを求めたのであった。その戦略の助けになる限りにおいて、土着政治勢力は存続を許された。そのために、南北協商は南北の政治権力に登場した勢力にとってはほとんど意味のないものであった。
金九らの努力は、か弱い力で冷戦体制の枠組みを破ろうとした民族的な良心の発露として記憶されよう。それは、現実政治面から言えばすでにリアリスティックなものではなかった。民族陣営においても、イデオロギーを越えて民族の統一を理念として勢力は崩れていかざるをえなかった。1949年6月29日、金九は陸軍少尉安斗熙の凶弾にたおれた。
このような金九の運命自体が、解放された祖国の歴史が、実に民族主義背反の歴史または民族的良心の絶えざる苦悩の歴史であったことを象徴してあまりあるであろう。そして彼は、敗北した良心的民族主義者として、民族的知性によって「恨」(ハン)をこめて常に思いかえされるであろう(『韓国文化史』1975年)。
*안두희(安斗熙, 1917년 3월 24일 ~ 1996년 10월 23일)는 대한민국의 군인, 기업가이다. 독립운동가 백범 김구 前 대한민국 임시정부 주석 암살범으로 유명하다.
南北分断は、民族と国家の運命が大国によって決められるという、朝鮮の近代史において日清戦争以来反復されてきた歴史の続きであった。それほどまだ朝鮮半島は力の空白状態のなかにあたった。日本統治によっていっそう無力化されていた。しかしその後、南北統一を民族的課題であると考えてきた人びとは、それを単に日本とか米ソの責任にのみ帰しようとはしなかった。戦後の国際状況を見きわめて対処することのできなかった、朝鮮民族の政治家と国民に、より多くの責任があると考えようとした。民族の再統一がまさに南北双方の政治家と国民にかかっていると思うからである。
南北分断体制のなかで、極右、極左といえる南北の現実的な政治勢力は、ますます南北対立の壁を厚くするのに大童であった。それは敵対意識を鼓吹することで自らの体制を正統化して維持しようとしたほど、南北の政治体制がともに脆弱であったからであったともいえる。
*6.25 전쟁 또는 한국 전쟁(韓國戰爭, 표준어: 6·25 전쟁, 육이오 전쟁, 한국 전쟁[21], 문화어: 조선 전쟁/조국해방전쟁[22], 영어: Korean War, 중국어 정체: 韓戰/朝鮮戰爭, 러시아어: Корейская война)은 1950년 6월 25일 오전 4시에 조선민주주의인민공화국이 기습적으로 대한민국을 침공하여 발발한 전쟁이다. 유엔군과 중국인민지원군 등이 참전하여 세계적인 대규모 전쟁으로 비화될 뻔 하였으나, 1953년 7월 27일 22시에 체결된 한국휴전협정에 따라 일단락되었다. 휴전 이후로도 현재까지 양측의 유무형적 갈등은 지속되고 있다. 제2차 세계 대전 이후, 공산·반공 양국 진영으로 대립하게 된 세계의 냉전적 갈등이 열전으로 폭발한 대표적 사례로, 냉전(冷戰)인 동시에 실전(實戰)이었으며, 국부전(局部戰)인 동시에 전면전(全面戰)이라는 복잡한 성격을 가졌다. 이는 국제연합군과 의료진을 비롯해 중화인민공화국과 소비에트 연방까지 관여한 제2차 세계 대전 이후 최대의 국제전이다. 또한 휴전협정으로 전쟁을 쉬고 있다. 그래서 전세계에 남은 마지막 냉전지역이다.[23]

朝鮮戦争
朝鮮半島は日本の植民地として徴発、徴用、徴兵から従軍慰安婦に至るまで、太平洋戦争にあらゆる形で動員されたが、それでも戦場にはならなかった。このことが、戦後において朝鮮に平和の思想が具体的に定着しなかった理由の一つであるかもしれない。戦敗国でもないのに、長い伝統のある単一民族が南北に分断された。そこでいかなる犠牲を払っても統一を達成することが民族的至上の課題となっていた。しかし冷戦的イデオロギーのなかで北は「南半部解放」、南は「北進統一」を歌った。必要であれば武力統一も辞さないという空気が、朝鮮半島に漲っていた。
韓国の政情は政府樹立後も実に不安であった。48年5月10日の政府樹立を目ざした総選挙を前にして、4月3日には済州島で暴動が起こった。10月20日にはそれを鎮圧するために出動した軍隊の一部が反乱を起こした。これが麗水・順天事件である。この反乱は間もなく鎮圧されたが、智異山一帯や済州島全島にゲリラ活動が及んだ。韓国の南部地方では「昼は大韓民国、夜は人民共和国」といわれる地域が少なくなかった。このようなゲリラ活動や反乱を鎮圧するのに、多くの民間人が巻き添えになった。特に済州島では数万名の犠牲者を出した。

*지리산(智異山)은 대한민국의 경상남도 함양군, 산청군, 하동군과 전라북도 남원시, 전라남도 구례군에 걸쳐 있는 산이다. 백두대간 끝자락에 자리 잡고 있다. 지리산의 뜻은 다름을 아는 것, 차이를 아는 것, 그리고 그 다름과 차이를 인정하는 것을 의미한다. 또 다른 뜻으로는 어리석은 사람이 머물면 지혜로운 사람이 된다는 뜻이다. 또 백두대간의 맥에서 흘러왔다고 하여 두류산(頭流山)이라고도 불렸다. 7,500여종의 식물과 동물이 서식하여 있고 천왕봉을 주봉으로 수많은 봉우리가 있다. 1967년 12월 29일 대한민국 최초의 국립공원으로 지정되었다.[1] 지리산은 예로부터 영산으로 추앙받아 왔으며, 이에 따른 고찰이 많고 근·현대 문화재도 많이 남아 있는 중요한 산이다.
*제주도(濟州道, 영어: Jeju-do)는 대한민국의 남해 상에 위치하는 섬으로 대한민국에서 가장 큰 섬이다. 또한 제주도는 행정구역상 제주특별자치도에 속한다. 섬의 면적은 1833.2 km²[2]인데 이는 남한 면적의 1.83%에 해당한다. 2020년 주민등록 인구는 약 67만 명으로[1] 대한민국의 섬 중에서 가장 인구가 많다.
1949年5月には、右翼的傾向の政治家によって構成されていたはずの国会でも、米軍撤退、南北平和統一を主張する議員たちが現われ、除かれるという騒ぎが起こった。北朝鮮のソ連軍が48年12月に撤退したので、アメリカの駐留軍も49年6月29日までに撤退を完了し、500名の軍事顧問団を残すのみとなった。2年間の任期であった制憲国会を終えて、1950年5月30日に実施された総選挙では、与党である大韓国民党が敗北した。しかも50年1月12日、アメリカのアチソン国務長官は、太平洋地域の防衛線から韓国と台湾は除外されていると発言していた。
1950年6月25日の未明を期して、北朝鮮の人民軍が38度線全域にわたって南侵してきた。これが朝鮮戦争であるが、韓国では韓国動乱または6・25動乱と呼ばれている。この戦争は、1953年7月27日にソウルの北50キロ地点の板門店で休戦協定が成立するまで3年1ヶ月も続いた。2度もソウルを奪われては奪還した。
1950年7月から、アメリカ軍を主導とする国連軍が参戦し、その10月には中国共産義勇軍が参戦しておのおの南北を支援した。この戦争はまさに冷戦がアジアの一角で熱戦に変わったものであり、また朝鮮半島の内戦が国際戦争化し、南北朝鮮が米ソの代理戦争を行なったことを意味した。この戦争の緒戦において韓国軍と国連軍は大邱と釜山を結ぶ線を中心に洛東江流域でやっと北朝鮮軍を阻止することができた。このように北朝鮮軍が韓国の東南の一角を残してその大部分を制圧するのに要した時間は、わずか1ヵ月半ほどであった。しかもそれはアメリカ軍を始めとした国連軍が参戦して、膨大な物量戦で、空から海からまた陸から、雨あられと砲弾を降り注がせたなかでのことであった。
ようやく9月15日に、マッカーサー将軍はソウルの外港、仁川上陸作戦を決行してソウルを奪還した。ここで、南進した北朝鮮軍は補給路を断たれ、挟撃にあうことになり、崩壊して行った。韓国軍と国連軍は10月19日に平壌を占領したが、10月25日、北朝鮮の苦境を救うために中国共産義勇軍が介入してきた。戦勢は逆転した。韓国軍と国連軍はなだれを打って総撤退し、中共軍によって翌51年の1月4日、ソウルは再び占領された。
ソウルを韓国軍と国連軍が再奪還したのは、3月14日のことであった。こうして攻防戦がくり返されるあいだにようやくソ連の国連代表によって、6月23日に休戦の提議がなされた。7月10日に休戦会議本会議が開かれたが、戦勢を有利な方向に導き、休戦条約において優位に立とうとする熾烈な戦争が続けられた。休戦会談を始めて満2年、1953年7月27日、板門店で休戦協定の調印にこぎつけることができた。
この戦争が人命に与えた被害だけでも、表1のようなものであった。
(1)、国連軍(死亡(戦死)57,440・負傷114,581・失踪2、422帰還捕虜・6,240・合計180,683 
(2)、韓国軍人(死亡(戦死)225,780・負傷717,083・失踪48,572・合計986,439(3)、韓国民間人(死亡(戦死)244、663・負傷229、626・失踪303,312・被虐殺128、936・被拉84、532・合計991、068 
(4)、北朝鮮軍(軍人損失520,000・民間人被害2000,000 
(5)、中国義勇軍(戦闘員損失900,000・非戦闘員損失406,000
*북진 통일北進統一 (북진 통일)勝共統一(승공통일)은 남북으로 분단 된 분단 국가 에서 자유주의 세력 주도로 국가 통일을 도모하는 것으로, 특히 대한민국 초대 대통령 · 이승만 이 내세운 한반도 통일 구상 ( 한국어 : 북진 통일 )을 가리킨다.
*Idoイド語→Syngman Rhee이승만李承晩, politikisto (1875 til 1965) esis l'unesma prezidanto di Sud-Korea. Il guvernis de 24 di julio 1948 til 26 di aprilo 1960.
*Esperantoエスペラント語→KIM Il-Sung (koree: 김일성 - 金日成, prononco: Kim Il-seong) (15-a de aprilo 1912 – 8-a de julio 1994) estis estro de Nord-Koreio de ĝia fondo en 1948 ĝis sia morto. 
*딘 구더햄 애치슨(Dean Gooderham Acheson, 1893년 4월 11일 - 1971년 10월 12일)은 미국의 정치가이다.
*대한국민당(大韓國民黨)은 대한민국의 보수 정당으로 1948년 11월 13일 신익희[1], 윤치영 등에 의해 친이승만계 정당으로 창당되었다. 이어 임영신 등의 여자국민당, 지청천의 대동청년단을 흡수했다. 그러나 최고위원 중 한사람인 신익희가 정부 수립 후 이승만과 멀어지기 시작한 한민당의 김성수의 제의를 받아들여 1949년 2월 민주국민당 결성에 참여하게 되면서 사라지게 된다.

いまに思う朝鮮戦争
この戦争によって、人命の損失だけでも200万または300万を数えたわけである。これが戦争の恐ろしさを知らないで「北進統一」「南半分解放」などと、武力統一を唱えた結果であった。南北とも焦土と化し、荒廃した国土と社会を再建するために、その後血みどろの努力をしなければならなかった。この戦争による特需が戦後の日本経済再建に役立ったことは、歴史のアイロニーというべきであろう。
*조선 특수 朝鮮特需(조선과くじゅ)은 한국 전쟁 에 따라 재 조선 미군, 주일 미군 에서 일본 에 주문 된 물품이나 서비스 수요를 가리킨다. 또한 재일 유엔군 과 외국 관계 기관에 의한 간접 특수이라는 분류도 존재한다. 한국 전쟁 발발 직후 인 8 월 25 일 에는 요코하마에 재일 병참 사령부 가 놓여져 주로 직접 조달 방식으로 대량의 물자가 매입되었다. 그 금액은 1950 년 부터 1952 년 까지 3 년간 특수로 10 억 달러, 1955 년 까지의 간접 특수로 36 억 달러로 불린다.
この戦争の後遺症は、今なお、南北間の緊張という形で続いている。板門店において、南北は対峙しながら、その緊張を再び戦争へと爆発させることがないようにと、かろうじて抑えているに過ぎない。韓国の大統領李承晩は休戦に飽き足らず、休戦条約に調印することを拒否し、板門店の休戦会談のテーブルには北朝鮮軍の代表と、国連軍を代表する米軍の代表がつくようになった。この戦争後、南北はともにその国内体制を強化し、軍備をエスカレートしてきた。北朝鮮は金日成中心の唯一体制を強化し、韓国は反共優先の立場から長いこと軍部政権の独裁的支配に苦しまねばならなかった。どちらにおいても開放的な民主的体制へと進む可能性が阻まれた。敵を前にしているという想定の下では、勝って生き残るという生存の課題を先にせざるをえない。世界的に冷戦状況が続くなかで、南北間の敵対関係は強化されこそすれ、緩和されるきざしをほとんど見せなかった。

今になっては、歴史の前に人間がいかに愚かであったかを骨身にしみて反省せざるをえない。なぜイデオロギーによる対立または冷戦状況を、まるで永遠不変であるかのように絶対化したのだろうか。南北は、おのおの国民をそのような方向に強引に引っ張っていこうとした。大国の対立のはざまにおいて、自らの対立の尖兵を自任するような愚かさを演じただけではなかったか。なぜ賢明に民族どうしの敵意を抑え、共通の利益を共同で守ろうとはしなかったのだろうか。愚かな歴史を50年も続けてくると、それが国民の意識のなかで習性化するのかもしれない。すべての問題を南北対立でとらえ、民族共通の利益に背を向ける。相手にとって少しでも利益になることは、こちらの不利益または敗北と見なし、ヒステリックに反応しがちになったといえるであろう。

*판문점(板門店)은 한국 전쟁의 정전 협상이 진행된 곳으로, 대한민국의 행정 구역상으로는 경기도 파주시 진서면 선적리[1], 조선민주주의인민공화국의 행정 구역상 개성특별시 판문구역 판문점리에 위치하고 있으며, 원래의 행정구역은 경기도 장단군 진서면 선적리였다. 현재의 판문점은 정전협정 이후 한국전쟁 포로 교환업무를 맡게된 중립국 인도군의 막사와 포로교환장소로 사용되었던 건물로써, 정전협상이 이뤄진 실제 정전협정 조인장소는 현재의 판문점보다 북쪽으로 1.5km 정도 떨어진 장소에 위치해 있다.

李承晩独裁の強化
朝鮮戦争による被害のことを考えると、戦争による直接的な被害以上に、その後遺症の方が重大であるといわざるをえない。韓国側についていえば、北朝鮮軍が、アメリカ軍を中心にした国連軍のあのような火力にもかかわらず、短時間にほとんど韓国の全土をその制圧下におくような勢いであったことは、北朝鮮に対する病理現象的ともいえるほどの恐怖心を韓国国民のあいだに植えつけた。そのような北の精鋭軍を、ほとんど全滅状態に押しこんだアメリカに対する北朝鮮国民の心情も、また同じようなものであったかもしれない。
いずれにせよ韓国においては、反共と勝共が国是すなわち国家理性ともいえるものになった。それは民主主義よりもはるかに優先するものであったがために、社会主義的な思想を抱くことすら許されなかった。韓国において生きていくことは反共を前提としてのみ許されるのであった。李承晩政権はこのような体制を強化して、ますます独裁的な政治へと向かった。戦争中、政府は釜山に移って乱を避けていた。李承晩は国会でも多数派を率いていなかったので、その最初の任期が終ろうとすると、1952年5月、大統領を間接選挙によって国会で選ぶのではなく、戦争中であるにもかかわらず、大統領直接選挙制を掲げて憲法改正を図った。
李承晩は釜山を中心とした地域に戒厳令を布き、暴力団を動員して国会の解散を要求させた。これに抵抗する野党国会議員50余名は、国際共産党から資金提供を受けた疑いがあるとして、憲兵隊に連行された。大統領直接選挙制を盛りこんだ部分的な憲法改正、いわゆる抜 改憲案は、警官が包囲している国会で議員たちの起立表決によって通過した。
李承晩はこうして第2代大統領に就任したが、1954年11月には、大統領三選の道を開くためにもう一度憲法改正を試みた。これが悪名高い「四捨五入改憲」というものである。憲法改正には、国会議員の3分の2以上の賛成が必要であった。しかし開票の結果は、在席議員203名のうち135名の賛成であった。それを203の3分の2は135・3強だから、四捨五入すれば135名になるという詭弁を弄して、改憲成立を宣言したのであった。
李承晩は1956年5月、第三代大統領に就任したが、強引な政治には腐敗がつきものであった。独裁権力のなしえないことは何もないように見えた。これに対する国民の不満と批判は高まるばかりであった。そこでしばしば赤狩りの方法が動員された。58年には新国家保安法を、国民と野党の抵抗のなかで、警護権を発動して与党議員だけで通過させてしまった。選挙となれば不正選挙、官営選挙にエスカレートした。まったく権力の私物に化した警察とともに、数多くの暴力団が乱舞した。59年4月には、政治に批判的な『京郷新聞』が廃刊される事件まで起こった。烈しくなった国民の非難と批判を主導したのは知識人であり、それを大衆的な行動で支援したのが、学生であった。
『京郷新聞』の廃刊で象徴されるように、当時は新聞も勇敢であった。多くの紙面を批判的な知識人に与えていた。1945年の解放当時、困難な状況の中でも文化や教育が活性化し、量的に大きく拡大した。たとえば1945年解放当時、大学生の数は専門学校まで含めて5000名に満たなかったのが、1960年には南の韓国だけでも9万2930名であった。わずか15年のあいだに、南北分断以前の全国的な数字に比べても、ほとんど20倍の拡大であった。
知識人や学生が質的にも量的にも増大し、批判的になり、民衆の民主的自覚も向上したが、李承晩政権が家父長的な支配体制を改める可能性はほとんどなかった。1875年生まれの李承晩は1960年になると、すでに85歳を数えたが、「国父」を自任し、腐敗した取り巻き連中は過剰な封建的忠誠を捧げていた。こうして4・19革命の機は熟していった。


*Françaisフランス語→La révolution d'avril, parfois appelée révolution du 19-Avril ou mouvement du 19-Avril, fut un soulèvement populaire en avril 1960 en Corée du Sud, dirigé par des groupes ouvriers et étudiants, qui renversa la Première République autocrate de Corée du Sud (en) sous le commandement de Syngman Rhee. Il a conduit à la démission de Rhee et à la transition vers la Deuxième République de Corée du Sud (en).
4・19革命への道
戦後の韓国の歴史、また朝鮮の近代以降の歴史を考える場合、民衆による革命という伝統に注目する必要がある。1873年、在野の儒者崔益铉は当時の権力者大院君(国王高宗の父)の失敗と統制を批判する上訴文をあげ、国王がこれに対して批答(国王の答書すなわち「下答」)という形でその忠誠心を受け入れると、1864年から続いた大院君の10年権勢は直ちに崩壊してしまった。このことは朝鮮王朝における儒教的伝統の強さを物語っている。国民的信頼を集めている儒教的知識人の勇気ある行動は、同僚の在野の儒者階層全体を動かし、また民衆を動かすのであった。そうなると政治勢力はこれに抗し切れず崩壊していく。

*최익현(崔益鉉, 양력 1834년 1월 14일(1833년 음력 12월 5일) 조선국 경기도 포천 출생 ~ 양력 1907년 1월 1일(1906년 음력 11월 17일) 일본국 쓰시마 섬 이즈하라에서 병사.)은 조선국 호조참판 직책을 지낸 조선 말기와 대한제국의 정치인이며 독립운동가이자, 1905년 을사늑약에 저항한 대표적 의병장이었다.
*대원군(大院君)은 조선 시대 적통인 임금의 자손이나 전임 임금의 대가 끊겨 방계(傍系)인 종친 중에서 왕위를 이어받을 때, 그 임금의 친아버지에게 주는 칭호 및 관직[1]으로서, 군호 가운데 하나이다.
*고종(高宗, 1852년 9월 8일(음력 7월 25일) ~ 1919년 1월 21일)은 조선의 제26대 마지막 왕(재위 : 1864년 1월 21일(음력 1863년 12월 13일)[2] ~ 1897년 10월 12일)이자, 대한제국의 초대 황제(재위: 1897년 10월 12일 ~ 1907년 7월 19일[3])이다.

1894年の東学農民軍の蜂起は、下級両班を指導者にした農民の抵抗であった。日本がそれを口実にして日清戦争を起こし、東学農民軍を制圧していなければ、それは農民革命の大激動を呼び起こしたかもしれない。1919年には、日本の統治にほとんど全国的に抵抗した3・1独立運動が起こった。このような革命的伝統は近代史の底流として絶えることがなかった。国民はそれをドイツの思想家、ヴォルター・ベンヤミンのいう「追悼的想起」(『バサージュ編III』)-すなわち敬虔にまた憤りをもってつねに回想し、その継承を心に誓った。解放後、韓国民衆は腐敗した権力に対する底辺からの抵抗を訴える時には、東学農民軍の蜂起を思い起こそうとした。異民族支配への抵抗を訴える時には、3・1独立運動に思いをはせた。
4・19革命は、このような朝鮮史の革命的伝統に、もう一つの意味をつけ加えたともいえるであろう。それは民主主義のための戦いという伝統である。「4・19革命の継承」というのは、その後の民主化の戦いにおいて、学生のあいだにおける重要なかけごえとなった。4・19革命の直接的な引き金となったのは、1960年3月15日に実施された第5代(4は「死」に通じるというので、第4代はカウントしない)正副大統領選挙における全国的な不正であった。李承晩は高齢にもかかわらず、4期目を目ざした。ところが対立候補の野党民主党の趙炳玉が選挙戦中に病死したので、実際的には与党自由党の李起鵬と民主党の張勉のあいだにおける副大統領選挙戦に国民の関心が集まった。買収、脅迫、事前投票、投票箱のすりかえ、開票時の票換えなど、あらゆる不正手段が動員された。

*청일 전쟁(淸日戰爭)은 청나라와 일본 제국이 조선의 지배권을 놓고 1894년 7월 25일부터 1895년 4월까지 벌인 전쟁이다. 중국에서는 갑오년에 일어났다고 하여 갑오전쟁(중국어 간체자: 甲午战争, 정체자: 甲午戰爭, 병음: Jiǎwǔ Zhànzhēng 자우잔정[*]), 일본에서는 일청전쟁(일본어: 日清戦争 닛신센소[*]), 서양에서는 제1차 중일 전쟁(First Sino-Japanese War)이라고도 불린다.
*발터 벤야민(독일어: Walter Bendix Schönflies Benjamin, 1892년 7월 15일 ~ 1940년 9월 27일)은 유대계 독일인으로 마르크스주의자이자 문학평론가이며 철학자이다. 그는 게르숌 숄렘의 유대교 신비주의와 베르톨트 브레히트로부터 마르크시즘의 영향을 크게 받았으며 또한 비판이론의 프랑크푸르트 학파와도 관련이 있다.

*조병옥(趙炳玉, 1894년 5월 21일 충청남도 천안 ~ 1960년 2월 15일 미국)은 대한민국의 독립운동가, 교육자, 경찰관, 정치가이다.
*三一運動(삼일운동),為朝鮮日佔時期的一次韓國獨立運動,由於發起日為1919年3月1日而得名,也被稱為「三一起義」及「三一獨立運動」等。

馬山事件から4・19革命へ
不正選挙に対する抗議のデモが全国に広がった。3月15日、投票と開票の日に南の慶尚南道馬山では、不正選挙糾弾のデモが起こって警察署を襲撃し、80余名の死傷者が出た。なかでも馬山商業高校に合格したばかりの17歳の金朱烈の死は、4・19革命の導火線といわれるほど国民に強い衝撃を与えた。彼は3月15日のデモに参加したが行方不明になった。それが27日後の4月10日、馬山市役所の裏手、中央埠頭付近の海に死体となって浮んできた。催涙弾が右目あたりに撃ちこまれ死亡したのを、警察が海に投棄したのであった。ここにおいて馬山の市民と学生は再び決起し、全国の中高校生までを含めた学生たちが李承晩政権打倒へと立ち上がった。4月18日に決起した高麗大学と、その翌日、4月19日に決起したソウル大学の宣言文の冒頭を引用することにしよう。
一言でいって大学は反抗と自由の表象である。今や窒息しそうな既成独裁の最後のあがきはまさに全体国民の生命と自由を脅かしている。ここで歴史の生々しい証言者的使命をおびているわれら青年学徒は、これ以上逆流する血の憤怒を抑えることができない。もしもかかる極端な悪徳と悖倫を包容しているこの濁流の歴史を浄化しえなければ、われらは後世の永遠なる呪いを免れえないであろう。
象牙の真理塔を蹴って街頭にいで立ったわれらは、疾風の如き歴史の潮流に自己を参与させることで、理性と真理、そして自由の大学精神を現実の惨憺たる薄土(やせ地)にまき散らそうとする。
今日のわれらは、自身の良心の厳粛な命令こそ邪悪と残虐の現状を糾弾匡正しようとする主体的判断と使命感の発露であることを堂々と闡明する。われらの知性は、惨憺たるこの巷の現状が民主と自由を偽装した全体主義のあくどい専横に起因したものであると断言する。およそすべての民主主義政治史は自由の闘争史である。(中略)韓国の日浅き大学史が、赤色専制に対する果敢な闘争の中核を握っているのに大きな自負を感じていることとまったく同じ論理の演繹において、民主主義を偽装した白色専制に対する抗議をもっとも高い栄光と、われらは自負する。
学生たちはそれから今日に至るまで30余年に及ぶ民主化闘争をこのような精神で担ってきた。紆余曲折の多い、しばしば独裁と腐敗に彩られた韓国の政治史の底流には、このような清冽な心が脈打っている。韓国における政治、とりわけ南北統一を目ざす政治の成功いかんは、一にこの精神との折合いをどうつけるかにかかっているといえよう。ソウル大学のこの記念すべき宣言文の最後の数節を引用することによって、その時の若い人たちの胸の高鳴りを思い起こしたい。
見よ!われらは喜びに溢れ自由の烽火をあげる。見よ!われらは暗闇の沈黙に自由の鐘を乱打する打手の一翼であることを誇る。日帝の鉄鎖にも狂わんばかりに自由を連呼したわが父、わが兄弟たちのように。良心に恥じることがない。孤独でもない。永遠なる民主主義の死守派は栄光に満ちている。現実の裏道で勇気を失い自虐をかみしめていた群もわれらの隊列に続いている。行こう!自由の秘訣は勇気なのだ。われらの隊列は理性と良心と平和。そして自由への熱烈な愛の隊列である。すべての理はわれらを保障する。

それはあまりにも高い理想主義であった。この宣言文はその後の学生たちの政治的抵抗の先がけの文章となった。しかしその後の学生運動からは、このようなロマンチシズムは少しずつその影を薄くしていった。社会における大学と学生の位置も変り、大学は社会における文化の中心から周縁に押しやられ、学生の気概も衰えてくるからである。
4月19日のソウル市のデモでは、2万名以上の学生と市民が参加し、政府系のソウル新聞社と反共会館、警察署などに火をつけた。警察の発砲で142名が死亡した。4月19日には非常戒厳令がソウル、釜山、大邱 、光州、大田などの都市に布かれた。李承晩は李起鵬をして副大統領当選を辞退させ、自らも自由党総裁を辞任した。
しかし4月25日の午後、大学教授団のデモによって、事態はまったく大きく転回した。
258名の大学教授によるこのデモ行進は、「学生たちの血に報いよ」というスローガンを掲げた。彼らは時局宣言において「学生たちのデモは民族正気の現われである」と断言し、これを「共産党の操縦とか野党のそそのかし」と見なすことは「学生たちの正義感の冒瀆である」、「正副大統領は再選挙せよ」、「3・15不正選挙を造作した者は重刑に処しなければならない」、学生を虐殺した者は「即時逮捕処断せよ」、暴力団をさがし出して処断しその「組織を粉砕」せよ、「拘禁された学生は無条件即時釈放せよ」などと15項目を挙げた。
大学教授団のデモがソウルの目抜き通りを通過すると、その後を、学生と市民たちが続いた。デモ隊列が1万名以上にふくれあがった。市内に進駐してきた軍隊は、最初は催涙弾を打ち放ったが、ついに軍人も涙を流して、発射中止を命令せざるをえなかった。進んできた戦車は「撃てるなら撃ってみろ」と叫ぶ学生たちを避けて通った。幼い学生たちは兵士らとともに戦車に乗って歓呼した。こうして戒厳令下の4月25日の夕方はいつしかおごそかな祝祭の夜に変った。4・19学生革命はついに国民の勝利となって終わった。


*이기붕(李起鵬, 1896년 12월 20일 ~ 1960년 4월 28일)은 대한민국 제3대 국방부 장관·재선 국회의원 등을 지낸 대한민국의 정치가이다.
*부마민주항쟁(釜馬民主抗爭, 영어: Bu-Ma Democratic Protests)은 1979년 10월 16일부터 10월 20일까지 대한민국의 부산직할시(현 부산광역시)와 경상남도 마산시(현 창원시)에서 유신 체제에 대항한 항쟁이 일어난 것을 말한다. 10월 16일에 부산대학교 학생들이 "유신철폐"의 구호와 함께 시위를 시작했다. 다음날인 17일부터 시민 계층으로 확산된 것을 시작으로 해서, 18일과 19일에는 마산 지역으로 시위가 확산됐다.[1
*김주열(金朱烈, 1944년 10월 7일 ~ 1960년 3월 15일)은 3·15 부정선거 규탄 시위에 참여했다가 사망한 학생이다.

勝利の火曜日
4月26日の火曜日の朝、10余万人の群衆が光化門から政府庁舎の中央庁までの大通りを埋めつくした。李起鵬の家の家財道具は赤い炎に包まれた。都心鍾路のパコダ公園にあった李承晩の銅像は群衆の手によって引き倒された。10時30分ごろラジオは臨時ニュースで「国民が願うならば大統領職を辞任する・・・」という李承晩の、いわゆる下野を決意した特別談話を伝えた。群衆の勝利を叫ぶ万歳の声はいっそうどよめいた。4月28日、李起鵬一家は自殺した。
5月29日、李承晩はハワイに亡命した。ハワイは彼が日本の朝鮮支配に抵抗して独立運動をしていた、かつての亡命地であった。彼がその波瀾万丈の生涯をそこで閉じたのは1965年であった。
この革命の犠牲者はいま、ソウル中心街の北東北漢山の麓、4・19国立墓地に静かに眠っている。4・19革命は韓国の現代史におけるブルジョア民主革命と記録されていいであろう。新聞の役割は大きかった。戦友の屍を踏みこえて独裁政権を打倒しようと、まるで革命運動における地下文書のように書き立てたほどであった。新聞がこの革命を成功させたとまでいわれた。韓国の言論がこのように革命的であったことはかつてもなかったし、今後もありえないことであろう。
野党民主党の勢力は、実は李承晩の下における保守政治家たちであったが、離反して国民の支持を集めたのであった。1919年の3・1独立運動が民族的な近代教育の普及と深くかかわっていたように、1960年の4・19革命は解放後の民主主義教育の普及と、知識人と学生の量産と深くかかわっていた。何よりも軍が最後になってこの革命に加担したことは、重要な意味を持ったといわざるをえない。しかしそれは軍が自らの力を政治的に意識する契機ともなった。この軍をどのようにコントロールするか、その軍がどのような動きを見せるかは、以後の韓国の歴史にとって決定的な要因となるはずであった。軍が国民の良心的な動きに共感を示すことは、その後の歴史では期待できなかった。その時、軍と政治の問題を深く認識していた人はほとんどいなかった。軍人がそのように政治化されることは、それまでの歴史的経験からまだ想像もつかないことであった。とりわけ新しく登場してきた民主党の張勉政権のあいだでは。
4・19革命で勝ち取った民主主義をどのように守り育てて行くか、詩人金洙暎(1920-1968年)は「祈祷」という詩をつぎのように結んだ。
詩を書く心もて 花を手折る心もて 眠れる子の愛らしい寝息を聞く心をもて いまはなき恋人をあくがるる心もて 失いし道をふたたびみいだすなつかしい心もて われらは、われらがかちとった革命を最後までなしとげなければ(『韓国4月革命』拓植書房)
この詩は4・19後間もなく4・19殉国学徒慰霊祭に手向けられた。この勝利した革命の前進に不安を感じたのであろうか、歌う詩人の声はすでにか細いものであった。
*김수영(金洙暎, 1921년 11월 27일 ~ 1968년 6월 16일)은 대한민국의 시인이다.


↑1961年5月16日、クーデター後の軍事革命委員会(国家再建最高会議)(左)副議長朴正煕박정희少将(右) 議長張都暎장도영(参謀総長)大将
第2章 軍部独裁の登場
4・19から1年
大統領の長期独裁にこりた国民と民主党は責任内閣制を選んだ。総選挙においては民主党が圧勝した。60年8月には尹潽善大統領と張勉総理という新政府が発足した。しかし政治的利害のために大統領側の民主党旧派と国務総理側の新派が対立し、9月には旧派は分党を宣言し、新民党として登録するに至った。このように政争に明け暮れ、分裂に走る政治勢力に対して国民の不満はつのった。もともと民主党の政治勢力というのは李承晩に見放された勢力で、特別の政治理念とか政策をもっていなかった。それは4・19革命に参加した勢力ではあっても、新しい政局をリードする能力に欠けていた。

4・19革命において中心的な役割を果たした知識人と学生勢力は、早まった要求を掲げ、政治勢力に対して極度の不満を示した。新聞なども社会の安定に貢献するよりは、無能な政府の攻撃に終始し社会不安をかき立てた。革命における戦闘的な姿勢が続いたのであった。
「4・19」1周年を迎えての学生たちの宣言文は、この当時の国民の挫折感をありありと映し出している。ソウル大学の「4・19第2宣言文」をここにあげてみることにしよう。
われらはこの闘争で、特権と単独政府の私欲の上に打ち立てられた李承晩体制が崩れようと肉迫した。しかし内外に根強く打ち込まれた李承晩的反民族体制は、形を変えただけで、本質においてはそのまま持続し、よりいっそう悪化していくだけである。ますます増大する絶糧民と社会悪はこのような実情を語るものである。気高い3,4月(1960年)の抗争は、政治指導組織の虐弱性と転換期理論の貧困性によって絶やされた。のみならず、特権意識にみちた輩に政権を与える失敗をなした。一にも十にも痛憤を感じないわけにはいかず、これにより、過ぎし1年間の政治的時間は恥辱と鬱憤のほかの何ものでもなくなった(『韓国4月革命』)

*윤보선(尹潽善[3], 1897년 8월 26일 ~ 1990년 7월 18일)은 대한민국의 제4대 대통령을 역임한 정치인이다. 국회의원과 1948년 12월 15일부터 1949년 6월 5일까지 서울 시장을 지냈고, 1960년 8월 13일부터 1962년 3월 23일까지 대한민국 제4대 대통령을 역임하였다.
*장면(한국 한자: 張勉, 1899년 8월 28일 ~ 1966년 6월 4일)은 지난날 미국 주재 대한민국 대사·대한민국 국무총리·대한민국 부통령 등을 지낸 대한민국 대학 교수 출신의 정치가이다.
*민주당(民主黨, 영어: Democratic Party)은 1955년 자유당의 사사오입 개헌 사건을 계기로 민주국민당의 보수파와 자유당의 탈당파, 흥사단등의 반이승만 세력이 모여, 1955년 9월 18일에 창당 되었다.

まさに幻滅の憤り以外に何も残っていないように見えた。この宣言文にも「特権と単独政府の私欲の上に打ち立てられた李承晩体制」といわれているように、学生を中心としたいわゆる4・19勢力のあいだでは性急な民族統一、南北統一が叫ばれた。張勉政権下の政治状況が混乱すればするほど、彼らの声は高まった。張勉政権がようやく日本との関係において脱出口を求めようとすると、学生たちは「買弁官僚勢力は最近にいたり、日本の独占資本と結託して米国の庇護の下に、ふたたび産業を外勢の支配下に隷属させようと企図している」(「民族統一全国学生連盟結成準備大会共同宣言」)と攻撃した。この学生たちの宣言はつぎのように結ばれた。
民衆の前衛であるわれらは、父母兄弟たちの熱狂的に絶叫する統一への歓呼をきき、祖国の北方で必ずわれらと共感しているはずのわが兄弟たちと相抱き合って大地を叩き、号泣したいのだ!
兄弟たちよ!われらの方へきたれ!そして皆ともに行進しよう!北の兄弟たちと一緒に光輝にみちた祖国の明日を討議するために、南北学生会談の広場に進み出よう!歴史はこの瞬間、われらの側に味方している。
こうして4・19革命勢力は分裂の道をたどった。政治勢力は政治的利害によって旧派、新派と分かれ、若い人びとはこのように政治勢力と袂を分かち、民族統一を唱える方向へと飛躍した。4・19革命における民ス主義へのロマン主義から、統一へのロマン主義へとつき進んだわけである。
もともと4・19革命勢力は政治思想や組織を持っていなかった。それは李承晩政権に対する不満が、3・15不正選挙を契機に爆発したものであった。その自己犠牲的な理想主義とひたむきな情緒が、若い人びとのあいだで、直ちに統一への熱望に転化した。それは社会的現実を顧みない政治的欲求だけがふくらんだものであった。まだ朝鮮戦争が終ってようやく7,8年を数えるに過ぎなかった。早まった統一の声は、朝鮮戦争が植えつけた恐怖と敵意の上に立てられた反共的政治・社会体制を全面的に否定するものであった。
町にはあらゆる形のデモ行進が溢れた。警察に対する国民の冷たい目付きに耐えかねて、史上初めて警察隊のデモまで出現するほどであった。今まで抑えつけられてきた欲求を街頭デモで解決しようとしたために、「デモ亡国」とまで皮肉られた。経済的に困難な一般民衆の不安はいっそうつのるばかりであった。これに対して張勉政権はほとんど手をこまねいて、なすすべを知らなかった。事態の深刻さについてすら意識していないようであった。抵抗には勇敢であったとしても、統治能力はなく、4・19革命に向けて結集していた抵抗戦線が、まったく解体の状況に陥った。
国民は安定を求め、問題の解決には軍部勢力が躍り出て果敢な支配を始めるべきだという声が、なかば公然と聞かれるようになった。若い人びともこの無為無策の民主主義政治権力よりは善意の独裁がましだといってはばからなかった。これが1961年5月16日に軍事クーデターが起こる前夜のソウルそして韓国のようすであった。


5・16軍事クーデター
1961年5月16日の未明、朴正煕陸軍少将の率いる軍部隊が、漢江を渡ってソウル市の中心部に入ってきた。その日の夕刊の『東亜日報』は軍部の検閲を受けた記事のなかで「16日、早朝、軍「クーデター」発生、軍事革命委員会を組織」というタイトルの下で次のように伝えた。
海兵第1旅団と2個空挺大隊を先導勢力とした革命部隊は16日早朝を期して、首都ソウル一円を完全に占領し、すべての支配権を掌握した。執権9ヶ月目に入った張勉政府を不信任するこの軍部クーデターのために三府の機能は一切麻痺し、軍事革命委の布告に従って金融機関も一切凍結、門を閉じたまま森厳な雰囲気に包まれている。
これが以後32年間に及ぶ軍人支配の始まりであった。すでに午前5時、クーデター勢力は中央政府を通して軍事革命委員会の組織を報じながら、つぎのような6ヶ条にわたる「革命公約」というものを発表したのであった。
1、 今までスローガンに終っていた反共体制を再整備する。
2、 国連憲章を遵守し国際協約を誠実に履行して米国を始めとした自由友邦との紐帯をいっそう強固にする。
3、 現政権の腐敗を一掃し頽廃した国民道義と民族正気を振作する。
4、 絶望と飢餓のなかで呻いている民生苦を解決し国家自主経済体制を完成する。
5、 国民の宿願である国土統一のために反共実力を培養する。
6、 このようなわれわれの課業が成就されれば、新しい良心的な政治人たちに政権を移譲し、われわれは本来の任務に復帰するであろう。
愛国同胞みなさん!われわれ軍事革命委員会を全幅的に信頼して下さって動揺することなく生業に従事して下さい。
この「革命公約」においても「反共」やアメリカとの友好関係が謳われ、これを報道した新聞の号外もタイトルのなかに「反共革命」と書いた。それは反共的国民そしてアメリカを念頭においたからであるが、特にクーデターのリーダー朴正煕が、1948年の麗水・順天事件に関連して退役させられて、返り咲いたという前歴があるためでもあった。

この軍部政権は、軍事革命委員会の議長に陸軍参謀総長の張都暎をすえ、朴正煕は副議長におさまった。3日後の5月19日には軍事革命委員会を国家再建最高会議と改称した。しかし軍事クーデターの中心勢力は「本来の任務に復帰する」意志は少しも持ち合わせていなかった。7月3日には、民政移管に傾いていた張都暎を議長から解任し、朴正煕自らが議長の座を占めたかと思うと、張都暎を中心とした44名の軍人を反革命の罪目で投獄した。こうして張都暎の勢力は完全に排除された。
*장도영(한국 한자: 張都暎, 1923년 1월 23일 ~ 2012년 8월 3일)은 대한민국의 군인이자 정치가이다. 장면 내각의 두 번째 육군 참모총장이었고, 5·16 군사 정변 직후 초대 국가재건최고회의 의장을 지냈다.
*국가재건최고회의(國家再建最高會議)는 대한민국에서 5·16 군사 정변 이후 정변 주도세력이 5월 18일에 '군사혁명위원회'에서 이름을 바꾸어 발족시킨 입법·행정·사법의 3권을 행사했던 통치기구이다. 첫 번째 군사내각은 5월 20일에 발표됐으며, 1963년 12월 17일 제3공화국(第3共和國)이 수립되면서 해체되었다.
朴正煕が全勢力を掌握するまで、粛清工作は跡を絶たなかった。その後、クーデター勢力がたどった道は彼ら自らが掲げた「革命公約」を踏みにじる過程であった。特に第6項の民政に「政権を移譲し」「本来の任務に復帰する」という項目を反古にするためにあらゆる工作が練られた。そのために、戒厳令下にあるにもかかわらず国民とりわけ知識人の非難をあびた。
軍人政治というのは長期的な展望を持たず、その場を乗り切ればよいという発想の上に立っていた。彼らの政治と政策には一貫性がなく、手段を選ばず、しばしば国民を欺くのをためらわなかった。クーデターからしてそうであるが、戒厳令とか弾圧とか重大政策の発表とかすべてが、奇襲のように国民の上に降りかかってきた。国民はその衝撃から立ち直ろうと、苦しい模索を続けなければならなかった。
国民を操作するためのあらゆる手段が動員された。アメとムチが交互に使われた。民政移管を約束し軍の中立を誓っては、その翌日、首都警備司令部の将校と兵士80余名を動員して軍政延長を唱えるデモをさせるというようなやり方であった。

1962年1月には、第1次経済開発5ヵ年計画を発表する一方、3月には政治活動浄化法を布告して4369名の政治活動を禁じた。3月22日、尹潽善大統領が辞任すると、朴正煕は自ら大統領権限代行となった。6月には、軍人支配のあいだ恐怖と怨嗟の対象となった中央情報部(1981年から国家安全企画部に改称)を発足させた。62年の12月に実施された国民投票によって、憲法は再び大統領中心制に戻り、1963年12月17日、朴正煕は大統領の座についた。
ここにクーデター勢力による2年7ヶ月に及ぶ軍政は、一応形式的には終りをつげたわけであった。しかしクーデターの主役たちは大挙して軍服を脱いで民間人として権力に参加した。そして官僚のあいだでも、地方官僚や国営企業のなかでも要所、要所は軍服を脱いだ軍人によって占められた。行政も、民間組織も完全に軍人化しようとしたのであった。
政治・行政の幹部のあいだにおける軍出身者の比率は1950年代には8・8パーセントであったのが、1960年代には44パーセントに急増した。そのなかで士官学校など軍教育を受けた者の比率は、1950年代には8・1パーセントであったのが、1960年代には30・6パーセント、1970年代には31・9パーセントに上った。
こうして韓国社会全体が「軍事文化」のもとにおかれたといわれ、軍隊式の価値観や組織原理が社会の至るところに浸透した。それが儒教的伝統とあいまって韓国社会をより権威主義的にし、上意下達的な雰囲気を醸し出し、ついには社会全体に腐敗をまき散らす結果となった。
近代化のかけ声
朴正煕政権はクーデターから生まれた政治権力であり、選挙では行政選挙といわれた不正選挙をくり返したために、その正統性に欠けていた。そのためにも近代化をスローガンとし経済発展を急がねばならなかった。近代化による受益層を増やして政権の支持基盤を拡大し、経済の活性化によって政治資金の増収をもはかろうとした。
第1次経済開発5ヵ年計画を発表しながら、東南の慶尚南道の東海岸、蔚山に工業センターを築く起工式を行ったのも、そういう計算からであった。蔚山を手始めとして慶尚道の工業化をまずはかることで、慶尚道政権とまでいわれた。慶尚道庇護政策下で、政府の要人の多くを慶尚道出身のあいだから抜擢し、軍もそのように固めた。それですでにのべたように、冷遇された西南地方の全羅道の人びとのあいだには深い溝ができてしまった。軍部政権は国民を分裂させ、おたがい監視させることで自らを延命させようとしたのであった。
大々的に借款を導入し、外貨稼ぎのためにはすべての手段を動員した。こうして1962年から81年まで年平均8・5パーセントの高い経済成長をあげ、国民所得は1人当り80ドルから1800ドルにまで増大する。1960年には農漁村人口が79・5パーセントを占めていたが、1982年には25パーセント未満に減少した。離村する農民が都市とりわけソウルに集中し、町周辺にスラム街をなし、社会問題となった。近代化の恩恵に浴することのできない民衆は拡大するのであった。


*대한민국과 일본국간의 기본관계에 관한 조약(大韓民國-日本國間-基本關係-關-條約) 또는 한일기본조약(韓日基本條約)은 대한민국과 일본이 서로 일반적 국교 관계를 규정하기 위해 1965년 6월 22일에 조인한 조약이다. 4개 협정과 25개 문서로 되어 있다. 일본에서 사용하는 명칭은 일본국과 대한민국과의 사이의 기본 관계에 관한 조약(일본어: 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 (にほんこくとだいかんみんこくとのあいだのきほんかんけいにかんするじょうやく))이다.
日韓条約とベトナム派兵
独裁維持のためにも、朴正煕政権にとって近代化は至上の課題であった。それに必要な資金や技術を導入するには、二つの政治的決断を迫られた。一つは日韓条約の締結を急いで日本の経済協力をえることであり、もう一つはベトナムで苦境に陥っているアメリカ軍のために援軍を送る、ベトナム派兵に踏み切ることであった。
この二つによって、アメリカから強力な支持を取りつけることも、朴正煕政権にとっては重要なことであった。アメリカは日韓の国交正常化で東アジアにおける反共戦線の強化を図ろうとした。日韓国交正常化のための話しあいはすでに朝鮮戦争中の1951年に、アメリカの仲介で始まっていた。しかし両国のあいだに横たわる懸案の問題があまりにも多く、それに日本の植民地支配に対する韓国国民の感情的なわだかまりもあって、進展はほとんど見られなかった。


1961年11月12日、朴正煕はケネディ大統領の招きで、アメリカ訪問の途上日本に立ち寄った。そして池田勇人日本首相との単独会議で「東北地方や鹿児島出身の人よりもりっぱな日本語を駆使して国交正常化に関する彼の意欲を披瀝した」といわれる(李祥雨『秘録朴正煕時代』)。朴正煕は旧満州の軍官学校出身であった。そこで日本では、岸信介を始め旧満州系人脈が親韓派として登場するようになった。こうして日韓関係は「日韓癒着」という黒い霧に包まれながら進行するようになった。
*이케다 하야토(일본어: 池田 勇人(広島県出身, 문화어: 이께다 하야또, 1899년 12월 4일 ~ 1965년 8월 13일)는 일본의 대장성 관료이자 정치가이다. 중의원(7선), 대장대신(제 55·61·62대), 통상산업대신(제2·7·19대), 경제심의청장관(제3대), 제58·59·60대 일본 내각총리대신을 지냈으며, 19세기에 태어난 마지막 수상이다.
*만주국 육군군관학교(滿洲國 陸軍軍官學校)는 만주국 육군이 육군 장교를 양성하기 위해 설치한 교육 기관이다. 1939년부터 1945년까지 존속했다.
*기시 노부스케(일본어: 岸信介(山口県出身, 문화어: 기시 노부스께, 1896년 11월 13일 ~ 1987년 8월 7일)는 일본의 정치인이다. 농상무성장관, 제56·57대 내각총리대신을 역임했으며, 일본의 정2위국화장을 받았다. 쇼와의 요괴(昭和の妖怪) 라는 별명으로 불리기도 했다. 본래 성씨는 사토(佐藤)이다.

朴正煕の日本訪問後そういった関係は急速に進展した。その初期に起こった一つの事件だけを上記の「秘録朴正煕時代」から引用してみたい。この不正事件は全国的に大きな衝撃を与えたが、軍部の弾圧によって暗闇に葬られた数々の事件のなかで、ごく小さい事件のひとつであったといってよい。
1962年5月、国家再建最高会議は<自動車工業保護法>を制定して、向後5年間自動車部分品を無関税で輸入することにした。これを踏み台にしてセナラ(「新しい国」)車組立工場が発足した。しかし組み立ては表看板に過ぎなかった。実際は部分品を導入したのではなく、完成品の日本産小型自動車2000台余りを関税なしに輸入して市中の業者に売り渡した。輸入価格は1台3万ウォンであるのに25万ウォンで売り約5000万ウォンの利益をあげた。この金が共和党(軍部政権の与党)創党のための政治資金に使われたのであった。
ベトナム派兵も名分は反共戦線の共同防衛ということにあったが、それには多くの政治的、経済的思惑がからんでいた。アメリカはベトナムにおける胡志明(ホーチミン)共産軍との戦いで苦戦を強いられていた。そのために韓国軍の派遣を要請し、韓国がそれを受け入れて実行し始めると増派を強く求めた。
韓米両国政府の立場は、ベトナムは韓国の第二戦線であるというのであった。ベトナム戦争は韓米両国の郷土の努力で解決されなければならない。その勝利はベトナムと同じような分断国家韓国の防衛にも関連するといった。実際その当時は、南ベトナムの崩壊と北ベトナムの勝利は、反共国家韓国にとっては挫折と不安を意味し、共産国北朝鮮はそれによって鼓舞されるという状況であった。
ベトナム派兵をすれば、韓国に対するアメリカの援助が続行される。ベトナムへの輸出の割り当ても年間6000万ドルである。ベトナムにおける建設事業など各種事業にも参加できる。何よりも派遣される兵力の武器、装備、経費、給料すべてアメリカ軍が負担するというのであった。1964年9月、第一移動外科病院13名がベトナムに渡ったのを皮切りに、65年10月からは戦闘部隊が派遣され、73年末に全員が撤収するまで8年間延べ31万2853名の兵力がベトナムに派遣された。
ベトナム派兵は、反共国家の南ベトナムを防衛するという所期の目的を達成することはできなかった。しかしベトナムの武力統一によって、恐れていた南アジアあるいは朝鮮半島における共産勢力の勝利というドミノ現象は起こらなかった。その一方でそれは韓国における軍の現代化と経済発展の足場造りに役立った。これもまた歴史の皮肉というものであろう。


日韓条約への抵抗
日韓基本条約は1965年6月22日に調印され、12月18日に、批准文書を交換して発効した。これで戦後20年間正式の国交をもたなかった日韓両国が、日韓新時代ともいわれる歴史を歩み始めた。この条約は両国間の「基本関係に関する条約」と「請求権・経済協力に関する協定」、「在日韓国人の法的地位と待遇に関する協定」、「漁業に関する協定」、「文化財・文化協力に関する協定」の四つの付属協定を含むものであった。
この条約には争点とならざるをえない多くの問題が含まれていた。基本条約の第二条における「1910年8月22日」、すなわち併合の日以前に「締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」ということからしてそうであった。併合条約が無効であるとすれば、36年間に及ぶ日本統治は不法ということになる。そこで「もはや無効であることが確認される」と、あいまいなことばが使われた。1910年の併合当時からではなく、今になって無効になった、と匂わせるためであった。
また第三条については、朝鮮半島が南北に分断され二つの異なった政府が存在しているのにもかかわらず、韓国は北朝鮮をも含む主権国家であることを主張した。日本は韓国政府を南朝鮮の当事者としてのみ認めたかった。ここでも玉虫色的なことばを使って妥協せざるをえなかった。韓国政府は国連総会決議に照らして「朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される」と表現したのであった。
日本側は賠償ということばの代わりに「請求権・経済協力」ということばをえらんだ。日本は3億ドルの無償資金と2億ドルの長期低利政治借款及び3億ドル以上の商業借款を供与することにして妥協した。これもまた問題にならざるをえなかった。賠償としなかったことに対する非難もさることながら、この程度の「請求権・経済協力」の提供が、果たして日本の植民地支配36年間、保護国の時代を合わせると40年間の収奪に対する見返りといえるかというのであった。
そして戦争中に軍人としてまた労務員として動員された60余万と戦死戦傷者や行方不明の人びとの問題はどうするのかと問われた。なかにはソ連のサハリンに残された人びとがおり、挺身隊として強制連行され、とうとう従軍慰安婦として心もからだも傷だらけになった人びともいるのに、それに対する補償も、これで帳消しになるかというのであった。
また漁業協定においてわずか12マイルだけを漁業専管水域とするならば、朝鮮半島の漁場は技術と装備、船舶数などで圧倒的に優位に立つ日本の漁業によって荒されるに違いないと考えられた。在日同胞の法的地位についても、永住権は与えられたといっても、法的差別は厳として変わらないものであった。文化財の返還についても、ごく一部の返還を約束しただけではないかと批判された。       

このような具体的な問題点のほかに民族感情がくすぶっていた。日本は朝鮮に対する植民地支配について当然それ相応の謝罪をなすべきではないか。たぶん日本側は謝罪それ自体にもこだわったと思われるが、謝罪することによって当然ひき起こされる補償の問題も恐れたであろう。日本側は開き直って「36年間にわたる日本の朝鮮統治は朝鮮の近代化に有益なことも多かった」とか、それが帝国主義というならば「栄光の帝国主義である」と韓国国民の感情を逆なでにした。日本人が終戦とともに朝鮮から撤収したときに残した財産に対する権利を、日本側が問題として提起したことすらあった。


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