日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★Agresmilito, konkermilito aŭ invada 侵略戦争★本多勝一的战争理论“侵略” /Katsuichi Honda's theory of war "Aggression" /本多勝一の戦争論「侵略」をとらえる目⑦

*The Aichi University Mountain Club Yakushidake distress accident愛知大学山岳部薬師岳遭難事故 ( Aichi Daigaku-Sangakubu Yakushidake Sounanjiko) was a distress accident that occurred at Yakushidake in Toyama Prefecture in January 1963 . 13 Aichi University mountaineering members died while climbing .
そのときの社会部長が「よくやった。何でも好きな企画をやってみよ」となった結果が、この年の『カナダ=エスキモー』(イニュイ民族)でした。31歳のときで、このルポが好評だったためさらに翌年もまかされて『ニューギニア高地人』の取材に出かけたわけです。

けれどもそのころ、ベトナム戦争は重大な局面にはいりつつありましたから、次はベトナムを希望したんですね。しかし当時の編集局長がわざわざ”一席”もうけて、もうヒトツだけ「極限の民族」シリーズをやってくれと頼むんです。その結果が『アラビア遊牧民』でした。

そのあくる1966年の末、34歳になって「もういいでしょう」と、ようやくベトナムに向かったわけです。だから会社の幹部は、私にベトナム報道を望んでいたのではありません。
質問2 イラクやアフガニスタンなど現代の戦争についてーかつてのベトナム戦争時と比べ、反戦の世論が弱い。自衛隊のイラク派兵もあっさりと決まった。なぜなのか。戦争自体の変化と、取材の変化と、この両面からお聞きしたい。
手段を選ばず戦争の最前線にはいるべき
本多 理由は単純ではないと思います。イラクには2002年に私も行って『週刊金曜日』にルポを連載しましたし(のち単行本『非常事態のイラクを行く<貧困なる精神>Q集』=朝日新聞社)、アフガニスタンには行っていませんが、戦場になったパキスタンとの国境周辺やオクサス川源流あたりには学生時代に探検隊としてはいったことがあります。
まず第一に、戦場になったこれらの地域には、ベトナムの場合ほど日本の産業ー工業製品だの輸送船だの商社だのが直接的にかかわってはいません。ベトナムでは日本人に目に見えるかたちで米兵が派遣され、たとえば戦死米兵の遺体さえ日本経由で米本国に送られた。死体洗いのアルバイトがあったくらいですからね。
学生運動も盛んでした。ベトナム戦争に限らず、私自身の学生時代を考えても学生が世論をひっぱることが多かった。新聞記者のかけだしは札幌ですが、そのころでも北大その他の学生が北海道警察本部や札幌中央署をかこんで抗議集会をやった。
なんといってもイラクやアフガンは、ベトナムと違って距離的・歴史的・文化的に遠いから、それだけ縁が薄く、したがって関心は低いんですね。しかし基本的に一番大きいのは、若者が「外界」に対して強い関心を抱かなくなったことではないでしょうか。これにも原因は多々あるものの、一種逆説的とも言える情況が特に大きいと思われます。つまり外国への出入りが法的にも経済的にも非常にたやすくなって、国際上の垣根が実に低くなった。それでかえって関心が薄れてきた。テレビをはじめとする情報の氾濫もそれに拍車をかけます。
第二に、戦争自体を見ても、米軍はベトナム戦争でのマスコミの扱いに懲りて、戦場からジャーナリストを排除したんです。その結果、ジャーナリストが戦場を直接見ることができない。イラク戦争ではクエートからイラクのバクダードへの米軍進撃途上でかなりひどいことがあったらしいけど、ほとんど報道されませんでした。
ベトナムでは、石川文洋氏をはじめ多くの報道写真家が米軍の最前線に従軍して力作が発表されましたが、そのため”戦死”したカメラマンも多かった。しかし新聞記者や放送記者はせいぜい米軍の前線基地までしか行けず、私のルポ『戦場の村』が当時評判になったのは、カメラマンと同じく最前線に従軍して米軍のひどい実態を詳述したからです。ところがイラクでは、写真家であれ記者であれ、前線基地にさえ行けなかった。
しかし第三に、かつての戦争取材者として言えば、ジャーナリストなら手段を選ばずに最前線にはいるべきです。もちろん米軍側であれアラブ=ゲリラであれ、ただ間接的に聞くところでは、アラブ=ゲリラは私が従軍したベトナムの解放戦線ほど高い紀律ではないようですね。だからアラブ側への従軍はより危険かもしれません。米兵側の”進歩”した新兵器も危険です。でもそれは覚悟の上でやるのがジャーナリストではなかったか。戦死したジャーナリストが外国に多いのは、その覚悟の上でのことでしょうね。
ベトナムでの日本人記者たちにしても、解放戦線取材は競争でした。特派員の多くは玄関口から(つまりサイゴンでの正規の受け入れ口から)申請したけれど、危険ですから、解放戦線も責任が持てずなかなか許しません。私は”裏口”を考えて、メコンデルタの片いなかへ行って末端と交渉した結果が成功に結びついたわけです。
だから取材ということでは、今も昔も「手段を選ばず」やるべき点で変わりはありません。ところがイラクでは、日本人特派員たちが”団結”して(?)全員バクダードからひきあげてしまい、1人も現場に残りませんでした。やはりジャーナリストは、現場を直接見て「第一次資料」で書くべきです。極論すれば、現場以外はすべて二次資料・三次資料なのですから。
質問3 7年前(2001年)に本多さんが現場へ行ったイラクでの取材の様子を教えてほしい。

米軍の残酷兵器による無差別攻撃のおそろしさ 
本多 (スライドで説明)イラク軍の戦車が残骸の山をきずいています。ベトナム戦争の現場に比べて大きく違うひとつは、米軍にウラン弾ができて使いだしたことです。ウラン鉱を工業用に使ったあとのガスを使っているので「劣化ウラン弾」と称されていますが、「劣化」というと何か弱いもののようにとられやすいので、私は単に「ウラン弾」と言っています。
アメリカ合州国の体制側は、毒ガスのように国際法上ハッキリと禁止されたものでないかぎり、何でも平気に使う恐ろしい国ですね。ベトナム戦争でも民衆への無差別攻撃として新発明したボール爆弾その他の残酷兵器を次々と使った。あのころはウラン弾がなかったから使わなかっただけのことで、新兵器というのは当然ながら国際法上まだ検討以前ですから、それをいいことに平気で使う。ボール爆弾がどんなにひどいものかは私もルポの中で書きましたが、ウラン弾はもっとひどい。直接の殺傷だけでなく、放射能による白血病がずっと後になって現われはじめるのです。いまイラクの病院には、戦後しばらくして出はじめたそういう患者があふれている。
*白血病(拉丁語:leukemia,/luːˈkiːmiːə/[1])是一群癌症種類的統稱,英文名稱來自於古希臘語,λευκός(leukos,白色)與αἷμα(haima,血液)的組合[2]。 它通常發病於骨髓,造成不正常白血球的大量增生[3]。這些異常增加的白血球都尚未發育完成,稱之為芽細胞或白血病細胞[4]。症狀可能包含:出血與瘀斑、疲倦以及感染風險增加[4]。這些症狀會因缺乏正常血球而發生[4]。
イラク軍の残骸戦車をよく見ると、外見上は何でもない場合でもダメになっています。これはウラン弾が貫通して中で爆発するように作られているためで、戦車にはどこかに直径3~4センチ程度の小さな穴があいているだけです。ウラン弾の貫通したあとですが、これで中の人間は全滅する。
病院で私が見た患者たちの多くは、戦場ではなくて一般民家にも落とされたウラン弾の被害者たちでした。ガンがさまざまな場所に発症している。両眼がとび出してしまった娘もいて、私が写真にとろうとすると、つきそいの母親が娘が元気だったころの写真を見せながら泣きました。私もひどい現場をベトナムその他でよく見てきましたが、これにはもらい泣きをせざるをえませんでした。この娘は2日後に死んでいます。
*Idoイド語→Kancero esas nomo vulgara di tumori qui rodas tisui di ula parti di korpo, di organi.
質問4 結局、ジャーナリストとは何か。面白い仕事か。若い学生も来ているので、かれらにも話して下さい。

戦争を止めるにはジャーナリストの活躍こそが最も有効だ
本多 もう亡くなったジャーナリストで、私の尊敬していた1人の新井直之氏(共同通信者OB)がいます。彼はジャーナリストを「いま伝えなければならないことを、いま伝え、いま言わなければならないことを、いま言う」と定義していました。
これには私も同感です。では「伝えなければならないこと」とは何か。何が知らしめることか。それは、何らかの意味で人間の未来なり人類の幸せに通じることだと思います。たとえば「核兵器」の類いは、どんな種類のものであれ廃絶をめざす。『ウラン兵器なき世界をめざして』(合同出版)といった本も出ていますが、これは「やりがい」のある仕事だと思うのですね。「やりがい」があるということは、何の分野であれ「面白い仕事」です。やったことのある人なら直ちにわかることでしょう。しかもジャーナリストには、医者や弁護士のような公的資格は不要です。フリーであれ会社員であれ、資格は全く問わない。やればそれだけの結果が出るのですから、これは「面白い仕事」ですよね。この会場には学生など若い方もおられるようですから、ぜひやってみてください。
では最後のご質問にお答えしなければなりません。「戦争は止められるか?」です。
ハイ!止められます。それにはジャーナリストの活躍こそが最も有効だと言いたい。過去の戦争についても、もしジャーナリズムが本気でとりくめば止められたと思います。大衆なり常民なりが動くことこそ、プラス方向であれマイナス方向であれ戦争が動くことであり、それにはジャーナリズムの動きが最も影響する。ならばプラスに動かすことこそジャーナリストの役割ではないか。
ここで一点だけ注釈が必要です。「戦争」というコトバの問題。たとえば日中戦争は日本の侵略ですね。ベトナム戦争も米国の侵略です。これらに抵抗した中国軍やベトナム解放戦線軍は、侵略に対する反撃でした。これを「戦争」とか「侵略戦争」とすべきでしょう。日露戦争とか太平洋戦争なら、侵略者同士だから「戦争」でいいのかもね。(『週刊金曜日』2010年2月12日・26日・3月5日)

南京大虐殺70周年と日本の現在
中国の往時の首都・南京で2007年12月13日、日本軍侵入と大虐殺開始70周年にちなんで『侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館』の新館開館式典が挙行された。このときの講演を当局から依頼されたので、話がへたで嫌いだけども過去のいきさつもあるため引き受けることにし、中国語の同時通訳の関係から予定草稿を送った。
今年は大虐殺70周年を期して関連書の出版が多いものの、笠原十九司氏の新書『南京事件論争史』(平凡社新書)などのようなまともな文献よりも、数の上では否定派による実にいいかげんな本が目立つ。この問題にあまりくわしくない一般日本人の中には、”質より量”の否定派に影響される例もなしとしないので、三十数年前からこの取材にかかわってきた者の1人として、講演の草稿を以下に抄録したい。

ジャーナリストは現在史にかかわるべき
今から36年前の1971年に初めて中国を訪ねて以来、今回を含めると南京に私は6回来たことになります。そのうち始めの4回は、いずれもかつての日本侵略軍による被害、とりわけひどい仕打ちを受けた体験者たちに直接会って取材するのが目的でした。
私自身は1931年末の生れですから、これはまさに「9・18事変」(日本でいう「満州事変」)の年にあたるわけです。しかし幼児の私は侵略の具体的状況などもちろん知りませんでしたし、小学校へ行くようになっても、日本で最も高い山脈(俗称日本アルプス)に挟まれた谷間に住んでいた子どもには、正確な事実を知るよしもありませんでした。ただ侵略戦争に直接関係することで今も記憶に残るのは、村の青年が徴兵されて侵略軍の一兵士として出発するとき、村人とともに小学生も参列させられた壮行会で、『出征兵士を送る歌』の類などを歌わされたことくらいです。
*Esperantoエスペラント語→La Mukden-incidento aŭ Manĉuria incidento estis japana militistara agresa agado en septembro de 1931. La japana armeo okupis la urbon Mukden (hodiaŭ Ŝenjang, Ĉinio) kaj post la incidento eĉ tutan Manĉurion kaj kreis la pupŝtaton Manĉukuo. Tio estis komenca epizodo de la Dua japana-ĉina milito.

~♪我が大君(おほきみ)に召されたる  命榮(は)えある朝ぼらけ  讚(たた)へて送る一億の  歓呼は高く天を衝(つ)く  いざ征けつはもの日本(にっぽん)男児~♪
*"Shussei Heishi o Okuru Uta" (出征兵士を送る歌, Song for Giving Warriors a Send-off) is a Japanese gunka song composed by Isao Hayashi with lyrics by Daisaburō Ikuta. It was released by King Records in October 1939.[1][2]
しかし中学生になったころには日本の敗色が濃くなって、ついに1945年8月15日の降伏となったとき、私は中学2年生でした。この年の4月には軍需工場が、日本アルプスの谷間にある私たちの中学校へ疎開してきて、全生徒が兵器の部品を造らされていたのです。
日本敗戦後の情況は、日本国内にせよ中国にせよ、ここで改めて述べるまでもありませんが、私個人がなぜ南京大虐殺を取材するに到ったかを説明しておきたく存じます。
典型はベトナム戦争
私は生理学の、とりわけ遺伝学を専攻するつもりで大学に進みました。大学では日本で最初の「探検部」を同志らと共に創設し、ヒマラヤへの探検隊にも2回参加します。新聞社に就職したときも、学生時代の探検の延長として北極圏のエスキモー(狩猟民族・1963年)とか、ニューギニア奥地の古代農耕民族(1964年)、さらにサウジアラビアの沙漠地帯での遊牧民族(1965年)を訪ねて、『朝日新聞』に長篇ルポルタージュとして連載しました。
しかし、こうした仕事を続けるうちに、これは「ジャーナリスト」の本来の役割とは違うのでは、と疑問を抱くようになります。ジャーナリストはやはり「現在史」にかかわる仕事をすべきである、と。その典型がベトナムでした。
もともとベトナムは、1945年の日本敗戦の直後にフランスが再び侵略してきたため、ホーチミン主席らのベトナム人民軍が立ちあがったのが戦争の発端です。そして54年のディエンビエンフーの決戦でフランスは大敗し、ベトナムは独立を達成します。ところがそこへ介入したのがアメリカ合州国です。
合州国を巨視的に見れば、ワシントン初代大統領が北米大陸東部から先住民族の土地に侵略を始めた18世紀末以来、そのわずか約200年後にイラク占領の現在に至るまで、一貫して「西へ西へ」と侵略をすすめた歴史でした。

アジア侵略を続けたアメリカ合州国 すなわちワシントンの大統領就任90年後に、有名な「ウンデッド=ニーの虐殺」(1890年)で太平洋岸までの全北米侵略を完了するや、そのまま西進して太平洋上に出ると7年後にはハワイ侵略、あくる1898年には米西戦争でグアム島やフィリピンなどのスペイン領を侵略します。

「真珠湾攻撃」の真実
ここで私が力説したい歴史的事実は、アメリカ内部で先住民族に対してやった100年間ほどの侵略が、さらに太平洋からアジアへと直結していることです。そこでの兵士ら個人個人も同じ顔ぶれのままアジア侵略をつづけ、1900年には中国の義和団事変にさえ参戦して連合軍の一部として北京を占領しています。
その41年後(1941年)には日本軍の真珠湾攻撃に到るものの、この背後にはアメリカ合州国のアジア侵略史が深くかかわっていることを理解する必要があります。
ひとつ象徴的な事実を指摘しておきましょう。開戦にはよく捏造事件をでっちあげる合州国ですが、フィリピンを侵略したときの米西戦争も、発端は「キューバのハバナ港で米戦艦が爆破された」という捏造情報からでした。これはベトナム戦争で「トンキン湾事件」という捏造事件をもとに北ベトナム爆撃を開始した方法と全く同じです。そしてフィリピンへの米侵略軍総司令官オーティス将軍は、開戦して1年すぎてもフィリピン独立勢力のゲリラを鎮圧できないため、交替させられて出てきたのがアーサー=マッカーサー将軍でした。これも1900年のことです。この将軍こそ、1945年の日本降伏のさいの米軍総司令官ダグラス=マッカーサーの父親でした。
*ダグラス・マッカーサ―(Douglas McArthur、1880年1月26日 - 1964年4月5日)[注釈 1][1]は、アメリカの軍人、陸軍元帥。連合国軍最高司令官、国連軍司令官を務めた。コーンパイプと服装規則違反のフィリピン軍帽がトレードマークであった。
すなわち日本占領もまた、ワシントン以来の合州国世界侵略史の途上の一事件にすぎない。事実として対日戦争の背景には、ルーズベルト大統領が日本に真珠湾攻撃をさせた経過のあることが、今ではハッキリ証明されています。

日中戦争と日米戦争の根本的な相違は何か。それは、前者が日本の明白な侵略であるのに対して、後者の日米戦争は侵略者同士のケンカにすぎない点です。しかし日本の主要なマスメディアはこのことを重点的に報道してこなかったので、一般国民の常識には決してなっていません。だから1945年の日本敗戦は、中国・朝鮮をはじめとするアジア侵略の挫折と、欧米(とくに米)とのケンカでの敗北、という二つの意味があるにもかかわらず、国民の認識では混同されています。

たとえば広島・長崎に対する原爆の無差別大虐殺にしても、アジア諸国がこれを喜んだこと自体は、過去の日本の暴虐からして当然のことでした。しかし合州国によるこの原爆は、断じて許すわけにはゆきません。前述のように真珠湾を攻撃させておいて、その責任など全くない一般民衆を目標としてやった無差別大虐殺であります。しかもこれは、当時のソ連に対する示威行動にも利用する目的が大きかったのです。
このようなことを私が理解するようになったのは、ベトナム戦争の取材でした。フランス敗退のあとをひきついだアメリカ合州国は、侵略の規模を拡大してついに50万人の大軍を派兵します。私のベトナム取材は、まず米軍の最前線への従軍でした。そこで最前線の様子を具体的に理解したので、たとえば解放戦線兵士の戦死体から耳を切りとって「おみやげ」にする米兵などの様子も広く知られるに至り、日本ではもちろん米本土でも大問題になりました。

つづいて解放戦線(ベトナム南部解放民族戦線)の側に潜入し、その戦う様子を世界で初めて詳細に報道したため、合州国の侵略に対する正義の独立戦争の具体的な姿に共感した反戦運動も大きく盛りあがりました。
こうした報道をつづける中で思い到ったことこそ、「中国に侵略した日本は何をしていたのか」だったのです。侵略アメリカ兵がやっているような具体的な行状を、日本兵についてこと報道すべきなのではないか、と。そうした視点からのマスコミ報道はそれまで全然なかったと言ってよく、洞富雄氏のようなごく一部の学者による文献からの研究(極東国際軍事裁判での南京事件関係など)がみられた程度です。
1971年のその当時、中国は文化大革命の末期でした。北京にあった日本の新聞社の支局も、私が取材を申請したころは『朝日』の支局(秋岡家栄記者)だけのことさえありました。
*秋岡家栄(あきおか いえしげ、1925年(大正14年) - )は、日本の作家、元新聞記者。
そんな中で取材して『朝日』紙上で連載した『中国の旅』は、東北地方を中心に、河北省の「三光作戦」による一村の住民皆殺しの舞台などを含むルポだったので、全国に深刻な反響を呼びおこしました。多くの読者からは賞賛が寄せられたものの、卑劣な売国的偽右翼(私は「真の右翼」を自称するので彼らをこう呼びます)が私の自宅に来たりして家族にも危険が及び始めたため、以後は引越して自宅を非公開にせざるをえませんでした。
これはしかし、私の仕事が高く”評価”されている証拠でもありますから、それならばもっと続けてやろうと、以後は南京大虐殺にしぼって何回も訪中することになった次第です。最初の取材からは今年ですでに36年、あのころ直接取材した体験者たちの多くがすでに故人となられ、私もこの年末で満76歳になりました。あのとき記録しておいてよかったと、今にしてつくづく思います。
日本のためにこそやっている調査と報告
このたび、南京大虐殺70周年を記念する記念館での新館増築完成に際して講演を依頼して下さったことを、私は大いに誇りとするものです。折りしも先月(11月)2日には、南京大虐殺での被害者・夏淑琴さんの裁判があり、東京地方裁判所で夏さんの勝訴判決となりました。9人家族だった夏さんは、8歳のときの大虐殺で7人が殺され、4歳だった妹と2人だけが助かったのですが、夏さん自身も銃剣で三ヶ所刺されて気絶し、幼児の妹はフトンの下にいて気づかれなかった結果です。ところが南京大虐殺を否定したい偽右翼の”学者”(亜細亜大学の東中野修道教授)が、夏さんをニセモノ扱いしたため、これに対する名誉毀損事件での勝訴判決でした。あまりにも馬鹿馬鹿しくて勝訴が当然とはいえ、東中野教授のような男の著作が刊行されること自体、かつて日本と共に敗戦国だったドイツとは次元が違い、日本人の平均的意識やマスメディアの水準が国際的に低いことを示すものでしょう。
この裁判の前にも、南京大虐殺に関連する二件の判決があり、いずれも勝訴しています。すなわち①李秀英名誉毀損事件と②「百人斬り競争」事件です。前者の場合、南京大虐殺否定派の1人(松村俊夫氏)は、著書『「南京虐殺」への大疑問』で李秀英さんについて「ニセの被害者」だと記述したのです。これでは事件当時の被害に加えての二重の被害をうけたことになりますから、李秀英さんが松村と出版社を提訴した結果の勝訴でした。
後者の場合は、南京への日本侵略軍が進撃の途上、2人の陸軍少尉が「どちらが先に百人の敵を斬るか」を競争し、『東京日日新聞』(『毎日新聞』の前身)が報道しました。これはしかし「敵」を斬ったのではなく、日本刀による白兵戦など存在しないので、実は捕虜の「据えもの斬り」(並べておいて斬首)という違法・卑怯な”遊び”だったのです。犠牲者の中には一般住民もいました。この2人は日本敗戦後に蔣介石政権によって死刑にされています。このことを私がルポの中で書いたところ、2少尉遺族が「すべて事実無根」として提訴したのです。しかしこれも「すべて事実」と法廷で証明され、勝訴が確定しています。
以上に述べましたように、南京大虐殺をめぐる最近の三つの裁判は、いずれも否定派が敗訴しました。終始担当した弁護士の1人・渡辺春巳氏が、私たちの側の「3連勝」と表現しているとおりです。


いかに3連勝とは申せ、今ごろこんな裁判や”論争”があること自体、前述のように同じ敗戦国ドイツなどでは考えられないことです。これには近・現代史における日本人の無責任さ・思考力の浅さ、そしてそれがそのまま反映しているジャーナリズムの程度の低さ、学者や知識人たちの無力さがあります。もちろんジャーナリストにも学者・知識人にもそうでない例があるのですが、かれらは決して主流にはなれませんでした。そして巨視的にみるとき、日本の歴史には革命と言えるような変革はついに無かったと考えられます。
ということは、南京大虐殺があった70年前の日本と現在では、あまり変わっていないことにもなります。南京大虐殺をめぐる私の調査と報告はそのような日本のためにこそやっているのであって、本来であれば日本政府の公的機関がやるべき仕事でした。悪い意味で変わっていない日本の例の一例です。これもドイツと違って、アジアの周辺諸国から孤立してゆくことになるでしょう。


しかし今のアジア諸国は、欧米や日本などの帝国主義諸国に植民地とされた戦前のような情況とは全く違います。日本も真の意味で変わらなければ、日本自身が破滅への道を歩むことになりかねません。これまでの私の南京大虐殺をめぐる仕事を「日本のためにこそ」やっていると前述したのも、そのような真意があってのことです。
このたび大規模な新築が完成した侵華日軍大屠殺遇難同胞紀念館は、過去の不幸な日中関係や日本の侵略の具体的状況を、忘れるのではなく踏まえた上での友好関係をめざすものと申せましょう。それでこそゴマカシのない真の友好関係と言えるからです。私もすでに老齢とは申せ、そのような「真の友好関係」を保つことができるよう。今後とも微力をつくしたいと存じます。ありがとうございました。
(2007年12月13日の南京講演を、『週刊金曜日』12月7日・14日・21日号に抄録)


「気がつけば危険水域」
「紀子さま男子ご出産」という特大差別記事が各紙に躍った同じ2006年9月6日夕刊の『東京』文化面に、辺見庸氏が「気がつけば危険水域」という”意見”を書いている。辺見氏の文章には俺なども共感を覚えあるいは示唆を得るものが多く、この中でもたとえば「マスメディアと政治権力の臆面もない連携と協調(タグマッチ、デキレースも散見される)も小泉時代にきわめて特徴的な風景)といった核心をつく表現がある。
*Latinaラテン語→Kiko Principissa Akishino文仁親王妃紀子(静岡県出身・旧名川嶋紀子), nata die 11 Septembris 1966, est uxor Fumihito Principis Akishino, et in Anglice Theodisceque volubilisque.[1] [2] Universitas Ochanomizu ei Martio 2013 Ph.D. in psychologiae concessit. Principissa ex osteoporosi carpalis tunnelis syndroma laborat. Callida interpres linguae gesticulatoriae Iaponica est.[1][2]
*辺見 庸(へんみ よう(宮城県出身)、1944年(昭和19年)[1]9月27日 - 、本名:辺見 秀逸[1])は、日本の作家、ジャーナリスト、詩人。元共同通信記者[2]。1991年、「自動起床装置」で第105回芥川賞受賞[3]。
とりわけ注目させられたのは、「もはや高踏を気どっている場合ではない。徒労感に耐えて正念場の闘いに加わろう、と私は本気で思っている。」とうい結びの一言だ。「正念場の闘い」とは、具体的にはどうすることですか?俺なんかも同じ想いだから、[政治権力」と融合してばかりのマスメディアに対抗する真のジャーナリズムとして新日刊紙創刊を構想していたのに、『週刊金曜日』創刊その他で手間どるうち、劣化ウラン弾取材で4年前イラクへ行って体調を崩し、主体的には動けぬままになっている。韓国の『ハンギョレ』に学んで日本でも新日刊紙運動はもうできないものか。(『週刊金曜日』2006年10月20日)

<追記>右の一文は辺見庸氏にお送りし、本気で思っているという「正念場の闘い」について、学ぶよりも共闘するなりを考えるべくお聞きしたが、二度送ってもお返事は一切いただけなかった。当方が野暮だったのかもしれない。あるいは隠密裏のことであれば、そのむねだけでも伝えてほしかった。

いま日本で急速に進む軍事秘密国家化 
 -西山太吉に聞く
*니시야마 다키치(일본어: 西山太吉(山口県出身), 1931년 ~ )는 일본의 저널리스트이다. 니시야마 사건으로 유명하다.
第二次世界大戦で沖縄を占領したアメリカ軍は、住民を収容所に閉じ込めている間に土地を接収するなどして基地を作った。戦時国際法でも認められない暴挙である。
沖縄は、「本土復帰」を願う運動が強まる中、1969年の佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン大統領の会談で施政権の日本返還が決まり、1971年6月に沖縄返還協定が調印された。その直後、『毎日新聞』は、米国が負担すべき土地の原状回復補償費400万ドル(当時のレートで約12億3000万円)を日本が肩代わりする密約の存在をスクープ。

*リチャード・ミルハウス・ニクソン(Richard Milhous Nixon、1913年1月9日 - 1994年4月22日)は、アメリカ合衆国の政治家。同国第37代大統領(在任: 1969年1月20日 - 1974年8月9日)。この他、ドワイト・D・アイゼンハワー政権で第36代副大統領、連邦上院議員、連邦下院議員を務めた。

*사토 에이사쿠(일본어: 佐藤榮作(山口県出身), 1901년 3월 27일 ~ 1975년 6월 3일)는 일본의 정치인으로, 제61·62·63대 내각총리대신을 지냈다. 전 수상 기시 노부스케와는 친형제 관계이며, 전임 수상 요시다 시게루와는 친인척 관계이다.
翌年3月、この問題で社会党(当時)の横路孝弘議員が衆議院予算委員会で政府を追及した。政府は密約の存在を否定。その後、外務省の女性事務官が西山氏に秘密電文のコピーを渡していたことがわかったため、東京地検は女性事務官と西山氏を国家公務員違反容疑で起訴した。起訴状に男女関係が記されたことで、当時のマスコミはスキャンダル扱いして本質的な問題は後景に追いやられた。第一審で無罪だった西山氏は高裁で有罪となり、上告して争ったが、1978年に最高裁で懲役4月、執行猶予1年の有罪判決が確定した。
西山氏は2005年4月、「密約を否定した検察官の起訴や政治高官の発言などで名誉を傷つけられた」として国に賠償などを求め提訴した。東京地裁で加藤謙一裁判長は、「損害賠償請求の20年間の除斥期間を過ぎ、請求の権利がない」と、密約の存在に触れないまま訴えを棄却した。西山氏は控訴したが、2008年2月、東京高裁はやはり密約の存在に触れないまま控訴を棄却。上告も同年9月に棄却された。以下は、控訴後の西山氏に私がインタビューしたものである。
本多 西山さんと私との対談が最初に出たのは『週刊金曜日』2000年11月24日号です。あのときは、事件後はじめてマスコミのインタビューに応じていただいた。
西山 あれがすべてのきっかけですね。
本多 約30年のあいだ封印してきた西山さんの言葉をあのとき紹介し、当時の密約が現在の日米安保体制に落とす影について考えました。今回はその延長線上にある日本あるいは日本人の問題を話したいと思っています。昨年(2007年3月27日)、東京地検判決がありました。「除斥期間」(権利の存続期間、20年)という「入り口論」で西山さんの訴えを退けた今回の地裁判決の結果をどう受けとめられたかについてまずお聞きしたい。
西山 大前提として、いま国家機密を囲んでいる環境はどういうものかを正確に補足しておく必要性がある。いま、国家安全保障会議の設立にむけて、外交安保の情報一元化、それにともなう情報漏洩の罰則強化が議論されています。そのなかでも機密漏洩を重く罰しようという動きが先行しています。国家安全保障会議に権力と情報が集中し、秘密漏洩を防止しようという動きが急速に進んでいるわけです。
本多 国家安全保障会議設置は、安部晋三政権の象徴的な政策ですね。
*Idoイド語→Shinzō Abe (Japoniana: 安倍 晋三(東京都出身・本籍山口県), n. ye la 21ma di septembro 1954) esas Japoniana politikisto, il esis chefministro di Japonia de la 26ma di decembro 2012 til la 16ma di septembro 2020. Il ante esis chefministro di la lando de 2006 til 2007.

今の日米軍事再編に続く問題だ
西山 これと並行して昨年の5月以来、日米の軍事再編が急速に進んでいる。私は「米軍再編」という言葉は遣わない。これは政府サイドから流された情報操作の言葉です。日本の自衛隊が米軍と一体化することになるのだから、「日本の軍事再編」なんです。言葉をきちっと選ばないと実態が現れてこない。国家安全保障会議と日米の軍事再編とが重なって信仰しているわけです。軍事的秘密国家化に向けて、猛烈な機密保持が進んでくる。機密保持が進むということは、裏返していえば情報操作が進むということです。機密を守る、防壁を固めるということで政府による情報操作がすごく強化される。その情報操作をあびるのはマスメディア、日本のジャーナリズムはすぐ情報操作に乗り、情報伝達の役割を果すようになっていく。はっきりいえば、マスコミは急速にすすむ軍事的秘密国家をきちんと伝えていない。そういう環境のもとにおける裁判なんだよね。
本多 ベトナムがフランスの植民地だったとき、アフリカのセネガル人が、フランスの雇用兵たるセネガル兵としてベトナムを占領していた。日米軍事関係はこれとよく似ていると思いますね。
*セネガル共和国(セネガルきょうわこく、フランス語: République du Sénégal [ʁepyblik dy seneɡal])、通称セネガルは、西アフリカ、サハラ砂漠西南端に位置する共和制をとる国家である。北東にモーリタニア、東にマリ、南東にギニア、南にギニアビサウと国境を接している。Françaisフランス語→Le Sénégal, en forme longue la république du Sénégal, est un État d'Afrique de l'Ouest.

西山 国家機密には、実質秘と形式秘の二通りある。実質秘のなかにも国民のために大事にしなくてはいけない秘密と、不当な政府権益を擁護するための違法秘密に分けられる。私が問題視された秘密は、国家機密のなかでも違法秘密。違法秘密は永遠に明らかにされない永久秘密なんです。日本が軍事的秘密国家への変質をとげようとしている中での私の裁判ですから、裁判所は政府側の立場を反映するものです。裁判所の、一下級審の裁判官が自由自在に判決をくだせる易しい問題ではない。
本多 日本では三権分立がとっくに崩壊していますからね。今回の判決は訴訟の実質的な焦点には触れぬまま、一種の門前払いでした。
西山 判決は私の予想していたものの中で最低の部類のもの。裁判では、あのときの秘密は違法秘密であり、政府側証言はすべて偽証だったと立証する証拠を何十通と提出した。証拠は米国の公文書などで、違法秘密と証明される必要にして十分のものなんです。ところが、裁判所は実質的な焦点には触れぬまま、安易にも除斥期間を過ぎているという入り口でシャットアウトした。国の犯罪を国が設けた除斥期間で救うというのは矛盾もはなはだしい。政府の権益を擁護するためには、入り口でわれわれの主張をシャットアウトするしかなかった。立ち入ると、秘密の違法性について触れざるを得なくなる。
本多 立ち入ったら国が負けると、時効論で逃げたのですね。
西山 軍事的秘密国家のなかでは裁判所はひとつの機能にすぎない。
本多 情けない日本ということですね。ところで前回の対談では次のようなやりとりがありました。
<本多「西山さんを罰したことに対して、もう一方のすごい国家犯罪も罰すべきだと・・・」
西山「そっちが甘すぎるんじゃないか。それどころかほとんど問題にされてないし、犯罪者がその後も何も糾弾されないままに現在に至っているでしょう」
本多「実に日本的ですね。日本敗戦の前と後の岸信介(A級戦犯容疑者で戦後の総理)みたいなものだ」

*Polskiポーランド語→Nobusuke Kishi (jap. 岸 信介(山口県出身) Kishi Nobusuke), urodzony jako Nobusuke Satō (ur. 13 listopada 1896 w Yamaguchi, zm. 7 sierpnia 1987) – japoński polityk, premier.
西山「そういうようなものに対してそれを見逃してしまうことが日本の一つの体質なんですよね」
西山 私を制裁することで国の組織的な犯罪を隠蔽・擁護した。私を制裁するために、きわめて人為的な情報操作をやった。当時の担当検察官は佐藤道夫・元参議院議員ですが、彼もあとで「本来なら情状面について起訴状では触れないのですが、あまりにも世間が騒いでいるので、あえて盛り込んだ」と述懐しています。あのときの密約をめぐる国家機密への社会の風当たりや潮流を変えるために、あえて人為的に唯一の訴追要因を作ってやったんだと。私を制裁することで、すべての問題は国家機密として隠蔽しようとした。この問題が放置されたまま今日に至っている。一連の政府首脳による密約否定の発言がありましたし、判決の当日も外務省報道官は「密約などいっさいございません」と発言している。

「米軍再編」費用の積算根拠はない
西山 ところが、隠蔽された問題は放置どころかなんども再登場しています。たとえば、今回の日米の軍事再編だって、グアムの移転などは沖縄返還の密約などとまったく同じ構造です。日本政府が「総経費102・7億ドル(1兆2000億円)のうち、「59%に当たる約60・9億ドルを支援」することに合意したなんていいますが、膨大な金を日本に負担させていることにはかわりがない。米国の得意とするランプサム方式(つかみ金)で、日本に102億ドルとドンとぶつけてきて、歩留まりをよくしてしまう。なんとか日本が6割なりを負担することに落ち着くんですが、米国はなんら積算根拠を示さない。
本多 具体的な根拠はまったくない。
西山 項目をズラリと書いているだけ。道路が10億ドルだとかね。なんで102億ドルかの根拠がぜんぜん示されていない。それでも102億ドルの積算根拠は日本は米国に問いたださない。米国の建設業者によれば、102億ドルなんてかかるわけないという。米国は日本の出方を見越した上で、ポンと102億ドルをふっかけたのです。沖縄返還のときの”核抜き”にしても、実際は500万ドルもかからないのに、7000万ドルとみせかける。日本側は、あとから密約と密約に基づいたウソの内訳をつくっていく。沖縄返還は、南の楽園が戻ってくるんじゃない。米国は戦略上、屈指の軍隊を沖縄に置きたかった。どこにでも行ける基地を沖縄に作りたかった。そして、いまも”自由使用”の基地が欲しくてたまらない。金銭的な負担を日本側が出してくれるというから、「返還」という形にしただけです。
いまや、米国の戦略体系は中国ではなく中東に移っている。グアムに海兵隊をおいて強化したいと考えているのは米国、日本側の「沖縄から海兵隊を移転して欲しい」という声を利用して、金まで日本に負担させる。沖縄返還のときと構図はまったく変わらない。米国の戦略に利用され、金をすいとられていく。抑止力の維持や負担の軽減も表向きだけで、何兆円ものカネを出してどこに負担の軽減があるのか。沖縄密約は沖縄返還のときの一過性的な事件・秘密じゃない。あれは起点で、今日的な問題なんです。あれから日米軍事同盟の変質がはじまって、今に到っている。
中国原潜の事故は機密ではない
西山 しかしマスコミはそういったことを報道しない。それどころかマスコミまで一体化している。中国の原子力潜水艦が南シナ海の洋上で火炎を起こしたことを『読売』が記事にした。それを、防衛省もマスコミも機密の漏洩と問題視しているけれど、あれは公海上の事件で機密でもなんでもない。ところが米国の偵察衛星で確認できた情報だと、その情報が漏れたからいけないという論理なんです。日米軍事共同体からくる完全な秘密国家になっている。
マスコミも、機密でないという前提で報じてしまう。権力サイドの誘導に乗り、情報操作の枠の中で取材をしているのです。なかには私の事件と類似させるような報道さえある。マスコミが伝達するのは国家からの情報だけという非常に危機的な状況です。本来のジャーナリズムであれば、「米国から提供された情報だから大騒ぎしているだけで、客観的にみたら秘密でもなんでもない」と問題をきちっと掌握して、日米機密国家化を極小化しなくてはいけないのに、向こうのペースに入っている。
本多 ジャーナリズムが実にダメになっていますね。突っ込んだ記事がありませんよ。その日暮らしの記事だけで。前回の対談記事では、最後に澤地久枝氏の『密約』(岩波現代新書)から西山さんの言葉を引用しています。-<国家秘密はつねに乱用され、したがって取材の枠をひろげるチャレンジをすることは新聞記者の使命と考える。・・・最近の政情をみるにつけても、沖縄返還条約の秘密を取材し、報道し得たことを誇りに思っている>
*Sawachi Hisae 澤地久枝(1930 September 3, [1] -), the Japan of non-fiction writer . Tokyo , Aoyama born(東京都出身).








×

非ログインユーザーとして返信する