日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★Agresmilito, konkermilito aŭ invada 侵略戦争★本多勝一的战争理论“侵略” /Katsuichi Honda's theory of war "Aggression" /本多勝一の戦争論「侵略」をとらえる目⑤

水俣病(みなまたびょう)とは、メチル水銀化合物(有機水銀)による中毒性中枢神経系疾患のうち、産業活動が発生源となり、同物質が環境に排出され、食物連鎖によってヒトが経口摂取して集団発生した場合に言う。

Deutschドイツ語→Die Minamata-Krankheit (Japanisch: 水俣病, Minamata-byō) ist eine chronische Vergiftung durch organische Quecksilber-Verbindungen (Quecksilbervergiftung), die erstmals Mitte der 1950er-Jahre entlang der japanischen Yatsushiro-See in der Umgebung der Stadt Minamata auftrat. Symptome sind zunächst nur Müdigkeit, Kopf- und Gliederschmerzen, später Ataxie, Lähmungen, Psychosen, in schweren Fällen Koma. Die Krankheit endet nicht selten tödlich.

ひたすら侵略戦争で大きくなった現代の帝国
人類史のなかには、悲惨な断面がたくさんあった。とりわけ異民族が接するところに悲劇は著しかった。そのなかで最も新しくかつ最も広範・大規模な悲劇は、南北アメリカ大陸におけるコロンブス以後5世紀の状況ではなかろうか。
だが本稿の目的は「アメリカ合州国(*1)」であって、アメリカ大陸のそれではない。ただ大陸の歴史も予備知識としてはあった方がよい。この場合コロンブスの側たる「侵略した側」よりも、侵略の対象とされた被害者側の視点が望ましいことをつけ加えておきたい(*2)。


크리스토퍼 콜럼버스(이탈리아어: Cristoforo Colombo 크리스토포로 콜롬보[*], 영어: Christopher Columbus 크리스터퍼 컬럼버스[*], 라틴어: Christophorus Columbus 크리스토포루스 콜룸부스[*], 스페인어: Cristóbal Colón 크리스토발 콜론[*], 포르투갈어: Cristóvão Colombo 크리스토방 콜롬부[*], 1450년 10월 31일 제노바 ~ 1506년 5월 20일 바야돌리드)는 이탈리아 제노바 출신의 탐험가이자 항해가이다.
インディアンへの大虐殺
「彼らが必要とするだけのありったけの黄金…彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ」
1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島と名づけた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており、残した人間はすべて殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上がり、周辺諸島ではアラワク族、タイノ族、ルカヤン族、カリブ族などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた。

これに対し、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。行く先々の島々で、コロンブスの軍隊は、海岸部で無差別殺戮を繰り返した。まるでスポーツのように、動物も鳥もインディアンも、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。コロンブスがイスパニョーラ島でしばらく病に臥せると、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、窃盗、殺人、強姦、放火、拷問を駆使して、インディアンたちに黄金の在処を白状させようとした。インディアンたちはゲリラ作戦でコロンブスに報復を試みたが、スペイン軍の軍事力と彼らがばらまく疫病はインディアンの想像をはるかに超えていた。最終的に彼らは最善の策は「逃亡」であると決めた。 置き去りにされた作物は腐るにまかされ、やがてインディアンたちを飢餓が襲ったのだった。
コロンブスが何か月も病に臥せっている間、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。コロンブスが快復するまでに、5万人以上のインディアンの死が報告されている。やがて完全復帰したコロンブスの最初の仕事は、彼の軍勢に対し、略奪を組織化することだった。1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。再び殺戮の船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れ、非武装だったインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった[30]。
コロンブスは、イスパニョーラ島のインディアン部族の指導者と睨んでいた一人の酋長を殺さずに、引き回しの刑と投獄のあと、鎖につないで船に乗せ、スペインへ連行しようとした。しかし他のインディアンたちと同様に、この男性は劣悪な船内環境の中、セビリアに着く前に死んでいる。


ワシントン大統領の侵略戦争
伝記作家による作り話「桜の木を伐った正直少年」で知られる初代大統領ジョージ=ワシントンは、イギリスから独立した新政府の重点政策として、合州国のすぐ西、アレゲーニー山脈西方に広がる北西領土の「開発」に力を入れた。アメリカ先住民(*3)からみれば、この種の「開発」とは常に侵略である。このオハイオ州流域の森林地帯には、マイアミ・ショーニー・モヒカン・デラエアなどの諸先住民族が、それぞれの高い精神文化と宇宙観を抱いた貴重な民族として君臨していた。どのように高い文化を持っていようと、侵略者の眼には全く「見えない」のが常である。したがって先住民は「野蛮人」とみなされ、「開発にさいしては猛獣・毒蛇と同様に排除の対象としかうつらない。

*ショーニー(Shawnee)、またはシャワノ(Shawano)とは、北米のインディアン部族である。彼らはもともとオハイオ州、ウエストバージニア州、ケンタッキー州、ペンシルベニア州およびメリーランド州西部の地域に居住していた。
*モヒカン族(Mohican、マヒカン族、Mahican)とはアメリカインディアン(ネイティブアメリカン)の一部族。
マイアミの民族のある首長(*1)の子に、そのころミチキニクゥという軍事的天才が現れた。ミチキニクゥは、それまで互いに小ぜりあいの絶えなかった周辺の諸族によびかけ、ワシントン政府の侵略に対抗すべく団結して、先住民族の強力な軍事同盟「マイアミ連合」を結成した。
*レナペ族(Lenape、レニ・レナペ族、Lenni-Lenape )あるいはデラウェア族(Delaware)は、アメリカ・インディアン(ネイティブアメリカン)の部族である。「レナペ」は彼らの言葉で「真の人間」という意味。

マイアミ民族のある首長(*1)の子に、そのころミチキニクゥという軍事的天才が現れた。ミチキニクゥは、それまで互いに小ぜりあいの絶えなかった周辺の諸族によびかけ、ワシントン政府の侵略に対抗すべく団結して、先住民族の強力な軍事同盟「マイアミ連合」を結成した。
ワシントン大統領は、この侵略計画を実行するための「知事」として、独立戦争の勇将の1人・アーサー=セント=クレア将軍を任命した。これから奪おうとしている地域、つまり侵略予定地の知事である。フォート=ワシントン(今のシンシナチ)に拠点を置いたセント=クレアは、各部族の首長らを召還して、まず「条約」によって土地を奪おうとした。ミチキニクゥなど有力な指導者らは、この侵略者の呼び出しに応じようともしなかった。するとセント=クレアは、強引に契約させた一部弱小民族の首長のサインをたてに、他の民族たちの広大な地域まで買収したことに決めてしまった。この「契約」の方法こそ、彼らがベトナム侵略やイラク侵略で、露骨かつ”紳士的”かの違いはあるにせよ、形は変わっても本質は一貫してとりつづけてきた”合法的”侵略の口実である。

*阿瑟·聖克萊(英語:Arthur St. Clair,1737年3月23日-1818年8月31日),已故蘇格蘭裔軍人,美國獨立戰爭時期大陸軍少將,第15任大陸議會議長,戰後第一任西北領地總督。
かくて、呼び出しに応じぬすべての先住民族は「討伐」の対象とされた。セント=クレアから討伐隊長に任命されたジョセフ=ハーマー将軍は、1790年の秋、何の抵抗もなくマイアミ民族の中心部落に進撃し、家や農作物に放火した。だが、ミチキニクゥの戦術には、南ベトナム(当時)や中国での解放軍を思わせるものがある。侵略軍の行動を終始偵察していた彼らは、200人ほどの一団が主力を離れて先発したとき、一挙に包囲して殲滅した。この先発隊との接触を求めて進んだ主力の先端部も、巧みに捕捉されて数十人が倒された。ハーマー将軍は色を失い、そのまま敗走した。
びっくりしたセント=クレア「知事」は、ワシントン大統領と協議した結果、こんどは自分が「討伐」隊長となった。あくる1791年秋、2000人の部隊が再び侵略を開始した。だが、またしても、ミチキニクゥは前回以上の余裕をもって敵の油断を待ち、11月4日払晩、一挙に野営地を急襲して1000人以上を死傷させた。合州国軍の決定的敗北であった。それまで「北西領土」侵略のあとへ”入植”していた白人開拓者らは、続々と東へのがれていった。要するに先住民たちの土地は侵略者から奪還されたのだ。
ワシントンは、ここで「政治的解決」をこころみる。すでに「政治的」に懐柔された他の先住民首長らを集めて演説した。「(一部の先住民らがわれわれに敵意を抱いているのは)誤解にもとづく不幸な事態である。それらの土地は、合法的な土地売買によって正当に合州国政府の所有となったのだ」
この初代大統領の論理もまた、ベトナムでの第37代大統領(ニクソン)や今のイラクでの第43代大統領(ブッシュ)に至るまで一貫してきた。そしてワシントンは、オハイオの先住民が抵抗をやめれば巨富の金品をもって報いると提案した。先住民は応じた。-「金はいらぬ。平和がほしいのだ。先祖伝来の土地と、君らの侵入前まであった平和がほしいだけだ」
これはベトナムの解放勢力の発言と酷似している。米軍が来なければ、ベトナムはとっくにフランス植民地から脱して、民族内部で統一と平和が復元していたのだから、とにかくベトナムから引き揚げなさい。何もいらないから帰るだけでいいのだ、と、今のイラクも似た状況になってきた。
「政治的解決」に失敗したワシントンは、今度は名うてのプロ=ファイターに3600人の大軍を編成させ、マイアミ連合の最大動員兵力2000に対して、手段を選ばぬ戦略をとった。すべての村落、すべての農作物を破壊して焦土とした。これまた後のベトナム等における「枯れ葉剤作戦」であり、「戦略村作戦」と共通する。こうしてオハイオ川流域は合州国に占領され、マイアミ連合は亡びた。この非道な戦略に対して、当時は国連はもちろん対抗する東側勢力もなく、発達したジャーナリズムも、世界の世論や反戦運動もなかった点が、ベトナムやイラクと違っていた。

北米大陸内から海外の侵略戦争へ

今から200年前に行われたこの侵略パターンは、その後さまざまなバリエーションを示しながら他の先住民たちにも応用されてゆく。そこには、ベトナム戦争中のソンミ事件的虐殺はもちろん、強制移住・強制収容所・破られるためにのみある「条約」等々、ベトナム戦争の小型版が充満している。抗戦のパターンにしても、セミノール民族(フロリダ)などは、まさにベトナム・ゲリラのお手本といえるほどであった。

*セミノール(Seminole)は、もともとはフロリダ州のインディアンで、現在はその州とオクラホマ州に住んでいる。セミノールは18世紀に出現し、ジョージア州、ミシシッピ州、アラバマ州、そしてフロリダ州から来たインディアンで構成され、もっとも著しく多かったのはクリーク族で、サウス・カロライナ州とジョージア州の奴隷制度から逃亡してきたアフリカ系アメリカ人と同じくらい多かった(→『ブラック・セミノール』を参照)。およそ3,000人のセミノールが、オクラホマ州のセミノール居住区を含むミシシッピ川以西に強制移住させられたが、彼らは独自に新しいメンバーを引き入れた。大体、300から500のセミノール達は、フロリダ州のエバーグレーズとその周辺に留まって戦った。フロリダ州のセミノールに対する一連の戦争では、約1,500人の米国の兵士が戦死した。しかし、正式な平和条約は彼らと結ばれることはなく、彼らはアメリカ政府との闘争を諦めなかった[1]。このため、フロリダ州のセミノールたちは、「征服されなかった人々」と自称する。

重要なことは、それらに大統領が常に深くかかわってきた点だ。決して末端の「例外的な不幸な事件」(ソンミ虐殺へのニクソンの発言)などではなく、大統領による常道による常道の積極的な政策であった。ニクソンに至って、世界はようやくヒトラーとこの大統領を比べるようになったが、先住民からみれば、きわめて少数の例外を除くと、合州国大統領は終始ヒトラーの連続であった。

*Tiếng Việtベトナム語→ソンミ村虐殺事件Thảm sát Mỹ Lai hay thảm sát Sơn Mỹ là một tội ác chiến tranh của Lục quân Hoa Kỳ[4][5] gây ra trong thời gian Chiến tranh Việt Nam. Trong tiếng Anh, vụ thảm sát này có tên My Lai Massacre, Son My Massacre hoặc Pinkville, trong đó Pinkville là tên địa danh của quân đội Hoa Kỳ đặt cho khu vực Mỹ Lai[6].
1890年の末、米軍第7連隊はスー民族の婦女子を含む一団に襲いかかり、300人を虐殺した。有名なウンデッド・ニーの虐殺である。その死体を溝に放り込む作業の写真が残されている。南ベトナムで解放戦線の死体の山を壕に重ねて放り込む米軍と、あまりに似ているのに驚かされる。この虐殺によって、合州国内の先住民に対する侵略・組織的虐殺は終了した。明治23(1890)年、たいへん「最近」のことであった。
国境というものは、さまざまな意味で愚劣な現象の象徴だが、合州国の侵略の過程をみるときも、合州国の「内部」と「外部」は分けて考えるべきではない(その意味では、日本が北海道のアイヌ侵略につづいて朝鮮侵略に移っているのもこのアナロジーであろう)。ウンデッド・ニーの虐殺より四十余年前のアメリカ=メキシコ戦争(1846-48年)は、あの合州国による北ベトナム挑発・でっち上げのトンキン湾事件や、太平洋戦争における日本軍の真珠湾攻撃(後述)とか、第一次イラク戦争(いわゆる湾岸戦争)におけるイラク軍のクエート侵攻(後述)などと同じ方法で開始された。トンキン湾事件演出のジョンソン大統領に当るのが、第11代ボーク大統領である。この戦争の過程は、すべて完全に、メキシコが合州国内の先住民と同じ対象とされている。そして1897年には、ハワイの先住民(カナカ人)が人口の減少をへた上で、合州国マッキンリー大統領(第25代)により併合条約を結ばされる。
*Latinaラテン語→アメリカ=メキシコ戦争Bellum inter Mexicum et Civitates Foederatas (Hispanica: Guerra Estados Unidos-México; Anglica: Mexican-American War) fuit bellum inter Civitates Foederatas Americae et Mexicum ab anno 1846 usque ad annum 1848. Belli causa fuit contributio Civitatibus Foederatis Texiae, quam Mexicum putabat in eis finibus esse quamquam Texia rebellaverat feliciter anno 1836.
*Беларускаяベラルーシ語→トンキン湾事件Інцыдэнт у Танкінскім заліве або Танкінскі інцыдэнт — канфлікт паміж флотам ЗША і паўночнав’етнамскімі тарпеднымі катэрамі ў Танкінскім заліве, які паклаў пачатак маштабным баявым дзеянням амерыканскай арміі у В’етнаме.

*カナカ族 (Kanakas) とは、ミクロネシア、マーシャル諸島、パラオ等の島々の住民を一般的に呼ぶ俗称。 広義には、太平洋諸島の住民一般をさした。 ポリネシア語で「人」あるいは「男」を意味する「タガタ」(tangata)が音韻変化によりカナカとなった。

*ハワイ併合(ハワイへいごう)または米布併合(べいふへいごう、英語: United States Annexation of Hawaii)は、1898年にアメリカ合衆国によって行われたハワイ共和国(布哇共和国、現在のアメリカ合衆国ハワイ州)の併合である。夏威夷王国的覆灭,指的是美國發動政變導致夏威夷王国的覆灭,最終把夏威夷併入美國。
ここでいま、合州国のこうしたベトナムやイラクまでの侵略ステップをくわしく追う余裕はない。しかし、ひとつには南ベトナムのソンミ虐殺をめぐる状況と酷似していること、もうひとつには、アメリカ=メキシコ戦争などほどに一般に周知ではないことから、フィリピンで何が行なわれたかを落とすわけにはいかない。

フィリピンでの虐殺
第二次大戦で日本が敗退するチャンスを、フランス植民地からのベトナム独立の好機とみることは、ベトナム人にとっては当然だった。同様に1898年のいわゆる米西戦争(これもメキシコに対するのと似たようなひどい侵略だが)でスペインが敗退するチャンスを、フィリピン独立の好機とみたことは、フィリピン人にとっても当然である。ところが、日本敗退のあとフランス(のちに合州国)が再占領にやってきたベトナムと全く同様、スペイン敗退のあと合州国がかわってフィリピンを占領した。そして、フランス占領軍に対してベトナム独立同盟(ベトミン)軍がゲリラ抗戦を始めたのと、またしても「全く」同様に、合州国占領軍に対してエミリオ=アギナルドをリーダーとするフィリピン独立勢力はゲリラ抗戦を開始した。
*Esperantoエスペラント語→米西戦争La Hispana-usona milito (25-an de aprilo - 12-an de aŭgusto 1898) prezentis armean konflikton inter Usono kaj Hispanio.

*エミリオ・アギナルド・イ・ファミイ(Emilio Aguinaldo y Famy,1869年3月22日 - 1964年2月6日)は、フィリピンの革命家。フィリピン第一共和国の初代大統領。
さらに「またしても」と書かなければならない。合州国の文献によれば、1899年2月4日の対ゲリラ開戦も、合州国による「トンキン湾」方式のでっち上げらしいのだ。合州国の侵略戦争は、捏造による開戦がほとんど「常に」セットとなっている。そして南ベトナムの米軍総司令官だったウエストモーランド将軍が「勝利はすぐだ。クリスマス前・・・」と言ってから、むしろ解放勢力の抗戦は一層激しくかつ長くなったように、フィリピンのE=S=オーテイス将軍は、「2,3週間以内に鎮圧する」と確約してから、以後12ヶ月というもの「あと2,3週間」を繰り返すハメになった。そしてこれは現在のイラク情況、つまりブッシュが2003年3月に開戦して5月に終結宣言したあと、解放勢力による抗戦がますます激しくなっている情況とも酷似しているではないか。イラクはもはや対米「テロ」などではなく、侵略に対する抗米救国パルチザンのゲリラ戦なのだ。
*ウィリアム・チャイルズ・ウェストモーランド(William Childs Westmoreland, 1914年3月26日 – 2005年7月18日)は、アメリカ合衆国陸軍の軍人。ベトナム戦争でアメリカ軍の指揮を執り、1968年から1972年までアメリカ陸軍参謀総長を務めた。最終階級は大将。
オーティス将軍のあとを継いだフィリピン方面軍最高司令官が、アーサー・マッカーサー将軍である。私たち日本人にとって忘れることのできぬ偽善者ダグラス=マッカーサー元帥の父親だ(ダグラス=マッカーサーの日本は、アーサー・マッカーサーのフィリピンとウエストモーランドのベトナムの中間に位置していることが、軍政史的にもこれでよくわかる)。その”初代”マッカーサーが、1900年に宣言した公然たる虐殺命令は次のとおりである。
「正規軍の一部として常時作戦に参加するのでなしに、ときどき家庭や仕事にもどりながら敵対行動をつづける連中は、兵士とは認めない。捕虜になっても戦時の特典などを考える必要はない」
*アーサー・マッカーサー・ジュニア(Arthur MacArthur, Jr.、1845年6月2日 - 1912年9月5日)は、アメリカ陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
人類への巨大な犯罪を命令するとき、その最高責任者は常に遠回しの「上品」な表現をしてきた。部下がそれを手ぎわよく解釈し、真意を忠実に実行する。要するにこれは無差別虐殺の奨励なのだ。当時の米国のマッキンリー大統領はフィリピンに「慈悲深い同化政策」をかかげていた。ニクソン大統領がベトナムに対してそうだったように。
初代のマッカーサーの露骨な報道管制(2代目マッカーサーも、日本で米兵の悪行について報道統制したが)にもかかわらず、フィリピンの米軍記者は米軍の残虐行為を報道しはじめた。とはいうものの、報道姿勢はそれを非難するのではなく、逆に正当化するものだった。たとえば「フィラデルフィア=レジャ」紙の一面に出たルポには、こんな情景がある。
ー「米軍部隊は無情で容赦なかった。男女を問わず、囚人・捕虜はもちろん、明らかな反乱分子であれ容疑者であれ、10歳以上なら片端から殺しつくした」「手をあげておとなしく降伏してきた捕虜たちは、暴徒であることを示す一片の証拠もないまま、1時間後には橋の上に立たされ、次々と虐殺されて川面を流されていった。弾丸で蜂の巣にされた死体を、川下にいるであろう連中への見せしめにするためだ」「これは文明人相手の戦争ではない。相手は、力・暴虐・残忍しか通じない連中なのだ。われわれはだから、通じる手段で実行しているのである」
フィリピンの対ゲリラ戦に投入された将軍には、ベテランのアメリカ先住民殺し(インディアン=ファイター)が多い。あのウンデット=ニーの虐殺からわずか10年しかたっていないことを併記しよう。合州国内の侵略戦争とフィリピンのそれとは、このように時間的にも直結している。したがってそれらに従事した指揮官が同一人物であり、そうであれば同じセンスで虐殺を恒常的にやっていたであろうことは、当然すぎる推測だ。たとえばルソン島南部での指揮官だったジェイムス=F=ベル准将は、そうした歴戦のインディアン=ファイターの1人として、よくフィリピン人をコマンチ民族やアパッチ民族と比べて面白がった。-「インディアン1人をつかまえるのに兵隊100人を要したもんだが、ここの連中は生まれつきワルなもんだから一層やりにくい。それに積極的なワルと、消極的なワルとがまるっきり区別できんときてる」
*コマンチェ族(コマンチ族とも言う、Comanche)は、歴史的にコマンチェリアと呼ばれる範囲に住んでいたインディアン部族である。その範囲は、現在のニューメキシコ州東部、コロラド州南部、カンザス州南部、オクラホマ州全域、テキサス州の北部と南部の大部分にわたる。かつては2万人ほどのコマンチェがいたが、現在のコマンチェ・ネーションはおよそ1万人で構成されており、その半分はロートンを中心にオクラホマ州に住んでいる。残りの人口はテキサス州、カリフォルニア州、ニューメキシコ州に集中している。
*アパッチ(Apache)は、6つの文化的に関連のあるアメリカ・インディアン部族の総称。いずれも南アサバスカ語系の言語を話す。現代の用語では、類縁にあるナバホ族は含まない。「アパッチ」という名は、ズニ族の言葉で「アパチェ=敵」を意味し、それを聞いたフランス人によって広まった。彼ら自身は「インデ」、「ニデェ」または「ティン・ネアー (Tin-ne-ah, ティンネとも)」(ディネ=人間という意味)と自称する。
のちに(1901年7月)マッカーサーの地位を代行したアナド=シャフィー少将は、中国で義和団蜂起を侵略軍として弾圧したあとマニラに来た男だが、これもインディアン=ファイターとしてフィリピンで語る。-「ここの連中と個人的に接して、彼らのやり方や考え方を知れば、残虐な戦術を必要とせざるを得んさ。もしフィリピン人がひどいめにあわされていることを諸君がきいても、そんなものに感傷は無用だ」
*Esperantoエスペラント語→Oni komprenas sub la esprimo Boksiata ribelo (jihotuana ribelo) (tradicie: 義和團起義, simpligite: 义和团起义, pinjine: yìhétuán qǐyì) la ribelon de ĉina sekreta societo, nomata "Pugno por justo kaj interkonsento" (ĉine I-ho t´uan). La esprimo boksiato venas el la angla „boxer”, kiu mem aludas pri la ombrobokso de la societanoj sur publikaj lokoj.
かくてベル准将は「2年間にルソン島の6分の1が殺されるか、またはデング熱で死んだ」と公言する。デング熱は戦争による飢餓の結果とみられているため、要するにこの米軍侵略で、ベルの公言(1901年5月)までの2年間だけでも61万6000人が殺されたことになる。
この年の暮れ、レイテ湾の北のサマル島南部にあるパランギガ周辺で、南ベトナムと全く同じ方式の組織的虐殺が行われた。まずジェイコブ=スミス准将指揮下の第9歩兵師団のC中隊が、ここでゲリラに潰滅させられる。これまたインディアン=ファイターだったスミス准将は、このとき一時的に彼の指揮下にあった海兵隊旅団長L=ヲーラー少佐に命ずる。-「捕虜はいらん。全部殺し、焼きつくせ。殺せば殺すほど、焼けば焼くほどわたしは満足だ。武器を持ち得る奴は1人残らず殺すんだ」
「何歳が限度ですか」とヲーラーがきくと、スミス准将は「10歳だ」と答えた。これは「平定」であると同時にC中隊のための復讐ー住民に対する無差別復讐でもあった。いまイラクのファルージャで4人の元米軍兵士(警備会社員)が殺された復讐として、女性や子どもを含む700人以上が米軍に殺されている。米軍(そして米国)の本質は100年以上前(むしろワシントン以来)と変わりはしない。
ベトナム式の「自由砲撃地帯」(free fire zone)を設定すべく、ヲーラーは全住民に海岸への移動を命じた。2日後、内陸にあるすべての村の組織的破壊と皆殺しが開始された。家はもちろん、市場に出すための食料や麻など一切は焼きつくされ、家畜のすべては殺され、船の類いも手当たり次第沈められた。米軍の軍服なり装備なりの一片でも見つかった村は、それがC中隊の遺品とみなされ、女・子どもを含む全住民が皆殺しにされた。
真珠湾も朝鮮も
こうして合州国の植民地にされたフィリピンは、その41年後(1941年末)に「大東亜戦争」開戦の日本軍によって”解放”されることになる。日本軍のタテマエは、欧米の侵略に対するアジア解放であった。これはある意味では半分正しいとも言えよう。つまり太平洋戦争は、実態は侵略国同士のケンカ(*5)だが、開戦初期に限れば、植民地解放になっていたのも事実だからである。
だが、フィリピンでは日本兵による暴虐が大問題になり、二代目マッカーサー率いる反撃がフィリピン人に歓迎されることになってゆく。しかし奇妙ではないか。ほんの四十余年前に初代マッカーサーのもとフィリピンで行われた合州国侵略軍による大虐殺は、日本軍のそれなど足もとにも及ばぬ大規模なものだったはずだ。いや、だから日本軍が正しいというのではない。アメリカ史に対する認識を問いたいのである。


その意味で、最近の情報公開によって明らかになった「真珠湾攻撃」の実態も、このさい日本人の常識を変更すべき重大なテーマのひとつたらざるをえない。要するに真珠湾もまた、当時のルーズベルト大統領による「陰謀」だったことが明らかになってきたのだ。
情報公開法を楯にして、歴史家のロバート=B=スティネットは4年前(2000年)の著書「Day of Deceit-The Truth about FDR and Pearl Harbor」(by Robert B Stinnet=のちに日本語版『真珠湾の真実ールーズベルト欺瞞の日々』妹尾作太郎ほか訳)で、真珠湾の「やらせ」の内幕を明らかにした。それを引用している松原久子氏の著書『言挙げよ日本』(プレジデント社・2000年)は、真珠湾攻撃の丸1年以上も前の戦略を次のように紹介している。
「日独伊三国同盟締結の翌月、すなわち1940年10月、海軍情報局極東部長アーサー・H・マルコム海軍少佐はルーズヴェルト大統領最高顧問2人に対し、まったく新しい外交戦略を展開した。それはいかにして日本をアメリカ領土攻撃に踏み切らせるかを八項目に分けて記したもので、その後ルーズヴェルトの賛成を得て実行されている。(中略)その八項目とは、
1、太平洋のイギリス軍基地、特にシンガポールを使用するげくイギリスと話し合う。2、オランダ軍基地の使用も同じ。3、蔣介石の中国政府に出来る限りの支援を行なう。4、フィリピンかシンガポールへ長距離巡洋艦隊を送る。5、潜水艦隊をも送る。6、合衆国艦隊の主力をハワイ近辺に集中させる。7、オランダが日本の要求、特に石油買付けの要求を断固として拒否するよう働きかける。8、日本との安全な通商禁止(特に石油)およびイギリスも日本との完全な通商禁止を行なうこと。

*Day of Deceit: The Truth About FDR and Pearl Harbor is a book by Robert Stinnett. It alleges that Franklin Roosevelt and his administration deliberately provoked and allowed the Japanese attack on Pearl Harbor to bring the United States into World War II. Stinnett argues that the attacking fleet was detected by radio and intelligence intercepts, but the information was deliberately withheld from Admiral Husband E. Kimmel, the commander of the Pacific Fleet at that time.

*Robert B. Stinnett (March 31, 1924 – November 6, 2018) was an American sailor, photographer and author. He earned ten battle stars and a Presidential Unit Citation. He was the author of Day of Deceit, regarding alleged U.S. government advance knowledge of the Japanese Attack on Pearl Harbor, plunging the United States into World War II.
これら八項目は1941年を通じて次々と実行に移されている。要するに日本軍閥を怒らせ、我慢ならぬという機運を高め、アメリカ領土を攻撃するようにもっていく戦略であり、それもフィリピンやグアムのアメリカ海軍基地を攻撃するくらいではアメリカ国民を自衛のための戦争に引っ張り出すことは困難であるとみて、ハワイに合衆国艦隊の主力を常駐させている。
その際、3千人近くの米海軍乗組員が日本軍の攻撃の犠牲になることは計算に入っており、ホワイトハウスは真珠湾攻撃前2週間の日本軍の動きを刻一刻知りながら、ハワイ艦隊長官には情報を与えていない。全く寝耳に水の攻撃でなければ世論を駆り立てることは出来ないからだ。(中略)
しかし日本軍閥の内部を熟知し、日本人の思惟方法に慣れたマルコム海軍情報局極東部長の予想通り、日本はもがき焦り、ついにアメリカの仕掛けた深い大きな罠に落ちたのである。
つまり、単に「事前に知っていた」程度のものではなく、積極的に日本を挑発して攻撃を「させた」のである。これこそアメリカ的なものの’伝統’なのだ。
さらに大きな問題は、真珠湾「以後」のやりかたであろう。真珠湾攻撃は、あくまで軍事目標である。しかし東京大空襲をはじめとする日本の都市爆撃は、最初から住民への無差別爆撃だった。きわめつけは広島・長崎への原爆だが、これほど大規模で非道な無差別大虐殺は、人類史上でも稀有なばかりか、原爆ができる前年、ドイツ降伏前から日本に落とすことにしている。このことは進藤榮一氏の『分断された領土』(岩波現代文庫)に書かれているが、その背景には人種差別があることも、トルーマン大統領自身の言葉から同書で明らかにされている。

原爆から数年後(1950年)、朝鮮半島で行なわれた大戦争によって、米軍を主力とする連合軍は、直接間接に500万人近い朝鮮人を殺す。ここで米軍がどんなひどい住民虐殺をやったかは、米軍占領下の日本は報道管制のため一切知らされなかったが、たとえば北朝鮮に残されている記録映画が克明に伝えている(*6)。しかし朝鮮戦争は、ワシントン大統領以来百数十年にわたって延々とつづけてきた侵略戦争が、ここで初めて頓挫した点で重要な意味を持つ。もはやマイアミ連合と違って、背後から共に戦った中国が強大になっていた。朝鮮戦争は、合州国にとって初めて「勝てなかった」インディアン戦争である。


なぜインディアン戦争か。米軍はフィリピンで現地人を「グーグー」と呼び、人間とは見なさなかった。同様に太平洋戦争での日本人、朝鮮戦争での朝鮮人は「グーグー」とか「グーグー」(*7)と呼び、人間とは見なしていない。人間でないのだから、そんなものは昆虫やナメクジを虐殺しても平気なのと同様に、「グーグー」に対しても平気である。アメリカ先住民に対するセンスは、百数十年間変わらぬままアジア人に適用されつづけてきた。その延長線上に、ベトナム戦争が始まる。朝鮮での終戦(1953年)後10年とたたぬうちに、第35代ケネディ大統領による特殊部隊のベトナム介入である。ワシントン初代大統領にくらべて、すべては何百倍も大規模になった。無数に行なわれた虐殺例については、もはや紹介するまでもない。だが、ベトナム戦争は合州国にとって、「勝てない」どころかついに「敗退した」インディアン戦争となった。ミチキニクヮの霊が微笑しているであろう。

そしてイラクへ
以上のように見てくると、ワシントン以来の合州国の歴史二百余年間は、戦争につぐ戦争、しかもそのほとんどが侵略戦争だったことがわかる。それは建国当時から切れ目なくつづき、戦争の全くない時期は次の戦争までのほんの短期間だけにすぎない。その期間さえ戦争準備としての軍備は常に増強し、軍需産業が消えることはないので、ついに戦争なしには経済が成り立たない構造になってしまった。
ベトナム戦争の終結が1975年。合州国内は反戦運動や黒人運動などが高揚したものの、合州国の領土そのものが反撃されたわけでは全くない。軍備は蓄積される。新兵器も作られる。「ベトナム以後」を見ていただきたい。
この場合、米軍が直接派遣されるとは限らない。生産された兵器類を使うことができれば同じこと。自国の人間が戦死しなければ反戦運動も起きにくいのでむしろ好都合だ。そのいい例がイラン・イラク戦争である。1980年から8年間つづいたこの戦争で、アメリカはイラクに武器援助した。ところがそのイラクを、ブッシュ父子大統領は1991年から攻撃することになる。

しかもその理由たる1990年のイラク軍クエート侵攻は、のちにアメリカによる陰謀や捏造証言があったことが明らかになってきた。これはラムゼー=クラーク元司法長官の詳細な報告『ラムゼー・クラークの湾岸戦争=いま戦争はこうして作られる』(中平信也訳・地湧社)一書を見るだけでも驚かされるが、本など読まない人々がその捏造ぶりを知るにはテレビ報道の例が好機だ。クエートに侵入した(といっても、これも当時のブッシュ政権が事前了解していた!)イラク兵が乳児を保育器から出して次々と放り投げた様子、それを証言するクエートの少女が繰り返し放映されたが、この少女は駐米クエート大使の娘で、証言は捏造だったことが10年ほど後に明らかになった。問題は、だからといって歴史の歯車が元に戻らぬことだ。侵略はこうして続けられている。

*ナイラ証言(ナイラしょうげん、Nayirah testimony) (angle: nurse Nayirah)Esperantoエスペラント語→Flegistino Najira estas la nomo, sub kiu la 10-an de oktobro 1990 15-jarulino atestis antaŭ la usona kongreso. Oni rifuzis konatigi ŝian identecon sub la preteksto protekti ŝian familion.・・・「証言」は裏付けの取れたものと国際的に認識されていたが、クウェート解放以後マスコミが同国内に入り取材が許された結果虚偽の「証言」であった事が発覚したPS:(この「ナイラ」なる女性(実際はクウェートになぞ、いもしなかったActually she was not in Kuwait)がボランティア活動をしていたという病院の看護師女性の証言Testimony of a female nurse at the hospital that Naira was doing volunteer work)「イラク兵たちは乳児のいる病棟には入ってこなかったIraqi soldiers did not enter wards with infants」(NHKスペシャル『誰が世界を守るのかー国連の試練』9?年)。また、1992年に「ナイラ」なる女性は苗字がアッ=サバーハ(al-Ṣabaḥ、アラビア語:الصباح)であり、当時クウェート駐米大使であったサウード・アン=ナーセル・アッ=サバーハの娘だった事実が明らかになった。


Уильям Рэмси Кларк ウィリアム・ラムゼイ・クラーク(англ. William Ramsey Clark; род. 18 декабря 1927, Даллас) — американский государственный деятель, юрист и правозащитник. Министр юстиции США (генеральный прокурор) в 1967—1969 годах при президенте Линдоне Джонсоне.
その他、アメリカ合州国による軍事介入はもうここに書ききれないので、たとえばジアウッディン=サーダー・メリル=デービス共著『反米の理由』(浜田徹訳・ネコ=パブリッシング社)に出ている付録資料の表「米国による軍事介入の歴史」を参照されたい。介入は1975年以後2001年の9・11事件までに限っても三十余件に達し、舞台は東南アジア・中洋(中東)・アフリカ・中南米などが多い。
そうしたなかで最もひどい介入は、それも国連を無視した一方的侵略が、いま進行中のイラク戦争である。これについては改めて述べるまでもあるまい。アメリカン人の良識派は、むろんこの二百余年間(私の友人も含めて)存在し続けた。だがそれは今日に至るも、あくまで非主流である。
イラク戦争はしかし、アメリカという「黄昏の帝国」(進藤榮一『アメリカ 黄昏の帝国』=岩波新書から)の側面もまた強く見せはじめた。これが今後曲折をへながらも没落してゆくか、それともベトナム戦争後のように新しい対象をさがして介入するか、ともかくこの帝国’は人類にとってまだ当分は「迷惑」であり続けるだろう。
最後に、ジャーナリストとしてどうしても触れておきたいのは、マスコミとしてのメディア、とりわけテレビと大新聞の役割である。アメリカ帝国のそれが、無力どころか結局は政権への協力者だったことは前述のラムゼー=クラーク報告が書いているが、日本のマスコミもそうだったし、いま進行中のイラク戦争でもそれは変わらない。国連を無視したブッシュ政権の明白な一方的侵略に、はっきり「侵略」という単語を使っているテレビも日刊紙もないところに象徴されている。使っている日刊紙は政党機関紙とはいえ『赤旗』だけとは、情けないではないか。そして日本は、公然たる憲法違反の自衛隊派遣に至ったが、マスコミの批判は実に弱く、それが国民の意識にも反映して悪循環に陥る。これではただの「マスコミ」(情報産業)であって、ジャーナリズムではない。
*1 アメリカを「合国」としたのは、The United States of Americaを直訳したため。ただし、「合衆国」を誤りと主張するわけではない。理由は本多勝一著作集第12巻『アメリカ合州国』収録の「あとがき」参照。
*2 たとえば朝日文庫版の拙著『マゼランが来た』の太田昌国氏による解説参照。その他太田氏の編集書は皆この視点による。
*3 「アメリカ=インディアン」という呼称は、本来のアメリカ大陸先住民族への俗称なのでなるべく使わない。
*4 「酋長」という言葉は偏見で汚れているので使わない。
*5 太平洋戦争を「侵略者同士のケンカ」とする分析については拙著『大東亜戦争と50年戦争』(朝日新聞社)収録の「太平洋戦争は「侵略」か「解放」か「ケンカ」か」参照。
*6 たとえば松本昌次『朝鮮の旅』(すずさわ書店・1975年)。金煕一『アメリカ朝鮮侵略史』(在日本朝鮮人科学者協会歴史部会訳・雄山閣・1972年)など。
*7 「グーグー」(guguまたはgoo goo)は主としてフィリピン人(とくに先住民)に対して使われ、「グーグー」(gook)はいわゆる「黄色人種」全般(朝鮮人・ベトナム人・日本人など)に対して使われる。どちらも軽蔑の意味が強くこめられていて、「グーグー」は「グーグー」と語源的に関連していると考えられるが「Webster's」(3rd)辞書によれば、語源はわからないとされている。
(おことわり)本稿執筆にあたり、猿谷要、藤永茂、斉藤達雄各氏らの御協力を得た。主な参考文献は藤永茂『アメリカ・インディアン悲史』(朝日新聞社)・アルスタイン『アメリカ帝国の興隆』(高橋章ほか訳・ミネルヴァ書房)・清水知久『アメリカ・インディアン』(中央評論社)・進藤榮一『分割された領土』(岩波現代文庫)・松原久子『言挙げよ日本』(プレジデント社)・中平信也訳『ラムゼー・クラークの湾岸戦争』(地湧社)・D.R. . Stinnett "Mylai was first Time" (The New Republic April 24. 1971)・Stuart C. Miller "Our Mylai of 1990 America in the Philippine insurrection"(Transaction No.11 vol.7)


サイゴン陥落から30年ぶりに・・・
2005年4月29日の夜、ベトナム航空の便は定期より少し遅れてサイゴンの空港に着陸した。出迎えたベトナム政府の通訳・フジワラ・リョウスケ氏が、他の便で到着するらしい招聘客を待つなどして1時間ちかくすごしたので、都心のパレスホテルに着いたのは午前1時ごろだった。
ベトナム戦争中にくらべると、街が清潔な上に整然としているのは当然として、民衆の活気は深夜でも相変らずのようにみえる。明30日の式典は午前7時から始まるので、国際代表団のためのバスが6時15分に迎えに来るという。「式典」とは、サイゴン陥落30周年、ベトナム独立戦争(抗仏・抗米)開始からすれば60周年の祝賀行事を指す。
1945年8月の日本敗戦と同時に、フランスはベトナムを再び植民地として占領すべく遠征軍を送りこんだ。ホーチミン率いるベトナム独立勢力との戦争は、1954年のディエンビエンフー決戦でフランス軍の決定的敗北をもって終ったが、アメリカが介入することによって独立は完成せず、南北分断から長期ゲリラ戦に移った。やがて米軍は五十数万の大軍を送りこむとともに北爆で北ベトナムの諸都市を廃墟としていったが、ベトナム人民軍・解放民族戦線の徹底抗戦は、人類史上最強となったアメリカ軍をついに敗北せしめる(*1)。ワシントン初代大統領時代に開始された西進、そのアメリカ先住民族に対する100年間の侵略戦争は、ウンデッド=ニーの無差別大虐殺をもって終るものの、さらに西進してつづく太平洋(ハワイ・グアム・フィリピン等)を越えての一連の侵略の歴史は、約200年後のベトナムで初めて米軍が敗れたのである。

五十余万の大軍を、世界中が注目する中で、ベトナム人民軍ははっきりと眼前で破り、追い出した。世界近現代史で、一小国が侵略軍をこれほど劇的に完敗せしめた目ざましい例は、ほとんどなかったと言えるかもしれない。
その瞬間としてのサイゴン陥落は1975年4月30日、すなわち今年(2005年)のその日は陥落から30周年にあたる。独立戦争開始からすれば60周年でもあるので、ベトナム全土解放・独立完成も祝って、サイゴン(ホーチミン市)で盛大なる祝賀行事が挙行された。これに国賓として招かれた個人は、日本からは井川一久・石川文洋・古田元夫・横井久美子の4氏と私の5人であった。
*Kazuhisa Ikawa井川一久 (Kazuhisa Igawa(愛媛県出身, 1934 -) là một nhà báo Nhật Bản . Cựu phóng viên Asahi Shimbun .
*Ishikawa Bun'yō (石川 文洋 (沖縄県出身Thạch Xuyên Văn Dương)? sinh ngày 10 tháng 3 năm 1938) là một nhiếp ảnh gia người Nhật.[1]
*Motoo Furuta 古田元夫(Motoo Furuta(東京都出身 , ngày 4 tháng 10 năm 1949- ) là một nhà sử học Nhật Bản , một nhà nghiên cứu lịch sử đương đại Việt Nam , đồng thời là giáo sư danh dự và giáo sư thỉnh giảng tại Đại học Tokyo .
*Kumiko Yokoi 横井久美子(Kumiko Yokoi(愛知県出身, 1944 - 2021 14 tháng 1 ) là một ca sĩ dân gian Nhật Bản là một, ca sĩ kiêm nhạc sĩ .

祝賀行事への出席だけであれば、式典の類は退屈で嫌いだから出る気はあまりしないのだが、ベトナム報道はやはりわがジャーナリスト生涯で決定的な曲り角になったことが第一の理由、このさい38年前に生死を共にしたメコンデルタの解放区の現在も見たかったことが第二の理由で、この招聘を受けることにした。
祝賀会場にされた独立宮殿の公園は約5万人の市民や招聘客に埋められた。出席した政府要人の中で、ベトナム共産党書記長や国家主席など現役の要人には私はなじみがないが、94歳になるボー・グエン・ザップ元国防相が大きな拍手で迎えられたときは胸にせまるものがあった。
*Võ Nguyên Giáp (natus die 25 Augusti 1911, mortuus Hanoi die 4 Octobris 2013) fuit primus minister et praeses Vietnamiae.
国歌演奏につづいて主席や書記長の長い演説などがあり、集会の最後は軍楽隊の演奏する『自由ベトナム行進曲』で締めくくられた。この曲もまた、解放区のゲリラたちの携帯ラジオでよく聞いていた忘れられぬ曲だ。集会後のパレードは、人民軍兵士や民兵隊・少数民族隊のあと、医療からスーパーマーケットまでの幅広い隊列によるさまざまな出し物が延々とくりひろげられた。井川氏によると、昨夜の前夜祭のほうがもっと感動的だったらしい。「朝日新聞。サイゴン支局にいた井川氏は、1975年のサイゴン陥落時に市内に残っていた新聞記者の1人である。
夕食会の席には私たちのテーブルにサイゴンの日本総領事が加わって雑談したが、ベトナムとベトナム戦争についてあまりに無知なのに驚かされた。無知を恥じて謙虚ならまだしも、その自覚もなく威張っているのだ。職業的モラルのない日本人の外交官(全部ではないが)について、いずれ書きたい衝動にかられる。
翌日、38年前に潜入していたメコンデルタの旧ゲリラ拠点へ向かった。(この項つづく)
*1 ベトナム戦争における抗米救国戦の諸局面についての本多の現場ルポは、『本多勝一集』(朝日新聞社出版局)の第10巻『戦場の村』・第11巻『北爆の下』・第13巻『ベトナムの戦後を行く』の三冊にすべて収録されている。
*2 サイゴンは公的には戦後「ホーチミン市」と改称されたが、市民の間では日常的に「サイゴン」が使われている(PS:私のモントリオール時代の元同僚たち(旧南ベトナム出身)も同じでしたSo did my ex-colleagues in Montreal (from former South Vietnam)。
(『週刊金曜日』2005年5月13日)

38年前のゲリラ拠点へ感傷旅行
(承前)5月1‘日。午前中は、ベトナム戦争中の解放戦線拠点の中でサイゴンに一番近いクチのそれを見に行く。サイゴンから北西へ約50キロ。米軍機による爆撃の音が、当時サイゴンに住んでいた私の下宿まで、ときには地響きともなって聞こえた。次第に大規模になる爆撃に対応して、解放戦線の地下壕もより深く、より長くと”進化”する。そのトンネルは、1948年にはじまって1972年までの20余年間に全長約200キロに及んだ。
*Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam 南ベトナム解放民族戦線(một số tài liệu phương Tây gọi là Việt Cộng) là một tổ chức liên minh chính trị, dân tộc chủ nghĩa cánh tả, hoạt động chống lại sự can thiệp của Hoa Kỳ và các đồng minh (Việt Nam Cộng hòa, Úc, Hàn Quốc...) trong thời kỳ Chiến tranh Việt Nam. Đây là tổ chức được thành lập theo đường lối của Đảng Lao động Việt Nam tại Đại hội III với phương châm liên minh những người miền Nam có mục tiêu đấu tranh chống Mỹ và chính phủ Việt Nam Cộng hòa, thực hiện đấu tranh giành độc lập dân tộc, thống nhất đất nước Việt Nam. Năm 1969, mặt trận này và Liên minh các Lực lượng Dân tộc, Dân chủ và Hòa bình Việt Nam thành lập chính phủ Cộng hòa Miền Nam Việt Nam tại Nam Việt Nam. Mặt trận nhận được sự viện trợ và giúp đỡ của Việt Nam Dân chủ Cộng hòa và chịu sự lãnh đạo linh hoạt của Đảng Lao động Việt Nam. 
今はこれが観光ルートのひとつになっている。記者団のバスが行ったときも日本人旅行者たちがいて、そこから郷里・伊那谷の生活語(いわゆる方言)がきこえてきたのには驚かされた。38年前のあの頃には想像もできぬ現在である。わが命を賭けたベトナム戦争も、こうして遠い過去へとかすんでゆくのであろう。

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