日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★Agresmilito, konkermilito aŭ invada 侵略戦争★本多勝一的战争理论“侵略” /Katsuichi Honda's theory of war "Aggression" /本多勝一の戦争論「侵略」をとらえる目①


Katsuichi Honda's theory of war "Aggression" Author Katsuichi Honda (Author)本多勝一的战争理论“侵略” 作者 本多勝一(作者)Teorio de milito "Agreso" de Katsuichi Honda Aŭtoro Katsuichi Honda
戦争は止められるか? 日本の中国侵略の象徴のような南京大虐殺と、アメリカ合州国によるイラク侵略に関する論考、および2009年の日本ジャーナリズム会議での講演を収録。
Can the war be stopped? Includes the Nanjing Massacre, a symbol of Japan's invasion of China, a discussion of the US invasion of Iraq, and a lecture at the 2009 Japan Journalism Conference. 
战争可以停止吗?包括南京大屠杀,象征日本入侵中国的讨论,关于美国入侵伊拉克的讨论以及在2009年日本新闻会议上的演讲。

Ĉu la milito povas esti ĉesigita? Inkludas la Nankinan Masakron, simbolon de la japana invado al Ĉinio, diskuton pri la usona invado al Irako, kaj prelegon en la Japana Journalurnalisma Konferenco en 2009.


A war of aggression侵略戦争, sometimes also war of conquest, is a military conflict waged without the justification of self-defense, usually for territorial gain and subjugation.
侵略战争是一场缺乏自卫理由的军事冲突。根据习惯国际法,发动侵略战争是一项犯罪。国际法学者们普遍认为纳粹德國在第二次世界大战中寻求所谓“生存空间”的军事行动具有侵略战争的特点。日本亦曾自稱大日本帝國發動侵略戰爭。
Agresmilito, konkermilito aŭ invada 侵略戦争milito estas milito por konkeri aŭ akiri pli ol por mem-defendo ĉefe teritorion aŭ submetadon. La esprimo estas distinge moderna kaj diametre mala al la antaŭa leĝa internacia standardo "povo estas rajti", laŭ la mezepokaj kaj prahistoriaj kredoj pri konkerrajto. Ekde la Korea Milito de la 1950-aj jaroj, militagado kia agresmilito povas esti la bazo de militkrimoj laŭ la internacia kutimjuro.[1]

はじめに
実例はいくらでもありますが、私が直接関係した場合を挙げてみます。
一昨年(2008年)の夏、東京大空襲・戦災センターから、ベトナム戦争での枯葉剤被害を伝える記念碑建設への賛同人を依頼されました。ベトナムのカマウ岬にその計画をすすめる主旨には大いに賛成ですからお引き受けしましたが、その主旨説明から引用すればー
戦争の被害の悲惨さは・・・」「戦争被害者全ての人に・・・」「戦争は悲惨であると言うことを・・・」(戦争という単語の太文字化は本多。以下同)
この場合の戦争は、戦争をしかけた側もしかけられた側も区別されていません。ということは、両者が悪い意味で“対等”の関係に記述されていることになります。中世や近代以前(?)の戦争にはそういう例もあるのでしょうが、近代・現代では少ないと思われます。表面的には“対等”の関係にみえても、実質は侵略した側とされる側があるのが一般的です。
たとえば日中戦争の場合、日本が中国を侵略した側、すなわち戦争をしかけた側であって、決して“対等”な関係ではありませんでした。となると中国にとっては「戦争被害」ではなく「侵略被害」のはずでしょう。「戦争は悲惨で・・・」ではなく「侵略は悲惨で・・・」でしょう。先程の記念碑建設計画自体からも引用すればー「20世紀の戦争の悲惨さ・・・」「戦争とは昔のことではなく・・・」「戦争とは他人のことではなく・・・」「戦争とは外国のことではなく・・・」
これらもすべて侵略に置きかえるべき場合かと思われます。侵略に対する抵抗があった結果としての戦争です。もし中国が無抵抗で植民地化されてしまえば戦争にはなりません。ですから侵略された側からすれば“対等”などと表現し難いことになります。
最も新しい例としてのベトナム戦争とか、まだ進行中のイラクやアフガニスタン戦争の場合も同じです。これらにアメリカ合州国軍隊が最初に侵入したときの動機はいずれも捏造だったこと、これはもう白日のもとに報道されたとおりです(なお「合州国」という表記については135ページの*1を参照)。
しかも侵入のやりくちは、私は機会あるごとに強調しているのですが、合州国初代大統領ワシントン以来現在まで二百数十年つづく「方法」であって、動機が捏造であるのみならず、内容の残酷・悲惨さは文字どおり筆舌につくせません。私の場合は現地取材や歴史上の舞台調査でルポを書いてきましたが、日本のマスメディアが政党機関紙を例外として、新聞も放送も侵略という単語を使わないのは何故でしょうか。
実はパリに本部のある「国境なき記者団」が2006年に発表した世界報道自由ランキングで、日本はなんと51位というていらくでした。そこには、日本のマスコミが、侵略戦争を具体的に報じ、侵略者を告発できていない現実も表れていると思います。
*国境なき記者団(こっきょうなききしゃだん、フランス語: Reporters Sans Frontières [RSF]、英語: Reporters Without Borders [RWB])は、言論の自由(または報道の自由)の擁護を目的としたジャーナリストによる非政府組織である。1985年、フランスの元ラジオ局記者ロベール・メナールによって、パリで設立された。
*Reporters sans frontières (RSF) est une organisation non gouvernementale internationale fondée en 1985, reconnue d'utilité publique en France et présente en 2020 dans 14 pays. Elle se donne pour objectif la défense de la liberté de la presse et la protection des sources des journalistes. L'association reçoit en 2005 le prix Sakharov du Parlement européen. En 2020, elle traverse une crise liée à sa proximité avec le gouvernement français, dont les projets de lois sont considérés par beaucoup de journalistes comme des entraves à la liberté d'informer.

ワシントンが初代大統領に就任以来、アメリカ政府は先住民族(俗称インディアン)を約100年間にわたって虐殺しながら西進し、太平洋に達するとそのまま西進をつづけてハワイやグアム・フィリピンで虐殺しつつ侵略をつづけ、第二次大戦(太平洋戦争)では日本占領後の報道管制下で朝鮮戦争をへてベトナム戦争、そして現在のイラク戦争やアフガニスタン戦争を行なってきました。国連を無視してイラクに侵攻したときの口実「大量破壊兵器」は、ついに今日まで無いままです。ベトナムはもちろんイラクにしろアフガニスタンにしろ、合州国本国に攻めこんだことなど全くありません。
これが侵略でなくて何でしょうか。
このような前提で日本の太平洋戦争を見るとき、ベトナム戦争や南京大虐殺などの取材で私が学んだことの重要なひとつは、広島・長崎という「原爆による無差別爆撃」を他の無差別虐殺から特に切り離して論ずる視点への疑問です。この思考方向は、原爆以外の同次元の無差別大虐殺に対して「原爆よりはマシ」という免罪符世論を誘導する役割をはたすことにもなりまかねません。
しかし「戦略爆撃」という名の大量無差別殺戮法の本質は、原爆であれ火薬爆弾であれサリン毒ガスであれ、殺された側にとっては何の違いもありません。殺された人にとって、たとえばローマ時代にライオンに食い殺されるのと現代の放射線で”文明的に”殺されるのと、どちらがマシなどと比較する意味などありますまい。
ベトナム戦争中に私は、日本への無差別爆撃に使われたB29四発爆撃機よりもはるかに「進歩」した米軍のB52八発爆撃機によるハノイ市中心部大空襲直後の現場を見たし、戦闘爆撃機やガンシップ(武装ヘリ)や砲艦や大砲からの無差別銃砲爆撃による大量の犠牲者たちも取材しました。
米軍(そしてアメリカ合州国)のこうしたやり方は、実は東京大空襲をはじめとする無差別爆撃の延長上にあったのですね。それは大阪・名古屋・広島・長崎とつづき、朝鮮戦争を経てベトナムのヴィンやハイフォン・ハノイ大空襲にいたる、すべてが米軍(合州国)によるアジア無差別爆撃である点は共通しています。ベトナムへの「北爆」がいかに残虐かつ猛烈なものだったかは、実態を見た者でなければ容易に想像できないでしょう(拙著『北爆の下』=朝日新聞社『本多勝一集』第11巻)。B29時代よりも”大発展”した飛行機や火薬や爆弾によるジュウタン爆撃、それでもベトナムの都市で殺された市民の数が東京や広島などほどでなかったのは、単にベトナムの徹底した疎開政策や地下道対象が功を奏した結果にすぎますまい。
ベトナムで侵略を塞き止められ、最後には1975年にサイゴンからほうほうの態で退散した米軍でしたが、イラク侵略は早くもその16年後の「湾岸戦争」(1991年)を好機として始まり、空爆はそのまま続けつつ本格的地上侵略は12年後の2003年3月に開始されます。このときの口実として使われたイラクの「大量破壊兵器」すなわち核兵器は、結局なかった、ウソだったことが判明したわけですが、だからといって米軍は引きあげることなどせず、そのままイラクに居すわったのち、その後のアフガニスタン侵略へと移って現在に到ります。
実は核兵器は米軍こそがイラク以来使っているんですね。劣化ウラン弾とよばれている放射能兵器、私はイラク取材以来「劣化」をつけずにルポでは「ウラン弾」と書いていますが(理由は拙著『非常事態のイラクを行く』=朝日新聞社・2002年参照)、この放射能兵器による被害者の惨状もさることながら、改めて認識しなおしたのはワシントン以来の「アメリカ合州国史」でした。
本書の構成は、まず日本の中国侵略の象徴のような南京大虐殺の諸論考があり、つづいて右のような合州国によるイラク侵略関連を収録しました。さらには現代ロシアによる日本の千島列島侵略や現代中国によるチベット侵略関連を収録したかったのですが、頁数が多くなりすぎたのでこれは別の単行本を考えることにして除きました。
「侵略」という側面ーいやこれは側面というような一面的形容で言うべきではない大問題ですがーからみるとき、人類の将来は楽観したくてもできないような気分になりがちですが、希望的観測の意味も込めて最後にロマン=ロランを置きました。    2010年10月20日(数えどしなら80歳の秋) 著者

Katsuichi Honda (本多 勝一, Honda Katsuichi, born January 28, 1932) is a Japanese journalist and author most famous for his writing on the Nanjing Massacre.  "Chūgoku no Tabi" (中国の旅, "Travels in China").

『中国の旅』をなぜ書いたか
日本の戦争の真実を求めて
―『中国の旅』(朝日新聞社・1972年)の取材に入る経緯についてお聞かせください。
本多:『戦場の村』の取材で、1966年の年末にまず南ベトナムに言って10ヶ月ほど滞在しました。米軍の最前線まで従軍して悲惨な現実を目撃したあと、これと戦う解放戦線の側にも従軍した中で、それでは日本軍はどうだったのだろうと思いついたのです。また一方では、当のアメリカ兵の故国の実態についても取材したいと考えました。アメリカについては1969年、中国は1971年の取材です。文化大革命の時期は各紙の中国支局が閉鎖され、その中で『朝日』だけは支局の存続が認められていましたが、新たに自由に入国するのは不可能でした。しかし私は、ジャーナリストは取材のためには手段を選んでいられないと思っています。いろいろな可能性を探し、文革当時の中国に特別な接点のある人物の協力を得て道が開かれました。
緻密な取材を追求する
-中国での取材はどのようなものでしたか。
本多:1971年6月、香港から北京に入り、それから40日間かけて、満州事変からの時間的順序に近い形で各地を取材しました。当初、現地に行くと、体験者たちが何人も集まっている。しかし一人の話について、こちらから徹底的に質問したので、一人のインタビューだけで半日から一日つぶれてしまう。他の人たちは徹底的に質問したので、1人のインタビューだけで半日か1日つぶれてしまう。他の人たちはその間ポカンとして待っているだけなので、以後は一度に集る方法はやめてもらいました。取材する立場としては、とにかく具体的に当時の情景が絵のように浮び上がるよう徹底的にお話を引き出すことに専念しました。
証言者によってはかなりいい加減な人もいます。見えるはずがないものが見えたり、証言の根拠を問いただすと答えられなかったり、そのような証言者は除外するしかなかった。優秀な通訳の存在に助けられてのことですが、こちらは単なる口承を言うことではなく、体験を確実に記録するのが目的でしたから、とにかく緻密な聞きとりをすることで偽物を排除していくしかない。それを徹底的に追求しました。
ー「中国の旅」というタイトルには、どのような狙いが込められていたのでしょうか。
本多:「私の取材の目的は、戦争中の中国における日本軍の行動が中国側の視点から明らかにすることでした。日本側の視点は溢れていますからね。それは侵略された側としての中国人の「軍国主義日本」像を具体的に知ることでもあります。それは侵略された側としての中国人の「軍国主義日本」像を具体的に知ることでもあります。そのような位置づけで、日本軍による残虐行為のあった現場を直接訪ね歩くのが眼目でしたから、日本側の資料や反証の紹介は直接の目的ではありません。『中国の旅』というタイトルになるのは自然なことだったと思います。
ーすさまじい話を連日きかされて、精神状態はどうだったでしょうか。中国の民衆から本多さんが糾弾されたことはなかったですか。
本多:たしかに聞くのもつらい話ばかりでした。でも、そこで泣いていたら仕事にならないので、ひたすら冷静に記録し続けた。真剣な態度で受けとめたことから、かれらも心底から協力してくれたと思います。しかし「南京大虐殺」の取材では一度だけ、蘇州に近い梅漁村でのことですが、「日本人が今頃何の用事があるんだ」と、激怒した老人が私につかみかからんばかりの勢いでつめよったけど、周囲がとりなしてくれた。自分の父親が「東洋鬼」(日本軍)に殺された人だったんです(同書第5章『蘇州つひに陥落』参照)。
*日本鬼子是華人對日本人的蔑稱之一,源自針對西洋侵略者的「洋鬼子」此一蔑稱,在甲午战争後,鬼子亦被用在日本侵略者上。抗战結束后,「日本鬼子」演变成為華人地區經常用以形容日本人的蔑稱。「日本鬼子」有時简称「鬼子」,比如电影《鬼子来了》和歌曲《大刀向鬼子们的头上砍去》中的「鬼子」,就是指向來自日本的侵略者。“小鬼子”一词一般也特指日本人,因当年侵华日军士兵身材普遍较中国人和西洋人矮小。[1]“日本鬼子”這個詞語後來用於日本導演松井稔於2001年拍攝的電影《日本鬼子:日中15年战争·原皇军士兵的告白》。

*르번구이쯔(중국어: 日本鬼子, 병음: rìběn guǐzi)는 중화권 국가에서 일본인을 비하의 의미로 부르는 중국어 욕이다.

加害の記録を残す意義
ー当時はベトナム戦争の時代で、国内での米軍基地から発進したアメリカの爆撃機がベトナムに爆弾を投下する時に、私たちが沈黙を守ることは戦争に加担することだという問題意識が高まった時期でした。本多さんの『中国の旅』は、そうした時代意識の中で戦争中の日本の加害事実を明らかにした。同時に、『潮』など他のメディアも日本軍兵士の話などをしばしば特集し、市民運動としてはべ平連の運動が影響を持った。こうした中で、日本で自らの加害責任を問うという発想が初めて定着したのではないかと思いますが。
*Beheiren (ベ平連, short for ベトナムに平和を!市民連合, Betonamu ni Heiwa o! Shimin Rengo, "The Citizen's League for Peace in Vietnam") was a Japanese activist group that existed from 1965 to 1974. As a coalition of a few hundred anti-war groups it protested Japanese assistance to the United States during the Vietnam War.
*Beheiren (ベ平連, viết tắt của ベトナムに平和を!市民連合 "Betonamu ni Heiwa o Shimin Rengo" — Liên hiệp Thị dân vì Hòa bình ở Việt Nam) là một nhóm hoạt động Nhật Bản tồn tại từ năm 1965 đến 1974. Với tư cách là một liên minh gồm vài trăm nhóm phản chiến đã phản đối chính phủ Nhật trợ giúp nước Mỹ trong chiến tranh Việt Nam.
本多:『中国の旅』の取材を思い立った動機は前述のようにベトナム戦争ですが、さらに検討していくと、第一に、日中国交回復を問題にするとき、中国を侵略した日本の過去について不問にしてはならないという思いがあった。また、ジャーナリズムは日本の侵略の過去を正面から取り上げていなかった。そのため戦争中の中国人の被害について、日本人は抽象的にしか認識していませんでした。三番目には、日本人にとって広島・長崎・東京大空襲等々の被害の記録を残すことはもちろん大事ですが、それと同時に加害の記録を残すことももっと大事ではないかと考えていました。

ー『朝日新聞』紙面に掲載された当時の反響はいかがでしたか。
本多:『中国の旅』は1971年8月から12月にかけての紙面、そして『朝日ジャーナル』や『週刊朝日』『アサヒグラフ』にも掲載されました。読者からダンボール箱に二杯も手紙をいただきましたが、九割以上が「よくやってくれた」「感動した」という内容でした。「こんなことを今なぜやるんだ」という疑問の声が数パーセントあったかどうかという感じで、「あの証言は嘘だ」はほとんどゼロでした。
ただ一方では、文藝春秋の『諸君!』等の場で、イザヤ=ベンダサンこと山本七平氏や鈴木明氏を始めとする攻撃、それは南京事件の「まぼろし化工作」とも言うべきものですが、それも継続的に続きました。これらへの反論という意味も込めて、私はさらに継続的に中国での取材を続けました。
ー日中国交回復後の中国取材では、変化がありましたか。
本多:国交回復後から中国側の反応が変わりました。「南京事件についてはもういい」という反応を大使館ルートで感じたのです。日本との友好関係ができたから、ことさら侵略をとりあげなくてもという反応、これは取材申請しても返事がなく、裏から事情を探るとそういう感触が伝わって来るというレベルの話です。ところが、ある時点で中国側の対応が変わって取材のOKが出ました。1982年の教科書問題が起きた後です。その状況の中で、中国が政治的に判断をしていることがわかりましたね。

*日本歷史教科書爭議是指圍繞日本國內歷史教科書而衍生的爭議,主要爭論圍繞書中的近代史等課題,也涉及日本文部科學省教科書檢定與採納等議題。日本歷史教科書問題不止引起日本國內關注。週邊国家例如中華民國、中華人民共和國、俄罗斯、朝鲜和韩国及其他東亞地區及東南亞國家,還有當時因為殖民地而在亞洲參戰的英國、荷蘭、法國、美國等西方國家均有關注,尤其關切日本的歷史教科書如何記載和評價日本在第二次世界大戰期間的行為。

*Japanese history textbook controversies involve controversial content in one of the government-approved history textbooks used in the secondary education (junior high schools and high schools) of Japan. The controversies primarily concern the Japanese nationalist efforts to whitewash the actions of the Empire of Japan during World War II.[1][2]
正確な歴史認識こそ求められている
ー中国側が日本の戦争責任問題を外交カードとして使っている。
本多:そういう側面はあると思いますね。日本が政府として一切の責任をとらなかったのだから、当然といえば当然ですが。ただ、南京大虐殺の犠牲者の数について『中国の旅』の執筆時点では日本側の研究は進んでいませんでしたが、現在の研究の到達点では30万人という中国側の数字はやや多すぎるというのが日本の良識派の専門家達の認識ですね。もちろん「まぼろし」派の無茶な少数など論外ですが。
日本では、現代史研究者の実証的な蓄積があります。「まぼろし」論は全く相手にされません。他方、被害者の数を過大にみなしたり、アイリス・チャン氏の著作のように事実関係が不正確では、歴史認識として定着していきません。


*Айрис Чан (англ. Iris Chang, кит. упр. 张纯如, пиньинь Zhāng Chúnrú, палл. Чжан Чуньжу, 28 марта 1968, Принстон — 9 ноября 2004, Лос-Гатос, Калифорния2004年に自家用車内で拳銃自殺した) — американская писательница, историк, журналист китайского происхождения.

ー戦後責任の問題では、ドイツにも取材に行かれていますね。

本多:はい。ワイツゼッカーの訳者として著名な永井清彦氏は『朝日』の札幌支局以来の同僚ですが、彼が言うには、戦後責任の果たし方として「100点満点でドイツは50点、日本は3点」。これはおもしろい表現ですが、ドイツだって満足できる水準では全然ないけれど、日本とはまったく水準が違う。
ードイツは努力しなければ、欧州で生き残ることもできなかった。
本多:全くその通りでしょう。国際的な関係性においても、私がかねてから思っているのは、日本の戦争は中国をはじめアジア諸国に対しては間違いなく侵略戦争だが、アメリカに対しては所詮、侵略者同士のケンカだということ。そしてアメリカの侵略性はワシントン初代大統領以来今日のイラクまで継続しているというのが私の結論です。こう言うと、右翼と同じ議論だと誤解されてはいけないのですが、内容は全く違う。彼らはアジアへの侵略を認めたがらないでしょ。敢えて言えば、私こそホンモノの右翼で、彼らは亡国の道を歩む偽右翼(笑)。正確な歴史認識を持った上で、アジア諸国ともアメリカともアメリカ諸国ともアメリカとも等しく向きあっていくべきだと思いますね。[聞き手・田中宏・内海愛子・大沼保昭・『世界』編集部](『世界』2003年9月号)
南京大虐殺の舞台を取材した側からの報告
キリスト暦(西暦)2000年は数字上のキレメがいいためか、仏教が主流の日本でもさまざまな記念行事があった。そのひとつと言っていいのかどうか。1937年の暮れにあった南京大虐殺についても「『ノーモア南京』2000年東京集会」が実行委員会によって開催され、日本軍による被害の証言者が招かれた。当時まだ12,3歳の少女だった強姦被害者である。その証言のあと、南京大虐殺に関する日本の情況なども含め、南京の取材者として私が以下のように報告した。
ご紹介いただいた本多です。時間があまりないので、取り急ぎお話しいたします。今証言された、強姦の被害を受けた楊明貞さんは私と同じ年、つまり69歳なのです。お聞きしていて、全く言葉もありませんでした。強姦について、しかもそれを自分の被害体験として話すというのは大変なことです。どんなに屈辱的か想像を絶するほどです。
日本軍による戦争犯罪の残虐性と計画性
ここに来ていらっしゃる方たちは、私より若い世代が多いのじゃないかと思いますが、今日のような話を現実の問題として肌で感じるのは難しいのではないでしょうか。とりわけ30代以下の方たちには、私の場合は旧制の中学2年のときに敗戦になりました。1945年です。我々のほんの2、3年上の上級生の中には、幼年学校とか、予科練や士官学校など軍関係に行った生徒が非常に多かったのです。我々の中学でも「軍事教練」といって将校が直接来て教練をやりました。そういうわけで、軍隊の影響が中学にも及んできて、上級生というのは大変怖かったものです。軍隊の士官と同じで暴力的でした。”総殴り”なんてことをやるのです。(私たちを)並べておいて、全部ぶん殴る。殴っておいて、後で「なんで殴ったかわかったか」などと無茶を言う。合法的・構造的いじめです。下へ下へ、弱者へ弱者へといじめていきます。そういう連中が大陸へ行ったら何をするか、これはすぐに見当がつきます。私の田舎は信州ですが、子どものころに、父のところへ寄った元兵隊たちが、炬燵にあたりながら土産話をしたものです。それはものすごかった。二頭の馬の間に(捕えた中国人を)つないで、馬をひっぱたいて股割きにするとか、そういうことをお茶のみ話の体験談として話していました。中国人捕虜を対象に日本刀の試し切りなんていう話もよくしていた。あのころ日本刀をもっていた例はだいぶ多かったのですが、実戦に役立ちはしませんから、それらのほとんどは試し切りをやっていたと思います。
南京事件というのは確かに大量の虐殺があって、象徴的になっています。ただ、ひとつ強調しておきたいのは、もっとすごい、本当に組織的な虐殺は別にありました。南京事件は組織的ではないと思うのです。初めから、大虐殺をやろうと計画してやったというものではない。南京は日本軍の本質的矛盾が出てきた結果であって、本当に組織的にやったのは、三光政策、三光作戦とも言われていますが、これが一番すごいと思います。ただ三光作戦の場合は、何万人という都市に対していっぺんにやったわけではありません。ゲリラがいる村とかゲリラの通過を許した村とかを、大抵はゲリラに対する報復としてやったのです。多くて1000人単位、少ないと何百人単位という村を包囲しておいて、子どもから何から全部殺した。こういったことをあちこちでやりました。私の『中国の旅』(朝日新聞社、1972年)の終わりの方に出て来る虐殺は、あの場合は千何百人ですが、殺された人の氏名が全部出ています。殺された固有名詞がはっきりわかるのです。そういうことをあっちこっちでやりましたが、これはすごいことです。南京大虐殺と三光作戦のどちらがすごいかと比較するのもおかしいことですが、組織的虐殺という意味ではこちらの方が重大だということを、強調しておきたいのです。
*The Three Alls Policy (Chinese: 三光政策; pinyin: Sānguāng Zhèngcè, Japanese: 三光作戦 Sankō Sakusen) was a Japanese scorched earth policy adopted in China during World War II, the three "alls" being "kill all, burn all, loot all"[1] (Japanese: 殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす, Hepburn: koroshi tsukushi-yaki tsukushi-ubai tsukusu, Chinese: 殺光、燒光、搶光). This policy was designed as retaliation against the Chinese for the Communist-led Hundred Regiments Offensive in December 1940.[2] Contemporary Japanese documents referred to the policy as "The Burn to Ash Strategy" (燼滅作戦, Jinmetsu Sakusen).[citation needed]The Chinese expression "Three Alls" was first popularized in Japan in 1957 when former Japanese soldiers released from the Fushun War Criminals Management Centre wrote a book called The Three Alls: Japanese Confessions of War Crimes in China (Japanese: 三光、日本人の中国における戦争犯罪の告白, Sankō, Nihonjin no Chūgoku ni okeru sensō hanzai no kokuhaku) (new edition: Kanki Haruo, 1979) in which Japanese veterans confessed to war crimes committed under the leadership of General Yasuji Okamura. The publishers were forced to stop the publication of the book after they had received death threats from Japanese militarists and ultranationalists.[3]

否定論のいかさま性とファシズム
私の前に語られた大谷先生の話にもありましたように、売国的国粋主義者たちがますます闊歩しています。先生のことを「国賊的だ」などと言っていますね。しかし私は、そう言う人たちは本当の右翼ではないと思います。実は私は本当の右翼は自分だと思っていますので、「どっちが国賊なんだ」、と言いたい。こういうことをやっていますと、日本は世界で孤立していきます。今後の地球はますます国際化が進むと思いますが、彼らはそれと正反対のことをやっています。彼らは明らかに日本にとって不利な方向へ引っ張っている。だから私は「どっちが国賊なんだ。お前たちは右翼だなんてとても言えないぞ」といっているのです。
*大谷 猛夫(おおたに たけお(東京都出身)、1946年- )は、日本の地理教育者、社会運動家。Takeo Otani (Takeo Otani, 1946 -) is, Geography of Japan educator, social activist.
南京事件の否定論にもいろいろあるのですが、一方には全否定派、「あれは全部ウソだ」という一派があります。それから、いくつか段階を経て部分的否定論派になっていくのです。たとえば石原慎太郎という矮小なファシストがいますが、この人は初めは全否定でした。ところが「全否定はとても無理だ」ということがわかってきて、途中から部分否定に変化しております。密かに、だまって変化したのですが、それでも「犠牲者の数は2万~3万」なんて言っています。「2万~3万なら文句はいわない」というのです。この後でお話しされる小野賢二さんが非常に精密な調査をした例があるのですが、揚子江岸のある一か所だけでも捕虜を2万人前後は皆殺しにしています。これは日本側の記録ではっきりしています。それでもかれらは全部で、”2万~3万人”なんて言っているわけです。しかも、そんなことを公言しても日本では犯罪にならない。しかしドイツであれば、こんなことをやったら刑事犯になります。


↑ドイツ(実際はカナダ人)記者German (actually Canadian) reporter、終(敗)戦記念日(8月15日)の靖国神社においてAt Yasukuni Shrine on the anniversary of the end of the war (August 15)(まずカメラに向かって、マイクでごちゃごちゃしゃべってるFirst, he looked at the camera and asked (「日本のために命を捧げてくれた英霊Heroic spirits who gave their lives for Japan」云々etc)田母神俊雄氏に質問をしたToshio Tamogami, who was jerking off on the mic「ドイツだったら、あなたは逮捕されますよIn Germany you will be arrested」+むろんすべて「日本語」(中英字幕つき)で話しているOf course, he is all speaking in "Japanese" (with Chinese and English subtitles))右翼に遭遇し、猛烈な攻撃をうけるhe encountered the right wing and received a ferocious attack(憤激した大人数に追いかけられ、最後は「警官」に捕まったHe was chased by an enraged mob and finally caught by the "cops")。
それから、部分否定派は数の問題をひたすら強調します。殺された人の数はそんなに多くはない」と、限りなく少なく見積もる。たとえば、捕虜を大量に虐殺していますが、「捕虜の虐殺は虐殺ではないのだ」と言い出すなど、そういう(ごまかしの)作業をやるわけです。
私たちは「南京事件調査研究会」という組織を、学者・ジャーナリスト・法律家たちで作っています。否定派のいうことを取り上げるときりがないのですが、我々の中の7人が書いた本があります。『南京大虐殺否定論 13のウソ』という表題で、去年(1999年)の暮れに柏書房から出ました。これで彼らの”いかさまぶり”が簡単にわかるようになっていますから、関心がある方は是非ご覧ください。
私もこの中の一つの章を担当して、いわゆる”百人斬り”事件を解説しております。”百人斬り”というのは、ご存じの方も多いと思いますが、2人の日本人将校が南京に行く途中で殺人競争をしました。どっちが先に100人になるかを競争した、という記事が『東京日日新聞』(『毎日新聞』の前身)に出たのです。この2人の将校は死刑になりました。そんなことをやった兵士がたくさんいたのに、彼らだけが死刑になったのは気の毒だと思います。しかし、この”百人斬り”というのは、何も白兵戦で中国兵と乱戦して100人斬ったのでは全然ありません。そのことは2人のうちのNという将校が、日本に帰ってきて自分で講演している中で言っているのです。戦闘中ではなくて、「実は捕虜を並べて斬ったのだ」と。それなら100人を斬ることも不可能ではないでしょう。”百人斬り”とはそういういい加減なものでした。要するに、事実と論理では彼ら否定派はとっくに完全に沈没しています。
それではなぜ、偽右翼たちがこういうデタラメをいろいろ言っているのでしょうか。彼らが得意技としているのは、ドイツのヒトラー政権の手法と同じです。すなわち、ゲッベルスが「嘘も千回言えば本当になる」と言ったように、これを正に実行していることになる。今の状況は第一次大戦後のナチの台頭と似ている点も多いんですね。あの頃は、政治は腐敗し、経済は沈滞し、外国人の排斥も強く起きました。それから財界を攻撃しました。ナチスは正確に言うと「国家社会主義ドイツ労働者党」ですから、財界を攻撃したりすると庶民は非常に喜んだのです。いまの日本も、政治がデタラメ、経済も落ち目、慎太郎が銀行から税金を取ると庶民は喜びますが、そういう情況はナチがやっていた頃と共通するところもあります。

こういう社会風潮に便乗して、でたらめが、つまり「嘘も千回」というやつが出回るという状況です。一般の人は精密に南京虐殺を取材しているわけではありませんから、大きな声とか数多く出されるものに巻き込まれてしまいます。『プライド』などという映画では、東条英機役に「南京虐殺は嘘だ」などとまで言わせる。この映画は岩手県のビール会社の金持ち社長が援助し作らせたのです。電車の中の吊り広告や書店に並ぶ本などでも、反動企業に援助される否定派の連中はこういうことをやり放題です。正確な事実を検証する力のない一般の人は「騙され放題」ということになりますね。

南京事件の定義と犠牲者数の問題
ただし、一方では中国側にも問題がないわけでもありません。みすみす揚げ足を取られるのが明らかなのに訂正しません。たとえば南京で殺された人の数、虐殺数が30万人と言っていますが、その根拠がなかなか示されていません。私たちの研究会では、大体数万から20万人が実際に近い数とみられています。かといって、「30万人が全くのでたらめか」というと、これはまたなんとも言えないところがあります。ただ、根拠があまり示されていない。しかし否定派が「あのころ南京の人口が20万人しかいなかったから、30万人も殺せるか」とよく主張していますが、この点はいま言った『南京大虐殺否定論 13のウソ』の中で完全に論破されています。
それから犠牲者数の点でむずかしいひとつに、南京事件の定義の仕方もあります。「南京事件というが、どこまでが南京なんだ」ということです。まず地理的な意味で言いまして、一番狭く捉えると、「南京城」という周りを壁に囲まれた地域がありますが、これだけではもちろん狭すぎます。南京城の周囲に南京市はここからここまでという行政上の境はありますが、「虐殺事件はどこで起きたのか」というとこれには境がありません。範囲を決めるのは非常に難しいのです。
取材を振り返って私が見るところ、まずはっきりしている事実は、初めに上海事変という戦争があり、その後11月5日に第10軍が杭州湾に上陸し、それ以後上海と杭州湾の二方面から南京攻略に向かう途上でどんどん殺したということです。捕まえた捕虜を片端から殺していました。たとえば小林秀雄のような右翼評論家も従軍して、彼も事実を見ています。その報告で「捕まえた捕虜たちが次ぎの朝には死体になって浮いていた」というようなことを書いている。そういった虐殺も全部入れますと、これはかなりの数字になるかもしれません。
*小林秀雄(1902年4月11日-1983年3月1日),日本作家與文藝評論家。Kobayashi Hideo (japanisch 小林 秀雄(東京都出身; * 11. April 1902; † 1. März 1983) war ein japanischer Literaturkritiker und Schriftsteller.
もうひとつ、時間的な(範囲の)問題があります。始まりは今言った杭州湾上陸だとして、その後も切れ目なしに虐殺をやっていました。南京に実際に入城したのは12月13日で、その後はもちろん組織的な大量虐殺が行われました。1月になってもかなりの集団虐殺がありました。私の聞きとり取材による「南京大虐殺」というルポの中でそのへんのところを書いていますが、結局2月ぐらいまでは大量にまとめて殺す”作業”が続きました。そこで「大体3ヶ月から4ヶ月近い期間にわたって、広大な地域で行われた虐殺」というふうに表現しますと、全体の数字を捉えるのは非常に難しいのです。したがって、先ほど「犠牲者30万人の根拠がない」と言いましたが、かといって完全にでたらめとは言えないかもしれません。さっき言ったように、今のところ私たちの研究会では「十数万から20万前後だろう」というふうに考えております。
こういう点になるとドイツの例は非常に参考になると思います。ドイツではさらに大量な殺人をあちこちでやりましたが、一番象徴的になっているのは有名なアウシュビッツの虐殺です。皆さんもご存じかもしれませんが、アウシュビッツの虐殺は最初400万人と言われてきました。しかし、学者などで「400万人というのは多すぎる」と見ていた人はかなり前からいたのです。ただしそれを公には言わなかった。声が小さかったのです。しかし1992年、今から8年前になって正確な数字が出てきました。つまり良心的な研究者らの正確な類推によりますと、「100万人から150万人の間だろう」と言われています。だから、あまり大げさなことを言っても説得力がないわけで、ちゃんとした事実を基に(虐殺数の推定を)すればいいのです。だから私は、この30万人についても中国側はドイツに学んで欲しいと思っています。

もうひとつ、いま偽右翼たちが非常に活気づいていますが、そのひとつの動機あるいはチャンスになった例に、アメリカで出たアイリス=チャンという人の本があります。この人は中国系アメリカ人の女性ですが、『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』(ペンギン=ブックス、1997年)という南京大虐殺を核とする本を出しました。アメリカでベストセラーになったのですが、これは偏見とひどい間違いだらけの本です。私の本も引用されていまして、「南京の犠牲者は30万人」なんて書いたことはないのに、私がそう書いたと、この本の中で書かれています(方々においての「講演」でも同じことを言っていましたShe said the same thing in her "lectures" at various places.さらに加えれば、出張治療をしていたころ(特にカナダ白人)多くの患者さん宅にある本棚でみかけましたIn addition, I saw it on the bookshelves in many patients' homes (especially Caucasian Canadians) when I was traveling for treatment)。

*《南京暴行:被遗忘的大屠杀》(英語:The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II)是一部由美國華裔作家張純如於1997年出版的非小說類書籍,內容旨在介紹中國抗日戰爭期間日軍於1937年攻佔中國首都南京後的屠殺與各種暴行(即南京大屠殺)。該書是第一本以美國普羅大眾為對象的歷史敘事著作,被認為一定程度上補足了西方國家對南京大屠殺的認識。

まちがいというのは、どんな立派な本や良心的な人でも、多かれ少なかれあります。問題はそれがわかったときに訂正するかどうかです。アイリス=チャンの本は、日本である出版社が翻訳を出そうとしました。ところが、翻訳も終り、出版権もとって出そうとした時には、あまりにも間違いが多いものだから、私たちの研究会の会員でもある翻訳者が、付録として「これは事実と違う」というまちがいの一覧表をつけようとしました。そうでないと、このまま日本語で出してしまったら、偽右翼の恰好の攻撃目標になるからです。

ところが、著者のアイリス=チャンは拒否したのです。「まちがいを指摘してはいけない、まるごとそのまま訳してくれ」と言った。これではだめです。やはり私たちの会の江口圭一さんという学者が、「気息奄々の否定派が息を吹き返した」と言っていますように、こういう揚げ足をとられるようなことをやっていると、彼らに対して利敵行為をしてしまいます。だから、問題はまちがい自体ではないのです。まちがいはどんな人にもありうる。問題はそれを訂正するかどうかです。だからアイリス=チャンはモノ書きとしては三流でもう消えてしまった。これは歴史についてもいると思います。

*江口 圭一(えぐち けいいち(愛知県出身、1932年8月12日[1] - 2003年9月26日[1][2])は、日本の歴史学者。愛知大学名誉教授。専門は日本近現代史。十五年戦争研究をライフワークとした。Keiichi Eguchi (Keiichi Eguchi, 1932 August 12, [1] - 2003 September 26, [1] [2] ), the Japan of historians . Professor Emeritus of Aichi University . Specializes in modern Japanese history. Fifteen-year war research was his lifework.


過去と正しく向き合うことの大切さ
先ほどドイツの例をあげたのは中国との比較のためです。いっぽう日本と比較してみると、ドイツと日本は天地の差です。ドイツだったら、(否定派のようなことをやっていたら)刑事犯として逮捕されます。もちろんドイツにも、アウシュビッツ否定派のような極右のファシスト、ヒトラー礼賛者がおります。それを受け売りしている馬鹿な人も日本のごく一部にはいます。それは別としても、最近ニュースでもありましたように彼らが放火をしたり、何か事件を起こします。そうすると、それに対するものすごい抗議デモ、10万人とか20万人とかの大規模な抗議デモが起こります(「繰り返すな!Nicht wiederholen!」というプラカードが掲げられるA placard reading "Don't repeat!")。そういうところが日本と全く違います。これがドイツの国際的な信用を高めているのです。


日本の場合はどうなるのか、という例をあげます。たとえば古い話になりますが、アイヌ民族に対してどうなのかというと、その昔500年ぐらい前から侵略されてきましたが、明治時代、にはいると、もとアイヌの大地だった北海道がさらに徹底的に侵略されました。それに対して、やっと2~3年前に「アイヌ新法」という法律を作って、多少福祉的なことを”お情け”的にやりましたが、彼らの基本的な権利は全く認められていません。同じ先住民族として、アメリカやカナダの先住民族、あるいはオーストラリアのアボリジニーなどがいますが、こういう人たちはアメリカよりはまだましな待遇になっております。もちろんそれでも不十分です。彼らに言わせたら非常に不十分だけれども、それでも日本に(おけるアイヌに)比べたらましです。

①"Katsuichi Honda" The Truth About Rumors "" "Nanjing Massacre" / A Great Lie of 100 Swords②2014/2/16ー"There was no genocide" is the correct theory. Editorial Writer Mizuho Ishikawa(Sankei)③2015/10/11ー"Massacre" is full of falsehoods and doubts(Sankei)③2018.12.27 (Thursday)ーA deceptive creation, or Katsuichi Honda's "Travel in China"Read "Liǔtiáohú" from the end of the reportage as "Liǔtiáohú "http://www.jca.apc.org/~altmedka/honda-lie.html



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