日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Revolutionen im Jahr 1989/Революции 1989 года/Chute des régimes communistes en Europe『東欧革命』三浦元博・山崎博康著【Eastern European Revolution - What happened inside power】Author Motohiro Miura , Hiroyasu Yamazaki⑧


*Češtinaチェコ語→Marián Čalfa (* 7. května 1946 Trebišov) je slovenský právník a bývalý politik působící v Praze, za normalizace člen a funkcionář KSČ. Po sametové revoluci československý premiér.

*イジー・ディーンストビール(Jiří Dienstbier、1937年4月20日 - 2011年1月8日)は、チェコの政治家、ジャーナリスト、反体制活動家、外相(1989-1992)、上院議員(2008-2011)。

*ヴァーツラフ・クラウス(ヴァーツラフ・クラウス(Václav Klaus、1941年6月19日 - )は、チェコ共和国第2代大統領(2003年 - 2013年)、政治家、経済学者。、1941年6月19日 - )は、チェコ共和国第2代大統領(2003年 - 2013年)、政治家、経済学者。
同盟諸国の自己批判
連立内閣が成立する前、「プラハの春」はソ連・東欧世界で国際的に見直しが完了していた。軍事介入に参加しなかったルーマニアを除き、五カ国の共産党による自己批判がすべて出そろったのを受け、12月4日にモスクワで開催したワルシャワ条約機構首脳会議は、介入の誤りを共同で再確認していた。ワルシャワ条約加盟諸国の党主首脳が一堂に会した会議は、これが最後となった。
書記長ウルバーネクは12月5日、国営テレビで演説し、モスクワ首脳会議の結果を報告するとともに、ドプチェクら追放党員の名誉回復を発表した。ウルバーネクは「68年の精神を今後は全面的に支持していく」と述べ、中断した改革を再び開始する決意を示したのだったが、元党員らの反応は冷ややかだった。今さら、沈没しかかった船に乗る必要はなかった。ドプチェクは復党を拒否した。

ドプチェクの復活
イデオロギー的基盤を失った党は完全に守勢に立たされた。非共産系が多数を占める内閣の誕生とともに、政治の焦点は「社会主義」体制内での改革の枠組みを超え、党がどこまで権力を守り切れるか、「フォーラム」がどこまで権力に迫れるかに移った。共産党と「フォーラム」による円卓会議は22日、フサークの後任大統領にハベルを、新連邦議会議長にドプチェクを指名することで合意が成立した。党にはほかに選択肢がなかった。党内の実力者がすべて退任した以上、対抗馬は見当らない。ヤルゼルスキを送ったポーランド党、失敗はしたが有力候補としてポジュガイを擁していたハンガリー党とは、事情が違っていた。
共産党は20日から2日間、臨時党大会を繰上げ開催した。組織の抜本的改編を断行し、新党首の議長に「フォーラム」との交渉役を務めたアダメッツを選出、若手のモホリタが第一書記に就任した。また、新たに当面の目標を定めた「行動綱領」を採択、民主的政党に脱皮し、自由選挙、市場経済を受け入れる立場を確認した。
連邦議会は28日、事前の申し合わせ通りドプチェクを議長に選出、ドプチェクは初めて公けの政治舞台に復活した。ドプチェクは翌28日、初仕事として大統領選挙を取り仕切り、全会一致でハベルを選出した。ドプチェクが21年前に抱いた複数主義の”夢”は、やっと実現した。

その後の共産党
政変後の完全自由選挙は90年6月、実施された。選挙は共産党支配に代わって登場した「市民フォーラム」に対する信任投票となり、「フォーラム」およびスロバキア側の姉妹組織「暴力に反対する大衆」が46%の得票率で予想通り勝利し、連邦議会で合計170議席を占めて第一党になった。
しかし、共産党も事前の世論調査を上回る13・6%の得票を示し、47議席を占めて第二党の地位を確保した。共産党は「建設的野党」になることを宣言し、市場経済への移行には「社会的」市場経済を対置して、社会的公正と経済的弱者の禅譲を柱とする議会活動を進めた。市民勢力は後に見るように、その後さまざまな政治潮流に分裂したため、共産党が議会の党派別構成で再び第一党に返り咲く特異な現象が起きた。
共産党は連邦党組織の下にスロバキア共産党Komunistická strana Slovenskaを置く一方、チェコ部分だけの党組織は持たない変則的な構造になっていたが、選挙に先駆け90年3月、ボヘミア・モラビア共産党Komunistická strana Čech a Moravy(KSČM)というチェコの地域組織が発足し、スロバキア組織と合わせて連邦共産党を構成する形態に変わった。
*スロバキア共産党(スロバキアきょうさんとう、スロバキア語:KSS、Komunistická strana Slovenska)は、チェコスロバキアのスロバキア地域の共産党組織として活動していた、マルクス・レーニン主義(共産主義)を掲げる政党である。
*ボヘミア・モラビア共産党(ボヘミア・モラビアきょうさんとう、チェコ語: Komunistická strana Čech a Moravy; KSČM)は、チェコ共和国の左派政党。現在の党首はヴォイチェフ・フィリプ(英語版)(2005年-)。なお日本外務省や日本共産党はチェコ・モラビア共産党の日本語訳を使用している[10][11]。
スロバキア共産党はその後、「スロバキア共産党・民主左翼党」と改称したが、91年からは単に「民主左翼党 Strana Demokratickej L'avince」を名乗っている。連邦党内にとどまっていた改革派グループはさらに、党内分派「民主左翼」を結成したりしているが、選挙でも党本部と統一歩調をとっている。党勢はボヘミア・モラビア共産党が約40人、スロバキアの民主左翼党が約5万人で、単一政党の党員としては最強である。
*民主左翼党(みんしゅさよくとう、スロバキア語: Strana Demokratickej L'avince[1])は、中欧地域に位置するスロバキア共和国にかつて存在した社会民主主義を志向する中道左派政党。チェコスロバキア時代の支配政党であるチェコスロバキア共産党(Komunistická strana Československa:KSČ)のスロバキア地域における下部組織[2]であるスロバキア共産党(Komunistická strana Slovenska:KSS)を前身としている。
共産党は92年6月の第二回総選挙でも14%を獲得し、小党分裂の中で安定した強さを示した。チェコ地域では市民民主党Občanská demokratická strana(ODS)(85議席)に次ぐ第二党(34議席)、スロバキア地域でも民主スロバキアĽudová strana – Hnutie za demokratické Slovensko(57議席)に次いで第二党(23議席)である。合計57議席は、前回選挙より10議席増であり、議会では無視できない勢力に成長した。共産党は政権を放棄し保守派を徹底排除、西欧型左派党を目指し綱領を刷新することで、最低限、基礎票を維持することに成功したようだ。
*市民民主党(しみんみんしゅとう、チェコ語: Občanská demokratická strana; ODS)は、チェコ共和国の政党である[2]。経済自由主義、保守主義、欧州懐疑主義を掲げる[7]。
*人民党・民主スロバキア運動Ľudová strana – Hnutie za demokratické Slovensko(じんみんとう・みんしゅスロバキアうんどう)Lidová strana – Hnutí za demokratické Slovenskoは、中欧地域に位置するスロバキア共和国の政党。スロバキアの政治家であるヴラジミール・メチアルが結成した民主スロバキア運動を前身とし、2003年に現党名に改められキリスト教的伝統保守に立脚していたが、2014年1月に解散した。本稿では前身となった民主スロバキア運動(HZDS)についても取り上げる。
特にスロバキアの民主左翼党は民族自決の原則に基づくスロバキア主権宣言の採択を支持するなど、民族主義の色彩を強めている。スロバキア国民の独立志向が高まるとともに、民族左翼党の動向は一層重要な意味合いを帯びてくるだろう。
*スロバキア共和国の主権に関するスロバキア全国評議会の宣言 Deklarace Slovenské národní rady o svrchovanosti Slovenské republiky

反動の時代
ハベルの予感
ハベルは慣例の就任祝賀式典を中止し、費用をチャウシェスク政権崩壊直後のルーマニア援助に宛てた。明けて90年1月1日、ハベルは新年の国民向け挨拶で、チェコスロバキアを「病める国家」と形容し、全体主義を許してきた国民すべてが等しく責任を負わなくてはならないと強調、国家再建に向け国民の一致団結を訴えた。
「・・・わが国は繁栄しておりません。国民の創造的・精神的潜在性は有益に利用されていません。全工業部門が、なんの関心も存在しないような製品を生産している一方、国民が必要とするものは一切手に入らないのです。労働者国家を目指す国家が、労働者を抑圧し、搾取しているのです。旧式の経済は国民に十分行き渡っていないエネルギーを浪費しています。われわれは大地と森林を破壊してしまいました。わが国の環境は今日、欧州で最悪なのです。

・・・最も悪いことは、われわれが退廃した道徳世界に生きているということであります。考えとは別のことに慣れてしまったため、われわれは道徳的に病んでいるのです。他人への不信と無関心、利己主義が日常生活を支配しています。愛、友情、連帯、謙遜、寛容はその深さと広がりを失ってしまいました。権力者が全能者であってはならないと、声を大にして叫ぶ勇気を示した人はほんの一握りに過ぎません。尊大かつ不寛容なイデオロギーを持った従来の政府は、人間を生産力に、自然を生産手段にまで貶めてしまいました。しかし、我々は全体主義に慣れ、それを変更し難い事実として受け入れ、生活の一部としてしまったのです。言い換えれば、われわれすべての者が、多かれ少なかれ、全体主義装置の作動に責任があるのです。全体主義の、単に犠牲者だった者はおりません。すべての者が同時に、全体主義をつくり上げてしまったのであります。・・・」
ハベルは戦前の初代大統領でチェコスロバキア建国の父マサリクがそうであったように、自由と独立を象徴する指導者となった。第一共和国(1918-38年)První republika 1918–1938の時代にこの国は高い工業水準を誇り、議会制民主主義も経験していた。「プラハの春」当時も、無党派の立場から積極的に民主化運動に参加し、当時既に二大政党制を主張する論陣を張っていた。

*トマーシュ・ガリッグ・マサリク(チェコ語: Tomáš Garrigue Masaryk, [ˈtomaːʃ ˈɡarɪk ˈmasarɪk], 1850年3月7日 - 1937年9月14日[1])は、モラヴィア地方出身の社会学者・哲学者・政治家で、チェコスロバキア共和国の初代大統領(在任:1918年 - 1935年)。チェコで流通している最高額の5000コルナ紙幣に肖像が使用されている。
ハベルは就任当時、知人のオーストリア人ジャーナリストに「詩的時代は終わり、独立の時代が始まった」と漏らした。時代を先取りする文学者として、新生国家が直面するであろう問題を予感していたのだ。
ハベルは就任当初、しばしば国民の「無関心」を警告した。抑圧体制下で日常化した政治的「無関心」の克服こそ、チェコスロバキアが抱える最大の課題だ、と繰り返し強調した。チェコとスロバキアの独自性を尊重した上での統一の維持も、ハベルの課題だったが、これらの問題は、ハベルの予想通り、政変後ますます複雑化していtった。
流血を経ず政権交代を可能にしたのは、ハベルの無党派知識人と元共産党の改革派党員たちであった。いずれも、警察の監視の目に怯える無関心社会の中で、孤立無援の抵抗を止めなかった闘士たちである。

反動 
政変後の政治はしかし、「ビロード」のようには進んでいない。共産党独裁への反動から、政治は極端な反共の傾向を帯び、その矛先は共産党員、さらには「プラハの春」で活躍した元共産党員にまで及んでいる。連邦議会ではドプチェク解任の声も出た。元共産党員だからといって、一律に旧体制の責任を問うことは無意味であり、そればかりか、むしろ「プラハの春」に見られるような共産党員たちの改革運動は平和的政変の先駆けだった。だからこそハベルは「われわれすべてが抑圧体制に責任を負っている」と述べ、一部の人々にのみ責任を帰することを戒めたのだ。
旧体制への怨念は、民主化途上の社会に実にやっかいな問題を引き起こした。旧共産党幹部らの5年間の公職追放を決めた。いわゆる政治浄化法の成立と前後して、旧秘密警察が作成した協力者リストが外部に漏洩され、国民の新たな疑心暗鬼を招き、これが政争に利用される状況が生まれた。ハベルの反対にもかかわらず、共産主義をファシズムと同一視したような刑法改正も行なわれ、西側諸国から行き過ぎを指摘する批判も聞かれたほどだった。
スターリン体制下の粛清を告発したスロバキア作家ムニャチコは政治浄化法について「気持ちは理解できるが、逆に新たな差別を引き起こす」と警告し、「共産党員だったからという理由で、ドプチェクに辞任要求を突き付けるのは恥ずべきことだ」と慨嘆した。

*ラディスラフ・ムニャチコ(Ladislav Mňačko、1919年1月29日-1994年2月24日)は、スロバキアの作家、ジャーナリスト。
68年事件の党指導部の役割を調べていた検察当局の中間報告は、さらに衝撃的だった。92年2月に発表された報告は、軍事介入の際、親ソ政権の樹立を画策した人物として188人の名前を挙げていたが、この中にはヤケシュ、インドラら保守派とともに、ムリナーシが含まれたのだ。モスクワ大学在学中にゴルバチョフと交遊を温め、ゴルバチョフと夫人ライサの結婚の仲人を務めたムリナーシは、68年の自由化を定めた「行動綱領」の起草者である。

*ズデニェク・ムリナーシ(Zdeněk Mlynář, 1930年6月22日-1997年4月15日)は、チェコの政治家。
国家反逆罪に相当する罪状を突き付けられたムリナーシは「もし法廷に立つことになれば、これはスターリン時代以来初の政治裁判であり、統合欧州にとって極めて興味深い貢献策になるだろう」と、皮肉を込めて批判した。
消えた中間報告
政変後に顕在化したこのような政治の不条理は、92年総選挙に向けた前哨戦の様相を示した。旧体制批判がいつの間にか左翼全般への偏執狂的な攻撃に転化し、基盤拡大を狙う右派勢力がこれを煽り、利用し始めていた。
「17日事件」に関する議会調査委員会が92年1月に発表した最終報告も、このような文脈の中で読むべきだろう。旧秘密警察の協力者審査にも当った調査委は、既に活動の客観性に疑問が持たれていた。ヤケシュ政権と勇敢に闘った「憲章77」出身のリベラル派議員にまで”協力者”の烙印を押し、人権活動家から非難を浴びた。最終報告の内容も疑惑が指摘されている。
報告によれば、89年の政変は自然発生的デモで起きた。学生死亡説の果たした役割は認めているものの、謀略説は否定。死亡説は精神不安定な若い女性が流した作り話であり、これを耳にしたデモ参加者が、けがを装って路上に横たわる秘密警察員の姿を見て死亡学生と受け取った。警官の演技は政変には関係なく、むしろ作り話の作者こそがデモ拡大に貢献したという結論であり、その迫真性のあった中間報告はどこかに消えてしまった。

連邦の分裂
「フォーラム」の分解
こうした右傾化ムードを背景に、経済改革の進め方も絡んで、政変の結果いきなり政治の表舞台に躍り出た市民勢力の路線対立が表面化し、分裂に発展した。「市民フォーラム」はハベルを代表とする緩やかな運動体だったが、総選挙以後、強力な組織を備えるべきだとする政党化の要求が高まり、急進的経済改革を主張する連邦蔵相クラウスが90年10月、新設の議長に選出された。さらに、政党化を志向するグループは91年2月、「市民民主党」を正式に旗揚げした。
「市民民主党」結成のきっかけとなったのは、総選挙から5ヶ月後に実施された地方選で、「フォーラム」がわずか31・7%しかとれなかったことにある。クラウスは組織弱体化の危険を察知し、政治集団の結成に踏み切ったのだった。
キリスト教の価値観とチェコスロバキアの民主主義の伝統に立脚するとした同党は、経済改革の推進と西欧の保守主義を信奉している。クラウスは共産主義と民主主義の間に第三の道は存在しないと主張し、社会主義的要素は一切排除する徹底的な反共主義を貫いている。これは、「プラハの春」の意義を否認し、今後の改革の方向がドプチェク改革の継承・発展ではあり得ないことを明確にする立場である。同党は党員2万5000人を擁し、連邦議会で43議席を占め、共産党に次ぐ第二党になった。
これに対し、市民運動体としての組織を維持しようとする「フォーラム」中の中道穏健派は、91年2月、市民民主党に対抗して「市民運動Občanské hnutí 」を結成し、議長に外相ディーンストビールを選んだ。元改革派共産党員や人権活動家らが結集しており、ハベルも心情的にはこちらに近かった。メンバーは約1万2000人で、連邦議会の党派別構成では第三党になった。
*Češtinaチェコ語→Občanské hnutí (zkracováno OH) bylo středové, liberální politické hnutí, působivší na české politické scéně mezi léty 1991 a 1996, s kořeny v Občanském fóru. Jeho předsedou byl po celou dobu existence Jiří Dienstbier.
「市民フォーラム」は、こうして発足1年3ヶ月余りで空中分解した。両組織とも政治の不安定化を避けるため、政策協力を確認し合ったが、一時的妥協に過ぎず、再統一があり得ないことは目に見えていた。「フォーラム」の中からはこのほか、右派グループが市民民主連合Občanská demokratická aliance(ODA)を旗揚げし、元共産党改革派のグループ「再生obrození 」が政変直後に復活した社会民主党に合流するなど、四分五裂は食い止めようがなかった。
*市民民主同盟(しみんみんしゅどうめい、チェコ語:Občanská demokratická aliance ODA)は、1989年~2007年までの期間に存在したチェコの中道右派政党である。

国名論争
共産党の一枚岩の支配の崩壊、市民勢力の細文化は、国家の統合そのものにも大きな影響を与えた。チェコスロバキアはもともと第一次世界大戦後、消滅したオーストリア=ハンガリー帝国から生まれた人口国家である。チェコはオーストリアの、スロバキアはハンガリーの領土だった。国家としての歴史は浅い。連邦議会が90年の年明け早々直面したのは、国名変更の問題であった。ハベルは「チェコスロバキア社会主義共和国」の最後の大統領として就任した。国名から「社会主義」を外すのは自明のことだが、国家を構成するチェコとスロバキアの二つの共和国をどう表記するかで紛糾し、いわゆる’ハイフン論争’が起きた。
*Češtinaチェコ語→Rakousko-Uherskoオーストリア=ハンガリー帝国 (německy Österreich-Ungarn), plným názvem Rakousko-uherská monarchie (německy Österreichisch-Ungarische Monarchie, maďarsky Osztrák-Magyar Monarchia), byl státní útvar, reálná unie Království a zemí v Říšské radě zastoupených neboli Předlitavska (německy Cisleithanien) a Zemí svaté Štěpánské koruny uherské neboli Zalitavska (německy Transleithanien, nepřesně Uherska), existující od 8. června 1867 do 31. října 1918.

*Slovenčinaスロバキア語→Rakúsko-Uhorskoオーストリア=ハンガリー帝国 (iné názvy pozri nižšie) bola konštitučná dualistická monarchia v rokoch 1867 – 1918 v strednej Európe.

伝統的にプラハ中心主義に反発するスロバキア出身議員は、スロバキアの自立性を明確にするため「チェコ・スロバキア連邦共和国」とするよう主張した。チェコ側は「チェコスロバキア連邦共和国」に固執した。双方とも譲らず、国名さえ決まらない異常事態が続いたため、ハベルが仲介に乗り出し、3月になってようやく一つの妥協が成立した。両共和国が主張する国名をいずれも公式名称にするというもので、異例の二重表記国家が生まれた。’二つの顔’を持つ国家の誕生は、将来の民族問題を暗示して余りあった。しかし、それでもスロバキア側の不満はくすぶり続け、4月に入って「チェコおよびスロバキア連邦共和国」の統一表記とすることで決着した。
こうした経緯が示すように、民主化に伴ってスロバキアは次第に独立への願望を強めた。連邦制は「プラハの春」の68年、共産党が行動綱領に盛り込んだ内政改革の柱の一つで、これだけは軍事介入にもかかわらず法制化された。改革を粉砕した後の「正常化」路線を推進したフサークは、共和国の同権に基づく連邦制をかねて主張するスロバキア人であった。
その後、共和国自治は「正常化」が強まるとともに形骸化してしまい、スロバキア側はチェコ主導の連邦運営に不満をつのらせていた。政治面で規制を緩めれば、スロバキアの自立意識が吹き返し、「正常化」を揺るがしかねなかったからである。政変に伴って、スロバキア側の不満が噴き出したのは当然であった。チェコ人である蔵相クラウスの急進的な改革のシワ寄せが及ぶと、ますます反発を募らせた。チェコに比べ、コメコン市場への依存度が高かったことから、コメコン崩壊の直撃を受けたことや、スロバキア側に集中する軍事産業の民需転換計画に伴い失業が増大したことが、反発の背景にあった。92年3月の時点で、スロバキアの失業率はチェコの三倍を超える12%に達していた。
連邦政府、チェコ共和国との協力のあり方をめぐる議論は、「フォーラム」の姉妹組織「暴力に反対する大衆」の路線論争にも波及した。スロバキアの実情にあわせて緩やかな独自の経済改革を進めるべきだとする民族主義派でで左派系の共和国首相メチアルは91年3月、民主スロバキア・プラットフォーム(のち「民主スロバキア運動と改称)という分派を結成し、連邦との関係を重視する主流派に挑戦した。新党の旗揚げに踏み切ったメチアルは直後に首相を解任されるが、逆に社会不満を取り込んでカリスマ的人気を集め、支持率は一時90%にも達した。主流派は逆に、「市民民主同盟」を結成したが、「民主スロバキア運動」の人気に押され、急速に影響力を失った。

*ヴラジミール・メチアル(Vladimír Mečiar、1942年7月26日 - )は、スロバキアの政治家で、人民党・民主スロバキア運動(ĽS-HZDS、旧・民主スロバキア運動)党首。1992年にチェコスロバキア連邦共和国を連邦解体(ビロード離婚)に導いた一人。

*ビロード離婚(ビロードりこん, 英語: Velvet Divorce)は、チェコとスロバキアの両共和国によって1993年1月1日に実施されたチェコ及びスロバキア連邦共和国の連邦制解消を指して主に西側メディアが名付けた通称である[要出典]。チェコおよびスロバキアでは単に「チェコスロバキア解散」(チェコ語: Zánik Československa, チェコ語発音: [ˈzaːɲɪk ˈt͡ʃɛskoslovɛnska], スロバキア語: Zánik Česko-Slovenska)または「チェコスロバキア分離」(チェコ語: Rozdělení Československa, チェコ語発音: [ˈrozɟɛlɛɲiː ˈt͡ʃɛskoslovɛnska], スロバキア語: Rozdelenie Česko-Slovenska)と呼ぶ。チェコスロバキアの共産党政権が倒れた1989年11月17日の民主化革命に続いて、連邦解消時にもユーゴスラビア紛争のような武力衝突を免れたことから、チェコスロバキアの民主化を「滑らかな布」にかけて「ビロード革命」と呼んだことにちなんで西側メディアが離婚に見立てて名付けたものである。
連邦解体
92年6月の総選挙は連邦制の命運を決定した。連邦議会(定数300)にはチェコ、スロバキアから六党ずつ計12党が進出、このうちクラウスの市民民主党が85議席を獲得し第一党となった。チェコ共和国議会(定数200)でも76議席でトップに立った。一方、スロバキアの政党民主スロバキア運動は連邦議会で57議席をとって第二党、スロバキア共和国議会(定数150)では74議席を制した。
この結果、二共和国の第一党による連邦政府樹立交渉が最大の焦点となったが、同月20日の党首会談で、双方が主権国家を樹立することで歴史的合意が成立した。連邦制維持を主張するチェコ側に対し、スロバキアは共和国の独立を主張して一歩も譲らず、歩み寄りの可能性は全くなかった。
現実主義で知られるチェコのクラウスは、政治的混乱の長期化が対外的にマイナスになり、経済優先の立場から西欧への接近を目指す政策に支障が出ることを懸念し、あっさりと連邦制度の放棄に応じた。8月26日の交渉では、92年末までに連邦を解体し、93年1月1日から二つの独立国家となることが決まった。

ハベルの辞任
連邦崩壊の過程が始まった。クラウス、メチアルがそれぞれの共和国首相に就任する一方、暫定的な連邦政府が発足した。「破産管財人にはなりたくない」と演説したハベルは、7月20日に辞任した。連邦維持を主張してきた立場がスロバキア民族派に嫌われ、連邦議会での再選を阻まれた末の決断だった。
スロバキア議会は7月17日に主権宣言、9月1日に独自憲法を採択した。同じ日、連邦制の生みの親ともいえるドプチェクは交通事故で瀕死の重傷を負い、11月7日、プラハの病院で息を引きとった。
連邦議会は連邦解体を確認する法案の審議を開始した。二共和国の首脳会談で決めた連邦分離は政治協定であり、連邦議会の野党、とりわけ連邦維持派は反発を強めている。連邦資産の分割と並び、通貨同盟はじめ将来の協力分野を定める共和国交渉の成り行き次第では、完全分離ではなく国家連合体の性格を備えた関係が出来上がる可能性もある。

ハナ・マンドリコワ(Hana Mandlíková, 1962年2月19日 - )は、チェコスロバキア・プラハ出身の元女子プロテニス選手・・・1988年にマンドリコワはオーストラリア市民権を取得する。1990年のウィンブルドン2回戦敗退を最後に、28歳で現役を引退した後、チェコの後輩選手であるヤナ・ノボトナのコーチを9年間務めた。1994年に国際テニス殿堂入りを果たしている。

★追悼★故ヤナ・ノボトナ(Jana Novotná, 1968年10月2日 - 2017年11月19日)は、チェコスロバキア・ブルノ出身の元女子プロテニス選手。1998年のウィンブルドン選手権女子シングルス優勝者である・・・2017年11月19日、2010年から患っていた乳癌との長い闘病生活の末、家族に見守られながらチェコの自宅で死去。49歳没。

*Românăルーマニア語→Constantin Dăscălescuコンスタンティン・ダスカレスク (首相(チェウシェスクの腹心)n. 2 iulie 1923, Breaza, județul Prahova, România – d. 15 mai 2003, București, România) a fost un lider comunist român, care a îndeplinit funcția de cel de-al 52-lea prim-ministru al României în perioada din 1982 și până la căderea regimului în 1989.
          6 乗っ取られた革命ールーマニア

ルーマニア社会主義共和国(ルーマニアしゃかいしゅぎきょうわこく、ルーマニア語: Republica Socialistă România)は、1945年から1989年まで、ルーマニアに存在したルーマニア共産党一党独裁の社会主義国である。1965年8月21日までの国号はルーマニア人民共和国(ルーマニアじんみんきょうわこく、Republica Populară Romînă)であった。1945年5月8日の第二次世界大戦の敗北によって暫定的に成立し、1947年12月30日にルーマニア王国の国王ミハイ1世が退位して正式に成立した。1989年12月25日のルーマニア革命によって崩壊した。
*『我ら、ルーマニアを讃える』(ルーマニア語:Te slăvim, Românie)は社会主義時代ルーマニア2代目の国歌。

*三色旗(ルーマニア語:Trei culori)は、共産党時代のルーマニアの国歌の一つ。1977年から1989年までの国歌である。1989年12月のルーマニア革命で共産党政府が打倒されて以後は、国歌は現在の「目覚めよ、ルーマニア人!」(Deşteaptă-te, române!)に替わった。1977年以前の国歌は、1953年に導入された「我ら、ルーマニアを讃える」(Te slăvim, Românie)。
*ルーマニア革命(ルーマニアかくめい、ルーマニア語: Revoluţia română)は、1989年12月、ルーマニア社会主義共和国のニコラエ・チャウシェスク政権が打倒され、現在のルーマニアが樹立された一連の出来事である。反チャウシェスク派によるクーデターと見ることができるためルーマニア政変とも言われる。

ルーマニア(羅: România)は、東ヨーロッパ、バルカン半島東部に位置する共和制国家。首都はブカレスト。南西にセルビア、北西にはハンガリー、北がウクライナ、北東をモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面している。
*ルーマニア人(ルーマニアじん、ルーマニア語:români)は、ルーマニアおよびモルドバ共和国で多数派を形成する民族である。アルーマニア人などの他の南東ヨーロッパのラテン系諸民族と共に「ヴラフ人」と他称される民族集団に含まれ、ダコ=ルーマニア人(ダキアのルーマニア人)とも呼ばれる。
*ルーマニア語(ルーマニアご、limba română リンバ・ロムナ)は、ルーマニアの公用語であり、またその周辺地域でも使用されている言語である。インド・ヨーロッパ語族ロマンス諸語に分類されるが、孤立して発達したために他のロマンス諸語との違いが大きい。モルドバ語はルーマニア語とほぼ同じ言語である。アルーマニア語は、ルーマニア語の方言とされる事もあるが、意思疎通が困難である。
*目覚めよ、ルーマニア人!(めさめよ、ルーマニアじん、ルーマニア語: Deșteaptă-te, române!)はルーマニア(1990年~現在)の国歌。

ブカレスト、ブクレシュティ(ルーマニア語: București、マジャル語・標準ドイツ語: Bukarest)は、ルーマニアの首都で同国最大の都市である。ブカレストはルーマニア南東部にあり、ドゥンボヴィツァ川河畔の都市でルーマニアの文化、産業、金融の中心都市である。

*ニコラエ・チャウシェスク(ルーマニア語: Nicolae Ceaușescu [nikoˈla.e t͡ʃe̯a.uˈʃesku] (、1918年1月26日[1] - 1989年12月25日)は、ルーマニアの政治家。ルーマニア共産党書記長(1965年 - 1989年)[2]、ルーマニア社会主義共和国国家評議会議長(1967年 - 1989年)、初代大統領(1974年 - 1989年)。1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の頂点に立つ独裁的権力者として君臨した。その統治前半期の1960年代後半から70年代にかけては、東欧社会主義圏にあってソ連から距離を置いた自主的な外交政策を展開し、国際政治の鍵を握る人物の一人として注目されたが、1980年代に入ると、強権的な統治や個人崇拝、国民生活の窮乏に対する内外の批判が高まった。1989年の東欧革命の最後を飾る流血の政変(ルーマニア革命)によって権力の座を追われ、ワルシャワ条約機構加盟国の国家元首の中で唯一処刑された。
ある外交官
1990年1月のある日、厳冬の首都ウィーンの空港に1人のルーマニア外交官が降り立った。大統領チャウシェスクの独裁を打倒した前月の政変後、暫定政権「救国戦線評議会」は各国駐在大使をはじめ在外公館の幹部職員を大幅に入れ替えた。だが、この外交官は、オーストリア内務省が強い関心を示すある”過去”を持っていた。

*救国戦線評議会(きゅうこくせんせんひょうぎかい、ルーマニア語: Frontul Salvării Naţionale, FSN)とは、1989年のルーマニア革命直後から1990年5月までルーマニアの暫定政府を担った統治組織 (governing body)であり、後に政党化した。日本では、救国戦線(きゅうこくせんせん)とも呼ばれる。1992年の組織分裂後は、現在のルーマニアにおいて主要な政党である社会民主党(PSD、中道左派)と民主自由党(PD-L、中道右派)に衣替えしている。
チャウシェスクの即決裁判と処刑をもって終わった前年12月の政変より半年前の7月、ウィーンで、ルーマニア大使館二等書記官を名乗るある人物がスパイ活動容疑で、オーストリアの国家警察当局に逮捕される事件があった。当時、増大しつつあったルーマニア・トランシルバニア地方からのハンガリー系亡命者グループの中からエージェントを徴用し、亡命者や在ウィーン・ハンガリー大使館の動静を探らせていたというのだ。
*トランシルヴァニア(Transylvania)は、ルーマニア中部・北西部の歴史的地名。地理の位置としては、東ヨーロッパ西部から中央ヨーロッパ東端部に属する。
ウィーン地裁は、チャウシェスク政権崩壊直前の12月初め、この人物に「外交官としての信任を得ずに不法活動を行なった」として、懲役1年の有罪判決を言い渡した。逮捕後、この人物の救出に現われたのが、前掲の外交官だった。本人は当時、オーストリア当局に対し、自分は被疑者の上司で外務省課長だと名乗り、部下の釈放を要求したが、実の身分はルーマニア国家治安警察(セクリターテ)対外情報部の幹部というのが、オーストリア側の見方だった。

*セクリターテ (ルーマニア語: Securitate [sekuriˈtaˑte]) は、ルーマニア社会主義共和国の秘密警察。組織上は内務省の傘下にあり、正式名称は国家保安局(Departamentul Securităţii Statului)であった。
このエピソードは、チャウシェスク後に発足したルーマニア新政権の性格の一面を浮き彫りにしているように思える。ルーマニア政変は果たして、「革命」だったのか、それとも共産党内の反チャウシェスク派による「クーデター」に過ぎなかったのか。政変から3年近くたった今日でも、政変にまつわるいくつかの謎は不明なままだ。政変が「革命」だったと協調する新政権は、政変の混乱の中からどのようにして新指導部が発足したのか、成立の過程を全く明らかにしてこなかった。

*Magyarマジャール語→Tőkés László (Kolozsvár, 1952. április 1. –) református lelkész, az 1989-es romániai forradalom hőse, 1990-től 2009-ig a Királyhágómelléki református egyházkerület püspöke. 2007-től 2019-ig európai parlamenti (EP) képviselő, 2010–2011-ben az EP egyik alelnöke volt.[2]Românăルーマニア語→László Tőkés (n. 1 aprilie 1952,[1][2] Cluj, România) este unul din liderii politici ai comunității maghiare din România, de profesie pastor reformat. Înainte de 1989 s-a remarcat ca opozant față de autoritățile regimului comunist din România.
独裁の崩壊
トランシルバニアの騒乱
1965年以来24年余りに及ぶ長期独裁政権の倒壊は、1人のハンガリー系牧師とセクリターテのイタチごっこから始まった。トランシルバニア地方のハンガリー系住民の利益の代弁者だったラースロー・テケシュ牧師は、89年夏、ハンガリー行きの旅券の発給を受けた。ルーマニア当局からみれば、体のいい国外追放となるはずだった。ところが、牧師は再び北部の街クルジュの教会に舞い戻ってしまった。この後、牧師のもとには連日脅迫状が舞い込み始め、牧師の支持者が謎の「自殺」を遂げる事件が起きた。身辺に危険を察した牧師は、信者らの勧めで10月、ハンガリー国境に近いティミショアラの教会に密かに身を移した。

*クルジュ=ナポカ(ルーマニア語: Cluj-Napoca, ラテン語: Claudiopolis)は、ルーマニア北西部の都市。

*ティミショアラ(Timișoara ルーマニア語Timisoara、ハンガリー語:Temesvár テメシュヴァール、ドイツ語:Temeswar/Temeschburg テメシュブルク、セルビア語:Темишвар/Temišvar テミシュヴァール、トルコ語:Tamışvar またはTemeşvar タムシュヴァル)は、ルーマニア西部トランシルヴァニア地方の都市。
治安当局が牧師の潜伏先を突き止め、連行しようとしたことが政権崩壊への端緒となった。
12月16日、当局による強制連行を阻止するため教会を取り囲んだ信者らの行動は、またたく間に数千人のデモに発展。当局は警官隊のほか、軍、治安部隊を投入して鎮圧に乗り出し、多数の犠牲者を出す事態に発展していく。
チャウシェスクは17日午後、緊急政治執行委員会を招集した。政変の2週間後、『ルーマニア・リベラRomânia Liberă(自由ルーマニア)』紙が伝えた会議録によると、チャウシェスクは席上、国防相ミレア、内相ポステルニク、治安警察長官ブラドの3人に対し、騒ぎの拡大を防止できなかった責任を厳しく追及。3人の解任を提案した。しかし、他の政治局員が賛成を渋ると、チャウシェスクは突然、「では諸君が、自分らの指導者を選びたまえ」と開き直る。うろたえた政治局会議は結局、武器使用を主張するチャウシェスクの提案に暗黙の了解を与えてしまうことになった。
ティミショアラで武力弾圧が始まったのは、この会議があった日の夕方からだった。
*Românăルーマニア語→România Liberă este un ziar din România fondat în anul 1877. În epoca comunistă, cotidianul era cel mai important după Scînteia.

*ワシーリ・ミリャ(ルーマニア語: Vasile Milea、1927年1月1日 - 1989年12月22日)は、ルーマニアの軍人、政治家・・・1989年12月21日、首都ブカレストで発生したチャウシェスクによる独裁を非難するデモに対し、セクリターテアが群集に向けて発砲する一方で、国防軍は兵と戦車等を出動させ集会を解散させた。ミリャはチャウシェスクからデモを武力で鎮圧するよう命令されたが、「国防軍は人民を守るための軍隊であり、人民に発砲はできない」と述べてこれを拒否した。ミリャはその翌日に死体となって発見された。銃弾が動脈を貫き、ほぼ即死状態であった。国営放送では「国防相が自殺した」と報じられたが、ミリャの家族は「チャウシェスクに処刑された」と主張し、その噂が将兵の間にも流れたことで、国防軍が離反する契機になる。

*Românăルーマニア語→Tudor Postelnicu (n. 13 noiembrie 1931, Provița de Sus, Prahova, România – d. 12 august 2017, București, România) a fost un demnitar comunist și general român. Tudor Postelnicu a fost membru PCR/ PMR din 1953. [1]În 1977 a făcut parte din Comandamentul de reprimare a grevei minerilor din Valea Jiului. În 1978 a fost numit șef al Departamentului Securității Statului. În 1987 devine Ministru de Interne și membru al Comitetului Central al Partidului Comunist Român. Tudor Postelnicu a fost deputat în Marea Adunare Națională în sesiunile din perioada 1980 - 1989.

*Românăルーマニア語→Iulian N. Vlad (n. 23 februarie 1931, Gogoșița, Gogoșu, Dolj, România – d. 30 septembrie 2017,[1] București, România) a fost un general român, Ministru Secretar de Stat la Ministerul de Interne și șef al Departamentului Securității Statului (3 octombrie 1987-6 ianuarie 1990).
しかし、チャウシェスクがこの時点で、事態の深刻さをどの程度認識していたのか、疑問もある。大統領は翌18日、騒乱を尻目にイラン訪問に出発した。通常、大統領に影のように付き添う夫人エレナが後に残ったことだけが、一定の危機感をうかがわせる。4日後に迫った政権崩壊を前にしたこの情報音痴ぶりは、大衆から隔絶した独裁者特有の体質に一因があるだろう。情勢の読みを誤ったことは確かだ。独裁者が帰国するのは20日である。

*エレナ・チャウシェスク(ルーマニア語: Elena Ceaușescu、1916年1月7日 - 1989年12月25日)は、ルーマニア社会主義共和国の元首であったニコラエ・チャウシェスクの妻。ルーマニア第一副首相。夫の独裁政治を生涯にわたって支え、強大な権力を有した。また、その権力によって名声を得ることになった科学者でもあった。西側諸国からは好感を持たれたが、1985年、ソ連にゴルバチョフ政権が誕生してペレストロイカを推進すると、1989年12月に起きたルーマニア革命で、革命軍に夫と共に処刑(銃殺)された。

非常事態
チャウシェスクが帰国直後の20日午後、最初にとった措置はティミス郡全体への非常事態宣言だった。ラジオ、テレビを通じた宣言の中で、大統領は「外国のスパイ、テロリストとの闘争」のため、全軍、内務省、民兵が非常事態に入ると発表、事態の深刻さを認めるとともに、①午後11時から午前5時までの夜間外出禁止、②5人以上の会合の禁止-を布告した。
*ティミシュ県(ティミシュけん、Judeţul Timiş)は、ルーマニア・バナト地方の県。県都はティミショアラ。
既に手遅れだった。ティミショアラではこの日、かつてない規模の数万人デモが敢行され、「チャウシェスク打倒」を叫ぶデモはブラショフ、シビウ、コンスタンツァなど全国主要都市に拡大していた。しかも、前日まで民衆に銃口を向けていた軍は、この日を境に介入を手控えはじめた。

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