日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Revolutionen im Jahr 1989/Революции 1989 года/Chute des régimes communistes en Europe『東欧革命』三浦元博・山崎博康著【Eastern European Revolution - What happened inside power】Author Motohiro Miura , Hiroyasu Yamazaki⑥

「四つの危機」
「討論クラブ」のメンバーを核とする知識人121人は89年8月、人民議会に請願書を送り、ジフコフ政権の対トルコ系住民政策に鋭い批判を加えた。請願書は20万人を超すトルコ系住民が国外に脱出し、さらに数十万人が出国する構えを見せている状況を「国家は全面的危機にさらされている」と指摘。これは84年以来の政策の結果であると断罪したうえで、当局に対し次のような包括的・理論的批判を加えた。
一、これは経済の危機である。たばこ栽培、鉱業など国民経済の重要部分における労働力の大きな部分を突然失ってしまったのである。非常措置と特別労働班によっては、この損失を一時的に埋め合わせることしかできない。
一、これは政治の危機である。わが国は経済困難をもたらし、不可避的にブルガリア国民と国家の国際的威信を傷つける深刻な国際的孤立に陥ってしまったのである。とりわけ危険であるのは、この状況により、わが国のグラスノストとペレストロイカの公約、多くの社会主義諸国で成功を収めつつある民主的変革を実行する可能性に疑問が生じ始めていることである。・・・(穴埋めの労働のため)市民動員令は当局に、個々の市民の組織にあらゆる指令の実行を強いるフリーハンドを与えてしまった。これが非公認グループや運動に対する報復に利用されたり、非常事態が宣言されたりするなら、社会にとって重大な結果を招くことになろう。
一、これは道徳の危機である。国民は何も知らず、参加もしないまま、(当局による)致命的な行為の共犯者となってしまったのである。イスラム名のスラブ名への変更が「血」を根拠に議論されるならば、遠くない過去のエセ人種理論が悲劇的結果を伴って復活することを意味するだけである。
一、これはイデオロギーの危機である。ブルガリアが公式に宣言した(改革の)目標と、その履行の間の矛盾が露呈し、拡大しているのである。
「討論クラブ」はこうした多角的批判を加えたうえで、氏名選択の自由と民族文化、言語、宗教を維持する権利を保障し、帰国を望むトルコ系住民に財産、市民権を再保障するよう要求した。とくに注目されるのは、「だれが民族政策の誤った決定を下したのか」解明するよう求めていることだ。これは、ジフコフ政権の責任を直接俎上に乗せることを意味し、一部党員の間ではジフコフの政治的権威と不可侵性の神話を公然と傷つける効果を持った。

ムラデノフの手紙
「ソ連を信じよ」
ジフコフ解任をめぐっては、ムラデノフが11月の訪中の途上、モスクワでゴルバチョフと密かに会談したとか、帰路フランクフルトでゴルバチョフの補佐官の1人に会ったなどという噂が流れていた。真偽は不明(ムラデノフ自身は否定)、それまでジフコフに忠誠を尽くしてきたムラデノフが、この頃を境にジフコフと公然と対決するようになったのは事実である。
筆者はムラデノフに直接、政策前後の事実関係を問うた。ムラデノフの明快な説明からは、反ジフコフ・グループが半年以上も前から形成されていたことが分かる。ジフコフ追放に向けた指導部内の審議は、89年春から始まっていた。ムラデノフによると、反ジフコフの根回しには、後の首相アンドレイ・ルカノフ(政治局員候補)、国防相ドプリ・ジュロフ、人民議会議長スタンコ・トドロフが参加していた。同年夏ごろ、ムラデノフは首相ゲオルギ・アタナソフも陣営に引きいれている。

*Българскиブルガリア語→ Андрей Карлов Луканов(Andrey Karlov Lukanov)Луканов е политик от Българската комунистическа партия и наследилата я Българска социалистическа партия.
*Българскиブルガリア語→Георги Иванов Атанасов(Georgi Ivanov Atanasov) е български политик от Българската комунистическа партия (БКП), министър-председател в 78-ото правителство на България и член на Политбюро на ЦК на БКП от 1986 до 1990 г.
ムラデノフは10月24日、党中央委員会と政治局および党監査委員会あてにあからさまなジフコフ批判の書簡を送っている。書簡の公表は、ジフコフ降ろしの意思を党員に明らかにすることを狙って計算され尽くした行動だった。ムラデノフはこの中で、自分の経歴を様々述べた後、ジフコフと対立するに至った経過を次のように述べている。
10月23日、私は米国大使と昼食を共にする約束があった。同志ジフコフは、これまで私の会合や行動をすべて知っていたように、この会見のことも知っていた。会見の目的は私とベーカー米国務長官の会談、およびイーグルバーガー米国務次官とゴツェフ外務次官の会談に基づき二国間関係の現状を分析することにあった。

*ジェイムズ・アディソン・ベイカー(James Addison Baker, 1930年4月28日 - )はアメリカ合衆国の政治家。ロナルド・レーガン政権でアメリカ合衆国大統領首席補佐官、第67代アメリカ合衆国財務長官、ジョージ・H・W・ブッシュ政権で第61代アメリカ合衆国国務長官を務めた。
*ローレンス・シドニー・イーグルバーガー(英語:Lawrence Sidney Eagleburger、1930年8月1日 - 2011年6月4日)は、アメリカ合衆国の政治家、外交官。ジョージ・H・W・ブッシュ政権で第62代アメリカ合衆国国務長官を務めた。
23日午後零時20分、すなわち米国大使との会見の10分間、執務室に入った私は、同志ジフコフが呼んでいると知らされた。ガネフ外務次官が事務室で待っていたため、彼を執務室に招じ入れる一方、ジフコフとの電話がつながるのを待った。ところが、ガネフは、米国大使と会ったら、米国がブルガリアの内政に許しがたい干渉を加えていること、またブルガリアのペレストロイカはジフコフの下でしか実行できない旨、言明すべきだと言った。誰が彼に指示したのかは、私の知るところではない。
ジフコフは電話で、米国は露骨に内政に干渉しており、このことを彼らにはっきり言うべきだ、と腹立たしげに話した。ジフコフは(米国大使との)くだらないおしゃべりは無用だとも言った。私は”おしゃべり”をするつもりではないと返答。同志ジフコフの不穏当な言い方は遺憾であると伝えた。・・・
この後、ジフコフはより注意深い口調になった。以上の説明に関連し、私は党政治局が私へのこの粗野にして不穏当かつ不当な攻撃への対応をはっきりさせるよう要請する。党書記長にして国家評議会議長であるジフコフがかような態度であるなら、私は党政治局員としても外相としても職責を果たせないと考える。この書簡をもって、私の辞職届けと理解していただきたい。
同志ジフコフの苛立ちと粗野な態度の理由は、自分が国家を深刻な経済・財政・政治危機へと追いやってしまったこと、また自分と家族が権力の地位にとどまるため不誠実かつ狡猾な政策をもって、ブルガリアを世界から孤立させてしまった事実、さらには、ソ連からさえ見放されてしまったこと、腐敗したチャウシェスク一族と同じ船に乗っているのはわれわれだけであることを、彼自身が自覚しているためである。要するに、ジフコフの政策はブルガリアを世界の主流から外れさせてしまったのだ。
こんな指導者に指導される国家の外相であることが容易であろうか。政治局、中央委、党がこの問題を考える時間に来ていると考える。・・・世界が変化しつつあり、世界に調和しようとすれば、ブルガリアも現代的政策を実行しなければならないことは誰しも理解していると思う。ほかに信じるものがないならば、われわれはソ連とソ連共産党を信じるべきだ。・・・
ジフコフが私に対する多くの虚偽と中傷をふりまくことは分かっている。彼は私と家族の肉体的抹殺を試みる可能性さえある。もし、それが起きれば、同志のみなさん、あなた方は道徳的責任を負うことになるだろう。・・・
1989年10月24日  同志の挨拶をもって ぺタル・ムラデノフ
ムラデノフは書簡を書き上げた日の夜、友人の作家ヨルダン・ラディチコフの内輪の誕生日パーティーの席で、トドロフに書簡を渡した。この後、党内に書簡コピーが広まっていく。翌日、ルカノフもまたムラデノフからコピーを受け取り、コメコン定期協議に出席するためモスクワへ飛んだ。モスクワ行きの隠された目的が、ソ連指導部への状況説明であったことは言うまでもない。

ゴルバチョフの耳打ち
ムラデノフは11月4日、北京訪問に旅立ち、帰国するのは8日である。ムラデノフは訪中の途上、ソ連指導部の誰にも会っていないし、会う必要もなかったと強調する一方、ゴルバチョフとの意思疎通について、7月にブカレストで開催されたワルシャワ条約機構首脳会談の際の、興味深いエピソードを筆者に明かしてくれた。
党書記長のほか首相、外相らが参加する初日7日の全体会議が終了した後、ムラデノフはゴルバチョフに近づき、三歳になる娘の写真を取り出してサインを求めた。ゴルバチョフ・バッジを胸に付けた孫の写真だった。ムラデノフはその際、密かに「状況は芳しくない。他の同志たちも同じ評価だ。われわれは決定的な行動に移るつもりだ」と耳打ちした。ゴルバチョフは特に異論を差し挟まず、暗黙の了解を与えた。
後述するように、ムラデノフが訪中で留守中、情勢が急転する。11月8日、北京から戻ったムラデノフは、ルカノフから電話で「パリのエビが手に入った。息子に届けさせよ」という連絡を受けた。「エビで鯛を釣る」という諺がブルガリアにあるものかどうか。「エビ」というのは盗聴を警戒して用いた符牒で、ルカノフの息子が届けたのは、ムラデノフの留守中の情勢を知らせる私信だった。既にジェロフらがジフコフに引退を迫っていることが記されてあった。ムラデノフが帰国後初めてジェロフと接触、意思統一を図ったのは、翌日の政治局会議の直前だった。
ムラデノフは、留守中の出来事には全く関与していなかった。ルカノフがムラデノフに伝えたこの間の事情は、別の当事者から聴かねばならない。

二本の録音テープ
ここに二本の録音テープがある。筆者の知人のブルガリア人ジャーナリストが90年春、当時引退していた元党政治局員ら2人からジフコフ解任に至る事実経過を聞き出したものだ。
証言者の1人はヨルダン・ヨトフ。1920年生まれの古参党員で、党機関紙『Работническо делоラボトニチェスコ・デロ Rabotnichesko Delo(労働者運動)』編集長を務めたジャーナリスト出身。84年から、ジフコフ追放後の90年1月の党大会まで政治局員の地位にあった。もう1人はディミタル・スタニシェフ。モスクワ大学の親ソはで、77年から、同じく90年に引退するまでイデオロギー問題担当の党書記を務めた。ジフコフから「モスクワのスパイ」と呼ばれていたといわれる人物だ。ブルガリア政変に絡む”モスクワ人脈”は後にも触れる。
*Българскиブルガリア語→Йордан Николов Йотов е български политик от Българската комунистическа партия и историк – член-кореспондент на БАН.
*Българскиブルガリア語→Вестник „Работническо дело“ "Worker's Deed"е български вестник, орган на ЦК на БКП. Излиза в София от 1927 до 1990 г.

3人組
密談
まず、2人の証言から、ジフコフ解任に至る劇的な事実経過を再現してみよう。密室で行なわれる共産党指導部の人事。しかも書記長の解任をめぐる舞台裏の駆け引きが、直接当事者の口から、これほど赤裸々に開かされたケースは、東欧の政変の中でも極めて稀である。
ジフコフ解任劇の舞台にはヨトフ、スタニシェフと国防相(政治局員)ドブリ・ジュロフに相談を持ち掛けている。ジュロフの党内での権威、国民の間の声望はジフコフに勝るとも劣らない。2人はほぼ対等であり、軍を背負った実力からしても、ジフコフに引導を渡せる役者はジュロフ以外にいなかった。
*ドブリ・ジュロフ(Добри Джуров;1916年1月5日 - 2002年6月17日)は、ブルガリアの政治家、軍人。上級大将。ブルガリア人民共和国英雄。1962年から1990年まで国防相を務めた。
ジュロフを介して形成された反ジフコフの3人グループは11月5日、ソフィア郊外のジュロフの別荘で密談する。情勢を協議した結果、国家は重大な危機に陥っており、社会的緊張を解決するにはジフコフが辞任するしかないとの結論で一致。党内の混乱を防ぐには、ジフコフ自身が辞表を提出する形をとるべきだとの立場で確認した。3人グループの最年長でジフコフの友人であるジュロフと連絡をとる役割を引き受けた。
2日後の7日、党本部に近いソフィア中心部ブルガリア・ソ連友好通りにあるソ連大使館で、10月革命記念日恒例の祝賀パーティーが開かれ、ジフコフはじめブルガリア指導部の面々が出席した。ジュロフはこの機会を利用し、ジフコフに「折り入って話がしたい」と会談を申し入れた。
詰め寄る国防相
8日、3人グループは時間通り書記長室へ。ジュロフが最初に口火を切り、「わが国は重大な危機に陥っており、党中央委とりわけ書記長個人に対する不満が充満している」と噛んで含めるように説明した。
ヨトフの回想によると、3人は「辞任」という直截的な表現は慎重に避けたが、意図を察したジフコフは自ら「辞任提出に同意する」と表明し、「辞任は10日の中央委総会ではなく、次々回の中央委にしたい」と述べたという。しかし、スタニシェフの証言では、ジフコフは「よかろう。私はこれまでも辞任問題を提起している」としか答えなかった。確かにジフコフは過去に冗談混じりに辞意表明したことがあるが、他の全員から”慰留”されるのが常だった。スタニシェフはこの発言を、ジフコフの引退同意とは受け取っていない。
ジフコフは書記長報告を第一議題とする10日の中央委の議事を予定通り運行するよう主張し、ついに明確な返答を回避してしまった。この日の説得作業は1時間半で終わった。
ところが、中央委で重要人事があるとの噂は、この日のうちに党内に広まった。同夜、ジュロフは盗聴防止措置を施した専用電話でヨトフら、”同志”に連絡。9日午後に会う約束を交わした。
午後、申し合わせ通りジュロフの部屋へ向かう途中、ヨトフはジフコフの執務室がある党本部二階で、ジフコフのボディーガードから書記長室に行くよう伝言を受け取った。しかし、ヨトフはそのままジュロフの執務室へ。ジュロフ、ヨトフ、スタニシェフのほか党監査委員会副議長の退役将軍ゲオルギー・ミネフが顔をそろえた。

抵抗するジフコフ
人事の噂が広がっている以上、緊急にことを運ぶ必要がある。是が非でもジフコフ退陣を10日の中央委で実現させることを確認した。この後、午前4時25分、ヨトフはジフコフの部屋へ。
ジフコフ「ジュロフが何か始めたようじゃないか」ヨトフ「同志ジフコフ、ジュロフが何を始めたか、私は知りません。しかし、ジュロフは真の革命家であり、何かを始めたとすれば、われわれの信念のためにほかなりません」ここでジュロフも入室し、協議にスタニシェフも加えるよう提案。スタニシェフの到着を待って話し合いを再開した。3人グループはジフコフに、10日の中央委で辞意表明するよう、今度ははっきりした言葉で要求した。
ジフコフ「むろんだとも。昨日提案した通りだ」と返事。
ジュロフはたたみ掛けるように「いや、同志ジフコフ。君は明日ではなく、その次の中央委で辞意表明するといっただけじゃないか」と反論し、明日10日の中央委の席で辞任すると明言するよう執拗に迫った。
「よかろう。そろそろ政治局会議の時間だ。辞意表明してもいい。だが、後任はどうするのか」
候補を1人ずつ挙げては結論を引き延ばしを図るジフコフ。顔面は紅潮、指先はしきりに机を叩き、イラついている様子である。政治局会議室には、慣習通り、開始15分前からムラデノフら他のメンバーが到着し始めていた。
3人がなおも執拗に辞意表明を迫ると、ジフコフはついに折れた。

最後の日
午後5時、政治局会議の冒頭で、ジフコフはついに辞意を表明、「私はもう老齢だ。昨年から辞任することを考えていた」と発言し、後任に首相アタナソフ(政治局員)を推薦した。しかし、事の重大さを知っていたアタナソフは「私は無能な書記長でいるより、良き一政治局員としてとどまりたい」と述べ、書記長の重責に耐える能力がないとして辞退、代わりにムラデノフを推薦した。中央委の形式的な承認を残し、こうしてジフコフ退陣は事実上決定した。決定は直ちにゴルバチョフとソフィア駐在ソ連大使に伝えられた。
翌日の中央委の冒頭、ジフコフは「改革の現況と第14回党大会について」と題する書記長報告に立った。ジフコフはメモを見ないで演説するという”パフォーマンス”で若さを強調、自分の進退には触れず、なおも中央委で巻き返しを図る姿勢を見せた。
しかし、司会のアタナソフは「同志ジフコフは1年前、政治局あてに引退を願う書簡を送った。当時、政治局は同志ジフコフに党と国家に対する義務の遂行を続けるよう要請した」と前置きし、続けて「同志ジフコフは最近、再び引退問題を提起した。同志は、30年以上も党と国家の頂点にいるが、既に80歳近く、現今の国家にとって重大な歴史的時期に書記長職は大変な負担であり、その力は失せつつあると言っている。政治局は問題のあらゆる側面を検討した結果、同志ジフコフの辞任を承認し、中央委と人民議会に、書記長と国家評議会議長の職を解くよう提案する」と述べ、後任にムラデノフを提案した。
採決の結果、ジフコフ辞任は満場一致で承認された。中央委での逆転に期待をつないでいたジフコフの表情はこの瞬間、雷に打たれたようにこわばった。宮廷クーデターは終わった。
ソ連のスパイ
最後の説得工作の際、ジフコフに留任を断念させたのはスタニシェフの存在だった、とスタニシェフ自身は語っている。ジュロフはジフコフとの会談にスタニシェフの同意を求めている。スタニシェフリが最後に書記長室に入ると、ジフコフの表情には突然緊張が走ったという。ジフコフは日頃、スタニシェフを「モスクワのスパイ」と呼んで嫌っていたが、まさにソ連の後ろ盾がある故に彼を解任はできなかった。
党指導部の同僚から彼が間接的に聞いた話によると、ジフコフはスタニシェフが欠席したある政治局会議の席で「ここで話したことは全部あるところへ伝達されるんだ」と言いながら、スタニシェフの席の方に目配せしてみせたという。しかも、ジフコフはソ連を訪問する重要な使節団には必ずスタニシェフを加え、モスクワへの配慮を怠らなかった。
ジフコフの辞任説得にスタニシェフが立ち会ったことで、ジフコフはモスクワの意図を感じとったに違いない。政治局という密室内で指導者を交代させた点で、ブルガリア政変は典型的な宮廷クーデターだった。在野勢力の反政府デモが勢いづくのは、ジフコフ退陣後のことである。

ムラデノフの限界
11月10日の中央委総会で新書記長に選出されたムラデノフは、就任の挨拶で「同志ジフコフが名誉に包まれ引退しようとしている今、彼の業績に感謝し、健康と活力と長命を祈る」と述べたが、ジフコフが自らの意思で引退したという説明は全くの虚偽であった。「名誉に包まれた」元書記長は、1ヶ月と経たず党を追放され、自宅監禁されてしまった。
ムラデノフはまた、中央集権的管理システムの廃止と指導スタイルの変革、大衆に対し開かれた指導部の必要性を訴えた。しかし、新書記長は同時に、意見の多様性が必要としながらも「社会主義の枠内での」という限定句を付けることを忘れなかった。ムラデノフの念頭には、1ヶ月前にハンガリー党が決定した「同等の条件の下で他政党と選挙で競う一国民政党」になるなどという発想は微塵もなかった。
あくまでの一党支配下での”複数主義”であり、共産党の神聖が冒されるのを容認するつもりはなかった。ジフコフ体制の腐敗と停滞に歯止めを掛け、共産党の権威と支配を救うことこそ、反ジフコフ・グループに結集した党幹部らの目標だった。自ら権力の地位を捨てさる気など毛頭なかったと言ってよい。これが宮廷革命の限界であり、約1ヵ月後に起きる同じバルカンの隣国ルーマニアの流血の政変を指導した人々と、思想の水準は近似的である。

モスクワ派トロイカ
一党支配に固執
ブルガリア政変は、国際的孤立と経済危機に焦燥を深めた共産党によるジフコフ追放劇だった。ムラデノフはジフコフを切ることで、共産党の権威を回復し、一党支配を延命させようとした。だが、1954年以来実に35年におよんだジフコフ政権の崩壊は、党の内外で統制不能な大衆的エネルギーを解き放ち、ムラデノフらの意図を超えた改革のうねりとなって共産党支配そのものを揺るがすことになる。ブルガリアのペレストロイカは、まさにジフコフが退陣した89年11月10日に始まったのだ。
ムラデノフは10日の就任演説で、中央集権的システムを解体し「法の支配に基づく近代的民主国家」の建設を目指すと述べ、一応改革への積極姿勢を表明した。ムラデノフは情報公開とペレストロイカを「党と国家運営の基本原則とする」と述べ「党と国民とのまじめな対話」を約束した。しかし、ここでムラデノフは「党」と「国家」に言及する一方、党外の政治組織との対話や、まして複数政党制の導入には触れていない。逆に、改革は「社会主義の強化」と「社会における党の指導的役割」の維持に資することになると述べている。一党支配のシステムそのものに内在する欠陥には目をつむり、政治の民主化の問題を「党内の民主化」に矮小化しているのだ。ムラデノフにとって、党はあくまで国家の支配政党でなければならなかった。
ムラデノフは演説の終わりに「ゴルバチョフ同志が指導するソ連共産党によるレーニン主義的改革の道を全面的に支持する。ブルガリアは社会主義社会の信頼できるメンバーであり続けるだろう」と力説し、「われわれはブルガリアの改革を唯一、社会主義の枠内に位置づけていることを強調したい」と述べた。政変前、中央委にあてたムラデノフ書簡が「ほかに信じるものがなければ、われわれはソ連とソ連共産党を信じるべきだ」と呼び掛けていたことを考え合わせると、ブルガリアがまだハンガリー、ポーランド型の複数政党制の復活による転換を想定していなかったことは明らかだ。
1週間後の16日に開かれたムラデノフ政権初の中央委は、ジフコフの側近だったミルコ・パレフら三政治局員を解任し、ジフコフの息子で党文化部長のウラジミル・ジフコフと合わせて党中央委から追放した。政治局員の後任には政治局員候補アンドレイ・ルカノフら4人が昇格した。12月8日の中央委はさらに、ムラデノフ、国防相ジュロフ、首相アタナソフの3人を除く旧時代の政治局員4人を解任、ジフコフ色の一掃を図った。続く13日の中央委はジフコフ自身と息子ウラジミル、パレフら3人を党追放処分にした。ムラデノフを含め、新党指導部は全員旧体制の政治家であるからこそ、ジフコフ時代との決別を鮮明にすることで、党イメージの一新を狙った人事であった。

パンドラの箱
しかし、11月18日、首都ソフィアで「エコ・グラスノスト」など非公認団体が呼び掛けた民主化要求集会に5万人が結集、人民議会の解散と複数政党制による自由選挙の実施、「党の指導的役割」の放棄を求めて気勢を上げたのを皮切りに、非公認の草の根集会が全国各地に波状的に広がっていった。ジフコフを追放した共産党指導部は、パンドラの箱を開けてしまったのだ。ジフコフ時代とさほど変わらない”新指導部”が、情勢に先を越されつつあることは明白であった。
ムラデノフは12月11日の中央委総会で、ついに、①「党の指導的役割」を憲法から削除、②90年5月末までの自由選挙実施、③新憲法の制定ーを提案し、臨時党大会を3月に開催する方針を打ち出した。共産党が支配する人民議会はこれを受け15日、結社の自由法と集会・デモの自由法を可決、政治犯の釈放を決定した。人民議会は翌年1月15日、憲法から「党の指導」条項を放棄することを決定し、トルコ系住民に関し姓名、日常言語、宗教の自由をうたった「民族問題に関する宣言」を採択した。
ジフコフの退陣後、野党側の組織化は急速に進んでいた。12月7日、反政府組織の連合体「民主勢力同盟」がソフィアで旗揚げされた。「Асоциация дебати България討論クラブBulgarian Debate Association」、「エコ・グラスノストЕкогласност」、南部プロブジフで2月に設立された独立労組「ポドクレバПоддръжка (支援)」など十数組織が結成に参加していた。
*民主勢力同盟(みんしゅせいりょくどうめい、ブルガリア語: Съюз на демократичните сили, ラテン文字転写: Sayuz na demokratichnite sili)は、ブルガリアの政党。1989年12月5日創設。
*プロヴディフ(ブルガリア語:Пловдив / Plovdiv)は、ブルガリア中部に位置するブルガリア第2の都市、およびそれを中心とした基礎自治体であり、プロヴディフ州の州都である。
「エコ・グラスノスト」は人民議会議長トドロフの妻らがルセ防衛委員会の後身で4月に発足していた。議長は共産党員のぺタル・スラバコフ、スラバコフは同時に共産党内分派「第二社会党」に参加している。民主勢力同盟の初代議長には「討論クラブ」出身の元共産党員でのち大統領になるジェリュ・ジェレフが選出された。
90年1月には、トルコ系住民を代表する「権利と自由のための運動」も創設され、トルコ系の固定支持者をバックに有力な政治勢力に成長する。議長の元哲学研究所研究員アフメト・ドアン(スラブ名メディ・ドガノフ)は89年6月、トルコ系住民の抗議行動を指導したかどで逮捕され、ジフコフ追放後の恩赦で12月に出獄したばかりだった。

*権利と自由運動(けんりとじゆううんどう、ブルガリア語: Движение за права и свободи / Dvizhenie za prava i svobodi、トルコ語: Hak ve Özgürlükler Hareketi、英語: Movement for Rights and Freedoms)は、ブルガリアの政党。ブルガリア国内の少数民族であるトルコ人による中道政党である。

*Türkçeトルコ語→Ahmed Demir Doğan (Bulgar: Ахмед Демир Доган, d. 29 Mart 1954, Dobriç), Türk asıllı Bulgar siyasetçi. Bulgaristan Türklerinin haklarını savunan Hak ve Özgürlükler Hareketi'nin kurucusu ve eski genel başkanı.
党の分裂
共産党本部も一枚岩の結束がひび割れを起こし始めていた。情勢の急転に対応するため、年末になって共産党は臨時党大会の開催を90年1月30日と定めた。このころ党内では、ムラデノフ議長の立ち遅れに焦燥感を抱く急進改革派が党内分派活動を活発化させていた。
その一つはソフィア大学哲学教授ニコライ・ワシレフを中心とする「第二社会党」。87年にジフコフ批判をして党を除名され大学を追われたが、ジフコフ追放直後に復帰、復職していた。ジェレフらとともに「討論クラブ」の創設者の1人でもある。このほか、ソフィア大哲学教授ぺタル・ミテフの「欧州への道」、同じく助教授ドラゴミル・ドラガノフの「共産党・民主フォーラム」などがあった。
*ソフィア大学「聖クリメント・オフリドスキ」(英語: Sofia University "St. Kliment Ohridski"、公用語表記: Софийски университет „Св. Климент Охридски“)は、ソフィアに本部を置くブルガリアの公立大学である。1888年に設置された。
選挙戦術
党大会は1月30日から2月2日までの四日間、ソフィアで開催された。大会の目玉は暫定綱領ともいうべき政治宣言「ブルガリアの民主的社会主義のための宣言」と、組織改革を盛り込んだ新党規約にあった。
政治宣言は「ソ連、東欧で起きている社会主義社会の革新は現代の主要な現象である。・・・社会主義の歴史的発展における第二の革命が遂行されつつある」と述べ、ブルガリア共産党も東欧諸国の改革に同調する決意を表明し、「党は”指導的役割”と権力の独占を放棄し、民主的な方法で国民の信任を得るため活動する」と述べた。さらに、自由選挙の実施、新憲法の制定も確認し、党名変更の方針も打ち出した。しかし、大会では党名変更は見送られた。東欧最古の歴史を持つブルガリア共産党内で、名称を変更することにはなお抵抗があった。因みに、大会時の党員数は98万4000人。実に人口の10%強を占めていた。「社会党」への党名変更は総選挙間際の4月初め、最高評議会が決定し、選挙戦術の色彩が強かった。
新党規約は政治局、書記局を廃止し、最高評議会を設置、指導部ポストの任期を連続二回までと定め、ジフコフ時代の縁故主義への反省から、党幹部の親族が党、国家の上級ポストに就くことを禁止した。新指導部人事ではアレクサンドル・リロフが最高評議会議長(党首)に就任、リロフを含めたムラデノフ、ジュロフ、ルカノフら17人で幹部会を構成した。154人で構成する最高評議会には「第二社会党」のメンバー4人が入ったが、間もなく離脱した。

*Българскиブルガリア語→Александър Василев Петровски – Лилов е учен и политик от Българската комунистическа партия и по-късно от наследилата я Българска социалистическа партия[3]. През 1977 – 1983 година той е неформален първи заместник на лидера Тодор Живков и втори човек в йерархията на тоталитарния режим.
リロフは1966年から69年まで、モスクワの社会科学アカデミーに留学し、帰国後、党中央委宣伝部副部長を振り出しに、文化部長、中央委員と出世、74年から83年まで政治局員を務めた経歴がある。その後、現代社会理論研究所所長の閑職に追いやられたとはいえ、ジフコフの娘と恋仲にあったエピソードを含め、ジフコフ体制とは深い腐れ縁があり、必ずしも新時代に対応した新鮮な人事とは言い難かった。だが、ムラデノフは国家評議会議長(国家元首)の地位にあり、党首を兼任することは時代錯誤だった。もう1人の有力者である若手実務派ルカノフは新首相に内定していた。最後に残った選択肢がリロフであった。
大会終了の翌2月3日、人民議会は予定通りルカノフを新首相に選出した。ルカノフは1938年、モスクワ生まれ。ムラデノフと同じモスクワの国際関係大学を卒業後、ブルガリア外務省に入省し、副首相、対外経済関係相に就任した若手テクノクラートであり、ルカノフ内閣の誕生により、共産党は国家評議会議長ムラデノフ、党議長リロフを加えたモスクワ派によるトロイカ体制を整えた。人民議会は4月、ムラデノフを新設の大統領に選出して解散、共産党は同じ日、党名を「ブルガリア社会党」に変更し、万全の体制で6月選挙に臨んだ。
*ブルガリア社会党(ブルガリアしゃかいとう、ブルガリア語: Българска социалистическа партия、英語: Bulgarian Socialist Party)は、ブルガリアの政党。旧ブルガリア共産党の後継政党として、社会民主主義を標榜している。社会主義インターナショナル加盟政党。

党権力の瓦解
真の勝利者、野党
6月10、17日両日に投票された初の自由選挙は、大国民議会の定数400人のうち、社会党が211議席の過半数を獲得した。民主勢力同盟も善戦し144議席を確保、トルコ系の「権利と自由運動」が23議席でこれに続き、旧体制内政党だった農民同盟は16議席どまりだった。
社会党が過半数を制した理由は、野党側の準備不足にあった。ジフコフ追放から半年余りしか経過しておらず、野党は組織的にも資金的にも成熟途上にあり、選挙戦で宣伝活動も都市部に限られていた。一方、社会党の方は、全国に張りめぐらせた共産党時代の組織網がそのまま残っていた。一般にバルカン諸国では、共産党ないし共産党の後継政党は選挙実施を急ごうとした。「国家党」としての組織が残っているうちに政権基盤を固めようとする狙いからである。
議席数では社会党が過半数に達したが、社会党側の有利な条件を差し引くと、選挙の真の勝利者は野党であった。民主勢力同盟はソフィアをはじめ全国の主要都市部で、知識人や青年層の支持を集めて大勝した。社会党の勝利は、急激な変化を嫌ったり、野党への投票そのものを恐れる地方の保守票に支えられていた。有権者はこれまd共産党の候補に義務的に賛成票を投じてきただけなのだ。
選挙は議会定数の半数が比例代表制で、残る半数が小選挙区による個人選挙で実施された。民主勢力同盟は首都ソフィアの26選挙区のうち24選挙区を押さえ、第二の都市プロブジフは8選挙区のすべてで勝利、パルチなどその他の都市でも社会党を圧倒した。社会党は政党支持率が表われる比例代表200議席でみると、半数以下の97人しか当選していないが、小選挙区で114議席を確保しており、この党の勝利が単に「農村部の小選挙区」での優位にのみ依拠していたことは明白だった。
この選挙結果には、社会党の将来を暗示させるものがあった。都市部では党組織が機能しなくなっていた。11月の”宮廷革命”を引き金に始まった国民意識の変化は、党を置き去りにしてはるかに進んでいたのだ。
大統領のウソ
情勢に遅れた元共産党の最初の犠牲者は、大統領のムラデノフ自身だった。総選挙の翌日6月11日から、社会党による選挙の不正を糾弾する学生の抗議デモが首都ソフィアで始まった。騒然とした情勢の中で14日、民主勢力同盟が一本のビデオテープを国営テレビの割当番組で流した。ビデオのシーンは前年12月14日のソフィアの人民議会前、「党の指導的役割」を憲法から削除するよう求める反体制デモが議会前に押し寄せていた。当時、共産党書記長だったムラデノフは群衆を説得しようとしてヤジられ、興奮した表情で議会内に引き揚げる際、国防相ジュロフに向かって、「戦車を投入するのが手っ取り早い」と発言していた。
ムラデノフは当初、ビデオは「合成による創作だ」と反論したが、学生らの抗議デモは選挙の不正糾弾から、大統領の辞任要求へと矛先を変えた。与野党合意の上で、検察当局者、法律家、映像専門家から成る調査委員会が設置された。委員会は7月4日、「ビデオは本物、修正された形跡はない」という明快な鑑定結果を発表した。弁解の余地を失ったムラデノフはテレビで演説し、問題発言は「文脈の一部を抜き出したものだ」「あの当時、民主主義は厳しい試練にさらされていた」「現実感覚を備えた国民は、大統領の言葉ではなく、行為を信じてくれるだろう」などと述べ、その真意はともかく、問題の発言は確かにあったことを間接的ながら認めた。
’大統領のウソ’が判明したことで、抗議行動はますます高まった。国営テレビは6日午後8時、ムラデノフの辞任声明を読み上げた。午後8時までに辞任しなければゼネストに突入するという学生らの最後通告を前に、ムラデノフは「国内の緊張拡大の原因にはなりたくない」とコメントした。これは非情な惜別の辞であった。ムラデノフの政治生命がこれで完全に断たれたことを意味した。
舌禍事件がなくとも、ムラデノフ留任は難しい情勢であった。大国民議会は大統領選出、新内閣承認、憲法制定の三大責務を抱えていたが、社会党の議席は大統領選出に必要な三分の二を欠いていた。大統領が決まらなければ、大統領が指名する首相も決まらず、野党はこれをテコに、大統領ポストを奪う算段をしていた。

野党の大統領
三週間余りの与野党の駆け引きが続いた挙句、新大統領には民主勢力同盟議長のジェレフが就任した。民主勢力同盟は、当初、大統領候補として、傘下にある社会民主党議長ぺタル・デルトリエフを立てていたが、戦前からの筋金入りの社会民主党員で、強烈な反共産主義者であるデルトリエフに対しては、社会党側のアレルギーが強かった。社会党はジェレフを推すことで妥協せざるを得なかった。共産党は1948年、当時の社会民主党の活動を禁止し、多くの党員を粛清した。これも歴史のツケの一つだった。

*Българскиブルガリア語→Петър Антонов Дертлиев (7 април 1916 – 5 ноември 2000) е български политик, социалдемократ. Роден е в с. Писарово, Плевенска област.[1] Родът на баща му е от Велес, Вардарска Македония, а на майка му - от Беломорска Тракия.
窮地に立った社会党は組織体制を立て直すため、9月22日、改めて大会を招集した。リロフは開幕演説で、党改革が失敗すれば、党は破滅すると危機感を表明する一方、「ハンガリーやチェコスロバキアのような政治状況」はブルガリアにはふさわしくないと断定、党は政権を放棄する意志がないことも強調した。党の体質を測る尺度となる指導部人事を見ると、151人の新最高評議会にムラデノフ、ジュロフ、トドロフは選出されておらず、一定の世代交代がうかがわれた。
しかし、改革派では「民主的社会主義」を率いるアレクサンドル・トモフが入っただけで、全般的には保守色の強い指導部になった。約1300人の代議員の7割は地方選出組が占めており、改革派が多いはずの都市部の組織は先細りの状態にあることを強く印象づけた。元青年共産同盟国際部の書記だった著者の知人は、社会党にはとどまったが、今は外国企業との合弁契約などの代理業会社を創業し、「ビジネスの方が面白くて、党活動なんかやってられないよ」と言っている。インテリ党員の多くがこうして党活動を離れていった。


*Българскиブルガリア語→Александър Трифонов Томов е български университетски преподавател, политик и бизнесмен.
暫定内閣
ムラデノフに惜別の辞を送ったルカノフは、次の犠牲者が自分自身になろうとは夢にも思っていなかっただろう。
選挙に勝った社会党はルカノフの続役を決め、ルカノフは野党との連立を模索した。しかし、野党は賢明に政権参加を回避した。大国民議会は9月19日、新首相にルカノフを承認し、社会党の単独内閣が選挙以来2ヶ月余でやっと発足した。しかし、11月、春先から始まった食料・エネルギー不足を引き金とする自主管理労組「ポドクレバ」呼び掛けのゼネストに、旧官製労組までが合流し、新内閣は同月29日、2ヶ月余で総辞職に追い込まれた。
後継内閣の首班には無党派のソフィア地裁裁判長ポポフが就任し、全党参加による暫定内閣が発足した。3人の副首相は社会党、民主勢力同盟、農民同盟が分け合い、首相を含む18閣僚のうち、社会党は民主的社会主義派の副首相トモフも入れ半分以下の8ポストに甘んじた。

*Българскиブルガリア語→Димитър Илиев Попов е български юрист и политик.
春の選挙で選出された大国民議会は、新憲法制定のための憲法制定議会だった。翌91年になると、本格政府を樹立する必要もあって、野党の早期解散・総選挙論が高まった。議会で多数を占める社会党は憲法審議をずるずると引き延ばし、選挙の先送りを狙った。社会党の党勢力は91年6月時点で48万人にまで衰退していた。わずか1年で半減した計算になる。だが、社会党にとって、もはや出口はなかった。有権者の投票を党の思いのままに操作できる時代は過ぎ去っていた。いたずらに選挙を引き延ばす戦術は、逆に党の信用をますます低下させかねない。

政権喪失
91年10月13日、ついに社会党が政権を失う日が到来した。この日投票された第2回自由選挙で民主勢力同盟主流派は定数240のうち110議席を獲得、社会党は24議席で第三党、共産党時代の翼賛政党であった農民同盟などその他の政党は4%条項をクリアできず、議会選出に失敗した。
民主勢力同盟は首相に議長フィリプ・ディミトロフを確立、ディミトロフは「権利と自由運動」の支持を取りつけ、11月、単独少数内閣を発足させた。

社会党の成績はむろん善戦と言えたが、今後しばらくは、長期低落傾向に歯止めをかけるのは無理だろう。改革を主導したハンガリー党さえ、第1回自由選挙で政権を去った。
ジフコフは92年9月、公金横領罪で懲役7年の判決を受けたが、長期独裁政権の罪をジフコフ1人に押しつけることは、結局、不可能なのだ。
*Българскиブルガリア語→Филип Димитров Димитров е български политик от Съюза на демократичните сили (СДС). Като министър-председател на България е начело на правителството от ноември 1991 до 30 декември 1992 г.

           5 遅れて来た「プラハの春」-チェコスロバキア

*プラハの春(プラハのはる、チェコ語:Pražské jaro〔プラジュスケー・ヤロ〕、スロバキア語:Pražská jar〔プラジュスカー・ヤル〕)は、1968年に起こったチェコスロバキアの変革運動。ソビエト連邦軍主導のワルシャワ条約機構軍による軍事介入[1][2]のみを取り上げた場合はチェコ事件という。

*チェコスロバキア社会主義共和国(チェコスロバキアしゃかいしゅぎきょうわこく、チェコ語・スロバキア語:Československá socialistická republika)は、1948年から1989年までの間存在したヨーロッパ東部の国家である。1948年のチェコスロバキア総選挙によりチェコスロバキア共産党が政権を獲得し、人民民主主義体制をとったことにより誕生した。ただし、1960年までの国号は以前と同じチェコスロバキア共和国(Československá republika)であった。「社会主義共和国」の国名が正式に使われるようになったのはそれ以降である。1989年のビロード革命により共産党一党独裁体制が崩壊して消滅した。

*チェコスロバキア(チェコ語: Československá、スロバキア語: Česko-Slovenská)は、Republic)、通称チェコは、中央ヨーロッパ[注釈 1]の共和制国家。首都はプラハである。国土は東西に細長い六角形に近い形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接する。1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離し成立した。NATO、EU、OECDの加盟国で、中欧4か国からなるヴィシェグラード・グループの一員でもある。1918年から1992年にかけて中央ヨーロッパに存在した国家。現在のチェコ共和国およびスロバキア共和国により構成されていた。これはトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュが唱えた、チェコ人とスロバキア人がひとつの国を形成するべきであるというチェコスロバキア主義に基づくものである。建国当初は現在のウクライナの一部であるカルパティア・ルテニアも領域に加えられていた。首都は現在のチェコ首都であるプラハ。国旗は現在のチェコ共和国と同じものが使用されていた。1948年からはチェコスロバキア共産党の事実上の一党独裁制によるソ連型社会主義国となり、1960年に国名はチェコスロバキア社会主義共和国(チェコ語・スロバキア語: Československá socialistická republika)とされ、1989年まで使用された。

パツラフ広場
中世の町並みがそっくり残るチェコスロバキアの首都プラハー。ここで飲むビールは格別の味わいがある。地元名「プルゼニ」ではなじみがない人でも、ドイツ名「ピルゼン」と言えば、世界に知られたブランドの産地として、思い出す人は多いはずだ。街にはハシェクの民族的哀感こもる風刺小説「兵士シュヴテイク」で知られる「ウ・カリハU Kalicha」など、由緒あるビアホールがたくさんあり、観光客や地元市民で賑わう。

*プラハ(チェコ語・スロヴァキア語: Praha [ˈpraɦa] )は、チェコ共和国の首都であり、同国最大の都市。中央ヨーロッパ有数の世界都市。人口は、約120万人。北緯50度02分、東経14度45分に位置する。ドイツ語では Prag(プラーク)、マジャル(ハンガリー)語では Prága(プラーガ)、英語では Prague(プラーグ[6])と呼ばれる。漢字表記は布拉格。プラーグ、フラーグとも。
*プルゼニ(チェコ語: Plzeň、Cs-Plzen)は、チェコ共和国のボヘミア地方西部の都市。プラハ、ブルノ、オストラバに次ぎチェコ第4の都市。プルゼニ州の州都。プルゼニュの表記もあり、ドイツ語名のピルゼン(Pilsen)でも知られる。
*ヴァーツラフ広場(Václavské náměstí)は、チェコ共和国プラハにある広場である。大通りと呼んだほうがふさわしいかもしれない。プラハのシャンゼリゼとも言われる賑やかな場所である。

*ヤロスラフ・ハシェク(Jaroslav Hašek、 IPA:[ˈjaroslaf ˈɦaʃɛk]、1883年4月30日 - 1923年1月3日)は、チェコのユーモア作家、風刺作家。代表作『兵士シュヴェイクの冒険』(ある兵士が第一次世界大戦において出会う滑稽な事件の数々を描いた未完の連作短編)は、60もの言語に翻訳されている。
だが実のところ、最近まで街には重苦しい雰囲気が漂っていた。市民と話しても、政治向きの話題は要注意、そんな雰囲気を一変させたのが89年秋の出来事だった。
ブルタバ河岸から迷路のような旧市街を抜けると、民族の英雄パツラフの騎士像が立つ広場に出る。数十万人の市民が連日繰り出し、「ビロード革命」と呼ばれる政変に発展していった大規模集会の舞台はここだった。
*ヴルタヴァ川(ヴルタヴァがわ、チェコ語:Vltava [ˈvl̩tava] , ドイツ語:Moldau [ˈmɔldaʊ])は、チェコ国内最長の川である。エルベ川の支流。表記ゆれでブルタバ川とも[1]。日本ではモルダウ川(ドイツ語)としても知られる[2]。その川の名前の(Vltava)は、「野生の水」を意味する古いゲルマン語の「wilt ahwa」に由来すると考えられている。
*ヴァーツラフ1世(Václav I., 907年 - 935年9月28日)は、ボヘミア公(在位:921年 - 935年)。ヴラチスラフ1世と妃ドラミホーラの長男。プシェミスル朝の実質的な始祖ボジヴォイ1世の孫で4代目にあたる。ボヘミアのキリスト教化を推進したが反対派に暗殺された。チェコの守護聖人聖ヴァーツラフとしても知られている。
あれから3年、チェコスロバキアはチェコ、スロバキアの二国へと解体する運命を迎え、広場では「ハベルをチェコ共和国の大統領に」と訴える集会が開かれている。バツラフ広場はこの国の状況を映す鏡のような存在だ。
68年には、国境を越えて侵入してきた外国軍の戦車が石畳を踏み砕いていった。その当時、共産党指導部が踏み出した改革実験は「プラハの春」と呼ばれた。

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