日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Revolutionen im Jahr 1989/Революции 1989 года/Chute des régimes communistes en Europe『東欧革命』三浦元博・山崎博康著【Eastern European Revolution - What happened inside power】Author Motohiro Miura , Hiroyasu Yamazaki⑤

「連帯」側は89年1月22日、直ちに提案の受け入れを決めた。体制内改革の道を選択したことは、「連帯」にとっても重大な方向転換だった。ワレサと彼を支える知識人グループの現実路線がこれで決まった。東欧諸国で初の、そして後に各国に広がる「円卓会議」は、こうして2月6日、ポーランドで始まり、2ヶ月続いた。会議は政治改革、労組組合問題、経済改革・社会政策の三分科会に分かれ、選挙のあり方、大統領制の導入、「連帯」合法化から、対外債務、農業物価格の自由化、教育のあり方に至るまで多岐にわたる問題を扱い、4月5日に最終合意文書が調印された。この結果、「連帯」の公認が決まり、17日、7年ぶりに労組として再登録された。
国会は上院の創設で二院制となり、上院(100議席)は完全自由選挙、下院(460議席)は35%が在野勢力に割り当てられた。限定付きとはいえ、国政レベルの自由選挙方式が導入されたのは初めてだった。しかも、下院の割り当て方式も一回限りとし、任期満了の4年後には完全自由化することが申し合わされた。
また集団議決制の国家評議会(議長は元首)に代わる新設の大統領(任期6年)は上院両院の合同会議で選出され、国軍最高司令官を兼任するほか、非常事態宣言の布告、国会解散、法案に対する拒否権など強い権限を付与されることになった。国会選挙は6月実施と決まった。

党の打撃
当初10月説もあった選挙が6月にくり上げられたのは、ラコフスキの主張によるところが大きかった。「連帯」を復活させれば早晩、国会に対する党支配は批判を浴びる。したがって、一部割り当て制の選挙を早急に実施し、「連帯」を政治の場に取り込んでしまうほうが得策という判断だった。円卓会議を急いだのもこのためだった。選挙戦に未熟な在野勢力が態勢を整える前に、というしたたかな望みもあった。選挙は、農民を基盤とする統一農民党、知識人や手工業の業者らでつくる民主党、キリスト教系社会団体に割り当てられた。党指導部はこれらを加えた与党連合を組むことで65%を確保し、「連帯」に対抗できると踏んでいた。党の、このちょっとした”誤算”が後の政変で重要なカギを握ることになる。
もう一つ、上院は独自の法案策定ができるとしたほか、下院通過法案に対する拒否権が付与された。問題は、法案を差し戻す上院の拒否をいかに覆すか、だ。党は下院の五分の三(60%)をもって上院の拒否決定を覆せる制度を提案した。しかし、「連帯」側は三分の二(66・67%)の線を主張、最終的に認めさせた。上院は完全自由選挙である。選挙の見通しは不透明だ。党の提案ならば、与党連合が65%もの議席枠を持つ限り、上院の動きを封じることができる。だが、「議席」案では、与党連合が結束しても規定数には達しない。わずか2%未満の差だが、これを埋めるには、政局運営への「連帯」の協力は欠かせない仕組みになる。「連帯」は大きな議席を勝ち取った。
「連帯」復権の手法については、党が「合法化」の表現を主張、「連帯」が求めていた「再合法化」の要求を取り下げさせた。「再合法化」とは、戒厳令下の非合法化を否定することを意味し、ヤルゼルスキとしては政権の正統性を自ら否定することになり、様々な法的問題を惹起する恐れがあった。「連帯」を解体した労組法も無効とはせず、修正したうえで、「連帯」を新規登録する形をとった。


経済の重圧
ポーランド経済は一段と悪化しつつあった。86年の国内総生産は対前年比4・6%の伸びを示したものの、87年にはわずか2%の成長率に落ちていた。88年には再び4%台に戻したが、経済危機に陥る前の79年には62・3%と前年の二倍以上に膨れ上がり、実質賃金は80年水準を下回る下降を示していた。対外債務は370億ドルに達し、経済を圧迫していた。
こうした状況下、88年から始まった経済改革第二段階は、市場原理を徹底させて政府援助金を大幅に削減し、価格自由化を拡大するほか、個人経営の奨励、企業の自主権拡大などによって経済の活性化を図ることを狙いとしていた。ラコフスキの課題はこのプランに一貫性をもたせ、最後まで貫徹することだった。不採算企業は解体も辞さないという強い姿勢で臨んでいた。改革を進めるには不人気な政策も敢えて採用せざるを得ない。新国会には、こうした厳しい政策遂行を支援する役割を望んでいた。
経済改革に関する円卓会議の合意は、財政赤字を2.3年以内に解消し、補助金を撤廃し市場経済に移行するという目標を定めた。その一方で、完全雇用の堅持といった、少なくとも短期的には改革のプロセスにそぐわない内容も含んでいた。
経済危機は選挙戦に微妙な影を落としていた。複雑化した労組の対応にそのことがうかがえた。円卓会議の合意文書はインフレ率に応じてストライキする賃上げ方式の採用を盛り込んだが、このスライド制をめぐる激しい攻防があった。ラコフスキはインフレを加速させることを恐れ、スライド制に抵抗したが、「連帯」の要求に屈し、インフレの80%補填を認めざるを得なかった。物価が急騰する中で、ストを回避させるのに必要な措置と「連帯」側は主張した。「連帯」は選挙戦でも生活防衛や完全雇用をアピールしていた。これに対し、ラコフスキは挑発的とも言える口調で、厳しい改革に訴えざるを得ないことを説いた。経済改革を担当する首相として、大衆受けする公約は出せなかった。
珍現象が起きた。官製労組OPZZが合意に反対を唱え始めたのだ。ラコフスキ支持を表明して当然であるにもかかわらず、その対政府要求は「連帯」以上に過激だった。OPZZはインフレと同率の100%の賃金補填を求め、一歩も譲らない姿勢を見せた。「連帯」よりも一層強い姿勢を見せたのは、選挙への意識と、合法化された「連帯」に対する組織としての危機感からだった。

党の誤算
「連帯」の圧勝

国会選挙は89年6月4日、行なわれた。自由選挙の上院(100議席)には558人、下院(460議席)には1795人、合計2353人が立候補した。下院の与党連合枠も複数候補制をとった。投票総数の過半数を占めれば当選、これに満たない場合は、上位2人で決戦投票が行なわれる仕組みである。ただし与党連合枠には党要人らを対象とした全国区リスト35議席が含まれた。
選挙は事実上、戦後の党支配に審判を下す場となった。投票の結果は、事前の世論調査にもとづく予想を上回る「連帯」の圧勝となった。「連帯」は第1回投票で下院の160議席、上院の92議席を占め、さらに第2回投票で下院1議席、上院で7議席を上積みした。合計すると、下院は在野勢力に割り当てられた161議席のすべて、上院も99議席(残る1議席は無所属)を制覇し、圧勝した。
与党連合は上院では1議席もとれず、299議席が配分された下院で、第1回投票で当選を決めた候補はわずか5人だった。全国区ラコフスキ、キシチャクら党改革派の大物は過半数に満たず軒並み落選、党に衝撃を与えた。このような事態を想定していなかったため、無風の全国区に再投票規定はなかった。このため、「連帯」の了解で議席を穴埋めする羽目になり、党は「連帯」に借りをつくることになった。
選挙結果は国内情勢を根本的に変えた。党の威信は完全に地に堕ちた。一気に本格的な複数政党制に移行してしまったのである。党が議席枠に拘泥したように、数の重みは大きかった。今や、「連帯」は両院で260議席を占める最大勢力となった。上院で完敗した党は下院の173議席のみで、第二党に転落した。党主導の政治体制は音をたてて崩壊し始めた。
権力の空白
65%は堅いと踏んでいたラコフスキは、大きな誤算を犯したが、誤算は「連帯」側にも言えた。党が大敗したことで、完全に野党的な立場はとりづらくなった。だが、党に代わって政治を担う用意はまだなかった。ヤルゼルスキが選挙前に提案した連立政権への参加にさえ、むしろ否定的だったのだ。
連立政権の行方が定まらないのに加え、今度はヤルゼルスキが6月30日、大統領選への出馬辞退を表明し、政局は一段と混迷を加えた。ヤルゼルスキは大統領ポストに就く含みから、国会選挙には出ていなかった。出馬辞退は選挙結果を踏まえたもので、ヤルゼルスキは代わりにキシチャクを推した。

ヤルゼルスキを救った「連帯」
この時、「あなた方の大統領、われわれの首相」というアイデアが浮上した。「連帯」会議の下院議員となった理論的指導者ミフニクが7月初め、自ら編集長を務める「連帯」系紙『ガゼタ・ビボルチャGazeta Wyborcza(選挙新聞)』を通じて発表した記事がそれで、党出身の大統領を体制保証として受け入れるかわりに、政府は「連帯」が組閣すると提案したのだった。連立参加ではなく、一気に組閣の主導権を握るという大胆な発想だが、同じ日、ソ連共産党書記長ゴルバチョフの外交顧問ザグラジンはパリで「ポーランドにどんな政府が生まれようと、それは国内問題だ」と発言し、非共産政権の樹立さえ容認する姿勢を見せていた。
ミフニクの提案には「連帯」側に慎重論があり、『ティゴドニク・ソリダルノシチTygodnik Solidarność週刊連帯)』編集長に復帰したマゾビエツキは、「連帯」主軸の政府は官僚制の抵抗の前には無力だと指摘していた。
ヤルゼルスキは与党連合の説得に応じる形で出馬辞退を取り下げ、7月19日、上下両院合同会議で大統領に選出された。「連帯」会派は独自候補を立てなかったため、信任投票の形となった。有効投票数537票のうち、賛成270票、棄権34票だった。選挙数ギリギリの際どい得票で当選が決まった。
投票結果は与党連合(299議席)が必ずしも一枚岩ではないことを示す一方、「連帯」の協力票があったことを浮き彫りにした。有効性が増せば過半数レベルは高くなる。「連帯」会議にはヤルゼルスキ不支持論が強かったが、棄権が18人、投票に加わらなかった議員が11人いた。賛成票も1票だけあった。意識的に無効票を投じた議員が7人もいた。こうした投票行動が決定的な重みを持った。ヤルゼルスキの元首就任は、ソ連を刺激しないための保証だった。ヤルゼルスキは「連帯」に救われた。

連立工作
大統領に就任したヤルゼルスキの最初の仕事は、新政府の首班指名である。7月25日、ワレサと会談したヤルゼルスキは、「連帯」に第1副首相などの閣僚ポストを提示し、連立はあくまで党主導とする考えを伝えた。しかし、ワレサは「連帯」中心の組閣を主張、さもなければ野党にとどまると主張し、ヤルゼルスキ案を突っぱねた。このため、ヤルゼルスキの指名を受けたキシチャクが8月2日、首相に就任したものの、組閣工作は進まなかった。ポーランド政局は既に、「連帯」の手に握られつつあった。
ヤルゼルスキは大統領就任に伴い、7月29日、党第一書記を退いた。後任にラコフスキが就任したため、首相の座が後がまにキシチャクを据えたのである。キシチャクは「連帯」の協力を得られず、8月14日、組閣断念に追い込まれた。キシチャクはヤルゼルスキへの忠誠心から組閣要請を引き受けただけで、首相になる本心はなかった。ワレサはこの点をよく見抜いていた。キシチャクは統一農民党党首マリノフスキを首相候補に推薦したが、ワレサはここで全く別の連立案をぶつけた。

ワレサの計算
「連帯」と、与党連合内から統一労働者党(共産党)をのぞいた統一農民党、民主党との連立である。ワレサの巧みな戦術が流れを変えた。両党とも、共産党外しのワレサ提案に飛び付いた。ワレサは17日、両党党首マリノフスキ、ユジビャクを伴いヤルゼルスキと会談し、新連立案の受け入れを熱心に説いた。ヤルゼルスキは統一労働者党の参加を条件に、ワレサの説得を受け入れた。
ワレサが新首相候補として提案したのはマゾビエツキだった。西側移住を希望する東独国民が難民となってハンガリーやチェコの西独大使館に押し寄せ、東欧の全般的危機が深化しつつあった時、東欧初の非共産党主導内閣の誕生はこうして確定した。
国会の新しい現実を反映させるとした「連帯」の連立構想のカギは、与党連合の構成にあった。統一農民党は76、民主党は27の議席を持っていた。いずれも戦前からの歴史に連なる政党で、長年、共産党の翼賛政党の地位に甘んじてきたが、誌時の流動化に伴い、自立志向を強めていた。これら少数党がポーランド政変のキャスティングボードを握ったのである。社会主義の一党独裁体制を補完する衛星政党の役割から脱皮しようとする小政党の意思が、政変の最後の決め手となった。統一労働者党は歴史からしっぺ返しを受けたのである。
*ポーランド農民党(ポーランドのうみんとう、Polskie Stronnictwo Ludowe, 略称:PSL)は、ポーランドの中道右派政党。英語圏のメディア等でPolish People's Party の訳を用いるものがあるため、日本語でポーランド国民党とされることもあるが,現地を知る研究者らの間ではPolish Peasant Partyの訳が広く浸透している。日本の研究者の間でも「農民党」と呼ばれていることが多い。
*民主党‐民主主義者ドットペーエル(みんしゅとうみんしゅしゅぎしゃドッドペーエル、ポーランド語:Partia Demokratyczna – demokraci.pl, PD)は、かつて存在したポーランドの自由主義政党。1990年の大統領選挙においてタデウシュ・マゾヴィエツキを支援した民主連合(Unia Demokratyczna、UD)の潮流を汲む。

大分裂時代
党・「連帯」のコンビ
マゾビエツキは8月19日、ヤルゼルスキの首相指名を受け、5日後の国会は圧倒的多数でこれを承認した。マゾビエツキは経済危機の克服をはじめとする改革への国民の協力を訴え、外交面ではワルシャワ条約機構加盟国としての立場を堅持する現実的立場を鮮明にした。翌9月12日の国会承認を受けて発足した連立内閣では、23人の閣僚のうち蔵相ら経済関係閣僚を含む11人を「連帯」が占めた。統一労働者党には内相、国防相ら4人を割り当て、対ソ関係に慎重な配慮を見せた。ほかに統一農民党4人、民主党3人、無所属1人を加えた挙国一致内閣であった。
マゾビエツキは施政方針演説で、「冷戦の終わった今日、第二次世界大戦後東西に分断された欧州の現状は時代にそぐわなくなった」と述べ、欧州の一体化を唱えた。経済政策では、補助金削減や賃上げ抑制の緊縮策を示し、必然的にもたらされる生活水準の低下を認め、国民に「我慢」を求めた。ヤルゼルスキ体制が80年代、一貫して進めようとしながら、社会の反発に出遭って後退を余儀なくされた経済再建の至上命題は、民意を反映した新政権の登場ではじめて解決への前提が整った。
マゾビエツキは「連帯」の民主化運動の遺産がポーランドの民族的亀裂の修復に役立つと強調、経済危機が克服できなければ、政治的自由も極めて短命に終わるだろう、と指摘し、共産政権に対し国民が決して見せることがなかった理解を訴えた。現実主義者として、経済再編のためには耐久生活しか道がないことをよくわきまえていた。
マゾビエツキは国民が厚い信頼を寄せる代表的知識人で、難局を乗り切るには最適の人物として社会に迎えられた。「連帯」運動には当初から顧問として参加し、機関紙『ティゴドニク・ソリダルノシチ』の編集長を務めた。円卓会議にも予備折衝の段階から加わり、「連帯」再建に尽くした。81年12月の戒厳令では一時拘束されたが、当時の軍政最高責任者ヤルゼルスキ将軍と指導コンビを組む巡り合せでは、まさに国民和解の象徴と言えた。

党の分裂
「連帯」が主流を占めたポーランド国会は12月30日、憲法から「党の指導」条項を削除し、国名を「ポーランド人民共和国」から「ポーランド共和国」へと改称、国章も白鷲に王冠を被せた戦前のものに変えた。統一労働者党中央委も翌90年1月、「プロレタリア独裁」を放棄し、スターリン主義の過去と決別する党大会向けの新党綱領案を承認した。
党大会は1月27-29日の日程で開催された。末端組織から選出された大会代議員1639人のうち、45歳以上の若手は三分の二を占め、さらに三分の二は知識人が占めていた。このことは、「階級政党」から「国民政党」への脱皮を願う下部党員の期待を示すとともに、党組織そのものの階層分化を表してもいた。党の自己変革は教育水準の向上などによる高等教育修了者の増加なしには考えられない。
初日の基調演説に立った第一書記ラコフスキは「党が失敗した原因は、強いられた社会主義モデルにあった」と述べ、ソ連を厳しく批判し、ソ連型社会主義を「ロシア型封建奴隷制」と呼んで、ポーランド社会に適った新たな社会主義政党の設立を訴えた。
大会は同時に、党自体の分裂をもたらした。大会2日目、一部の若手改革派代議員は、下院副議長タデウシ・フィシバフを代表に確立して新党「社会民主連合」の結成に踏み切った。一方、党本体もいったん解散し、新たに「ポーランド共和国社会民主主義」を創設、旧来の政治局体制を廃棄し、150人から成る最高評議会を選出した。初代議長には、ヤルゼルスキ政権で青年問題担当相を務めた30代の若手アレクサンデル・クワシニエフスキを据えた。クワシニエフスキは前年夏から始まった党内改革運動「7月8日運動」にも参加していたが、同運動が社会民主連合の結成に走ったのに反し、党内に止まったのだった。
*民主左翼連合(みんしゅさよくれんごう[1]、ポーランド語: Sojusz Lewicy Demokratycznej)は、ポーランドにおける社会民主主義政党である。世界各国の中道左派・社会民主主義政党の国際的組織である社会主義インターナショナルに加盟している。

*アレクサンデル・クファシニェフスキ(Aleksander Kwaśniewski, 1954年11月15日 - )は、ポーランドの政治家、ポーランド共和国第三共和政第3代大統領。報道ではクワシニエフスキとも。
主流派の「共和国社会民主主義」が採択した新綱領は「民主的選挙で表明される国民の意思が権力の唯一の源泉である」と想定し、党活動の目的は「ポーランドへの奉仕」であると宣言した。ポーランドにおける「民主化」とは、とりもなおさず「非ソ連化」「非ロシア化」であり、民族独立の回復である以上、新党が目指す道はポーランド自主路線以外にあり得なかった。
ゴルバチョフの謝罪
党大会に先立つ89年11月、ポーランド国民の抜き難い反ソ感情の源泉となってきた「カチンの森」事件に、ゴルバチョフは初めて真相解明の光を投げ掛けていた。この事件は戦時中の1943年、ソ連に侵攻したナチス・ドイツが白ロシアのスモレンスク近郊の森で、ポーランド将校約4000人の虐殺死体を発見したと発表したのが発端だった。当時、ロンドンにあったポーランド亡命政府は国際赤十字による調査を要求したが、ナチスの反ソ宣伝だとするソ連はこれを拒否、亡命政府と断交してしまった。しかし、ポーランド国民の間では、ドイツとともにポーランドを分割占領したソ連が、亡命政府指揮下の国防部隊が生まれるのを恐れ、将校を抹殺したとする考えが常識化していた。誇り高いポーランド国民にとって、事件はいわば国辱であり、対ソ感情の正常化には、事件の見直しは避けて通れなかった。

*ポーランド亡命政府(ポーランドぼうめいせいふ、ポーランド語: Rząd Rzeczypospolitej Polskiej na uchodźstwie)は、1939年のポーランド侵攻後のナチス・ドイツ及びソビエト連邦による国土の分割占領により、ポーランド第二共和国政府を継承して組織された亡命政府である。

この月、モスクワを訪問したマゾビエツキに、ゴルバチョフは「両国関係を暗くした問題から教訓を引き出さねばならない」と述べ、事件の真相解明を約束した。そして、ゴルバチョフは4ヵ月後、モスクワを訪れたヤルゼルスキに対し、事件の首謀者とされる旧ソ連内務人民委員会の資料を手渡し、謝罪した。ヤルゼルスキは現場を訪れ、「独立ポーランドのために戦い、最後に息をひきとるまで祖国に忠実だった」と述べ、死者を弔った。この時、ヤルゼルスキは自らの政治家としての使命は半ば終わったことに満足を感じていたに違いない。ワレサの野心が元で、間もなく始まる「連帯」の内部抗争と政治の混乱を尻目に、ヤルゼルスキは辞任の道を選ぶことになる。
*Polskiポーランド語→NKWD ZSRR (ros. НКВД СССР)内務人民委員部, Ludowy Komisariat Spraw Wewnętrznych ZSRR (ros. Народный комиссариат внутренних дел СССР, trb. Narodnyj komissariat wnutriennich dieł SSSR, wymowa i) – centralny organ państwowy (ministerstwo) wchodzący w skład Rady Komisarzy Ludowych – rządu ZSRR, istniejący pod tą nazwą w latach 1917–1946.

ワレサのあせり
マゾビエツキ政権が誕生し、ヤルゼルスキ大統領との二頭体制が順調に滑り出すと、「連帯」議長のワレサの心中は次第に穏やかさを失っていった。始動した議会主義は在野指導者を必要としなくなった。共産党支配が終わって、国民はかつてのグダニスクの英雄のことをほとんど忘れかけていた。政権を取ったことにより、労組「連帯」もまた、組織としての岐路を迎えていた。再び自己主張するためには、ワレサは新たな敵を必要とした。
ワレサは89年暮れごろから、大統領ポストへの意欲をちらつかせる一方、改革のペースが遅すぎるとマゾビエツキを批判するようになった。ヤルゼルスキに対しても、早期辞任を求め始めた。発言の端々には、大統領ポストへの執着が感じられた。ヤルゼルスキが己の使命を終わったことを悟っていたとすれば、「連帯」の時代が去りつつあることを認めようとしないワレサは好対照だった。
こうした中、90年4月、8年ぶりの「連帯」大会が開催された。ワレサにとっては、大統領ポストへの唯一のチャンスだった。大会はワレサを議長に再選したが、ワレサはこれを大統領選挙への出馬支持とみなし、マゾビエツキ政府支持を表明する一方で、「労組出身の大統領が誕生すれば、われわれ共通の勝利になるだろう」と述べ、政治的野心をもはや隠そうとしなかった。「連帯」はこれを受け、大統領選の早期実施を求める決議を採択した。ワレサの戦術は見事に当たった。しかし、この時期、国民のワレサ支持率は決して高くはなかった。マゾビエツキ、「連帯」国会議員団長ゲレメク、ヤルゼルスキの後塵を拝していた。ワレサは生き残りをかけていたのだった。

*ブロニスワフ・ゲレメク(Bronisław Geremek、1932年3月6日 - 2008年7月13日)は、ポーランドの歴史学者、政治家。欧州中世史を専門とし、貧困、社会的排除を中心とする社会史研究で知られる(邦訳『憐れみと縛り首』ほか)。ポーランド科学アカデミー、欧州大学院大学ナトリン校、コレージュ・ド・フランスなどで教鞭を執った。チェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」に対するワルシャワ条約機構軍の軍事介入を機に、ポーランド統一労働者党を離党。レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)が率いる独立自主管理労働組合「連帯」の顧問を務め、円卓会議に参加。ポーランド民主化運動を牽引した。共産主義体制崩壊後、外相としてポーランドの北大西洋条約機構 (NATO) および欧州連合 (EU) 加盟に尽力し、欧州議会議員、欧州安全保障協力機構の議長を歴任した。
「連帯」の分裂
ワレサの野心は、「連帯」の崩壊をもたらすことになった。「連帯」の選挙権動体である全国市民委員会が6月に会議を招集した際、幹部63人がワレサに反発し、委員会の解体を要求したのだ。反ワレサ派にはアダム・ミフニク、ヤツェク・クーロンら「連帯」の理論的支柱となってきた知識人、映画監督アンジェイ・ワイダらそうそうたるメンバーが含まれていた。「連帯」以前のポーランド反体制運動は、常に当局による労働者と知識人の分断作戦で挫折させられてきた。だが、今度は組織が自壊作用を起こし始めたのだ。

*アンジェイ・ワイダ(波: Andrzej Wajda [ˈandʐɛj ˈvajda]、より原語に近い姓のカナ表記はヴァイダ、1926年3月6日 - 2016年10月9日[1])は、ポーランドの映画監督。
ワレサはうっとうしい知識人グループを切ることによって、自ら「労働者」の側に立つ戦術に打って出た。マゾビエツキは7月、ワレサとの関係を修復するための極秘の会談をするが、ワレサはその翌日、政府を公然と批判し、対決姿勢を鮮明にする。政策論争抜きの泥試合であった。ここにきて、マゾビエツキを支持する反ワレサ派は新党「市民運動・民主行動」を結成、「連帯」は分裂してしまった。

ヤルゼルスキの怒り
一方、ワレサ派はこれより先、「中道同盟」を組織し、ヤルゼルスキの退陣を求める署名運動に乗り出していた。ヤルゼルスキは「4000万国民の代表になろうとするなら、知的かつ文化的な素養がなければならない」と述べ、不快感を露わにした。ワレサのころころ変わる発言や、剥きだしの政治的野心に嫌気がさしたのだろうか。ヤルゼルスキは秋に入り、「政治的混乱を回避できるなら」として、辞任を表明する。人格の高潔さにおいて、社会主義者ヤルゼルスキは、格段に秀でていた。
ヤルゼルスキはこの年の暮れ、退陣にあたり国営テレビで声明を読み上げ、政治家としての9年間を振り返り、自ら布告した戒厳令を念頭に置いて、「申し訳なかった」と詫びた。ヤルゼルスキは「あえて流れに逆らい、国民に嫌われる決定を下したこともあった」と述べ、国民に与えた苦痛は自分にもトゲのように刺さっている、と自責の念さえ吐露した。戦後ポーランドが生んだ傑出した政治家の1人であることは間違いなかろう。
マゾビエツキは10月、自ら大統領に出馬すると宣言し、両雄の対決は不可避となった。マゾビエツキにとって、問題は自分が開始した改革をワレサの妨害から守ることであった。逆にワレサは、政治権力がマゾビエツキら「連帯」知識人グループの手に移って行くのに耐えられなかった。マゾビエツキへの揺さぶりは、「連帯」の組織分裂の代償を払ってでも過去の自分の求心力を取り戻したいという、ワレサの”奪権闘争”だった。ヤルゼルスキがワレサを軽蔑した理由は、ここにあった。ヤルゼルスキが党の政権放棄までかけ、「連帯」の政治参加への道を開いたのは、「連帯」を政治の場に取り込み、国民の分裂を修復するためであった。逆に、ワレサは己の野心のために、やっとつくり上げた「連帯」政権を崩壊させようとしている。
政局不安の幕明け
ワレサにとって、「連帯」政府の運命や政治の安定は眼中になかった。ワレサは集票のため、あらゆる言辞を弄する。ワレサは「第1回投票で当選できなければ、決戦投票には出馬を辞退する」と強がってみせた。負ければ「連帯」を辞める、とたんかを切った。むろん、一流の空言だった。「連帯」は既に崩壊している。誠実な人柄のマゾビエツキは、ワレサの一言一句に顔をしかめるのみであった。
11月25日投票の第1回大統領選挙では、ワレサは39%、無名の実業家ティミンスキが23%、マゾビエツキは18%の第三位にとどまった。ワレサの得票は、当初本人が豪語していた80%に遠く及ばず、ワレサ時代が過去のものとなったことを見せつけた。執念の男ワレサは12月、前言を翻して決戦投票に出馬、74%を獲得して念願の大統領の椅子を手に入れた。投票率から換算すると、有権者全体の支持率は40%以下だった。グダニスクの旧「連帯」本部にいたワレサ派遣動員の多くは、80年の「連帯」を経験していない若者か、地元の老人であった。「連帯」運動の中核層はすっぽり抜け落ちていた。ワレサの集権闘争の後遺症は、マゾビエツキ内閣の総辞職とその後の政治混乱となって続いている。
*Polskiポーランド語→Stanisław Tymiński, Stan Tyminski (ur. 27 stycznia 1948 w Pruszkowie) – polski biznesmen prowadzący interesy w USA, Kanadzie i Ameryce Południowej, zajmujący się branżą elektroniczną, komputerową i telewizyjną, kandydat w polskich wyborach prezydenckich w 1990 i 2005, założyciel Partii X.
ワレサの最大の誤算は「連帯」の分裂の結果、国会での自らの足場が不透明になったことだ。新憲法策定により大統領選挙を優先したため、自らの権限さえ不明確なままだ。91年10月の総選挙では、29政党が議会に進出、マゾビエツキ派の民主同盟が62議席で第一党に、旧統一労働者党の「ポーランド共和国社会民主主義」が60議席で第二党になった。ワレサ派の中道同盟(44議席)は第六位にとどまり、その後、ワレサは対決姿勢を強めた。小党分立下の政党再編は流動的であり、経済改革を支える政治的安定をいかに形成していくか、ポスト「連帯」社会の最大の課題である。

             4 バルカン宮廷革命ーブルガリア

*ブルガリア共和国(ブルガリアきょうわこく)、通称ブルガリアは、ヨーロッパの共和制国家である。 バルカン半島に位置し、北にルーマニア、西にセルビア、北マケドニア、南にギリシャ、トルコと隣接し、東は黒海に面している。首都はソフィア。
オリエントの香り
人口900万人足らず、黒海西辺にへばりつく小農業国ブルガリアー。東欧ではたばこの主産地であり、ハンガリー産と並ぶ芳醇なワイン、ヨーグルトなど良質の乳製品は人々のお国自慢の一つ。オスマン・トルコ時代の影響か、ヒツジ肉のくし刺しなどオリエントの香りもちょっぴり漂う。10世紀に始まるリラ山中の荘重な木造僧院に象徴されるように、宗教もまた、牧歌的で穏和な独特の国民性を培ってきた。筆者の知人の共産党員は「僕は無神論者だ」と言いながら、イコンを描かせたら、玄人はだしだった。
ソ連共産党よりも古い歴史を誇るこの国の共産党の精神的権威は絶大であり、伝統的な親ロシア感情もあって、戦後の共産党支配に表向き波風が立つことはなかった。だが、ソ連・東欧で最長を誇ったジフコフ政権もまた、時代の変化の犠牲となった。それは、ちょうど東欧が「ベルリンの壁」の開放を決定した翌日、1989年11月10日のことだった。

*トドル・フリストフ・ジフコフ(ブルガリア語: Тодор Христов Живков, ラテン文字転写: Todor Hristov Zhivkov、1911年9月7日 - 1998年8月5日)は、ブルガリアの政治家。ブルガリア共産党書記長(在任:1954年 - 1989年)、閣僚評議会議長(首相)(在任:1962年 - 1971年)、国家評議会議長(元首)(在任:1971年 - 1989年)を務め、同国の最高指導者として35年の長きに渡り君臨した。


*ブルガリア共産党(ブルガリアきょうさんとう、ブルガリア語: Българска комунистическа партия、略:БКП、Balgarska Komunisticheska Partiya)は、かつてブルガリアに存在した共産主義政党である。1946年から1990年までの社会主義国家ブルガリア人民共和国において、人民民主主義体制の下で国家の指導政党の位置を与えられ、形式的な衛星政党は残したものの、事実上の一党独裁制(ヘゲモニー政党制)を敷いていた。
ブルガリア国営放通信は、この日開かれた共産党中央委員会が党書記兼国家評議会議長トドル・ジフコフの辞任を承認、後任に政治局員兼外相ペタル・ムラデノフを選出したと報じた。ジフコフが事実上、解任されたことには間違いなかった。ブルガリアの政変は、見た目には不可解だった。ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキアなどと異なり、国内にはそれほど強力な反体制運動は存在しなかった。ジフコフの突然の解任の舞台裏で、いったい何が起きていたのだろうか。

*ペータル・トシェフ・ムラデノフ(ブルガリア語: Петър Тошев Младенов, ラテン文字転写: Petar Toshev Mladenov、1936年8月22日 - 2000年5月31日 )はブルガリアの政治家である。トドル・ジフコフの後継者としてブルガリア共産党最後の書記長および国家元首である国家評議会議長(在任:1989年 - 1990年)・大統領(在任:1990年)を務め、一党独裁制の放棄およびブルガリア社会党への改組を行った[1]。
政変前夜
環境会議
80年代後半、党内に反ジフコフ気運を生み出したとみられる出来事がいくつかあった。政変直前の出来事は、89年10月26日から11月3日までソフィアで開かれた全欧安保協力会議とユネスコ共催による欧州環境会議である。環境保護運動「エコ・グラスノスト」は西側各国代表が集まるこの機会をとらえ、街頭活動に乗り出した。初日の10月26日、ストヤノフ内相の命を受けた警察部長は西側報道陣や会議参加者の目前でグループ活動家数十人の身柄を拘束してしまった。しかし、弾圧にもかかわらず11月3日にはソフィアで数千人が民主化要求デモを敢行した。環境会議の実質上のホストであったムラデノフの面子はまる潰れだった。ムラデノフは、後述する10月24日の中央委あて書簡で「政治局員としても、外相としてももはや職責を果たせない」と宣言していた。デモ鎮圧は、ジフコフが仕組んだムラデノフ潰しだった。
*ソフィア(ブルガリア語: София 発音 [ˈsɔfijɐ] (ラテン文字表記:Sofiya、英語: Sofia)は、ブルガリアの首都。ヴィトシャ山のふもとに位置し、ブルガリアの政治・経済・文化・教育の中心地である。2008年の人口は1,346,665人[3]である。
*全欧安全保障協力会議(ぜんおうあんぜんほしょうきょうりょくかいぎ、英名:the Conference on Security and Cooperation in Europe)は、欧州全体の安全保障について陣営に関係なく話し合うために1975年に設立された会議。
*国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん、英: United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization、仏: Organisation des Nations unies pour l'éducation, la science et la culture、略称: UNESCO、ユネスコ)は、国際連合の経済社会理事会の下におかれた、教育、科学、文化の発展と推進を目的とした専門機関である。

*オスマン帝国(オスマンていこく、オスマントルコ語: دولتِ عليۀ عثمانيه‎, ラテン文字転写:Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノープル(後のイスタンブール)を征服、この都市を自らの首都とした。17世紀の最大版図は中東からアフリカ・欧州に著しく拡大し、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリーに至る広大な領域に及んだ。


トルコ系住民
同年春以降のトルコ系住民の集団国外流出も、ブルガリア政府の国際舞台での孤立を招くとともに、国民経済に致命的な打撃を与えていた。国民の集団脱出が長期独裁政権を窮地に追い込んだ点は、東独ホーネッカー政権の末路と似たところがある。

ジフコフ政権は1984年から、約150万人ともいわれるトルコ系住民にトルコ語の使用禁止や、イスラム系のスラブ名への改名を強いる民族同化政策を進めていた。これに対し、89年春ごろから、トルコ系住民が多い北東部各地でジフコフ政権の民族同化政策に抗議するデモが発生しているとの情報が流れていた。特に5月19日から3日間、各地で一斉にデモが発生した。国営通信さえ5月23日、警察隊とデモ隊の衝突で3人が死亡した事件の発生を伝えるなど、情勢は不穏化しつつあることをうかがわせた。
*トルコ人(トルコじん、Türk HalkıあるいはTürkler)は、アナトリア半島とバルカン半島、アラブ諸国の一部に居住し、イスタンブール方言を公用語・共通語とするトルコ語を話すテュルク系の民族である。アゼルバイジャン人やトルクメン人とは民族的に親近関係にある。
*トルコ語(トルコご、Türkçe)は、アゼルバイジャン語やトルクメン語と同じテュルク諸語の南西語群(オグズ語群)に属する言語。
ジフコフは、トルコ系住民の不満分子を事実上国外追放することで事態の収拾を図ろうとした。5月29日、ジフコフは国営テレビで演説し、イスラム系住民はトルコへの帰国を認めると発表した。ジフコフは、家財道具や財産を棄て出国に踏み切るトルコ系住民は極く一部に過ぎないとタカをくくっていたに違いない。

*トルコ共和国(トルコきょうわこく、トルコ語: Türkiye Cumhuriyeti)、通称トルコは、西アジアに位置するアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパに位置するバルカン半島東南端の東トラキア地方を領有する共和制国家。首都はアナトリア中央部のアンカラ。
しかしジフコフ演説の後、生まれ故郷を棄てたトルコ系住民が連日トルコ国境に押し寄せ、トルコ側が国境を閉鎖する8月下旬までに、出国者数は30万人を超えた。ブルガリアは人口約900万の小国である。政府の推定で、労働人口400万人のうち22万人が消えたと言われる。
欠落した労働力は比率からみれば5%に過ぎないが、経済活動全体への波及効果は測り知れない。ブルガリアの特徴であり、貴重な外貨収入源であるたばこは主としてトルコ系住民が栽培している。政府は都市住民に賃金割増の特典を保証して労働力を狩り集めたり、学生の労働班を編成するなどしたが、急場の動員では欠けた熟練労働力を補うことは不可能だった。かつて比較的豊かな農業国であったブルガリアの経済は、トルコ系住民の流出も響いて、その後東欧でも最貧ランクに転落してしまった。

門前払い
ジフコフの少数民族政策は国際社会でも強い反発を受けた。トルコ政府の非難はむろん、欧州共同体(EC)はブルガリアとの通商協力協定締結交渉を延期し、関税貿易一般協定など国際経済機構への加盟問題も頓挫してしまった。改革への軌道に素早く乗ったハンガリー、ポーランドに加え、東独も10月、社会主義統一党書記長(国家評議会議長)ホーネッカーを退陣に追い込み、新しい時代の流れに懸命に追いつこうとしている中で、ブルガリア党・政府内でもジフコフへの不満が渦巻いていたに相違ない。そればかりか、ジフコフはまだ30代の息子を中央委文化部長に就任させるなど、ネポチズム(縁故主義)に傾斜していた。
*欧州共同体(おうしゅうきょうどうたい、英: European Communities)とは、1992年に調印された欧州連合条約のもとで導入された欧州連合の3つの柱のうち、第1の柱を構成する政策の枠組み。
*縁故主義(えんこしゅぎ)またはネポティズム(英: nepotism)Непотизъмとは、親族の縁、地縁、血縁などの縁がある縁故者のほうを重用する考え方や、ものごとの正しさよりも縁故を優先してしまう考え方のこと。
ジフコフは6月23日、モスクワを訪問したが、党書記長兼国家元首であるジフコフを空港で送迎したのは一政治局員だった。ソ連共産党書記長ゴルバチョフとの会談は一回限りで、ソ連のマスコミの扱いは冷たく、ジフコフは門前払い同然の扱いを受けた。
放党員
ジフコフ政権を崩壊させたのは、一般民衆による広範な大衆運動ではなかった。88年ごろから確かに反政府運動派存在したが、これは共産党員ないし元共産党員を主流としたサークル運動であった。しかし、こうした運動は一枚岩の党内に動揺を生み、一部の党幹部による”宮廷革命”の背景を成している。

「討論クラブ」
1988年11月3日、ソフィア大学に集まった作家、詩人、学生ら約100人の知識人グループが「ペレストロイカとグラスノスチ支持のため討論クラブ」なる組織を結成した。「グラスノストГласност」とはロシア語の「グラスノスチГласность」(情報公開)に対応するブルガリア語である。クラブの設立目的は、経済危機や環境、人権問題などブルガリアが抱える諸問題を討議し、国民を啓発することにあった。組織の結成宣言は、運動はあくまでブルガリア人民共和国憲法の枠内で行なわれると述べ、運動を妨害する試みは(ゴルバチョフが提唱する)公開性とペレストロイカの原則に敵対する努力である、としていた。「討論クラブ」はゴルバチョフの改革路線に共鳴し、かつまたゴルバチョフの存在を”盾”として運動を興したのだ。

*ブルガリア語(ブルガリア語: български език [ˈbɤɫɡɐrski ɛˈzik])は、ブルガリアの公用語。インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派南スラヴ語群に属する言語。北マケドニアの公用語であるマケドニア語とはきわめて近しい関係にあるとされる
*Българскиブルガリア語→Гласностグラスノスト(на руски: гласностьグラスノスチ) е понятие от периода на прехода от социалистически режим към демокрация в СССР (и в други засегнати от същия процес държави), наричан още перестройка. 
*ブルガリア人民共和国(ブルガリアじんみんきょうわこく、ブルガリア語: Народна република България / Narodna republika Balgariya)は、冷戦期のブルガリアにあった社会主義国家。ブルガリア共産党による一党独裁国家として1946年に成立し、1990年まで存続した。いわゆる東側諸国のひとつであり、ソビエト連邦の衛星国である。1989年における一連の東欧革命の流れの中でブルガリアでも民主化要求が高まった結果、共産党は一党独裁の放棄を余儀なくされ、民主化とともに「ブルガリア共和国」へと改称された。
メンバーには作家プラガ・ディミトロフ、詩人のワレリ・ぺトロフら第一級の文化人が名を連ねた。ブルガリア大統領となるジェリュ・ジェレフもその1人である。ジェレフは元ソフィア大学助手だったが、64年に発表した論文「近代自然科学による物質の定義」がレーニン主義からの逸脱であると批判され、翌年、党を除名されていた。その後も共産党の絶対主義とナチスの国家社会主義を同列に論じる「ファシズム」などの論稿を発表し、共産党への理論的批判を続けていた。

*ジェリュ・ジェレフЖелю Желев(Zhelyu Zhelev、1935年3月3日 - 2015年1月30日[1])はブルガリアの政治家。同国大統領を1990年8月1日から1997年1月22日まで務めた。ブルガリア北東部の都市シュメンに生まれる。1958年にソフィア大学哲学部を卒業。学位論文が反レーニン主義と批判され、共産党を除名になり、首都ソフィアからも追放される。左遷されていた1967年に執筆した『ファシズム』(1982年刊行)が後年、ベストセラーに。1972年に首都に戻り、その後、哲学博士号を取得。学究生活を送る。やがて民主化運動のリーダーとなり、1990年から1997年まで大統領を務めた。2015年、79歳で死去。
従軍記者として反ナチ闘争に参加したブルガリア文学界のペトロフも、作家同盟幹部を務め人民共和国勲章まで受章した同世代のディミトロフも、他の多くのメンバー同様、共産党員である。元ソフィア大学哲学助教授ニコライ・ワシレフは前年、大学党委員会でジフコフを批判、党除名処分を受けていた。(ワシレフはジフコフ退陣後、党籍を回復、党内分派「第二社会党」を結成する。)
「討論クラブ」より一足先の3月、北部ルーマニア国境ルセ市の環境汚染を告発する「ルセ防衛委員会」が旗揚げしている。委員会は直ちに解散させられたが、この運動には人民議会議長兼共産党政治局員スタンコ・トドロフの妻ソーニャ・トドロフも入っていた。トドロフは即座に党追放処分を受けている。

*ルセ、またはルーセ(ブルガリア語:Русе、ラテン文字転写Ruse、トルコ語:Rusçuk ルスチュク、英語:Rousse、Russeと綴られることも)はブルガリア北部の都市。

*スタンコ・トドロフ(Станко Георгиев Тодоров、1920年12月10日 - 1996年12月17日)は、ブルガリアの政治家。共産政権時代、閣僚会議議長(首相、1971年7月 - 1981年6月)を務め、民主化運動を受けての自由選挙後、一時的に大統領(1990年7月6日 - 17日)を代行した。

*愛しき祖国(いとしきそこく、ブルガリア語:Мила Родино (Mila rodino)はブルガリアの国歌。1885年にツベタン・ラドスラボフ (Цветан Радославов) により作詞作曲された。1964年に国歌に採用された。歌詞は何度か改定され、共産党支配下のトドル・ジフコフ政権の時には共産主義体制をたたえる詞が存在したが、民主化後の1990年に改定され、当該部分は除去されている。

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