日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

После распада Советского Союза Экономическая реальность☭Кадзуо Огавы/After the dissolution of the Soviet Union Economic reality☆Kazuo Ogawa/Après la dissolution de l'Union soviétique Réalité économique★Kazuo Ogawa『ソ連解体後―経済の現実☭小川和男』④


*ヴァレンチン・セルゲーエヴィチ・パヴロフ(ワレンチン・パブロフ、ロシア語: Валентин Сергеевич Павлов, tr. ヴァリンチーン・スィルギェーイェヴィチ・パーヴラフ、ラテン文字転写の例:Valentin Sergeyevich Pavlov、1937年9月26日 - 2003年3月30日)は、ソビエト連邦の政治家。1991年1月から8月までソ連の首相を務め、ミハイル・ゴルバチョフに対するクーデターを起こした人物の1人であった。
ゴルバチョフ氏もエリツィン氏もともに、経済音痴である。両氏とも、経済政策とその実行については有能なブレーンに頼らざるをえないわけで、ゴルバチョフ氏は企業家出身のルイシコフ首相や改革派学者のアバルキン副首相に頼り、エリツィン氏は米国のマネタリズムを信奉する若いガイダル首相代行とIMFという権威を利用した。
1990年夏の市場化をめぐる議論が一つの頂点に達した頃、ソ連最高会議(議会)の大勢は一時的には、速効を狙う「シャタリン案」に傾いているようにみえた。ゴルバチョフ大統領はここで宿敵であるエリツィン議長と手を結び、エリツィン議長側から出された「シャタリン案」支持を表明したのである。
*ソビエト連邦最高会議(ソビエトれんぽうさいこうかいぎ、ロシア語: Верховный Совет Союза Советских Социалистических Республик (Верховный Совет СССР))は、ソビエト連邦の最高国家権力機関。
政府のルイシコフ首相とアバルキン副首相が驚いたのは当然である。2人は、「シャタリン案」は達成不可能な案であり、その実施は失業の激増をはじめ社会的混乱を発生させるだけであると強く反対し、辞任する構えをみせた。政府案とシャタリン案は結局は統一されたのであるが、ゴルバチョフ大統領はその立場上、本来ならば政府案を支持すべきであった。必要があれば政府案の修正を要求するか、大統領の権限を発動して各案の調整をはかるのが本筋であった。政策上エリツィン議長に歩み寄ったことは、ゴルバチョフ体制を支えてきた官僚層の信頼を著しく損ない、有能なブレーンたちがしだいに離反していく遠因となったのである。


Упущенная возможность - полтора года в должности заместителя премьер-министра Советского Союза Абалкин, Леонид [Автор] <Абалкин, Леонид Ивановнч> / Susumu Okada [Перевод] Lost Opportunity-A Year and a Half as Deputy Prime Minister of the Soviet Union Abalkin, Leonid [Author] <Абалкин, Леонид Ивановнч> / Susumu Okada [Translation]
инструкции:В качестве заместителя премьер-министра правительства Pыжков и председателя Комитета по экономической реформе он разработал реалистичный рецепт мягкой посадки в рыночной экономике, но в конце концов все закончилось. Ценные исторические свидетельства, раскрывающие сложный политический процесс и реальность экономической катастрофы в сырье.
instructions:As Deputy Prime Minister of the Government of Ryzhkov and Chairman of the Economic Reform Committee, he devised a realistic prescription for a soft landing on the market economy, but it was finally over. Valuable historical testimony that reveals the complex political process and the reality of economic catastrophe in raw materials.

長引く過渡期
どんな改革案プログラムも、完全無欠であるはずがない。何よりも重要なことは、実行してみることである。アバルキン教授は後日私たちとの対話の中で、ルイシコフ政府案を実行に移していれば、1992年秋には経済危機は終っていただろうと述べ、残念そうであった。
旧ソ連でも、現ロシアでも、議論が議論を呼ぶばかりで、経済問題がたちまち政治問題と化し、具体的実行プログラムが実行されないうちに年月が空費されている。そして、失われた年月と改革の機会は取り戻すことができないのである。アバルキン教授の最新の著書が『失われたチャンス』(岡田進訳、新評論、1992年)と題されているのは、大変に意味深いといえる。
ゴルバチョフ大統領は1991年7月、起死回生をはかって「経済危機打開プログラム」に着手した。しかしこれも、同年8月の「政変」によって短命に終り、1991年12月には自らが大統領辞任に追い込まれてしまった。
旧ソ連・CISにおける市場経済への移行は、先にも強調した通り、長期的プロセスである。短期移行は現実に不可能である。具体的な改革プログラムを地道に実現し、積み重ねていくよりほかに方法がない。シャタリン・ロシア科学アカデミー会員自身が「500日」とは「一種のシンボル」であった、と発言していることを記憶にとどめる必要がある(『朝日新聞』1992年4月3日付)。
ジョレス・A・メドベージェフ博士といえば、旧ソ連の反体制派学者であり、ブレジネフ時代に国外追放の身となって英国に亡命、以来祖国の情況に対して鋭い批判を加える一方、深い理解を示す良心の人である。そのメドベージェフ博士は、市場経済への移行について、「社会主義時代の70年間に旧ソ連で建設された複雑な産業、経済的インフラストラクチャーを再編成するためには、IMFが新規融資とルーブル安定化基金の形で供与しようとしている240億ドルの金融支援も効果を上げ得ないであろう」と指摘した後、「ロシアの市場経済への移行は、数十年を要するであろう歴史的プロセスなのである」と結んでいる(『日本経済新聞』、1992年7月20日付)。

*ジョレス・アレクサンドロヴィチ・メドヴェージェフ(ロシア語: Жоре́с Алекса́ндрович Медве́дев 、英語: Zhores Aleksandrovich Medvedev、1925年11月14日 - 2018年11月15日)は、ロシアの生物学者、歴史家。双子の弟は歴史家のロイ・メドヴェージェフ。

2 難航する民営化ー大規模集中経営の弊害
大規模企業の民営化と制度改革は長期的課題
市場経済へ移行するためには、多くの要件を満たさなければならない。国有企業の民営化と大規模集中経営の分割、コルホーズ(協同組合農場)とソフホーズ(国営農場)の自営化・私営化は、市場化の要件のなかでもとくに重要な条件である。だが、民営化・私営化推進の掛け声ばかりが高く、実行がともなわないのは、周知の通りで、それが大変な難題であることは、第2章(資本主義の幻影)のなかでかなり詳しく述べた。

商業サービス部門や軽工業・食品工場における中小規模企業の民営化は相対的に実現しやすく、現実にも民営化がかなり進み、市場化のパイロット的役割を果し始めている。しかし、経済全体に占める中小企業の地位は非常に低く、CIS経済全体の復興に大きく貢献する力はないとみられる。
若手改革派の代表格の1人であるグレゴリー・ヤブリンスキー氏(前ロシア共和国副首相、1990年8月~12月、現在は自らが設立した経済政治研究センター理事長)が1992年5月に発表した「ロシアの経済と政治」(邦訳『ロシア診断』(上)、『世界通報』1992年7月14日号、時事通信社)によると、民間企業(民営化された国有企業と新規に設立された企業)が経済全体に占める比率は資本金でわずか3%にとどまり、自由市場で売買される国有企業の生産物を民間セクターの生産物と勘定しても13%にすぎない。
旧ソ連では、中央集権的計画化経済システムのもとで生産の集中化・大規模化が推進されてきたのである。有力な国有企業はいずれも従業員数万人の大企業であり、旧ソ連の工業企業数は統計4万6000を上回っていて、そのうち大多数が大規模企業であった。そういう国有大企業の民営化を実現しようとしているわけで、そのためには長い年月が必要であり、中央調整機関の粘り強い努力がなければその実現はかいた餅であるのは、明らかである。
また制度的改革も重要であるのに、具体的にはほとんど何も進んでいない。つまり、財産権の保護、土地の私有化と売買の保証、破産法の制定、反独占政策の確立、外国投資の誘致と保証などは、何も進んでいないのである。
オーストリアの優れたソ連経済専門家であるウィーン比較経済研究所副所長ピーター・ハブリクPeter Havlik氏は、日本の特派員のインタビューに応えて、小さな商店やサービス業、小農場の民営化は3~5年で実現できるが、基幹産業や大規模な製造企業、軍需産業の民営化には少なくとも5~10年が必要であろう、と厳しい見方を開陳している(『朝日新聞』1992年3月6日付)。

「人工的」民営化措置
エリツィン・ロシア大統領は、エネルギー部門や輸送部門などを除いて国有企業の全面的株式会社化計画を打ち出し、1993年1月から株を売り出すと公表した。この措置に備えて、ロシア国民全員に対して、株と交換できる1万ルーブルの証券(民営化証券)を無料で配布する手続きが1992年10月1日から始められた。このあまりにも人工的な民営化措置が成功するかどうかは全く未知数であるが、民営化証券を受け取った国民がそれを他人に売却し、消費に走ってしまえば、インフレをさらに加速する懸念があり、貧富の格差をひろげる恐れもある、ということでロシア国内で批判が高まっている。エリツィン大統領の人気取り政策にすぎない、という見方もある。
民営化がとにかく急がれているわけで、それが遅々として進まないことに対して、エリツィン政権内部に焦立ちがみられる。だが、日本でもフランスでもイタリアでも、現在なお強力な国有セクターや公営セクターが存在し、それぞれの経済の中で重要な役割を果たしている。ロシアや他のCIS諸国の急進改革派たちは、先進諸国の経済システムをもっと真剣に研究し、自分たちの改革の参考にしていく努力が必要であろう。しかも、CISにおける産軍複合体は今なお強力であり、その民営化や分割化には必ず政治的抵抗がある。国有大企業の民営化は、短期間では不可能であり、やはり長期的課題とならざるをえない。

大規模企業による独占生産の弊害
大規模企業による独占的生産の弊害が大きいことは、第二章「資本主義の幻影」の中で述べた。1992年1月の価格自由化以後、大規模企業は生産を増やさず、価格を引き上げるだけで莫大な利益をあげることの味をしめ、それは物不足とインフレ高進の元凶になっている。
旧ソ連の計画化経済システムの下でも、たとえば数年前、首都モスクワ店頭から洗剤が全く姿を消して大騒ぎになったり、シガレットが全く無くなって愛煙家たちを嘆息させたり、「マールボロ」一箱でタクシーがモスクワのどこへでも行ってくれるという馬鹿げたことが起ったりした。
これは、洗剤やシガレットが旧ソ連の一ヶ所か二ヶ所にある超大型工場だけで生産されていることと密着した関係にある。災害とか、生産設備の故障とか、リストラとか、ストライキとか、何らかの原因でそうした大企業の操業停止が数ヶ月も続けば、市場への当該製品の供給は全く途絶えてしまうのである。
このような弊害を克服するために、民営化とか分割化の必要が叫ばれているわけであるが、ウラルのペルミ市にある大せっけん製造工場を訪問してみると、せっかくイタリア製の高性能機を設備しながら、せっけん製造用の原料はカザフスタンから、紙箱製造用のボール紙はサンクト・ペテルブルクからの長距離輸送に頼って供給されているとのことであった。不経済このうえない話で、産業構造と産業配置の抜本的変革が必要である。

農業の私有化も困難
旧ソ連・CISでは、農業の私有化もまた、非常に困難である。先に引用したヤブリンスキー氏の報告「ロシア診断」では、個人農の小作面積は全耕地面積の2%にすぎない、と指摘している。やはり先に引用したジョレス・メドベージェフ博士によると、ロシアでは1992年2月末までに5万8千人の自営農民が正式登録されたが、かれらには機械も燃料もなく、最悪の状態にあり、かれらの所有地は合計250万ヘクタールで、全耕地面積の1%強にすぎないという(『日本経済新聞』1992年4月20日付)。同博士は、ロシアの耕地面積1億1800万ヘクタールのほとんどはコルホーズとソフホーズに属し、3800万人に職と所得を与えていることを指摘している。
中国やベトナムにおける農業私有化の成功を引き合いに出し、旧ソ連・CISでも私営化が農業を活性化する、という主張がある。しかし、中国やベトナムでは、国民経済に占める農業の地歩が圧倒的に高く、就業人口に占める農業のシェアも圧倒的に大きい。また、両国の生活水準は国際水準をはるかに下回っている。こうした状況から、農業の私営化は農民に対するインセンティブとしてきわめて有効に働き、農業生産を一時的に大幅に増大させ、経済全体の成長に著しく寄与した。

ロシアや他のCIS諸国では、中国やベトナムにおけるような事態はまず起らないとみられる。ブレジネフ時代(1964~82年)には「ブレジネフ農政」といわれたほど農業が重視され、国家投資全体の30%前後が農業分野に投入されたのに、農業生産は生産国民所得(GDP)の17~18%に寄与しただけであった事実を想起する必要がある。
市場経済への移行と私営化とは、そうした農業重視策が打ち切られることを意味している。一方、これまでの農業管理体制が崩壊した結果、コルホーズとソフホーズの指揮・管理はずさんになり、入手と肥料の不足、輸送手段の不備などに対処することができず、1991年の歴史的不作の要因となった。1991年の穀物収穫高は1億5500万トンにとどまり、前年に比べ27%減と激減した。この主因は、上のような理由が重なって約700万ヘクタールという広大な耕地の穀物が全く収穫できなかったことにある。
また農民自身にもコルホーズ解体に対する反対が強い。私営化への不安がつきまとって離れないのである。1992年2月初めにモスクワで開かれた小規模農業者大会では、コルホーズ解体に対する反対が多数を占めたと伝えられた。集団化が農業生産低迷の主因であり、非集団化を実現し、私営化をはかれば農業生産を増大させることができる、というのは一部の学者の定説ともなっている。だが、私はそうは思わない。個人農が耕せる農地の広さには限りがあるし、リスクも大きい。ロシアの農業地帯を訪問して、コルホーズ単位の耕地の広大さを見れば、学者の定説には意味がないのがよく分る。ロシアにおける農業私営化は難しい問題である。

3 為替ルート設定の不条理
下落し続けるルーブルのレート
旧ソ連・CISの通貨ルーブルや東欧諸国の通貨は、米ドルをはじめとする基軸通貨との交換性がなく、交換性のある通過がいわゆる「ハード・カレンシィ」と呼ばれるのに対し、「ソフト・カレンシィ」と呼ばれている。
*ルーブル(ロシア語: рубль ルーブリ、ベラルーシ語: Рубель ルーベリ、モルダヴィア語: Рублэ ルーブレ)は、通貨単位の一つである。現行の通貨の名称としては、ロシア、ベラルーシおよび沿ドニエストルにおいて用いられている。かつては、ソ連におけるソビエト連邦ルーブル、ロシア帝国におけるルーブルなどもあった。ウクライナではカルボーヴァネツィと呼ばれるルーブル通貨が使用された時期もしばしばあったが、現在ではフリヴニャが用いられている。ロシアでは一部で現行の呼称であるルーブルを廃止し、代わりにドル(ロシアドル)を導入すべきとの意見がある。なお、ルーブルは本来「それなりの価値を持つ銀塊」という意味のロシア語であり、中世ロシアでは銀塊が高額通貨代わりに用いられていたことに由来する。

*ハード・カレンシー(英語: Hard currency ハードカレンシー)、またはハード通貨、強い通貨(Strong currency)、セーフヘイブン通貨(Safe haven currency)という言葉がマクロ経済学で使われるのは、各国で流通している通貨の中で、信頼性が高く、価値の安定した保管場所として機能し、グローバルに取引される通貨を指す。ハード通貨となるように寄与する要因には、それぞれ国の法務および官僚機構の安定性と信頼性、汚職のレベル、購買力の長期的な安定性、関連国の政治的および財政的状況と見通し、および発行する中央銀行の政策などがある・・・逆に、ソフト・カレンシー(英語: Soft currency ソフト通貨)とは、不規則に変動したり、他の通貨に対して下落したりすることが予想される通貨である。このように「軟化」するのは、通常、関連する国内の弱い法制度、政治的・財政的不安定の結果である。
「ハードカレンシィ」の交換率、つまり為替レートは、当該国の経済力の強弱や経済パフォーマンスの好悪を反映して、国際市場においては基本的には自動的に決まっている。私が初めて海外に旅行した1960年代の中東では、日本の円は米国の1ドルに対して360円であった。それが最近では、120~130円で推移しており、日本経済の実力は三倍にも高まったということになる。
一方「ソフト・カレンシィ」には外国通貨との交換性がないわけで、レートは自動的には決まらず、各国政府(中央銀行)が人為的に定めるところとなっている。何を基準にしてレートを定めるかという問題が発生するが、購買力価説をはじめいろいろな説がある。たとえば、米国政府中央情報局(CIA)では、これまで長年にわたり、旧ソ連経済が毎年ルーブル建てで公表するGNP(国民総生産)やGDP(国内総生産)を、購買力にもとづいて米ドルに換算し、公表していた。CIAのこのレートはあくまで計算単位であり、日常生活で使用されるものではない。
*Русскийロシア語⇒Центральное разведывательное управление США (ЦРУ) 中央情報局(англ. Central Intelligence Agency, CIA) — независимое агентство Федерального правительства США, основной функцией которого является сбор и анализ информации о деятельности иностранных организаций и граждан. Основной орган внешней разведки и контрразведки США.
旧ソ連では、ゴスバンク(国立銀行・中央銀行)が、政府の委任を受け、各国通貨との為替レートを決定していた。資本主義諸国通貨(主としてハード・カレンシィ)とのレートについては、主要国がフロート・システムを採用していることに合わせて、随時変動させていた。通常は、ゴスバンクが毎月の初めに各国通貨別にルーブルのレートを定め、政府機関紙「イズベスチヤ」に公表していた。1980年代後半の5年間を通じて、「ルーブルはだいたい1・1~1・8米ドルのレートで推移し、1990年秋頃の日本円は1ルーブルが250円前後となっていた。外国人は、旧ソ連国内ではこのレートに見合ったレートで自分たちの持つ外貨をルーブルに交換し、使用しなければならなかった。米ドルや円が通用する「ベリョースカБерёзкаという外貨ショップや外貨レストランが存在したが、それはあくまで例外であった。
*ゴスバンク (Gosbank, ロシア語: Госбанк, Государственный банк СССР, Gosudarstvenny bank SSSR—the State Bank of the USSR)は1930年代から1987年まで存在したソビエト連邦の中央銀行。ソ連邦国立銀行。「ゴスプラン」(国家経済委員会)・ゴススナブ(国家原材料供給委員会)と並ぶ3つの経済当局の一つであった。国家予算案を作成するソ連財務省とも密接な関係にあった。
しかし、ゴスバンクが定めていたルーブルのいわゆる「公定レート」はきわめて人為的で、外貨に対して非常に割高であり、実勢は三分の一から四分の一という評価が一般的であった。現実にも、非合法な取引、いわゆる「闇取引」では、米ドルのルーブルに対する相場は、3~4倍となっていた。
市場経済への移行が決定され、議論が紛糾したもとで、人工的とはいえ安定していたルーブルの実勢相場は大きくくずれ、大幅に下落し始めた。とりわけ、1991年以降における下落は劇的であり、4月の時点で1米ドル=27・6ルーブルであった為替レートは、同年末には90ルーブルまで下った。
旧ゴスバンクは、モスクワの銀行間外貨取引にもとづいてルーブルの相場を定めるようになり、相場は実勢に近いものになった。ルーブル相場はさらに下り、1992年1月中旬には、一時1米ドル=230ルーブルとなった。その後若干反転し、110~160ルーブルと回復したが、同年秋には再び大幅に下り、300ルーブルを記録する場面もあり、年末にはついに450ルーブルとなった。1ルーブル=30銭以下に下ったわけで、まさに暴落である。なお、1992年7月以降については、ロシア中央銀行が「モスクワ銀行間外貨取引」の相場にもとづいてルーブル相場を設定しており、これはレートとしては名実ともに実勢相場である、という。

レストランでの食事と不条理なルーブル相場
では、たとえば1ルーブル=1円という相場で文字通り「実勢」であり、ルーブルの購買力を正しく反映しているかというと、それは違う。このレートはまことに不条理なものであり、エリツィン政権の経済政策の失敗とその結果生じているロシア経済の混沌を反映し、中央銀行の為替管理能力喪失と信用失墜を示しているのである。これは外国人にとっては、ある意味ではきわめて好都合な状況が出現しているわけである。
たとえば、レストランでの食事である。首都モスクワでは、個人営や協同組合営の小規模企業が認可されて以来数年が経ち、多数のレストランが新装開店した。合弁のレストランもある。なかには内装にレトロ趣味で凝り、豪華な雰囲気を出して主に外国人客を当てにし、外貨だけで支払を受け取る店もある。そうした店で会食すると、1人当り東京の高級レストランと変わらないほどの費用がかかり高い。
ところが、店の数ではもちろんルーブルで支払える店が圧倒的に多く、評判のレストランはモスクワ市民でいつも混雑している。外国人が知らない良いレストランも数多くあるらしい。私たちも長年にわたりモスクワと東京間を往来していることから、ルーブルで食べられるなかなか良いレストランを何軒か知っている。
1991年以降の激しいインフレのもとで、レストランの値段は目立って引き上げられ、モスクワ市民は簡単には食事を楽しめなくなった。それでも、インフレに合わせて賃金も引き上げられ、普通に働いている人たちの月平均賃金は、1991年秋頃の400ルーブル前後から1992年末には9000~10000ルーブルへと大幅に上昇した。レストランの値段が、このようなインフレと賃金上昇とまったく無関係に決められているはすはない。
私たちがルーブル払いのレストランで食事をすればどうなるか。ロシア料理の特長の一つは、ザクースカЗакуска(前菜)が重視される点にある。キャビアを筆頭に贅沢で盛沢山の皿が広いテーブル狭しと並べられ、シャンパン、ウォッカ、ワイン、コニャックと飲みものも出て、前菜をゆっくり楽しむ。夜はスープがないのが普通だが、「ジュリアンJulienne de champignons」というマッシュルームをクリーム煮した前菜が出る。これは大変美味である。メイン・ディッシュの種類は多くはないが、フランス料理のメニューにも入っている「ビフシュトロガノフбефстроганов」とか「котлета по-київськиキエフカフ(チキンカツ)котлета по-киевски」とか「シャシリクШашлык(シシカバブ)」とか「ペリメニпельмени(水ぎょうざ)」とか「ビーフとジャガイモのつぼ煮(ガルショークгоршок)」とかいろいろあり、どれもなかなかすてがたい。
デザートにはアイスクリームと紅茶かコーヒーが出る。ロシアのアイスクリームは大変美味いと思っていたが、最近はどうも味が落ちた。ロシア人たちは多くがお茶飲みであり、コーヒーはうまくない。ロシア人の知合いも招いて、総勢10人程度で会食しても、以上のようなロシア料理を楽しんで料金は2000~2500ルーブルというのが普通であり、1人当り日本円にすると200~250円で済んでしまう。同じ内容のコースを外貨払いのレストランで食べれば、1人当り1万円程度はかかる。私たちとしては、安ければよいという気分にはとてもなれない。ロシア人たちが気のどくになってしまう。為替レートが不条理であるのがこのような事態を招いているわけで、ルーブルが下落するにまかせているロシア政府の責任は重大であるといわざるをえず、エリツィン大統領以下の行為は犯罪的であるとさえいえる。
地方では、当然のことながらも、原則として今も経済生活のすべてがルーブルをベースにして動いている。外国人が多いモスクワやサンクト・ペテルブルクなどは例外的な都市である。地方都市では外貨支払いのレストランなど成り立たず、外国人である私たちは、不条理なレートで交換したルーブルで、どこのレストランでもシガレット一箱の値段で贅沢ができてしまうのである。しかも、首都モスクワと地方都市では住民の所得格差が大きく、地方都市における所得は低く、食料品価格もずっと安く、レストランのメニューの値段も相応に安い。
一米ドル=300~450ルーブルの相場が実勢であるというのもまた虚構なのであり、ルーブルのロシア国内における購買力がずっと高いのは明らかである。それでは適正なレートはどのくらいだ、ということになるが、これは全く難問中の難問であり、ロシアでの経済学者たちにこの質問をしてみても、だれにも明確には答えられない。1991年春頃では1米ドル=35ルーブル前後という声がきかれたが、1992年秋では90~100ルーブルという学者もいる。いずれにしても、ロシア政府が実効ある経済政策をとり、インフレを沈静化し、通貨を管理する能力も回復しなければ、どうしようもないといえよう。

4 対外経済開放と合弁企業
対外経済開放ー市場化の大きな利潤要素

旧ソ連・CISにおける市場経済への転換をめざす動きのなかで、最先端を進みプラスの要因として働いているのが、対外経済開放である。市場化と分権化は、表裏一体の関係にある。つまり、中央集権的な統制経済が行き詰り、その弊害が顕在化してきたことから、これを抜本的に改革、あるいは放棄して、分権化を推進、市場経済への移行をはかるという順序であるわけである。

分権化の基本的方向は、第一章でも述べたように上部機構から下部機構への分権化と中央から地方への分権化に大きく分けられるが、対外経済関係の開放化と自由化は、上部機構から下部機構への分権化の重要な一環としてまず実行された。すなわち、ゴルバチョフ政権誕生後まだ日が浅かった1987年1月に外国貿易制度の自由化と外国資本の導入を認める合弁企業法が施行されて、今日では、企業や組織は政府に登録すれば外国と直接に貿易取引する権利、いわゆる「直接貿易取引権=直買権」を得ることができるようになった。
1992年初め現在では、3万を越える企業・組織が直接的に外国との貿易に参加している。1986年末までは逆に、対外貿易は国家独占の原則のもとに、旧ソ連外国貿易省の管理下に50近い外国貿易公団(中国では、貿易公司)が活動し、原則としてこの貿易公団を通さないと外国企業はソ連と貿易取引ができなかったし、ソ連国内の企業もまた、外国へ輸出することも外国から輸入することもできなかった。したがって、今日、CISの3万以上の企業・組織が直接外国貿易を行なっていることは、対外経済関係が大幅に自由化されたことを示す証拠となっている。日本企業をはじめ外国企業からみれば、旧ソ連・CISと直接に輸出入取引するチャンスが著しく増えたことを意味する。

対外貿易に対する無知
とはいえ、開放化・自由化の成果については、評価は大きく分かれている。取引機会の著増はもちろん歓迎すべきであるが、「直買権」を得たたとえば工業生産企業は、これまで外国と接触したことがなく、外国市場についてはいうに及ばず、貿易実務、商慣習、マーケティング、そして外国語についてはほとんど全く無知で、これらを修得するためには年月を要するという難題がある。現実にも、外国企業と直接取引した旧ソ連・CIS企業の多くが、輸入代金の支払遅延を引き起し、旧ソ連の国としての対外信用が著しく低落するという重大な問題が起っているのである。
日本との取引では、ロシア側の輸入代金支払遅延額が1992年6月末現在約7億ドルに達していた。1991年の旧ソ連の日本からの輸入額は約21億ドルであったから、7億ドルの支払が遅延しているとなると、30%が未支払いという大きなシェアになる。同年9月末には、支払遅延額は15億ドルとなった。総合商社など大企業にとってはさしたる問題ではないとして、旧ソ連・CISとの貿易に特化している専門商社をはじめ中小企業のなかには、これが原因で経営がずいぶん苦しいところもあり、問題が多い。なによりもまず、代金を支払ってくれないのなら、ロシアとの取引は当分は見合わせよう、というムードが広がってしまった。

現実的であったソ連時代
かつて、外国貿易が国家独占であった時代には、上述のような問題は起らなかった。旧ソ連は、資本主義先進諸国にとって、信頼できる貿易パートナーであり、旧ソ連政府は支払の確実な顧客であった。
旧ソ連外国貿易銀行のスタッフはきわめて有能かつスマートで、かれらの資本主義市場における行動様式は、非常に慎重で現実的なものであった。かれらはよく訓練され、資本主義世界における商慣習に従い、まったくプラグ魔チックであった。このため、「赤い商人」と呼ばれ、米国では旧ソ連外国貿易省を「ソ連株式会社」とさえ呼ぶ向きがあった。
旧ソ連外国貿易銀行は完全といってよいほど外貨を管理し、その資本主義金融市場からの資金調達は巧妙で、みごとなものであった。旧ソ連政府が外国政府から借り入れる「公的信用」は別にして、外国貿易銀行が行う金融市場からの借入れについては、通常、ソ連が必要とした以上の借入れを行い、余裕資金はヨーロッパや米国の銀行に預金しておく政策がとられていた。このような政策とその実践は、旧ソ連の対外信用を著しく高め、その借り手としての立場を強固なものにしていた。
中央銀行の信用失墜
ソ連解体後のロシアでは、中央政府および中央銀行があらゆる分野においてその管理能力を著しく低下させ、内外においてもその信用を失墜させた。このため、ロシア企業は、たとえ外貨を獲得できる輸出を実現したとしても、輸出外貨収入の50%は中央銀行の定めた為替レートで中央銀行に義務的に売却しなければならないという大統領令(1992年10月現在有効)を無視して、獲得した外貨を外国銀行に預け入れるという手段をとっている。1992年~6月のロシアの輸出額は約150億ドルであったが、このうち約100億ドルが外国へ逃避したといわれる。
これでは、ロシア政府とロシア中央銀行の信用は失われるばかりである。分権化がもたらす自由化と無秩序・放恣とはもちろん異なるわけで、現在の否定的状況を打破するためには、かなり強力な中央調整・管理機能と分権化のバランスを構築する必要があろう。これはもちろん、言うは易いが行うは難い問題で、過度に中央集権的な旧システムの復活を懸念する声も高い。しかし、その実現を常に意識し、努力を傾けるべきである。
合弁企業の活動ーマクロ経済への影響はまだ小さい。
*マクロ経済学Макроэкономика(マクロけいざいがく、英: macroeconomics)は、経済学の一種で、個別の経済活動を集計した一国経済全体に着目するものである。巨視経済学あるいは巨視的経済学とも訳される。マクロ経済変数の決定と変動に注目し、国民所得・失業率・インフレーション・投資・貿易収支などの集計量がある。またマクロ経済分析の対象となる市場は、生産物(財・サービス)市場、貨幣(資本・債券)市場、労働市場に分けられる。対語は、経済を構成する個々の主体に着目するМикроэкономикаミクロ経済学microeconomics。
旧ソ連において外国資本導入による合弁企業設立が認められたのは1987年初めで、中国の場合(1979年)に遅れること8年であった。度重ねての制度改編もあった合弁企業の数は増え、1989年初めに191件であった登録件数は、1990年末には290件、1992年初めにはCIS領海内で約5000件と著増した。これら合弁企業が取り扱った1991年の輸出額は13億ルーブルを記録し、1990年に比べ4・5倍と激増した(ロシア「経済と生活」紙、1992年第6号)。合弁企業が取り扱う主要輸出商品は、原油、鉄鋼、アルミ、魚・同製品、木材、皮革、毛皮などとなっている。
一方、合弁企業の1991年の輸入額は14億ルーブルで、1990年に比べ56%増であった。電算機・同関連部品の輸入が圧倒的である。合弁企業の数の著増と営業の活発化にもかかわらず、大多数が小規模経営の企業であることもあり、CIS経済全体に与える影響は必ずしも大きくはない。しかも、上記の5000企業のうち、営業活動をしているのは2000企業と少なく、約3000企業は生産部門においてもサービス部門においても、何一つ貢献しなかった、と報告されている(『経済と生活』誌、前出)。いわゆる「ペーパー・カンパニィ」が非常に多いわけである。
ロシアで稼働中の合弁企業は1992年2月現在、約1200を数えた(『イズベスチヤ』紙、1992年3月6日付)。国別で一番合弁企業が多いのは、米国との合弁で291社、2位はドイツで268社、3位はフィンランドの151社となっていて、以下、オーストラリアが135社、英国が125社、スイスが95社、フランスとスウェーデンが64社と続き、日本は9位で63社であった。
米国企業とドイツ企業の進出が突出しているほかは、やはり西ヨーロッパ企業が多い。エリツィン大統領をはじめとして、「日本企業がロシアへの進出に消極的である」といって不満が強い。しかし、件数が非常に少ないわけではないし、半数以上が極東地方の厳しい条件下で稼動していることもあって、最近では日本企業との合弁に対する評価が高まっている。合弁企業数は1992年になって著増した。これは、1991年末まではロシア対外経済関係省だけが合弁企業の登録を受け付けており、首都モスクワだけで登録業務が行われていたのが、1992年初めから制度が変り、外貨1億ルーブル以下の合弁企業の登録は地方行政府でも受け付けることになり、審査期間が大幅に短縮されたのである。
ロシア科学アカデミー極東支部ハバロフスク経済研究所の資料によると、1992年現在、極東地方で登録された合弁企業は445件を数え、このうち米国が93件で一番多く、日本との合弁企業は87件で第2位、以下、中国74件、北朝鮮20件の順となっている。業種別では、サービス部門が141件で一番多いが、水産関係が70件、建設が46件、水材関係が30件と続き、極東地方の特徴的産業との結びつきがよく表われている。

*Русскийロシア語⇒Перекуют мечи свои на орала軍民転換Swords to ploughshares (др.-евр. וְכִתְּת֨וּ חַרְבוֹתָ֜ם לְאִתִּ֗ים) — крылатое выражение из Библии, из книг пророка Исаии и пророка Михея.
第四章 軍需産業から民生重視への転換
1 過大な軍事支出の重圧
膨大な軍需支出の実態
旧ソ連の軍事支出の重圧がきわめて大きく、それが経済発展の大障害になってきたことは、国際的にしばしば指摘されてきた。
ゴルバチョフ氏自身が軍事支出は国民総生産(GNP)の17~18%を占めると述べたことがあり、米国国防省や中央情報局の専門家たちが長年にわたり発表してきた推定値が確認されたことになった。米国の一部では35%前後にも達すると非常に大きくみていた。いずれにしても、日本の軍事支出のGNPに占める比率が1%程度であるのと比べてはもちろん、米国の6%前後と比べても著しく高い。
*アメリカ合衆国国防総省Министерство обороны США(アメリカがっしゅうこくこくぼうそうしょう、英: United States Department of Defense、略称: DoD)は、アメリカの行政機関のひとつ。アメリカ軍の八武官組織のうち、沿岸警備隊、アメリカ公衆衛生局士官部隊、合衆国海洋大気局士官部隊を除く陸軍、海軍、空軍、海兵隊、宇宙軍の5つの軍を傘下に収める。
しかも、米ソ両国が1980年代を通じて公表してきた米ソ経済力比較によると、旧ソ連の経済力は、ソ連側のデータでは米国の三分の二弱、米国側のデータではせいぜい55%であった。そして、ソ連政府自身が、自国工場の労働生産性は米国のそれの半分にすぎないと発表し、自国の弱点をよく認識していた。

旧ソ連経済が上記のような軍事支出の重圧に耐えられないのは明らかであった。1970年代の後半は米ソの軍備拡張闘争の時代であり、1980年代の初めに旧ソ連の軍事力は米国の軍事力とほとんどパリティになるまでに拡大したとみられた。極東地方における軍事力が著しく強化されたとみられて、日本ではソ連脅威論が高まったのである。

軍事支出の与える重圧
だが、旧ソ連のGNPの17~18%という大きな割合の軍事支出を敢えて実行して、ごく短い期間だけ国力が二倍の米国に匹敵する軍事力を持つことができたとしても、それはまったく力に余ることであり、その状態を維持できないのは当然であった。経済は疲弊し、国民生活は多大の犠牲を強いられたわけで、私は、早晩軍事支出の大幅削減が必要になるとみていた。
旧ソ連が米国と競って軍事力を拡張できたのは、1973年の第一次石油危機以後に生じた国際石油価格の高騰がソ連に漁夫の利を占めさせ、ブレジネフ政権が石油輸出で獲得した巨額の外貨を使って産軍複合体を強化することに成功したからである。旧ソ連は、1970年代半ばに米国を凌いで世界最大の石油生産国に浮上し、石油輸出国として世界最大のサウジアラビアに比肩するようになっていた。ブレジネフ政権がもし1970年代後半から1980年代初めにかけての石油価格時代に、米国との軍拡競争に走らず、アフガニスタンへの武力介入という大失敗を犯さず、石油輸出で取得した外貨を民生部門の育成に投入していたならば、その後のソ連経済はよほど違っていたであろう。
*Русскийロシア語⇒Нефтяной кризис 1973 года第一次オイルショック1973 oil crisis)(также известен под названием «нефтяное эмбарго») начался 17 октября 1973 года. В этот день все арабские страны-члены ОАПЕК, а также Египет и Сирия заявили, что они не будут поставлять нефть странам (Великобритания, Канада, Нидерланды, США, Япония), поддержавшим Израиль в ходе Войны Судного дня в его конфликте с Сирией и Египтом. Это касалось прежде всего США и их союзников в Западной Европе. В течение следующего года цена на нефть поднялась с трёх до двенадцати долларов за баррель. В марте 1974 года эмбарго было отменено.
*軍産複合体(ぐんさんふくごうたいВое́нно-промы́шленный ко́мплекс (ВПК) 、Military-industrial complex, MIC)とは、軍需産業を中心とした私企業と軍隊、および政府機関が形成する政治的・経済的・軍事的な勢力の連合体を指す概念である。
旧ソ連経済は、1980年代を通じて不振の色を濃くしていった。ゴルバチョフ政権が進めた経済立て直し策、つまりペレストロイカも効果をあげえず、失敗した。代表的な改革派学者の1人であり、軍民転換の理論的バックボーンとして著名なユーリー・ヤリョーメンコ・ロシア科学アカデミー科学技術・経済予測研究所所長は、1991年に一時ゴルバチョフ大統領の顧問を務めたが、かねてから軍事支出の重圧がソ連経済不振の最大要因であると指摘し、人材、資源、技術、その他生産要素の全てが軍需部門に集中され、浪費されている構造的欠陥をさぐってきた。そして、抜本的な構造改革の必要性、つまり軍民転換の必要を強く主張してきたのである。

2 軍需工業中心の産業構造
巨大な軍産複合体
旧ソ連において軍需産業国家委員会の管轄下に形成されていた軍産複合体は、文字通り巨大であった。それと同時に、ソ連経済のもっとも効率的な部門であり、工業生産の中核となっていた。
*The Military-Industrial Commission of the USSR or VPK軍事産業国家委員会(Russian: военно-промышленная комиссия) commission under the Soviet Council of Ministers from 1957 to 1991. The VPK was a Commission of the Presidium of the Council of Ministers, and a deputy chairman of the Council headed it. The Soviet VPK's primary function was to facilitate plan fulfillment by easing bottlenecks, enforcing inter-ministerial cooperation, and overseeing the availability of resources.

軍産複合体には旧ソ連の最良の人材、西側先進諸国から導入したハイテクを含めて最高の技術と設備、そして豊富な資源が惜しみなく投入されてきたのであり、それが米国に拮抗する軍事力を支えてきた。
右のような軍需産業は、九つの省によって管轄され、約1500大中企業が存在し、約550万人を雇用していた。九つの省とは、航空工業省、通信機械工業省、国防工業省、電子工業省、一般機械(実際には、核兵器)工業省、機械工業省、中型機械(ロケット)工業省、無線工業省および造船工業省であった。
右に述べたヤリョーメンコ所長ら3名が共同で執筆した「軍需産業の転換とソ連経済の再編成」(旧ソ連共産党機関誌『コムニスト』1991年第1号)と題する論文によると、軍需産業のポテンシャルは非常に大きく、民需工業の2~3倍に達している。
とはいえ、旧ソ連、そしてCISの軍産複合体にみられるきわだった特徴の一つは、非常に広い範囲の民需品を生産していることである。軍需産業は、石油・ガス掘削機や軍需品から香水や玩具にいたるまで3000種類にものぼる民需品を生産し、機械工業で生産する消費財全体の約50%を生産している、といわれている。とりわけ、テレビ、ビデオ、ミシンなどの耐久消費財の100%が軍需産業で生産されている(図1参照)。
しかし、民需品はそれほど多く生産していたにもかかわらず、世界市場価格で換算してみた場合、1988年の旧ソ連機械工業の全完成品生産高(軍産複合体と民需機械工場の合計)のうち、62~63%は軍需品および兵器で占められ、投資財が占めるシェアは32%、消費財はようやく5~6%を占めたにすぎなかった。
ヤリョーメンコ所長らは、軍需生産における巨額の浪費がソ連経済を無力化させている、と激しく糾弾し、経済の非軍事化、軍民転換の必要性を強調していた。そして具体的には、軍需産業国家委員会の管轄から電子工業省と無線工業省の全ての企業、国防工業省と一般機械工業省の70~80%、航空工業省と造船工業省の50~60%、研究・設計機関の70%以上を解放し、産業構造の抜本的変革を実現する必要があるという提案を行なっている。

3 遅れが目立つハイテク産業
遅れた技術水準へのあせり
旧ソ連は、一部の軍事技術や宇宙開発技術において世界の最先端を行って米国に拮抗し、優れた基礎技術研究の基盤のうえに、近年では超電導技術や微粉末型技術などでも長足の進歩を遂げていた。
しかしそれにもかかわらず、旧ソ連の農業技術水準が欧米や日本の先端的水準に比べて著しく劣っていたことは周知の通りで、ゴルバチョフ氏をはじめ旧ソ連の指導者層から学者や技術者、普通の労働者にいたるまで、自分たちの後進性を十分に理解していた。技術水準が立ち遅れて低いというかれらの認識は、技術ギャップを何とか縮小したいという願望につながり、欧米先進諸国と日本からの積極的な技術導入の動因となり、同時に人々を産業スパイなどの非合法活動に走らせてきた。
ゴルバチョフ政権はとくに、世界的に「新産業革命」と呼ばれるほど目覚しい技術革新の波が押し寄せる状況のもとで、自分たちが1970年代以降の、エレクトロニクスやファクトリー・オートメーション機器などの先端技術分野で決定的な遅れをとったことを深く反省し、ハイテクを中心にした技術革新に真剣に取り組んだ。

だが、ゴルバチョフ政権が埋めようとした技術ギャップは、あまりにも大きかった。しかも、米国と日本のハイテク進歩は日進月歩で長足であり、格差はますます広がっている。

旧ソ連先端技術の実態
ゴルバチョフ政権がハイテク重視策を打ち出したことを憂慮して、米国では旧ソ連の技術研究が盛んになり、数多くの報告が出された。1986年11月に米国で、CIA長官が主催して開かれた会議の議事録「情報革命に直面するソ連」は、ソ連がもっとも立ち遅れている「情報技術」、つまり、マイクロエレクトロニクス、コンピューター(ミニコンとパソコンを含む)、テレコミュニケーション、ならびにこれらに関連するソフトウェアについて、全体として先進諸国に5年から10年遅れている、という結論を出していた。ソ連の情報技術はハードウェアの開発ではかなりよくやっているものの、ソフトウェアの開発が著しく遅れ、先進諸国とのギャップは開く一方という指摘がなされていた。
同じ頃、米国の有力経済誌『フォーチュン』(1986年10月13日号)が組んだ特集記事「ハイテクレースどこが最先端か」も、ソ連のハイテクの立ち遅れを具体的な数字をあげて明示したレポートとしてしばしば引用される。『フォーチュン』誌では、ハイテク分野をコンピューター(半導体を含む)、ライフサイエンス、新素材およびオプトエレクトロニクスの四分野に分け、それぞれの分野について10人の専門家(大学、シンクタンク、政府関係)を選び、10点満点(平均)で米国、日本、西欧およびソ連の技術(研究開発)競争力を採点させるという趣向をこらした。
表4・1はその結果を示すもので、米国は四つの分野のうち三つの分野で首位に立ち、ハイテク分野でも圧倒的な力を維持していることが明らかになっている。日本は、米国に次ぐハイテク強国であることが実証され、オプトエレクトロニクス分野では米国を凌いで首位に立っている。西欧はいずれも三番手にとどまっているが、新素材とオプトエレクトロニクスの両分野で5点以上を得ている。
ソ連はどうかというと、いずれの分野でも最下位に甘んじている。その得点もコンピューターで1・5、ライフサイエンスで1・3と極端に低い。四つの分野の総得点をみると、米国が34・3、日本が28・8、西欧が21・0であるのに対して、ソ連は10・2にすぎず、まことに低く評価されている。

旧ソ連は、先進諸国から多額の産業技術を輸入し続け、西側に大きく依存してきた。しかし、ハイテクについては、輸入だけでニーズを充足することはとても無理がある。先進諸国のココム(対共産圏輸出統制委員会)リストもソ連へのハイテク輸出を厳しく禁じてきた。また、いわゆる「コピー」戦略がたとえ成功したとしても、ソ連の情報技術は、いつも、少なくとも一技術世代は遅れ続けるはずであった。
*対共産圏輸出統制委員会Координационный комитет по экспортному контролю, более известный как КоКом или КОКОМ(たいきょうさんけんゆしゅつとうせいいいんかい、英語: Coordinating Committee for Multilateral Export Controls; COCOM(ココム))は、冷戦期に資本主義主要諸国間で設立されていた、共産主義諸国への軍事技術・戦略物資の輸出規制(或いは禁輸)のための委員会。本部はフランスのパリ。ただし英文名称を直訳すると「多国間輸出統制調整委員会」であり、どこにも「対共産圏」という文言はない。
しかも、ゴルバチョフ政権にとって不運なことに、1980年代半ばをさかいにして、国際石油価格が大幅に下落し、ソ連の外貨獲得能力は著しく低下してしまった。つまり、支払い能力が著しく弱まったわけであり、1980年代末期になると、ソ連の対外債務は大幅に膨張し、その返済が国際的に懸念されるまでになってしまった。

旧ソ連と先進諸国とのハイテク・ギャップは、現実に大きく開く一方で、ゴルバチョフ政権はその縮小をめざしながら、結局は成果をあげることができなかった。
ソ連が解体し、ロシアが対外経済開放と市場化に向けて陣痛の苦しみを味わい、軍民転換を必須の課題としている今日、米国をはじめとする先進諸国がロシアを体制の異なる敵国視する理由は消滅した。ココムの存立事由も実際の体質も、変容しつつある。欧米諸国ならびに日本と、ロシアとの自由な技術交流がひらける可能性があるわけであるが、現実にそうなった場合、ロシアは果してキャッチアップに成功するであろうか。

4 理論と応用の乖離
進んだ理論と遅れた応用
旧ソ連・CISでは科学技術の重要性が明確に認識され、研究・開発投資も決して少なくない。多くの大型研究所では優秀かつ強力な研究者・技術者集団が研究に従事し、多種多様な独創的工業技術を開発している。それにもかかわらず、ソ連の科学技術は米国や日本に比べて著しく立ち遅れているのである。立ち遅れの要因としては、先に述べたような軍需産業への技術、資材、人材の集中があげられ、研究・理論と生産・応用の乖離も目立っている。
欧米諸国や日本では、軍需技術と民需技術との相違・境界が限りなく消滅しつつあるのに、旧ソ連・ロシアでは、いわゆる「技術の伝播」はきわめて緩やかである。独創的な産業技術を開発しながら、その実用化と生産への広範な応用は劣悪なのである。
科学技術研究体制と生産の現場とは、ほとんど完全に隔絶していた。学者や研究者たちは、研究活動でも日常生活でも非常に良い環境を与えられる一方、国民経済とは何の接点もなく、純粋培養的な生活を送っていた。旧ソ連科学アカデミー傘下の多数の研究所に加えて、ペレストロイカ以前には30に近い部門別工業省がそれぞれの研究施設をもっていた。しかし、そうした研究機関の研究産業が新しい商品開発につながる例は、非常に少なかった。
一方、生産の現場では、創意工夫や技術革新をめざすイニシアチブが起きることはなかった。需要家のニーズに対比していくという考え方さえなく、消費物資の品質向上といっても、無理な相談であった。つまり、上意下達の計画化経済システムのもとでは、生産企業の活動は、上部機関から下達される細部にいたるまでの計画ノルマにもとづいて行なわれていたのである。自主裁量の余地はきわめて小さかった。
企業経営者たちにとっても、既存の生産設備と労働力、配給される原料と資材によって、慣れ親しんでいる計画ノルマを達成するのが安全な道である。新しい生産設備や工法を導入した新しいプロジェクトへの挑戦は、きわめて危険な賭けであったし、現実に許されることでもなかった。市場経済への転換とは、以上のようなノルマ・システムを放棄し、企業経営者たちに明日から自由競争と独立採算制の原則にもとづいて自由に企業を経営せよ、ということである。
企業経営者としては、当面は戸惑うのが当然であろう。産学協同が広く普及し、多数の大中小企業が市場原理と利潤動機に誘発され、新技術の開発と製品の品質向上をめざしてしのぎを削っている日本や米国におけるような状況が果していつの日にかロシアや他のCIS諸国で実現されるであろうか。

5 軍民転換と西側の支援
軍民転換こそ唯一の選択肢
経済的視点に立ってみれば、国内経済を軍事支出の重い負担から解放し、民生重視策を中心に据えて立て直す政策こそ、旧ソ連、そしてCISの施政者たちが選択できる唯一の道である。ゴルバチョフ氏にとっても、エリツィン氏にとっても、この点については他に選択肢はなく、軍民転換は必須の方向である。

ゴルバチョフ大統領(当時)が1991年夏のロンドン・サミット参加七カ国にあてた書類の中では、1988~91年に軍需関連調達費は29%減少、戦車の生産は約二分の一に半減、戦闘機と大砲の生産は約三分の一に、武装戦闘車と武装兵員輸送車は約四分の一に減少したとも述べられていた。
このゴルバチョフ書簡には「経済・科学・技術協力提案」が付されていて、軍民転換についても具体的な提案が盛り込まれていた。たとえば、軍民転換を促進して、高効率で居住性の好い長距離旅客機、ビジネス専用機とヘリコプターなどの開発と生産、航空管制・航行システムの近代化、ソ連のロケットによる商業用衛星の打上げ、ソ連の造船所での民間船舶の建造、家電品やミシンを製造するために既存あるいは建設中の工場や施設の改造、石油・ガス共同開発用の掘削設備の生産等々を実現したいという提案が示され、転換に要する資金は300億~400億ドル(最初の2~3年に必要とされる100億~150億ドルを含む)と見込まれていた。
1991年8月政変の直前、シチェルバコフソ連第一副首相(当時)は、軍民転換が不退転の課題であることを強調し、詳細な軍民転換計画(連邦計画)を明らかにした。それによると、1995年までに600以上の軍需工場の民需転換が企画され、民間航空機、船舶、医療機器、テレビなどの大幅増産が計画されていた。
以上のように大掛かりで、軍需中心の産業構造を抜本的に転換する計画を市場経済のメカニズムだけに委ねて実現することは、とうてい不可能である。強力な中央調査機関が長期的見通しのうえに立って、計画的に軍民転換を進めることが必要不可欠である。
しかも、経済が疲弊し切った旧ソ連・CIS諸国がそれぞれ自力だけでこの転換を実現するのはとても無理である。資本主義先進諸国の技術的援助と金融支援がどうしても必要になる。しかし先に述べたロンドン・サミットは、ゴルバチョフ書簡の中の軍民転換提案に対して真剣な考慮を払わなかったし、市場経済への移行を明らかにする証拠を提示しなければソ連に対して金融支援は行わない、という「ないものねだり」の要求をゴルバチョフ氏に突きつけただけであった。ゴルバチョフ氏は、ロンドン・サミットに出席しただけで、何の成果もあげないままモスクワに帰り、それから1ヵ月後に起った「8月政変」によって最高権力者の座を実質的に失ったのであった。

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