日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

После распада Советского Союза Экономическая реальность☭Кадзуо Огавы/After the dissolution of the Soviet Union Economic reality☆Kazuo Ogawa/Après la dissolution de l'Union soviétique Réalité économique★Kazuo Ogawa『ソ連解体後―経済の現実☭小川和男』⑤


遅々として進まない転換と要因
ソ連が解体し、CISが成立した後、新しく独立した諸国は、当然のことながらそれぞれの国の安全保障に必要な軍隊と国防産業を持とうとした計画を策定している。旧ソ連時代における各共和国を網羅した軍民転換の構想は、消滅したわけである。各国は、自国内の軍隊と国防産業の管轄権を主張すると同時に、自国の状況に見合う軍民転換の推退を模索している。だが、ロシアをはじめCIS各国が膨大な財政赤字と累積債務に苦しみ、資金不足が深刻な状況下では、莫大な投資を前提とする軍民転換が円滑に進むはずがない。それは、市場経済への移行と同じように、必然的に長期的で複雑なプロセスとならざるをえない。
私は1991年と1992年と続けて、日本政府の旧ソ連・ロシアに対する知的・技術的支援の重要な一環として実施されている軍民転換支援のためのいろいろな調査団に参加し、軍需産業の中心地であるウラル地方や沿ボルガ地方や極東地方で、数多くの軍需工場を視察し、軍産複合企業の経営者たちと懇談した。結論を簡単に述べれば、軍民転換は容易に進んでいないし、将来の見通しも明るくない。このため、1991年と1992年では、経営者たちの心理に重大な変化が生じている。つまり、1991年では、経営者たちの心理に重大な変化が生じている。つまり、1991年には軍民転換に積極的であった経営者たちが、1992年には転換があまりに困難であり、国家発注による軍需生産の力が企業にとってはるかに楽で有利であることから、従来通り軍需生産を維持し続けたいという後向きの姿勢をみせているのである。エリツィン政府が武器輸出を続ける態度を公然と表明していることと合わせて、国際的にみて大きな懸念材料である。

転換が遅々として進まないのは、もちろんさまざまな要因が重なっているためである。まずなによりも先にあげられる要因は投資不足で、このために民需生産に必要な新しい機械・設備の投入が困難になっているためである。軍需生産に使用されている機械・設備をそのまま民需生産のために転用できるわけではない。
また国家予算では軍事費がかなり大幅に削減され、企業に対する軍需品の国家発注が現実に減少し、失業が深刻な問題として浮上している一方、軍産複合体が政府によってかなり手厚く保護され、温存されているという問題もある。コンバージョン(転換)が盛んに言われながら、それは、軍産複合体の完全な民需産業へのコンバージョンではなく、ダイバーシフィケーション(多角化)にすぎないのであり、それは軍産複合体の温存につながっている。軍産複合体は、先に述べた通り、民需品をかなり独占的に生産してきた。民需品の供給不足と価値高騰という状況のもとで、作れば高値で売れるのが現実である。このため、1991年についてみると、軍需品の販売利益は13・2%減と減少したものの、民需品の収入が53・6%増と著増し、軍産複合体全体としての利益は13・1%増と増大したという(『ビジネス・モスクワニュース』1992年第9号)。
CIS成立後、ロシア最高会議は1992年3月、「国防産業の軍民転換法」を採択し、施行した。この軍民転換法は、軍事費削減の結果生じる軍産複合体の遊休設備と余剰労働力を活用して、民需生産を効率的に実現することを目的にしている。それと同時に、軍需企業の経済的利益の保護と労働者の社会的保障がこの法律の主要な狙いとなっている。この点では、政府の手厚い保障が依然として残されている。
今後の方向としては、ヤリョーメンコ所長らが主張するように、軍産複合体から民需部門を完全に引き離し、抜本的な産業構造転換を実現する必要があろう。つまり、完全なコンバージョンをはからなければならない。軍需部門は適切な規模に専門化し、残る大半の部門については民需部門に特化して民営化する必要がある。資本主義先進諸国の支援は、軍需生産と民需生産を分割し、民需生産部門が1人歩きできるように誘導する方向で実施されるべきである。
極東地方の軍民転換と困難
極東地方は日本の対岸に位置し、ロシアの領土のなかで日本に一番近い地域である。この極東地方の工業は、もともと軍需生産を目的に建設されたといっても過言ではない。沿海地方やハバロフスク地方の一部には、巨大な軍産複合体が集中している。
たとえば、ウラジオストク市、コムソモリスク・アムーレКомсомо́льск-на-Аму́ре市、アムールスクАму́рск市などはまさに軍産複合体集中都市であり、いずれも長い間、外国人禁足の閉鎖都市であった。
極東地方の工業生産全体に占める軍産複合体のシェアは約8・5%程度であり、極東地方の主導的産業である非鉄金属工業に比肩している。機械工業だけでみると、全生産高の50%を占めている。極東地方の軍産複合体は主要なものだけで45を数え、その生産高の約70%は造船工場と航空機産業が占めており、旧ソ連空軍が誇る戦闘機「スホイ」も極東地方で製造されているが、どちらも機械・設備がかなり老朽化している。
*公共株式会社スホーイ・カンパニー(ロシア語: ПАО «Компания „Сухой“»、英語: Sukhoi Company (JSC)、単にスホーイまたはスホイとも)は、ロシアの主要航空機メーカー。ソ連時代はスホーイ設計局として専ら軍用機(戦闘機・攻撃機など)を手がけていたが、現在では民間機も製造している。旧称は公開株式会社スホーイ・カンパニー(ロシア語: ОАО «Компания „Сухой“»)で、2014年の法改正[1]を受けて公開株式会社から公共株式会社に移行し、現在の名称になっている。
極東地方の軍産複合体集中都市では、住民の大多数が軍需産業に依存して生活している。軍需品の国家発注が大幅に削減され、軍民転換が円滑に進まなければ、多数の失業者が出るのは必須であり、しかも、失業者たちが転業・転職できる余地は少ない。
経営者、技術者、労働者、そして家族としては、将来に大きな不安を抱き、安易な方向としてこれまで通りの軍需生産に執着しやすい。極東地方の軍民転換に関しては、日本の支援に期待が寄せられている。日本としては、先にも述べた方向、つまり、軍需部門から民需部門を完全に独立させ、そこに余剰労働力を吸収していく方向で支援を実現していくべきであろう。

先進諸国に望まれる積極的な軍民転換支援
ロシア政府と地方行政府、そして軍産複合体の代表者たちは、軍民転換を進めるに当って、主として投資資金不足のために、外国政府ならびにIMFなどの国際金融機関からの金融支援、さらに合弁方式による外国民間企業からの直接投資を必死になって求めている。旧ソ連・ロシアの一部には、武器輸出を拡大して外貨獲得を増やし、その外貨を投入して民需転換をはかる、という考え方がある。これはもちろん本末転倒であり、政治的にも道徳的にも危険でとても許容できない。
1992年夏のミュンヘン・サミットでは、旧ソ連・ロシアに対する経済支援が確認され、軍民転換にも積極的支援を与えていくことでコンセンサスがあった。日本を含めて先進諸国としては、再三述べたところであるが、長期的視点に立ってCIS諸国の軍民転換を支援するべきであり、各国の具体的転換プロジェクトを十分に吟味し、必要な場合には金融支援に踏み込む積極的対応が望まれるところである。

第五章 崩れる共和国間経済関係
1 各共和国の政治的独立と経済
連邦解体を促進した「8月クーデター」
1991年を通じた政治的激変の最終結果として、ソ連共産党は解散、ソ連邦は解体し、独立国家共同体(CIS)が成立した(1991年12月21日)。ソ連邦を構成していた15の共和国は、それぞれ政治的独立を達成した。同年「8月政変」直後におけるバルト三国の完全独立によって、15共和国で構成されていたソ連邦は事実上解体していたわけであるが、その後ウクライナとベラルーシの独立宣言が相次ぎ、ゴルバチョフ・ソ連邦大統領の連邦維持をめざしての捨て身の反撃にもかかわらず、時代の趨勢となったディスインテグレーションの流れを止めることはできなかった。
「8月政変」は、保守派が改革派を押えるために行なったクーデターであったと一般的に評価されている。しかし、保守派が改革に全面的に反対していたわけではないし、かれらは連邦存続に自分たちの存在基盤を見出そうとしていたから、クーデターに訴えるだけの理由はなかったわけではない。保守派といわれるのは、軍部、内務省、国家保安委員会(KGB)、軍産複合体、それに長い間一党独裁政党としてソ連を支配してきた古い意識と体質の共産党などであり、かれらは、エリツィン氏登場後1年間における連邦の弱体化、ロシア共和国をはじめとする共和国の権限強化に危機意識を深めていた。
ゴルバチョフ連邦大統領は、エリツィン・ロシア共和国大統領に譲歩を重ねる一方であったし、とりわけ新しい連邦条約が8月20日に調印の予定となり、新条約によって連邦の「徴税権」が共和国に移されることが決って、保守派の存在基盤は大きく脅かされるにいたった。連邦は徴税権を失い、連邦の財政収入は各共和国が納める分担金に依存することになるが、連邦の力が急速に低下した状況下では、各共和国に分担金の支払いをどこまで強制できるのか非常に疑問視されたのである。
クーデターは、新連邦条約締結の前日(8月19日)に起こされたわけで、保守派の窮余の反撃であった。徴税権が共和国に移り、連邦の財政力が弱まることは、保守派の存在基盤が大きく揺らぐことを意味したからである。しかもそれと同時に、保守派には、ゴルバチョフ政権成立以来のペレストロイカの失敗とそのマイナスの成果、つまり、生産の激減、極端な物不足と闇経済の横行、インフレの高進と生活水準の低下、社会秩序の混乱と犯罪の著増、そして国民の間に高まる不満と疎外感などに何とか歯止めをかけ、「秩序の回復」をはかりたいという肯定的企図があったことを見逃すべきではない。
しかしながら、保守派は経済危機打開のための明確な対策をもたず、多くの専門家たちが指摘した通り、クーデター計画そのものの粗末さによって、政敵であるエリツィン氏らに一撃も加えられないまま自滅してしまった。クーデターは、連邦維持を狙った保守派の意に反して、連邦解体を促進するという逆の効果をもたらしたのである。

独立国家共同体(CIS)形成の背景
「8月政変」の後、連邦解体のプロセスに拍車がかかった。バルト三国の完全独立があり、新しい連邦の形成が模索され、連邦暫定内閣となった国民経済対策委員会のヤブリンスキー副議長による「経済同盟」条約案が提出され、これが連邦の最高政策機関である国家評議会で採決された(1991年9月16日)。
だが、そうした真剣な努力も、民族主義の高揚に支えられた反ロシアの遠心分離的運動をとどめることができず、ヤブリンスキー案も一部の共和国の指導者からモスクワ中心主義への回帰であって受容できない、と厳しく批判された。
連邦解体は、1991年12月8日に決定的になった。この日、エリツィン・ロシア共和国大統領は、連邦維持の最後の切札としてゴルバチョフ氏による主権国家連邦構想を携え、ベラルーシ共和国のブレスト州ビスクリにおいて、同国のシュシケビッチ最高会議およびウクライナ共和国のクラフチューク大統領との間で三者会談を行った。この席上、クラフチューク大統領はあくまでも連邦からの独立を主張して、連邦維持を拒否する態度を表明した。ここにいたり、危機に直面して強いエリツィン氏の適応力が発揮された。「ウクライナが独立すれば、連邦維持は不可能である」と判断したエリツィン氏は、ゴルバチョフ氏の主権国家連邦構想を引っ込め、ロシア、ウクライナおよびベラルーシ三国つまり、スラブ民族だけによる独立国家共同体の創設に切り換えて三国は合意したのである。
*ベロヴェーシ合意(ベロヴェーシごうい、英語: Belovezha Accords、ロシア語: Беловежские соглашения)は、1991年12月8日、ロシアのボリス・エリツィン大統領、ウクライナのレオニード・クラフチューク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケービッチ最高会議議長が参加して、ベラルーシのベロヴェーシの森の旧フルシチョフ別荘で急遽行われた秘密会議、及び、その会議においてまとまった合意。特に、ソビエト連邦の消滅と独立国家共同体(CIS)の設立を宣言した「独立国家共同体の設立に関する協定」を指す。
ウクライナは、人口の規模で約5200万人とフランスに匹敵する大国であり、経済的には旧ソ連全体の約20%を占め、約70%を占めるロシアに次ぐ第二の経済大国であった。石油と天然ガスは乏しいものの、その石炭生産高は旧ソ連全体の約25%、粗鋼は約三分の一、工業生産高では四分の一を占めている。農業の条件にも恵まれ、昔から穀倉としての評価が高い。バルト三国が独立しても、それで連邦が存立できなくなるわけではない。人間でいえば、手の指を三本失うぐらいであり、非常に痛いけれど、生命が保てないほどのダメージではない。ウクライナ独立となれば、連邦はその心臓部を失い、生きていくことはできない。
エリツィン大統領がもし、クラフチューク大統領との交渉を決裂させたままでモスクワに帰っていたとしたら、かれが大統領の地位にとどまっていられたかどうか、はなはだ疑問である。一方、ソ連邦解体はこれで決定的となり、連邦大統領ゴルバチョフ氏の命運もここに尽きた。
スラブ民族三国だけの独立国家共同体創設に対する他民族の反発は激しく、とりわけ旧連邦第三位の国力をもつカザフ共和国のナザルバーエフ大統領などは、スラブ優先主義と決めつけていた。だが、ソ連の経済力全体のなかで、ロシアが約70%、ウクライナが約20%、両国で約90%を占めることは圧倒的な意味をもち、ナザルバーエフ大統領以下もしだいに現実に歩み寄り、同年12月21日、カザフ共和国の首都アルマ・アタで独立国家共同体が発足したのである。

CISは緩やかな友好連合
新しい独立国家共同体=CIS(СНГ)は、「サドルージェストボ・ニェザビーシムィフ・ガスダールストフ
Содружество Независимых Государств」というロシア語の和訳である。CISには、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、アルメニア、アゼルバイジャン、モルドバ、カザフ、ウズベク、キルギス、トルクメンおよびタジクの11共和国が独立国家として参加した。すなわち、スラブ民族三共和国が創設した独立国家共同体に他の八共和国が後から参加したのではない。それは、他の諸国の民族的プライドがとても許されない。11の共和国が新しくCISを形成したわけである。完全独立のバルト三国は参加せず、グルジアは、国内が内戦状態ということで参加できなかった。
日本では「サドルージェストボ」を「共同体」と訳したが、この訳は問題が多い。「共同体」の訳語がEC(欧州共同体)のような強い「共同体」を連想される結果を招いているが、サドルージェストボにそうした意味はない。このロシア語は「友好連合」の意であり、独立国家共同体は、政治的に独立した国家が経済的結びつきを中心に緩やかな友好連合を形成しようということである。
したがって、共同体が創設されたことによって何か目標が達成されたわけではない。問題が発生するたびに、独立国家ができるだけ友好的に解決していこうということであり、きわめて流動的で、不安定な機構である。
現実にも、創設後1年間にCISは内外の諸問題を少しも改善できず、内部の対立と亀裂がいっそう深まった。旧連邦から引き継いだ軍事資金と金融資産の共和国間分割、民族紛争がからんだ国家間紛争等々、何一つ解決されていないし、状況は悪化している。これは、CISには活動の指針となる包括的条約も常設の調整機関もないからであり、また、国家間紛争を解決する機関もないのである。
1992年から冬にかけては、ロシアとウクライナおよびベラルーシとの間の経済対立が深まった。これは主として、ロシアがCIS諸国向け石油供給を大幅に削減したことと密接な関係にあり、ウクライナはロシアの西欧市場向け石油・ガス・パイプラインを押さえていることから、今後はロシアに対して通過手数料の大幅引上げを迫り、問題が著しく複雑化している。
ロシアからは西欧諸国(フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア)向けに大口径ガス・パイプラインが二本通じ、ロシアの天然ガスが大量に供給されており、西欧諸国はその需要の平均20%をロシアからのガス供給に依存している。ロシアは、上述のようなウクライナとの対立を理由に、1992年10月中旬から西欧諸国への天然ガス供給を大幅に削減した。ソ連の解体とCISの成立、そのCISの不安定と内部対立に起因する経済問題が、西欧諸国に直接打撃を与えているわけである。

2 ロシアの圧倒的経済力
ロシアの圧倒的経済力とCIS諸国
ロシアは、旧ソ連の人口(約2億9000万人)の半分以下、経済力の約70%を占め、CISの中で圧倒的に強力である。ロシアの経済政策と経済動向が他のCIS諸国に重大な影響を与えることは、いうまでもない。
好例をあげれば、ロシアが1992年1月初めに強行した価格の全面的自由化がある。この自由化は、他のCIS諸国の強い反対を押し切って敢行されたのであるが、結局のところ、他のCIS諸国もごく短い期間内にロシアに追随せざるをえなかった。ロシアは、とりわけ天然資源の保有と生産の点で絶対的ともいえる優位にあり、石油・ガスの供給を通じてだけでも、他のCIS諸国に大きな影響力を行使することができる。
ロシアは、旧ソ連の1990年の全生産高のうち原油の約90%、天然ガスの約79%、石炭の約56%、鉄鉱石の約45%を産出し、さらに、木材伐採量の約92%、漁獲量の約74%を占めた。電力、粗鋼、各種機械、化学肥料、家電品の生産においても、50~63%を占めていた。また、ウクライナの東部やカザフスタンの北部などロシア人が多数居住する地帯が石炭や非鉄金属資源の宝庫となっている。
ロシアの右のような優位に対して、ウクライナとベラルーシは石油と天然ガスをロシアの供給に頼らざるをえない。カザフスタンの石油と非鉄金属、トルクメニスタンとウズベキスタンの天然ガスは旧ソ連で全国的意義をもっていたが、開発は遅れていた。中央アジアとカフカースの諸国は総じて資源の輸入国であったし、バルト三国には、エストニアのオイルシェールと水産品を除けば、みるべき資源はない。
天然資源の以上のような既存状況から、旧ソ連経済では、ロシアから他の共和国へ富が流れているというロシア人の不満と、中央集権的なシステムのもとでモスクワに計画的に搾取されているという各共和国の不満がせめぎ合っていた。連邦解体とCIS成立以降、そうした不満が一挙に顕在化し、ロシアとウクライナとの間では先述のような激しい対立が起っているのである。
旧ソ連の国内価格システムでは、原油と天然ガスをはじめ資源が国際価格よりずっと低く設定されていた。このため、共和国間の交易(後出人)においてロシアの収支は大幅な赤字となっていた。市場経済への転換がはかられ、価格が自由化されたもとでも、ロシアではエネルギー資源の価格自由化(現実には大幅な引上げ)は先送りとなってきた。ロシア経済に与えるショックがあまりにも大きいと予想されるための先送りであるが、早晩の値上げは必須であり、その時にはロシアと他のCIS諸国との軋轢がいっそう深まることになろう。
大国ロシアの弱点
ロシアは資源の保有と生産で圧倒的優位に立つわけであるが、大きな難題を抱えていることもまた事実である。しかも、難局は深まるばかりである。ロシアの原油および天然ガス生産の大部分を担っている西シベリア(原油の約75%、天然ガスの約88%)はロシア経済の中心であるヨーロッパ部から非常に遠く、開発条件と自然環境はともに大変厳しい。そのため、石油・ガスの開発・輸送コストが著しく高まるという難題があり、現実に生産が減少し始めている。とくに原油生産の落込みが大きく、全ロシア的問題になっている。炭田開発も同じような難局下にあり、資源埋蔵量はあっても、商業的生産が可能な炭田は限られている。
経済外の難題も見逃せない。ロシアには、西シベリア以外にもかなり有力なウラル・ボルガ油田地帯があるが、その中心に位置するのがタタールスタンやバシキールスタンで、両国とも共和国宣言を行って、反モスクワ色を強めているのである。ロシア政府は、両国の石油生産と販売をよく管理できなくなってしまった。カフカース山脈北麓のダゲスタン、チェチェンとイングーシでも、小量ではあるが原油を産出している。しかし、この原油についても、ロシアは管理権を失っている。
ロシアのもう一つの大きな弱点は農業生産にある。ロシア農業の生産性は旧ソ連のなかでも低く、ロシアは15共和国の中で最大の食糧移入国であり、外国からも大量の食糧を輸入していた。ロシア農業が北に偏した限界的農業地帯で展開されていることに加えて、モスクワやサンクト・ペテルブルクのような大都市、シベリアの工業都市が北方に偏在しているため、1年のうち半年は周辺農業に何も頼ることができないという難しさがある。ロシア南部の農業地帯、ウクライナ、ベラルーシ、中央アジア諸国から円滑な長距離輸送を確保できないとすれば、大都市や工業都市における食料品不足が起るのは当然といえよう。
旧ソ連において、主要農産物の1人当り生産高が大きかったのはウクライナとモルドバで、穀物の単位面積当り収穫量も高く、穀倉の名に恥じない。バルト三国は、食肉、乳製品、ジャガイモの重要生産国で、他の共和国への移出国であった。一方カザフスタンは穀物と畜産品、キルギスタンは羊毛、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンおよびアゼルバイジャンは綿花栽培にかなり特化していた。

3 崩れる有機的需給関係
生産集中化がもたらした弊害
旧ソ連では、過度に中央集権的な計画化経済システムのもとで、非常に強力な計画策定機関である国家計画委員会(ゴスプラン)がソ連邦という国の経済機構と産業配置について、細部にいたるまで精緻な計画を策定し、決定していた。膨大で微細な情報と資料を高速で処理できる高性能で大容量のコンピューターこそ、旧ソ連のような計画化経済にとって必要であった。しかし残念ながら、先に述べた通り、ソ連が解体して1年を経た昨今といえども、この国のコンピューター技術はハードとソフトの両面で全く立ち遅れているのである。
ゴスプランの計画立案過程において、各共和国と地方ごとの特性が十分に考慮されたとはとてもいえず、モスクワ中心主義で地方軽視は当り前のことであった。そして、生産の極端な大規模化・集中化が進められ、一国としての有機的な相互依存需給関係が形成されていた。旧ソ連科学アカデミー中央教理経済研究所が行った調査結果では、機械工業の製品5885品目のうち、87%までの品目がわずか一つの企業で生産され、さらに94・8%が1~3の企業で生産されていた(ソ連「統計通報」1991年第1号)。
生産のこのような集中化は、旧ソ連の産業間に極度の相互依存関係が形成されていたことをよく示している。こうした連関のもとでは、一つの連関が崩れればソ連経済全体にたちまち波及し、全体の破綻につながることを意味した。至近の例では、1990年の一時期、モスクワやレニングラード(当時)から紙巻きたばこが全く姿を消したが、これは、ソ連で唯一の紙巻きたばこの紙製造工場が故障したのが原因であった。
石油開発関連機器を製造する企業がアゼルバイジャンの首都バクー周辺に集中しているのはよく知られている。ところが現在アゼルバイジャンは隣国アルメニアとの流血をともなう民族抗争の最中にあり、このため生産と輸送の分野でマイナスの影響が出ている。すなわち、旧ソ連・ロシア最大の産油地域である西シベリアへの開発関連機器供給が減少、旧ソ連・ロシアの原油減産につながっているのである。
また、先にも述べたが、ウラル地方の工業都市ペルミで大規模な洗剤工場を見学したおり、原料はカザフスタンから、洗剤を詰める紙箱をつくるボール紙はサンクト・ペテルブルクから供給されているとのことで、本当に驚いてしまった。ペルミ市から数千マイルも離れた工場からの供給に依存しているわけである。

連邦解体がもたらした打撃
旧ソ連邦を形成していた共和国が政治的に独立し、連邦が解体した後、CISが誕生したものの、共和国の境界を越えて存在していた有機的需給関係は急速に崩れつつあり、企業活動は満足に原材料調達ができず、製品の販売もままならずに著しく停滞し、生産は大幅に減少している。
民族主義が高揚するウクライナも例外ではなく、企業経営者たちはこれまでの相互依存関係が崩れた結果発生した難局への対応に苦慮している。たとえば、ハリコフ州の場合がそうである。ウクライナには25の州(日本の県に相当)があるが、ハリコフ州は一州だけでウクライナの全工業生産高の約28%を生産する一大工業州である。このハリコフ州は、ウクライナの東辺に位置し、古くからロシアと一体となって発展してきたことから、工業用の原材料調達と工業製品の供給の両分野で、ロシア各地とこれまで緊密な相関関係を築いてきており、その円滑な維持は州経済の死活にかかわっている。

*ハルキウ州(ハルキウしゅう、ウクライナ語: Харківська область ハールキウスィカ・オーブラスチ)は、ウクライナの州の一つ。州都はハルキウ。なお、ハリコフ州という日本語名はソビエト連邦時代の公用語であったロシア語名に沿ったものである。ウクライナ語名では「ハルキウ州」となるが、日本ではロシア語名が用いられることも多く、またウクライナ語名をロシア語読みしたハルキフ州という表記も見られる。ロシアと近く、またロシア人の入植が活発に行われた結果であるとされる。

こうした現実から、ハリコフ州ではウクライナの独立に反対する声が最後まで高かったという。実際にも、ハリコフ市内にある「ハリコフ・トラクター工場」(旧ソ連でもっとも有名なトラクター製造企業)を訪問してみると、1991年の生産台数は前年に比べて30%も減少し、その最大の要因はロシアからの受注の激減であるという。ロシアとの需給関係を今後企業ペースでいかに再構築できるか、それが60年の歴史を誇る名門「ハリコフ・トラクター工場」の命運をかけての課題となっている。

4 ゆるやかな経済連合を求めて

連合再構築の必要性

民族自決、国家の独立、分権化、遠心分離的方向こそ、旧ソ連全土を揺り動す時代の潮流である。経済的にも、各国は独立に執着し、時代の波に乗ろうとしている。いずれにしても、モスクワ中心主義の長かった時代には幕がひかれた。そうした時流の下で、旧ソ連時代の産業部門あるいは地域間の有機的需給連関の再構築が必要であると主張しても空ろにひびくばかりで、冷笑を浴びせられるのが落ちであろう。だが、有機的な生産・流通関係の急速な変化、それも多くの場合共和国独立という政治的要因による変化が引き起こしている弊害は、先にみた通りきわめて大きい。

民族ナショナリズムが激しく燃え上がっていれば、理性では制御できない力が働く場合も多い。だが、各共和国が経済的に独立することは至難の業であり、この点ではウクライナもバルト三国も例外ではない。ロシアが旧ソ連の経済力の約70%を占め、圧倒的優位にある現実はきわめて重く、しかも、これまで形成されていた有機的需要関係を壊したままの状況で、経済の回復をはかることは不可能である。

今後、経済を中心に緩やかに結びつく相互連関の同盟関係を再構築しようとするインテグレーションの機運の盛りあがる日が遠くなくあるとみられる。いずれは経済合理性が貫かれ、行き過ぎた民族ナショナリズムはしだいに後退してゆくことになろう。


単一経済圏再建への動き
現実にも、単一経済圏再建をめざしての模索が続けられている。たとえば、1992年2月にベラルーシの首都ミンスクで開催されたCIS首脳会議では、「1992年度CIS貿易・経済協力相互調整協定」が調印され、共和国間の貿易取引決済は引き続きルーブルで行うことが規定された。電力の供給についても、旧連邦時代の電力供給体制を存続させ、各共和国間の相互依存を安定化させる方針がCIS諸国で確認されている。
1992年10月にキルギスタンの首都ビシケクで開催されたCIS首脳評議会では、経済統合問題が討議され、ロシアをはじめとする六カ国がルーブルを決済の統一通貨とし、当初は決済機関だけをもつ国家間銀行を設立する、という条項を盛り込んだ「ルーブル圏創設協定」に調印した。このルーブル圏創設協定に調印した国は、ロシア、ウズベキスタン、ベラルーシ、キルギスタン、アルメニアおよびカザフスタンの六カ国である。
ウクライナとアゼルバイジャンは協定調印を拒否した。しかし、とりあえずは各国が経済の現実を直視し、相互依存関係を重視する方向に歩み寄り、具体的対策を講じ始めたといえよう。

第六章 未来を約束する豊かな資源
1 高い教育水準と人的能力
旧ソ連に未来はあるか
ロシアでも、他のCIS諸国でも、人々は今、不透明な政情、危機的状況が続く経済、価値観を喪失して揺れる不安定な社会の中で生活している。市場経済への移行と軍民転換は文字通り長期的プロセスであり、将来はまことに不確実である。誰にも明るい将来像は描けない厳しい情勢である。
本当にロシアに未来はないのであろうか。私はロシアにも、ウクライナにも、中央アジア諸国にも、その他の諸国にも、未来はあると信じている。米国や西欧諸国や日本や中国がソ連を本当に恐れていたのは、つい昨日のことである。ロシアとロシア人たちのポテンシャルを侮ることはできない。ソ連解体後もこのポテンシャルは少しも変らないのである。人的資源と物的資源の豊かさは、将来の発展を約束している。
ソ連が解体して、ロシアは普通の国になり、米国に対抗できる国力を備えたスーパーパワーはどこにも存在しなくなった、といわれる。だが、それでもなお、ロシアは大国であり、将来も大国であり続けるであろう。そうでないと、国際社会における米国の横暴を許すばかりである、という意見もある。
批判されるべきは「大国主義」であり、大国である事実ではない。現状のロシアは、西側の経済大国ばかりではなく、トルコや韓国からも経済援助を受ける有様で、とても大国にふさわしい状況ではない。それなのに、エリツィン・ロシア大統領の言動には大国主義的特徴がしばしば際立っている。再生をめざすロシアにとって、大きなマイナスであるといわざるをえない。

高い教育水準
ロシアに将来があるとすれば、まず高い教育水準であり、優れた人材がある。このことは、CISの他の諸国についてもいえる。社会主義は負の遺産として意識され、評価は地に落ちている。しかし、社会主義が残したもので肯定的に評価できるものがあるとすれば、その第一位にランクされるのが教育である。
旧ソ連では、初等教育から高等教育までが制度的によく整備され、しかも無償であった。一般教育と併行して、職業教育と専門教育にも力が入れられていた。高等教育機関と中等専門教育機関の学生に対しては国家給費が支給され、人材養成に国をあげての努力が傾圧されていた。
また帝政時代以来のアカデミズム尊重の伝統が堅持され、連邦科学アカデミーを頂点にして、全面的に研究体制が整備されていた。いわゆるR&D(研究開発)支出も大きく、科学技術の基礎研究では世界最高水準にランクされるものが数多くあった。
しかし、高水準の科学技術と人材は軍事部門や政治に偏して投入され、民生部門軽視の時代が長く続いた。また、基礎研究が充実していた半面、応用技術では欧米諸国や日本に比べて著しく劣るという弱点を克服できなかった。
また中央集権的な計画化経済システムのもとで、計画策定機関で策定した計画が、上部機構から下部機構に対して強制力を持つノルマとして課せられていた。最下部機構である生産企業では、与えられた計画ノルマをいかにして達成するかが最重要課題であったのである。このため、生産の現場から技術革新や新製品開発のイニシアチブが起る余地はほとんどなかった。
しかし、市場化と軍民転換がめざされる今日、科学技術も人材も経済再建に向けて優先的に投入でき、企業や個人の創意・工夫が生かされる時代となったと考えられよう。このような視点からみれば、ロシアをはじめとするCISの将来は決して暗くないといえるのではないか。

深刻化する頭脳流出
だが、現実には、まことに憂慮すべき事態が生じている。ハイパー・スタグフレーションというべき経済困難のもとで、まずこれまでの教育制度の維持が難しくなり、研究開発体制は崩壊の危機に瀕している。もともと高くはない教員や研究員の賃金では、激しいインフレのもとで生活するのは困難であり、高い収入を求めての転職が相次いでいる。外国への頭脳流出が急増し、私の知人たちのなかにもアメリカや日本の大学や企業で働く人が出始めている。

*頭脳流出(ずのうりゅうしゅつ、英語: brain drain、Human capital flight)Утечка мозговとは、高度な知識・技術を有した人材が、多数、流出してしまう現象を指す。原因としては、国と個人の両面が考えられる。国の観点では、就業機会の不足、政情不安、不景気、健康問題などの問題を抱えた国から、高所得の機会が多く、政治的な安定と自由があり、生活水準の高い国への流出が考えられる。個人の観点では、外国に親戚がいるなど家庭上の影響や、冒険、キャリアアップを望むなど個人の志向が考えられる。頭脳流出は、母国で受けた教育や訓練の価値が外に出てしまうことから、通常、経済的な損失とみなされ、その国における高度人材の不足につながる。この逆の概念としては、頭脳獲得(英語: brain gain)がある。頭脳流出はアフリカの旧植民地、カリブ海などの小島嶼開発途上国といった途上国や、技術に対する市場からの報酬が得られなかった旧東ドイツやソビエト連邦などで一般的に見られる。

「世界経済国際関係研究所Institute of World Economy and International Relations」といえば、連邦科学アカデミー傘下の数多くの研究所のなかでも、社会科学部門の研究所として最高の権威であり、2000人近い所員を擁していた。それが今では、有能な人材が次々と去り、とりわけ若い研究者の姿がみえなくなってしまった。
*Русскийロシア語⇒Федеральное государственное бюджетное научное учреждение «Национальный исследовательский институт мировой экономики и международных отношений имени Е. М. Примакова Российской академии наук世界経済国際関係研究所» (ИМЭМО РАН) создан в 1956 году.
教育や研究開発が荒廃し、人材の国外流出が続けば、その将来にわたるマイナスの影響ははかり知れないものがある。したがって、ロシア自身が対策に努力を傾注すべきであり、同時に、西側先進諸国としても真剣に対応し、支援の手を差しのべる必要がある。

2 世界最大の資源埋蔵量
世界一の資源大国 
旧ソ連・CISの顕著な特徴の一つは、世界最大の資源保有国である点にある。しかも、ロシアの西シベリアや中央アジア諸国における集中的開発を中心に大規模な資源開発が進み、旧ソ連においてはほとんどあらゆる天然資源について国内での自給自足体制が確立され、さらに大輸出国となっていた。
旧ソ連の経済発展は、なによりも国内の豊富な原燃料を基盤としてきたのであり、この基礎的条件は今日も変わっていないわけで、将来に可能性をひらいているのである。また、旧ソ連が長年にわたり原油や天然ガス、非鉄金属や木材の大輸出国となってきたことは、ソ連資源の国際的意義を高いものにしてきた。
現在、ロシアをはじめとするCIS諸国における原燃料生産は不振をきわめ、輸出は激減し、外貨獲得能力は大幅に低下した。外貨不足の深刻化によって、必要な輸出もできない難局が発生し、そのことがまた国内生産にマイナスに作用するという悪循環が続いている。状況がさらに悪化し、ロシアがたとえば石油の大量輸出国に転落した場合を想定してみると、国内経済に与えるインパクトはまことに大きいと思う。
西側先進諸国がロシアのエネルギー産業再建に経済支援を集中する必要があるのは、以上のようなコンテクストにおいてである。そこには、ロシアを助けるとう意味とともに、世界経済の混乱を未然に防ぐという重い意味が含まれている。

石油、天然ガス、石炭、水力
旧ソ連は、1974年以来世界最大の石油生産国であり、1983年以来世界最大の天然ガス生産国であった。石炭についても、中国とアメリカに次いで世界第3位の大生産国であった。したがって、エネルギー資源についていえば、世界最大の生産国であったのである。炭化水素資源のほかに、東シベリアを中心に巨量の水資源があり、世界最大規模の水力発電所が何ヶ所にも建設され、移行している。
しかしながら、旧ソ連・CISのエネルギー生産は、天然ガスが高水準を維持しているものの、石油と石炭は近年大幅に減少しており、国内の需給と輸出の両面で困難な状況を引き起こしている。1992年の石油生産量は約4億トンにとどまった。電力生産も減少している。旧ソ連では、国全体ではエネルギー需給に余裕があり、大量の石油と天然ガスを輸出してきた。たとえば、1988年には6億2400万トンの石油生産量のうち、2億500万トンを輸出し、そのうち約1億トンを西側先進諸国に振り向けていた。だが、旧ソ連の国土は日本の約60億という広大なひろがりをもち、地域によっては石油もガスも水力も無いか、非常に乏しいところが多くある。
旧ソ連のエネルギー政策は、そうした地域、たとえば、ウクライナ、アルメニア、バルト三国、レニングラード周辺やスモレンスク周辺などに原子力発電所を配置していくことを支柱の一つとして組み立てられていた。チェルノブイリ原発の大事故(1986年)は世界的に影響が大きかったが、さらに右のような旧ソ連のエネルギー政策を決定的に打ち壊したわけであり、CIS全体が今日もこの打撃から立ち直れないでいる。
いずれにしても、旧ソ連・CISの巨大なエネルギー資源生産を可能にしているのは、潤沢な資源埋蔵量である。ロシアの西シベリアには石油と天然ガスのとりわけ豊富な埋蔵量があり、西シベリアの1990年の生産は旧ソ連の全石油生産量のほとんど66%、全天然ガス生産量の70%近くを占めた。
旧ソ連・CISでとくに傑出しているのは天然ガスで、その現在の確認埋蔵量は50兆立方メートルを越え、世界の全確認埋蔵量の40%を占め、中東全体のそれをはるかに上回っている。世界の石油生産の現在ならびに将来を握っているのがサウジアラビア、イラク、クウェートなど中東の大産油国であるのは周知の通りであるが、天然ガスについてはロシアが同じ役割を握っているといえる。
CISの天然ガス全埋蔵量の約半分は西シベリア中央部とその北方のヤマル半島に集中している。そこには、ウレンゴイ(確認埋蔵量約八兆立方メートル)、ヤンブルグ(同約三兆立方メートル)、メドウェジェ(同二兆立方メートル)などの巨大ガス田があり、1970年末から開発が本格化した。現在の確認埋蔵量だけで、今後60年以上にわたって現在の生産量を維持でき、ロシアの天然ガスの将来は有望である。
*ヤマル半島(ヤマルはんとう、ロシア語: полуо́стров Яма́л パルオーストラフ・イマール)は、ロシア連邦シベリア北西部のヤマロ・ネネツ自治管区にある半島である。 長さは約700キロメートル。西はカラ海に面し、東のオビ湾を挟んでギダン半島に向かい合う。 北はマリーギナ海峡、パガ湾を挟んでベルイ島と隣接している。「ヤマル」とは、先住民族ネネツ人のネネツ語で「最果ての地」を意味する。
石油については、天然ガスに比べ、将来に多くは期待できないとみられている。旧ソ連は、世界的に大きな石油埋蔵量をもちながら、それを国家機密として公表しなかった。第13回世界石油会議の開催(1991年10月)に当り、旧ソ連のL・D・チュリーロフ石油・ガス工場相(当時)が明らかにした1990年初め現在の可採埋蔵量は、235億トンということであった(旧ソ連「石油経済」誌、1991年9月号)。この埋蔵量であれば、年間6億トンの生産量でも約40年間にわたって維持できる。
国際的な評価はもっと低い。世界的に有名な専門誌「オイル・アンド・ガス・ジャーナル」が毎年発表するデータによると、1992年初めの旧ソ連の石油埋蔵量は570億バレルで世界の全埋蔵量の5・7%を占め、可採年数は約15年となっている。
カザフスタンは、近い将来有力な石油生産国になる見込みである。カスピ海に近いテンギス油田の開発に米国企業が積極的支援を送り始めたことにより、現在年間2500万トンであるカザフスタンの石油生産は倍増する見込みである。石油については、旧ソ連の石油確認埋蔵量は2390億トンと評価され、世界全体の22%を占め、アメリカに次いで世界第2位である。埋蔵量の点ではまったく問題なしで、将来性に富んでいる。しかしながら、旧ソ連のエネルギー政策では、天然ガスに第一優先順位がおかれ、次いで石油と原発が重視され、この順序で重点的投資が行われてきた。
石油産業に対しては、十分な考慮が払われなかったといえる。チェルノブイリの事故が起った後、石油産業の地位が急速に復活し、石炭の増産に拍車がかけられたのであるが、長年の間にわたった設備近代化の遅れや輸送能力の不足、加えて無理な稼行などの原因が重なり、生産は伸びず、大規模な炭坑事故が頻発し、労働者のストライキが続発した。環境問題という制約要因が大きいが、原発に期待することができない状況下で、発電用燃料としての石炭の重要性が高まることになろう。ゴルバチョフ大統領(当時)来日の際に日本産業界に対して提示された経済協力案件では、石炭資源開発に関連した協力要請が多かった。
鉄と非鉄金属
旧ソ連・CISの金属資源埋蔵量も非常に大きい。1990年現在の鉄鉱石埋蔵量は780億トンと評価され、世界の全埋蔵量の34%を占め、第2位オーストリア(12・3%)をはるかに凌いでいる(「ミネラル・コモデティ・サマリィ-ズ」1991年版)。1990年の旧ソ連の鉄鉱石生産は2億3900万トンで、これも世界の首位であり、世界の全鉄鉱石生産量の25・7%を占めた。第2位のブラジルは1億6200万トン、第3位のオーストラリアは1億1200万トンであった。
CISの全鉄鉱石埋蔵量の90%以上は、ヨーロッパ・ロシア、ウクライナ、カザフスタンに集中している。一方、エネルギー資源生産の中心地は前述の通り西シベリアへ移った。鉄鉱石の賦存地とエネルギー資源生産の中心地の遠隔化は、鉄道輸送の緊張を著しく高める結果を招き、鉄鋼業不振の一因となっている。
非鉄金属資源についても、旧ソ連・CISは豊富な埋蔵量があるとみられている。しかし、旧ソ連政府は非鉄金属やレアメタルの鉱石埋蔵量と生産量を国家機密として、公表しなかった。そこで、西側で発表されているデーターによってみると表6-2に示す通りで、旧ソ連は主要な非鉄金属の鉱石埋蔵量と生産量において、世界のなかで第一位から第三位を占めていることがわかる。また、これらの大輸出国でもあった。
とはいえ、非鉄金属の大部分は開発条件の非常に悪い東シベリアや極東地域の僻地に散在しており、近年生産は伸びていない模様である。輸出余力も低下した。
貴金属と宝石
旧ソ連・CISはまた、貴金属と宝石類の大生産国であり、世界市場への大供給国である。貴金属も宝石類も、データーは未公表であり、全てヴェールにつつまれている。1992年の8月初旬、旧ソ連の全ダイヤモンド生産量のほとんど100%と全産金量の10%近くを生産しているサハ共和国(1990年9月まではヤクート自治共和国)の首都ヤクーツクを訪問し、「ヤクート金」や「サハ・ダイヤモンド」などの公団・企業で金やダイヤモンドの生産量について質問してみたが、笑っていて、答えてくれなかった。
だが、旧ソ連による大量金売却の噂が流れると、世界の金相場は必ず下降し、また、旧ソ連政府は国際ダイヤモンド・コンツェルンのデビアス社との間で、毎年10億ドルを上回るダイヤモンドを売り渡す長期契約を結んでいた。つまり、旧ソ連の産金量とダイヤモンド生産量は大きいということである。
*デビアスグループ(英語: The De Beers Group of Companies)по-русски произносится Де Бирсは、南アフリカ共和国発祥で、英国ロンドンに本社を置く[1]ダイヤモンドの採鉱・流通・加工・卸売会社。金属等も産出する資源メジャーの一つで、現在はAnglo American PLCアングロ・アメリカンの子会社(85%)。
モスクワのクレムリンのなかにある帝政時代からの武器庫、つまり宝物殿に隣り合わせて「アルマーズヌイ・ファンド」、すなわち、「ダイヤモンド・コレクション」がある。ここを訪れたことがある人は、旧ソ連・ロシアが保有している宝石類と貴金属の豪華さに目が眩む思いをしたはずである。皇帝たちの所有物であった巨大なダイヤモンドが並び、燦然と輝いているのであるが、それらとは別に、現在生産されている多量のダイヤモンドが美しい輝きをみせている。
旧ソ連の産金量は、西側の多くの推定値によって、年間300~400トンとみられ、旧ソ連は南アフリカに次ぐ世界第二の産金国とされてきた。そのうち約半分は極東地域(サハ共和国、マガタン州、沿海地方)で採掘される砂金とみられてきた。
近年、産金量は減少気味であり、生産の中心地も極東地域から中央アジアへ移り、カザフスタンやウズベキスタンが重要な産金国として浮上している。1990年の産金量は、スイス・ユニオン銀行の推定では320トン、「ワールド・メタル・スタティスティクス・イヤーブック」では280トンとなっている。なお、中央アジアで産出するのは、鉱床から産出するいわゆる「山金」である。砂金も山金も、採掘設備が老朽化しており、西側からの輸入も含めて、抜本的な設備更新が必要になっている。
旧ソ連・CISのダイヤモンド生産量は、「国連統計年鑑」によると、約1200万カラットで、ザイール(約2020万カラット)、ボツワナに次いで世界第三位である。全生産量の30~35%が宝飾用、残りは工業用と評価されている。ほとんど全量がサハ共和国で産出され、ミールヌイ鉱床が中心となっている。サハの埋蔵量は1億2000万カラットといわれ、ザイールに次いで世界第二位である。
旧ソ連では、地下資源は全てが国家の独占であった。サハは採掘した原石を全てモスクワの中央に引き渡し、ダイヤモンドが地元の国民生活向上に結び付くことはなかった。1992年になって、サハとロシアとの交渉の結果、採掘した原石の20%についてサハが自主裁量できることになった。しかし、サハはこれまで研磨技術も工場もなかったため、イスラエル企業や日本企業との合弁企業が設立され、宝飾用加工を行うことになった。サハ経済の活性化につながることが期待される。
旧ソ連・CISはまた、白金やパラジウムの大生産国であり、輸出国でもある。生産の実態についてはよく分からない。「ミネラルス・イヤーブック」(1988年版)によると、旧ソ連の1988年の白金生産量は12・3トンで、世界の全生産量の45%を占め、旧ソ連は南アフリカ*133・3トン)に次いで世界第二位の生産国である。

日本は白金とパラジウムの大輸出国であり、近年、旧ソ連が日本への最大の供給国となっている。すなわち、日本は、世界各国から1990年に60トン、1991年に70トンの白金を輸入し、そのうち旧ソ連からの輸入が20トン(33%)、29トン(40%)と最大であった。パラジウムについては、1990年に58・4トン、1991年に65・4トンを輸入したが、旧ソ連からの輸入が36・7トン(60%)、43・3トン(63%)と他の諸国からの輸入を圧倒的に上回った。
旧ソ連・CISの白金・パラジウムは国際的に大きな意義をもっているわけである。
水産品と毛皮
旧ソ連・CISは、世界のなかで、日本に比肩する大漁業国である。1990年の漁獲高は1050万トンで、日本のそれを100万トン程度下回っただけである。全漁獲高の約40%が極東地域で水揚げされている。遠洋漁業が中心であり、近海漁業はあまり発達していない。
漁業量が多いのは、タラ(約40%)、イワシ(約17%)、ニシン(4%)、カレイ(約2%)、サケ。マス(1・5%)などである。極東地域では、イカやカニ、フグ貝なども豊富である。
旧ソ連・ロシアは、漁業量のなかからかなり多量を輸出に向けており、日本が最大の輸出先である。1990年には104万トンを輸出し、そのうち7万トンが日本向けであった。
鮮魚の輸出のほかに、缶詰、キャビア、その他加工品、魚粉などの輸出があり、外貨獲得商品としての水産品の重要性が高まっている。日本の旧ソ連・ロシアからの魚介類輸入は近年急増しており、1991年の輸入量は約11万トン、金額にして3億7550万トンとなった。
ロシア特産のキャビアは、生産も輸出も減少している。たとえば、輸出量は1986年の147万トンから1990年には96トンに著減した。ロシア特産といっても、今日における最大のキャビア生産量はカザフスタンのウラル川の川口付近で、フランスの資本が入り、大部分はパリへ運ばれているという話である。
また旧ソ連・CISにとって見逃せないユニークな特産品として、毛皮があり、外貨獲得源の一つとなっている。毛皮が帝政時代の初期からロシア経済に果した大きな役割については、司馬遼太郎氏がその著作「ロシアについて」(文藝春秋社、1986年)のなかで過大なほどに語られている。現在では、水産品に比べ、毛皮の輸出金額はずっと小さく、外貨獲得商品としての重要性も低い。

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