日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Revolutionen im Jahr 1989/Революции 1989 года/Chute des régimes communistes en Europe『東欧革命』三浦元博・山崎博康著【Eastern European Revolution - What happened inside power】Author Motohiro Miura , Hiroyasu Yamazaki⑪


”労働者”の動員
炭坑労働者を反体制派に敵対させるイリエスク特有の政治手法は、これが3回目だった。1月にも農民党の事務所が襲われたほか、救国戦線評議会の解散を求める反体制派のデモが盛り上がった2月にも、救国戦線支持の炭坑労働者が大挙して首都に押し寄せている。

当局側はこの事件を「反革命クーデターの危機があった」という理由で正当化した。この対応に、イリエスク政権の性格が露呈している点は興味深い。労働者の投入には二つの理由が考えられる。「反革命」に対し「労働者大衆」を対置することで弾圧を正当化する主観的論理の下で、権力を独占した政治集団はたやすく「国家」そのものに転化する。選挙での大勝を背景に、「救国戦線=国家」の図式が新しい指導者たちの観念の中に出来上がりつつあった証左であろう。
労働者を動員したもう一つの、おそらく一層現実的な理由は、軍に対する潜在的恐怖である。チャウシェスク打倒の過程で、イリエスクは軍が示した決定的な役割を十分認識していたはずだ。軍内に青年将校を中心とする民主化グループ「軍民主化委員会」があることは、早くから知られていた。反政府デモの鎮圧に投入した軍が、結果的にどういった行動に出るか予測不能なことは、政変の過程でイリエスク自身が知悉している。
イリエスクは6月20日の大統領就任演説で、炭鉱労働者を投入せざるを得なかったのは、治安機関の対応が遅れたためだ、と述べた。しかし、国防省は翌21日、声明を発し、軍は「武器を使用しないという大統領と政府の指示」を順守し、事態の深刻化を防いだと反論している。軍による異例の声明からして、大統領と軍の軌轢を思わせる出来事だった。イリエスクが労働者に支援を呼び掛けた13日夜、ブカレストで取材していた西側通信社記者は、軍戦車と装甲車が一時市内に姿を現し、市民に歓声で迎えられたのを目撃している。
当局は14日、「軍民主化委員会」に公式の解散命令を出した。さらに、11月になって「安定を損なう行為と不服従」を理由に、民主派将校数人を退役処分にしたと発表した。将校らは解散命令後も活動を続け、「軍内には再び共産党時代の機構が復活した」と批判し、スタンクレスク国防相に対する解任要求の声を上げていたのである。

消えた指導者たち
大統領イリエスクは20日の就任演説で「暫定統治の時代は終わった」と宣言し、新議会の発足と大統領誕生により「ルーマニアにおける新たな政治過程が、一つの合法的基礎の上に成立した」と述べた。たしかに、政変後の一時代が過ぎ去りつつあった。チャウシェスク打倒の後、救国戦線を核として形成され、まがりなりにも反体制派知識人らを取り込んでいた臨時国家権力「国家統一暫定評議会」は選挙とともに解散した。選挙の洗礼を受けた救国戦線は今や唯一の政権政党として、国家権力を掌握することに成功した。選挙は救国戦線の権力に「合法性」を与える儀式であった。

チャウシェスク批判で知られ、一時国防相の地位に就いたミリタル将軍、戦線のイデオローグを自負していた野心家の元国連大使ブルカン、政変とともに「全国市民フォーラム」を結成し、戦線評議会に副議長として参加した元外務省法務部長マジル・・・。古参党員のハンガリー人で、暫定評のキーライ副議長も、暫定評の消滅とともに忘れさられた。政変の引き金役だったテケシュ牧師は選挙後、救国戦線批判を強め、「第二の革命が必要だし、それは起きるだろう」とさえ予言している。結局、政変後を生き延びたのは大統領イリエスク、首相ロマン、国防相スタンクレスク、情報庁長官マグレアヌである。
『未完の革命』劇は数々の謎を残しながら、こうして幕を閉じた。-

イリエスク対ロマン
しかし、革命の乗っ取りに成功した救国戦線の権力も1992年、崩壊の危機を迎えた。党人派イリエスクとテクノクラート、ロマンの確執が和解不可能なまでに発展し、組織分裂を招いたのである。イリエスクは大統領就任にあたり、救国戦線議長の座をロマンに譲っており、実務権限がロマンに移りつつあることに、イリエスクの危機感がつのった。
イリエスクが炭坑労働者を動員した90年6月の流血事件の際、当時首相だったロマンは政府として真相究明にあたると約束し、露骨に不快感を表明した。共産党的指導スタイルを引きずるイリエスクと、より西側的な政党への脱却を図ろうとするロマンの政治理念の食い違いが底流にある。救国戦線結成の夜、ロマンが党と国家の分離を力説していた場面が思い出される。
イリエスクはロマンとの対決に、再び炭坑労働者の圧力を利用した。物価凍結と賃上げの対政府要求を掲げる炭鉱労働者数千人が91年9月25日、列車でブカレストに押し掛け、ロマンの退陣を要求、政府庁舎への突入を図り、路上にバリゲードを築いて警官隊と対峙した。ロマンは翌日、この混乱は共産主義者によるクーデターだと非難し、イリエスクに辞表を提出、イリエスクは慰留することもなく直ちに受理した。イリエスクは労働者代表と協議し、ロマンを非難する共同声明を発表するに至った。

逆にロマンは「炭坑労働者の経済要求は解決済みだった。彼らをブカレストに連れてきたのは誰なのか。経済的理由でないとすれば、政治的理由しかあり得ない。今回の大衆操作の首謀者たちは、以前にも自己の目的のため労働者を動員した者たちである」と述べ、背後にイリエスクの政治的陰謀があることを国民に暴露した。

*Românăルーマニア語→Theodor Dumitru Stolojan (Romanian pronunciation: [teˈodor stoloˈʒan]; born 24 October 1943) is a Romanian politician who was Prime Minister of Romania from September 1991 to November 1992.
戦線分裂
両者の対決は、救国戦線の弱体化を進める結果となった。ロマンは後継首相に前蔵相のストロジャンを就任させることに成功した。ロマン内閣が3月に価格自由化を実施した際、イリエスクの圧力で自由化幅が圧縮させられたことに抗議辞任した市場経済推進派の人物で、ロマンに近い立場にあった。しかし、ストロジャンは無党派であり、救国戦線として、首相ポストを失うことになった。
ロマンは11月、久々に沈黙を破り、外人記者団との会見でイリエスクを「反動勢力」の支持者とまで呼び、自分が救国戦線議長でいる限り、イリエスクの再選は支持しないと断言した。和解の可能性は完全に閉ざされ、戦線分裂は確実となった。
ロマン派は92年3月末、代議員1253人を集めた全国大会で、急進的改革を盛り込んだ新組織綱領と、数ヶ月以内に予定される総選挙と大統領選に関し、戦線候補は新綱領を受け入れなければならないとする新組織規約を採択することに成功した。代議員の64%がロマン支持に回った結果だった。
大会決定は、経済の国家管理維持の立場に立つイリエスクに対する絶縁宣言であった。敗北したイリエスク派は直ちに「救国戦線・12月22日」の結成に走り、戦線はここに完全に分裂した。

イリエスク離れ
イリエスク派はその後「民主救国戦線」を名乗り、92年9月27日の総選挙および大統領選挙にイリエスクを再び擁立した。大統領選第一回投票で、イリエスクは野党連合「民主会議Alianța Civică(AC)」の候補となったブカレスト大学長コンスタンティネスクを抑えたものの、当選条件である有権者の過半数獲得に失敗。10月11日の決選投票で投票総数の60%を獲得し、やっと当選を決めた。国会選挙では、下院(328議席)のうちイリエスク派「民主救国戦線」が117議席で1位、これに民主会議(82議席)、ロマン派「民主救国戦線」(42)などが続いた。しかし、イリエスク派の基盤は農村部であり、都市部での退潮は食い止めようがなかった。過去の強さを失ったイリエスク派は、改革と西欧型民主主義への反発という点では奇妙に立場が近い民族主義政党、「ルーマニア民族統一党」(30議席)や「大ルーマニア党Partidul România Mare(PRM)」(16議席)への依存を強めざるを得なくなろう。
*Românăルーマニア語→Alianța Civică este o organizație neguvernamentală din România, cu sediul la București, creată în anul 1990, în scopul dezvoltării societății civile din România.
*ブカレスト大学(Universitatea din București)は、ルーマニアの首都ブカレストにある大学。

*エミル・コンスタンティネスク(ルーマニア語: Emil Constantinescu、1939年11月19日 - )は、ルーマニアの政治家。地質学者。大統領(第3代)、民主会議議長、ブカレスト大学学長を歴任。1997年、北京大学より名誉博士号が授与される・・・1996年の大統領選挙に再びCDRの候補者として立候補し、決選投票で得票率54.5%を獲得し、イリエスクを破り当選した。ルーマニア革命以降、非共産党系の人物として「無血革命」で選ばれた大統領となった。

*大ルーマニア党(だいルーマニアとうPRM、Partidul România Mare)は、ルーマニアの極右・民族主義政党。
政変を指導しながらも、やがて時流に先をこされていくのは、各国共産党指導者に共通した運命だった。流血の革命を指導し、権力に到達したイリエスクが平和的に退場する時期がいつ来るか、これはルーマニア社会の成熟度を示すバロメーターにもなろう。

                                      終章                     「東欧の消滅」
「東欧」
わたしたちが日頃なに気なく使っている「東欧」という言葉は、実は大変あいまいな意味合いを持っている。広い意味でこの言葉は、本書で扱った国々に旧ユーゴスラビアとアルバニアを加えた地域、言い換えれば欧州の社会主義国全般を指していた。狭い定義では、これら両国を除外し、ワルシャワ条約機構によってソ連に結び付けられた国々だけがすたれつつあるようだ。筆者が滞在していた中部欧州ウィーンの新聞などは、「東欧」に代え「中(欧)・南東欧」といった用語を使うことが多い。ここでいう中欧とは、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーの三カ国、南東欧とはルーマニア、ブルガリアに旧ユーゴ、アルバニアを加えた地域すなわちバルカンを指す用語である。
本書がワルシャワ条約機構諸国における政変劇だけを扱ったのは、ソ連の支配下にあった国家の政治体制の変更と、伝統的な孤立政策をとり続けてきたアルバニア、非同盟・中立政策を続けてきた多民族国家ユーゴの状況とは、おのずから様相が異なるためであることを断わっておきたい。
ここで、本書のまとめとして、崩壊した「東欧」の行方と、これらの地域が抱える問題をみておきたい。

二極化
90年の各国の自由選挙後、かつてのブロックとしての「東欧」は姿を消した。崩壊した東欧の中から生まれてきたのは、中部欧州グループとバルカン・グループである。前者にはハンガリー、チェコスロバキア、ポーランドが、後者にはブルガリアとルーマニアが属する。両者の違いは最初の自由選挙の結果そのものにも表れた。各章でも見た通り、中欧グループ諸国には、共産党の独裁体制下でも根強い民主化運動が存在した。あるいは、共産党自身も斬新な改革実験の経験を蓄積していた。第一回自由選挙で、中欧グループの共産党ないしその後身組織は軒並み政権を手放した。

これに反して、バルカン・グループの二国では、元共産党が初回の自由選挙を勝ち抜き、政権を維持する現象が共通して見られた。ブルガリア社会党もルーマニアの救国戦線も、票田は、変革を嫌う農村部であった。勝因は、野党の未成熟にもあった。この二国はそもそも、野党組織の母体となる強力な反体制運動を持たなかった。同じ共産党独裁時代でも、チャウシェスクやジフコフのような露骨なネポチズム(縁故主義)は、中欧の社会主義国には見られなかった。こうした旧東欧地域の二極化現象には、戦前から発展した工業水準を誇っていた中部欧州地域と、農業地域であったバルカンとの歴史的差異も関係があるだろう。

対EC接近
中欧諸国は実際、経済再建に苦しみながらも、三国協力関係を強化し将来の欧州共同体(EC)加盟に向け政策調整しているし、自由貿易地域構想など、経済復興のためのさまざまな努力を続け、ECへの正式加盟に一番近付いている。
*欧州諸共同体Europäische GemeinschaftenCommunautés européennesおうしゅうしょきょうどうたい、英: European Communities, European Community, ECЕвропейские сообществаは、同一の機構で運営されてきたヨーロッパの3つの共同体である。
89年の東欧政変を受け、ECは90年8月、ハンガリー、チェコスロバキア、ポーランドの準加盟協定の締結交渉の開始を受け入れ、三国にEC委員会代表部を開設。三カ国は91年12月、ブリュッセルのEC本部での連合協定(準加盟協定)調印に漕ぎ着けた。協定は前文で「協定は将来のEC加盟に役立つ」と述べ、閣僚レベルの定期協議開催を確認、段階的な輸入制限の撤廃と関税引き下げによる将来の自由貿易地域の創設をうたうなど、中欧三カ国にとっては”欧州への復帰”へ向け、大きな前進となった。

中欧協力
もともと経済発展レベルが近く、地理的結び付きが強い中部欧州三国は、91年から、三国協力会議も発足させた。アンタル・ハンガリー首相、ハベル・チェコスロバキア、ワレサ・ポーランド両大統領が参加した最初の首脳会談の開催地であるハンガリーのビシェグラードにちなみ「ビシェグラード・イニシアチブ」などとも呼ばれる。協力会議は連合協定をバネに、EC加盟申請の準備などで足並み調整する一方、92年4月にはブダペストで「中欧協力委員会」(CECC)の設立協定に調印した。この委員会はEC加盟の前段として、三国間の関税撤廃による自由貿易地域化の実現に焦点を合わせている。当初、7月までに調印する予定だった自由貿易協定は、チェコスロバキアの連邦分離の動きなど不確定要素はあるものの、三国間の貿易関税を西暦2000年を目標に段階的に撤廃することを想定している。
*ヴィシェグラード(ハンガリー語: Visegrád),(ドイツ語: Plintenburg)は、ハンガリー北部の都市。ドナウ川に面する
Visegrádská skupinaヴィシェグラード・グループGrupa WyszehradzkaまたはVisegrádi Együttműködésヴィシェグラード4か国The Visegrád Group, Visegrád Four, V4, or European Quartetは、中央ヨーロッパの4か国による地域協力機構。
三カ国はまた、オーストリア、イタリアとともに「Zentraleuropäische Initiative中部欧州イニシアティブInitiative centre-européenne Central European Initiative」と呼ばれる協力会議を構成している。89年に始まったドナウ圏の協力会議の後身であり、原参加国ユーゴ連邦の崩壊を受け、92年7月のウィーン首脳会議から現在の名称になったが、戦後の東西分断で切断された伝統的地域交通網などインフラの再建や、国境を超えた環境問題での共通政策を協議する場となっている。
むろん、社会主義経済から資本主義経済への”逆戻り”という歴史上初めての試みは、民間資本の不足などさまざまな要因が重なり、絵に描いたようには進まない。89年以降も各国経済は軒並み低迷を続けており、92年以降上昇に転じると予測されていた改革先進国のハンガリーでさえ、経済成長は依然マイナスになる見通しではある。だが、不透明さを増している欧州連合条約(マーストリヒト条約Maastricht Treaty)の批准問題とEC統合の成り行きを別とすれば、中部欧州三国が、「欧州への回帰」でバルカン諸国に比べ有利な位置に立っていることは間違いない。
*マーストリヒト条約Vertrag von Maastricht(マーストリヒトじょうやくTraité de Maastricht (1992)Маастрихтский договорは、欧州連合の創設を定めた条約。1991年12月9日、欧州諸共同体加盟国間での協議がまとまり、1992年2月7日調印、1993年11月1日にドロール委員会の下で発効した。協議は通貨統合と政治統合の分野について行われた。本条約の正式名称は欧州連合条約であり、その後の条約で修正が加えられた。
民族問題の影
前項で述べたユーゴ連邦の解体に象徴されるように、多くの旧東欧諸国とりわけバルカンの国々は、民族対立の不安を抱えている。ユーゴ紛争の経過については触れないが、分離独立問題で揺れるチェコスロバキアのスロバキア地域には、約60万人のハンガリー人がいるし、セルビアのイボジナ州にもハンガリー系住民がいる。ルーマニアの北部トランシルバニア地方のハンガリー系住民問題は共産党政権時代から両国間の不和の種だった。89年の動乱にも、ハンガリー系住民問題が絡んでいた。
一方、旧ソ連だった現在のモルドバはルーマニア人が多数を占める。国境のブルート川を越えれば、同胞が住む”本国”ルーマニアがそこにある。ブルガリアのトルコ系住民問題が体制崩壊の一因になったことは、既に見た通りだ。経済苦境が長引いたり、政治が不安定化すると、民族問題絡みの混乱はいつなんどき火を噴くか分からない。
全欧安保協力会議(CSCE)が紛争防止センターを発足させたり、北大西洋条約機構(NATO)がNATO域外での平和維持活動の検討に入るなど、欧州諸国は旧東欧やバルカン地域を舞台にした紛争の潜在的危険を真剣に危惧し始めた。
今世紀初め、オーストリア=ハンガリー、オスマン・トルコの崩壊で顕在化した民族問題は、第二次大戦後、東欧を襲った共産党の一党支配と「国際主義」のイデオロギーの下で再び封じ込められてきた。たしかに、ソ連・東欧の共産党支配に幕が下りたことにより、東西のイデオロギーの垣根が消え、「欧州新時代」への期待が膨らんではいる。だが、新時代は同時に、抑えられていた民族主義の危険も解き放ち、旧東欧諸国は今、最も不安に満ちた時期を迎えている、と考えるのは杞憂だろうか。


①三浦元博 1950年 滋賀県に生まれる 1974年 東京外国語大学ロシア科卒業、共同通信社に入社、社会部、新潟・千葉支局を経て1984-85年、ワルシャワ大学留学、88-92年、ウィーン支局長、現在、外信部記者 著著ー『ワルシャワ・インサイドスケッチ』(筑摩書房)
*ワルシャワ大学(ポーランド語: Uniwersytet Warszawski)は、ポーランドのワルシャワに存在する大学。

Szkic Warszawa Wewnątrz Motohiro Miura [Autor]Chikuma Shobo (wydany 1987/03)

instrukcje: Co reporter zobaczył w Polsce po „stanie wojennym”… Yamiddle, przemyt, nocna księżniczka... Przyjrzyj się bliżej. Od rzeczywistego obrazu obywateli, którzy umiejętnie przetrwają, po wewnętrzne okoliczności narodu i kościoła, przedstawiany jest w ekscytujących epizodach.

②山崎博康 1948年 千葉県に生まれる 1972年 東京外語大学ロシア科卒業、共同通信社に入社、札幌・釧路支局を経て78年から外信部記者、81・86年、ワルシャワ支局長、89年から再びワルシャワ支局長

*Latinaラテン語→Universitas Tokiensis studiorum linguarum peregrinarum (Iaponice:東京外国語大学 Tōkyō Gaikokugo Daigaku) est universitas publica in urbe Fuchū Tokio Iaponiae sedet, constituta anno 1949 ad linguae mundi et culturas studendum. Et relationem internationales diplomatiae more multilingusmo et diversitate culturae investigentur. Origo univesitatis est schola studiorum linguarum peregrinarum constituta anno 1873.
*Lingua Russica ロシア科(Russice русский язык, russkij jazyk) sive Rossica et insuper Russa vel Ruthenica est lingua Russorum, ex linguis Indoeuropeis orta, inter Slavicas numerata. E lingua Russica, Albaruthenica et Ucrainica constat familia Slavica orientalis.
*Русскийロシア語⇒Киодо Цусин[1] (яп. 共同通信社 Кё:до: цу:синся) — крупнейшее независимое информационное агентство Японии, входит в состав основных информационных агентств мира. Кооперативное объединение ведущих японских газет и теле-радиовещательной корпорации NHK.





ヴァルター・エルンスト・パウル・ウルブリヒト(ドイツ語: Walter Ernst Paul Ulbricht、1893年6月30日 - 1973年8月1日)は、ドイツの共産主義者、政治家。1950年から1971年までドイツ社会主義統一党の第一書記(書記長)を、1960年から1973年まで国家元首である国家評議会議長を務め、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国と初期の発展に中心的な役割を果たした。

スタニスワフ・カニャ (Stanisław Kania ポーランド語発音: [staˈɲiswaf ˈkaɲa]; 1927年3月8日[1] – 2020年3月3日)は、ポーランドの政治家。元ポーランド統一労働者党第一書記。

ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ(羅: Gheorghe Gheorghiu-Dej、1901年11月8日 - 1965年3月19日)は、共産党時代のルーマニアの政治家。












①エレナ・チャウシェスクElena Ceaușescu:1960年代になると博士号を取得、科学研究所所長となり、ルーマニアの科学分野の発展に貢献したとされるが、イオン・ミハイ・パチェパIon Mihai Pacepaによれば本を読むこともめったになかったという「彼女は水の化学式さえも知らなかったShe didn't even know the chemical formula for water」・・・

②「あなたが書きなさいYou write. わたしがサイン(署名)するからI sign(’著作’の「ゴーストライター」(の1人)化学者証言)'Ghostwriter' of 'writing' (one of them) chemist's testimony)」③「国民を’ドブネズミ’ぐらいにしか考えていなかったMadame Ceausescu only thought of her people as 'rat'(マジルDumitru Mazilu元救国戦線評議会副議長言)」今もチャウシェスク夫妻を慕い、花束を手向ける人も多い。2010年にチャウシェスク支持者により、夫の元の墓と同じ場所に2人を共に葬る立派な墓が改めて建てられた。

②ニク・チャウシェスクNicu Ceaușescu:ニクは兄たちと違って学校が嫌いで、本を読んでいるところを見たことがないと彼らから揶揄されていたようだと述べている・・・

高校生時代から、ニクは大酒飲みであるといわれていた。1978年にアメリカ合衆国へ亡命したイオン・ミハイ・パチェパは、彼が強姦や自動車事故を起こしてブカレストを騒がせたと主張した。パチェパは、ニコラエはニクの飲酒問題を耳にしたものの、その解決法は、ルーマニアではどんな問題にも与えられる「努力せよ」であったとしている。ニクはまた、世界中で賭博して大金を失ったともいわれる。

③ヴァレンティン・チャウシェスク(ルーマニア語: Valentin Ceaușescu、1948年2月17日 - )は、ルーマニアの物理学者。かつてのルーマニア社会主義共和国大統領のニコラエ・チャウシェスクとその妻エレナの長男で、彼らの子としては2021年現在で唯一存命である・・・弟のニクを含めた他の家族と異なり、ヴァレンティンは政治に関与しなかった。ブカレスト大学に進学し、学部時代は物理学を修めた・・・

1989年の東欧革命の一環で発生したルーマニア革命の最中、ヴァレンティンは他の家族とともに逮捕された。チャウシェスク家の贅沢な暮らしぶりは世界的に有名で、彼らはルーマニアの経済を弱体化させたと非難された。ヴァレンティンはステアウア・ブカレストフットボールクラブを経営する立場にあったといわれている。彼は逮捕中にテレビで両親の裁判を見たことを述べている。ヴァレンティンは不起訴となり、9か月後に釈放された。その間、ルーマニアの巨匠による50点の絵画やフランシスコ・デ・ゴヤの版画、数百冊の稀覯本といった彼のコレクションが没収された。彼がその返還を求めたとき、ルーマニア当局は、彼が所有者であることを証明する書類はなく、その美術コレクションはルーマニア国家に帰属し、直ちにルーマニア国立美術館へ寄贈されたと主張した。ヴァレンティンは政府に対して返還を訴えた。2009年にヴァレンティンは勝訴し、裁判所は美術館に40点の絵画を返還するよう命じた。それらのほとんどはヴァレンティンと前妻のダーナが収集したものであった。彼は返還された絵画のほとんどを彼女へ贈ることを計画した。

④ゾヤ・チャウシェスク(ルーマニア語: Zoia Ceaușescu, ルーマニア語発音: [ˈzoja tʃe̯a.uˈʃesku], 1949年2月28日 – 2006年11月20日) は、ルーマニアの数学者。同国の共産政権時代において独裁的な権力を振るったニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu)とエレナ・チャウシェスク(Elena Ceaușescu)の娘である・・・

ルーマニアで革命が勃発しているさなかの1989年12月24日、ゾヤは科学技術創造研究所で働いていた。彼女は兄のヴァレンティン、弟のニクとともに「ルーマニア経済を弱体化させた」との名目で逮捕され、拘留された。ゾヤは1990年8月18日に釈放された。革命後のゾヤは、控えめに暮らそうとしていた。釈放されたのち、ゾヤは職場に戻ろうとするも拒否され、受け入れられることは無かった。数学者としての道を閉ざされた彼女は自身の運命を受け入れ、身を引いた。「革命後のゾヤは荒んだ生活を送るようになり、多くの愛人がおり、しばしば酒に酔っていた」と報じるメディアもあった。ルーマニア新政府が、チャウシェスク一家が住んでいた建物を「国民から奪い取った富の象徴である」として接収したことで、ゾヤは友人と一緒に暮らさざるを得なくなったという・・・ゾヤはかなりの喫煙者であり。1990年ごろから肺癌を患っていた。癌細胞は肺と喉頭から結腸直腸領域に亘って転移していた。ブカレスト大学病院に入院した彼女は、その後合併症を発症した。担当した医師によれば、「手術のしようがない状態だった」という。2006年11月20日、ゾヤはブカレストにある自宅で亡くなった。57歳没。

*イオン・ミハイ・パチェパ(ルーマニア語: Ion Mihai Pacepa, ルーマニア語発音: [iˈon miˈhaj paˈt͡ʃepa]:1928年10月28日 - 2021年2月14日)は、ルーマニアのスパイ、諜報員、作家。共産国家となったルーマニアで設立された秘密警察、「セクリターテ」( Securitate )に所属していた。階級は中将。1978年7月、当時のアメリカ合衆国大統領、ジミー・カーター( Jimmy Carter )が政治的亡命の要請を承認したことに伴い、アメリカ合衆国に亡命した。亡命直前のパチェパは、ルーマニア共産党書記長およびルーマニア社会主義共和国初代大統領、ニコラエ・チャウシェスク( Nicolae Ceauşescu )の顧問を務めていた。共産陣営( Eastern Bloc )からの亡命者としては最上位の身分にあった。アメリカに亡命後のパチェパは、CIAに協力する形で共産陣営に対して様々な作戦行動を展開した。CIAはパチェパを「アメリカに対して比類なき貢献を果たしてくれた」と評している。

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