☆Europa Wschodnia/Europa de Est★『東欧 再生への模索』小川和男/Search for Eastern Europe regeneration Kazuo Ogawa/Recherche de la régénération de l'Europe de l'Est/ Suche nach Osteuropa-Regeneration①
Polskiポーランド語⇒Europa Wschodnia東ヨーロッパ – termin określający wschodnią część kontynentu europejskiego. Region ten jest różnie definiowany.Românăルーマニア語⇒Europa de Est東ヨーロッパSituată la est de o linie imaginară ce ar uni Marea Baltică cu Marea Neagră, Europa de Est reprezintă cea mai întinsă subdiviziune a continentului. Limita de est a Europei este trasată de Munții Ural, dar această limită se referă la continentul nostru ca unitate naturală, fizico-geografică deoarece din punct de vedere politic Rusia continuă la est până la Oceanul Pacific.
1995 Kazuo Ogawa
During the Cold War, the nations of Eastern Europe, which had been squeezed into a block by the ruthless Iron Curtain, were thrown into a storm of rapid marketization and political reform by the "Eastern European Revolution." And now, six years later, while gasping under the overwhelming power of Western Europe, we are gradually finding a new direction through various trials and errors and setbacks. Expressively report the real faces of each country.
Pendant la guerre froide, les nations d'Europe de l'Est, qui avaient été serrées dans un bloc par l'impitoyable rideau de fer, ont été jetées dans une tempête de marchéisation rapide et de réforme politique par la « révolution d'Europe de l'Est ». Et maintenant, six ans plus tard, tout en haletant sous la puissance écrasante de l'Europe occidentale, nous trouvons progressivement une nouvelle direction à travers divers essais, erreurs et revers. Rapportez de manière expressive les vrais visages de chaque pays.
Während des Kalten Krieges wurden die Nationen Osteuropas, die durch den rücksichtslosen Eisernen Vorhang in einen Block gedrängt worden waren, durch die "Osteuropäische Revolution" in einen Sturm rasanter Marktwirtschaft und politischer Reformen geworfen. Und jetzt, sechs Jahre später, finden wir, während wir unter der überwältigenden Macht Westeuropas nach Luft schnappen, durch verschiedene Versuche und Irrtümer und Rückschläge allmählich eine neue Richtung. Erzählen Sie ausdrucksvoll die wahren Gesichter jedes Landes.
序章 伝統的ヨーロッパへ回帰する東欧
大戦後40年を支配した社会主義
「東欧」と呼ばれるヨーロッパの東半分の地域にある国々では、第二次世界大戦終結後、ソ連の強力な指導の下で、換言すればその弾圧の下で、社会主義政権が次々と成立した。
そして、社会主義体制下の東欧諸国は、ソ連の体制をモデルとして、政治に関しては共産党、あるいはそれに相当する党による一党独裁体制、経済に関しては中央集権的な計画化経済システムを構築し、この体制が約40年にわたって持続したのである。
*一党独裁制(いっとうどくさいせい)とは、特定の政党による独裁体制である。非競合的政党制とも。政治学では通常、純粋な一党制のほか、事実上の一党独裁であるヘゲモニー政党制も含まれる。
*一党制Einparteiensystem(CentralismeいっとうせいSystem jednopartyjny)Однопартийная системаとは、合法政党が一党しか存在せず、ほかの政党は存在が許されない政党制である。一党支配制とも。広義にはヘゲモニー政党制などの事実上の一党独裁制も含むA one-party state, single-party state, or single-party system
*中央集権Zentralisation (Централизацияちゅうおうしゅうけん、英語: centralization)Centralisationとは①狭義では、行政や政治において、権限と財源が中央政府(国家政府)に一元化されている形態②広義では情報収集と決定権が本社(本部)に一元化されている組織。
社会主義も共産主義も、今では全く色あせ、時代遅れの思潮になってしまったようにみえる。だが、その思想と理念はヨーロッパの土壌のなかで生れ、育まれたものであった。
初期の資本主義は、自由放任の下で私的利益の追求が社会全体の調和をもたらすという考えを基本とし、非人間的な弱肉強食の社会の出現を許容した。そして、そうした資本主義に対するアンチテーゼとして生まれ、自由放任の弊害を克服するため、生産手段の共有と浪費の平等による無階級社会をめざした社会主義は、ヨーロッパにおける主要な思潮の一つとなったのである。そしてこの点は、今も変わらないことに留意する必要がある。
社会主義の主張は、長い間世界中で多くの人々に支持され、現実にも社会主義国家を誕生させ、第二次大戦後においては、世界を資本主義世界と社会主義世界の二つに分裂させるまでの力を持った。資本主義そのものに対する影響も多大で、資本主義のなかに多くの社会主義的要素が取り入れられた。今日の先進資本主義諸国のなかで、社会主義的要素が全く何もないという国は存在しない。
だが、東欧の人々にとっては、スターリン時代に確立された過度に中央集権的な政治・経済システムを押し付けられたという想いが強烈で、これまでに大小さまざまな体制変革の運動が繰り返されてきた。「ハンガリー事件1956-os forradalom」(1956年)や「プラハの春Pražské jaro」(1968年)あるいは「連帯Solidarność」の高揚(1980~81年)などは、そうした変革運動の波の代表的な大きなうねりであったといえるのである。
その結果、東欧の社会主義には部分的に少しずつ修正が加えられてきた。また、東欧各国の社会主義制度も国によってそれぞれ異なる特色をもつようになり、多様性を示すようになった。経済制度についていえば、国によって中央計画化システムがかなり緩められ、一定の範囲で市場経済のメカニズムが導入され、機能するようになった。しかし、それにもかかわらず、東欧の社会主義体制は決して脆弱ではなく、多くの問題を抱えながらも、1980年代後半においても各国でなお維持されていたのであった。
*計画経済Zentralverwaltungswirtschaft(Économie planifiéeけいかくけいざいPlanned economy)Плановая экономикаとは、経済の資源配分を市場の価格調整メカニズムに任せるのではなく、国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制。対立概念は市場経済。また、計画経済と市場経済の利点を共に備えた混合経済や参加型経済がある。生産・分配・流通・金融を国家が統制し、経済を運営する。原則的に全ての生産手段が公有とされる。主に社会主義国の経済体制であり、現代では純粋にこれを採用する国は少ない。
*市場経済Marktwirtschaft(しじょうけいざいÉconomie de marché、英: market economy)Рыночная экономикаとは、市場を通じて財・サービスの取引が自由に行われる経済のことである[1]。対立概念は、計画経済である。また、市場機能を重視する経済のことを、特に市場主義経済(しじょうしゅぎけいざい)や自由主義経済(じゆうしゅぎけいざい)などと呼ぶことがある。
「東欧革命」-市民民主主義と市場経済への転換
ところが、1989年から1990年にかけて東欧を襲った変革の嵐は、それまでのような部分的影響を残した中小規模のものではない。それは文字通り「東欧革命」であり、社会主義体制の抜本的転換を迫る大嵐であった(三浦元博・山崎博康『東欧革命』岩波新書、1992年12月刊)。ミッテラン・フランス大統領は東欧の激変を「第二次大戦後のヨーロッパにとって最大の出来事」と表現してみせた。
*フランソワ・モリス・アドリヤン・マリー・ミッテラン(フランス語: François Maurice Adrien Marie Mitterrand、1916年10月26日 - 1996年1月8日)は、フランスの政治家。同国第21代大統領(在任:1981年5月10日 - 1995年5月17日)、アンドラ共同大公。国民議会議員、司法大臣、内務大臣などを歴任した。
現代の発達した通信技術が次々と伝える生々しい映像が世界中の人々をテレビの前に釘づけにした記憶は、まだまだ新しい。日本でも新聞とテレビが連日連夜、東欧激動の様子を詳しく報道し、われわれ日本人の間における東欧に対する関心は歴史上かつてなかったほどに高まったのである。
東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が壊れた後の東欧の人々の熱狂ぶりから、チャウシェスク・ルーマニア大統領夫妻の処刑後の映像にいたるまで、まるで白昼に夢をみたようで、印象はまことに強烈であった。
だが、体制転換が短時日で実現するという期待とEuphoriaユーフォリアэйфория(至福感)が急速に醒め、東欧各国の人々が現実の厳しい諸条件の下で毎日の難しい身過ぎ世過ぎに苦心をこらしている今日、東欧報道がめっきり少なくなってしまったのは残念というほかない。
それでは、「東欧革命」がめざしている転換とはどんな転換なのであろうか。
まず政治・社会生活においては、共産党による一党独裁体制を放棄して、複数政党制による議会制民主主義を確立することがめざされている。つまり、ヨーロッパの長い歴史のなかで培われた市民民主主義の理想が甦っているのである。
*複数政党制Mehrparteiensystem(ふくすうせいとうせいMultipartisme、英: Multi-party system)Многопартийная системаとは、政党制の一つ。競合的政党制、支配政党制、二党制、多党制とも。政治学者のジョヴァンニ・サルトーリが提唱した。多党制のメリットとして、国民の多様な意見を反映することができ、世論に基づいた政治運営・連立政権等の弾力性のある政治運営につながりやすいという点が挙げられる。一方、デメリットとしては、細かい軌道修正が多くなる結果政権・政治運営が不安定となり、また政治責任の所在が不明確となるという点が挙げられる。
*民主主義Demokratie(みんしゅしゅぎDémocratie、英: democracy、デモクラシー)Демократияまたは民主制(みんしゅせい)とは、人民が権力を握り、みずから行使する政治思想や政治体制のこと。古代ではアテナイの民主政が有名であり、近代では市民革命により一般化した政治の形態・原理・運動・思想で、民主主義に基づく社会は「市民社会」、「ブルジョア社会」、「近代社会」などと呼ばれる。対義語は神権政治、貴族政治、寡頭制、独裁制、専制政治、全体主義、権威主義など。
また経済の分野では、中央集権的な計画化経済から自由競争が原則の市場経済への転換がめざされている。社会主義の経済制度のもっとも基本的な特質である生産手段の共有(国有または社会有)という所有制度についても、これを抜本的に改めて私有制の復活がはかられつつある。
そして以上のような東欧の変革方向を見て、欧米諸国では「資本主義への回帰」という捉え方が広がっており、それもむべなるかなと思う。だが、米国、西欧諸国、そして日本においても、資本主義の諸原理で全ての問題が円滑に解決されているわけではない。それどころか、未解決の難題がますます多くなり、深刻化しているのが、現実である。
西欧諸国でも日本でも、社会民主主義政党の力は強く、選挙になると多数の人々の支持を集める。資本主義が勝利し、社会主義が敗北したとは、とても言えないであろう。現代の資本主義が社会主義からの多大なインパクトを受容し、社会主義的な価値を取り込んでいることは、先にも述べた通りである。資本主義経済システムのもとでも、全く自由放任的な市場メカニズムが機能しているわけではないのである。
*社会民主主義(しゃかいみんしゅしゅぎ、英語: Social democracy、ドイツ語: Sozialdemokratie、フランス語: Social-démocratie、略称: SocDem)Социал-демократияとは、資本主義経済のもたらす格差や貧困などを解消するために唱えられた社会主義思想で、現在主流の定義では暴力革命とプロレタリア独裁を否定し議会制民主主義の方法に依って議会を通して平和的・漸進的に社会主義を実現することで社会変革や労働者の利益を図る改良主義的な立場・思想・運動である。革命・階級闘争を志向する共産主義と区別され、政策としては議会制度の枠組みに基づき富の再分配による平等を目指す社会主義である、欧州の穏健な社会民主主義政党は「中道左派」と呼ばれる。
議会制民主主義も市場経済システムも、ヨーロッパの伝統的制度であり、価値である。東欧諸国は今、この伝統的価値を追求して、本来的なヨーロッパへの回帰を志向している、と見るべきではないだろうか。わたくしはこの回帰指向をとくに強調したい。資本主義への転換が単純にめざされているわけではないのである。
また、東欧諸国にとって、議会制民主主義と市場経済システムでは、全く新しい制度を導入するということではない。各国とも、程度の差はあれ、第一次大戦と第二次大戦の間、つまり両大戦間に議会制民主主義を経験し、市場経済システムの下にあったのである。とりわけ、チェコスロバキアとポーランドは、この点で先進国であった。
東欧諸国のこの経験は、貴重である。ロシアをはじめとする旧ソ連諸国にはこの経験がほとんどないか、あってもきわめて乏しく、全く新しいシステムの導入と習得が一般的には困難な課題であることを考慮に入れれば、東欧諸国の優位が見えてくるであろう。
そして、東欧における社会体制の変革、つまり一党独裁体制から議会制民主主義への転換は、短期間に、かなり円滑に成就した。各国における転換が流血をほとんど伴わず、平和裡に実現されたことは、特筆に値しよう。だが、ルーマニアだけは例外であった。また、旧ユーゴスラビアにおける今日の内戦状態は、ここで問題にしている転換とは関係がない。
一方、経済制度の変革、つまり計画化経済システムから市場経済システムへの転換(市場化)は、長期的過程であるといわざるをえない。わたくしはこの点を初めから強調してきた。東欧諸国が市場化に関してロシアより優位にあるとしても、それが少なくとも10~15年単位の長期的過程であることがますます明らかになってきているのである。また、バルカン諸国については、大戦前の経験が浅かったこともあって、市場化は遅れがちである。
このため、チェコ、ハンガリー、ポーランド、スロバキアの四カ国を先進グループ、ルーマニア、ブルガリア、旧ユーゴスラビア諸国、アルバニアを後発国とする経済の二極化が進み、今後、東欧の南北格差は著しく拡大する方向にある。
当の東欧諸国でも、欧米先進諸国でも、短期間での市場経済への移行が可能とみた当初の楽観論は、今では鳴りを潜めた。われわれとしても、長期的視点に立って、東欧の市場化の行方を見守る必要があるといえよう。
Češtinaチェコ語⇒Východní Evropa東ヨーロッパ je východní část Evropy. Použití termínu je nestálé a je velmi závislé na kontextu. Do východní Evropy obvykle spadá Ukrajina, evropská část Ruska, Bělorusko a Moldavsko a malými částmi svého území zasahují také státy Ázerbájdžán, Gruzie a Kazachstán. Někdy se do východní Evropy počítají také pobaltské státy: Estonsko, Lotyšsko, Litva.
第一章 もう一つのヨーロッパ
政治的・人工的な地域呼称
「東欧」についてわれわれ日本人がもっている概念や知識はどのようなものであろうか。1989年から1990年にかけて、全世界の耳目を驚かす大きな変化が東欧で起こり、その後旧ユーゴスラビアで血で血を洗う激しい民族抗争が続いて、日本人の間でも東欧に対する関心が高まった。この点は序章でも触れた。
だが、一般的にはノンポリティックな文芸ファンや音楽ファンたちの芸術や音楽に関するだけの知識や、人気の高いブルガリア・ヨーグルト、チェコ・ピルゼン・ビールなどを例外に、大多数の日本人の一般的な東欧理解はかなり漠然としたものではないかと思う。スロバキアとスロベニアの区別がきちんとつく人は少ないし、白地図に東欧各国の首都を正確に書き込める学生も少ない。
知識人と言われる人たちでさえ、東欧で劇的変化が起こるまでは、東欧について、西欧に比べて著しく劣る後進的で特色の薄い均質的な地域、「灰色がかった」地域と見なしていた。ソ連の強大な支配下で社会主義の圧政が続き、つまり日本人が一般的にイメージしている「ヨーロッパ」から隔絶され、出口のない地域、などという誤解も普通のことで、「ソ連の東欧衛星諸国」などという表現に疑問すら抱かない場合も多かった。
だが実際には、「東欧」は、後述するように、きわめて多様な地域であり、なによりもまずヨーロッパの一部分なのである。生活水準も概して高く、「貧しさ」は西欧先進諸国の「豊かさ」との相対的問題であるといえる。最高のヨーロッパ的価値と権威であるローマ法皇の座には、ポーランド人のヨハネ・パウロ二世が就いているし、チェコ・フィルハーモニー・オーケストラはヨーロッパの最も伝統的な響きをもっていると評価されるのである。
*教皇Papież(きょうこう、ラテン語: Pāpa/ Pontifex、イタリア語: Papa、ギリシア語: Πάπας Pápas、英語: The Pope / The Pontiff)Папствоは、カトリック教会の最高位聖職者の称号。
*ヨハネ・パウロ2世Jan Paweł II(羅:Ioannes Paulus II, 伊:Giovanni Paolo II, 1920年5月18日 - 2005年4月2日)Иоанн Павел IIは、ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年10月16日 - 2005年4月2日)。ヨハネス・パウルス2世、ヨアンネス・パウルス2世とも表記される。本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Józef Wojtyła)。
*チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(チェコ語: Česká filharmonie 英語: Czech Philharmonic)は、チェコの首都プラハを拠点とするオーケストラ。チェコを代表するオーケストラの1つ。本拠となるホールはプラハの「芸術家の家(ルドルフィヌムRudolfinum)」内にあるドヴォルザーク・ホールDvořák Hall。
「東欧」には、前述の大変化が起こるまで、東ドイツ(ドイツ民主共和国)、チェコスロバキア、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビアおよびアルバニアの八カ国があり、第二次世界大戦後からどの国も社会主義体制をとっていた。
しかし、1995年初めの現在、情況は大きく変化した。東西ドイツの統一によって、東ドイツという国家は消滅した。チェコスロバキアもチェコとスロバキアに分離して、二つの国になった。ユーゴスラビア連邦も解体し、セルビア、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、モンテネグロに分れたが、セルビアとモンテネグロ両共和国は新ユーゴスラビアを形成した。この結果、東欧は12カ国となった。全人口は約1億2000万人である。各国とも、日本と比べるとはるかに小国であり、最大の人口をもつポーランドでも約3840万人、最小のスロバキアではわずか約200万人にすぎない。
また、バルト三国(エストニア、ラトビアおよびリトアニア)が独立したことから、三国を東欧の国に加えるかどうか、という問題も生じている。
東欧は、現実に西欧と旧ソ連の中間に位置し、北はバルト海から南はアドリア海両端や黒海に広がっている。では、東欧がヨーロッパのなかで「西欧」の東方にひろがる地域という意味で「東欧」と呼ばれてきたのかというと、それはそうではない。
「東欧」の呼称の定着は第二次世界大戦このかたのことで、近々四十数年間のことにすぎない。それはなによりも、この地域の国々が次々と社会主義国となり、資本主義体制を固守する「西欧」とは基本的に対峙してきたことと関係がある。つまり、ヨーロッパのなかで、社会主義体制をとる国々のある地域がヨーロッパの東半分を占め、「東欧」と呼ばれてきたのである。
以上から、「東欧」とは、政治的で人工的な地域定義である、ということができよう。
「中欧」と「バルカン」
東欧諸国の多くが、様々な意味で、ヨーロッパの辺境に位置していることは明らかである。しかしながら、辺境において、あるいは辺境であるが故に、中央の文化や生活慣習がより純化されて継承され、強靭に維持される例があることは、歴史が多くを証明している。
地理的あるいは歴史的な概念と定義であれば、第二次世界大戦終焉までのヨーロッパでは、チェコスロバキア、ハンガリーおよびポーランドは、ドイツやオーストリアと一緒に、「中欧」の国々という概念でとらえられていた。そこに住む人々の意識は、すぐれてヨーロッパ的であった。また、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア諸国およびアルバニアは、「バルカン」諸国と呼ばれるのが普通であった。
第二次大戦後、東西冷戦構造が形成され、ヨーロッパが東西に分裂したのも、米ソ両超大国の対立に起因している。ヨーロッパの人たちの本意ではなかった。フランス人シャルル・ドゴールは、東西冷戦が厳しかった時代に、意図して「大欧州主義」を唱え、「ヨーロッパ」は一つと主張した。
*ド・ゴール主義またはゴーリスム(仏:Gaullisme)とは、フランスの軍人・政治家であるシャルル・ド・ゴールの思想と行動を基盤にしたフランスの政治イデオロギーのことである。彼の姓であるド=ゴール(フランス語:de Gaulle)に由来し、イデオローグ達は「ゴーリスト」と呼ばれる。ド・ゴール主義の最も大きな主張は外国の影響力(特に米英)から脱し、フランスの独自性を追求することである。また、ド・ゴール主義は思想上社会や経済にも言及しており、政府が積極的に市場や経済に介入することを志向した、広義の国家資本主義である。
*シャルル・ド・ゴール(フランス語:Charles de Gaulle、1890年11月22日 - 1970年11月9日)は、フランスの政治家、陸軍軍人。第18代フランス大統領。1940年5月のナチス・ドイツのフランス侵攻による本国の失陥後にイギリスのロンドンにてロレーヌ十字の自由フランスを樹立し、レジスタンスと共闘した。臨時政府で最初の首相となり、1959年1月に第五共和政で最初の大統領に就任した。任期中はアルジェリアの独立の承認・フランスの核武装・NATOからの脱退などを実現した。
実際に、東西ヨーロッパは一体であり、分断は政治的・人工的なものであった。わたくしは、1970年代半ば以来30年間、東西両方のヨーロッパを毎年繰り返し旅行しているが、当然のことながら、東西の相違点よりはむしろ相似性に打たれてきた。
東西冷戦の終結からソ連邦の解体は、東欧各国による社会主義体制の放棄、そして伝統的ヨーロッパへの回帰運動と時代は大きく動いて、東欧はその本来の姿であるヨーロッパの諸様相をはっきりと示すようになったのである。
「中欧」という概念が再び用いられるようになり、バルカン諸国は「南欧」と呼ばれ始めた。「中欧」と「南欧」との間にもともと存在した経済格差は明らかに拡大する方向にあり、「南北問題」の顕在化がみられる一方、EUの拡大に関連して、「中欧」諸国の早いEU加盟の可能性が話題になっている。
1992年12月、ポーランドの古都クラコフにおいて、チェコ、ポーランド、ハンガリーおよびスロバキアの四カ国は、自由貿易圏の形成をめざす中欧自由貿易協定(CEFTA、Grex Vissegradensisビシェグラード協定Viŝegrada grupo)に調印したが、この四カ国の人々に「中欧」のアイデンティティが生れ始めているといえよう。
わたくしは、本書では、新しい時代の変化を十分に踏まえたうえで、この30年間にわたって自分が調査・研究の対象としてきた地域である「東欧」にこだわって、記述していきたい。
2 東欧の多様性ー民族・言語・歴史
東欧にもっとも顕著な地域的特性はなにかといえば、それは多様性と各国の利害の錯綜である。われわれ日本人は、西欧が多様な地域で、各国と各地域がそれぞれユニークな特性を備えていることについては、相当の知識をもち、かなりよく理解している。EUの統合が進んでも、加盟各国の特性が薄まるわけではない。
*欧州連合(おうしゅうれんごうEurópai Unió、EU; 英: European Union、仏: Union européenne、独: Europäische Union)Европейски съюзは、ヨーロッパを中心に27カ国が加盟する経済同盟である。
*スラヴ人Słowianie(SlawenスラヴじんSlavs)Славянеは、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類に過ぎない。《Ethnic World History》 10. Slavs and Eastern Europe Russia Tatsuya Moriyasu《Этническая всемирная история》 10. Славяне и Восточная Европа Россия. Тацуя Мориясу
Slavs that have formed their own world in Europe. Although culturally divided into the Catholic and Eastern Orthodox cultural spheres, they are connected by a common language, and after the war, they both explore the real image of the slavic world that formed the socialist sphere.
Славяне, сформировавшие свой мир в Европе. Хотя культурно они разделены на католическую и восточно-православную культурные сферы, они связаны общим языком, и после войны они оба исследуют реальный образ славянского мира, который сформировал социалистическую сферу.
*奴隷Slavery(SklavereiどれいServus)Рабствоとは、人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。奴隷を許容する社会制度を特に奴隷制という。