日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Europa Wschodnia/Europa de Est★『東欧 再生への模索』小川和男/Search for Eastern Europe regeneration Kazuo Ogawa/Recherche de la régénération de l'Europe de l'Est/ Suche nach Osteuropa-Regeneration③


*Slovenčinaスロバキア語⇒Praha (nem. Prag, angl. Prague, tal. Praga, maď. Prága) je hlavné a najväčšie mesto Česka, sídlo Stredočeského kraja (ktorý územie mesta obklopuje) a zároveň samostatná správna jednotka (štatutárne mesto a vyšší územný samosprávny celok).
大通りに出ても曲折が多く、車で来た外国人には運転がまことに難しい。市電が市街を網の目のように走り、狭い道を通り、急カーブをゆっくりと曲っていく。近年車が著しく増えて、朝夕の交通渋滞がひどい。一方通行の街路も多い。市街地を抜け出て直線の道路になると、ほっとした気持になる。
そうしたプラハの中心地は、晩秋から初冬にかけての灰色の季節などには、文字通り古色蒼然として十年一日の趣が深く、「東欧革命」を迎えるまでは東欧の首都のなかで時代の変化をもっとも感じさせない場所であった。
プラハとは、ヨーロッパの人々にとって、昔からきわめてヨーロッパ的で奥深く、謎めいた都会であったのではないだろうか。そこでは、世をはばかる人々さえも、ひっそりと隠れ住むことができるように思われる。ウラジミール・ナボコフは、ロシア革命で祖国を失い、若き亡命貴族としてヨーロッパの各地を遍歴した後、米国における『Лоли́таロリータLolita』の成功によって世界的な作家となった。そのナボコフに珠玉のような自伝(大津栄一郎訳『ナポコフ自伝ー記憶よ、語れSpeak, Memory quotes』 晶文社、1979年)があり、そのなかで、亡命後老いてプラハに住むかつて美しかった母親について作家が語るくだりは、まことに印象的である。

*ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・ナボコフ(ロシア語:Владимир Владимирович Набоков 発音 [vlɐˈdʲimʲɪr nɐˈbokəf] ヴラヂーミル・ヴラヂーミラヴィチュ・ナボーカフ、英語:Vladimir Vladimirovich Nabokov [nəˈbɔːkəf, ˈnæbəˌkɔːf, -ˌkɒf], 1899年4月22日(ユリウス暦4月10日) - 1977年7月2日)は、帝政ロシアで生まれ、ヨーロッパとアメリカで活動した作家・詩人。少女に対する性愛を描いた小説『ロリータ』で世界的に有名になる。昆虫(鱗翅目)学者、チェス・プロブレム作家でもある。アメリカ文学史上では、亡命文学の代表格の一人である。

プラハの隠微な都会的雰囲気は、出口がどこにもない閉ざされた小さい世界のなかで、不安と不思議な安息の境界を行き交う『変身』に代表されるカフカ的小説の世界とつながっているようにも思えるのである。
しかし東欧は今、伝統的ヨーロッパへの回帰志向を強めている。そして社会主義時代には制限されていた表現の自由が回復され、市場化が進む過程でコマーシャリズムも甦ってきており、人々の生活は年々変化して、明るさを増している。
とりわけ都市では建物の化粧直しがかなり進み、街並みは見違えるほど美しくなった。夜のとばりがおりると、七色のイルミネーションが輝き、歴史的建造物を照らし出し、街路に映える。食料品も、衣料品も、耐久消費財も、この数年間で量も種類も格段に豊富になった。輸入品も含めて贅沢品が増え、ショーウィンドを飾っている。
西側からの観光客も目立って増え、需要の急増にともなってレストランや商店が賑わうようになった。近代的大ホテルが次々と新設される一方、由緒ある古いホテルが改修され、往時の優雅とゆとりを取り戻している。居心地の良い小ホテルも目立つようになった。
都市の年中行事では、伝統的なものや宗教的なものが復活して活気づく一方、メーデーや革命記念日は全く色あせてしまった。

*Magyarマジャール語⇒Budapest Magyarország fővárosa, egyben legnagyobb és legnépesebb városa, az Európai Unió legnépesebb városai közé tartozik. Budapest az ország politikai, kulturális, kereskedelmi, ipari és közlekedési központja.

*Polskiポーランド語⇒Warszawa, miasto stołeczne Warszawa(m.st. Warszawa) — stolica Polski i województwa mazowieckiego, największe miasto w kraju, położone w jego centralnej części, na Nizinie Środkowomazowieckiej, na Mazowszu, nad Wisłą.
活気づくプラハ、ブダペスト、ワルシャワ
十年一日であったプラハの近年における変容には、まことに目を見張らされるものがある。建物も市街も本来立派であるから、くすんでいた外壁を洗い、化粧を直せば、それだけでたちまち美しさが甦るのである。ブルタバ川を見下して、フラッチャニの丘に威容を誇る聖ビロード教会とプラハ城が輝き、旧市街では修復成ったティーン教会や旧市庁舎が観光客に足をとめさせ、新市街の中心バーツラフ広場の両側に立ち並ぶ建物も、もともとの美しさを取り戻した。

*Češtinaチェコ語⇒Vltava (německy Moldau) je s délkou 430,2 km[1] nejdelší řekou na území Česka. Pramení na Šumavě, u obce Černý Kříž, soutokem Teplé Vltavy a Studené Vltavy.
*プラハ城(プラハじょう、チェコ語:Pražský hrad)はプラハにある城。かつてボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城であり、現在はチェコ共和国(元チェコスロバキア連邦共和国)の大統領府のある場所である。
*聖ヴィート大聖堂(せいヴィートだいせいどう、チェコ語: Katedrála svatého Víta)は、チェコのプラハにある大聖堂で、プラハ大司教の司教座聖堂である。大聖堂の正式名称は「聖ヴィート、聖ヴァーツラフ、聖ヴォイテフ(Vojtěch)大聖堂」である。
*ティーン教会(チェコ語:
Týnský chrám)は、チェコのプラハにあるゴシック様式の教会である。正式名称は「ティーン(税関)前の聖母マリア教会(チェコ語: Kostel Matky Boží před Týnem)」である。
*Češtinaチェコ語⇒Václavské náměstí (hovorově Václavák, německy Wenzelsplatz, dříve Svatováclavské náměstí, původně Koňský trh, německy Rossmarkt) je jedno z hlavních náměstí na Novém Městě v Praze.

プラハの冬は厳しい。わたくしが訪れたときは、12月に入ったばかりなのに、気温は日中でも零度前後で寒かった。前夜に厚い霜がおり、自動車の窓ガラスは前後も両脇も真白に凍てついて動かない。日中は青く晴れて穏やかな好日であったが、水かげや日の射さない窪地の雪のような霜はとけない。夕空が濃い紫に染まる頃、旧市庁舎の一角に立つと、中央のヤン・フス像と並んで大きなクリスマス・ツリーが立てられ、その背後にティン教会の尖鋭が屹立しているのがみえた。社会主義時代には見られなかった光景である。
美しさを取り戻したのは国民劇場とスメタナ劇場Smetana Theatreも同じで、上演されるオペラやコンサートのプログラムに内外の音楽ファンの関心が集まっている。日本では、楽都としてウィーンの人気が圧倒的に高いが、プラハもまた、ヨーロッパの楽都なのである。毎年5月に開催される「プラハの春音楽祭」はますます盛んになっている。
*国民劇場(こくみんげきじょう、チェコ語: Národní Divadlo)は、チェコの首都プラハにある劇場。チェコの歴史と芸術を代表する建築物である。
*プラハ国立歌劇場(チェコ語: Státní opera Praha)は、チェコ・プラハにある歌劇場である。

大戦前からのプラハの商店は、間口が広く、奥行きが深く、店構えが立派である。この点では、ヨーロッパのどの都市と比較しても、遜色がない。ボヘミアが中世から栄え、19世紀後半以降はヨーロッパの最先進工業地域の一つとして大いに発展し、プラハに富が集中してきたことが、そうした商店の基盤となってきたのである。

近年、市場化に目覚めた多くの人々がビジネスに精を出すようになって、繁華街の商店や路上のマーケットは夜遅くまで賑わい、ヨーロッパ各地から買物客が集まるようになった。高級品店は、パリやロンドンと同じように、贅沢な雰囲気を醸し出している。
こうして都会としての魅力が増していることから、プラハや今や東欧で一番活気のある首都に変容したといえよう。
ブダペストは、1970年代末から1980年代を通じて、東欧の諸都市のなかでもっとも華やぎ、ドナウ川が市街の中央を貫いて流れる景観の美しさと相まって、西側からの観光客に人気が高く、下町「ペスト」地区の狭い繁華街「バーツィ通り」はいつ行ってみても大変な賑わいであった。それは今でも変わらない。

*Magyarマジャール語⇒A Duna Európa leghosszabb folyama az oroszországi Volga után.
*ペシュト(Pest)は、ハンガリーの中央部に位置する都市。ドナウ川右岸(東岸)に位置し、対岸のブダと対になって発展した。ドイツ語ではペスト(Pesth)と呼ばれた。
ブダペストがもつ魅力と活気は、したがって、西欧の都市がもつそれと同様の性質であるともいえよう。社会主義計画化経済の下でもこの程度まではできるという意味合いもあり、東欧のショーウィンドーの役割を果たしていた。豊かな農業を背景にした独特のハンガリー料理、世界に冠たるトカイ・ワインをはじめとする名酒の数々、豪華な店内と恭しいサービスの高級レストラン、下町の小意気なカフェ、ジプシーの楽士たちが自由自在に奏でるエキゾチックなメロディ、西欧に比べずっと安い物価などの魅力が、人々をくつろがぜ、楽しませるのである。
*トカイワインまたはトカイ(ハンガリー語:Tokaji)は、ハンガリーのトカイ (Tokaj) と周辺の地方からなるトカイ・ワイン地区(ハンガリー語:Tokaj-Hegyalja Borvidék)で作られるワインである。
*ジプシー(gypsy)は、一般にはヨーロッパ(欧州)で生活している移動型民族を指す民族名。
*シンティSzintók・ロマCigányokは15世紀頃からドイツ語圏に定住したロマRomaと同根のロマニ系の集団であるシンティ (Sinti)と、主に東欧に移住し、後のルーマニアに当たる地域で奴隷とされた集団であるロマとを併せた呼称。
しかし対外債務の累増は、社会主義時代から今にいたるまで、ハンガリー経済の重荷となっている。それは、ブダペストの魅力に惑わされて、欧米の慎重で計算高い銀行家たちでさえつい気を許し、ハンガリーに多額のマネーを貸し込んでしまった結果である、といえなくもない。
また、プラハの輝きが増したことから、ブダペストの魅力が相対的にいくぶん低下したことは否めない。だが、多忙なビジネス・トリップの一夕、レストラン「グンデルGundel」や「ガムブリナスGambrinus」でくつろぐと、やはりブダペストは好いなあ、と実感する。バラトン湖Balatonや、はてしなくひろがる大平原プスタpuszta、ショプロンSopron、セゲドSzeged、ペーチPécs、ミシコルツMiskolcなどの中小都市、自然が残るドナウ流域等々、地方の魅力も大きい。

ワルシャワの街並みも、化粧直しが進み、すっかりきれいになった。樹木がいっせいに芽生え、雨でしっとりした若葉の緑が人々の目をなごませる5月初期、そして輝かしい「黄金の秋」と、ワルシャワは季節ごとに美しい姿をみせる。「連帯」運動の拡大を抑圧してウォイチェフ・ヤルゼルスキ将軍が戒厳令を施行した頃(1981~83年)のワルシャワの暗い表情や物不足を思い出すと、近年の市街の美化と明るさはまことに印象的である。

*Polskiポーランド語⇒Wojciech Witold Jaruzelski i (ur. 6 lipca 1923 w Kurowie, zm. 25 maja 2014 w Warszawie) – polski polityk i dowódca wojskowy, działacz komunistyczny, generał armii ludowego Wojska Polskiego, przewodniczący Komitetu Obrony Kraju – zwierzchnik Sił Zbrojnych, naczelny dowódca sił zbrojnych na wypadek wojny, współtwórca Patriotycznego Ruchu Odrodzenia Narodowego.
*Polskiポーランド語⇒Stan wojenny w Polsce w latach 1981–1983 – stan nadzwyczajny wprowadzony 13 grudnia 1981 roku na terenie całej Polskiej Rzeczypospolitej Ludowej, niezgodnie z Konstytucją Polskiej Rzeczypospolitej Ludowej. Został zawieszony 31 grudnia 1982 roku, a zniesiono go 22 lipca 1983 roku.
食料品の供給は潤沢になり、商店はそれぞれ商店らしくなった。かつては街中のあちこちで見られた買物の行列は今は全くなくなった。ワルシャワには、ブダペストとは違って、長い間良いレストランがきわめて少なかった。それが昨今では、新しい格好のレストランが次々と開店し、立派な『ワルシャワ・レストラン・ガイドブック』が出版されるような様変りである。
市場化の進展は、まず中小ビジネスを活発にし、街中のいたるところにキオスク風の小店舗を出現させた。最近では、外資系企業が続々と進出し、ワルシャワの目抜き通りの一等地に出店している。また、市の近郊に「イケアIKEA」(スウェーデンの家具量販会社)や「ビラBILLA」(オーストリア系の大型スーパーマーケット)など外資系の郊外型大規模小売店がオープンし、市民の間で人気を博している。当然のことながら、競争の原理が働き始め、市内の商店も店構え、品揃え、価格、サービスに気を配るようになった。
ホテルも増えた。近代的ホテルの新規開店が目立つ一方、由緒ある古いホテルの改装再開もある。19世紀以来の名門ホテルで、かつて大音楽家にして政治家のパデレフスキが所有していた「ブリストルBristol」も、長年の改修工事の後、1993年秋に再開された。ワルシャワの「ブリストル」は今、全ヨーロッパのなかでも最高級の雰囲気をもつホテルの一つではないだろうかと思う。ホテルのサービスはもう一歩であるが、レストランでのサービスは、レトロ趣味といえるほど優雅である。ポーランドのみやびが旧に復している。このみやびはドイツでは見られないし、他の東欧諸国にもないようである。果してどこから生れてくるのであろうか。

*イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860年11月18日 - 1941年6月29日)は、ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家・外交官。高名なピアニストである一方、ポーランドの首相を務めたことで知られる。
またワルシャワで5年に一度開かれる国際ピアノ・コンクール「ショパン・コンクール」の人気はますます高く、登竜門をめざして世界中から若いピアニストが集まる。日本からも多くはうら若い女性ピアニストが大勢参加している。一定の水準に達しない者は決して参加を認めないロシア人とは異なり、愛想が好く、人の気をそらさないポーランドの人たちは、大歓迎と言っている。だが、コンクールの水準は高く、現実に入賞することはたいへん難しい。
*Polskiポーランド語⇒Polacyポーランド人– naród zachodniosłowiański (lechicki) zamieszkujący głównie obszar Rzeczypospolitej Polskiej i będący jej głównym składnikiem ludnościowym, a poza granicami Polski tworzący Polonię.

*ショパン国際ピアノ・コンクール(英語: International Chopin Piano Competition、ポーランド語: Międzynarodowy Konkurs Pianistyczny im. Fryderyka Chopina)は、フレデリック・ショパン研究所がポーランドのワルシャワで開催する国際音楽コンクール。国際音楽コンクール世界連盟メンバー。
ショパンには甘美なピアノ曲が多く、黄金時代のハリウッドのメロドラマをしばしば彩ってきた。NHKの一時の「名曲アワー」でもショパンのそうした甘さが強調され、それが日本人のポーランド・イメージ形成を助けてきた。しかし、ショパンの曲の多くがきわめて力強く、男性的で、革命的であるのは、周知の通りである。ショパンが生きた時代、ポーランドは三国分割の時代であり、国は独立を失っていた。ポーランド人は独立の回復をめざして度々蜂起したが、成功しなかった。ショパンのピアノ曲にはそうした祖国への共鳴と哀惜が込められている。

*ポーランド分割(ポーランドぶんかつTeilungen Polens、ポーランド語: Rozbiór Polski・Rozbiory Polski、リトアニア語: Lietuvos-Lenkijos padalijimai、ベラルーシ語: Падзелы Рэчы Паспалітай、ウクライナ語: Поділи Речі ПосполитоїРазделы Речи Посполитойは、18世紀に、ポーランド・リトアニア共和国の領土が3度にわたって周囲の3つの大国に奪われ、最終的に完全に領土を失って滅亡したことを指す歴史用語。その後、ウィーン会議により改めて4度目の分割も行われた。

*Polskiポーランド語⇒Fryderyk Franciszek Chopin (fr. Frédéric Chopin), forma spolszczona: Szopen(ur. 22 lutego lub 1 marca 1810↓ w Żelazowej Woli, zm. 17 października 1849 w Paryżu) – polski kompozytor i pianista. Od października 1831 roku mieszkał we Francji.
都会には世界中のどこでも、光と影がある。急激な市場化は、諸物価の高騰を呼び起こし、多数の企業を倒産に追い込み、失業者を急増させ、市民の間の所得格差を著しく拡大した。失業率は一時15%にもなり、「民主化で西欧並みになったのは失業者だけだ」という労働者の嘆きがきかれる。
けれどもワルシャワでは今、明らかに光が広くひろがり、影にある難題を覆いかくしている。ポーランド経済は1992~94年と3年連続してプラス成長を記録し、回復基調を示している。ワルシャワは今輝きの中にあるのである。

*Esperantoエスペラント語⇒Ĉeĥojチェコ人 estas okcidentslava nacio loĝanta ĉefe en Ĉeĥio; pli malgrandaj komunumoj vivas en Slovakio, Usono, Brazilio, Kanado, Aŭstrio, Germanio, Rusio, Ukrainio kaj Rumanio.
*The Slovaksスロバキア人(Slovak: Slováci, singular: Slovák, feminine: Slovenka, plural: Slovenky) are a West Slavic ethnic group and nation native to Slovakia who share a common ancestry, culture, history and speak Slovak.
4 独自の民主主義の歴史
チェコ、スロバキアの民主主義
東欧諸国が両大戦間にそれぞれ複数政党による議会制民主主義を経験した歴史を持っていることは、序章のなかで述べた。ロシアをはじめとする旧ソ連諸国については、この経験が無いか、あってもきわめて浅く、したがって現在における議会制民主主義への転換は、それを新しく導入する見込みということになる。一方、東欧諸国では、この転換はヨーロッパの伝統的政治制度を回復する試みであり、新しい制度を導入することとは異なる。
チェコ人とスロバキア人は、ヨーロッパの歴史のなかで1000年余の長きにわたって別々の歴史を歩み、第一次大戦の終結とオーストリア・ハンガリー二重帝国の崩壊まで、スロバキアは約1000年に及んでハンガリーの専制下におかれ、チェコ(ボヘミアとモラビア)も約300年にわたってオーストリアの支配下におかれた。
*モラヴィア(英語: Moravia)は、チェコ共和国東部の地方。チェコ語ではモラヴァ(チェコ語: Morava)、ドイツ語ではメーレン(ドイツ語: Mähren)と呼ばれる。

第一次大戦終結の翌1918年、チェコ人とスロバキア人は統合してチェコスロバキア共和国をつくり、独立を達成した。スロバキア人トーマシュ・マサリクとチェコ人エドワルト・ベネシュという2人の傑出した大政治家の存在が、国の独立とその後における議会制民主主義の発展にあずかって大きな力があった。

*Češtinaチェコ語⇒Edvard Beneš (původním jménem Eduard;[pozn. 1] 28. května 1884 Kožlany[2] – 3. září 1948 Sezimovo Ústí) byl československý politik a státník, druhý československý prezident v letech 1935–1948, resp. v letech 1935–1938 a 1945–1948.

*Slovenčinaスロバキア語⇒Tomáš Garrigue Masaryk (skrátene T. G. M. alebo TGM, v anglickom zápise aj Thomas G. Masaryk; * 7. marec 1850, Hodonín – † 14. september 1937, Lány) bol česko-slovenský filozof, sociológ, pedagóg, politik, štátnik a novinár, jeden zo zakladateľov ČSR, prvý prezident ČSR (14. november 1918 – 14. december 1935) a predtým predseda Dočasnej vlády Česko-Slovenska (14. október – 14. november 1918), jeden z troch vrcholných predstaviteľov Česko-slovenskej národnej rady (13. február 1916 – 14. október 1918) a poslanec rakúskej Ríšskej rady (4. marec 1891 – 10. október 1893, 17. júl 1911 – 25. september 1917).
チェコスロバキアでは、1918~39年の20年間にわたって議会制民主主義が堅持され、ナチス・ドイツに占領(1939年)されるまで共産党も国会に議席をもっていた。これは、他の東欧諸国ではどこでも共産党が非合法化されていた当時において、唯一の貴重な例外であった。
チェコスロバキアの人々は、この時代の市民民主主義の記憶を甦らせた。「ビロード革命」で主役を果たした「市民フォーラム」(1989年11月に結成)の中核であった学生たちは、自分たちがマサリク大統領の直系であるといって胸を張ったのである。
*Slovenčinaスロバキア語⇒Nežná revolúciaビロード革命 (čes. sametová revoluce; 17. november – 29. december 1989) je názov pre nekrvavé udalosti, ktorých dôsledkom bolo odstránenie komunistického režimu v Česko-Slovensku.

*Češtinaチェコ語⇒Občanské fórum市民フォーラム, ve zkratce OF, bylo politické hnutí, které vzniklo dva dny po začátku „sametové revoluce“ v Praze jako široká, spontánní platforma občanských nezávislých aktivit. OF odmítalo totalitní komunistický režim. Na Slovensku obdobnou roli hrálo hnutí Verejnosť proti násiliu (VPN). Prvním neformálním vůdcem hnutí OF byl Václav Havel.
わたくしは1990年2月、つまりチェコスロバキアで民主化改革の気運が著しく高まっていた時期に、数日間プラハに滞在した。市街に出てみると、新しく選出(1989年12月29日)されたばかりのV・ハベル大統領の写真と並んで、マサリクやベネシュの晩年の姿を写した古い写真があちこちに掲げられているのが目につき、印象的であった。

*Češtinaチェコ語⇒Václav Havel (5. října 1936 Praha – 18. prosince 2011 Vlčice-Hrádeček) byl český dramatik, esejista, disident a kritik komunistického režimu, později politik a státník. Byl devátým a posledním prezidentem Československa (1989–1992) a prvním prezidentem České republiky (1993–2003).
このことに象徴されるように、チェコスロバキアの民主化革命は、「新生」を希求しているのではなく、「伝統」に回帰しようとする運動であったことは明らかであると思う。ハベル大統領自身が、両大戦間における民主主義の伝統に立ち帰ることを理想としていた。
だが、人々の理想はさめやすい。一方、歴史に根ざした民族感情は容易には消えず、火をつけられやすい。1992年6月の総選挙を挟んで、スロバキアでは独立を求める勢力が台頭し、7月にはスロバキア共和国の主権が宣言されて、11月、チェコ共和国とスロバキア共和国は正式に分離、二つの国家となった。ここに、第一次大戦直後に誕生したチェコスロバキアはその国として歴史を閉じ、マサリクやベネシュたちの理想も消えたのである。

*Slovenčinaスロバキア語⇒チェコスロバキア分離Rozdelenie Česko-Slovenskaビロード離婚 alebo zánik Česko-Slovenska[2] bol proces zániku federatívneho štátu Česko-Slovensko zavŕšený 31. decembra 1992 vznikom dvoch nezávislých nástupníckych štátov Slovenska a Česka 1. januára 1993.

個人主義的ポーランド
ポーランドでは、カトリックが国民生活の規範として生き、教会が絶大な権威と力をもち、国内的危機を救うこともある。このため現法皇ヨハネ・パウロ二世の4年に一度の里帰りは、きわめて大きな政治・社会的意義をもっているのである。
一方、市民の日常生活では個人主義が徹底し、世論は分裂して小政党が乱立。国民的コンセンサスが容易には形成されないという政治的風土がある。少数意見の尊重と弱者への配慮が民主主義の基本原則であることは、今さら言うまでもない。しかし、細分化主義ともいうべき細部へのこだわりとそこから必然的に生れてくる小政党乱立は、国内をいつも分裂に導き、結局は民主主義を脅威にさらしてしまう。国内が分裂している時、強力な外圧を加えられればどうなるか、ポーランドはそうした危機に弱い国であった。
両大戦間のポーランドでは、文字通り小政党が乱立した。「戦間期ポーランドの政党制度に特徴的であったのは小党並立(1922~26年の下院の政党数は23~26)と、政党が党員に対してほとんど統制力をもたなかったことである」(東欧史(新版)山川出版社、1977年)ともいわれているのである。
英誌『エコノミスト』も、「ポーランド人はかつて、あまりにも民主主義的に過ぎて、それをかれらの利点にすることができず、両大戦間におけるかれらの比例代表制度は安定を失っていた」と指摘している(同誌1990年2月3日号)。そして『エコノミスト』がこのように述べたのは、「連帯」が自由選挙で圧勝し、政権の座についた後の1990年代初頭におけるポーランドの政治情勢が両大戦間の不安定に酷似していることに大きな懸念を表明してのことであった。
1993年9月、ポーランドの総選挙では、体制転換を主導してきた「連帯」系の政党が敗北。代って旧統一労働者党(共産党)系の左翼民主同盟とかつて翼賛政党であった農民党がそれぞれ第一党と第二党に躍進し、左翼連立内閣が成立した。議会制民主主義がしっかりと根づく一方、ワレサ大統領の下で首相が7人も交替したことにも象徴されるように、政局は1990年代中葉になってますます不安定である。

*Polskiポーランド語⇒Polska Zjednoczona Partia Robotnicza (PZPR) 統一労働者党– monopartia komunistyczna utworzona 15 grudnia 1948, poprzez połączenie Polskiej Partii Robotniczej i Polskiej Partii Socjalistycznej, po przeprowadzeniu czystek w ich szeregach. Określana również jako realno-socjalistyczna, sprawująca rządy w PRL w latach 1948–1989. Istniała do 30 stycznia 1990.

*Polskiポーランド語⇒Sojusz Lewicy Demokratycznej (SLD) 民主左翼連合– polska centrolewicowa partia polityczna, założona 15 kwietnia 1999 (zarejestrowana sądownie 17 maja 1999) przez działaczy większości organizacji wchodzących w skład koalicji SLD. Koalicja ta była skupiona wokół partii Socjaldemokracja Rzeczypospolitej Polskiej i zawiązana została w 1991.
*Polskiポーランド語⇒Polskie Stronnictwo Ludowe (PSL)農民党 – polska partia polityczna, powstała 5 maja 1990 z połączenia PSL „Odrodzenie” (będącego kontynuacją Zjednoczonego Stronnictwa Ludowego) oraz wilanowskiego PSL.

*Polskiポーランド語⇒Lech Wałęsa i (ur. 29 września 1943 w Popowie) – polski polityk i działacz związkowy, dysydent. Przywódca i bohater opozycji demokratycznej w okresie PRL, współzałożyciel i pierwszy przewodniczący NSZZ „Solidarność”. Laureat Pokojowej Nagrody Nobla w 1983[1]. Prezydent Rzeczypospolitej Polskiej w latach 1990–1995.

ハンガリーとドイツの議会制民主主義
ハンガリーにおいては、保守的な政党の力が非常に強かったとはいえ、両大戦間に議会制民主主義が堅持されていた。現在、ハンガリーの人たちのあいだで、第二次大戦後40年間にわたって一党独裁政治は、ハンガリーの歴史のなかでは例外であったという気持が強く、市民の手に支えられた議会制民主主義のヨーロッパ的伝統こそ守るべきであるという主張が当り前になっている。
またワイマール共和国時代(1919~33年)のドイツにおいても、世界でもっとも民主的といわれたワイマール憲法のもとで議会制民主主義が栄え、ヒットラーの登場によって共和国が崩壊するまで、華やかなワイマール文化が香っていた。このことは、記憶されてしかるべきであろう。

*Deutschドイツ語⇒Als Weimarer Republikヴァイマル共和国 (zeitgenössisch auch Deutsche Republik) wird der Abschnitt der deutschen Geschichte von 1918 bis 1933 bezeichnet, in dem erstmals eine parlamentarische Demokratie in Deutschland bestand.
*ヴァイマル憲法(ヴァイマルけんぽう、ドイツ語: Weimarer VerfassungWeimar Constitutionは、第一次世界大戦敗北を契機として勃発したドイツ革命によってドイツ帝国が崩壊した後に制定されたドイツ(ヴァイマル共和政)の憲法。                                                              
以上のように、チェコ、ポーランド、ハンガリーおよびドイツにおいて、両大戦間に市民民主主義を理想とする議会制民主主義が経験されていることは、東欧諸国のめざす体制転換にとって決定的に重要な意味をもっている。それに比べ、バルカン諸国では市民民主主義の歴史と経験が浅く、このことはバルカン諸国の民主化改革の大きな制約要因になっているのである。

*Українськаウクライナ語⇒Украї́на ウクライナ(МФА: [ʊkrɐˈjɪn̪ɐ] ( прослухати)) — держава, розташована у східній Європі, на південно-західній частині Східноєвропейської рівнини.
5 ウクライナは東欧か?
ウクライナの「ヨーロッパ回帰」
ソ連邦が解体(1991年12月)し、15の旧連邦共和国がそれぞれ独立国となったことは、一部の国々にとって、つまり、ウクライナ、バルト諸国、モルドバなどにとって、ヨーロッパに帰属するのかどうかという重大で複雑な問題、しかも国際的に大変センシティヴな問題を呼び起こした。バルト三国の旧ソ連圏からの離脱とヨーロッパへの回帰は、さまざまな歴史的経験からも明らかである。バルト諸民族自身がヨーロッパ諸国の人たちとアイデンティティを共有したいと主張することは、比較的受け入れやすいのである。欧米諸国もまた、バルト三国のヨーロッパへの帰属をすでに承認した。
ウクライナについても、同じことが成立するであろうか。わたくしはそれはきわめて難しく、ほとんど不可能であると思う。独立後、ウクライナの人たちの間で反ロシア、反モスクワ感情がきわめて強いのは確かである。とりわけ首都キエフ古都リボフを中心とするウクライナ西部では、反モスクワの気風が溢れている。

*Ки́ївキーウ(МФА: [ˈkɪjiu̯] ( прослухати)) — столиця та найбільше місто України, одне з найбільших і найстаріших міст Європи.

*Львівリヴィウ (МФА: [ˈʎʋiu̯] ( прослухати)) — місто обласного значення в Україні,

だがウクライナ人にとって、ロシア人とポーランド人あるいはリトアニア人とどちらとの血が濃いかといえば、そんな設問自体が無意味なのである。ポーランドとリトアニアが中世においてヨーロッパの大国であった時代、ウクライナの地は長らく両国の支配下にあった。ウクライナの西辺にひろがる豊かなガリツィアГаличина地方やブゴビナБуковина地方は、ウクライナがロシアと歴史を共にするようになった後も、何世紀にもわたってポーランド領であったり、オーストリア領であったりした。
しかし、そうした歴史の追憶が、ウクライナの人々をしてロシアらから離れさせ、ヨーロッパへの志向を強めさせている、というのであれば、それはノンセンスということになろう。
ウクライナは人口約5200万人を擁し、フランスに比肩する大国である。このような大国がヨーロッパに帰属することになれば、ヨーロッパの国際地図は必然的かつ大幅に置き換えられなければならず、ヨーロッパのどの国にとっても、それは悪夢のような事態を引き起こすことにもなりかねない。

*Українськаウクライナ語⇒Украї́нська Радя́нська Соціалісти́чна Респу́бліка, УРСРウクライナ・ソビエト社会主義共和国 (до 30 січня 1937 — Украї́нська соціялісти́чна радя́нська респу́бліка, УСРР) — одна з союзних республік у складі СРСР. Існувала з 6 січня 1919 до 24 серпня 1991.

強いロシアとのきずな

ウクライナは一方、旧ソ連と現CIS(独立国家共同体)の心臓にも当たる一部であり、ウクライナ無くしては、旧ソ連は生きられなかったし、現CISは崩壊してしまう。経済的には、旧ソ連全体の約10%を占め、約70%のロシアに次ぐ第二の経済大国でもあった。







































×

非ログインユーザーとして返信する