日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Europa Wschodnia/Europa de Est★『東欧 再生への模索』小川和男/Search for Eastern Europe regeneration Kazuo Ogawa/Recherche de la régénération de l'Europe de l'Est/ Suche nach Osteuropa-Regeneration④

*Українськаウクライナ語⇒Украї́нціウクライナ人 — слов'янський народ, основне й автохтонне населення України, найбільша етнічна спільнота на її території.
*Українськаウクライナ語⇒Украї́нська мо́ваウクライナ語 (МФА: [ukrɑ̽ˈjɪnʲsʲkɑ̽ ˈmɔwɑ̽], історичні назви — ру́ська, руси́нська) — національна мова українців.

*Українськаウクライナ語⇒Співдру́жність Незале́жних Держа́в, СНД独立国家共同体 (англ. The Commonwealth of Independent States (CIS); рос. Содру́жество Незави́симых Госуда́рств, СНГ) — регіональна міжнародна організація, до якої входить низка пострадянських країн.
ウクライナはまた、国内に約22%、つまり1100万人を超えるロシア人口を抱えている。キエフに次ぐ第二の都市ハリコフはウクライナ最強の工業都市であり、同市を中心とするウクライナ東部ではロシア人の人口比率が高く、工業生産の点でロシアと分かちがたく結びついている。
わたくしは、1991年12月、つまりソ連邦解体の直前にハリコフを訪問し、当時の市執行委員会副議長(日本流にいえば、市助役)や名門企業「ハリコフ第一トラクター工場」の経営者たちと懇談したことがある。ハリコフ州一州だけの工業生産高がウクライナの全工業生産高の四分の一以上を占め、しかもその工業生産がロシアと密着しているのに、ウクライナ政府がロシアとの関係を全て断とうとしているのは、キエフの独裁主義である、という糾弾がかれらの口からきかれ、まことに印象的であった。


*Українськаウクライナ語⇒Ха́рків (МФА: [ˈxɑrkiu̯] ( прослухати); заст. укр. Харьків, лат. Zacharpolis) — місто на північному сході України на Слобожанщині, науковий центр України, адміністративний центр Харківської області. 
独立前後における民族主義の著しい高揚と様々な幻想がしだいに醒めた後でいつも問題になるのは、現実の経済活動であり、市民の日常生活である1994年7月におけるウクライナ大統領選挙では、ソ連邦解体とウクライナ独立で主役を果たしたL・クラフチェク前大統領が敗れ、元首相で、ロシアとの経済関係強化がウクライナの窮状を救う近道であると主張したL・クチマ氏が新大統領に就任した。クチマ大統領は東部工業地帯を支持基盤としており、それは今述べたような理由があってのことである。

*Українськаウクライナ語⇒Леоні́д Мака́рович Кравчу́к (нар. 10 січня 1934, село Великий Житин, Волинське воєводство, Польська Республіка, нині Рівненська область) — перший Президент України після здобуття нею незалежності (1991—1994), Голова Верховної Ради України (1990—1991).

*レオニード・ダニロヴィッチ・クチマ(Леонід Данилович Кучма, 1938年8月9日 - )は、ウクライナの政治家。第2代ウクライナ大統領。
カナダを中心に北米にはウクライナからの移民と子孫が多い、パリにもウクライナ人亡命者たちのコミュニティがある。そうした人たちのなかから、時代の変化を曲解して、現実から遊離した極論が出され、世間の注目を集める場合がある。極論であるが故に、人気を博する時もあり、危険でもある。わたくしはウクライナの東欧帰属論などは、そうした極端な主張であるとしか考えられない。

*ウクライナ系カナダ人Украї́нці Кана́ди, канадські українці(ウクライナけいカナダじんUkraino-Canadiens、en
:Ukrainian Canadians)は、ウクライナに起源をもつカナダの人々である。

*バルト三国Balti riigidBaltijas valstisバルトさんごく)Baltijos valstybėsは、バルト海の東岸、フィンランドの南に南北に並ぶ3つの国を指し、北から順に、エストニア、ラトビア、リトアニアである。3か国ともに、北大西洋条約機構(NATO)・欧州連合(EU)および経済協力開発機構(OECD)の加盟国、通貨もユーロでシェンゲン協定加盟国である。歴史的に、エストニアやラトビアは北ヨーロッパ諸国やドイツと、リトアニアはポーランドとのつながりが深く、また3か国はロシアとも深く関わってきた。バルト三国はロシアとロシアの飛地に接している。
6 バルト三国のヨーロッパ帰属
バルトの民族と歴史・宗教
独立したバルト三国がロシアの下からヨーロッパ圏に復帰したことは、明らかである。バルト三国とは、ロシアのレニングラード州(レニングラード州(レニングラードしゅう、Ленинградская область, Leningrad Oblast)は、ロシア連邦の州(オーブラスチ))およびベラルーシ(Беларускаяベラルーシ(白ロシア)語⇒Белару́сьベラルーシ(вымаўленне (i); афіцыйная назва — Рэспу́бліка Белару́сьベラルーシ共和国 (i); руск.: Респу́блика Белару́сь) — дзяржава ва Усходняй Еўропе, на захадзе Усходне-Еўрапейскай раўніны.)と東方で境を接し、バルト海に面して北から南への順でエストニア、ラトビアおよびリトアニアと連なる三つの共和国の総称である。いずれも小国であるが、旧ソ連のなかでもっとも重要な工業地帯の一つであり、生活水準の高い地域であった。

Eestiエストニア語⇒Eesti Vabariikエストニア共和国 on riik Põhja-Euroopas. Eesti piirneb põhjas üle Soome lahe Soomega, läänes üle Läänemere Rootsiga, lõunas Lätiga ning idas Venemaaga.
*Eestiエストニア語⇒Eestlasedエストニア人 (varasem omanimetus maarahvas) on läänemeresoome rahvus, Eesti põlisrahvas. Enamiku eestlaste emakeel on eesti keel.
*Eestiエストニア語⇒Eesti keelエストニア語 (varasem nimetus maakeel) on läänemeresoome lõunarühma kuuluv keel.

Latviešuラトビア語⇒Latvijas Republikaラトビア共和国 (lībiešu: Leţmō Vabāmō) ir valsts Ziemeļeiropā, Baltijas jūras austrumu krastā. Tā ir viena no trijām Baltijas valstīm un ir Eiropas Savienības dalībvalsts.
*Latviešuラトビア語⇒Latviešiラトビア人 (lībiešu: lețlizt) ir Eiropas valsts nācija un Latvijas pamatiedzīvotāji, kas pēc 2011. 
*Latviešuラトビア語⇒Latviešu valodaラトビア語 ir dzimtā valoda apmēram 1,7 miljoniem cilvēku, galvenokārt Latvijā, kur tā ir vienīgā valsts valoda.


Lietuviųリトアニア語⇒Lietuva (oficialiai vadinama – Lietuvos Respublikaリトアニア共和国 (LR)) – valstybė Šiaurės Europos dalyje, Baltijos jūros pietrytinėje pakrantėje.
*Lietuviųリトアニア語⇒Lietuviaiリトアニア人 – daugiausia Vidurio Europos istoriniame kultūriniame regione gyvenanti baltų tauta.
*Lietuviųリトアニア語⇒Lietuvių kalbaリトアニア語 – iš baltų prokalbės kilusi lietuvių tautos kalba, kuri Lietuvoje yra valstybinė, o Europos Sąjungoje – viena iš oficialiųjų kalbų.

バルト三国は、民族、言語、宗教、そして歴史が、ロシアやベラルーシと非常に近い接点をもちながら、基本的には著しく違う。エストニア人は、suomalaisetフィンランド人Soomlasedやmagyarokハンガリー人Ungarlasedと同じItämerensuomalaiset kansatフィン族Baltic Finnic peoplesに属し、お互いの言語が非常に近い。このことから、エストニア人とフィンランド人はそれぞれが自国語で話しても、相互に理解しあえる。ラトビア人とリトアニア人はbaltiバルト族baltaiに属している。
*Русскийロシア語⇒Прибалти́йско-фи́нские народыフィン族— народы, говорящие на прибалтийско-финских языках[1] и саамских языках.
*バルト人(バルトじん、ラトビア語: balti、リトアニア語: baltai、ラトガレ語: bolti)は、バルト海東南岸付近(現在のリトアニアと、ラトビア)に居住するバルト語派を話す民族をいう。
バルト三国の言葉はラテン文字で表記され、もちろんソ連時代においても、道路標識や店の看板、ポスター等々はラテン文字が大勢を占めていた。ロシアのキリル文字の世界からバルト三国に入ると、自分がソ連にいるという実感がいつも薄れた。
三国とも西方教会からキリスト教を受容し、今日、エストニアとラトビアではプロテスタントが支配的だが、これは数百年にわたってポーランドと歴史を共存したことによっている。いずれにしても、東方正教の世界とは異なっている。三国の首都タリン、リガおよびビリニュスは、それぞれがユニークな特徴をもつ美しい都会で、古い街区のたたずまいは北ドイツや北欧やポーランドとよく似ている。つまり、バルト三国の都市景観は、ロシアとは著しく異なり、よく知られたヨーロッパの街の風景に近い、といえるのである。

*Eestiエストニア語⇒Tallinn on Eesti pealinn ja Harju maakonna halduskeskus, mis paikneb Põhja-Eesti rannikul Tallinna lahe ääres.

*Latviešuラトビア語⇒Ryga (latv. Rīga, lyv. Rīgõ) – Latvijos sostinė ir didžiausias miestas, išsidėstęs prie Rygos įlankos ties Dauguvos žiotimis.

*Lietuviųリトアニア語⇒Vilnius – Lietuvos Respublikos sostinė, Vilniaus apskrities, Vilniaus rajono savivaldybės ir Vilniaus miesto savivaldybės centras.
そして三つの首都がいずれも、西方・北方のヨーロッパ人の手で建設された歴史を考えれば、ロシアの都市との違いは、けだし当然のことであろう。タリン(古名レバルReval)は13世紀の初めにデンマーク人(デンマーク人(デンマークじん、デンマーク語: danskere)はデンマークの国民で、ほとんどはデンマーク語を話し、自らをデンマーク民族に属すと考えている)によって、リガは同じ頃、リボニア騎士団Livländischer Ordenのドイツ人によって、ビリニュスは14世紀前半にリトアニアの大公によって創建された。また、タリンとリガは、14世紀にハンザ同盟都市(ハンザ同盟Hansa Liit(ハンザどうめい、独: HanseHanzas savienībaは、中世後期の北ドイツの都市による都市同盟である。バルト海沿岸地域の貿易を掌握し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配したとして栄えた。つまり、ヨーロッパとロシアとを結ぶ海上交易の中継地として発展したのである。

リトアニアは13~14世紀にヨーロッパの大国の一つとして栄え、1386年にポーランドとの連合王国を形成した後、15世紀を通じた全盛期における版図はバルト海から黒海沿岸に達し、広大なものであった。一方、ラトビアとエストニアはドイツ騎士団(ドイツ騎士団(ドイツきしだん、独:Deutscher Orden)とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである)の支配を受け、デンマークデンマーク(デンマーク語:Danmark)は、北ヨーロッパに位置し、バルト海と北海に挟まれたユトランド半島およびその周辺の多くの島々からなる立憲君主制国家)やスウェーデンスウェーデン王国(スウェーデンおうこく、スウェーデン語: Sv-Konungariket Sverige)、通称スウェーデンは、北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島に位置する立憲君主制国家)による侵攻にしばしば苦しめられ、中世、近世を通じてラトビア人とエストニア人は国家を形成することができなかった。
やがてロシアがピョートル大帝Пётр I Алексеевичのもとで18世紀初めに著しく伸長すると、ラトビアとエストニアはロシアの支配下に入った。タリン市の街外れには、ピョートル大帝やその妻エカチェリーナのために造った別荘が今でも残っている。リトアニアも、ポーランドと国運を共にし、18世紀末にはロシアの支配下に入った。
こうして、バルト三国の人々は、100年をはるかに越えてロシアの支配下におかれていたが、この年月の間に民族意識は高まった。バルト三国は、1917年のロシア革命の混乱に乗じてそれぞれが独立を宣言、1920年にはソビエト・ロシアも三国の独立を承認した。

その後バルト三国は、両大戦間の短い約20年間を独立国として過ごした。しかし、第二次大戦の危機が迫ると、1939年のДоговор о ненападении между Германией и Советским Союзом独ソ不可侵条約Deutsch-Russischer Nichtangriffspaktの秘密議定書(пакт Мо́лотова-Ри́ббентропаモロトフ・リッベントロップ協定Molotow-Ribbentrop-Pakt)によってバルト分割が勝手に決定され、1940年夏、三国はソ連に併合されてしまった。
*This Baltic states were under Soviet rule from the end of World War II in 1945, from Sovietization onwards until independence was regained in 1991.Прибалтика в составе СССР

やがてゴルバチョフ政権が誕生し(1985年3月)、ペレストロイカとグラスノスチが推進されると、バルト三国のこのようなソ連への併合の経緯も秘密のヴェールをはがされ、三国では独立の機運が盛り上がった。そしてモスクワとの間で生じた緊張を乗り越え、三国は1990年春に相次いで独立を宣言、1991年9月にはソ連国家評議会が三国の独立を正式に承認したのである。

独立したバルト諸国と今後の困難
バルト三国が辿った以上のような歴史を見れば、三国がヨーロッパに帰属していることは疑念の余地がないし、三国が今、ヨーロッパ的伝統への回帰を求めていることは容易に首肯できるところである。
とはいえ、バルト三国はいずれも資源小国であり、石油と天然ガスはじめ原燃料の供給をロシアに大きく依存している。また、ヨーロッパとロシアを結ぶ貿易の中継地として繁栄してきた現実を見逃すことはできない。経済的視点に立てば、ロシアとの円滑な経済・貿易関係の構築は、各国にとっての必要条件にならざるをえない。
またバルト三国は三国とも、国内に大きなロシア人口を抱えており、それが国政上の重大かつ難しい問題として顕在化している。ロシア人人口はエストニアの全人口(約153万人)の約30%、ラトビアの全人口(約261万人)の約34%、リトアニアの全人口(379万人)の約9%に及んでいる。さらにリトアニアについては、現首都のビリニュスが両大戦間にはポーランド領であったという事情もあり、30万人を超えるポーランド人人口を抱えている。
しかし、民族国家として独立した以上当然のこととはいえるが、三国政府とも、期限を決めてそれぞれの言語を公用語として使用することを決定し、言語習得をロシア人やポーランド人をはじめとする外国人への国籍取得の条件ともしたのである。

旧ソ連時代の公用語は、もちろんロシア語であった。エストニア人もラトビア人もリトアニア人も、長い歴史的経緯からバイリンガルが普通で、日常の生活でもロシア語が話されていた。ポーランド人にとっても、同じスラブ系の言語であるロシア語の習得は容易であった。それがエストニア語やラトビア語やリトアニア語の習得となると、スラブ諸国とは著しく異なる言語であり、一定の年齢以上の人々にとっては至難の業である。
ロシア人居住者にとっては厳しい状況となった。ロシア本国政府は、ロシア人の利益を守るという大義名分からさまざまな圧力をかけているが、三国政府も激しい民族主義を背景にして、なかなか妥協しない。このようにさまざまな問題を抱え、独立後の三国の道は平坦ではないが、いずれにしても、バルト三国の独立は、東欧の地域的ひろがりが東方に拡大したことを意味しているともいえよう。


*Românăルーマニア語⇒Basarabiaベッサラビア (în ucraineană Бессарабія, în rusă Бессарабия, în bulgară Бесарабия, în turcă Besarabya, în poloneză Besarabia, în germană Bessarabien, în franceză Bessarabie) este denumirea dată de Imperiul Rus în 1812 teritoriului voievodatului Moldovei dintre Prut și Nistru anexat prin Tratatul de la București din 1812, odată cu raiaua Hotinului și cu Basarabia istorică (în limba turcă Bugeac) cedate de Imperiul Otoman după semnarea tratatului de pace de la București din anul 1812 în urma încheierii războiului ruso-turc (1806-1812). Faptul că a fost cedat Rusiei și o parte din teritoriul voievodatului, în ciuda tratatului româno-otoman care garanta integritatea Moldovei, se datorează dibăciei negociatorului francez Gaspard Louis de Langeron care slujea interesele țarului.
7 ルーマニアとベッサラビア
ルーマニアとベッサラビアの歴史
現在のモルドバの地は、中世以来ベッサラビア(ルーマニア語ではべサラビア)と呼ばれ、ヨーロッパの豊かな穀倉の一つであった。その地理上の重要性と穀倉であることから、この地は古来、諸民族の移動・通商地となり、中世以降は、ValahiaワラキアWallachiaおよびモルドバ(のちのルーマニア)、オスマン=トルコ、ロシア、ルーマニア、そしてソ連と支配者が交代し、19世紀以降はロシアとルーマニアの係争の地となってきた。
この地域の大部分は19世紀初頭にトルコからロシアに割譲され、ベッサラビア州と名づけられた。ロシアの詩聖プーシキンПушкинは流刑に処せられて1820年9月から23年7月までの約3年間をキシニョフ(現在モルドバの首都)で過したが、辺境のあまりの淋しさに耐えられず、皇帝に訴えてオデッサへの移住を懇請し、ようやく許された、という逸話がある。
ルーマニアは、第一次大戦とロシア革命の混乱に乗じて、ベッサラビアの大部分を併合、両大戦間の約20年間にわたってこの地を領有した。しかし、ソ連は1940年6月、前述したモロトフ・リッベントロップ協定をもとにして、ルーマニアにベッサラビアとブゴビナの返還を迫り、両地方を併合し、モルダビア共和国を樹立した。

*ブコヴィナ(ウクライナ語:Буковина、ルーマニア語:Bucovina、 ドイツ語:Bugowina,Buchenland)はウクライナ、ルーマニアの歴史的地名である。

Русскийロシア語⇒Молда́вская Сове́тская Социалисти́ческая Респу́бликаモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国 (Молдавская ССР, МССР, молд. Република Советикэ Сочиалистэ Молдовеняскэ, совр. Republica Sovietică Socialistă Moldovenească) — одна из республик Союза Советских Социалистических Республик (2 августа 1940 — 27 августа 1991).

Românăルーマニア語⇒Republica Moldovaモルドバ共和国 este un stat situat în sud-estul Europei. Se învecinează cu România la vest și cu Ucraina la nord, est și sud.
*モルドバ人(ルーマニア語: Moldoveni、モルダヴィア語: молдовень)またはモルドヴァ人は、モルダヴィア地方ならびベッサラビア地方に住むラテン系の民族集団であり、ルーマニア系の一部をなす。現在のルーマニアやモルドバ共和国、沿ドニエストル共和国、ウクライナ領にまたがるベッサラビア地方に伝統的に居住してきた。
*モルドバ語、モルドヴァ語(モルドバご、ラテン文字表記: Limba moldovenească/キリル文字表記:Лимба молдовеняскэ)は、東部ロマンス語で、モルドバ共和国の公用語とされていた言語である。

キシナウ(ルーマニア語:Chișinău[kiʃiˈnəw]、ロシア語:Кишинёв)は、モルドバの首都で同国最大の都市である。

*トランスニストリア(Transnistria)、沿ドニエストル(えんドニエストル、Transdniestria、Pridnestrovie)、公式には沿ドニエストル・モルドバ共和国(えんドニエストル・モルドバきょうわこく、ロシア語:Приднестровская Молдавская Республика; モルダヴィア語:Република Молдовеняскэ Нистрянэ、ウクライナ語:Придністровська Молдавська Республіка)は、モルドバ東部を流れるドニエストル川とウクライナ国境との間の細長い土地にあり、国際的にはモルドバの一部と広く認められている分離国家である。首都はティラスポリ。
「ドニエストル共和国」と民族紛争
ソ連解体後、モルダビア共和国はモルドバとして独立し、全人口の60%以上を占めるモルドバ人が実際にはルーマニア人と同じであることから、ルーマニアへの合併という歴史的・伝統的問題が急浮上した。
だが、ベッサラビアは、その歴史的経緯から、狭い地域にさまざまな民族が居住し、民族学の博物館とまで呼ばれている。ロシア人も多く、かれらにとってルーマニアへの帰属は問題外である。
とりわけДнестр/Дністеpドニエストル川Nistru/Нистру東岸に住むロシア系住民は、モルドバの一部になることにも反対して、1990年9月、ドニエストル共和国の樹立を宣言、モルドバと内戦状態になった。ロシア政府もドニエストル側に立って干渉軍を送り、戦火が続いた。

1992年7月、モスクワで三当事者による和平協定が調印された後、相対的に平穏な日々が過ぎ、ルーマニア政府も慎重な態度を守っている。とはいえ、モルドバ人とロシア人の対立が解消したわけではなく、いつでも燃え上がりうる紛争の火桶が残されているのである。

*ティラスポリ(ティラスポール) (ルーマニア語(モルドバ語)Tiraspol/Тираспол、ロシア語・ウクライナ語:
Тирáсполь)は、モルドバ共和国の東部に位置する都市。モルドバ共和国の首都であるキシナウに次ぐ第三の都市である。

8 よみがえる、汎スラブ主義
聞こえはじめた汎スラブ主義の声
旧ユーゴスラビアでは、複雑きわまりない民族問題・宗教問題が一挙に顕在化し、相次いで民族紛争が起こり、長期化している。
とりわけボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の三つどもえの激しい抗争が続き、セルビア人対ムスリム人の武力抗争は多量の流血をともなっていつ果てるとも知れない。
EUやNATOをはじめとする欧米の国際機関や大国による和平調停はことごとく失敗に終り、国連の辛抱強い工作もなかなか成果があがらないでいる。
そうした厳しい状況の下で、セルビア人勢力が国連保護軍のなかのロシア軍兵士を大歓迎し、調停者としてのロシア政府に対する期待が高まった時期があり、汎スラブ主義の再生がうんうんされたことがあった。現実には、ロシアの国際的影響力は今や著しく低下し、旧ソ連時代の勢いはない。また、現在の旧ユーゴスラビア紛争に関して、汎スラブ主義が何か現実的な意味をもつとも考えられない。だが、それにもかかわらず、一部の人々の間で汎スラブ主義の記憶が甦ったのもたしかなのである。

*Русскийロシア語⇒Панслави́зм汎スラブ主義— идеология, сформировавшаяся в странах, населённых славянскими народами, в основе которой лежат идеи о необходимости славянского национального политического объединения на основе этнической, культурной и языковой общности. Сформировалась в среде славянских народов в конце XVIII — первой половине XIX веков.

汎スラブ主義の歴史
汎スラブ主義は、19世紀の初め、西スラブや南スラブの諸民族の民族意識のめざめとともに生れた。それは、全てのスラブ民族の連帯と統一をめざした思想と運動であった。当時、チェコ人やスロバキア人はハプスブルク帝国内でゲルマン化とマジャール化に圧迫され、南スラブ諸民族はトルコの統治下におかれていた。汎スラブ主義の思想家たちは、スラブ民族の連帯を強調し、統治国内におけるスラブ民族の地位向上をはかったのである。
19世紀後半になると、ロシア・トルコ戦争にからんで、ロシアにおいても戦争を正当化し、そのために南スラブ諸民族を糾合することを企図して、過激な汎スラブ主義が生れた。ロシアからひろがった汎スラブ主義は、ビスマルクBismarckによるドイツ統一Deutsche Einigungを背景に強化された汎ゲルマン主義とドイツの中近東進出に対抗する意味を合わせもち、南スラブ諸民族もロシアに共鳴した。
*汎ゲルマン主義(はんゲルマンしゅぎ、独: Pangermanismus、英: Pan-Germanism)は、19世紀末よりドイツ人の間に生じた民族的な優越と膨脹を主張するイデオロギーで、ゲルマン民族の団結と世界の制覇達成を主張する思想・運動である。

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