日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆ Jugoslavija / Југославија★Yugoslavia Modern History/L'histoire moderne de la Yougoslavie・Nobuhiro Shiba/ユーゴスラヴィア現代史・柴宜弘⑦


*フラニョ・トゥジマン(Franjo Tuđman, 1922年5月14日 - 1999年12月10日)はクロアチアの政治家。初代クロアチア共和国大統領。
54年に反社会主義的・自由主義的な言動をとったとして副首相を解任され、共産党から追放されたジラス(数度逮捕され、その後『新しい階級The New Class: An Analysis of the Communist System』などの言論活動で反体制作家として知られ、65年にベオグラードで死去)の息子で、アメリカで研究生活を送っている社会学者のA・ジラスAleksa Đilasは、最近の実証的な研究に即して、殺害されたセルビア人犠牲者数は33万4000人と推定する。実に「クロアチア独立国」内セルビア人の6人に1人が殺されたことになる。

*ミロヴァン・ジラス (セルビア語/モンテネグロ語: Милован Ђилас/Milovan Đilas; 1911年6月4日 – 1995年4月20日)は、ユーゴスラビア共産党政治家、ユーゴスラビア副大統領、理論家、作家。

これに対し、そもそもは枢軸軍に対する抵抗運動の組織として活動を始めたが、セルビア主義的色彩が濃厚なチェトニクは、ウスタシャに対抗して、クロアチア人やムスリム攻撃を繰り返した。ユーゴ全土で殺害されたクロアチア人は20万7000人、ムスリムは8万6000人と推定されている。
МихаиловићミハイロヴィッチMihailovićЧетникチェトニックČetnik:ウスタシャの支持者と見られていたクロアチア人やボシュニャク人など非セルビア人に対する虐殺にも手を染めたslaughtered non- Serbians such as Croats and Bosniaks, who were seen as supporters of Ustaše(Wikipedia参照).

2 パルチザン戦争の展開
チェトニクとパルチザン
このように、第二次世界大戦期のユーゴは民族相互の殺し合いが展開された。こうした忌まわしい記憶は、民族の平等を掲げるパルチザンが抵抗運動に勝利を収め、戦後、社会主義体制のもとで民族の平等に基づく連邦制が敷かれることによりいったん後退していくことになる。
それについては後述することにして、ユーゴの抵抗運動はまず、ユーゴ王国軍の降伏を承認しないセルビア人将兵の集団チェトニクによる組織化がはかられた。ミハイロヴィチの率いるチェトニクは、41年5月頃からセルビア西部のЧачакチャチャクČačakВаљевоヴァリェヴォValjevo間のРавна гораラヴナ・ゴーラRavna Gora山中で抵抗運動を組織化し始めた。等しく蓄えたひげを特徴とするセルビア人中心の組織であり、戦前からの「大セルビア」的傾向がはっきしていた上に、連合国軍の救援を期待し、組織の温存・拡大を第一義とする待機主義を掲げて、ドイツ軍と戦うのを極力避けた。こうした姿勢で臨めば確かに、人的・物的な犠牲は最小限に抑えられる。しかし、占領軍に対する強い憤りからすぐさま闘いを始めようとする人々のエネルギーを吸収することはできなかった。結局、チェトニクはドイツ軍と戦うどころか、下部組織からドイツ軍と協力関係を結ぶようになり、内部から崩壊してしまうのである。

一方、約1万2000人の党員からなるユーゴ共産党は、枢軸軍の侵攻に対して抵抗の姿勢は示したものの、Споразум о ненападању између Немачке и Савеза Совјетских Социјалистичких Република独ソ不可侵条約Pakt o nenapadanju između Njemačke i Saveza Sovjetskih socijalističkih Republikaの存在に影響され、具体的な反ファシズム抵抗運動を展開できないでいた。しかし、41年6月22日に「Операција БарбаросаバルバロッサOperacija Barbarossa」と称されたドイツ軍の対ソ攻撃が開始されると、情勢は大きく変化する。同日、ユーゴ共産党中央委員会の政治局会議がベオグラードで開かれ、占領軍に対する武装蜂起こそ最良の行動であるとの決議が出される否や、すぐさま武装蜂起が全土で呼びかけられた。6月末には、チトー(1892-1980年、本名ヨシプ・ブローズ)を最高司令官とするユーゴスラヴィア人民解放パルチザン部隊(のちに、ユーゴスラヴィア人民解放軍およびパルチザン部隊と改称)の最高司令部が設置された。こうして、7月から8月にかけてセルビアはじめ各地で一斉蜂起が行われ、パルチザン部隊が結成された。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Josip Broz Tito/Јосип Броз Титоヨシップ・ブロズ・チトー(クロアチアHrvatska出身(父はクロアチア人Hrvati・母はスロヴェニア人SlovenciKumrovec, 7. maja 1892. – Ljubljana, 4. maja 1980.), jugoslavenski revolucionar, vojskovođa i državnik. Smatra se jednom od najvažnijih ličnosti 20. vijeka i uopće historije na prostorima bivše Jugoslavije.
9月に入ると、チトーをはじめとする共産党政治局と最高司令部は、活動が困難になりつつあったベオグラードを去り、解放地区となっていたセルビア西部へ移動した。その後、かれらは44年10月まで、ベオグラードへ戻ることはできなかった。セルビア西部の町がつぎつぎと解放されていくなかで、9月26日にはストリツェという村で、マケドニア地方を除く全土のパルチザン部隊の指揮官会議が開催された。この会議でパルチザン部隊の整備がなされ、中央の最高司令部のもとに、自主的な指令の出せる総司令部を各地に創設することなどが決定された。軍事面での「分権化」は効果を現し、セルビア西部全域が解放されていく。
このように、チトーを指導者とするパルチザンは、政党が民族別や地域別に組織されていた戦前のユーゴにおいて、非合法ながら唯一全国規模の広がりを見せていた共産党が中心となって、組織化されていった。赤い星の記章に象徴されるパルチザンは厳格な規律に従い、当初から軍事組織をつくり、武器の不足を敵の部隊から奪うことによって補い、果敢に戦闘を続けた。人口の圧倒的多数を占める、貧しく零細な農民たちに対して戦後の土地改革を語り、イデオロギーや民族や宗教や’言語の違いを越えて、ユーゴの解放のために敵と戦う必要性を訴えかけたのである。「クロアチア独立国」においても、パルチザンの組織化は進められた。ドイツの傀儡政権を担うウスタシャは決して広範な政治的支持を得ていたわけではなく、クロアチア農民党が毅然として農民のあいだに深く入りこんでいた。しかし、クロアチア農民党は先にふれたように、待機主義の方針を採った結果、パルチザンの組織だけがウスタシャの報復を恐れずに抵抗運動を展開することになる。同胞同士の激烈な戦いのなかで、しだいにパルチザンが民族や宗教を越えて、農民を中心とした支持を拡大していく。


新たな権力機関の創設
この対独戦争は、解放戦争としての意味合いからパルチザン戦争と呼ばれるものだが、そこには内戦の色彩も強かった一方で、社会変革を求める闘いの側面もあった。41年7月から8月にかけて、ユーゴ共産党の指示により全土で枢軸軍に対する一斉蜂起が展開されるなかで、解放された地区で自発性の強い権力機関がさまざまな形で作られていった。
こうした機関、すなわち人民解放委員会が初めて形成されたのは、41年7月21日、モンテネグロの一斉蜂起のさなか、ベラン・セロ郡の住民集会においてであった。この人民解放委員会はユーゴ王国時代の行政機関すべてを否定して、郡の最高行政機関として新たな役割を担うことになる。また、この人民解放委員会は、郡より下部の行政組織であるОпштинаオプシュティナOpština(コミューン)や村々にも人民解放委員会を作ることを決議している。当時の地方組織の各レベルー村、オプシュティナ、郡(県、地方)、州ーによって一様ではないが、人民委員会がそれに形成されていった。
*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Беран Село/Beran Selo je prigradsko naselje u opštini Berane u Crnoj Gori.
例えば、セルビアでは9月5日に西部のクルパニ県でユーゴ王国時代の地方行政機関が倒され、人民解放委員会の創設が宣言された。スロヴェニアでは、反ファシズムを掲げた広範な人々からなる、スロヴェニア人民戦線の最高会議が9月16日に開催され、この人民戦線がスロヴェニア人民解放委員会に再編成された。これを受けて、スロヴェニアでは人民戦線の各レベルの機関が新たな権力機関の役割を果たすことになる。このように形態はさまざまだが、解放地区では王国時代の行政機関が廃止され、新しい権力機関が形成されていった。
*Српски / srpskiセルビア語⇒Крупањ/Krupanj је градско насеље у Србији, у општини Крупањ, у Мачванском округу.

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Јединствени народноослободилачки фронт Југославије/Jedinstveni narodnooslobodilački front Jugoslavijeユーゴスラヴィア人民解放戦線 (JNOF Jugoslavije, JNOF) bio je politička organizacija, koja je tokom Drugog svetskog rata u Jugoslaviji okupljala antifašistički raspoložene široke slojeve stanovništva. Po završetku rata 1945.

*Slovenščinaスロヴェニア語⇒Osvobodilna fronta slovenskegaスロヴェニア人民解放戦線 naroda (znana tudi le kot Osvobodilna fronta; kratica: OF SN oz. OF) je bila slovenska politična organizacija, ki je nastala kot posledica večanja aktivnosti Komunistične partije Slovenije (KPS) v času po okupaciji Slovenskega ozemlja v drugi svetovni vojni, najprej pod imenom Protiimperialistična fronta, po propadu pakta med Nemčijo in Sovjetsko zvezo oz.
チトーが最高司令部を設置していたセルビア西部の町УжицеウジツェUžiceでは、9月末にセルビア人民解放委員会が創設され、学校が再開されて党機関紙『БорбаボルバBorba(戦闘)』が発刊された。この解放地区は「ウジツェ共和国」と称され、パルチザン運動の象徴的な地域となった。「第二のユーゴ」時代には、こうした人民解放委員会が自主管理社会主義の基礎であると主張された。つまり、各地に点在していた解放区にあって、それぞれの人民解放委員会は統一的に活動することができず、自らの判断によって決定し、行動しなければならなかった。ここから、自主管理の思想が芽生えたとされたのである。
*ウジツェ(セルビア語: Užice/Ужице [uʒitsɛ])は、セルビア西部ズラティボル郡の都市及び基礎自治体で、ズラティボル郡の郡都である。

*Српски / srpskiセルビア語⇒Ужичка републикаウジツェ共和国Užička Republika је назив за ослобођену територију западне Србије и Шумадије, која се од 24. септембра до 29. новембра 1941.
*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Борба (новине)Borba su bile novine koje su, s dužim i kraćim prekidima, izlazile od 1922. do 2009. godine na području Jugoslavije, najpoznatije kao službeno glasilo Komunističke partije Jugoslavije, od 1945. do 1990. vladajuće stranke.

民族・地域を越える赤い星
41年秋の時点で、占領軍に対する抵抗運動を展開していたパルチザンとチェトニクは、共同行動をとろうと試みている。41年9月、セルビア西部に移動したパルチザンは、同地方のラヴナ・ゴーラを拠点として抵抗運動を組織化していたチェトニクと、接触をもった。

チトーはストルガニク村で、ミハイロヴィチと初めて統一行動について話し合いを持ったが、待機主義の方針を採るミハイロヴィチと一致点を見いだすことができなかった。10月末に、両者の会談がプライチ村でふたたび行われ、今度は統一行動に関して一定の合意に達した。パルチザンがウジツェを解放し、ドイツ軍がここを撤退する際、日に400丁の銃と大量の武器を生産できる兵器工場を残していったので、パルチザン側からチェトニクに1500丁の銃が提供された。また、両者のあいだで解放区を自由に往来できることも取り決められた。しかし、最高司令部を統一して、枢軸軍に対する全面的な戦いを起こそうとするパルチザン側の主張は、受け入れられなかった。
*Српски / srpskiセルビア語⇒Струганик/Struganik је насеље у Србији, у општини Мионица, у Колубарском округу.

当時、イギリスの使節団がチェトニクのもとに到着し、パルチザンとの協力を差し控える旨の意向を伝えたこともあり、チェトニク側はパルチザンとの対立を深めることになる。他方ドイツは、親英的で連合国側にあったチェトニクを自らの陣営に引き入れようとして、10月末からチェトニクに武器援助の用意のあることを再三伝えている。実際、チェトニクはイタリア軍の援助のもとで、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ダルマチアにチェトニク部隊を作り上げていった。こうして、チェトニクはじょじょにドイツ軍とも行動をともにして、パルチザン部隊と戦うことになる。
41年10月末から11月にかけて、一時撤退していたドイツ軍が大規模なパルチザン攻撃に着手した。この時の攻撃は第一次攻勢と呼ばれるが、以後、44年5月に至るまで同様の大規模な攻撃が七度にわたって展開された。結局、ウジツェは激しい空襲と機甲部隊の攻撃を受けたため、パルチザンはここを離れて、セルビアとボスニアの境界にあたる山岳地帯に撤退せざるを得なかった。
42年に入っても、容赦のないドイツ軍の攻撃が続けられた。ボスニア東部に退去したパルチザンは、フォチャに最高司令部を移した。さらに、ドイツ軍の攻撃が加えられ、パルチザンはボスニアの山岳地を逃げ回る状況下にあって、繰り返しソ連に武器と医療品の援助を求めた。これに対して、連合軍の一員であったソ連は、直接国境を接していないユーゴの問題に、英米との歩調を崩してまで介入する意志はなく、相変わらずチェトニク支持を掲げていた。そのため、パルチザンの要求に対しては、「技術的困難」を理由として拒否したのである。このことが、戦後のソ連とユーゴの関係においてしこりとなったことは否めないであろう。
*フォチャ(セルビア語:Фоча、ボスニア語:Foča、クロアチア語:Foča)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体。

パルチザンは退却を重ねつつも各地で抵抗の精神を植えつけ、その数をしだいに増していった。態勢を整えると、パルチザンはボスニア西部へと歩を進めた。そして42年11月、ビハチ(92年に始まるボスニア内戦の過程で、日本人女性リビッチ郁子さんが住んでいた地方としてもマスコミを賑わせたところ)を手中に収めて、最高司令部を設置した。
*ビハチ(ボスニア語:Bihać、クロアチア語:Bihać、セルビア語:Бихаћ)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の北西部に位置している。
Kodansha (objavljena 1. januara 1996.)Pobjeći od rata Ikuko Nakayashiki [Autor]/Побећи од рата Икуко Накаиасхики [Аутор]
instrukcije: Ikuko Nakayashiki (Rivić) bježi iz "Bosne pakla". Nediskriminatorna ubistva, glad i silovanja koja se nazivaju "etničko čišćenje" koja se ponavljaju svaki dan. Bila je jedna Japanka koja je očajnički preživjela. Ono što je vidjela u sprženoj zemlji, tjeranje iz kuće, gubitak muža u građanskom ratu i troje male djece. Impresivan dokument.
упутства: Икуко Накајашики (Ривич) бежи из „Босне пакла“. Недискриминаторна убиства, глад и силовања која се називају "етничко чишћење" која се понављају сваки дан. Била је једна Јапанка која је очајнички преживела. Оно што је видела у спрженој земљи, како су је изгонили из куће, изгубила мужа у грађанском рату и имала троје мале деце. Импресиван документ.

さらに、パルチザン側はボスニアやモンテネグロの山岳地帯を転々として、先にふれた映画『ネレトヴァの戦い』や『風雪の太陽』に描かれたような苦しい抵抗運動を展開しながら(地図8参照)、多くの農民の支持を取りつけた。それだけでなく、態度決定を保留していた知識人の多くも、1943年までにはパルチザン支持を表明する。
解放区が初めは点の形で築かれ、じょじょに線につながる。それぞれの解放区では住民集会で人民解放委員会がつくられ、独自の判断でふるい行政機構が否定されていった。赤い星をつけた人々を中心とする人民解放委員会のもとで、旧来の民族や宗教を基盤とした偏狭な社会関係が大きく変質した。
この時点で、社会変革がなされたことは確かだが、現時点から考えてみると、こうした変革を支える「パルチザン精神」が戦後の社会主義社会でも国民すべてに共有され得ず、ユーゴを取りまく国際環境が緩むにしたがって風化している。それをくい止める方策を打ちだせなかったことは大きな問題であった。このことは、のちに詳しく見ていきたい。

2 「第二のユーゴスラヴィア」の基礎
「多民族性」の承認
42年11月、チトーはビハチを手中に収めた段階で、各地の人民解放委員会を結集した最高権力機関を創設する基礎固めのため、全土の代表をビハチに招集した。こうして、第一回ユーゴ人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)が開催された。この時期、ソ連は英米への気遣いから、ユーゴに新たな最高権力機関を作る必要のないこと、国王と亡命政権に公然たる攻撃を加えないことをチトーに求めていたので、第一回AVNOJではあらゆる手段を尽くして枢軸軍と戦う意志を内外に知らせることが第一義とされ、社会変革についてはふれられなかった。

しかし、AVNOJの闘争宣言は連合国側の強い関心を引いた。この結果、イギリスはチェトニクを支持していた自らの姿勢の再検討を迫られ、43年5月になるとようやくパルチザンのもとに軍事使節団を派遣することになる。パルチザン最高司令部のチトーらと行動をともにした連絡将校の報告に基づき、結局、イギリスはパルチザン支持を表明した。
パルチザンに対する国際的な評価が好転することに加えて、9月にはイタリアが降伏したため、パルチザンにとって戦況はより有利になったが、山岳地帯を逃げまわる状態はまだ続いていた。パルチザンはドイツによる集中的な攻撃をその都度かわし、抵抗運動をほぼ独力で闘い抜く。連合国側がパルチザン支持を正式に決定することになった、英米ソ首脳によるテヘラン会談と時を同じくして、43年11月に第二回AVNOJが開かれた。ここでの決議が戦後「第二のユーゴ」の基礎を築いたのである。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Техеранска конференција/Teheranska konferencija je odrzana u Teheranu od 29. studenog do 1. prosinca 1943.godine i na njoj su se sastali Churchill, Staljin i Roosevelt tj. "velika trojica".
いくつもの滝に囲まれた、ボスニア中部の美しい町ヤノツェで開かれたこの会議の「宣言」において、AVNOJがユーゴ最高の立法・執行機関であること、新しい権力機関としての性格を持つユーゴ解放全国委員会と呼ばれる行政府を形成すること、ロンドン亡命政府のあらゆる権利を否定することが規定された。この他に採択された諸決議では、国王ペータル二世の帰国禁止、新国家建設にあたり連邦制を採用し、民族平等の原則を貫くことが表明される。
パルチザン勢力の中心であったユーゴ共産党は1919年の創設当初、ユーゴは単一民族国家であり国内に民族問題は存在しないとの立場を採っていた。しかし、戦間期を経過してその民族政策を変えるにいたっている。40年にはユーゴの「多民族性」を認め、少数民族を含むすべての民族の平等を実現することが重要な課題の一つだとして、マケドニア人とモンテネグロ人の民族自決権、およびボスニア・ヘルツェゴヴィナの地域としての一体性を始めて承認した。
この具体化が第二回AVNOJの「連邦制の原則に基づくユーゴの建設に関する決議」である。ユーゴ全土の代表からなる立法機関が採択したこの決議により、国内の「セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、モンテネグロ人の完全な同棲、すなわちセルビア、クロアチア、スロヴェニア、マケドニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの諸民族の完全な同棲」が正式に認められた。

国際的承認
AVNOJにとって、連邦制の原則など国内の政治的な基盤を整えることは重要なことであったが、もうひとつの緊急課題は新生ユーゴの国際的な承認を得ることであった。ロンドンの亡命政府はこの第二回AVNOJの決議によって国内の基盤をなくし、その地位を急速に失ってしまった。
43年のテヘラン会談において、連合国はパルチザンに対する正式な援助を決定していた。しかし、イギリスのチャーチル首相はユーゴの戦後構想として、亡命政権との連合政権案を、チトーを議長とするユーゴ解放全国委員会に提示する。全国委員会はこの妥協案に強く反発したが、米ソとも賛成の意を表明していたこともあり、一時的な妥協をした。44年6月、全国委員会議長チトーと、戦前のクロアチア知事を務めた経歴を持つ亡命政府の首相シュバシッチとのあいだに協定が結ばれ、チャーチルの構想が一歩現実に近づいたかに見えた。

*Hrvatskiクロアチア語⇒Ivan Šubašić (Vukova Gorica, 7. svibnja 1892. – Zagreb, 22. ožujka 1955.), bio je hrvatski odvjetnik i političar, ban Banovine Hrvatske. Narodni zastupnik kotara Delnice, jedini ban Banovine Hrvatske od 1939. godine. Predsjednik izbjegličke vlade Kraljevine Jugoslavije u Londonu postao je 1944.

国際的承認という難題をかかえつつパルチザンはさらにドイツ軍の激しい攻撃を受けて、43年末に最高司令部をヤノツェからボスニア西部のドルヴァールに移動し、44年6月にはアドリア海のヴィス島に移さざるを得なかった。しかし、10月に入るとソ連軍との合同作戦が展開され、同月20日にはベオグラードが解放され、ついで全土がつぎつぎに解放されていった。連立政権の問題は依然として続いていたが、全国委員会は国際的承認を最優先の問題だと考え、連合国側のSporazumi Tito-Šubašićチトー=シュバシッチ協定Tito–Šubašić Agreementsの実施勧告に従った。こうして45年3月、チトーを首班とし、亡命政府の代表3人を含むPrivremena vlada Demokratske Federativne Jugoslavije民主連邦ユーゴスラヴィア臨時政府Provisional Government of the Democratic Federal Yugoslaviaが形成され、国際的承認を受けることができた。
*Bosanskiボスニア語⇒DrvarДрвар je naseljeno mjesto i sjedište istoimene općine u zapadnoj Bosni i Hercegovini koja se nalazi između Bosanskog Grahova i Bosanskog Petrovca, blizu Glamoča.
*ヴィス島 (ヴィスとうВис (острво)、クロアチア語:Vis, ギリシャ語:Issa、イタリア語及びドイツ語:Lissa)は、アドリア海に浮かぶクロアチア領の島。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Споразуми Тито—Шубашић/Između Josipa Broza Tita i Ivana Šubašićaチトー=シュバシッチ協定 (kao predstavnika jugoslovenske narodnooslobodilačke i jugoslovenske kraljevske vlade) potpisana su dva sporazuma:①Viški sporazum od 17. lipnja 1944.②Beogradski sporazum od 2. studenog 1944.
*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Привремена влада ДФЈ/Privremena vlada Demokratske Federativne Jugoslavije民主連邦ユーゴスラヴィア臨時政府 bila je vlada Demokratske Federativne Jugoslavije obrazovana od pripadnika Nacionalnog komiteta oslobođenja Jugoslavije i pripadnika kraljevske vlade u egzilu. Vlada je sastavljena 7. marta 1945, a trajala je do 11. novembra 1945. Predsednik privremene vlade je bio Josip Broz Tito, vođa partizana i generalni sekretar KPJ.
その後、11月に政党別方式ではなく、単一候補者名簿方式の憲法制定議会選挙が実施され、共産党を中心とする人民戦線が圧倒的な支持を受ける結果となり、Federativna Narodna Republika Jugoslavijaユーゴスラヴィア連邦人民共和国Федеративна Народна Република Југославијаの樹立が宣言された。ユーゴに関するチャーチルの戦後構想は完全に打ち砕かれてしまったのである。
1946年1月には、1936年のスターリン憲法に範をとったユーゴスラヴィア連邦人民共和国Federal People's Republic of Yugoslavia憲法が発布され、社会主義体制下で連邦制の原則に基づく「第二のユーゴ」が発足することになる。

第四章 戦後国家の様々な実験 ー連邦制・自主管理・非同盟ー
社会主義的統合と分権化
戦後に形成された「第二のユーゴ」は「AVNOJのユーゴ」あるいは「チトーのユーゴ」といった呼び方もされる。たしかに戦後のユーゴはチトーなしには考えられない。
1937年末にユーゴ共産党の書記長に任命されたチトーは、知識人が多くを占める当時の共産党指導部にあって、数少ないたたき上げの労働者のひとりであった。理論や教義を先行させるのではなく、実生活や体験のなかから理論を作り上げていくタイプの人物である。チトーは41年6月から始るパルチザン戦争の最高司令官として、ボスニアやモンテネグロの山岳地を転々としながら困難な戦いを続けた。43年5月から8月にかけてのドイツ軍の第五次攻勢の際、ちょうどイギリスから初めてふたりの連絡将校が最高司令部に派遣されていた。この時、山中を移動中の最高司令部が爆撃をくらい、連絡将校のひとりスチュアート大尉は死亡し、もうひとりのディーキン大尉も危うく命を落とすところであった。チトーは大けがを負った。
こうした命がけの戦いの経験を重ねながら、クロアチア人とスロヴェニア人を両親とする個人的な生い立ちもあり、チトーはユーゴにおいて最大の問題であった民族問題に取り組む。しかし、チトーにとってあるいはユーゴにとって、唯一の社会主義国ソ連の経験がつねに念頭に置かれ、ソ連の理論や政策が模倣された。このような事態が激変する契機は、48年に生じるユーゴのИнформбироコミンフォルムInformbiroo追放である。パルチザン戦争時に勝るとも劣らないほど困難であった。この時期の試行錯誤のなかから、チトーはソ連を反面教師として様々な「実験」を行うことになる。

*コミンフォルム(ロシア語: Коминформ, ラテン文字転写: Kominform, 英語: Cominform)、正式名称は共産党・労働者党情報局Комунистички Информациони бироИнформационное бюро коммунистических и рабочих партийKomunistički informacioni biroは、コミンテルンの解散以来、初の公式な国際共産主義運動である。コミンフォルムにより第二次世界大戦後の世界秩序の変革が確認され、東側諸国が誕生した。

それは「独自の社会主義」を形作る自主管理であり、非同盟であり、70年代以降の連邦制であった。スロヴェニア出身の理論家カルデリをブレーンとして「実験」が積み重ねられた。43年11月の第二回AVNOJでユーゴ解放全国委員会議長に選出されたチトーが、80年に死去するまで、戦後「第二のユーゴ」の大統領(74年からは終身大統領)として多大な役割を果たしたことは事実である。

*Slovenščinaスロヴェニア語⇒Edvard Kardelj [édvard- kardélj-] (psevdonim Sperans, ilegalna in partizanska imena: Krištof, J. Bevc, Ivan Kovač, Ivan Ukmar, Tone Brodar), slovenski politik, pisatelj, partizan, učitelj in jugoslovanski narodni heroj, * 27. januar 1910, Ljubljana, † 10. februar 1979, Ljubljana.
「ソ連・東欧圏」からの追放というきわめて困難な状況のなかで、チトーは「団結と統一」をスローガンに掲げて自主管理社会主義による統合を試みた。「第二のユーゴ」を取り巻く国際環境が緊張しているあいだは、比較的問題は起きなかった。しかし、60年代に入り緊張がゆるみ、加えて自主管理社会主義が実質化され分権化が進むと、民族問題が再燃した。チトーは民族・共和国間の均衡をとることによって、問題の解決に当たっていた。
こうしたチトーの戦後政策、とくに自主管理社会主義の下の民族政策は、結局のところ「第二のユーゴ」の解体、そして民族対立による凄惨な内戦に帰結してしまった。このことを考えると、チトー個人の評価とともに、そのもとでの戦後政策をもう一度検証し直してみることが必要であろう。
*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Радничко самоуправљање自主管理社会主義Radničko samoupravljanje (engleski: Worker self-management ili francuski: Autogestion) je oblik radničkog odlučivanja u poduzećima, u kojem radnici sami izabiru i odlučuju (oko pitanja kao što su briga o korisnicima, opće metode proizvodnje, planiranje, podjela rada i sl.), umjesto vlasnika ili tradicionalnih nadzornika koji su radnicima naređivali što učiniti?, kako to učiniti? i gdje to učiniti?.

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Устав Југославије из 1974. године/Ustav Socijalističke Federativne Republike Jugoslavije iz 1974 kojeg su kolokvijalno zvali samo Ustav iz 1974 svečano je proglasio kao predsjednik Vijeća naroda Skupštine SFRJ Mika Špiljak 21. februara 1974. nakon predhodnog izglasavanja u tadašnjoj Saveznoj Skupštini.
チトー批判については、チトーの死後すぐにではなく、80年代後半になり、とりわけセルビアにおいて顕著にみられた。「74年憲法体制1974 Yugoslav Constitution」といったチトーの「遺産」も批判の対象とされるにいたり、ジャーナリズムでは「チトー第二の死」という表現が好んで用いられた。パルチザン戦争の英雄であり、カリスマ性を備えたチトーに対する、人々の敬愛の念や親しみの感情がすっかり消え失せ、チトーという呼称ではなく、ブローズという本姓でかれを冷たく呼ぶようになっていく。
この章では、チトーのもとで行なわれた様々な「実験」を整理しながら、同時に、なぜ自主管理社会主義による統合が果たし得なかったのかを考えてみたい。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Устав Федеративне Народне Републике Југославије/Ustav Federativne Narodne Republike Jugoslavije od 1946. godine je prvi od tri ustava koje je Druga Jugoslavija donela prilikom svog postojanja. Službeno je donet 31. januara 1946.
1 人民民主主義期の改革
連邦制と境界の成立
46年のユーゴ連邦人民共和国憲法1946 Yugoslav Constitutionによって、六共和国とセルビア共和国に属するヴォイヴォディナ自治州、コソヴォ・メトヒヤ自治区(83年の憲法によりコソヴォ自治州となる)からなる連邦制が導入された。この連邦制はソ連の連邦制と同様に、連邦中央が多大な権限を持つ形態であった。
しかし、特筆すべき点は多民族国家との認識が確立し、セルビア、クロアチア、スロヴェニアの三共和国に加え、マケドニアとモンテネグロ人の民族自決権が承認され、またボスニア・ヘルツェゴヴィナが地域としての一体性を認められて、それぞれ共和国を形成したことであろう。問題となったのは、自治州や自治区の創設と共和国間の境界の設定である。これらの問題は、「第二のユーゴ」が解体してしまった現在、きわめて重要な問題となっている。

*ヴォイヴォディナ社会主義自治州(ヴォイヴォディナしゃかいしゅぎじちしゅう、セルビア・クロアチア語:Социјалистичка Аутономна Покрајина Војводина; САП Војводина / Socijalistička Autonomna Pokrajina Vojvodina; SAP Vojvodina)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国であったセルビアの自治州で、1963年から1990年まで存続した。1974年から1990年まではユーゴスラビア連邦の構成体のひとつであった。首都はノヴィ・サドであった。
これらの問題はユーゴ共産党指導部によって政治的に処理された傾向が強い。ハンガリー人をはじめとして、多数の少数民族が人口の過半数を占めるヴォイヴォディナと、アルバニア人が65%を占めるコソヴォ・メトヒヤは、最大の共和国セルビアの力を抑えることを配慮してすんあり自治州・自治区とされた。この他に、自治州や自治区の候補として検討されたのはセルビアとモンテネグロにまたがるНови Пазарノヴォ・バサールNovi Pazar
を中心とするサンジャク地方、ダルマチア地方、およびかつてのハプスブルク帝国支配下のクロアチアを横切る形で形成された「軍政国境地域」に属するリカLika地方とコルドゥンKordun地方とボスニア西部のビハチ地方の西側に隣接する地域であった。
サンジャク地方にはムスリム住民が多数居住しており、パルチザン戦争時にはこの地方が独立したパルチザン部隊の単位であった。しかし、モンテネグロが共和国を形成することになったので、地元住民の強い反対があったにもかかわらず、「第一のユーゴ」建国以前のバルカン戦争によって、サンジャクがセルビア王国とモンテネグロ王国に分割されたのと同じく、この時にもセルビア共和国とモンテネグロ共和国とに分けられたのである。
ダルマチア地方とリカ・コルドゥン地方も、最終的には自治州とされるには至らなかった。クロアチア人とセルビア人との典型的な混住地域ダルマチアでは、「クロアチア独立国」のウスタシャ支配に対する広範な抵抗の姿勢が見られ、パルチザン運動が活発であり、サンジャクと同様に単独のパルチザン司令部が形成されていた。また、リカ・コルドゥン地方はセルビア人が多数を占める地域で、パルチザン運動が活発に展開されていた。そのため、これらの地方は自治州の候補地とされたが、自治州にするとクロアチア共和国の力をそぐことになってしまうとの政治的配慮が強く働いたのである。
共和国間の境界については、ジラス(87頁参照)を委員長とする境界設定委員会が作られ、民族自決の原則と歴史的権利について設定作業が行なわれた。もちろん、経済的な面も考慮されたし、先に述べたように政治的配慮もなされた。

22.11.2021Најава „Меморијалног симпозијума за професора Нобухиро Шибу – прича о сећањима и
истраживању“/Najava "Memorijalnog simpozija za profesora Nobuhiro Shibu-razgovor o sjećanjima i istraživanju"
Професор Нобухиро Шиба, који је био директор Централноевропског института, заспао је 28. маја 2021. године. Желели бисмо да вам изразимо нашу искрену захвалност на вашој доброти током вашег живота./
Profesor Nobuhiro Shiba, koji je bio direktor Srednjoeuropskog instituta, zaspao je 28. svibnja 2021. godine. Željeli bismo vam izraziti našu iskrenu zahvalnost za vašu dobrotu tijekom vašeg života.  
*Од 1975. до 1977. студирао у иностранству на Одељењу за историју Филозофског факултета Универзитета у Београду1975~77年、ベオグラード大学哲学部歴史学科留学Od 1975. do 1977studirao u inozemstvu na Odsjeku za povijest Filozofskog fakulteta Sveučilišta u Beogradu.

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