日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆ Jugoslavija / Југославија★Yugoslavia Modern History/L'histoire moderne de la Yougoslavie・Nobuhiro Shiba/ユーゴスラヴィア現代史・柴宜弘⑨


1 チトー以後の諸問題
コソヴォ問題
緩い連邦制はきわめて不安定な均衡の上に成立していたので、それは”統合の絆”が切れてしまうと、もろくも崩れてしまうことになる。80年代は、こうした方向へ確実に向かっていく過程であった。チトーの死とこれから述べる「1981 protests in Kosovoコソヴォ事件Demonstracije na Kosovu 1981」に加え、80年代の「経済危機」への対応をめぐり、ユーゴ統合の太い絆としての共産主義者同盟の存在も危いものになっていった。


79年2月に「74年憲法体制」の理論的支柱であったカルデリが病死し、80年5月にはユーゴ経済の悪化傾向が続くなか、民族・地域間のバランスを巧みにとってきた終身大統領のチトーが87歳で死去した。非同盟運動の指導者のひとりであったチトーの葬儀には、142カ国の元首・首脳クラスが出席し、ベオグラードを舞台として「弔問外交」が展開された。

カルデリとチトーの死去により、「74年憲法体制」の維持を危ぶむ声も聞かれたが、当時連邦幹部会副議長を務めていたコリシェフスキー(マケドニア共和国選出)が憲法規定にしたがって議長職に就き、元首の役割を果たすことになった。こうして、カルデリとチトーなしに、「74年憲法体制」が維持されていく。しかし、すぐに問題が生じることになる。

*Македонскиマケドニア語⇒Лазар Колишевски (роден како Лазар Панев Колишев; 12 февруари 1914 - 6 јули 2000) Lazar Koliševski— долгогодишен водач на македонските комунисти и моќен човек во Македонија во периодот од ослободувањето на земјата до падот на комунизмот.
翌81年の3-4月、セルビア共和国に属するコソヴォ自治州で、アルバニア人の大規模な暴動が発生した。コソヴォはユーゴで最も後進的な地域であり、81年の国勢調査によると、約160万人の人口のうちアルバニア人が78%、セルビア人13%、モンテネグロ人が2%を占めていた。自治州の州都プリシュティナの大学生は経済的不満を最も強く感じており、アルバニア人学生寮食堂の料理のまずさに不満をぶつけ、食堂を破壊したことが「コソヴォ事件」のきっかけであった。

*Shqipアルバニア語⇒Demostratat e `81-shitコソヴォ事件Немири на Косову 1981: Kjo shprehje përdoret për të përshkruar revoltën e shqiptareve ose me sakte te demonstratave mbare popullore ne gjithe Kosoven. Ka te dhena se ne to morren pjese afro 1 milion veta ne gjithe Kosovë.

*Shqipアルバニア語⇒Fadil Hoxha (Gjakovë, 15 maj 1916 - Prishtinë, 23 prill 2001) qe arsimtar, oficer në Luftën e Dytë Botërore, gjeneral major në LNÇ.
アルバニア人学生はプリシュティナの中心に繰り出し、アルバニア人住民を巻き込み、デモの規模を拡大した。この動きはコソヴォ各地に広がり、デモ隊は「コソヴォを共和国に」「われわれはアルバニア人であり、ユーゴ人ではない」「資本主義ではなく、社会主義を」といったスローガンを掲げた。デモの鎮圧にあたった警官隊との激しい衝突のなかで、政府の公式発表でも死者11人(うち警官2人)、負傷者57人の犠牲者を出した。
一応の事態収拾が図られたものの、コソヴォのアルバニア人の動きはくすぶり続け、隣接するモンテネグロ共和国やマケドニア共和国に居住するアルバニア人のあいだにも動揺を与えた。
この「コソヴォ事件」に、歴史研究者も傍観者ではいられなかった。その結果、例えば、アルバニア近現代史の権威でプリシュティナ大学教授のハドリArbër Hadriは、ホジャ第一書記体制下のアルバニア本国の史学に基づき、アルバニア人の民族主義やIrredentismイレデンティズムIredentizam(失地回復主義)を扇動したとされ、その理由で解雇されるということもあった。
*Shqipアルバニア語⇒Universiteti i Prishtinës "Hasan Prishtina" (UP) Универзитет у Приштини (албански)プリシュティナ大学Univerzitet u Prištini (Priština)është universitet publik ne Prishtine, Kosove. Eshte universiteti me i madh dhe me i vjeter ne Kosove.
*エンヴェル・ホッジャ(Enver Hoxha、IPA /ɛnvɛɾ hɔʤa/、1908年10月16日 - 1985年4月11日)は、アルバニアの政治家、共産主義者。アルバニア労働党第一書記、1944年から1954年までアルバニア人民共和国首相を務めた。スターリン主義(ホッジャ主義)への固執からアルバニアで鎖国を行った独裁者として知られる。

*ホッジャ主義(ホッジャしゅぎ、アルバニア語: Hoxhaizmi, 英語: Hoxhaism)は、1970年代後半の中ア対立により生まれ、1978年の中国共産党とアルバニア労働党のイデオロギー論争後にエンヴェル・ホッジャが唱えた反修正主義、マルクス・レーニン主義の変種のひとつである。
「74年憲法体制」のもとで、コソヴォ自治州もセルビア共和国と同等の権利をもてることになった時期に生じたこの「コソヴォ事件」は、コソヴォの少数者セルビア人による、多数者アルバニア人に対する民族的抑圧を理由とした68年の暴動The 1968 demonstrations in Kosovoとは異なり、失業など経済的不満を理由として始まった。しかし、経済的不満は容易に民族対立に火をつけた。今回はアルバニア人の民族主義的な行動が顕著である。セルビア人やモンテネグロ人のセルビア共和国への移住が続いた。
「コソヴォ事件」で特徴的だったのは、「資本主義ではなく、社会主義を」というスローガンに見られるような自主管理社会主義批判であった。こうした批判に対して、共産主義者同盟や連邦政府は当初、この事件の原因がアルバニア本国やユーゴ国外のアルバニア人組織の扇動によるとの立場をとり、コソヴォ現地のアルバニア人の要求や批判を真摯に取りあげなかった。
その後も、共産主義者同盟は再三、コソヴォ問題の討議を重ねる。しかし、この問題の根源はコソヴォの経済発展の後進性にあるとして、自主管理社会主義の徹底により問題解決を図る必要がある、といった抽象的な見解しか示していない。アルバニア人の共和国要求については論外とされた。
「74年憲法体制」のもとで、セルビア共和国はコソヴォ問題に直接関与できず、この問題をめぐりセルビア共和国とコソヴォ自治州との対立が長期化していく。また、きわめて感情的なことがらであるが、セルビア人のあいだには、コソヴォは中世セルビア王国時代の中心地であり、セルビア人の揺藍の地であるとの意識が根強く残っていた。ユーゴ共産主義者同盟内の討議でも、この問題をめぐり、セルビアとスロヴェニア、クロアチアとは不協和音を奏で始める。

「経済危機」
「74年憲法体制」のもとでは、経済面でも極限まで分権化が進められ、市場によるのでも国家統制によるのでもなく、協議と合意に基づき下から上へ積み上げる「協議経済」が採用された。
「協議経済」の原則は連邦と共和国・自治州との関係にも適用された。共和国・自治州はそれぞれの国民銀行を通じて、連邦の発券業務に参画しつつ、通貨政策や外国為替政策の実施に必要な措置をとることができるようになった。さらに、独自の租税政策を実施し、独自の社会計画を策定することもできるようになった。緩い連邦制のもとで、ユーゴには「統一市場」が失われていったのである。
このような状況において、ユーゴ経済は73年のNaftni šok 1973第一次石油危機Naftna kriza 1973の影響を受け、70年代後半から次第に陰りを見せ始め、79年のDeuxième choc pétrolier第二次石油危機1979 oil crisisと世界的な不況を契機として、悪化の一途をたどった。各共和国がそれぞれ設備投資のため、70年代に西側諸国や国際機関から多くの融資を受けたツケがいっきに回ってきた。この結果、貿易収支の大幅赤字、対外債務の累積、恒常的なインフレによる「経済危機」の状態が続く。
連邦幹部会や連邦政府は経済状態の改善をはかるための対応策に追われた。しかし、大枠で共和国・自治州の「経済主権」を認める「74年憲法体制」を是認しつつ、個々の問題では分権化した政治・経済制度を改変する必要性を説くものだったので、大幅ですみやかな改善策を講じることができなかった。
「経済危機」が深刻化し、急激なインフレにより国民の生活は圧迫され、87年から労働者のストライキが多発した。これらのストは「経済危機」にすみやかに対処できないユーゴ共産主義者同盟や連邦政府に鋭い批判の刃を向け、従来とは異なる「政治スト」の様相を呈するようになった。「緩い連邦制」が危機を迎えていく。
もっとも、連邦幹部会はすでに85年に、経済効率を高めるという観点から、自主管理社会主義の基礎をなす「連合労働法」の見直し作業を連邦議会に要請しており、87年12月には、ついに「連合労働法」の大幅な改正が連邦議会で承認された。これと並行して同年1月に、連邦幹部会は連邦の権限拡大、「統一市場」の創設と市場経済への復帰、連合労働という考え方の根本的見直しを目的として、74年憲法修正の発議を行なってもいる。こうして、88年11月に、国家機関や連邦の権限を拡大する74年憲法の修正案が、連邦議会で可決された。国家連合形態に近い連邦制から、連邦に権限を集中させる形態に一部軌道修正されたのである。

*スロボダン・ミロシェヴィッチ(セルビア語: Слободан Милошевић / Slobodan Milošević、1941年8月20日 - 2006年3月11日[1])は、セルビアの政治家。セルビア社会主義共和国幹部会議長(大統領に相当・第7代)、セルビア共和国大統領(初代)、ユーゴスラビア連邦共和国大統領(第3代)、セルビア共産主義者同盟(英語版)中央委員会幹部会議長、セルビア社会党党首を歴任した。
74年憲法の修正と「連邦制の危機」
ミロシェヴィチの登場
こうした情勢を背景として、セルビア共和国に登場するのがミロシェヴィチである。かれは、「74年憲法体制」のもとで自己主張を極力おさえられていたため、鬱積していたセルビア人の民族主義に巧みに訴えかけて、86年にはセルビア共産主義者同盟幹部会議長に、87年にはセルビア共和国幹部会議長に就いたが、「緩い連邦制」を再編して連邦の権限を強化すべく、憲法修正に積極的であった。
一方、「コソヴォ事件」後、コソヴォ自治州共産主義者同盟内外のデモ指導者は、「反革命」を保持してきたF・ホジャが、事件の責任を問われてすべての職務を解任され、共産主義者同盟から除名されるに至った。
しかし、問題はなお継続した。ミロシェヴィチの立場からすると、先に述べた74年憲法修正の目的は「経済危機」からの脱却だけでなく、コソヴォ問題の「解決」とも関連していた。74年憲法によって、自治州は共和国と同等の権限を有することになり、自らの憲法をもち警察権や裁判権や教育権をも手にいれていたからである。
「コソヴォ事件」のあと、コソヴォ自治州の少数者セルビア人とモンテネグロ人に対するアルバニア人により「逆差別」が表面化した。コソヴォでの生活を嫌い、セルビア共和国やモンテネグロ共和国に移住する人が目立った。コソヴォに残ったセルビア人やモンテネグロ人は自衛組織を作り、各地で抗議集会を開いた。こうした人々を保護しようにも、セルビア共和国にはその手だてがなかった。
そのため、74年憲法の修正と関連して、セルビア共和国憲法修正の動きが生じた。88年夏から秋にかけて、コソヴォのセルビア人とモンテネグロ人は、セルビア各地を回って抗議集会を開き、共和国憲法の修正を訴えた。これらの抗議集会は各地で熱狂的な支援を受ける。セルビア人の伝統や心理を巧みにとらえて急浮上したミロシェヴィチのもと、セルビア人の民族主義がこれまでになく高まった。
ミロシェヴィチは民族派知識人を合わせることで、セルビア共和国の統合を推進しようとした。ちょうど、この時期に民族派知識人がセルビア人の政治綱領を構想していた。85年から秘密裏に文書の草案が練られていたが、草案の段階で外部に漏れてしまい。89年9月にベオグラードで発行されている夕刊紙『Вечерње новостиヴェチェルニ・ノーヴォスティVečernje novosti』に「Меморандумメモランダム(覚書き)Memorandum」としてスクープされた。社会主義体制に批判的な民族派知識人が多くを占めるセルビア科学・芸術アカデミーが作成したもので(作家で、92年に新ユーゴの大統領に就任するチョシッチが起草したとされている)、正式名称は「セルビアの復興のためのメモランダム」である。
*Српски / srpskiセルビア語⇒Меморандум Српске академије наука и уметности, или краће Меморандум САНУセルビア科学芸術アカデミーの覚書、通称SANU覚書Memorandum Srpske akademije nauka i umetnosti (skraćeno Memorandum SANU) , нацрт је документа који је израдио одбор од 16 чланова Српске академије наука и уметности у периоду од 1985. до 1986.

*ドブリツァ・チョシッチ(Dobrica Ćosić、1921年12月29日 - 2014年5月18日[1])Добрица Ћосићはユーゴスラビア連邦共和国初代大統領。
アカデミーはこの文書は公式文書ではないとしたが、起草者にはАнтоније ИсаковићイサコヴィチAntonije Isaković、歴史家のРадован СамарџићサマルジィチRadovan SamardžićВасилије КрестићクレスティチVasilije Krestić、そして60年代から70年代にかけての反体制知識人グループ「プラクシス派Praxis filozofija」の中心人物であった社会学者Михаило МарковићM・マルコヴィチMihailo Marković(のちに、ミロシェヴィチ率いるセルビア社会党のブレーンとなる)など16名のアカデミー会員が名を連ねている。
「メモランダム」は、チトーとカルデリによって形成された「74年憲法体制」こそがユーゴにおける様々な問題を生じさせた根源であるという認識に立っている。そして、クロアチアとスロヴェニアと比べて、経済的にも政治的にも差別を被っていると非難する。こうした状況を改善するためには、共和国憲法を修正して、コソヴォとヴォイヴォディナ自治州をセルビア共和国の憲法の枠内に収めることが必要だとする。この文書は確かにセルビア人の民族主義を前面に掲げたものであるが、「74年憲法体制」下のセルビア人の心情をストレートに表現したにすぎず、これをただちに領土拡大を目指す「大セルビア主義」の政治文書だとまではいえないだろう。
セルビア共産主義者同盟は、この文書が民族主義的宣言であるとして公的に非難した。しかし、ミロシェヴィチは自らの地位を確保するための戦術として、チョシッチら民族派知識人との協調関係を強めていった側面が強いし、「74年憲法体制」に対する評価をかれらと共有していた側面も見逃せない。ミロシェヴィチはコソヴォのセルビア人とモンテネグロ人の保護を明確にして、「メモランダム」の主張を実践していったのである。この結果、セルビアでは「74年憲法体制」の立て役者チトーに代わり、ミロシェヴィチに対する熱狂的な支持が与えられていく。死後5,6年を経て、公共の場所や商店に掲げられていたチトーの写真が取り外され、代わりにミロシェヴィチの写真が貼られていった。

深刻化するコソヴォ問題
ミロシェヴィチと民族派との協調関係を背景として、コソヴォではセルビア人とモンテネグロ人が活発な行動を展開した。これに対して、沈黙を保ち続けていたアルバニア人は、88年11月に74年憲法修正案が可決され、セルビア共和国憲法の修正が議事日程に上ると、ふたたび反セルビア、自治権確保を掲げたデモを開始した。

89年2月、コソヴォで二度にわたるデモが生じ、北部にあるトレブチャ鉛・亜鉛鉱の鉱山労働者約1100人が、坑内にたてこもり自治権確保を要求した。これに呼応し、他の町々の工場労働者もストライキに入り、コソヴォはゼネスト状態に陥った。これに対して、連邦幹部会はコソヴォ自治州に「特別措置」を発動して、コソヴォを連邦人民軍の管轄下に置いた。さらに3月に入ると、自治州共産主義者同盟議長のヴラシがゼネストの指導者として逮捕され、ストに加わった労働者に対する「強制労働令」が布告された。
緊迫した状況下で3月末に、コソヴォ自治州議会とセルビア共和国議会が、相次いで共和国憲法修正案を可決した。これにより、セルビア共和国は国防、安全保障、治安、国際電力、社会計画の分野で、二自治州を含む統一体として機能する権限を与えられた。自治州の権限は縮小されたのであり、これに反対するアルバニア人のデモが激化した。
3月末までに、81年の「コソヴォ事件」を上回る死者23人(うち警察側2人)を出すに至った。当時のアルバニア人の動きの特徴は、「コソヴォ事件」まで中心的役割を果たしてきた学生に代わり、労働者が前面に登場したことであろう。事の重大さが窺われた。

これ以後も、コソヴォ内のアルバニア人とセルビア人、モンテネグロ人との対立関係はますます激化していく。6月28日、「コソヴォの戦い(1389年に中世セルビア王国をはじめとするバルカン連合軍がオスマン軍に敗北した戦い)の600周年を記念して、Косово Поље / Kosovo Poljeコソヴォ・ポーリェ(コソヴォ平原)Fusha e Kosovësで、約100万のセルビア人が集会を開いた。この集会はミロシェヴィチ体制公認のものであり、これがアルバニア人の民族感情を刺激したことは容易に想像される。
コソヴォでは90年1月から2月にかけて、さらに激しい衝突が繰り返され、多くの犠牲者を出した。こうしたなかで、コソヴォに作家のルゴヴァを指導者とする野党勢力「コソヴォ民主同盟」が結成され、自治権拡大要求にとどまらず、民主化の動きを明確にしていたスロヴェニアの影響を多分に受けて、一党制批判や自由選挙の実施要求などを掲げた。7月には、コソヴォ自治州のアルバニア人議員が、「コソヴォ共和国」としてセルビア共和国から独立することを宣言し、9月には憲法を制定した。
*コソボ民主連盟(コソボみんしゅれんめい、アルバニア語:Lidhja Demokratike e Kosovës; LDK)は、コソボの政党。

*イブラヒム・ルゴヴァ(アルバニア語: Ibrahim Rugova, セルビア語: Ибрахим Ругова, 1944年12月2日 - 2006年1月21日)は、コソボの政治家。アルバニア人主導のコソボ政府および国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)統治下の同国大統領を務めた。

*Shqipアルバニア語⇒Kosova コソヴォ(historikisht Dardania, zyrtarisht Republika e Kosovësコソヴォ共和国)Република Косово është një shtet i pavarur në Evropën Juglindore.

高まるスロヴェニア民族主義
セルビア共和国にミロシェヴィチが登場してコソヴォ問題が尖鋭化するのとちょうど同じ頃、「第二のユーゴ」内で最先進共和国のスロヴェニア人たちのあいだにも民族主義傾向が強まっていった。80年代のスロヴェニア共和国について簡単にふれておくと、人口(81年の国勢調査による)は189万人(連邦総人口の約6%)、そのうちスロヴェニア人は171万人、人口の約91%を占めている。民族的に最も均質性の高い共和国であった。ユーゴの総人口に占めるスロヴェニア人の比率は8%であったが、総雇用の16%、国民所得の20%、総輸出の25%に達していた。
88年の統計によると、スロヴェニア共和国の1人あたりの国民総生産は、6129ドルで連邦第一位、最低のコソヴォ自治州の741ドルに比べると、八倍以上の差があった。経済的に豊かなスロヴェニアは70年代初頭、同じく先進地域のクロアチア共和国でクロアチア民族主義が吹き荒れたときも、ひとり超然としていた。
しかし、80年代の「経済危機」に対処するため、連邦幹部会が74年憲法を修正して連邦の権限を強めようとするなかで、スロヴェニアでは「経済主権」が制限されるのではないかとの危機感が広まった。こうしたことを背景として、スロヴェニア人の民族主義が初めて表面化することになる。
この契機となったのは、87年2月にリュブリャナで発行された『ノヴァ・レヴィヤNova revija』の特集号であった。スロヴェニアでは、西側諸国との協力関係が他の共和国に比べて密接であり、知識人や学生・青年を中心として、自由で活発な言論活動が展開されていた。こうした政治風土において、『ノヴァ・レヴィヤ』には反体制的知識人が多く集まっており、特集号の記事には、ユーゴにおいてスロヴェニア語がセルビア・クロアチア語と比べて二級の言語と見なされていること、スロヴェニア人の民族自決権を拡大する必要があることなどが主張されていた。この特集号が、いわばスロヴェニア人の「民族綱領」となったのである。
さらに、88年5月に生じた「ヤンシャ事件」は、スロヴェニア人の民族感情を大いに刺激した。この事件はスロヴェニア共産主義者同盟の大衆組織であるスロヴェニア青年同盟の議長候補であったジャーナリストのヤンシャ(スロヴェニア共和国の独立後、国防大臣に就任)が、「連邦人民軍がスロヴェニアの自由な雰囲気の一掃をねらって出動する計画を立てている」と、青年層に広く読まれていた雑誌『ムラディナMladina』(公的にはスロヴェニア青年同盟機関誌)に書いたことが発端であった。

*ヤネス・ヤンシャ(Janez Janša、1958年9月17日 - )は、スロベニアの政治家。現在、3回目の同国首相(第6・8・12代)を務めている。スロベニア民主党党首(1993年より)。
ヤンシャを含め、連邦人民軍の軍事機密を持ちだした若い兵士、『ムラディナ』の編集長ら4人が「軍事機密漏」の罪で逮捕された。ヤンシャは最大の連邦組織である人民軍批判の急先鋒であり、彼の逮捕によって、スロヴェニア人のあいだに反軍感情が強まった。
88年7月、スロヴェニアの首都リュブリャナで開かれたにもかかわらず、軍事法廷で使用された言語がスロヴェニア語ではなく、セルビア・クロアチア語だったことは、スロヴェニア人の反連邦・反セルビア感情を強めることになり、結果としてスロヴェニア民族主義を前面に押し出すことになった。スロヴェニアでは、「ユージュニャツィ(南のやつら)」という蔑視の言葉がよく聞かれるようになる。「ヨーロッパ」に属するという自負をもっていたスロヴェニア人と、他の民族とをはっきり区分し始めた。
それにもかかわらず、反セルビアを媒介とし、スロヴェニア人とコソヴォ自治州のアルバニア人とが連帯を強めていった。スロヴェニアは「敵の敵は味方」の政治原則から、セルビアのミロシェヴィチ体制と対立するコソヴォのアルバニア人支持を打ちだしたのである。
88年10月のユーゴ共産主義者同盟第17回総会で、「コソヴォ問題」と「経済危機」の解決策を求め、政治・経済・党機構の「三つの改革」に関する討議が行なわれたが、もはや「調停者」はいなかった。民族・地域間対立が一枚岩であるべき共産主義者同盟を支配した。とくに、「コソヴォ問題」をめぐり、セルビアとスロヴェニアとの対立が際立ち、この時点で、ユーゴ共産主義者同盟内の共和国対立は決定的になっていく。
さらに前述(145頁)のように、翌11月、連邦議会で74年憲法修正案が賛成多数で可決された。以後、「経済主権」の保持を主張するスロヴェニア共和国の突出した動きが加速化することになる。また、74年憲法の修正により、自主管理社会主義が大きく変質し、連邦幹部会についても、ユーゴ共産主義者同盟の幹部会議長が構成員から外れ、8人の構成となった。12月には全憲法が制定され、経済的面でも社会有、私有、国有といった所有形態の多様性が承認されたのである。
74年憲法修正にともなう89年3月のセルビア共和国憲法修正に続き、90年9月には共和国に権限を集中させ、自由・民主主義・社会的公正を前面に掲げたセルビア共和国新憲法が制定された。一方、スロヴェニア共和国憲法議会は89年9月、スロヴェニアの近代文学史上最大の作家ツァンカル(1876-1918)の作でもあるスロヴェニア賛歌『ズドラヴリツェZdravlijica』の歌声につつまれた。連邦憲法修正の方向とは逆に、「経済主権」保持の立場から「分離権」を含む共和国主権を掲げた共和国憲法修正案を可決した。
*イヴァン・ツァンカル(Ivan Cankar、Sl-Ivan Cankar)(1876年5月10日 - 1918年12月11日)は スロヴェニアの作家、劇作家、随筆家、詩人で政治活動家。近代スロヴェニア最大の作家とみなされており、フランツ・カフカやジェイムズ・ジョイスに比較されることもある。
歴史上、自らの国家を形成したことのないスロヴェニアが「国家主権」を強調し、「分離権」を持ちだしてまで、「経済主権」を保持しようとする事態にたち至ったのである。「連邦制の危機」はだれの目にも明らかであった。

東欧変革の流れのなかで
遅れた「実験国」
89年秋から冬にかけて、東欧諸国で急速な体制転換が進行し、共産党による一党体制が崩壊した。80年代に、ポーランドやハンガリーでは経済状況の悪化を契機として、共産党が経済問題の解決のために様々な改革に取り組むが、効果をあげられず、自由化・民主化を求める野党勢力と協力せざるを得なくなる。その過程で、さらに大きく力を増す野党勢力により、一元的な共産党支配の社会主義が否定された。こうして、複数政党制による自由選挙が実施されたのである。
自主管理社会主義の国ユーゴは、東欧諸国のなかで最も「民主的」な国と見なされてきたが、80年代の民族対立を通じて最も「民主化」が遅れた国となってしまった。54年に、権力集中の排除と分権化による民主主義的な統一をすみやかに進めることを主張して、副首相の職を解任されたジラスは、91年5月の『ニューズ・ウィーク』とのインタビューに答えて次のように述べている。「かつてのユーゴは、ある意味での東欧の実験場だった。今では、ソ連のための実験場にすぎない。他の東欧諸国は、すでにわが国を追い抜いてしまった」。
深刻な「経済危機」が続くユーゴにおいても、生活水準の低下に不満をいだく人々の政治的発言が目立ち始め、共産主義者同盟離れが進行していった。スロヴェニア共産主義者同盟は比較的柔軟な姿勢を示していた。西側諸国と緊密な関係をもっていたため、西側諸国を強く意識せざるを得なかった。加えて、ポーランドやハンガリーの動向にも刺激を受けて、89年2月には大衆組織であるスロヴェニア社会主義同盟の枠外に、社会民主同盟の創設が認められた。その結果スロヴェニアでは、共産主義者同盟自らの主導により、複数政党制への第一歩が踏み出された。
一方、クロアチア共和国では、89年12月の共産主義者同盟大会を前に、社会主義同盟の枠内で結成されていた諸政治グループが、複数政党制移行の署名活動を行い、ゼネストの構えを見せて圧力をかけた。この結果、共産主義者同盟は大会の最終文書で、複数政党制の導入を承認するに至った。
セルビア共和国でも、同じく89年12月に共産主義者同盟大会が開催された。ミロシェヴィチの共産主義者同盟は強固な支持基盤をもっていたが、東欧諸国の急激な体制転換やヨーロッパにおけるユーゴの位置をにらみながら、共産主義者同盟の指導的地位の放棄と政治的複数主義を承認して、複数政党制の方針を打ちだした。
こうした状況において、一党体制の放棄と複数政党制による自由選挙が既定の方針とされて、90年1月にユーゴ共産主義者同盟第14回臨時大会が開催された。しかし、「民主集中制」原則の否定をも主張するスロヴェニアの代表がこの大会から退場するにおよび、ユーゴ共産主義者同盟は分裂し解体してしまう。ユーゴ統合の主要な絆であった共産主義者同盟が分裂し、これにともない、自主管理社会主義の推進自体が消滅することになったのである。自主管理社会主義と連動していた「連邦制の危機」は、抜き差しならない状態に追い込まれた。スロヴェニア共和国の主張する国家連合形態か、あるいはセルビア共和国の唱える連邦形態か、あるいは分離・独立かの問題が浮上した。
90年を通じて、スロヴェニアを皮切りに(4月)、六共和国で順次、戦後初めての複数政党制による自由選挙が実施された。連邦か国家連合かが主要な争点の一つであった。旧共産主義者同盟系の政党が勝利を収めたのはセルビアとモンテネグロだけであり、全体としていえることは、それぞれ民族主義的傾向の強い政府が形成されたのである。

「第三のユーゴ」を目指して
各共和国はそれぞれバラバラな動きを見せ始めた。10月には、国家連合の形態を求めるスロヴェニア、クロアチア両共和国幹部会の名で「国家連合のモデル」が発表され、ついで連邦幹部会も「ユーゴスラヴィアの連邦的編成構想」を公表した。こうして、「第三のユーゴ」の国家形態である、連邦の再編か国家連合かをめぐり、六共和国の話し合いが続けられることになった。
ユーゴ解体・内戦を経て、民族的憎悪のみが残されたかに見える現在、これら二つの案の概略を改めて検討しておくことも、長い目で見れば無駄ではないであろう。以下、二つの案を概観しておく。
90年10月にはスロヴェニア共和国幹部とクロアチア共和国幹部会の名で発表された「国家連合のモデル」は前文および八章からなっている(『ボルバ』10月8日号に掲載。『ボルバ』は戦後、ユーゴ社会主義同盟機関紙であったが、ユーゴ解体過程で連邦政府機関紙となり、解体後、独立系新聞となる)。
前文にはECの歴史と経験に学び理論化したことが述べられ、国家連合を形成する上の基本的な出発点が列挙されている。例えば、①国家連合は、共通の目的を実現するための主権国家の自由意思に基づく連合体であること、②統一市場の保障が国家連合の基礎であり、ヨーロッパ統合過程に包含されることが共通の利益であること、③国家連合は外部からの攻撃に対し全加盟国の領域の防衛に当たらなければならないこと、④個々人すべてのエスニック・グループの人権擁護に際し同じ条件を保障すること、⑤国家連合の統合と安定のため、諸機関の要としてルクセンブルクのEC裁判所をモデルとする国家連合裁判所を設置すること、⑥国家連合としてEC加盟の可能性を考慮すること、などである。この案は加盟国がECに加盟できるまでの暫定的な形態と考えられていたように思える。
これらの点が前提条件となっているが、国家連合の構成員は特定されていない。この条約の中心である第三章の統治権限によると、国家連合の経済関係、環境保護、防衛および安全保障、国際関係が規定されている。経済関係では、全加盟国が関税同盟を結び、共同市場を形成し、通貨同盟を結び通貨を統一して金融政策を調整する。また、環境保護に対しても、全加盟国が共通の政策を採る。防衛および安全保障に関しては、全加盟国がそれぞれの軍隊を保有するが、大臣会議が共通の戦略を調整し、加盟国の国防大臣が個々の問題を協議する。国際関係については、全加盟国が国際法上の主体であることが明記され、国家連合は個々の加盟国が締結した国際条約関係に必然的に入ることになる。したがって、第三国に対する外交上の代表権は個々の加盟国にあるが、加盟諸国は外交問題に関して相互に協議することになる。
一方、連邦幹部会が発表した「ユーゴスラヴィアの連邦再編の構想」(『ボルバ』10月18日号に掲載)は従来の連邦制を維持しつつ、構成共和国の結合形態を再編しようとするものであった。第一条では、国名が現在のセルビアとモンテネグロからなる「新ユーゴ」と同様のユーゴスラヴィア連邦共和国となり、市民の自由と権利および法の支配と社会主義に基づく民主国家であることが規定されている。第二条では国家連合モデルとは異なり、構成共和国はボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、マケドニア、モンテネグロ、スロヴェニア、セルビアの六つと特定されている。第三ー六条では、ユーゴ連邦共和国が経済的にも法律上も統一した領域であること、六民族(クロアチア人、マケドニア人、モンテネグロ人、ムスリム人、スロヴェニア人、セルビア人)の平等、少数民族の権利保障が記されている。
共和国と連邦との関係については、共和国は連邦の枠内で一定の主権を行使する国家であり、共和国憲法が連邦憲法と抵触してはならないが、各共和国は国民投票によって示された市民の善意に基づき、連邦から分離する権利を持っている。連邦議会が、分離を決定した共和国と連邦との調整に当たる。経済面では、社会有、国有、私有、協同組合有の所有形態がすべて平等に認められ、統一市場の確保、ユーゴ国立銀行の創設、共通の財政と税制が明記されている。また、外交、軍事・安全保障面でも、連邦が主体となり、連邦の機関として二院制の連邦議会、大統領(あるいは集団大統領制)、連邦政府、憲法裁判所、最高裁判所、連邦検察庁が列挙されている。
90年12月から翌年6月にかけて、以上二つの提案を中心として、六共和国の代表によって、将来の政治形態に関する話し合いが続けられた。国家連合案を主張するスロヴェニア、クロアチアと、連邦制の維持に固執するセルビア、モンテネグロのあいだにあって、連邦解体の危機を回避するためのキャスティング・ボートを握っていたボスニア・ヘルツェゴヴィナとマケドニアが、「主権国家による共同体」という、これまで出された二案の折衷案を想起した。この案の骨子は各共和国の完全な主権と国連加盟権の保有、共通の軍隊と共和国軍の並存、共通の通貨と共通の銀行、共通の議会であった。一時、この方向で新たな「第三のユーゴ」を形成する合意ができたかに見えた。しかし、事態の進展は遅く、91年6月25日に、スロヴェニアとクロアチア両議会が「独立宣言」をそれぞれ採択するに至ってしまった。






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