☆ Jugoslavija / Југославија★Yugoslavia Modern History/L'histoire moderne de la Yougoslavie・Nobuhiro Shiba/ユーゴスラヴィア現代史・柴宜弘⑨
1 チトー以後の諸問題
コソヴォ問題
緩い連邦制はきわめて不安定な均衡の上に成立していたので、それは”統合の絆”が切れてしまうと、もろくも崩れてしまうことになる。80年代は、こうした方向へ確実に向かっていく過程であった。チトーの死とこれから述べる「1981 protests in Kosovoコソヴォ事件Demonstracije na Kosovu 1981」に加え、80年代の「経済危機」への対応をめぐり、ユーゴ統合の太い絆としての共産主義者同盟の存在も危いものになっていった。
79年2月に「74年憲法体制」の理論的支柱であったカルデリが病死し、80年5月にはユーゴ経済の悪化傾向が続くなか、民族・地域間のバランスを巧みにとってきた終身大統領のチトーが87歳で死去した。非同盟運動の指導者のひとりであったチトーの葬儀には、142カ国の元首・首脳クラスが出席し、ベオグラードを舞台として「弔問外交」が展開された。
カルデリとチトーの死去により、「74年憲法体制」の維持を危ぶむ声も聞かれたが、当時連邦幹部会副議長を務めていたコリシェフスキー(マケドニア共和国選出)が憲法規定にしたがって議長職に就き、元首の役割を果たすことになった。こうして、カルデリとチトーなしに、「74年憲法体制」が維持されていく。しかし、すぐに問題が生じることになる。
*Македонскиマケドニア語⇒Лазар Колишевски (роден како Лазар Панев Колишев; 12 февруари 1914 - 6 јули 2000) Lazar Koliševski— долгогодишен водач на македонските комунисти и моќен човек во Македонија во периодот од ослободувањето на земјата до падот на комунизмот.
翌81年の3-4月、セルビア共和国に属するコソヴォ自治州で、アルバニア人の大規模な暴動が発生した。コソヴォはユーゴで最も後進的な地域であり、81年の国勢調査によると、約160万人の人口のうちアルバニア人が78%、セルビア人13%、モンテネグロ人が2%を占めていた。自治州の州都プリシュティナの大学生は経済的不満を最も強く感じており、アルバニア人学生寮食堂の料理のまずさに不満をぶつけ、食堂を破壊したことが「コソヴォ事件」のきっかけであった。
*Shqipアルバニア語⇒Demostratat e `81-shitコソヴォ事件Немири на Косову 1981: Kjo shprehje përdoret për të përshkruar revoltën e shqiptareve ose me sakte te demonstratave mbare popullore ne gjithe Kosoven. Ka te dhena se ne to morren pjese afro 1 milion veta ne gjithe Kosovë.
*Shqipアルバニア語⇒Fadil Hoxha (Gjakovë, 15 maj 1916 - Prishtinë, 23 prill 2001) qe arsimtar, oficer në Luftën e Dytë Botërore, gjeneral major në LNÇ.
アルバニア人学生はプリシュティナの中心に繰り出し、アルバニア人住民を巻き込み、デモの規模を拡大した。この動きはコソヴォ各地に広がり、デモ隊は「コソヴォを共和国に」「われわれはアルバニア人であり、ユーゴ人ではない」「資本主義ではなく、社会主義を」といったスローガンを掲げた。デモの鎮圧にあたった警官隊との激しい衝突のなかで、政府の公式発表でも死者11人(うち警官2人)、負傷者57人の犠牲者を出した。
一応の事態収拾が図られたものの、コソヴォのアルバニア人の動きはくすぶり続け、隣接するモンテネグロ共和国やマケドニア共和国に居住するアルバニア人のあいだにも動揺を与えた。
この「コソヴォ事件」に、歴史研究者も傍観者ではいられなかった。その結果、例えば、アルバニア近現代史の権威でプリシュティナ大学教授のハドリArbër Hadriは、ホジャ第一書記体制下のアルバニア本国の史学に基づき、アルバニア人の民族主義やIrredentismイレデンティズムIredentizam(失地回復主義)を扇動したとされ、その理由で解雇されるということもあった。
*Shqipアルバニア語⇒Universiteti i Prishtinës "Hasan Prishtina" (UP) Универзитет у Приштини (албански)プリシュティナ大学Univerzitet u Prištini (Priština)është universitet publik ne Prishtine, Kosove. Eshte universiteti me i madh dhe me i vjeter ne Kosove.
*エンヴェル・ホッジャ(Enver Hoxha、IPA /ɛnvɛɾ hɔʤa/、1908年10月16日 - 1985年4月11日)は、アルバニアの政治家、共産主義者。アルバニア労働党第一書記、1944年から1954年までアルバニア人民共和国首相を務めた。スターリン主義(ホッジャ主義)への固執からアルバニアで鎖国を行った独裁者として知られる。
*ホッジャ主義(ホッジャしゅぎ、アルバニア語: Hoxhaizmi, 英語: Hoxhaism)は、1970年代後半の中ア対立により生まれ、1978年の中国共産党とアルバニア労働党のイデオロギー論争後にエンヴェル・ホッジャが唱えた反修正主義、マルクス・レーニン主義の変種のひとつである。
「74年憲法体制」のもとで、コソヴォ自治州もセルビア共和国と同等の権利をもてることになった時期に生じたこの「コソヴォ事件」は、コソヴォの少数者セルビア人による、多数者アルバニア人に対する民族的抑圧を理由とした68年の暴動The 1968 demonstrations in Kosovoとは異なり、失業など経済的不満を理由として始まった。しかし、経済的不満は容易に民族対立に火をつけた。今回はアルバニア人の民族主義的な行動が顕著である。セルビア人やモンテネグロ人のセルビア共和国への移住が続いた。
「コソヴォ事件」で特徴的だったのは、「資本主義ではなく、社会主義を」というスローガンに見られるような自主管理社会主義批判であった。こうした批判に対して、共産主義者同盟や連邦政府は当初、この事件の原因がアルバニア本国やユーゴ国外のアルバニア人組織の扇動によるとの立場をとり、コソヴォ現地のアルバニア人の要求や批判を真摯に取りあげなかった。
その後も、共産主義者同盟は再三、コソヴォ問題の討議を重ねる。しかし、この問題の根源はコソヴォの経済発展の後進性にあるとして、自主管理社会主義の徹底により問題解決を図る必要がある、といった抽象的な見解しか示していない。アルバニア人の共和国要求については論外とされた。
「74年憲法体制」のもとで、セルビア共和国はコソヴォ問題に直接関与できず、この問題をめぐりセルビア共和国とコソヴォ自治州との対立が長期化していく。また、きわめて感情的なことがらであるが、セルビア人のあいだには、コソヴォは中世セルビア王国時代の中心地であり、セルビア人の揺藍の地であるとの意識が根強く残っていた。ユーゴ共産主義者同盟内の討議でも、この問題をめぐり、セルビアとスロヴェニア、クロアチアとは不協和音を奏で始める。
「経済危機」
「74年憲法体制」のもとでは、経済面でも極限まで分権化が進められ、市場によるのでも国家統制によるのでもなく、協議と合意に基づき下から上へ積み上げる「協議経済」が採用された。
「協議経済」の原則は連邦と共和国・自治州との関係にも適用された。共和国・自治州はそれぞれの国民銀行を通じて、連邦の発券業務に参画しつつ、通貨政策や外国為替政策の実施に必要な措置をとることができるようになった。さらに、独自の租税政策を実施し、独自の社会計画を策定することもできるようになった。緩い連邦制のもとで、ユーゴには「統一市場」が失われていったのである。
このような状況において、ユーゴ経済は73年のNaftni šok 1973第一次石油危機Naftna kriza 1973の影響を受け、70年代後半から次第に陰りを見せ始め、79年のDeuxième choc pétrolier第二次石油危機1979 oil crisisと世界的な不況を契機として、悪化の一途をたどった。各共和国がそれぞれ設備投資のため、70年代に西側諸国や国際機関から多くの融資を受けたツケがいっきに回ってきた。この結果、貿易収支の大幅赤字、対外債務の累積、恒常的なインフレによる「経済危機」の状態が続く。
連邦幹部会や連邦政府は経済状態の改善をはかるための対応策に追われた。しかし、大枠で共和国・自治州の「経済主権」を認める「74年憲法体制」を是認しつつ、個々の問題では分権化した政治・経済制度を改変する必要性を説くものだったので、大幅ですみやかな改善策を講じることができなかった。
「経済危機」が深刻化し、急激なインフレにより国民の生活は圧迫され、87年から労働者のストライキが多発した。これらのストは「経済危機」にすみやかに対処できないユーゴ共産主義者同盟や連邦政府に鋭い批判の刃を向け、従来とは異なる「政治スト」の様相を呈するようになった。「緩い連邦制」が危機を迎えていく。
もっとも、連邦幹部会はすでに85年に、経済効率を高めるという観点から、自主管理社会主義の基礎をなす「連合労働法」の見直し作業を連邦議会に要請しており、87年12月には、ついに「連合労働法」の大幅な改正が連邦議会で承認された。これと並行して同年1月に、連邦幹部会は連邦の権限拡大、「統一市場」の創設と市場経済への復帰、連合労働という考え方の根本的見直しを目的として、74年憲法修正の発議を行なってもいる。こうして、88年11月に、国家機関や連邦の権限を拡大する74年憲法の修正案が、連邦議会で可決された。国家連合形態に近い連邦制から、連邦に権限を集中させる形態に一部軌道修正されたのである。
*スロボダン・ミロシェヴィッチ(セルビア語: Слободан Милошевић / Slobodan Milošević、1941年8月20日 - 2006年3月11日[1])は、セルビアの政治家。セルビア社会主義共和国幹部会議長(大統領に相当・第7代)、セルビア共和国大統領(初代)、ユーゴスラビア連邦共和国大統領(第3代)、セルビア共産主義者同盟(英語版)中央委員会幹部会議長、セルビア社会党党首を歴任した。
74年憲法の修正と「連邦制の危機」
ミロシェヴィチの登場
こうした情勢を背景として、セルビア共和国に登場するのがミロシェヴィチである。かれは、「74年憲法体制」のもとで自己主張を極力おさえられていたため、鬱積していたセルビア人の民族主義に巧みに訴えかけて、86年にはセルビア共産主義者同盟幹部会議長に、87年にはセルビア共和国幹部会議長に就いたが、「緩い連邦制」を再編して連邦の権限を強化すべく、憲法修正に積極的であった。
一方、「コソヴォ事件」後、コソヴォ自治州共産主義者同盟内外のデモ指導者は、「反革命」を保持してきたF・ホジャが、事件の責任を問われてすべての職務を解任され、共産主義者同盟から除名されるに至った。
しかし、問題はなお継続した。ミロシェヴィチの立場からすると、先に述べた74年憲法修正の目的は「経済危機」からの脱却だけでなく、コソヴォ問題の「解決」とも関連していた。74年憲法によって、自治州は共和国と同等の権限を有することになり、自らの憲法をもち警察権や裁判権や教育権をも手にいれていたからである。
「コソヴォ事件」のあと、コソヴォ自治州の少数者セルビア人とモンテネグロ人に対するアルバニア人により「逆差別」が表面化した。コソヴォでの生活を嫌い、セルビア共和国やモンテネグロ共和国に移住する人が目立った。コソヴォに残ったセルビア人やモンテネグロ人は自衛組織を作り、各地で抗議集会を開いた。こうした人々を保護しようにも、セルビア共和国にはその手だてがなかった。
そのため、74年憲法の修正と関連して、セルビア共和国憲法修正の動きが生じた。88年夏から秋にかけて、コソヴォのセルビア人とモンテネグロ人は、セルビア各地を回って抗議集会を開き、共和国憲法の修正を訴えた。これらの抗議集会は各地で熱狂的な支援を受ける。セルビア人の伝統や心理を巧みにとらえて急浮上したミロシェヴィチのもと、セルビア人の民族主義がこれまでになく高まった。
ミロシェヴィチは民族派知識人を合わせることで、セルビア共和国の統合を推進しようとした。ちょうど、この時期に民族派知識人がセルビア人の政治綱領を構想していた。85年から秘密裏に文書の草案が練られていたが、草案の段階で外部に漏れてしまい。89年9月にベオグラードで発行されている夕刊紙『Вечерње новостиヴェチェルニ・ノーヴォスティVečernje novosti』に「Меморандумメモランダム(覚書き)Memorandum」としてスクープされた。社会主義体制に批判的な民族派知識人が多くを占めるセルビア科学・芸術アカデミーが作成したもので(作家で、92年に新ユーゴの大統領に就任するチョシッチが起草したとされている)、正式名称は「セルビアの復興のためのメモランダム」である。
*Српски / srpskiセルビア語⇒Меморандум Српске академије наука и уметности, или краће Меморандум САНУセルビア科学芸術アカデミーの覚書、通称SANU覚書Memorandum Srpske akademije nauka i umetnosti (skraćeno Memorandum SANU) , нацрт је документа који је израдио одбор од 16 чланова Српске академије наука и уметности у периоду од 1985. до 1986.
*ドブリツァ・チョシッチ(Dobrica Ćosić、1921年12月29日 - 2014年5月18日[1])Добрица Ћосићはユーゴスラビア連邦共和国初代大統領。
アカデミーはこの文書は公式文書ではないとしたが、起草者にはАнтоније ИсаковићイサコヴィチAntonije Isaković、歴史家のРадован СамарџићサマルジィチRadovan Samardžić、Василије КрестићクレスティチVasilije Krestić、そして60年代から70年代にかけての反体制知識人グループ「プラクシス派Praxis filozofija」の中心人物であった社会学者Михаило МарковићM・マルコヴィチMihailo Marković(のちに、ミロシェヴィチ率いるセルビア社会党のブレーンとなる)など16名のアカデミー会員が名を連ねている。
「メモランダム」は、チトーとカルデリによって形成された「74年憲法体制」こそがユーゴにおける様々な問題を生じさせた根源であるという認識に立っている。そして、クロアチアとスロヴェニアと比べて、経済的にも政治的にも差別を被っていると非難する。こうした状況を改善するためには、共和国憲法を修正して、コソヴォとヴォイヴォディナ自治州をセルビア共和国の憲法の枠内に収めることが必要だとする。この文書は確かにセルビア人の民族主義を前面に掲げたものであるが、「74年憲法体制」下のセルビア人の心情をストレートに表現したにすぎず、これをただちに領土拡大を目指す「大セルビア主義」の政治文書だとまではいえないだろう。
セルビア共産主義者同盟は、この文書が民族主義的宣言であるとして公的に非難した。しかし、ミロシェヴィチは自らの地位を確保するための戦術として、チョシッチら民族派知識人との協調関係を強めていった側面が強いし、「74年憲法体制」に対する評価をかれらと共有していた側面も見逃せない。ミロシェヴィチはコソヴォのセルビア人とモンテネグロ人の保護を明確にして、「メモランダム」の主張を実践していったのである。この結果、セルビアでは「74年憲法体制」の立て役者チトーに代わり、ミロシェヴィチに対する熱狂的な支持が与えられていく。死後5,6年を経て、公共の場所や商店に掲げられていたチトーの写真が取り外され、代わりにミロシェヴィチの写真が貼られていった。
深刻化するコソヴォ問題
ミロシェヴィチと民族派との協調関係を背景として、コソヴォではセルビア人とモンテネグロ人が活発な行動を展開した。これに対して、沈黙を保ち続けていたアルバニア人は、88年11月に74年憲法修正案が可決され、セルビア共和国憲法の修正が議事日程に上ると、ふたたび反セルビア、自治権確保を掲げたデモを開始した。
89年2月、コソヴォで二度にわたるデモが生じ、北部にあるトレブチャ鉛・亜鉛鉱の鉱山労働者約1100人が、坑内にたてこもり自治権確保を要求した。これに呼応し、他の町々の工場労働者もストライキに入り、コソヴォはゼネスト状態に陥った。これに対して、連邦幹部会はコソヴォ自治州に「特別措置」を発動して、コソヴォを連邦人民軍の管轄下に置いた。さらに3月に入ると、自治州共産主義者同盟議長のヴラシがゼネストの指導者として逮捕され、ストに加わった労働者に対する「強制労働令」が布告された。
緊迫した状況下で3月末に、コソヴォ自治州議会とセルビア共和国議会が、相次いで共和国憲法修正案を可決した。これにより、セルビア共和国は国防、安全保障、治安、国際電力、社会計画の分野で、二自治州を含む統一体として機能する権限を与えられた。自治州の権限は縮小されたのであり、これに反対するアルバニア人のデモが激化した。
3月末までに、81年の「コソヴォ事件」を上回る死者23人(うち警察側2人)を出すに至った。当時のアルバニア人の動きの特徴は、「コソヴォ事件」まで中心的役割を果たしてきた学生に代わり、労働者が前面に登場したことであろう。事の重大さが窺われた。
これ以後も、コソヴォ内のアルバニア人とセルビア人、モンテネグロ人との対立関係はますます激化していく。6月28日、「コソヴォの戦い(1389年に中世セルビア王国をはじめとするバルカン連合軍がオスマン軍に敗北した戦い)の600周年を記念して、Косово Поље / Kosovo Poljeコソヴォ・ポーリェ(コソヴォ平原)Fusha e Kosovësで、約100万のセルビア人が集会を開いた。この集会はミロシェヴィチ体制公認のものであり、これがアルバニア人の民族感情を刺激したことは容易に想像される。
コソヴォでは90年1月から2月にかけて、さらに激しい衝突が繰り返され、多くの犠牲者を出した。こうしたなかで、コソヴォに作家のルゴヴァを指導者とする野党勢力「コソヴォ民主同盟」が結成され、自治権拡大要求にとどまらず、民主化の動きを明確にしていたスロヴェニアの影響を多分に受けて、一党制批判や自由選挙の実施要求などを掲げた。7月には、コソヴォ自治州のアルバニア人議員が、「コソヴォ共和国」としてセルビア共和国から独立することを宣言し、9月には憲法を制定した。
*コソボ民主連盟(コソボみんしゅれんめい、アルバニア語:Lidhja Demokratike e Kosovës; LDK)は、コソボの政党。
*イブラヒム・ルゴヴァ(アルバニア語: Ibrahim Rugova, セルビア語: Ибрахим Ругова, 1944年12月2日 - 2006年1月21日)は、コソボの政治家。アルバニア人主導のコソボ政府および国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)統治下の同国大統領を務めた。
歴史上、自らの国家を形成したことのないスロヴェニアが「国家主権」を強調し、「分離権」を持ちだしてまで、「経済主権」を保持しようとする事態にたち至ったのである。「連邦制の危機」はだれの目にも明らかであった。
遅れた「実験国」
89年秋から冬にかけて、東欧諸国で急速な体制転換が進行し、共産党による一党体制が崩壊した。80年代に、ポーランドやハンガリーでは経済状況の悪化を契機として、共産党が経済問題の解決のために様々な改革に取り組むが、効果をあげられず、自由化・民主化を求める野党勢力と協力せざるを得なくなる。その過程で、さらに大きく力を増す野党勢力により、一元的な共産党支配の社会主義が否定された。こうして、複数政党制による自由選挙が実施されたのである。