日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆ Jugoslavija / Југославија★Yugoslavia Modern History/L'histoire moderne de la Yougoslavie・Nobuhiro Shiba/ユーゴスラヴィア現代史・柴宜弘⑪


93年1月に発足したアメリカのクリントンBill Clinton政権は、大統領選挙中に公約したこともあり、ボスニア内戦に積極的に関与するため、武力行使を含む独自の提案を模索していた。しかし、明確な代案を持ちだすこともできず、ヴァンス=オーエン共同議長案に沿う形で積極的に関与することを発表した。ほとんど効果がなかったが、2月末からボスニア東部地域への、輸送機による人道援助物資の投下作戦が展開された。
アメリカはこの作戦にロシアの参加をも要請した。ボスニア内戦を「対岸の火事」と考えることのできないロシアは、慎重な態度をとってきた。一方、国際的に孤立した新ユーゴは、同じ正教の国家であるロシアのエリツィンBoris Jeljcin政権との関係を密にしていた。しかしロシアにとって、対ロ支援に積極的なアメリカとの関係はきわめて重要なものであり、投下作戦への参加を表明するにいたる。このように、「冷戦」後のユーゴ内戦をめぐって、欧米諸国はいやが上にも自らの態度表明を迫られたが、それぞれの利害関係からなかなか足並みがそろわず、内戦に対して和平案にせよ軍事行動にせよ、効果的な手段を講ずることができなかったのである。

政治的経済軍事的対決か
冷戦後最大の紛争であるこのボスニア内戦に対して、ECと国連は「セルビア悪玉論」に依拠しつつ、2万3000人(94年末現在)の国連保護軍を派遣する一方で、和平会議を開催して対応してきた。これまでえ、政治的解決の基礎として四つの和平案が提示されているので簡単に整理しておく。
第一の和平案は内戦が本格化する直前の92年3月、当時ECの議長国ポルトガルがリスボンで提示した「Karington-Kurtiljerov planクティリエロ案Carrington–Cutileiro plan」である。ボスニアは三民族からなる一国家とし、三民族に第三者をも加え、5年という十分な時間をかけて領域の設定を行う。そして、三民族のカントンCanton(州)からなる連邦国家を形成するというものであった。
三勢力は3月18日にサラエヴォにおいて、この案の受入れで合意したが、この直後に、なおボスニア・ヘルツェゴヴィナの一体性の保持にこだわるムスリム勢力の指導者イゼトべゴヴィチは、当時の在ユーゴ・アメリカ大使ツィンマーマンZimmermannと接触するなかで、その支援を期待して署名を撤回してしまった。これによって、三勢力が話し合いによって問題の解決を図ろうとする可能性は失われてしまい、内戦をおしとどめることができなかった。
第二の和平案は93年1月、ECと国連による和平会議の共同議長が提案した10分割案(「Vens-Ovenov planヴァンス=オーエン案Vance–Owen Peace Plan」である。これは内戦前の民族分布に基づき、10の州からなる連邦連邦国家を形成し、三勢力がそれぞれ三州の知事職を確保する。サラエヴォは三勢力による特別州として非軍事化するというものであった。ムスリム人とクロアチア人勢力はこれを受諾したが、内戦によってボスニアの領土の70%を支配下に置いていたセルビア人勢力がこれに強く反対したため、この案も実施できなかった。
これに代わって6月に浮上した第三の和平案が、和平会議の共同議長による三分割案(「Oven-Stoltenbergov planオーエン=シュトルテンベルク案Owen–Stoltenberg plan」)である。これは内戦による実効支配地域に基づいて、三民族別の国家連合を形成する案であった。セルビア人とクロアチア人勢力の発案に基づくこの案に対しては、現状の固定化に強く反対するムスリム人勢力が受入れを拒否し続けた。このように、三つの和平案はいずれも実行に移すことができなかったのである。
EUと国連主導による和平がなかなか功を奏さず、国連保護軍の犠牲者数が増えていくにつれ、国際社会に軍事力の行使による解決を求める気運が作られた。もともとNATO案による空爆については、ボスニアの国連保護軍に最大の兵力を送り込んでいるフランスやイギリスなどヨーロッパ諸国と、兵士を派遣していないアメリカとの間で見解の違いがみられた。フランスとイギリスは地上の国連保護軍兵士に多大な影響を与えかねない空爆に消極的であり、一方アメリカは早期解決を目指し、空爆に積極的であった。
ちょうどこの時期の93年12月、国連の明石康が旧ユーゴ問題担当・事務総長特別代表に任命された。明石特別代表は国連保護軍の最高責任者として、軍事や人道補助部門など国連活動すべての直接の指揮をとることになった。着任早々、武力行使ではなく政治交渉によるボスニア内戦の解決という一貫した方針に基づいて、三勢力と接触した。アメリカを中心として国際社会に一般的となっていた「セルビア悪玉論」にとらわれることなく、三勢力と等距離の姿勢を保った。しかし、内戦の解決にNATOの軍事力を行使する方向が強まるなかで、国連や明石特別代表の存在は小さくなり、明石特別代表は95年11月、辞任に追い込まれてしまった。

*Françaisフランス語→Yasushi Akashi明石 康 , né le 19 janvier 1931 à Hinai (en), dans la préfecture d'Akita(秋田県出身), est un haut diplomate japonais et administrateur des Nations Unies.
さて、94年2月、サラエヴォの青空市場に迫撃砲が撃ち込まれ69人の死者が出ると、「セルビア悪玉論」がまたもや噴きだした。サラエヴォを包囲しているセルビア人勢力がこの事件を引き起こしたことの決めつけが先行し、国連安保理でついに空爆決議が採択され、米軍を中心とするNATOによるサラエヴォ空爆が現実化した。しかし、ロシアが最終局面で登場してセルビア人勢力との調停活動に当たったことにより、この時点での空爆は回避された。これ以後、ボスニア内戦における米・ロの関与が強まっていく。
ボスニア内戦に「ムチの政策」で望もうとする国際社会の動きは、NATOによるセルビア人勢力への限定的空爆という形で実現することになった。これには、内戦の政治的解決を早めようとする目的があったようである。限定的空爆は94年4月に初めてボスニア東部のゴラジュデにあるセルビア人勢力の拠点に対して行われてから、11月下旬にクロアチア領内のセルビア人支配地域クライナに実施されるまで六度におよんだ。しかし、政治的効果をあげることはできなかった。
*ゴラジュデ(ボスニア語: Goražde,クロアチア語: Goražde,セルビア語: Горажде)はボスニア・ヘルツェゴビナの都市及びそれを中心とした基礎自治体である。
こうした空爆と関連して、力の政策を強めようとするNATOと、あくまで政治的解決を図ろうとする国連との見解の相違がみられた。しかし国連としても、旧ユーゴに派遣された。約四万(PKO部隊全体の半数以上を占める)の国連保護軍の維持が困難になっていることは事実であり、国連保護軍の撤退問題が議論され始めた。これにともない、NATOによる本格的軍事介入の方向が模索された。
*国際連合平和維持活動Мировне операције Уједињених нација(こくさいれんごうへいわいじかつどう、英: United Nations Peacekeeping Operations)は、国連憲章でうたわれた集団安全保障を実現し[1]、紛争において平和的解決の基盤を築くことにより、紛争当事者に間接的に平和的解決を促す国際連合の活動である。日本ではPKOと称されることが多い。PKOに基づき派遣される各国軍部隊を、国際連合平和維持軍(こくさいれんごうへいわいじぐん、英語: United Nations Peacekeeping Force)という。日本ではPKFとも略される。
一方、94年3月、アメリカの主導によりこれまでとは異なり、実質的にボスニアを二分割する和平案が提起されていた。アメリカはセルビア人勢力を除外し、影響力の及ぼしやすいボスニア政府(ムスリム人勢力が中心)、クロアチア人勢力、それにクロアチア共和国政府の三者をワシントンに呼び、二分割案を提示した。三者の交渉が行われ、まずボスニア二勢力が連邦国家を形成し、この連邦国家とクロアチア共和国との間で国家連合を形成することで合意に達した。3月18日には、クリントン大統領立ち会いのもとで、ムスリム人とクロアチア人両勢力による「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」憲法案が調印された。興味深いのは、この憲法案によると、構成民族が、19世紀後半のハプスブルク帝国によるボスニア統治の際に用いられた言葉と同じく、「ボスニア人」とクロアチア人と規定されていることである。

また、ボスニア政府とクロアチア共和国政府との間で、国家連合に関する合意書も調印された。これに対して、セルビア人勢力は反対したが、5月末には暫定的な形ながら大統領にクロアチア人勢力の指導者ツバクが、副大統領にはムスリム人勢力の共和国幹部会副議長ガニッチが選出され、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」が成立した。イゼトベコヴィチ共和国幹部会議長は現職にとどまり、いぜんとして実権を保持することになる。さらに、6月末に形成された連邦政府の首相には、ムスリム人勢力のシライジッチ外相(91年1月、政治組織の違いからイゼトべコヴィチと対立して、首相を辞任)が任命された。この時の連邦政府の民族構成は「ボスニア人」14名、クロアチア人13名、セルビア人1名であった。

*Hrvatskiクロアチア語⇒Krešimir Zubak (Doboj, 25. siječnja 1947.), hrvatski bosanskohercegovački političar, prvi predsjednik Federacije BiH i prvi hrvatski član Predsjedništva BiH.

*エユプ・ガニッチ(ガーニッチとも、ボスニア語:Ejup Ganić、セルビア語:Ејуп Ганић、1946年3月3日 - )は、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治家、工学者であり、1997年から1999年まで、および2000年から2001年までボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の大統領を務めた。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Haris Silajdžić (1. 9. 1945. -) je bosanskohercegovački političar, koji je od 2006. do 2010. služio kao bošnjački člana Predsjedništva Bosne i Hercegovine, a 2010. i kao predsjednik BiH.

和平協定の成立
「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」が既成事実となっていくなかで、ボスニア和平はこの延長線上で進められていく。EUと国連に代わり、94年5月にはボスニア和平のために米、ロ、英、仏、独からなる「連絡調整グループ」が形成された。「連絡調整グループ」は、7月に四つめの和平案である二分割案に基づき、ムスリム人・クロアチア人勢力51%、セルビア人勢力49%の領土配分からなる新和平案を「最後通告」として提示して、セルビア人勢力に受諾を迫った。
*The Contact Group連絡調整グループ is the name for an informal grouping of great powers that have a significant interest in policy developments in the Balkans. The Contact Group is composed of United States, United Kingdom, France, Germany, Italy, and Russia. It was first created in response to the war and the crisis in Bosnia in the early 1990s.
セルビア人勢力は新和平案の受入れを拒否していたが、12月に入り、「連絡調整グループ」は新和平案の修正を示した。この修正案の中心は、それまでセルビア人勢力が主張していた点を盛り込んだことであった。すなわち、ムスリム人・クロアチア人勢力51%、セルビア人勢力49%という領土配分の比率は変えないが、交渉により分割地図変更の余地を残したこと、セルビア人勢力にも新ユーゴとの国家連合を形成する可能性を与えたことである。これに基づいき、カーターJimmy Carter元米大統領が12月に特使としてボスニアに赴き、両勢力と会談し、セルビア人勢力からも同意を得て、95年1月からの四ヶ月停戦が成立したのである。
しかし、95年5月1日にボスニア全土の四ヶ月停戦が失効してしまう。停戦期間中から、すでにムスリム人勢力とセルビア人勢力との戦闘が継続していたが、失効以後、両者の戦いは激化した。5月末には、NATOの軍機がセルビア人勢力の拠点パレの武器庫を空爆した。これに対して、国際的に孤立化したセルビア人勢力は国連保護軍の要員を人質にとり、その一部の人を軍事施設内に鎖でつなぎ「人間の盾」とする「反人道的」な行為にでざるを得ないほどに追い込まれた。さらに、NATO軍の空爆はエスカレートし、8月末から9月中旬にかけて本格的な空爆が実施された。三千数百回におよぶ出撃が繰り返され、セルビア人勢力の軍事施設だけでなく、民間施設にも多大な被害を与えた。この結果、セルビア人勢力の戦闘能力は確実に低下した。

*パレ (セルビア語: Пале、ボスニア語: Pale、クロアチア語: Pale)はボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうちスルプスカ共和国に属する町でそれを中心とした基礎自治体である。
NATO軍によるセルビア人勢力空爆を契機として、ボスニア和平問題に対するアメリカの影響力がいっそう増大し、アメリカを中心とする和平の方向が明確になる。アメリカは空爆を行う一方、9月8日には紛争当事国、ボスニア、クロアチア、新ユーゴの外相を集めてジュネーヴで和平会議を開催した。この会議で、ボスニアの「セルビア人共和国」が初めて国際的な承認を受け、その名称を正式に使用された。また、ボスニアの国境線維持とともにセルビア人勢力と新の「特別な関係」も認められた。これ以後、セルビア人勢力も和平に積極的にかかわるようになり、9月末には再度ニューヨークで三外相会議行われた。
11月にオハイオ州デイトンの空軍基地で、米主導のユーゴ和平協議が始められ、23日に紛争当事国三首脳が和平協定に仮調印し、12月14日にはパリで正式調印された。大統領選挙を控えて、そのなかで、ボスニアの一体性を唱え続けてきたムスリム人勢力が、事実上の二分割を認めたことからして、最も大きな妥協をしたということができる。

*ボスニア・ヘルツェゴヴィナ和平一般枠組み合意(ボスニア・ヘルツェゴヴィナわへいいっぱんわくぐみごうい、ボスニア語・セルビア語・クロアチア語:Opći okvirni sporazum za mir u Bosni i Hercegovini/ Општи оквирни споразум за мир у Босни и Херцеговини、英語:General Framework Agreement for Peace in Bosnia and Herzegovina)、またはデイトン合意(デイトンごうい、ボスニア語・セルビア語・クロアチア語:Daytonski sporazum/Дејтонски споразум、英語:Dayton Agreement)とは、1995年11月にアメリカ合衆国オハイオ州デイトン市近郊のライト・パターソン空軍基地においてまとまり、同年12月14日にパリで署名された和平合意。デイトン・パリ合意などともいう。この合意によりユーゴスラヴィア紛争の1つである、3年半にわたったボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争は終結した。
この結果、3年半以上におよぶ内戦が一応終息した。領土配分をムスリム人とクロアチア人勢力からなるボスニア連邦に51%、セルビア人共和国に49%とした上で、「単一の国家」が維持されることになる。これまで展開されていた国連軍に代わり、米、英、仏などNATO軍を中心とする多国籍の平和実施部隊(IFOR)6万人が、1年の任期で和平の実施に当たる。
*和平履行部隊Implementation снаге(わへいりこうぶたいИФОР、英:Implementation Force, IFOR
Snage za implementacijuは、ボスニア・ヘルツェゴビナに展開していた平和維持部隊。1995年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結のためのデイトン合意に基づき設置された。北大西洋条約機構(NATO)指揮下の多国籍部隊であり、非NATO参加国も含め32ヶ国が参加している。
しかし、軍事力を備えたボスニア連邦とセルビア人共和国からなる「単一国家」をいかに維持するのか、両者の領域を実際にどのように設定するのか、大量の難民帰還問題にどう対処するのかなど、多くの課題が今後に残された。
96年に入り実際に、協定合意が実施に移され、各勢力の切り離しと武器の引渡しが進んだ。しかし、ボスニア連邦の支配地域に組み込まれたサラエヴォ周辺のセルビア人たちの大量移住の問題が生じたり、ボスニア連邦を築くべきムスリム人とクロアチア人勢力とが衝突を起こしたり、イスラムの教えに熱心なイゼトべコヴィチと、アメリカと密接な関係をもつ欧米寄りのシライジッチの対立が表面化したり、混乱した情勢が続いている。難民帰還計画も緒についたばかりである。だが、大枠では和平協定のスケジュールに沿って事が進んでいるといるといえよう。96年9月には、国家幹部会員(3名)、国会議員、ボスニア連邦議会議員、セルビア人共和国議会議員、州議会議員、市町村議会議員を選出する総選挙が実施されて、単一のボスニア・ヘルツェゴヴィナの政治が歩み始めることになるであろう。懸念されているのは平和実施部隊の駐留期限が1年とされているため、これが切れたあとの事態なのである。

終章 紛争からの再生をめざして
ユーゴ内戦と日本
必要に迫られ、ユーゴを含む東欧諸国に関する新聞記事の切り抜きを始めて10年程になる。89年の東欧諸国の体制転換以後、記事の数が格段に増え、スクラップ・ブックはすぐに埋め尽くされてしまう。以前は、1冊あれば十分に1年はもったのだが、クロアチア内戦からボスニア内戦にいたるユーゴ内戦が始まって以来、二週間でそれが一杯になることも多い。30万人近い死者と350万人を超える難民・避難民を出した、凄惨な内戦の記事で埋ったスクラップの山を見ると、いたたまれなくなる。

そのスクラップを読み返してみると、ジャーナリズムの議論の変化や、日本政治の対応の様子を大まかにつかむことができる。ユーゴ内戦に対するわが国の報道は当初、記事の数だけは多くなったのだが、経済関係の乏しいどこか遠い国の惨事といった、一歩引いたとらえ方を感じさせる。バルカン地域というヨーロッパの「危険地帯」で、また生じた紛争といった紋切り型のとらえ方も多かった。結局、複雑な民族や宗教そして歴史を十分に把握しきれずに、よくわからない地域の、所詮よそ事という突き放しがなされてきたと思う。
これは、ユーゴ内戦が始まる時期も、始まってからも「現地主義」に徹する姿勢が見られず、旧ユーゴに常駐するわが国の新聞記者がいなかったことによる部分が大きい。その結果、事実関係を十分に検証することができないままに、欧米諸国の政策に基づく情報操作や、通信社の流すニュースに全面的に依拠せざるを得なかったように思われる。アメリカ主導のもとに形成された「セルビア悪玉論」はその典型であった。
94年1月、明石康特別代表がクロアチアの首都ザグレブに到着して、「セルビア悪玉論」にとらわれずボスニアの三勢力と等距離で接触するようになる。これを大きな契機として、それまでのあまりに一方的な報道が軌道修正されていき、ボスニアのセルビア人勢力や国連制裁の対象国、新ユーゴからの報道も取り入れられるようになった。
一方、日本政府のユーゴ内戦に対する取り組みは、欧米諸国に比べて利害関心が低かったため、決して積極的ではなかった。日本が旧ユーゴから独立した諸国と外交関係を樹立した年月を追ってみると、きわめて慎重な姿勢を採っていたことがわかる。92年5月にスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの三共和国が国連加盟を承認されたあと、スロヴェニアとは92年10月(承認は3月)に、クロアチアとは93年3月(承認は92年3月)に外交関係を結んでいる。ギリシャとの国名論争のため「旧ユーゴスラヴィア・マケドニア共和国」という暫定的な名称で、93年4月に国連加盟を承認されたマケドニアとは、94年3月に至って外交関係を樹立した(承認は93年12月)。ボスニア・ヘルツェゴヴィナと外交関係が樹立されたのは、96年2月のことである(承認は96年1月)。新ユーゴについては、92年5月に国連の制裁が実施されると日本もこれにならい、大使を召還し公使を残して関係を維持している。制裁が解除されたあと、外交関係も正常化されるものと思われる。
このように慎重な姿勢を貫いてきた日本政府は、国連の主要メンバーとして、国連が主催する旧ユーゴ和平会議の政策や国連保護軍の維持費、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR、高等弁務官は緒方貞子)などを通じて人道援助のために、多額の資金を提供してきていた。しかし、多額の援助をしている割には、ユーゴ和平に対する日本の貢献は目に見えないものだったため、目に見える軍事的貢献が問題とされた。これは、明石康特別代表の軍事的貢献要請と呼応して、94年1月に具体化した。旧ユーゴ調査団が送られて、軍事的貢献の可能性が採られたが、ボスニアは危険であるとの判断から、結局、人道的支援を拡充・強化することで落ち着いた。これ以後、日本の外交的な位置を高めるための積極的な姿勢が目立ってきた。

*Deutschドイツ語⇒Sadako Ogata (japanisch 緒方 貞子 Ogata Sadako; * 16. September 1927 in Tokio(東京都出身); † 22. Oktober 2019[1] ebenda) war eine japanische Hochschullehrerin und UN-Diplomatin und UN-Hochkommissarin für Flüchtlinge.
*国連難民高等弁務官事務所Visoki komesarijat Ujedinjenih nacija za izbeglice(こくれんなんみんこうとうべんむかんじむしょ、英称:The Office of the United Nations High Commissioner for Refugees、略称:UNHCR)は、1950年12月14日に設立された、国際連合の難民問題に関する機関。
95年12月、ボスニア和平協定の正式調印が行われ、日本はいっそう人道的支援を具体化させている。1億8000万ドルの支援を表明してきており、95年12月にロンドンで開催されたボスニア和平実施会議で2000万ドルの支援、3月には難民・避難民を支援している国連の四機関に25万5000ドルの緊急援助が、実施されることになったのである。
これと並行して和平実施に向けて、人的貢献の面でも具体的な行動を採っている。たとえば96年2月末、ボスニア和平実施会議の文民部門のスタッフに外務省職員が派遣されたことが、その一例であろう。人的な面では、NGOのボランティア・グループも旧ユーゴ各地に拠点を築き、医療面などで様々な援助を行っている。難民救援グループの募金活動も目立っている。96年9月に予定されているボスニアの総選挙監視団には、多くの日本人の参画が見込まれる。旧ユーゴに政治的・経済的利害関心が薄く、それだけに欧米諸国とは異なり、ボスニア内戦の一勢力に荷担することのなかったことが、日本の果すべき役割を大きくしている。
今後、勝利者不在のボスニア内戦の現場となんらかの理解を持つ人は増えるであろう。そうした人たちは、この地域の歴史的属性である多様性や異質性を許容してきた社会が、同質的な社会に変容し個別化されつつある様子を、目の当たりにすることと思われる。しかし、このような状態を固定化することによって、ボスニアに真の平和が達成されると考えるのは、はなはだ疑わしい。私はボスニアという地域に、多様な民族、宗教、文化が共存できる新たな思考や枠組みを作らない限り、真の平和は達成できないと考えている。
この章では、計り知れない犠牲をともなったボスニア内戦を手がかりとして、多様性や異質性が排除されてしまった背景を検証し、今後新たな多様性を保証し得る枠組みを作る上での展望を切り開く糸口を探りたい。

1 連邦制は破綻したのか
自決の主体
あらためて述べると、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国は、1946年に採択されたユーゴスラヴィア連邦人民共和国憲法によって、連邦を維持できる六共和国のひとつとして承認された。ボスニア・ヘルツェゴヴィナを連邦制のもとで、どのように扱うかは議論の分かれるところであった。この地域をセルビア共和国に属する自治州にすべきであるとの見解がみられた。また、1878年以後のオーストラリア=ハンガリー二重王国直属の州という法的地位と同様に、連邦直属の自治州とすべきだとの見解もあった。しかし、これらの提案は政治的な安定性を欠くとの判断から、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを一共和国とすることになったのである。
この結果、スロヴェニア、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの五共和国がそれぞれ過半数を超える民族の名称を付していたのに対して、過半数を超える民族のいないボスニア・ヘルツェゴヴィナはムスリム、セルビア人、クロアチア人の三者による地域の一体性の保持を大前提としていたのである。
このようなボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の特殊な例があったため、自決の主体を共和国という地域に置くのか、民族に置くのかは重要な問題であった。それを考えるために「分離権」をとりあげてみると、「第二のユーゴ」では、四回にわたり憲法が制定されたが、53年憲法を除き、基本的には共和国の分離権が憲法上は認められていた。しかし、時代やその政治状況との関連では、自決の主体は微妙に変化している。
46年憲法では、分離権を行使する自決の主体は明らかに共和国にあったといえる。その後、ソ連との確執により、48年6月にコミンフォルムから追放され、社会主義の再検討がなされ、自主管理社会主義の方向が示された。この方向を確認したのが53年憲法であり、非国家主義化と民主化、官僚主義の克服が唱えられた。しかし、対外的には東西どちらの陣営にも属さないとの立場を貫いたため、「第二にユーゴ」は厳しい国際環境のもとに置かれていた。そのため、国内的には分離権さえ実質的に先送りされていたのであり、自決の主体の問題は当面の議題とはならなかった。国家の統合を強める必要性が第一義とされたのである。この時期に政策として形成されるのが、「ユーゴスラヴィア人」概念であった。
60年代になると、自主管理社会主義の実質化が目指された。自主管理社会主義と非同盟政策に法的な根拠を与え、国名をユーゴスラヴィア連邦人民共和国からユーゴスラヴィア社会主義連邦へと改称した63年憲法によって、政治や経済や社会の実際の局面で分権化が推進されていった。分離権がふたたび問題とされることになるが、自決の主体については46年憲法とは相違点がみられる。
61年の国勢調査から、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国のムスリムを対象として、「民族的帰属としてのムスリム」という概念が適用されたからである。この共和国の多数者が「民族」として承認されたのであり、この共和国の特殊性は一面で解消された。すなわち、63年憲法は分離権の主体を各共和国ではなく、この「民族的帰属としてのムスリム」を含むユーゴの諸民族に移行したと考えることができる。71年の国勢調査から明確な民族概念としての「ムスリム人」が適用され、「緩い連邦制」を規定した74年憲法でも、分離権の主体については、63年憲法と同様のとらえ方がされた。
しかし、63年憲法には共和国が主体となって、共和国相互の文化協定を結ぶ権利が保障されていたし、74年憲法では共和国・自治州の「経済主権」さえ規定されたのである。したがって、自決の主体は基本的には、共和国にあったといえる。だが、「第二のユーゴ」が解体過程をたどるなかで掲げられたのは、「共和国の自決」ではなく、共和国内で最大多数を占める民族による自決と、「国民国家」の確立であった。”机上の”単一性と同質性が求められたのであり、”現実の”多様性や異質性は排除されてしまったのである。

連邦制に代わるもの
コミンフォルムから追放されたあとの「第二のユーゴ」は、ソ連を反面教師として、ソ連とは異なるシステムとして自主管理社会主義を生みだし、そのもとで様々な「実験」を繰り返してきた。単一国家としての共通の土壌がまだ固まっていないままでの「実験」であった。連邦制もそうした「実験」の一例であり、連邦中央の権限の強いソ連モデルから、「74年憲法体制」のもとで共和国の権限の強い、国家連合形態に連邦制に近い連邦制に移行した。
しかし、この緩い連邦制が存続するためには、同時に、強大な求心力が必要であった。チトーのもとで、共和国に対しても、民族に対しても横断的な組織である共産主義者同盟が中心となって、自主管理社会主義に基づく統合の試みが続けられた。「74年憲法体制」も、分権か統合かという、危うい均衡の上に成り立っていたのである。
こういう危うい均衡への対処は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのような微妙な民族構成の共和国においても見られた。たとえば、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人が共和国の一体性の保持を大前提として、民族構成に応じて政治・経済・社会上のポストを配分しあうことが一般的であった。
80年代にチトーが死去し、「経済危機」が進行するに伴い、先進共和国が後進地域への援助を拒否するなど、共和国の利害が対立して、かつては一枚岩であった共産主義者同盟が求心力を持ち得なくなっていく。そして、共和国の利害対立は容易に民族対立に転化していった。ボスニア・ヘルツェゴヴィナでも、三者のバランスが崩れ始めていく。
いずれにせよ、「第二のユーゴ」で緩い連邦制が解体してしまったのは、連邦制そのものに問題があったというより、これを支える自主管理社会主義の求心力が失われていったことにあると考える。つまり、再考すべき自主管理社会主義の「求心力」とは何か。人々の要求としての「統合」はどのようなものだったのか。「連邦」という形態はどこまで人々の要求にこたえられたのか、という点ではないだろうか。
しかし、分解したユーゴ諸国の経済的な相互依存関係の存在ひとつを考えてみても、現在のところ、多様性や異質性を保障するシステムとして、連邦制に代わり得るものはないように思われる。問題なのは、社会主義体制のもとで「民族自決」に基づいて築かれてきた連邦制なのである。

2 「民族自決」の再考
「民族自決」とは正義か
89年の東欧諸国の体制転換以後、旧ユーゴやチェコ・スロヴァキアの連邦解体過程において、またソ連の解体過程においても、分離傾向を強めたそれぞれの共和国は、第一次世界大戦期に顕著であった「民族自決」に基づく「国民国家」の形成を目指した。これに対して、国際社会には「民族自決」を正義としてとらえ、積極的に支援する傾向が見られた。「セルビア人共和国」や、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国内のセルビア人により「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・セルビア人共和国」といった、
少数者による「共和国」が形成されていった現実がある。
連邦から共和国が独立を宣言する際に掲げられた「民族自決」が崇高な理念であるとすれば、これら共和国の少数者が掲げる「民族自決」も崇高な理念と考えられる。少数者の要求も当然認められなければならない。しかし、現在地域においてこれを認めてしまうと、限りなく小さな「国民国家」ができてしまうので、実際にはそれらは容易に承認されていない。むしろ、「民族浄化」にもつながることだが、異質なものを排除して同質性を強化する傾向がみられているのが現実である。
一方で、「国民国家」の建設と結びついた「民族自決」ではなく、少数者に「自治」を適用すればよいとの考え方がある。しかし、連邦からの独立には「民族自決」が認められているのに、独立した共和国からの分離に「民族自決」がなぜ認められないのかという困難な問題があるのも事実なのである。

民族の相対化
このような現実を前にして、再考しなければならないのは「国民国家」と結びついた「民族自決」という思考である。内戦下の混在地域において、帰属意識(アイデンティティ)のあり方が民族にのみ偏ってしまったが、これを変えていかねばならない。民族や宗教だけではなく、例えば居住地域に対する共通の帰属意識を明確にすることにより、帰属意識の多様性を生み出し、民族や宗教に対する意識を相対化することが必要であろう。
そのためには、気の遠くなるような時間を必要とするかもしれない。しかし、ボスニア和平協定に見られるように、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを単一の国家とすることを前提に考えるのなら、民族や宗教の相対化はどうしても必要なことだと思われる。
帰属意識の多様化という点では、ベルギーの経験が参考になるかもしれない。ベルギーの連邦制は、民族という単一の帰属意識に基づいている。具体的に述べると、オランダ語共同体Vlaamse Gemeenschap、フランス語共同体Communauté française、ドイツ語共同体Deutschsprachige Gemeinschaft Ostbelgienという三言語共同体に、そしてそれと重なるようにしながら、フランデレンVlaams Gewest (オランダ語系)、ワロニーRégion wallonne(フランス語系)、Brussels Hoofdstedelijk GewestブリュッセルRégion de Bruxelles-Capitale(オランダ語系とフランス語系)という三地域に分かれている。ベルギーの国民は地域と言語共同体の双方に二重に帰属しているのである。

*ベルギー王国(ベルギーおうこく、蘭: Koninkrijk België、仏: Royaume de Belgique、独: Königreich Belgien)、通称 ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。首都ブリュッセル(ブリュッセル首都圏地域)は欧州連合(EU)の主要機関の多くが置かれているため「EUの首都」とも言われており、その通信・金融網はヨーロッパを越えて地球規模である。憲法上の首都は、19の基礎自治体からなるブリュッセル首都圏の自治体のひとつ、ブリュッセル市である。
ボス二ア和平協定調印後も衝突が収まらない現状を見るとき、ボスニア・ヘルツェゴヴィナをボスニア連邦とセルビア人共和国に分割し、さらにボスニア連邦を『ムスリム国家』と『クロアチア人国家』に分割することが、一見合理的解決策であるかのように考えがちである。だが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは歴史的に、ムスリムとセルビア人とクロアチア人とが共存の知恵を育みながら維持してきた混在地域として存在し続けてきたのであり、「民族自決」をいかに徹底させようとも、同質的な集団に分割することは不可能なのである。
ひとつのボスニア・ヘルツェゴヴィナを前提にしたとき、ベルギーの連邦制にならって、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの連邦制を具体化してみると、民族と地域という帰属集団を考えることができる。ムスリム人、セルビア人、クロアチア人の三民族共同体、および地域としては自然地理的区分から、北ボスニア地域、中部ボスニア地域、高地カルスト(ヘルツェゴヴィナ)地域である。ベルギーのように地域と言語共同体とがほぼ異なっている場合とは違って、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは民族共同体と地域とが重ならず、問題はなお残るであろう。
しかし、これによって民族一辺倒の意識を相対化することは可能である。最大の問題は、内戦で荒廃した経済の復興を急速に図り、地域に対する帰属意識を十分に持てる状態を作り上げていくことである。そのためにこそ、内戦を長期化させた責任の一部を有する国際社会には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに援助をする義務がある。同時に、多様性や異質性を保障する新たな思考や制度を築くことは、これだけの犠牲をともなった内戦を展開したボスニア・ヘルツェゴヴィナに生きる人々自身の責任といえる。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの新たな「実験」の成否は、旧ユーゴ諸国の人々にとってだけでなく、同じく多様性や異質性を保障するシステムを作り上げる必要のある、バルカン地域をはじめとする多くの人々にも、強い関心を持って見られているのである。
あとがき
最近、ユーゴスラヴィアを舞台にした映画を三本立て続けに観た。ひとつは人口200万の小国マケドニア出身の監督マンチェフスキー(ミルチョ・マンチェフスキ(Милчо Манчевски, Milčo Mančevski, Milcho Manchevski)はマケドニア共和国出身の映画監督・脚本家である)のデビュー作『Pred dozhdotビフォア・ザ・レインBefore the Rain』、そして『O Θίασος旅芸人の記録The Travelling Players』や『Το μετέωρο βήμα του πελαργούこうのとり たちずさんでThe Suspended Step of the Stork』などの作品で、わが国でも名の知られたギリシャの監督アンゲロプロス(テオ・アンゲロプロス(Theo Angelopoulos)ことテオドロス・アンゲロプロス(ギリシャ語:Θόδωρος ΑγγελόπουλοςTheodoros Angelopoulos、1935年4月27日 - 2012年1月24日)は、ギリシャ・アテネ出身の映画監督)の『Το βλέμμα του Οδυσσέαユリシーズの瞳Ulysses' Gaze』、もうひとつは『パパは出張中』や『Dom za vešanjeジプシーのときTime of the Gypsies』でわれわれに強烈な印象を与えた、サラエヴォ出身の監督クストリツァの『アンダーグラウンド』である。三本とも、連邦の解体にともなう戦火のユーゴを背景に、ストーリーが展開されている。
今はないそのユーゴに、念願かなって留学が決まり、古びたベオグラード空港に緊張気味に降り立ってから20年が過ぎた。ユーゴという国にひかれ、この国の歴史を勉強してみようと思い立ってから数えれば、もう四半世紀を超えている。
当時、自主管理と非同盟の国ユーゴに対するわが国の関心は決して低いものではなかったが、私も含めて関心の大部分は「独自の社会主義」の理念にあったように思える。実際に、ベオグラードでの生活を始め、ユーゴの各共和国や自治州に足をのばしてみて感じたことは、風景や、生活習慣や、人々のメンタリティーがかなり異なる地域が、ひとつの国を作っている現実であった。北のスロヴェニア共和国から送られるスロヴェニア語のテレビ放送には、セルビア・クロアチア語のテロップがつけられている。テロップなしには、十分にスロヴェニア語を理解できないことを知った。南の後進的なマケドニア共和国の首都スコピエから、最も豊かなスロヴェニア共和国の首都リュブリャナに飛行機で行ったときなど、その落差に改めて驚かされたものである。
ユーゴの魅力はきわめて多様な地域がひとつの国を形成していることにあった。しかし、このようなユーゴは内戦を経て解体してしまった。ユーゴ研究者として、73年間で歴史の幕を閉じてしまったユーゴはいったい、どのような国だったのかを現時点から検討し直してみなければならない必要性を痛感していた。
新書編集部の柿原寛さんが駒場の研究室を訪ねてくださったのは、ちょうどこのような時期であった。もう、二年以上前のことになる。ユーゴの紛争をたんに「決定論」の観点から描くのではなく、それを歴史のなかでとらえ直し、そこから何を学びとるのかといった視角からユーゴ現代史を叙述してみることで意見が一致した。しかし、ボスニア内戦が継続しているなかで、いざ書き始めてみると、どの時点で区切りをつけたらよいのか決断がつかず、執筆は大幅に遅れてしまった。本格的に取り組むことができたのは、ボスニア和平協定が調印されてからのことである。
本書は『ユーゴスラヴィア現代史』と銘打っているが、ユーゴという枠組みの持つ意味を、歴史的に再考してみることを意図しているので、近代の歴史にも章を割いている。これと関連して、読者の理解に役立つと思われる多数の地図と略年表を入れてある。是非、参照してもらいたい。本書が民族や国家に関心を持つ多くの人たちに読まれることを願っている。
最後になるが、原稿の遅れを辛抱強く待ち、丹念に原稿を読んでは貴重な意見を述べてくださった柿原さんに、あらためて感謝の意を表したい。また、本書執筆中、一方的に私の考えや愚痴を聞く羽目に陥った家族にもひとこと感謝の言葉を述べておく。                  1996年4月   柴宜弘





Nobuhiro Shiba (Direktor des Institute of Central European Studies, Josai International University, emeritierter Professor der University of Tokyo) starb am 28. im Alter von 74 Jahren an einem akuten Myokardinfarkt.Nobuhiro Shiba (Director of the Institute of Central and European Studies, Josai International University, Professor Emeritus of the University of Tokyo) died of acute myocardial infarction on the 28th, 74 years old.

The Passing of Prof. Nobuhiro Shiba 柴宜弘教授 (1946 – 2021)
It is with great sadness that we announce that Professor Nobuhiro SHIBA, Professor Emeritus of the University of Tokyo and Professor of Jōsai University passed away unexpectedly on Friday, May 28, 2021, at the age of 75 in Tokyo. Professor Shiba was one of pre-eminent Japanese historians of Southeastern and Central Europe and an excellent expert on the history of the former Yugoslavia. For his merits in his historiographical work on the Balkans and Slovenia's position in the region, in 2017 the President of the Republic of Slovenia Borut Pahor awarded him »the medal for merits« for his contribution in informing the Japanese public about the historical social circumstances of Slovenia's path to independence. His research path is closely connected with research institutions in Slovenia, such as the long-term project cooperation with the Institute of Contemporary History. His personal and professional ties connecting Japan and Slovenia also left a mark on the Department of Asian Studies at the Faculty of Arts, University of Ljubljana, since its establishment 25 years ago, and we will remember him as a warm and open-hearted man, an excellent historian, mentor and a friend.
2021/10/11 『ユーゴスラヴィア現代史 新版』刊行 著者・柴宜弘氏が急逝 門下生がバトン | 毎日新聞 旧ユーゴスラビア研究の第一人者、柴宜弘(のぶひろ)・城西国際大特任教授の著書『ユーゴスラヴィア現代史 新版』(岩波新書)が8月に刊行された。柴さんはその3カ月前に急逝したが、門下生の研究者らが校正作業を引き継ぎ、予定どおりの時期に無事出版にこぎつけた。1996年に出た初版は、民族や宗教が複雑に交錯するユーゴ情勢を解き明かした名著でロングセラーとなった。今年がユーゴ解体から30年の節目にあたることから、岩波書店はその後の動きも含めた全面改訂版の刊行を昨年秋に提案。柴さんは精力的に取り組み、今年3月末に原稿を書き上げた。校正作業が進んでいた5月28日、千葉県内の自宅で旧ユーゴのスロベニアに関するオンライン国際会議に参加していた柴さんは突然意識を失った。妻の理子(りこ)さん(63)=同大教授(ポーランド史)=が異変に気付き、救急車で病院に搬送されたが、まもなく死去した。享年74。急性心筋梗塞(こうそく)だった(東京夕刊)
*Polskiポーランド語→柴理子(Riko Shiba)城西国際大学(JIU) Międzynarodowy Uniwersytet Josai教授Profesor国際交流史Historia wymiany międzynarodowej中欧地域研究Europa Środkowa Studia obszaroweポーランド近現代史Polska Historia współczesna
Oct 11, 2021 —"Yougoslavia Modern History New Edition" publié L'auteur Nobuhiro Shiba est décédé subitement
Le livre "Yougoslavia Modern History New Edition" (Iwanami Shinsho) de Nobuhiro Shiba, professeur spécialement nommé à l'Université internationale de Josai, chercheur de premier plan en Yougoslavie, a été publié en août. M. Shiba est décédé subitement trois mois auparavant, mais les chercheurs de ses étudiants ont repris le travail de relecture et l'ont publié avec succès à l'heure prévue. La première édition, publiée en 1996, est devenue un livre de longue date qui a dévoilé la situation en Yougoslavie, où les groupes ethniques et les religions sont intimement mêlés. Puisque cette année marque le 30e anniversaire du démantèlement de Yugo, Iwanami Shoten a proposé la publication d'une version entièrement révisée incluant les mouvements ultérieurs à l'automne de l'année dernière. M. Shiba a travaillé dur et a écrit le manuscrit fin mars de cette année. Le 28 mai, alors que le travail de relecture était en cours, M. Shiba, qui assistait à une conférence internationale en ligne sur la Slovénie dans l'ex-Yougoslavie à son domicile de la préfecture de Chiba, a soudainement perdu connaissance. Sa femme, Riko (63 ans), professeur à la même université (histoire de la Pologne), a remarqué quelque chose d'inhabituel et a été transportée à l'hôpital en ambulance, mais est décédée peu de temps après. Année de plaisir 74. Il s'agissait d'un infarctus aigu du myocarde.



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