日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆ Jugoslavija / Југославија★Yugoslavia Modern History/L'histoire moderne de la Yougoslavie・Nobuhiro Shiba/ユーゴスラヴィア現代史・柴宜弘③


*イェルネイ・コピタル(Jernej Kopitar, 1780年8月21日 - 1844年8月11日)は、スロベニアの文献学者、言語学者。
*カルニオラ(拉・伊: Carniola)は、スロベニア中央部地方の地名である。クライン (独: Krain)、クランスカ (スロベニア語: Kranjska)、クラニスカ (セルビア・クロアチア語: Крањска/Kranjska)。
*Slovenščinaスロヴェニア語→Anton Vodnik, slovenski pesnik, esejist, umetnostni zgodovinar in urednik, * 28. maj 1901, Podutik, † 2. oktober 1965, Ljubljana.
このように、スロヴェニア語の確立とともに、スロヴェニア人としての民族的自覚が生み出される。さらに、1809-13年のあいだ、スロヴェニア人が多く居住クラインとケルンテンは、クロアチア、ダルマチアとともにナポレオンの統治する「イリリア諸州」に組み入れられた。ここでは、スロヴェニア語も公用語とされたため、かれらの民族意識がいっそう強まった。
*ケルンテン州(ケルンテンしゅう、独: Kärnten [ˈkɛʁntn̩] )Koroška (zvezna dežela)は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。

*ケルンテン公国 (ドイツ語: Herzogtum Kärnten; スロベニア語: Vojvodina Koroška ヴォイヴォディナ・コロシュカ)は、かつて南部オーストリアと北スロベニアにまたがって存在した公国。
ハプスブルク帝国内において、文化的な民族意識の覚醒にともない政治的な民族運動が発生するのは、1848年革命の時期である。スロヴェニアでは、クライン、ケルンテン、シュタイアーマルクなどのスロヴェニア人地域を含む統一スロヴェニアの自治が、初めて要求として掲げられた。この要求は退けられてしまうが、これ以後、スロヴェニアを代表する詩人プレシェレンに見られるように、ドイツ語に代わってスロヴェニア語で作品を書く文学者が多数を占めることになる。そして、ハプスブルク帝国内に分散していたスロヴェニア人にとって、スロヴェニア人意識が強まるにつれ、居住地域の統合が最大の関心事になっていった。
*シュタイアーマルク州(シュタイアーマルクしゅう、ドイツ語: Steiermark Steiermark)Štajerska (zvezna dežela)は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州の1つである。

*フランツェ・プレシェーレン(France Prešeren, 1800年12月3日 - 1849年2月8日)は、スロベニアの詩人。プレシェーレンは国内および地域に限らず、発展したヨーロッパ文学界の標準からも、スロベニア詩人の第一人者と見なされる。彼はヨーロッパにおけるロマン派の最良の作家の一人であった。熱烈な心からの訴えであり、激しく情緒的で、しかしながら単なる感傷ではないその作品は、彼をスロベニアのロマン主義の代表とした。

3 オスマン帝国支配からハプスブルク帝国支配へーボスニア・ヘルツェゴヴィナ
ボスニア人意識とは
ボスニアとはサヴァ川の支流ボスナ川にちなんだ地名である(サヴァ川はスロヴェニアに水源を発し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナとクロアチアとの境界を築き、セルビアに流れ込む)。旧ユーゴの中央部に位置し、セルビアとクロアチアとに挟まれたボスニアに、6世紀から7世紀初頭にかけて南スラヴ族が定住した。北部と西部にはクロアチア人、南部と東部にはセルビア人が優勢となった。しかし、言語を同じくしながらも、セルビア人ともクロアチア人とも異なる人たちが、マケドニア人の場合と同様に、ボスニア人としてのはっきりした自己意識を持たないまま存在していたことにも注目すべきである。

*ボスナ川(Bosna,Босна)はボスニア・ヘルツェゴビナを流れる川で、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内を流れる3つの重要な河川の一つである。
10-12世紀にかけて、セルビア、ハンガリー、ビザンツ帝国Bizantijsko Carstvoがボスニアの領域を交互に支配した。12世紀になるとクリンという支配者が現在のボスニア中部を統一して、中世ボスニア王国を建国した。この結果、ボスニアの人たちはセルビア人ともクロアチア人とも異なる明確な自己意識と生活様式を持つことになる。かれらは地域名であるボスニアをとって、自らをボスニア人と意識していたようである。


*Bosanskiボスニア語→Kulin ban je bio bosanski ban koji je vladao Bosnom od 1180. do 1204. godine. Poznat je po svojoj povelji.Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Kulin ban je bio bosanski ban koji je vladao Bosnom najkasnije od 1180. do 1204. godine. Postoji i mišljenje da je vladao od 1167. Poznat je po svojoj povelji.

*ボスニア王国(ボスニア語: Banovina Bosna/Босɖɴскɖ бɖɴоvнɴɖ)は、中世のボスニアに存在していた国家である。
このボスニアは東方世界と西欧世界のはざまの地帯にあたり、東方正教会とローマ・カソリック双方の影響が容易におよばなかった。従来の研究では、こうした状況において、二元論に基づく中世の異端ボゴミル派がボスニアに拡大し、ボスニア教会を組織して布教活動にあたったとされることが多かった。しかし、アメリカのバルカン中世史家ファイン(John V. A. Fine Jr. (born 1939) Џон ван Антверп Фајнis an American historian and author. He is professor of Balkan and Byzantine history at the University of Michigan and has written several books on the subject)の最近の実証研究によると、ボスニア教会はカトリック教会の分離派にすぎず、ボゴミル派がボスニアで多数を占めたわけではなかったことが示されている。
*ボゴミル派Богомилство(ボゴミルは)Bogumiliは、10世紀半ばから14世紀末までブルガリアを中心にバルカン半島で信仰されたキリスト教の一派である。善悪二元論と現世否定に特徴があり、正教会では異端とされた。
*ボスニア教会 (ボスニアきょうかい、ボスニア語: Crkva bosanska/Црква босанска) は、中世ボスニアに存在したキリスト教の一派である。ローマ・カトリック教会や東方正教会のいずれからも独立しており、同時に異端視されていた。
中世ボスニア王国は14世紀のコトロマニッチKotromanićiの治世に、のちにヘルツェゴヴィナと呼ばれることになるフム地方をも支配下に置き、ボスニアとヘルツェゴヴィナとの統一の基礎を築いた。コトロマニッチの後継者トヴルトコはさらに領土を拡大し、衰退しつつあった隣接のセルビア王国に代わってバルカン最強の国家となった。しかし、かれの死後に内紛が生じ、15世紀後半にはボスニアはオスマン帝国の統治を受けることになった。

*Bosanskiボスニア語→Stjepan Tvrtko I Kotromanić (oko 1338 – oko 10. marta 1391) bio je bosanski ban od 1353. do 1377, a zatim i prvi bosanski kralj do 1391.
*Bosanskiボスニア語→Kotromanići su bili bosanska vladarska dinastija koja je vladala približno od 1250. do 1463. godine. Vladali su u Bosni kao banovi i kasnije kao kraljevi, te 1459. godine u Srbiji kao despoti.
ボスニアではオスマン帝国Osmanlijsko Carstvoの支配下でムスリムMuslimanへの大量改宗が進行する。この改宗についても、ボスニア教会のボゴミル派が大量に改宗したと説明される傾向が強かったが、ファインの研究にしたがい、ボスニア教会の信者はムスリムに改宗しただけでなく、カトリックにも正教にも改宗したし、改宗はオスマン帝国のボスニア進出直後にいっきに行なわれたのではなく、長期にわたって進行したと考えることが妥当であろう。
ボスニアは400年以上にわたるオスマン帝国の統治のあいだに、ボスニア王国の領土的一体性を損なわれることなく、三つのサンジャク(県)、すなわちボスニア、ズヴォルニク、ヘルツェゴヴィナからなる一つのペイレルベイリクあるいはヴィラーニト(州)として行政的に、区分されていた。先にふれたように、オスマン帝国はムスリムと非ムスリムという宗教的帰属に基づいて統治を行なったため、ムスリム、正教徒、カトリック、ユダヤ教徒(16世紀にイベリア半島から移住してきたセフォルディム)の区別は明白であった。しかも、ムスリムはオスマン社会で支配的な地位につくことができたが、正教徒、カトリック、ユダヤ教徒はそうはいかなかった。
*サンジャク(セルビア語:Санџак/Sandžak、ボスニア語:Sandžak、アルバニア語:Sanxhak/Sanxhaku、トルコ語:Sancak)、またはラシュカ(セルビア語:Рашка/Raška)はセルビアとモンテネグロの国境にまたがって広がる地域の名称。イスラム教徒、ボシュニャク人が多い地域として知られる。
*ズヴォルニク(セルビア語:Зворник、ボスニア語:Zvornik、クロアチア語:Zvornik)は、ドリナ川沿いに位置するボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体。
しかし、宗教・社会上の違いは別として、ここに住む人たちがボスニアという領域に対する共通の帰属意識を持っていたことも確かである。このボスニア人意識はムスリム、正教徒、カトリックと直接結びつくものではなく、ましてセルビア人意識やクロアチア人意識と結びつくものでもなかった。オスマン帝国統治下のボスニアでは、まだ地域を基盤にして作られたボスニア人意識が一般的だったといえるであろう。

ハプスブルク帝国の「ボスニア人」政策 
1875年、ヘルツェゴヴィナ地方のネヴェシニェNevesinje村のキリスト教徒農民がムスリム地主の専横に対して反乱を起こした。この農民反乱は数週間のうちにボスニア・ヘルツェゴヴィナ全土に拡大し、反オスマンを目指す一大蜂起となった。ボスニア蜂起Bosansko-hercegovački ustanakは隣接する南スラヴ地域にも、また国際的にも多大な影響をもたらした。隣接するセルビア公国やモンテネグロ公国はこの蜂起を援助するため、オスマン帝国に宣戦布告した。これが引き金となって露土戦争を誘発した。結局、オスマン帝国は敗北を喫し、78年のベルリン条約によって、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権はカトリック国であるハプスブルク帝国Habsburška Monarhijaに移行した(地図3参照)。
*Bosanskiボスニア語→Nevesinje je naseljeno mjesto i središte istoimene općine na jugoistoku Bosne i Hercegovine

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Bosansko-hercegovački ustanakヘルツェゴヴィナ蜂起 (1875-1878)Herzegovina uprising, Hercegovački ustanak ili Nevesinjska puška je bio pretežno srpski ustanak podignut u okolini Nevesinja 1875. godine protiv otomanske vlasti koji se ubrzo proširio na celu Bosnu i Hercegovinu.
ハプスブルク帝国はボスニアの各地でムスリムや正教徒の大規模な抵抗にあいながら、やっとのことでボスニアをその軍事占領下に置くことになる。ハプスブルク帝国はボスニアで一定の近代化を進めようとしたが、基本的にはオスマン帝国支配下で形成された社会構造を維持する政策を採った。支配層であるムスリム地主を敵に回すことなく、彼らに依拠して統治に当たることが得策と考えられたからである。そのため、農民にとって最も重要であった土地改革は実施されず、とくにカトリック農民の期待が裏切られてしまった。
一方、地域を基盤にしたボスニア人といった意識にも変化が生じる。1880年代に入ると独立を達成したセルビア公国(82年に王国となる)やハプスブルク帝国内のクロアチアから、正教徒やカトリック教徒の宗教共同体に対する民族的な働きかけが活発になる。この結果、正教徒はセルビア人、カトリック教徒はクロアチア人といった民族意識が強く浸透しはじめた。この二民族とのあいだにあって、ムスリムも宗教を基盤として自らの民族意識を強めていった。
*Bosanskiボスニア語→Bosna i Hercegovina u periodu između 1878. i 1918. bila je novoosnovani austrougarski kondominijum nastao vojnom okupacijom teritorija Osmanlijskog carstva 1878. na osnovu dogovora velikih sila na Berlinskom kongresu iste godine, a zatim kolonija uspostavljena aneksijom koja je izazvala dalekosežnu krizu.
こうした状況において、19世紀末から20世紀初頭にボスニア統治の直接的責任者であったハプスブルク帝国の大蔵大臣カーライは、ムスリム地主層に依拠しつつ、ボスニアに対する愛国的な感情に基づく「ボスニア主義」(ボシュニャシュトヴォbošnjaštvo)の政策を進めようとした。セルビアからクロアチアの民族主義がボスニアに浸透するのを防ぎ、セルビア人、クロアチア人、ムスリムといった民族意識に代わる新たな「ボスニア人」(ボシュニャクBošnjak/Бошњак)を形成しようとしたのである。なお現在の問題になるが、1994年3月にアメリカの主導でセルビア人勢力を排除して、ムスリム人Muslimani勢力(「ムスリム人Muslimani/Муслимани」については126頁参照)とクロアチア人勢力からなるボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦Federacija Bosne i Hercegovine/Федерација Босне и Херцеговинеが形成される。この憲法において、構成民族がそれまでの「ムスリム人」ではなく「ボシュニャク」とクロアチア人と規定されているのは興味深い。

*Bosanskiボスニア語→Benjámin Kállay (Benjamin von Kállay) (22. decembar 1839 - 13. juli 1903) bio je generalni konzul Austrougarske u Beogradu, dugogodišnji ministar finansija i guverner Bosne i Hercegovine od 1882-1903.

さて、上から「ボスニア人」を形成しようとするハプスブルク帝国の政策は、第二次世界大戦後のユーゴでは「ユーゴスラヴィア人Jugoslaveni/Југословени」を作ろうとした試みがうまくいかなかったのと同様に、住民のあいだに浸透していかなかった。ボスニアの人々はこうした政策に反発し、それぞれの民族・宗教共同体への帰属意識をいっそう明確にしていく。1908年、ハプスブルク帝国はついにボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を宣言した。1910年にはボスニアにはボスニアに立憲制が導入され、議会が機能するようになった。セルビア人、クロアチア人、ムスリム人はそれぞれの政党を形成して、当局の許す範囲内で議会活動を行った。一方、既成政党の行動に批判的な青年層は、のちのサラエヴォ事件Sarajevski atentatを引き起こす「青年ボスニアMlada Bosna」に見られるように、民族・宗教の枠を越えた南スラヴ統一の運動を展開する。

*Bosanskiボスニア語→Sarajevski atentat poslužio je kao povod za izbijanje Prvog svjetskog rata. Gavrilo Princip, član tajne organizacije "Mlada Bosna" koja je imala za cilj da putem buna, ustanaka i oružanih atentata zbaci austrougarsku vlast u Bosni i Hercegovini, izvršio je atentat na austrougarskog prijestolonasljednika i nadvojvodu - Franju Ferdinanda i njegovu suprugu Sofiju, 28. juna 1914.

*Bosanskiボスニア語→Mlada Bosna, političko-revolucionarna omladinska, organizacija koja je uz pomoć Crne Ruke planirala, organizovala i izvršila atentat na austrougarskog prijestolonaslijednika Franju Ferdinanda i njegovu suprugu Sofiju u Sarajevu, 28. juna 1914. godine. Članovi Mlade Bosne bili su: Gavrilo Princip, Nedjeljko Čabrinović, Vaso Čubrilović, Trifko Grabež, Danilo Ilić, Muhamed Mehmedbašić i Cvjetko Popović.


4 南スラヴ統一の構想の胎動
南スラヴ統一主義
これまで概観してきたように、南スラヴ諸族はオスマン帝国のもとで、あるいはハプスブルク帝国のもとで、それぞれ個別の民族意識を形成した。しかし、クロアチア人が固有の領域と考えるダルマチアとスラヴォニアにはセルビア人が多数居住していたため、クロアチアにおいて南スラヴとしての共通意識も作られていく。1830年代から40年代にかけて展開されたイリリア運動は、クロアチア人を越えて拡大するには至らなかったが、言語の上ではLatinicaラテン文字Латиницаを用いるクロアチア語とЋирилицаキリル文字Ćirilicaを用いるセルビア語双方の正書法が整備され、現代文章語としての基礎が築かれた。この結果、ハプスブルク帝国内のクロアチア人とセルビア人のみならず、セルビア公国のセルビア人とのあいだに一定の共通意識が形成された。

*ラテン文字(ラテンもじ、羅: abecedarium Latinum、英: Latin alphabet、ラテンアルファベット)は、ラテン語などを表記するためのアルファベット(それぞれの文字は子音か母音を表す)である。ローマ文字、ローマ字(伊: alfabeto Romano、英: Roman alphabet)とも呼ばれる。元来ラテン語の文字で、古代ラテン人・ローマ人が用いた。
*キリル文字(キリルもじ、露: кириллица、英: Cyrillic alphabet、キリール文字とも)は、スラヴ語派などを表記するのに用いられる表音文字の一つである、スラブ文字である。
こうした両者の共通意識が、初めて政治上の協力関係という具体的な形をとるのは1848年革命の時期である。ハプスブルク帝国内の48年革命は、帝国の重層的な支配構造を反映して複雑な様相を呈した。コシュートを指導者とするハンガリーがハプスブルク帝国からの独立を求める運動を展開する一方、ハンガリーの直接的な支配を受けていたクロアチアやヴォイヴォディナでは、ハンガリーからの自由を求める運動が進められた。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Revolucija 1848.–1849., poznata kao Proljeće naroda, naziv je za društvene i nacionalne pokrete i nemire u više europskih zemalja u kojima su razne društvene i nacionalne skupine postavljale zahtjeve za političke, društvene i gospodarskim promjenama.

*コシュート・ラヨシュ(Kossuth Lajos [ˈkoʃuːt ˌlɒjoʃ][1], 1802年9月19日 - 1894年3月20日)は、19世紀ハンガリー王国の政治家、革命家。
ハンガリーを共通の敵として、クロアチア人とセルビア人とがハプスブルク帝国の皇帝の側に立って共同の軍事行動に従事したり、ヴォイヴォディナのセルビア人運動の指導者である正教会の大主教ラナチッチがクロアチアの中心地ザグレブに赴き、クロアチア人運動の指導者イェラチッチのためにミサを行っているほどである。帝国内のクロアチア人とセルビア人は皇帝と結ぶことによって、ハンガリーからの自由を獲得しようとした。しかし、49年にハンガリー革命が鎮圧されると、皇帝のもとに集権的な体制の立て直しが図られたため、クロアチア人の要求は実現しなかった。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Josif Rajačić (20. jul 1785 — 1/13. decembar 1861) Јосиф Рајачићje bio arhimandrit gomirski, episkop šibenski i vršački, mitropolit karlovački i patrijarh srpski, zaslužan za stvaranje Srpske Vojvodine i uzvišenja Mitropolije na nivo Patrijaršije.

*ヨシップ・イェラチッチ(クロアチア語: Josip Jelačić、1801年10月16日 - 1859年5月20日)はバン・イェラチッチまたはブジム伯爵ヨシップ・イェラチッチなどとも呼ばれ、オーストリア帝国時代のクロアチアの軍人で政治家で、現在のクロアチアで国民的な英雄である。現在セルビアに属するペトロヴァラディンで生まれ、クロアチアのザグレブで亡くなっている。
48年革命前に見られたハプスブルク帝国内のクロアチア人とセルビア人の共同行動は、革命後には帝国の枠を超えて、セルビア公国のセルビア人との共同行動となって継続した。著名なセルビアの言語学者・文学者・歴史家カラジッチ(ヴーク・ステファノヴィチ・カラジッチ(セルビア語: Вук Стефановић Караџић; ラテン文字表記:Vuk Stefanović Karadžić, 1787年11月6日 - 1864年2月7日)は、セルビアの言語学者、文献学者、民俗学者。民衆語をもとにセルビア語、セルビア・クロアチア語の標準文章語を確立した言語改革者である)やクロアチアの詩人マジュラニッチ(Hrvatskiクロアチア語→Ivan Mažuranić (Novi Vinodolski, 11. kolovoza 1814. – Zagreb, 4. kolovoza 1890.), bio je hrvatski pjesnik, jezikoslovac, prevoditelj i političar. Hrvatski ban od 1873. do 1880. godine. Poznat je po nadimku ban pučanin. Najznačajnija je stvaralačka osobnost hrvatskoga narodnog preporoda (pjesnik, jezikoslovac, hrvatski ban)も含む、セルビア人とクロアチア人の言語学者が、ウィーンに参集して50年には「Бечки књижевни договор文語協定(ウィーン合意)Bečki književni dogovor」を成立させた。これは先にふれたシュト方言に基づき、さらにクロアチアで用いられていた「イエ方言」が大部分のセルビア人とクロアチア人に用いられているとの理由で、セルビア語とクロアチア語とが共通の言語であることを確認するのだった。セルビア政府は68年に、クロアチア当局は92年にこの「文語協定」を正式に認めた。しかし90年代頃までには、セルビア政府もセルビアの言語学者もセルビア地方で使われている「エ方言」を好んで使うようになっていた。
*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Bečki književni dogovor je historijski sporazum južnoslavenskih književnika kojim je udaren temelj zajedničkom srpskohrvatskom jeziku, kao i suvremenim književnim jezicima: bosanskom, hrvatskom, crnogorskom i srpskom, koji su nastali na njegovim osnovama. Bečkim književnim dogovorom je kao osnova za zajednički književni jezik Južnih Slovena uzet narodni govor Bosne i Hercegovine i Dubrovnika, karakterističan po štokavskom narečju i ijekavskom izgovoru.
さらに60年代に入ると、文化的な協力関係から一歩進んで、セルビア公国の政府とクロアチアの政党との協力関係が模索される。67年にハプスブルク帝国が「アウスグライヒAusgleich(妥協)」により、オーストリアとハンガリーからなる同君連合の二重王国(外務、大蔵、軍事以外は別々になる)になると、翌68年にはハンガリー王国内に置かれたクロアチアは、ハンガリーとのあいだで同様の二重制を築き、行政的な自治を獲得した。政党活動が活発になり、それらは親ハンガリー・グループ、帝国内の南スラヴの統一を主張する民族党、クロアチアの独立を唱える権利党の三潮流に分かれた。
*アウスグライヒ(「和協」「妥協」、ドイツ語: Österreichisch-Ungarischer Ausgleich、ハンガリー語: Kiegyezés)Аустро-угарска нагодба/Austro-ugarska nagodbaは、オーストリア帝国において1867年に実施された協定ないし一連の政策を指す。それまで名目上はハプスブルク家が一元的に支配してきたハプスブルク君主国をオーストリア帝冠領(ツィスライタニエン)とハンガリー王冠領(トランスライタニエン)に二分し、それぞれの領域を別々の政府が統治することが定められた。一方でオーストリア皇帝はハンガリー国王を兼ねる存在(同君連合)とされ、軍事・財政・外交面は依然として皇帝が直轄した。この結果成立した新体制をオーストリア=ハンガリー帝国または二重帝国と呼ぶ。
一方、近隣諸国とバルカン同盟を築きつつあったセルビア公国は、「大セルビア主義」の立場からクロアチアの民族党と接触し、オスマン帝国およびハプスブルク帝国双方から独立した南スラヴの統一国家を目指して、共通の努力をすることを提案した。両者の合意ができかけたが、セルビアの外相ガラシャニンが解任されたことに加えて、ミハイロ公が政敵の手で暗殺されるにおよび、こうした動きは止まってしまった。

*ミハイロ・オブレノヴィッチ3世(セルビア語: Михаило Обреновић III、1823年9月16日(ユリウス暦9月4日) - 1868年6月10日(ユリウス暦5月29日))は、セルビア公(在位:1839年 - 1842年、1860年 - 1868年)。オスマン帝国に対抗してバルカン連邦構想を唱道した。近代セルビア随一の明君として評価されている。
露土戦争のあと、78年のベルリン条約によって、セルビアとモンテネグロの独立が承認され、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権がオスマン帝国からハプスブルク帝国に移行されたことは先に述べたとおりである。だが、セルビア公国のセルビア人も、帝国内のセルビア人も、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを自らの領域と考えていたため、これに強く反発した。一方、帝国内のクロアチア人は概して、カトリックの国家であるハプスブルク帝国によるボスニア統治を歓迎した。ボスニア・ヘルツェゴヴィナを含めた強力なクロアチア国家を形成する可能性が生じたからである。こうして、クロアチア人とセルビア人の民族主義が前面に掲げられるようになり、両者の関係は悪化していき南スラヴ統一主義は大きく後退した。

クロアチア人・セルビア人連合の成立
1903年は南スラヴ統一主義にとって、画期をなす年であった。セルビア王国は軍人によるクーデターが生じて、親オーストリア=ハンガリーの立場を採ってきたオブレノヴィチ王朝アレクサンダル国王が暗殺され、代わって親ロシアのカラジョルジェヴィチ王朝ペータルが即位した。ペータルは南スラヴ統一の推進者として知られていた。クロアチアでは、クロアチア人とセルビア人との敵対関係を調整しながら、20年におよびハンガリー化政策をとり続けた総督クエン・へーデルヴァーリKhuen-Héderváry Károlyが、ハンガリー支配に対する民族運動の高揚のなかで辞任した。これを契機として、反ハンガリーという旗印のもとに、クロアチア人政党とセルビア人政党との協力関係が模索された。
*オブレノヴィッチ家(セルボ=クロアチア語・キリル文字表記:Обреновићи、ラテン文字表記:Obrenovići)は1815年から1842年まで、飛んで1858年から1903年までセルビアを統治した王家。

*Српски / srpskiセルビア語→Александар I Обреновић (Београд, 2/14. август 1876 — Београд, 29. мај/11. јун 1903) Aleksandar Obrenović је био краљ Србије (1889—1903), последњи из династије Обреновић, који је, заједно са својом супругом краљицом Драгом Обреновић, убијен у Мајском преврату 1903. Краљ Александар је био син краља Милана и краљице Наталије Обреновић.

*Српски / srpskiセルビア語→Петар I Карађорђевић (Београд, 11. јул 1844 — Београд, 16. август 1921)Petar I Karađorđević је био краљ Србије, од 1903. до 1918. и краљ Срба, Хрвата и Словенаца од 1918. до 1921. године.
クロアチア人とセルビア人との政党レベルでの協力関係は、セルビア人とクロアチア人との居住地域である南ハンガリーのヴォイヴォディナ出身のセルビア人政治家、スラヴォニヤやダルマチアの政治家によって主張され、ダルマチアにおいてまず具体化されていく。セルビアのペータル国王がセルビアの利害関心からにせよ、南スラヴの統一に熱心であったことはダルマチアのセルビア人政党にも多大な影響を与えた。そこでは、セルビア人とクロアチア人そしてスロヴェニア人は異なる三つの呼称をもつが、南スラヴというひとつの民族であるとの考えに基づいて、「新路線」と称される政治的潮流が大きな位置を占め始めた。ダルマチアでのこうした潮流はクロアチアにも共通していくことになる。
ダルマチアやクロアチアの民族間の関係にとって一大転機となる「新路線」は、議会を通じて政治問題や民族問題をじょじょに解決していこうとするものであった。この具体的な成果が1905年12月、クロアチア議会の五政党(クロアチア権利党Stranka prava 、クロアチア進歩党Croatian People's Progressive Party、セルビア民族独立党Српска народна самостална странка、社会民主党Socijaldemokratska stranka Hrvatske i Slavonije)による「クロアチア・セルビア人連合Hrvatsko-srpska koalicija/Хрватско-српска коалиција」宣言である。クロアチア人政党とセルビア人政党が初めて連立を組んだ「クロアチア人・セルビア人連合」は、クロアチア人とセルビア人との協力関係の維持および、クロアチアとダルマチアとの統合を現実的な目標としていたが、ハプスブルク帝国内のスロヴェニア人を含む南スラヴの政治統合も視野に入れていた。
*Hrvatskiクロアチア語→Stranka prava je bila hrvatska politička stranka desnog centra koja je od 1861. djelovala na području Banske Hrvatske, a utemeljio ju je Ante Starčević. U njezinu temelju bilo je zastupanje hrvatskoga državnog prava.
*Српски / srpskiセルビア語→Српска народна самостална странка (или краће, позната као и Српска самостална странка) је била главна политичка странка српског народа у Краљевству Хрватске и Славоније, једна од водећих у аустроугарској двојној монархији. 
*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Socijaldemokratska stranka Hrvatske i Slavonije, je bila socijaldemokratska politička stranka osnovana 1894. godine koja je delovala na području Kraljevstva Hrvatske i Slavonije. Vođa Hrvatsko-slavonske socijaldemokratske stranke bio je Vitomir Korać.

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Hrvatsko-srpska koalicija je naziv za koaliciju hrvatskih i srpskih nacionalističkih stranaka koje su djelovale na području tadašnje Austro-Ugarske, a današnje Hrvatske početkom 20. vijeka. Njeni lideri su bili Hrvat frano Supilo, a u kasnije vrijeme Srbin Svetozar Pribićević.
しかし、ハプスブルク帝国の外にあるセルビア王国やモンテネグロ王国との統合を展望していたわけではなかった。1906年のクロアチア議会選挙で、「クロアチア人・セルビア人連合」は42%の得票率を獲得して第一党に進出した。もっとも、この連合は反ハプスブルク帝国という点でまとまっていたにすぎず、個々の問題に対する利害をすべて共有していたわけではなかった。そのため、1908年のハプスブルク帝国によるボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を契機として、クロアチア人政党とセルビア人政党との取り組み方の違いが見られた。しかし、政党レベルで両者の協力関係が築かれたことは大きな前進であり、第一次世界大戦後の南スラヴの統一国家形成の基盤ともなったのである。

*ボスニア・ヘルツェゴビナ併合Bosnische Annexionskrise(ボスニア・ヘルツェゴビナへいごう)Aneksijska krizaは、1908年10月6日、青年トルコ人革命の混乱に乗じたオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言した事件をいう。本項ではこれによって生じた「ボスニア危機」(「バルカン危機」とも)と称される外交危機についても述べる。

*ユーゴスラビア王国(ユーゴスラビアおうこく、セルビア・クロアチア語・スロベニア語:Kraljevina Jugoslavija / Краљевина Југославија)は、バルカン半島西部から中央ヨーロッパにかけての地域を領土とし、1918年から1941年までの期間に存続した立憲君主制の国家。事実上は国王が亡命した1941年に、公式にはユーゴスラビア連邦人民共和国成立前の1945年に滅亡した。
第二章 ユーゴスラヴィアの形成
「国民国家」の現実
スロヴェニア(当時、ハプスブルク帝国のクライン州)で生まれ、第一次世界大戦前に単身でアメリカに移住し、1930年代のアメリカ・エスニック文学の旗手となったアダミックは、32年にアメリカ人の妻をめとって初めて帰郷した。アダミックはこの機会に故郷のスロヴェニアだけでなく、統一を達成した南スラヴの国家である「第一のユーゴ」の各地を回って、ルポルタージュを書いた(1934年、邦訳『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々The Native's Return: An American Immigrant Visits Yugoslavia and Discovers His Old Country (1934)』)。そのなかで、かれは多様な地域から形成されたユーゴスラヴィア王国が「自分の生まれた土地ではないが、祖国となった」と書いている。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Louis Adamič (23. mart 1898., selo Praproče (Grosuplje) - 4. septembar 1951. Milford, New Jersey, Sjedinjene Američke Držve) pravim imenom Alojz Adamič bio je američki književnik i novinar koji je pisao o životu američkih manjina, posebno imigranata, s početka 20. vijeka.

歴史上一度も自らの国家を建設したことがなかったスロヴェニア人にとって、思いは複雑であった。アダミックが生まれた頃、スロヴェニア人はハプスブルク帝国のいくつかの州に散在していた(地図4参照)。例えば、かれが生まれた村が属するクライン州には、スロヴェニア人が90%以上を占めていた。この他、スロヴェニア人が多いのはシュタイアーマルク州、ケルンテン州、ゴリツィア、トリエステ、イストリア州であり、ハンガリー内にも約10万人が居住していた。これらのうち、ユーゴスラヴィアに統合されたのはクライン州の大部分、シュタイアーマルク州とケルンテン州の一部であり、スロヴェニア人の数は約100万人であった。隣接するイタリアに50万人、オーストリアに10万人が少数民族として残されてしまった。これらの少数民族がスロヴェニアに帰属することになるのは、第二次世界大戦後の大幅な国境変更によってである。しかしこれ以後は、連邦制をしく社会主義国家ユーゴスラヴィアの一共和国となったスロヴェニアが、イタリア人少数民族を抱え込んでしまう。
*ゴリツィアGorica(イタリア語:GoriziaГорицаは、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約3万4000人の基礎自治体(コムーネ)。
*トリエステTrst(伊:TriesteТрстは、イタリア共和国北東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約20万人の基礎自治体(コムーネ)。
*イストリア半島Istra(イストリアはんとう、イタリア語:IstriaИстраは、アドリア海の奥に位置する三角形の半島である。
このように、スロヴェニア人は第二次世界大戦後の「第二のユーゴ」において、初めて一つの政治単位のなかにまとまって住むようになった。しかし、第一次世界大戦後の「第一のユーゴ」においては、一定のまとまりを保持するようになったものの、まだ分断されていた。スロヴェニアだけを考えてみても、こうした複雑な様相を示していたのだから、「第一のユーゴ」の複雑さは容易に推測できるだろう。それにもかかわらず、この統一国家は単一民族からなる「国民国家」と想定され、統合の政策が進められた。「第一のユーゴ」の出発は初めから矛盾をはらんでいたのである。
ハプスブルク帝国のなかで育ち、自らの国を持たなかったアダミックにとって、南スラヴの統一国家は初めて持つ「祖国」であった。しかし、きわめて多様で寄せ木細工のような「祖国」を歩き回り、「国民国家」の建設を目指して統合にきゅうきゅうとする「祖国」の実情を見聞するにつれ、違和感や不快感を抱くようになっていく。
ここでは「国民国家」のあり方を中心に考えながら、アダミックが見た「第一のユーゴ」の建国にいたる過程と、それ以後の問題を追うことにしたい。

1 セルビア王国の発展
南スラヴの旗手
1877年の露土戦争の結果、オスマン帝国が敗北し、翌78年にベルリン条約が締結された。この条約によって、人口170万人のセルビア公国と人口20万人強のモンテネグロ公国はルーマニア公国とともに独立を正式に承認され、これ以後、セルビア公国は82年に王制を宣言し、急速な近代化を図るが、それは近隣諸国と軍事化を競うことであり、軍隊が大きな力を持つことになった。一方、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を獲得したハプスブルク帝国は、バルカン半島への勢力の拡大を狙い、セルビア王国の経済を支配して多大な影響力を行使した。セルビア王国にとって、ハプスブルク帝国との関係が重要な位置を占めていく。

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