日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆ Jugoslavija / Југославија★Yugoslavia Modern History/L'histoire moderne de la Yougoslavie・Nobuhiro Shiba/ユーゴスラヴィア現代史・柴宜弘⑩


独立宣言
スロヴェニア共和国とクロアチア共和国で出された「独立宣言」を原語(『ボルバ』91年6月26日号)で見てみると、スロヴェニア議会が採択したのは「スロヴェニア共和国の自立および独立に関する憲法上の決議」であり、クロアチア議会が採択したのは「クロアチア共和国の主権および自立に関する憲法上の決議」である。使われている言葉が異なっている。スロヴェニアはまさに独立宣言であるが、クロアチアの場合は本来なら「自立宣言」としか訳せない。
両共和国とも、連邦憲法が失効し、共和国憲法のみが適用されることを宣言している。しかし、二つの「決議」を比べてみると、クロアチアの力点は主権国家の宣言にあり、「独立」にあるのではないことは明白である。一方、スロヴェニアの目的は明らかに「独立」であるように思われる。
同じように見られているが、この時点で経済的に最も進んでいた共和国のスロヴェニアがはっきりと独立を目指していたのに対して、クロアチアは経済的・軍事的な裏付けに必ずしも自信を持っていたわけではなかったため、自立という言葉を用いたものと推測される。クロアチアはまだ国家連合にこだわっていたのである。独立を明確に打ちだすのはクロアチア内戦が本格化してからのことである。
スロヴェニアとクロアチアの「独立宣言」と連邦解体に関して、もう一つふれておくことがある。両共和国の「独立宣言」はもっぱら民族自決という「正義の実現」との関係で考えられがちなことである。
実際、90年12月に制定されたクロアチア共和国新憲法の前文をなす「歴史的基礎」において、クロアチア人が一千年にもおよび民族のアイデンティティを保持し、その「国家性」を維持してきたことが強調される。そして、クロアチア人の自決権と国家主権が不可分であり、不変であることが記される。また、同じく12月に制定されたスロヴェニア共和国の新しい憲法第三条には、「スロヴェニアは国内のすべての市民からなる国家であり、スロヴェニア人の不安かつ奪うことのできない自決権に基づいている」と明記されている。
たしかに民族自決が声高に揚げられるなかで、91年12月のソ連、92年1月のユーゴ、そして92年12月のチェコ・スロヴァキアと相次いで、社会主義体制下で連邦制を導入した多民族国家が解体した。これら一連の動きは、連邦国家とはいえ多数を占める民族が連邦中央を牛耳っていたため、民族的に抑圧されていた諸民族が連邦中央に対して、民族自決権を掲げて反旗を翻したのだと説明されることが多い。
しかし、これは連邦中央の権限の強かったソ連やチェコ・スロヴァキアの場合に言えることであって、ユーゴには妥当しない。つまり、連邦中央を独占していたロシアに対するエストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト三国やウクライナ、同じく連邦中央を占めていたチェコに対するスロヴァキアといった図式はユーゴには当てはまらない。
多数を占める民族のセルビアが連邦で一定の権限をもち得ていたのは、先に述べたように、戦後内務関係を統轄してきたセルビア人実力者ランコヴィチが追放された60年代中葉までのことである。とくに、74年憲法以後は六共和国と二自治州が事実上同じ権限をもつ「緩い連邦制」が敷かれ、連邦の権限は極めて限られていた。したがって、ユーゴ解体の引き金となったスロヴェニア、クロアチア両共和国の「独立宣言」は実際には、連邦あるいはセルビア共和国による民族的な抑圧が加えられた結果ではなく、むしろ自己の利益を優先させる先進共和国ゆえの経済的な要因が大きく作用したものといえる。南北格差による経済的利害に民族自決が絡んでの連邦解体であった。

*ヤドランカ・ストヤコヴィッチ(Jadranka Stojaković、1950年7月24日 - 2016年5月3日[1])は、日本で活動していたシンガーソングライター、歌手。ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナbosanskohercegovačka)サラエヴォ出身。

第六章 ユーゴスラヴィア内戦の展開
「ユーゴスラヴィア」の行方
パリでボスニア和平協定の正式調印が行われた前日の95年12月23日、『朝日新聞』に小さな記事が掲載されていた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボ出身の歌手ヤドランカさんのビザ延長が認められた、という内容であった。
ヤドランカさんは、80年代末に来日し、日本を中心に演奏活動を続けているうちに、ユーゴ内戦が生じて「祖国」を失ってしまった。この時点では、日本は新ユーゴもボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国も、国家条件を満たしていないとの理由で承認しておらず、旧ユーゴ発行のヤドランカさんの旅券を更新できなくなっていた。ところが、ボスニア和平協定が調印される運びになったので、ヤドランカさんのビザを旧ユーゴ旅券には押さず、日本政府が発行した在留資格証明書に押したというのである。そして96年1月末、日本政府はボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国を承認するに至った。
ヤドランカさんは国勢調査の際、自らの民族を「ユーゴスラヴィア人」と申告してきており、自分の国が解体してしまった現在、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを自分の国として選ばなければならなくなっている。ヤドランカさんのように、民族を「ユーゴスラヴィア人」と規定してきた人が、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国やセルビア共和国のヴォイヴォディナ自治州といった民族の現在地域には、かなりいたのである。

この「ユーゴスラヴィア人」という民族概念は、自主管理社会主義体制のもとで既存の民族を越える新たなユーゴ統合の概念として、共産主義者同盟によって提案され、導入された。旧ソ連における「ソ連人」と同様の概念であった。そもそもは、共産主義者同盟員が進んでこの概念を用いた。その後「ユーゴスラヴィア人」意識を形成しようとする統合政策が試みられたが、思うような成果をあげることはできなかった。
しかし、戦後に工業化が進められ社会的活動家現象が生じている。とくに都市部では民族間の接触が頻繁になるにつれ、「ユーゴスラヴィア人」としての帰属意識が、個々人の社会的諸関係を円滑に進める潤滑油の働きを果たした側面が強い。また、民族の混住地域では、両親の民族が異なる場合、その子供は民族として「ユーゴスラヴィア人」を選択することが多かった。ある地域の民族少数者が、多数者による同化傾向に抵抗する手段として、便宜的に「ユーゴスラヴィア人」を選択する場合も見られた。
戦後の61年から、ユーゴでは10年ごとに国勢調査が実施されてきた。どの民族に帰属するかは自己申告であったし、74年憲法の170条に従い、どの民族にも帰属しないと申告することもできた。「ユーゴスラヴィア人」という民族概念は61年の国勢調査から導入された。32万人が「ユーゴスラヴィア人」と申告し、総人口に占める比率は1・7%であった。ムスリムという民族概念が正式に認められた71年には「ユーゴスラヴィア人」は27万人に減少したが、81年には「74年憲法体制」下で122万人に激増した。これが、91年の旧ユーゴ解体の国勢調査では70万人、総人口の約3%に減ってしまった。
「ユーゴスラヴィア人」と申告する人の多かったボスニア・ヘルツェゴヴィナの場合、戦後の民族構成はムスリムが約40%、セルビア人が約30%、クロアチア人が約20%であった。ここでの「ユーゴスラヴィア人」の数は61年の国勢調査では28万人、71年が4万人、81年が33万人、91年が24万人で人口の約6%であった。
「ユーゴスラヴィア人」の増減を概観してみると、共産主義者同盟の民族政策や時の政治状況と密接に関連していることがわかる。結局、共産主義者同盟が意図したようには、統合の推進者としての「ユーゴスラヴィア人」を着実に増やしていくことはできずに、「ユーゴスラヴィア人」はきわめて便宜的な民族概念になってしまった。しかし、戦後の社会主義体制のなかで異なる民族間の結婚が進み、両親の民族が異なるヤドランカさんのように、「ユーゴスラヴィア人」としか言いようのない人たちが数多くいたのである。
以下では、「ユーゴスラヴィア人」たちが「祖国」や自らのアイデンティティを失っていくことになった、内戦の過程とそこでの問題点を整理しておく。

*Hrvatskiクロアチア語⇒Domovinski ratクロアチア紛争Croatian War of Independenceクロアチア独立戦争  bio je obrambeno-osloboditeljski rat za neovisnost i cjelovitost Republike Hrvatske protiv agresije udruženih velikosrpskih snaga – ekstremista iz Hrvatske, BiH (posebice Republike Srpske), te Srbije i Crne Gore.
1 クロアチア内戦
クロアチア国家を求めて
90年12月に制定されたクロアチア共和国の新憲法には、クロアチア人が1000年にもわたって「国家性」を保持してきたこと、クロアチア人の自決権と国家主権は不可分かつ不変のものであることが強調されていた。言語については、それまでのセルビア・クロアチア語ではなく、クロアチア語を公用語としてラテン文字を使用することが規定された(キリル文字を用いるセルビア語とラテン文字を用いるクロアチア語とは、文法的に大差がないため、両者をひとつの言語とみなして、共通語としてきた)。なお、文字については全国紙の『ボルバ』を例にとると、キリル文字とラテン文字をページごとに使いわけていた。
90年4-5月の自由選挙の大勝によって成立したトゥジマン政権にとって、最も重要な問題は、新憲法に規定されたクロアチア国家の実現をユーゴという国家連合形態のなかで求めるのか、独立の方向で目指すのかということであった。この時点での世論調査では、国家連合形態を望む声が圧倒的に多かった。これと関連して、もうひとつの重要な問題はクロアチア共和国内に居住する約60万人(人口の12%)のセルビア人に対する取り組みである。
この時期、連邦政府首相マルコヴィチと各共和国・自治州幹部会議長(大統領)を含む拡大連邦幹部会が開催され、「第三のユーゴ」を求めて協議が行われていた。一方、スロヴェニア共和国とクロアチア共和国は独自の軍隊組織の形成を始めていた。両共和国にとって、共和国軍の創設は緊急の課題であった。

*Hrvatskiクロアチア語⇒Ante Marković(Konjic, Bosna i Hercegovina, 25. studenoga 1924. – Zagreb, 28. studenoga 2011.)Анте Марковић, predsjednik Predsjedništva SR Hrvatske i posljednji predsjednik Saveznog izvršnog vijeća SFR Jugoslavije.
これに対して、連邦国防相カディエヴィチは12月初めに民族・共和国間対立にふれて、社会主義と連邦制の維持、共和国独自の軍隊の拒否など、連邦人民軍の立場を明らかにした。この延長線上で、連邦幹部会は91年1月に九項目からなる「武装解除命令」を出した。これは不正規武装勢力の武装解除と、非合法的に国内に持ち込まれた武器を近くの連邦人民軍部隊に渡すことを求めたものであった。10項目の期限つきで出された「武装解除命令」に対して、クロアチア共和国警察軍は期限が切れたあとも動員形勢を解かず、連邦との緊張関係が高まった。
1月末に至り、連邦幹部会とクロアチア共和国大統領トゥジマンとの話し合いがつき、クロアチア共和国警察軍と連邦人民軍との衝突は当面回避された。しかし、連邦幹部会の権限は弱体化しており、武装解除を徹底させることはできなかった。それどころかこの時期には、クロアチア共和国国防相シュぺゲリが秘密裏に、ハンガリーからソ連製のKalashnikovカラシニコフКала́шников「AK-47」(露: Автомат Калашникова образца 1947 года、1947年式カラシニコフ突撃銃)を大量に買い付けていたことが、ベオグラードのテレビで暴露される事態が生じている。

*ヴェリコ・カディイェヴィッチ(セルビア・クロアチア語:Вељко Кадијевић /Veljko Kadijević1925年11月21日 - 2014年11月2日)は、ユーゴスラビアの軍人。最終階級はユーゴスラビア人民軍地上軍元帥[1]。1988年から1992年の辞任まで[2]ユーゴスラビア社会主義連邦共和国における国防大臣の職にあり、十日間戦争及びクロアチア紛争初期における事実上のユーゴスラビア人民軍総司令官であった。

*Hrvatskiクロアチア語⇒Martin Špegelj (Stari Gradac, 11. studenog 1927. – Zagreb, 11. svibnja 2014.), hrvatski partizan, general JNA s visokim funkcijama, zatim kratko drugi ministar obrane Republike Hrvatske (do kompromitiranja tzv. Špegeljevim vrpcama po kojima je ostao zapamćen).
1月から4月にかけて、拡大連邦幹部会や六共和国首脳会議が開催され、新たな国家形態を作りあげるための討議が継続された。この間、クロアチアではトゥジマンが「武装解除命令」をめぐる連邦との緊迫した状況下で、当時のアメリカ大統領ブッシュに介入の要請を出していたことが発覚して、連邦検察庁から追及された。また、2月にはスロヴェニア共和国議会が「ユーゴ諸共和国の分離交渉に関する決議」や、連邦への権限委譲をすべて撤回する内容の共和国憲法条項を採択したことと呼応して、クロアチア共和国憲法も共和国憲法を連邦憲法に優先させる旨の法改正を決めたりした。
トゥジマンは自らの国家を強く求める姿勢を前面に掲げ、クロアチア人の強い支持に支えられて、クロアチア国家の実現のために活発な行動を展開した。こうした状況において、国内の少数者セルビア人の行動が激しさを増していくのである。

十日間戦争(とおかかんせんそう)Ten-Day Warまたはスロベニア独立戦争Rat u Sloveniji ili Desetodnevni rat(スロベニア語: Slovenska osamosvojitvena vojnaРат у Словенији или Десетодневни ратは、1991年、スロベニアの独立宣言を受けてユーゴスラビア連邦軍が、スロベニアに侵攻して展開された戦闘である。この戦闘自体は1991年6月27日から10日間程度で終結したが、この戦争が泥沼化するユーゴスラビア紛争の嚆矢になった。
「セルビア人問題」
91年6月にスロヴェニアとクロアチア両共和国議会が独立宣言を採択したあと、スロヴェニアでは、オーストリアやイタリアとの国境地域の管理権をめぐり、スロヴェニアに駐屯していた連邦人民軍と共和国軍との小競り合いが生じた(「10日戦争」)。しかし、連邦人民軍が共和国軍の軍事力を過小評価していたため、自滅してしまい、スロヴェニアからの撤退を余儀なくされた。こうして、6月末には、ECの仲介で休戦協定が結ばれた。これに対して、クロアチアでは、共和国軍とセルビア人武装勢力との衝突が繰り返され、内戦にまで至ってしまう。
クロアチアでは、トゥジマン政権が、クロアチア人の民族自決権に基づくクロアチア人国家の創設を宣言したため、クロアチア内のセルビア人の反発を招き、小規模の武力衝突が続いていた。91年9月には、セルビア人の保護を掲げる連邦人民軍がこれに介入するにおよび、内戦が展開されたのである。この過程で、第二次世界大戦期の「クロアチア独立国」当時の忌まわしい記憶がよみがえり、相互の憎悪の感情が増幅されていき、クロアチアははっきりと独立の方向を打ち出したものと思われる。92年3月には、内戦は民族混住地域のボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国に舞台を移し泥沼化していく。
スロヴェニアの「10日戦争」は別として、クロアチア内戦とボスニア内戦は、基本的には「セルビア人問題」と言うことができる。セルビア人はセルビア共和国以外にも、ユーゴ内に約200万人が散在していた。スロヴェニア共和国にはほとんどいなかったが、隣接するクロアチア共和国には約60万人、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国には約130万人のセルビア人が居住していた。スロヴェニアでは、独立国家が作られても「セルビア人問題」は発生しようがなかった。一方、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、独立国家の形成によって、それぞれの国で少数者となることを嫌ったセルビア人の動向が、今回の内戦の基本的な要因となったのである。
クロアチアでトゥジマン政権が発足して間もない90年9月初め、クロアチア共和国内のセルビア人が多数を占めるクライナ地方(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の西側)で「クライナ・セルビア人自治区」の創設が宣言された。さらに、91年に入ると、3月には西スラヴォニアのバクラッツでセルビア人住民とクロアチア警察軍との衝突が生じ、連邦人民軍が出動した。同じく3月には、クライナ地方のプリトヴィツェで、4月に東スラヴォニアのボロヴォ・セロでクロアチア警察軍とセルビア人住民との武力衝突が起きている。
クロアチアの独立宣言を間近に控えた91年5月、この「クライナ・セルビア人自治区」で住民投票が行われ、住民の90%がセルビア共和国への編入を支持した。6月に独立宣言が出されると、クロアチア内のセルビア人勢力はクロアチア人の民族自決に対抗して、自らの民族自決を掲げて、その行動を激化させた。
クロアチア共和国軍とセルビア人勢力との衝突に加え、前述のように、9月にはクロアチアに駐留していた連邦人民軍が介入したため、クロアチア内戦はいっきょに本格化した。クロアチア共和国とセルビア共和国双方のマスメディア、とくにテレビを通じて、第二次世界大戦期のウスタシャとチェトニクの蛮行を、それぞれ一方的に伝えるメディア戦争に加え、三ヶ月におよぶ激しい戦闘を経て、軍事的にはクロアチア側が敗北した。こうした状況において91年11月末に、ECに代わり国連の仲介による、ユーゴ和平会議がジュネーヴで開催された。停戦合意が成立し、国連平和維持軍のクロアチア派遣が問題とされた。

継続する「セルビア人問題」
多大な犠牲を払ったクロアチア内戦を経て、クロアチア共和国の分離独立は動かしがたいものとなる。また、内戦の過程でユーゴ解体がいっそう現実味を増し、それまで連邦維持の立場を保ってきたマケドニア共和国でも、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国でも、91年秋には分離独立の方向性が出された。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、独立の賛否をめぐってムスリム人政党、セルビア人政党、クロアチア人政党からなる連立政権に亀裂が生じていった。あくまで分離独立に反対するセルビア人勢力と、独立に賛成するムスリム・クロアチア人勢力との対立が明白になっていたのである。セルビア共和国では、25%を越すアルバニア人を抱えながら、11月に議会が独立宣言を採択した。
クロアチア共和国では12月に入り、ドイツが単独でスロヴェニア、クロアチア両共和国の独立を承認するにおよび、セルビア人多数地域の「クライナ・セルビア人自治区」と「スラヴォニア・バラーニャ・西スレム自治組織
Serbian Autonomous Oblast of Eastern Slavonia, Baranja and Western Syrmia」とが連合し、民族自決に基づき「クライナ・セルビア人共和国」の創立を宣言する。この共和国は、クロアチアの三分の一の領域を勢力下に置いた。

*東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州(ひがしスラヴォニア・バラニャおよびにしスレム・セルビアじんじちしゅう、セルビア語:САО Источна Славонија, Барања и Западни Срем/ SAO Istočna Slavonija, Baranja i Zapadni Srem)はクロアチア領内に成立したセルビア人による自治地域。元は1991年にクライナ・セルビア人共和国を構成した州のひとつであった。
クロアチアはスロヴェニアとともに92年1月、民族自決の実現を支持するドイツ主導のECによって承認された。しかし、クロアチア共和国は領内に同じく民族自決を唱えるセルビア人の「共和国」を内包していたのである。
2月末、国連安保保障理事会が約1万4000人におよぶ国連保護軍(UNPROFOR)の派遣を決議し、クロアチア共和国の平和は「クライナ・セルビア人共和国」内の東・西スラヴォニア、南・北クライナの四地域に派遣された国連保護軍のもとで維持されたことになる。しかし、「セルビア人問題」はなんら解決されておらず、ボスニア内戦と連動して長期化する。
94年3月にはロシアの仲介により、両者の休戦協定が成立した。10月には、米、ロ、国連、EU(93年11月の欧州連合条約の発効により、Европска комисија欧州共同体Europska komisijaECがЕвропска унија欧州連合
Europska unijaEUとなる)が中心となり、セルビア人勢力に一定の自治を与える和平案を提示したが、セルビア共和国に接する東スラヴォニアの支配権をめぐり、クロアチア政府とセルビア人勢力との溝はなお埋らなかった。しかし、12月初めには、両者の間に経済関係正常化のための合意文書が調印されている。このように、「セルビア人問題」解決の方策は模索されたが、両者の民族自決権の主張、具体的には領域の設定に関する主張とがぶつかり合い、「セルビア人共和国」に展開する国連保護軍の撤退問題とも関連して、その解決は持ち越された。

*クライナ・セルビア人共和国(クライナ・セルビアじんきょうわこく、セルビア語:Република Српска Крајина, РСК/ Republika Srpska Krajina, RSK)Republic of Serbian Krajinaは、1990年代の前半にクロアチアの領内で独立を宣言し、事実上独立していた国家。1991年に設立されたが、国際的にはいかなる国家からも承認されていない。その大部分は1995年にクロアチア軍による嵐作戦によって一掃されたが、東スラヴォニアに残された一部は国際連合の監視下で1998年まで東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州として存続し、その後平和的にクロアチア領に復した。
95年に入り、米、ロ、国連、EUは、セルビア人勢力に一定の自治を与える和平案を再び提示した。これにともなって、クロアチア政府とセルビア人勢力とのあいだで正常化へ向けての話し合いが進展するかに見えた。しかしトゥジマン大統領は、セルビア人支配地域に展開されている国連保護軍の駐留期限切れにともない。セルビア人勢力の反対にもかかわらず、その撤退を強く要求し、一時関係が緊張した。結局、クロアチア政府は国連保護軍の規模縮小を条件として、駐留延長を容認した。
クロアチア政府は「セルビア人問題」の政治的解決ができないまま、しだいに軍事的解決の方向を強めていく。5月には「クライナ・セルビア人共和国」の一部であるスラヴォニアを攻撃して、制圧した。アメリカの支持を取りつけた政府軍は圧倒的に優勢であり、国際社会の非難を受けることもなく、8月にはクライナをいっきに制圧した。残るはセルビア共和国と国境を接している東スラヴォニアだけとなった。
結局、東スラヴォニアについては、アメリカで旧ユーゴ和平協議が続けられていた11月12日、セルビア人勢力がその支配権を放棄することで、クロアチア政府との合意が成立した。これにより、「セルビア人問題」は力によって一応「解決」されたが、難民の帰還問題など今後解決すべき課題も多い。

*スルプスカ共和国Република Српска(スルプスカきょうわこく)Republika Srpskaは、連邦国家であるボスニア・ヘルツェゴビナの構成体の1つ。ボスニア・ヘルツェゴビナの主要3民族のうち、セルビア人を主体とする共和国で、通称はセルビア人共和国。独自の大統領、政府、立法府を持ち、ボスニア・ヘルツェゴビナの全面積の49%を占める。
2 ボスニア内戦への拡大
作られたボスニア内戦
クロアチア共和国内の「クライナ・セルビア人共和国」に連動する形で92年1月初旬、住み分けができない程にムスリム人、セルビア人、クロアチア人の三者が混在しているボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国で、セルビア人勢力が、民族自決に基づき「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・セルビア人共和国」を創設した。そして、2月29日の両日、セルビア人がボイコットするなかで、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の独立の賛否を問う国民投票が実施され、有権者総数の62%(投票総数の99%)が独立に賛成した。
これ以後、独立に反対するセルビア人と、賛成するムスリム人・クロアチア人との衝突が繰り返され、3月末には、セルビア色をいっそう強めていた連邦人民軍が、セルビア人保護の立場からこれに介入し、内戦の舞台はボスニア・ヘルツェゴヴィナに移った(内戦の過程で、クロアチア人共和国軍もクロアチア人勢力支援のために派遣されている)。このボスニア内戦を激化させる契機となったのは、4月初めにドイツの主張に押されたECが、承認されてしかるべきマケドニア共和国の独立をギリシャの反対で見送りながら、問題を抱えたボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の独立を認めたことである。
こうした状況のなかで、内戦が激化していくボスニア・ヘルツェゴヴィナは、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人の三者が住み分けができない程に混在しており、三者は長い歴史の過程で共存する知恵を生みだしてきた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナという地域への一体性は三者にとって基本的な前提条件であったにもかかわらず、それが崩れてしまった理由はなんだったのだろうか。
クロアチア内戦が本格化した当初(91年9-10月)、クロアチア共和国からのセルビア人難民650人を対象とした興味深い意識調査がある。これはセルビアの社会学者グループが調査したもので、ベオグラードで発行されている日刊紙『ボルバ』(91年12月28-29日号、92年1月4-5日号、両11-12日号)に発表された。クロアチア共和国内のクロアチア人とセルビア人との混住地域でそれまで共生していた両者が、いつから民族衝突を起こしたのかを尋ねた質問に対し、最も多い回答は、トゥジマン率いるクロアチア民主同盟が自由選挙で勝利を収め、政権の座に就いた90年5月以降とするものである。また民族衝突がエスカレートした理由に関しては、マスメディアのプロパガンダ、政治指導者の政治戦術、当局による恐怖心の煽動に身近な人の逮捕、武力衝突などがあがっている。この調査はセルビア人難民を対象としたものだが、内戦の本質をついているように思われる。
ボスニア内戦に関する同様の調査は見かけていないが、同じことがいえるであろう。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのムスリム人、セルビア人、クロアチア人は極めて近い存在であったし、歴史を振り返ってみても宗教の違いによる相互の殺し合いなどなかった。三者の共存期間の方が対立した期間よりずっと長かったことがわかる。しかし、政治的立場の相違から衝突が生じて戦闘が展開されると、言語を同じくする類似性が強いため、相互の違いがことさらに政治的に強調されるようになる。これは第二次世界大戦の「クロアチア独立国」で経験ずみのことである。
それにしても、クロアチア内戦からボスニア内戦にかけて、それぞれの民族集団の武装化の速度が早かったのには驚かされる。近隣諸国から武器が密輸されたことは事実であるが、ユーゴでは徴兵制による連邦人民軍に加え、69年以後、有事の際にこれを補完する全人民防衛体制が敷かれていたことも大いに関係する。有事に備えて、通常兵器が各共和国や自治州に備えられていたのである。具体的には、オプシュティナと呼ばれる行政単位ごとに、武器が保管されていた。
その結果、各共和国や自治州に「民族軍」としての色彩の強い地域警察軍が即座に形成され、大量の武器や弾薬が配備されていった。全人民防衛は外敵、具体的にはソ連の軍事侵攻に対する防衛体制であって、民族や共和国間の衝突を想定してはいなかった。しかし、実際に民族衝突が生じると、全人民防衛体制は裏目にでてしまった。混住地域のセルビア人、クロアチア人、ムスリム人がともに武器を持つようになり、相互の殺戮が開始されたのである。これに加えて、戦後、「第二のユーゴ」が形成されるなかで、ヨーロッパ諸国やアメリカやカナダに脱出して反ユーゴ運動を展開していた、クロアチアやセルビアの民族主義的グループが、内戦の過程でクロアチアやボスニアに私兵集団として戻ってきたことも、それぞれの武装化を強める大きな要因であった。
ボスニアの三者の間には、相互に類似しているがゆえの、近親憎悪の感情が潜在的にあったことは確かである。こうした感情は一度表面化すると、手に負えなくなる。「撃たなければ相手に殺される」といった緊迫した状況のなかで、三者は憎悪の感情を募らせていった。それなら、三者の共存関係をいっさい切り崩すこうした感情を生み出した原因はなんだったのだろうか。先に引用した意識調査にみられるように、まず民族主義に基礎を置く各勢力指導者の政治戦略であり、これに追随するマスメディアのプロパガンダをあげなければならない。
また、主として経済的不満から、チェトニクやウスタシャの流れをそれぞれ汲む、シェシェリ率いるセルビア急進党や、パラガ率いるクロアチア権利党といった、極右民族主義勢力のもとに結集する青年層の存在も重要な要因である。さらに、混住地域という特殊な条件を十分に考慮することなく、民族自決や人権や「正義」を一義的に適用してユーゴの問題に介入した、ECやアメリカの対応のまずさにも原因を求めることができる。国際社会の対応のまずさが、三者の交渉の余地を奪ってしまったのである。このように考えると、三者の対立は歴史的所産だけではなく、政治状況のなかで作られた側面が強いといえるだろう。

*Српски / srpskiセルビア語→Војислав Шешељ (Сарајево, 11. октобар 1954)Vojislav Šešeljсрпски је политичар, доктор правних наука, председник Српске радикалне странке и бивши народни посланик у Народној скупштини Републике Србије и Савезне скупштине СР Југославије, потпредседник Владе Републике Србије (1998—2000) и председник општине Земун (1996-1998).

*Hrvatskiクロアチア語→Dobroslav Paraga (Zagreb, 9. prosinca 1960.), hrvatski političar, osnivač Hrvatske stranke prava, predsjednik Hrvatske stranke prava 1861 i borac za ljudska prava.
「内戦」か「解放戦争」か
91年秋のクロアチア内戦の過程で、連邦の維持は困難になっていく。連邦解体を回避しようと努力を続けてきたボスニア・ヘルツェゴヴィナとマケドニアという二つの共和国にも変化が生じた。10月には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国議会がセルビア人勢力の反対もかかわらず、ムスリム勢力の主導で「独立確認文書」を採択した。翌11月には、マケドニア共和国も独立を宣言し、新憲法を制定した。両共和国とも、はっきりと独立の方向を示したのである。
ボスニア内戦はこのようなユーゴ解体にともない、独立をめぐるムスリム人、セルビア人、クロアチア人三者の対立が表面化して生じた。そもそも、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは宗教を異にする三者の合意を大前提として成立していた共和国であったが、独立の是非をめぐり見解の対立が表面化してしまった。ユーゴの縮図といわれたボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、ユーゴが解体の道を歩むにつれ、その影響を受けざるを得なかった。セルビア人勢力は連邦の解体により、ボスニアで数の上では第二の地位が固定化してしまうことを恐れて、独立に強く反対した。ここでも、「セルビア人問題」が浮上したのである。
ボスニア内戦では、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人の三者がそれぞれの領域の拡大に奔走した。三者はこれを進める際、他民族を排除して民族の住み分けを実現するための手段を講じた。これが「民族浄化」と称される政策であり、この結果、ボスニア・ヘルツェゴヴィナだけで被災者・難民の数は総人口の約半数、250万人近くに達している。住民の大量の流動化が引き起こされ、91年の国勢調査によるムスリム人44%、セルビア人31%、クロアチア人17%という民族構成が大きく変化し、また、戦闘を通じてセルビア人勢力がボスニア・ヘルツェゴヴィナの領域の六割以上、クロアチア人勢力が三割弱、ムスリム人勢力が一割を勢力下に置くことになる。
内戦が開始された当初、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立を求めるムスリム人勢力、クロアチア人勢力と、独立に反対するセルビア人勢力との対立の図式があった。カラジッチを指導者とするセルビア人勢力とボバンを指導者とするクロアチア人勢力は、それぞれセルビア共和国のミロシェヴィチとクロアチア共和国のトゥジマン政権から物質的および精神的な支援を得ることができた。そのため、頼る相手のいないボスニア政府のイゼトべコヴィチ幹部会議議長を中心とするムスリム人勢力は、しだいに支配地域を狭めていった。

*ラドヴァン・カラジッチ(Radovan Karadžić, セルビア語キリル文字: Радован Караџић, 1945年6月19日 - )(ラドバン・カラジッチと表記されることもある)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治家、詩人、精神科医。

*マテ・ボバンMate Boban(1940年 - 1997年7月7日)は、ヘルツェゴビナのクロアチア人政治家であり、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中に、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内で一方的に建国され、国際的に承認されることのなかった国家「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の指導者であった。

*ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国(ヘルツェグ=ボスナ・クロアチアじんきょうわこくCroatian Republic of Herzeg-Bosnia、クロアチア語:Hrvatska Republika Herceg-Bosna)は、1990年代の前半にボスニア・ヘルツェゴビナの中で分離を宣言し、事実上独立していた国家。

*Bosanskiボスニア語→Alija Izetbegović (8. august 1925 – 19. oktobar 2003) bio je bosanskohercegovački i bošnjački političar, pravnik i prvi predsjednik Republike Bosne i Hercegovine.
ところで、これまで、私は独立の是非に端を発したボスニア三勢力の戦闘を「内戦」と記してきた。しかし、この戦闘を「内戦」ととらえるか、セルビア共和国と密接な関係を持つ連邦人民軍による「侵略戦争」ととらえるかは議論の分かれるところである。こうした違いが生じるのは、連邦人民軍の撤退過程に関するとらえ方が異なっているからにほかならない。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の独立宣言後、92年4月に形成された「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・セルビア人共和国」の軍隊とムスリムを中心とする郷土防衛隊との戦闘が展開された。4月末に新ユーゴの創設にともない、連邦が文字通り解体すると、ボスニアに駐留していた連邦人民軍の撤退問題が生じた。
ボスニアはパルチザン戦争期の主要な舞台であることに加え、戦後、この地方に多くの軍事工場が建設されたこともあり、連邦人民軍の半数近くの9万人が駐留していた。もともと、連邦人民軍の将軍や将校に占めるセルビア人の比率はきわめて高かったが、クロアチア内戦を通じて、連邦人民軍の性格が大きく変わり、その構成はセルビア人とモンテネグロ人が大半となっていた。
国際社会の圧力もあり、新ユーゴは92年5月始めに、連邦人民軍の撤退を二週間以内に完了するように命じた。その結果、約1万5000人が新ユーゴに撤退し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ出身の約7万5000人がとどまることになった。ボスニアにとどまった兵士のほとんどが、連邦人民軍の残していった重火器とともに、セルビア人勢力、すなわち「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・セルビア人共和国」軍に合流したのである。
このセルビア人勢力の軍隊の指揮をとったのが、連邦人民軍の将軍としてクロアチア内戦においても強硬な姿勢を貫いた、ボスニア出身のムラディチであった。5月末の国連安保理報告でガリ事務総長は、セルビア共和国のミロシェヴィチ政権がムラディチ将軍にどれ程の影響力を行使できるか疑わしいと述べていた。にもかかわらず、国際社会には、ムラディチとミロシェヴィチは「大セルビア主義」の考えを共通しており、ミロシェヴィチ政権がボスニアのセルビア人勢力に多大な影響を及ぼし、軍事的支援を与えているとの見解が形成されていった。

*ラトコ・ムラディッチ(セルビア語:Ратко Младић / Ratko Mladić、IPA: ['ratkɔ ˈmlaːditɕ]、1942年3月12日 - )は、ユーゴスラビア、およびスルプスカ共和国の軍人。

*ブトロス・ブトロス=ガーリ(Boutros Boutros-Ghali、コプト語: Ⲡⲉⲧⲣⲟⲥ Ⲡⲉⲧⲣⲟⲥ-Ⲅⲁⲗⲓ、アラビア語: بطرس بطرس غالي‎ Buṭrus Buṭrus Ghālī 、1922年11月14日 - 2016年2月16日)Бутрос Бутрос-Гали/Butros Butros-Gali は、エジプトの外交官、政治家、国際法学者である。
しかし、セルビア共和国から様々な私兵がボスニアへ入り込んだり、ミロシェヴィチ政権がセルビア人勢力に物質的な支援を与えていたことは事実だが、新ユーゴ(セルビア共和国)の軍隊が国境を越えてボスニアに侵攻する事実はなかった。にもかかわらず、ミロシェヴィチ=セルビア人勢力=侵略者といった短絡的な図式が作り上げられ、セルビア人一般を「侵略的」で「残虐」な民族と想定する「セルビア悪玉論」が流布した。こうした考えに基づき、5月末に国連が新ユーゴに対する制裁を決議した。この制裁は一部解除されたものの、95年12月にボスニア和平協定が正式に調印されたあとも、いぜんとして継続している。

*Bosanskiボスニア語→Koncentracioni logor "Omarska" ili Rudnik Omarska je bio koncentracioni logor za zatvaranje i mučenje bošnjačkog i hrvatskog stanovništva, sa područja općine Prijedor tokom 1992. godine za vrijeme rata u BiH.
*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Pod pojmom bosanski zločin ili zločin u Bosni i Hercegovini se uglavnom misli: bilo na Srebrenički zločin izvršen od strane snaga srpske vojske u Srebrenici jula 1995, sa ciljem (dolus specialis) uništenja vojno sposobnih Bošnjaka u tom području, ili na genocid u širem kontekstu označavajući zločin protiv čovječnosti i ratne zločine tokom rata u Bosni i Hercegovini od 1992 do 1995 godine.
ボスニア内戦の展開
92年8月、イギリスのITNテレビがボスニアにあるセルビア人勢力の「強制収容所」に入れられたムスリム人の映像を放映し、世界的に大きな衝撃を与えた。クロアチア人勢力もムスリム人勢力も大同小異で、同様の「強制収容所」を作りセルビア人を収容していたという証言があったにもかかわらず、こちらは国際的なニュースにならず、日本を含めた世界各地に伝えられることはなかった。クロアチア内戦の過程で、旧共産主義者同盟の生き残りで容易に妥協しない、かたくななミロシェヴィチの「悪者」イメージはすでにできあがっていたので、国際世論には残虐なセルビア人というイメージがすんなりと受け入れられてしまった。(ミロシェヴィチの「悪者」イメージが形づくられる主たる要因として、クロアチアとバチカンというカトリック勢力の戦略が重要であり、それが功を奏したことだけを指摘しておく。)

ミロシェヴィチの強引な政治手法と飽くなき権力志向についての好悪は別として、厳しい国際環境のなかで、かれがどれ程ボスニアのセルビア人勢力を掌握し得ていたのか、また掌握しようとしていたのかは疑問の残るところである。セルビア人勢力のなかには、極右のセルビア人民族主義者グループが義勇兵の形で入り込んでいたし、同じようにクロアチア人勢力のなかにも極右のクロアチア人民族主義者グループが参画していた。カラジッチやボバンの統制さえ離れて、最前線で戦っている兵士が存在し、ムスリム諸国からやって来る兵士が見かけられた。
9月から10月にかけて、セルビア人勢力とクロアチア人勢力とがそれぞれの領域をある程度確定するなかで、クロアチア人勢力はあえてムスリム人勢力と手を結んでいる必然性はなくなり、じょじょに両者の戦闘も行なわれるようになる。これまでの対立の図式が崩れ、一時はイスラム対キリスト教という十字軍以来の対立の構図が生まれた。その後、また三どもえの戦いが展開されていくが、クロアチア勢力はいち早く南西部のヘルツェゴヴィナを中心とした勢力を確定してしまう。混在の度合いの強かったセルビア人勢力とムスリム人勢力との陣取り争いは果てしなく続いていく。

この過程で、今度はセルビア人勢力によるムスリム人女性に対する「集団レイプ」というセンセーショナルなニュースが全世界に流れ、93年1月にアメリカの週刊誌『Newsweekニューズ・ウィークЊузвик』に掲載された関連記事は大きな反響を呼んだ。

「強制収容所」と同様、「集団レイプ」についてもセルビア共和国の新聞『ПолитикаポリティカPolitika』(セルビア社会党系の新聞)では、92年6月頃からムスリム人勢力によるセルビア人女性に対する行為が問題とされていた。責められるべきはセルビア人勢力だけではないが、93年2月に発表されたECの「集団レイプ」調査団の報告書にみられるように、国際的にはセルビア人勢力の行為がもっぱら非難の対象とされた。三勢力が同じように残虐な行為を働いた事実を持ちだして三者同罪だといったところで仕方のないことであるが、この時期の報道はあまりにも一方的であったように思われる。それはともかく、凄惨なボスニア内戦を通じて、三者はそれぞれに深い傷を負い、共存関係は崩れてしまったかのようであった。

*『ポリティカ』(Политика / Politika)は、セルビアの日刊紙である。セルビアでは高級紙とみなされており、日刊紙としてはバルカン半島でも最古の部類に属する。
また、93年9月には、BihaćビハチБихаћを中心とするボスニア北西部にボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国幹部会員アブディチを大統領とする「西ボスニア自治州」が樹立された。アブディチはクロアチア人勢力やセルビア人勢力とも政治的妥協を図ろうとしており、ムスリム国家の樹立を目指すイゼトべコヴィチの方針とは相いれなかった。ムスリム人勢力が二分してしまったのである。

*Bosanskiボスニア語→Fikret Abdić, predratni bosanskohercegovački i jugoslavenski privrednik i političar iz Velike Kladuše, ratni zločinac osuđen na 15 godina zatvora, rođen 29. septembra 1939. godine u Donjoj Vidovskoj, u zapadnom dijelu Bosne i Hercegovine.

*西ボスニア自治州(ボスニア語およびクロアチア語:Autonomna Pokrajina Zapadna Bosna、セルビア語: Аутономна Покрајина Западна БоснаAutonomous Province of Western Bosniaはボスニア・ヘルツェゴビナにかつて短期間だけ存在した、承認されていない事実上の自治州。1993年に成立し、1995年に消滅した。
3 ボスニア内戦と国際社会
ユーゴ内戦と欧米諸国
これまで、クロアチアとボスニアの動きを中心に叙述を進めてきたが、ここで少し国際的な視点を加えてみる。スロヴェニア、クロアチア両共和国の「独立宣言」、クロアチア内戦、ユーゴ解体、そしてボスニア内戦と続く一連のユーゴ内戦は「冷戦」後最大の紛争であり、「冷戦」後の新秩序を模索している欧米諸国の多大な関心を呼んできた。とくに、ヨーロッパの統合を進めているEC諸国はヨーロッパの安定維持の観点から、ユーゴ問題に積極的に関与した。

90年に行われた自由選挙のあと、各共和国はそれぞれ別々の動きを見せ始め、ユーゴ解体の危機を迎えていく。EC諸国は当初、懸命にユーゴの解体を押しとどめようとして、連邦政府に働きかけをした。ユーゴ解体がヨーロッパの現状を破壊しかねないと考えたからである。クロアチア内戦が始まると、ECは91年9月にハーグHagueでユーゴ和平会議を開催した。これ以後、イギリスのキャリントンPeter Carington元外相を議長とするEC主導による和平会議が断続的に開かれた。
この過程で明らかとなったのは、「ドイツ対イギリス」といったEC内の見解の相違であった。ドイツ、イタリア、オーストリアがクロアチアと連携し、イギリスとフランスがセルビアと密接に関係するという、第一次世界大戦以来ヨーロッパ列強がユーゴ諸国。諸地域に示した伝統的な対立の図式がまだ生き続けているようで、興味深いものがあった。
統一後まもないドイツはユーゴ問題に積極的に関与して、冷戦後のEC内で影響力を強めようとしていた。スロヴェニア、クロアチア両共和国の「独立宣言」が出されると、ドイツは初めから民族自決に基づく独立承認とセルビア制裁の立場を貫いた。
これに対して、イギリスは早急な独立承認は複雑なユーゴ内の民族対立を激化するだけだとしてドイツに反対した。ECはこうした見解の違いを抱えつつ、即時停戦とユーゴの一体性の保持を基本姿勢として、緩やかな主権国家連合案を提示する。しかし、連邦の維持に固執するセルビアのミロシェヴィチ政権の反対にあい、調停に失敗してしまう。国際舞台では、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立にかたくなに反対する「悪者」セルビアとのイメージが定着していく。一方、独立承認を求めるクロアチアの「ドイツ語で」がさらに頻繁になる。
ユーゴの一体性の保持という方針でまとまっていたEC諸国の足並みが乱れて、民族自決権の行使として独立承認の方針が出された。キャリントン卿を議長とする会議は続けられたが進展が見られず、91年11月初めにECはユーゴに対する経済制裁を決定した。ユーゴ和平会議の舞台はECから国連に移った。
ソ連が急速度で解体の道をたどっていくなかで、国連におけるアメリカの役割は増大した。アメリカは国連を舞台にユーゴ問題に関与していく。クロアチア内戦に関しては、11月末、国連仲介による初めての和平会議がジュネーヴで開催されて、クロアチア内戦の停戦合意が成立し、国連平和維持軍の派遣が検討された。国連事務総長特使のヴァンス(元米国務長官)が国連平和維持軍派遣の問題で活発な動きを見せた。
*サイラス・ロバーツ・ヴァンス(英語: Cyrus Roberts Vance、1917年3月27日 - 2002年1月12日)は、アメリカ合衆国の政治家。国防副長官、陸軍長官、国務長官を歴任した。
セルビア人とクロアチア人に加え、ムスリム人の三者が悲惨な戦いを展開したボスニア内戦は、欧米諸国のみならずイスラム諸国を巻き込んだ。とくに、トルコ、サウジアラビア、イランが政治的・軍事的に大きく関与した。
アメリカがボスニア内戦に積極的に関与する契機は、92年4月のスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの三国を一括して独立承認して以後のことである。サラエヴォの目を覆いたくなるような戦闘の映像がテレビを通して伝えられるなかで、「人道主義」や「正義」を何よりも重要視するアメリカの世論が、大統領選挙を控えたブッシュ政権に多大な影響を与えた。もっとも、アメリカのマスメディアが「セルビアたたき」一辺倒であったことも考えなければならない。ブッシュ政権は湾岸戦争以来のイラクとの緊張関係があり、他のイスラム諸国、とくにサウジアラビアやトルコによるボスニアのムスリム人政府支援要請を拒否できない事情もあったのだと思われる。

ボスニア内戦に対して、欧米諸国は92年8月にロンドンでユーゴ和平国際会議を開催して、速やかな停戦を模索した。これを受けて、9月からヴァンスとオーエン元英外相を共同議長とする国連とECによる和平会議がジュネーヴで継続的に開かれ、政治的解決に努めた。93年1月初めの和平会議で共同議長によって具体的な和平案が提示され、ようやく三者の合意に達するかに見えた。しかし、合意には至らず、ユーゴ和平交渉はジュネーヴからニューヨークの国連に舞台を移して継続する。

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