日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

People's Liberation Army of China☆中国人民解放军☆Народно-освободительная армия Китая/Shigeo Hiramatsu平松 茂雄Сигео Хирамацу(1987)CANADA🍁2023/10/23⑤

 同年4月第二期全国人民代表大会第一回会議が北京で開かれることになっており、その会議にダライ・ラマがチベット代表として出席することになっていた。しかしチベット人の間には、中央政府はそれを機会にダライ・ラマを逮捕し監禁することを企図しているという噂が広まっていた。たまたま3月10日中国軍チベット軍区司令員が観劇会にダライ・ラマを招待したことを知ったラサの住民は、中国軍がダライ・ラマを捕まえようとしていると考え、数万人がポタラ宮殿を取り巻きダライ・ラマの外出を阻止した。彼らは集会を開き、1951年5月中央政府との間に取り交されたチベット協定の廃棄と中国軍のチベット地方からの撤退を要求して武装蜂起した。
 チベット協定は、「チベットを中華人民共和国の大家族のなかに入れる」「チベット人は中央人民政府の統一的指導の下に民族的自由を行う」「チベット軍隊は改編して人民解放軍とする」といった17項目からなり、一言で説明すればチベットを中央政府の支配下におくことを目的としている。この協定にチベット人は不満であったが、進駐してきた中国軍の前に受け入れざるをえなかった。


①Русскийロシア語→Соглашение между Центральным народным правительством Китая и местным тибетским правительством о мероприятиях по мирному освобождению Тибета, или «Соглашение из 17 пунктов十七か条協定Seventeen Point Agreement», было подписано 23 мая 1951 года в Пекине《中央人民政府和西藏地方政府关于和平解放西藏办法的协议》简称《十七条协议》

②Annexation of Tibet by the People's Republic of China西藏和平解放或稱人民解放軍入侵西藏、人民解放軍進藏、中國吞併西藏Tibet came under the control of People's Republic of China (PRC) after the Government of Tibet signed the Seventeen Point Agreement which the 14th Dalai Lama ratified on 24 October 1951
Китайская аннексия Тибета«китайское вторжение в Тибет»
 本格的な戦闘は19日ポタラ宮殿を守るチベット人部隊と、これを鎮圧する中国軍との間に起こった。翌20日チベット軍区部隊に反乱鎮圧の命令がだされた。二日余りの戦闘で中国軍は反乱を鎮圧した。反乱軍は一万人以上が死に、4000余人が捕虜となり、小銃8000丁、重・軽機関銃81丁、81ミリ迫撃砲27門、山砲六門、1000万発の小銃弾が捕獲された。
 チベットの反乱は中国軍の出勤により簡単に鎮圧されたが、中央政府のチベット支配に大きな傷跡を残した。そればかりか、ダライ・ラマがインドに脱出し、インド政府がその政治的亡命を認めたことから、中国とインドの友好関係が損なわれることになった。


Deutschドイツ語→Der Indisch-Chinesische Grenzkrieg war ein Krieg vom 20.Китайсько-індійська війна中印国境紛争인도-중국 전쟁(印度-中國戰爭; 중국어 간체자: 中印边境战争, 정체자: 中印邊境戰爭, 병음: Zhōng-Yìn Biānjìng Zhànzhēng; 힌디어: भारत-चीन युद्ध Bhārat-Chīn Yuddha) Oktober bis zum 20. November 1962 zwischen Indien und der Volksrepublik China. Er endete mit einem Sieg Chinas, jedoch ohne größere territoriale Veränderungen. Es ist nicht völlig auszuschließen, dass es im Westsektor (Aksai Chin) geringfügige Gebietsgewinne Chinas gab. Während Indien dies behauptet, bestreitet China, dass Indien diese Gebiete effektiv kontrolliert habe.
 4 中印国境紛争(1959年8月~62年11月)
 約二〇〇〇キロメートルに及ぶ中国と印度の国境には、東部と西部に国境線の未画定な地区が二ヶ所ある。東部では、印度は1914年のシムラ会議で承認されたヒマラヤの稜線を走るマクマホン・ラインが中国との国境線であると主張しているのに対して、中国は同ラインより約150キロメートルも南に下がったヒマラヤの山脚の線が国境線であるとしている。両国の主張する国境線に挟まれた地域の広さは約九万平方キロメートルに及び、わが国の北海道よりも大きい。西部のラダク地区では、両国の間に面積にして約三・三万平方キロメートルの違いが生じている。

*The Simla Convention (Traditional Chinese: 西姆拉條約; Simplified Chinese: 西姆拉条约)Симлская конвенция, officially the Convention Between Great Britain, China, and Tibet,[1] was an ambiguous[2] treaty concerning the status of Tibet negotiated by representatives of the Republic of China, Tibet and Great Britain in Simla in 1913 and 1914.
 1954年以来中国とインドは周恩来とネールजवाहरलाल नेहरूの平和五原則による友好的な関係にあったが、59年3月のチベット動乱を機に国境線を挟んで両国の軍隊が何回か小規模な衝突を引き起こした。60年4月の周・ネール会談で衝突の回避が合意され、中国軍の国境パトロールが中止されたため、衝突事件はなくなった。

 ところが62年4月30日、中国軍がパトロールを再開、ラダク地区の緊張が高まり、7月21日に軍事衝突が生じた。軍事衝突は9月になると東部国境でも起こった。10月20日ラダク地区、マクマホン・ラインの全線で大規模な戦闘が始まった。ラダク地区では中国軍の戦車部隊が出動し、マクマホン・ラインには中国軍の臼砲・山砲が出現した。インド軍は全線で後退し、中国軍はマクマホン・ラインを三〇キロも越え、一万五〇〇〇平方キロ、ラダク地区では一万二〇〇〇平方キロを占領した。
 11月21日、中国政府は停戦を宣言し、12月1日から撤退を開始した。中国は、東部国境ではインドが主張するマクマホン・ラインを承認し、その代わりインドは中国が実効支配しているラダク地区の現状維持を認めることによって、東西国境の一括解決を意図した。中国は57年から新疆ウイグル自治区の葉城から西部チベットの阿里地区にいたる新疆・チベット自動車道路を建設したが、その道路が問題となっているラダク地区を通っているのである。
 戦争に動員された両軍の兵力はどちらも10万人とみられている。中国側の発表によると、捕虜にしたインド兵は3323人、一方、ネールの議会での報告によると、インド軍の約200人が戦死、約300人が負傷、5000人が行方不明である。インド軍の士気や戦意が低く、一挙に壊滅的打撃を受けて四散したことがうかがわれる。
 中国軍は周到な準備を整えた上で戦闘を開始したばかりか、戦闘に参加した部隊は1951年以来平均標高三〇〇〇~四〇〇〇メートルの高地での戦闘訓練を積み重ねており、士気はきわめて高く、攻撃精神に溢れていた。これに対してインド軍は平原地帯のパキスタン正面から急遽送り込まれた部隊で、高地山岳戦の訓練を全く欠いていた。さらにインド軍は中国軍の戦略・戦術を研究していなかった。中国軍は脚力による機動、隠密な行動、大胆な迂回、指揮所に対する奇襲など伝統的な戦法を、中国国境でも余すところなく発揮した。

中苏边界冲突Конфлікт на острові Даманський1969年的中苏边界冲突是发生于1960年代中蘇交惡高潮时期,一系列中国和苏联之间的武装军事对抗。其中珍宝岛保卫战几乎导致了中苏之间爆發全面性战争。
 5 中ソ国境紛争(1969年)
 中ソ国境は全長約七五〇〇キロメートルに達する。この長い国境線には、黒竜江(アムール河Амур)・ウスリー江река Уссуриおよび新疆の各地に未画定な箇所が多数ある。中ソ関係が友好な時代には国境問題は表面化しなかったが、1960年代に入り中ソ対立が激化するとともに小規模な紛争がしばしば起きるようになった。
 1969年3月2日、ウスリー江にある珍宝島(ダマンスキー島о́стров Дама́нский)で中国の国境守備隊一個大隊がパトロール中の一個小隊のソ連国境警備隊を奇襲攻撃し、不意を突かれたソ連軍が敗退するという事件が起きた。ソ連側の発表によれば、隊長を含む31人の国境警備隊員が戦死し、14人が負傷した。死者が負傷者を二倍も上回っている数字だけでも、ソ連側が無防備の態勢にあり、不意撃ちにあったことを物語っている。
 3月15日、中国軍の連隊規模の歩兵とこれを支援する砲兵・迫撃砲などの部隊が、ソ連軍のワナにはまって珍宝島に進出し、ソ連軍の圧倒的な火力戦法の洗礼を受けた。砲弾は中国領内七キロ以上の範囲にわたり、猛烈な勢いで撃ち込まれた。ソ連側の60人に対し、中国側は1000人近くを失った。

 軍事衝突は7月8日、黒竜江の八岔島(ゴルジンスキー島Горзинский остров)でも起きたが、ソ連軍の近代的軍事力は8月西部国境の新疆で十分に示された。8月13日新疆ウイグル自治区裕民県のテレチク地区で、ヘリコプター二機と戦車・装甲車数十台および武装部隊百人からなるソ連軍と自動小銃・機関銃・擲弾筒しか持たない中国国境守備隊が戦闘し、中国軍は多くの死傷者を出した。

 事件の9月19日、ソ連共産党機関紙『プラウダ』はノモンハン事件30周年を記念する論文を掲載し、「ノモンハンの戦闘で日本軍がソ連軍により敗走させられた事実は、ソ連に対し悪意と憎悪に満ちた乱暴な攻撃を仕掛けてきた毛沢東主義の冒険者たちに対する警告である」と書いた。3月15日の第二次珍宝島事件でソ連軍の近代的火力を経験した中国軍は、新疆では同軍の装甲機動力を経験した。3月2日の第一次珍宝島事件の時、中国はこの事件を連日大きく報道し、ソ連軍が遺棄した兵器や装備品の写真を発表して、その戦果を誇示した。しかし第二次珍宝島事件の時も、新疆での軍事衝突の時も、戦果の報道はなかった。

*The Battles of Khalkhin Gol (Russian: Бои на Халхин-Голе; Mongolian: Халхын голын байлдаан) were the decisive engagements of the undeclared Soviet–Japanese border conflicts involving the Soviet Union, Mongolia, Japan and Manchukuo in 1939诺门罕战役할힌골 전투“哈拉哈河战役”、“哈拉欣河战役”Bataille de Khalkhin Gol aussi appelée incident de Nomonhan (ノモンハン事件, Nomonhan jiken?)
 1969年に中ソ国境で生起した一連の軍事衝突は、林彪を先頭とする中国軍の指導者たちに、毛沢東の人民戦争論ではソ連軍と戦えないこと、ソ連軍と戦うためには中国軍を近代的な軍隊に徹底的に改造しなければならないことを認識させた。

Françaisフランス語→La bataille des Îles ParacelsBattle of the Paracel Islandsest un combat maritime ayant opposé la marine chinoise et les forces navales de la République du Viêt Nam (Sud-Viêt Nam) dans les Îles Paracels le 19 janvier 1974.西沙海戰Сражение у Парасельских островов (1974),中方称西沙自衛反擊戰,越方称黄沙海战(越南語:Hải chiến Hoàng Sa
 6 西沙群島の海戦(1974年1月15~20日)
 西沙群島は南沙群島・東沙群島・中沙群島とともに南シナ海に所在し、バシー海峡とマラッカ海峡、香港とシンガポールを結ぶ海上ルートが通っている戦略上の要衝である。付近の海域には豊富な海底資源と漁業資源があり、とくに最近では海底石油の埋蔵が注目されている。中国・台湾・ベトナム・フィリピンの沿岸諸国がそれぞれ主権を主張していることに加えて、1970年代に入ってからソ連海軍がインド洋・太平洋に進出してきたところから、戦略的にきわめて重要な地域となってきた。
 74年1月の中国海軍による西沙群島の攻略は、73年9月南ベトナムが南沙群島を同国のフォクトイ省に編入したことに始まる。11月西沙群島の永興島を基地とする中国の漁船隊が琛航島に上陸しようとして、南ベトナム側の阻止にあった。翌74年1月11日中国政府は南ベトナムの南沙群島編入に抗議する声明を発した。
 15日甘泉島付近で操業中の中国の漁船を南ベトナム海軍の艦艇が実力排除した。翌16日中国海軍の哨戒艇二隻と漁船二隻が甘泉島に上陸作戦を行い、同島を占領して中国旗を掲げた。翌17日南ベトナム海軍は四隻の艦艇を派遣して、甘泉島への逆上陸を行い、中国側を退去させた。同日永興島から中国の民兵二個大隊が琛航島に上陸し、二昼夜にわたる防備工事を行って南ベトナムの攻撃に備えた。19日琛航島の奪回を企図した南ベトナム海軍の艦艇二隻が同島へ200メートルの地点まで接近し、ゴムボート二隻を降ろし、砲艦の支援の下で揚陸戦を行った。中国の民兵隊との間に戦闘が行われ、中国側は多数の死傷者を出したが、南ベトナム海軍揚陸隊を撃退した。

 同じ19日琛航島付近海域に集結していた両国の海上部隊は遭遇戦を行った。中国海軍はコマ級ミサイル艇三~四隻を含む14隻、南ベトナム海軍は掃海艇を含む七隻で、中国側は警備艇が一隻撃破され、南ベトナム川は撃沈一隻、中波一隻、軽破二隻の損害をだして敗北し、中国海軍が同島海域を制圧した。なお南ベトナムの撃沈された艦艇はコマ級ミサイル艇のスティック・ミサイルによるものといわれているが、中国側は否定している。
 1月20日中国のジェット戦闘機ミグー21四機が珊瑚島・甘泉島・金銀島へ射爆撃を加え、続いて中国海軍部隊の一個大隊約500人が揚陸支援砲撃の援護の下に上陸し、三島を占領した。南ベトナム軍は約90人が戦死し、60人が捕虜となった。こうして西沙群島のすべての島嶼が中国の支配するところとなった。
 西沙群島の海戦は小規模であったとはいえ、これまで中国大陸の沿海でしか行動していなかった中国海軍が外洋に対する関心を示したものとして注目された。

Deutschドイツ語→Als Chinesisch-Vietnamesischer Krieg중월 전쟁(中越戰爭, 중국어 간체자:对越自卫反击战)Sino-Vietnamese War, in China Zhōng-Yuè biānjìng zìwèi huánjí zuòzhàn中越边境自卫还击作战„Selbstverteidigungs- und Gegenangriffskampf an der chinesisch-vietnamesischen Grenze“,[3] vietnamesisch Cuộc chiến chống bè lũ bành trướng phương bắc „Krieg gegen den chinesischen Expansionismus“, wird der Einmarsch der chinesischen Volksbefreiungsarmee in Vietnam ab dem 17. Februar 1979 bezeichnet.Guerre sino-vietnamienneКитайско-вьетнамская войнаChiến tranh biên giới Việt–Trung 1979
 7 中越戦争(1979年2月17日~3月15日)
 フランスおよび米国との戦争での支援を通して長い間友好関係にあった中国とベトナムとの関係は、ベトナム戦争の終結(1975年4月30日)を契機に陸地国境、南沙・西沙群島の領有問題、ベトナムの在越華僑迫害問題、ベトナム軍のカンボジア侵攻問題などをめぐって急速に悪化した。
①中華人民共和國外交部關於越南驅趕華僑問題的聲明Statement of the Ministry of Foreign Affairs of the People's Republic of China on the expulsion of overseas Chinese from Vietnam一九七八年五月二十七日,越南社會主義共和國外交部發言人就所謂「在越南的華人」問題發表了一項聲明,歪曲事實,倒打一耙,妄圖把驅趕華僑的責任強加在中國方面。中國政府對此不能保持緘默On May 27, 1978, the spokesperson of the Ministry of Foreign Affairs of the Socialist Republic of Vietnam issued a statement on the so-called "Chinese in Vietnam" issue, distorting the facts and trying to impose the responsibility of expelling overseas Chinese on China. The Chinese government cannot remain silent on this.

②Русскийロシア語→Кампучийско-вьетнамский конфликтカンボジア・ベトナム戦争Cambodian–Vietnamese War柬越戰爭Chiến tranh Việt Nam - Campuchia/戰爭越南 - 淦哺支 (кхмер. សង្គ្រាមកម្ពុជា-វៀតណាម, вьетн. Chien dịch phản công biên giới Tây) 西南边境保卫战— вооружённый конфликт с участием управляемой режимом Пол Пота Демократической Кампучии и Социалистической Республики Вьетнам, продолжавшийся с 1975 по 1979 год.
 1979年2月17日早朝、中国軍は中越国境付近に集結させていた17個師団22万5000人のうちの12個師団をもって国境全域の六省11県に侵攻を開始した。カオバン正面に六個師団、ランソンおよびクアンニン正面に三個師団、ラオカイ正面に三個師団が投入された。
 中国軍は2月18日午後ラオカイ、カオバン、ドンダン、ドンケ、ディンラプなどベトナム軍の前面に進出したところで一旦停止したが、19日から20日にかけて、ランソン正面に戦車40両を含む一個師団、カオバン正面に戦車40両を含む一個師団、ラオカイ正面に戦車40両を含む二個連隊をそれぞれ増強して攻撃を再開し、2月20日にはラオカイを占領、ドンダンを孤立させた。その後中国軍はドンダン、カオバンを攻撃し、24日ドンダン、27日カオバンを占拠、引き続きランソンに八個師団の兵力を投入して、3月2日占領した。
 中国軍は3月5日所期の目的を達したとして撤退を始めたが、小規模な戦闘はその後も行われ、15日撤退を完了するまで続いた。
 中国軍の目的は大兵力を国境の全正面に投入して国境地帯を短期間で占領し、国境地域の軍事施設を破壊するとともに若干の正規軍部隊を捕捉殲滅することにあった。しかしベトナム側は正規軍をほとんど参加させず、国境警備部隊・公安部隊・民兵を動員して対抗した。
 ベトナム領に入った中国軍はベトナムの人民戦争に引きずり込まれた。国境地区の険しい地形を利用して網の目のように作られた洞窟に分散配置されたベトナムの人民武装勢力は、隘路の随所に地雷原を構成して装甲部隊の進撃を遅滞させ、山の上から自動火器・迫撃砲・対戦車ロケット砲で攪乱し、中国軍が攻めてくるとほかの山に上って攻撃した。中国軍は決死隊として歩兵部隊を攻撃の前面に出して地雷を爆発させ、戦車部隊を前進できるようにして進撃した。

 ラオカイ正面の戦闘についてベトナム軍のある兵士は語っている。「中国歩兵部隊兵士は肩を並べて進み、自分たちの犠牲で地雷原を切り開きつつ、じりじりと進んでくる。中国軍がラオカイを出発した時、彼らはまるで水田の稲穂のように無数で密集していた」。
 カオバン正面の戦闘についても次のような証言がある。「われわれ40人の陣地に四方から数え切れないほどの中国兵が18台の戦車とともにラッパを合図にいっせいに突撃してきた。11台の戦車を破壊し、多くの敵兵を殲滅したが、数えるひまがなかった。目の前は敵の死体でいっぱいだった。中国軍は人海戦術で銃も撃たず押し寄せてくる。弾薬さえあれば、われわれはいくらでも殲滅できる」。このベトナム兵の証言通りであったならば、中越戦争でとられた中国軍の戦法は朝鮮戦争の時と少しも変っていないことになる。
 洞窟は歩兵が隠れる蜂の巣型のものから、戦車・大砲を収容できる大型のものまであった。中国軍は抗日戦争や朝鮮戦争で日本軍や米軍をてこずらせた坑道戦に、今度は自分たちが悩まされることになった。中国軍部隊は分断孤立され、身動きできない状態に陥った。中国軍は緒戦で大きな損害を蒙り、部隊を再編成し補給を待つために、侵攻した翌日攻撃を停止しなければならなかった。
 戦争終結後ベトナム側が発表したところでは、ベトナム側は中国軍6万2500人の戦闘能力を奪い、戦車、装甲車280両を含む軍用車550両と大砲・迫撃砲など115門を破壊する戦果を収めた。この数字は水増しされているにしても、中国軍がかなりの損害を蒙ったことは間違いない。

 中国軍は苦戦を強いられ、戦いの決着をどこに見付けるかに苦慮した。ランソンの占領直後に撤兵声明をだしたことから、中国軍はそのきっかけをランソンの奪取に求めたようである。ランソンをめぐる戦闘は2月27日から3月2日まで続いた。ランソンはドンダンから約15キロに位置し、南を除いて三方を山で囲まれており、それらの高地をとらなければランソンに入ることはできない。この高地の争奪をめぐって一進一退の死闘が繰り返された後、中国軍はようやくランソンを制圧した。
 ベトナムは中国軍について「圧倒的な兵力と火力を持ちながら、機動力は小さく、旧式の兵器・装備を保有するにすぎない時代後れの軍隊」「戦争経験を欠き、近代戦争が要求する水準にまで達していない」と厳しい評価を加えたが、同じような評価は戦争後の中国においても現れた。中越戦争後初めての建軍記念日に掲載された1979年8月1日付け『解放軍報』社説は、「中越戦争の経験を総括し、実戦にあった厳格な訓練を通じて、人と技術を結び付け、分隊と分隊、各軍種・兵種の間、部隊の先頭と後尾の間を、掌と腕のようによく結合し協力させ、掌を腕のように、また腕を掌のように、自由自在に動かせるようにしなければならない」と論じた。

Military budget of China中華人民共和国の軍事予算Военный бюджет КитаяMilitärhaushalt ChinasВійськовий бюджет Китайської Народної Республіки (КНР)
The military budget of China is the portion of the overall budget of China that is allocated for the funding of the military of China. This military budget finances employee salaries and training costs, the maintenance of equipment and facilities, support of new or ongoing operations, and development and procurement of new weapons, equipment, and vehicles. Every March, as part of its annual state budget, China releases a single overall figure for national military expenditures.  As of 2023, the official military budget was announced to be 1.55 trillion yuan, the second largest in the world behind the US.

                三   軍事支出と兵器生産

 1 軍事支出
 国防費と総軍事支出
 第4表は建国以来国家財政支出のなかで国防費として計上されている支出の推移を表示したものである。建国直後の数年間国防費が財政支出の30~40パーセントも占めているのは、朝鮮戦争に参戦したことによる。その後50年代を通じて50~60億元であり、財政規模が増大したからその比率は10パーセント台に下がった。60年代に入り国防費は増大の傾向を示し、ベトナム戦争・文化大革命・中ソ戦争が生起した同年代後半から70年代初頭にかけて、20パーセントを突破した。林彪事件以後国防費は下降し10パーセント台が続くが、79年に僅かではあるが増えているのは中越戦争の影響である。86年と87年の両年八パーセント台に下がったのは鄧小平の兵力削減による。
 ところでソ連や中国のような社会主義国家では、国家財政支出に計上されている国防費は人件費・糧食費その他部隊・機関の日常経費などが主体であり、兵器・装備の開発費・生産費などは含められていない、とされている。兵器・装備の生産費の経済建設費の項目のなかの基本建設投資額、兵器・装備の開発費は社会文化教育費のなかの科学研究費にそれぞれ計上されているとみられている。具体的な内容はいっさい不明であるが、たとえば科学研究費が58年に倍増し59年、60年と増えたことは、核兵器開発の決定と関係がありそうである。
 中国の国家財政支出は経済建設費・社会文化教育費・国防費・行政管理費・債務支出・その他の各項目からなっているから、中国の軍事支出は国家財政支出のすべてに及んでいるといえる。その総額はどのくらいか。中国がおの数字を公表したことはない。米国軍縮局が毎年公表している『世界の軍事支出と武器移転』によると、82年の中国の軍事支出(総軍事支出)は495億ドルで、同年のGNP(6980億ドル)の7・1パーセントを占めている。防衛研究所で長い間中国経済を研究していた前田寿夫氏は、早くからこの数字には計算に問題があると指摘し、GNPはその半分以下、軍事費はGNPの4~5パーセント程度と推定していた。
*前田寿夫Hisao Maeda(1919栃木県出身Born in Tochigi Prefecture-) 昭和後期-平成時代の軍事評論家Military commentator from the late Showa period to the Heisei period. 大正8年12月8日生まれBorn on December 8, 1919. もと陸軍中尉Former Army Lieutenant.
 中国が公表したところでは、80年の一人当たりGNPは253ドルであるから、これに10億人の人口を掛けると、GNPは約2500億ドルである。総軍事支出がGNPの10パーセントとして250億ドル、5パーセントとして125億ドルであるが、中国の82年の国家財政支出のなかの国防費は米ドルに換算すると約94・6億であるから、5パーセントの125億ドルでは少なすぎる。その中間ぐらいか。

 わが国の防衛費との比較
 『ミリタリー・バランス 1984~1985』によると、わが国の防衛費は1982年で103億6100万ドルである。中国の国家財政支出に計上されている国防費は82年で94億6000万ドルであるから、わが国の防衛費とほとんど同額の約100億ドルである。
 わが国の防衛費の内訳は、1982年度で人件費・糧食費が45パーセント、物件費が55パーセントであり、兵器・装備品などの購入費が物件費の17・4パーセント、研究開発費が同じ0・9パーセントである。これを陸上自衛隊についてみると、70パーセントが人件費・糧食費である。中国軍は陸軍が主体、それも歩兵主体の軍隊であるから、中国の総軍事支出を考える場合、わが国の陸上自衛隊の予算配分は一つの参考となるであろう。
 先にのべたように中国の国家財政中の国防費は主として人件費・糧食費であるから、同じ100億ドルで、わが国が約25万人の自衛隊のすべてを運用しているのに対して、中国は420万人の兵力を維持していることになる。中国では軍事支出のかなりの部分が人件費によって占められていることは、鄧小平が75年に「どのような問題でも解決を求めると、すぐに機構を増設し、人員を増やし」、その結果「各級機関はきわめて膨大になり、軍事支出が国家予算に占める比重は増大し、しかも経費の多くを衣服・食事に費やしている」とのべているところからうかがわれる。
 中国では兵器・装備の開発・生産に多くの財源が投入されていないことは、中国軍の兵器・装備から察せられる。それは一部を除いて50年代にソ連から供与された兵器・装備およびそれに関連する技術・知識に基づいて中国が開発したものであり、その水準はせいぜい60年代のソ連の水準に留まっている。世界的にみて、兵器・装備に膨大な財源を必要とするようになったのは、60年代における技術革新を経て以後のことである。戦闘機を一例にあげるならば、50年代のわが国航空自衛隊の主力戦闘機F-86は一機約1億1000万であったが、60年代の主力戦闘機F-104はその三倍の約103億円である。このように戦闘機の価格が大幅にあがっている最大の理由は、搭載している電子機器にある。
 中国軍の現有兵器では、カネをかけようにもカネのかかりようがなく、中国軍が兵器の近代化で大きな財源を必要とするようになるのは、これからである。そして総軍事支出に占める人件費・糧食費の割合が大きい制約の下で中国軍の近代化を実現するには、総軍事支出が大きくならないかぎり、そしてそれが抑えられている条件の下では、兵力を削減して人件費を切り詰めるほかないことになる。鄧小平政権の百万の兵力削減はこうした目的で断行された。

Deutschドイツ語→Der Chinesisch-Sowjetische Vertrag über Freundschaft, Bündnis und gegenseitige Hilfe (Russisch: Советско-китайский договор о дружбе, союзе и взаимной помощи; vereinfachtes Chinesisch: 中苏友好同盟互助条约; traditionelles Chinesisch: 中蘇友好同盟互助條約; Pinyin: Zhōng-Sū Yǒuhǎo Tóngméng Hùzhù Tiáoyuè)Sino-Soviet Treaty of Friendship, Alliance and Mutual Assistance중소 우호 동맹 상호 원조 조약 wurde am 14. Februar 1950 zwischen der neugegründeten Volksrepublik China und der Sowjetunion geschlossen und ersetzte den Chinesisch-Sowjetischen Freundschafts- und Bündnisvertrag vom 14. August 1945, der noch von der Regierung Nationalchinas geschlossen worden war.
 2 通常兵器と生産能力
 ソ連の軍事援助
 中国軍は朝鮮戦争でソ連軍の大規模な援助により近代兵器を装備した正規軍に成長したが、休戦後もソ連の援助と協力による兵器・装備の国産化が進んだ。その結果中国の軍事工業は、①1956年にはソ連製の部品の組み立てによるミグー17ジェット戦闘機の生産を開始し、1959年には月産25機の水準に達した。②1956年からソ連のW型潜水艦の組み立て建造を始め、1964年までに21隻を建造した。③1959年には当時ソ連の主力戦車であったT-54型を改良したT-59型の生産に成功したーなど、当時としてはかなり進んだ水準の兵器・装備を生産するところにまで成長した。

 のちに中ソ論争の過程で、中国はソ連が中国に対する援助の供与を出し渋ったとか、あるいはその援助物資が二流のものであったとか、あるいはその価格が国際価格と比べて高く、かつ高い利子まで支払わせたとかーといった非難、というよりも罵詈雑言を、ソ連に浴びせた。しかしこの非難は真実を正しく伝えていない。先に記したように、ソ連の中国に対する軍事援助は当時としてはかなり進んだ水準の兵器であった。次の世代の兵器が出現しつつあったとはいえ、ミグー17ジェット戦闘機、W型潜水艦、T-59型戦車はいずれも当時のソ連の主力兵器であった。ソ連はそれらの兵器を完成品として供与したばかりでなく、その生産技術まで提供したのである。

 兵器水準の日中比較
 ソ連の対中国軍事援助を、同じ時期の対日本軍事援助と比べてみよう。当時、わが国の航空自衛隊の主力戦闘機はF-86であった。F-86とミグー17はほぼ互角の戦闘機である。わが国が米国の援助でF-86の生産を始めたのは1958年(昭和33年)であるから、その時には中国はミグー17の生産能力を持っていた。ついでミグー19のライセンス生産を開始し、1961年には第一号機を完成させている。わが国が同レベルのF-104のライセンス生産に着手したのは、1960年である。艦艇の建造ではわが国の方が早く1953年(昭和28年)に護衛艦(駆逐艦)が建造されたが、潜水艦の建造は同じ1956年である。
 このように1950年代における中国軍の兵器水準はわが国のそれとほぼ同じであったといってよい。ところが20年以上を経た現在、わが国の兵器が世界でも最先端の水準に達しているのに対して、中国軍のそれはいまなお60年代の水準に低迷している。
 ではどうして中国と日本との間で、現在あるような格差が生まれたのか、その理由は次の二点に求められる。①60年の中ソ対立によりソ連の技術供与が停止されたため、その後の中国は自分の力で兵器を開発し生産しなければならなくなった。②中ソ対立に続いて中国では文化大革命が起こり、政治の混乱、経済の停滞をもたらしたばかりでなく、軍の近代化が否定された。
 1960年代に起きたこの二つの出来事によって、中国軍の近代化はいちじるしく遅れたが、この60年代には世界が原子力を電子工学を中心とするいわゆる技術革新に入った時代であった。この年代に世界の軍事技術はそれまでの兵器についての概念を全面的に覆す変革を遂げた。中国はこの技術革新に取り残された。現在の中国の兵器・装備は、50年代にソ連から供与された兵器・装備および技術知識を活用して得られたものであり、その後に若干の自らの創意工夫と西側から入手した技術知識が付け加えられたことを考慮しても、せいぜい60年代のソ連と比較できる段階に達した程度である。
 第5表は、英国の国際戦略研究所編『ミリタリー・バランス』により、中国の陸軍・海軍・空軍の主要兵器・装備について、1960年以降の保有数の推移を示したものである。60年以前にふれていないのは『ミリタリー・バランス』の刊行が50年代末からであり、またこれ以外に中国の軍事力・国防工業力を長期間にわたって評価できる資料が入手できない、という単純な理由によっている。この表を見ながら中国の陸海空軍の主要兵器の開発状況を一瞥しよう。

①Русскийロシア語→Шэньян J-8 (кит. трад. 殲撃八型Shenyang J-8, упр. 歼撃八型, пиньинь Jiān jī bā xíng, палл. Цзянь цзи ба син или 歼-8, Jiān-8, J-8, буквально Истребитель модель 8, Код НАТО: Finback) — одноместный истребитель-перехватчик, разработанный Авиастроительной корпорацией в г. Шэньяне②The Mikoyan-Gurevich MiG-21 (Russian: Микоян и Гуревич МиГ-21; NATO reporting name: Fishbed)米格-21戰鬥機 is a supersonic jet fighter and interceptor aircraft③Deutschドイツ語→Die Mikojan-Gurewitsch MiG-19 (russisch Микоян-Гуревич МиГ-19, NATO-Codename: Farmer)米格-19战斗机 ist ein einsitziges sowjetisches Militärflugzeug, das als Jagdflugzeug und Jagdbomber eingesetzt wird.
 航空戦
 1961年頃超音速戦闘機ミグー19の生産に成功し、続いて75年頃ミグー21を国産化、さらに70年頃ミグー19を改良した双発ジェット戦闘爆撃機F-9を完成した。その結果、中ソ対立から10年後の70年代初期には、これらの新鋭戦闘機だけで1000機を越え、75年には1750機に達した。また70年までに亜音速の中距離爆撃機TU-16型が生産されるようになり、72~74年には保有機数は100機を数えた。
 しかしこれらの新鋭軍用機はエンジンその他の欠陥により、F-9が完全に生産を停止し、ミグー21とTU-16の保有機数は大幅に減少した(75年で50機)後、漸増の傾向を示しているものの、最近まで量産化されていない。健在な航空機はミグー19だけであるが、これも量産体制に入っていることが判明したのは70年代に入ってからであり、国産化に成功したときから10年近くかかっている。
 75年に英国のロールス・ロイス社のスぺイ・エンジンのライセンス生産が開始され、低迷を続けた中国の軍用機産業は再び活発となった。80年代に入りミグー21の保有数が急増したばかりか、82年春同機40機を北朝鮮に供与した。ミグー23の生産も始まり、TU-16も漸増を続けている。86年にミグー21を改良した殲-8IIが公開された。この戦闘機は米国の電子機器を搭載することになっている双発の多用途高性能超音速戦闘機で、高機動性・長航続飛行・長戦闘行動半径の特徴を持ち、要撃・空中戦闘・戦場爆撃・近接航空支援に優れているという。これにより中国空軍に初めて全天候性の近代的な戦闘機が出現することになるが、F-4を経てF-15を配備しているわが国の航空戦力と比べるならば、20年はおくれている。なお1980年頃から軍用機の名称が、第5表( )内のようにソ連名から中国名に変わった。

 艦艇
 潜水艦はW級の次世代のR級が建造され、1970年代中葉以降、着実に隻数が増えている。その間の60年代中葉、ミサイル発射管三基を備えた通常動力のG級が完成したが、ミサイル・システムを欠き、水中発射に成功したのはようやく82年10月であった。保有隻数は現在にいたるまで一隻である。原子力潜水艦の建造は60年代の後半から伝えられたが、84年夏その保有が初めて公表され、さらに87年1月遠洋航海に成功したことが公表された。XIA級(弾道ミサイル潜水艦)とHAN級(魚雷攻撃型)の二つのタイプがあり、XIA級はミサイル発射管を12基搭載している(125頁の第6表参照)が、水中発射実験に成功したとの公式報道はない。
 水上艦艇の建造では、70年代初頭、ミサイル駆逐艦旅大型(3500トン)が就役し、着実に増加している。80年代に入り米中軍事協力関係の進展とともに、潜水艦を探索するソナー、短魚雷、ファランクス対空砲、ガスタービン・エンジンなどの技術を米国から導入する動きが現れている。わが国の海上自衛隊は80年代に入ってからガスタービンの導入による護衛艦の近代化に着手している。中国海軍も初速が速く、機動性に優れ、振動と音の小さいガスタービンの導入により駆逐艦の近代化を目指している。
 中国海軍が外洋に進出する傾向を示し始めていることは注目されるが、外洋艦として建造された旅大型駆逐艦も含め、一部の艦艇(江東級護衛艦)が艦対空ミサイルを装備しているのを除けば、対空ミサイルを装備している艦艇はない。また対潜水艦兵器も貧弱で、電子機器も旧式である。こうした対潜・対空あるいは捜索・射撃管制・目標表示・空中警戒レーダーなどの技術の後れは、外洋進出の決定的弱点となるであろう。
 中国海軍の外洋進出におけるもう一つの弱点は洋上航空機の欠如である。86年3月、中国軍のある指導者は、中国は航空母艦を建造しているといううわさがあるがという質問に対し、建造していないと答えたが、中国はいずれ航空母艦を建造するであろう。

 陸戦兵器
 中国はほとんどあらゆる種類の陸戦兵器を生産することができるが、その大部分は1950年代にソ連から供与された兵器および技術を基にしており、旧式で現在の世界の兵器水準にはほど遠い状態にある。
 なかでも後れているのは戦車である。中国軍の主力戦車は20年以上を経ていまなおT-59(重量36トン、100ミリ砲)である。その間、世界の戦車は飛躍的に発展し、走行中砲を水平・垂直に安定させるための装置、夜間での戦闘を可能にする赤外線暗視装置、レーザー測遠機などを装備するにいたっているが、T-59はそれらの装置を欠いていた。80年代に入りT-59を改良したT-69が生産され(重量36トン、105ミリ砲)、T-59とともに主力戦車となっている。この戦車は上述した装置を備えているといわれる。その間、ソ連軍の戦車はT-55,T-62,T-64、T-72と更新を重ね、現在はT-80(重量42トン、115ミリ砲)が出現している。ソ連軍はこれらの各種戦車を合計五万両以上保有しているのに対し、中国軍の保有する戦車は70年代に開発したT-60水陸両用戦車、T-62軽戦車(重量21トン、85ミリ砲)その他を含めて1万450両にすぎない。T-62は中越戦争で大量に使われたが、装甲が薄く火力が小さいため、ベトナム軍により破壊され大きな損害を出した。なお、80年代中頃からT-80と呼ばれる新しい戦車が開発されているが、生産の段階にはいたっていない。
 さらに近代戦争に適応するために世界各国の歩兵部隊は装甲化・戦闘車両化しており、たとえばソ連陸軍は六万両の装甲戦闘車両を保有しているのに対し、中国軍の保有数はわずか2800両であり、歩兵部隊の装甲化・戦闘車両化にはほど遠い。

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