日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

People's Liberation Army of China☆中国人民解放军☆Народно-освободительная армия Китая/Shigeo Hiramatsu平松 茂雄Сигео Хирамацу(1987)CANADA🍁2023/10/23⑦


 これに対して鄧小平は1985年の中央軍事委員会拡大会議で、「われわれは戦争の危険が切迫しているとの従来の見方を改めた」ことを明らかにし、「比較的長い時間、少なくとも今世紀の内に戦争が起きないことを希望している。これは可能であり、空論ではない」とのべた。鄧小平政権はこれを「軍隊建設指導思想の戦略的転換」すなわち戦時ないし臨戦態勢から平時態勢への転換と意義づけている。そして「少なくとも今世紀の内に戦争は起きない」という国際情勢認識の下に、兵力の百万人削減による中国軍の全面的な再編成が断行された。

 2 百万の兵力削減と合成集団軍の編成
 1982年9月、鄧小平政権成立後初めての党大会である第12回大会が開かれた。この大会で鄧小平は新設された中央顧問委員会の主任に就任したが、中央軍事委員会主席の地位には引続き留まった。
 鄧小平の軍事改革は、第12回大会の直後の1982年9月15日に、中共中央軍事委員会から通達された。「軍隊の体制改革と精簡整編(戦闘力の精鋭化・機構の簡素化による中国軍の再編成)に関する方案」に端を発する。その詳細は明らかにされていないが、①戦闘部隊の再編成、②非戦闘部隊の民間への転業、という二つの内容からなっている。この時から84年までに非戦闘部隊の民間への転業により百万に近い兵力が削減され、85年5~6月の中央軍事委員会拡大会議における百万の兵力削減と大軍区改編の決定により、引き続いて非戦闘部隊が民間に転業するとともに、戦闘部隊の改編が断行された。

 非戦闘部隊の民間への移管
 非戦闘部隊で民間へ転業した組織は、鉄道兵・基本建設工兵・公安関係部隊である。鉄道兵は1984年1月1日をもって国務院鉄道部に移管され廃止された。基本建設工兵は81年頃から国家基本建設に関連した建設公局に改編され始め、83年頃までに転業を終了した。公安関係の部隊すなわち内衝・辺境警備の任務を担当していた部隊は、83年初頭の数ヶ月間に中国軍から国務院の公安部門に移管され、人民武装警察部隊に改編された。
 鉄道兵の総兵力は約15万人、基本建設工兵は約30万人と推定されている。公安関係部隊のそれは不明であるが、50万人を下らないとみられているから、これら三つの組織の改編により、百万に近い兵力が削減された、と推定される。
 鉄道兵と基本建設工兵の廃止は、中国軍から毛沢東軍事思想ないし人民戦争の性格を払拭する措置として重要であるが、それに劣らず注目される措置は公安関係部隊の人民武装部隊への改編である。
 地方軍内の公安関係部隊の国務院公安関係部門への移管は、公安機関が公安本来の任務に戻るものであり、軍隊としても本来の軍隊の任務に戻ることであるが、毛沢東の軍隊あるいは人民戦争態勢の基本をなす「主力軍・地方軍・民兵の三結合の武装力体制」の解体につながるという点からみて、無視できない。
 同じ時期の83年3月に、81年から進められていた民兵の改革が完了した。若年化と規模の縮小による精鋭化と報じられたが、改革された民兵はもはや三結合を構成する武装力ではなく、正規軍の予備兵力にすぎない。82年12月に制定された憲法は、「主力軍・地方軍・民兵の三結合の武装力体制を実施する」という78年憲法の条文を削除し、軍の「近代化・正規化」を明確にした。地方軍と民兵の改革によって、「三結合の武装力体制」は解体し、中国の武装力は正規軍を主体とするものになった。

 戦闘部隊の改編と大軍区の改革
 上記「軍隊の体制改革と精簡整編に関する方策」によると、それまで独立して存在した砲兵・装甲兵・工兵の司令部が廃止され、総参謀部の砲兵部・装甲兵部・工兵部としてその指揮下に入った。この措置により、諸兵種から構成される合成部隊を編成するための基礎が築かれることになるが、合成部隊の編成には、11個の軍区に配備されている歩兵(36個軍とみられている)が同様に総参謀部の指揮下に置かれなければならない。
 しかし文化大革命における三支両軍の司令員が強大な政治権力を掌握して以来、全軍を集中的に指揮する中共軍事委員会との間の軋轢は未だになくなっていなかった。85年の中央軍事委員会拡大会議における大軍区の11個から七個への統合とそれに伴う司令員の交代は、83年秋から整党の過程で行われた三支両軍の徹底的批判を背景に断行された。
 整党の目的は中共11期三中全会路線による意思統一と、これに反対する政治勢力の排除である。軍内では総部、軍種、兵種、大軍区などを対象として始められたが、多くの単位でかなり深刻な「左」の影響が露呈され、党中央の路線・方針・政策を理解する妨げとなり、とりわけ派閥性の存在が整党活動を正常に進める上で妨げとなった。

 そのため翌84年4月初旬、鄧小平は文化大革命の完全否定と派閥性の排除を指示した。ついで5月中旬、楊尚昆の随行で北朝鮮を訪問した胡耀邦は、帰国の途中瀋陽部隊を閲兵し、同部隊幹部に対し、文化大革命の全面的否定と三支両軍の徹底的批判を指示した。同部隊司令員の李徳生は三支両軍の申し子であり、三中全会以後鄧小平が行った大軍区司令員の異動を生き延びてきた唯一人の司令員であったから、胡耀邦自ら瀋陽に出向いて李徳生を批判したことになる。
 鄧小平の指示および胡耀邦の瀋陽訪問を契機に、整党は急速に進んだ。同年10月1日の国慶節で25年ぶりに挙行された軍事パレードを鄧小平が観閲し、中国軍に対する彼の統率力が誇示された。そして10月9日李徳生は「文化大革命の一つの重要な問題を徹底的に否定しようー三支両軍のなかの誤りを正しく認識する問題について」という論文を発表して、三支両軍の全面否定を事実上受け入れた。
 百万の兵力削減、戦闘部隊の再編、大軍区の統合および司令員の交代はこうした整党の進展の上に断行されたが、問題は李徳生および瀋陽軍区だけに限定されていなかった。一説によると、鄧小平は大軍区の撤廃を意図したが、老幹部の反対・抵抗にあい、11個を七個に統合することで妥協したという。真相はともかくとして、技術兵種を総参謀部の指揮下に置く決定は、それらの部隊の大軍区から総参謀部への移管であり、歩兵部隊の同様の移管により、近代的な合成部隊の編成が可能になるとともに、大軍区に配備された各軍種・兵種部隊が中央の統一された直接的指揮の下に置かれることになる。
 87年の建軍記念日に公表されたところでは、百万の兵力削減および部隊の再編により、兵士40万人、幹部30余万人、合計70余万人が削減され、4000個以上の師団・連隊級の単位が廃止された。詳細はわからないが、大軍区の11個から七個への統合により、そこに配属されている軍・師団以下の部隊は統合され、あるいは廃止され、他方、歩兵部隊は全面的に削減され、装甲兵・砲兵・工兵などの技術部隊が増設され、合成集団軍の編成が進行した。

 合成集団の編成
 合成集団軍編成への動きは、中越戦争(79年2~3月)後まもなく山西省太原に駐屯している第63軍に「合成大隊」が編成された時に始まる。総参謀部はこのテスト・ケースの成果に肯定的評価を下し、合成訓練の範囲と内容を逐次拡大するとともに、他の部隊にも広めていった。
 1981年夏、河北省張家口地区で、陸軍と空軍あわせて約20万が参加した軍事演習が実施された。この軍事演習は、中越戦争以後中国軍が実施してきた軍隊建設と軍事訓練、とりわけ合成集団軍による協同作戦訓練の検証であると同時に、人民戦争の経験と知識しか持たない軍の内外に対して、「現代の戦争」の実態を具体的に理解させることにあった。この軍事演習では、航空攻撃、ヘリコプターによる機動作戦、空挺部隊による機動作戦、電子戦、戦車大集団による中央突破・高速度攻撃・波状反復攻撃などの「現代の戦争」の諸様相が展示された。
 この軍事演習を機に中国軍の協同作戦訓練は新しい段階に入った。83年の建軍節に北京軍区に装甲歩兵、装甲兵、砲兵、工兵、通信兵から構成される機械化合成部隊が編成されたことが報じられた。また、「多くの部隊で大隊から師団までのさまざまな規模の実戦に近い検証的軍事演習が行われ、即時対応と臨機応変の能力が備えられ、協同訓練の方法が探られ、指導機関による協同作戦の組織・指導が研究され、訓練しながら研究・改革が行われ、精鋭の将兵が育成されている」ことも報道された。
 85年12月31日、合成集団軍の編成が完了し、各種の軍事活動が新しい隷属関係の下で実施されていることが明らかにされた。その基本編成は機械化歩兵師団一、モーター化歩兵師団(オートバイや軽自動車を装備)一、装甲師団一、砲兵師団一、高射砲師団一であり、ほかに工兵連隊、レーダー大隊、通信大隊、防化学大隊などがある。
 編成の完了といっても、制度として合成集団軍が全軍に編成されたということであり、すべての合成集団軍がそれに相応した兵器を装備し、それを運用できる人員を配置しているということではない。『解放軍報』の報道でみるかぎり、合成集団軍として実質的に編成を終えているのは、第38軍と第39軍、遼寧省営口駐屯の第39軍、瀋陽駐屯の第64軍(以下瀋陽軍区)、河北省保定駐屯の第38軍、山西省太原駐屯の第63軍(以下北京軍区)、済南駐屯の第67軍(済南軍区)、徐州駐屯の第12軍(南京軍区)などである。編成された合成集団軍の数は不明であるが、一説では25個軍といわれているから、実質的に編成を終了した合成集団軍の数はきわめて少ないといえる。兵器・装備・部隊の素質からいって合成集団軍とはほど遠い部隊が多数存在していて、正式編成は困難と考えられる。
 しかし実質的に編成を終了した合成集団軍においては、その建設は急速度で進んでいるようである。これまで東北・華北・華中・華東で集団軍規模の軍事演習が実施された。1986年に北京部隊が実施した演習では、近代戦争で出現すると予想される200種余りの戦況が設定され、集団軍指揮員の統一した指揮におり、空から地上にいたる十数個の兵種が緊密に呼応しあい、近代戦争下の複雑で変化する協同作戦が遂行された。保護色に迷彩された戦車・装甲車・自走砲・ロケット地雷処理車・戦車架橋車・装甲救護車・各種作業員数百両、偽装網をかけた輸送車・指揮車・通信車1000台が参加した。戦場のさまざまな複雑な状況に対して、決心してから命令を下すまでにわずか数分しかかからず、指揮能力が大いに高められたと報いられているから、作戦指揮はコンピューターにより自動化されていることがわかる。
 鄧小平政権は中国軍全体を近代化することは不可能であり、またその必要もないと考えているから、核戦力を充実させて最小限核抑止力の信頼性を高める一方、これらの限られた数の合成集団軍の戦闘力を高め、起こりうる戦略的限定奇襲攻撃に即応できる軍事力の構築に全力を注ぐことになるであろう。

 3 兵器の改善と人材の育成
 (1)兵器・装備の改善
 合成集団軍の編成完了後における中国軍の差し迫った課題は、兵器・装備の改善とそれを運用する指揮員の養成である。合成集団軍の編成完了直後の1986年1月15日に挙行された国防大学の創立大会で、楊尚昆は中国軍の当面する二大任務として、①兵器・装備を逐次改善してできるだけ速く先進国家の軍隊の兵器・装備水準との格差を縮めること、②幹部の教育と訓練を強化して軍隊近代化建設の必要に適応できる人材を育成すること、の二つをあげている。鄧小平政権の軍事改革は質をもって量に代えることを目的にしているから、この二つの課題が達成されなければ、中国軍は兵力を削減して戦闘力を低下させただけに終わってしまう。それは鄧小平政権の政治的生命に係わる問題である。
 軍事工業の民用品生産への転換
 兵力の削減による中国軍の改革と並行して、国防工業・軍事科学技術関連部門の改革による先端兵器・装備の開発が進行している。それは鄧小平政権が最も力を入れている経済改革の一環として進められている。鄧小平政権の軍事改革の経済的側面といえば、国防費の削減とその原因であり結果でもある兵力の削減が論じられがちであるが、第4表(98~99頁)が示すように国防費はほとんど減っていない。それよりも注目すべきは、基本建設投資額に含まれている兵器・装備生産関連支出の削減である。
 兵器・装備生産関連支出が削減されていることは、軍事生産を民用品生産に転換させる政策、あるいは国防関連企業の整頓(全面的または部分的な操業停止・廃止)が実施されているところからうかがわれる。鄧小平政権ははやくも中越戦争の79年夏に軍事生産の民用品生産への転換を断行している。しかしその後も何回にもわたって同様の指示をだしているところから、この政策が軍の反対・抵抗にあってなかなか進捗していないことがうかがわれた。しかし軍用品の注文が大幅に減少された結果生産任務が縮小され、「米なしの炊事」という状態がつくりだされるにおよんで、軍事工業の民用品生産への転換も進展したようである。
 軍事工業の民用品生産への転換あるいは国防関連企業の整頓は、生産優先・民生向上という鄧小平政権の経済政策の方針と合致するものであるが、他方で一部のものを除いて近代戦争にほとんど役に立たない軍事関連企業を整理することにある。すでに論じたように中国の国防工業は米ソに比べて20年近く遅れているばかりか、ソ連から供与された兵器・装備および技術知識の蓄積を完全に消化してしまった現在、既存の軍事関連企業に投資しても意味がないのである。国防工業生産を掌握している国防部長の張愛萍は、就任直後に執筆した論文で、将来戦を「科学技術の対抗」ととらえ、国防建設の主要な任務を「先端的兵器・装備の研究・製作および生産」であるとしている。
 第4表は、国防科学技術の研究・開発に関連する経費が含まれている科学研究費が、鄧小平政権になってから年々大幅に増大していることを示している。その増加分がどの程度国防科学技術研究開発費に割り当てられているかについては不明であるが、「科学技術はなによりもまず経済発展を促進しなければならないが、それは決して基礎理論と高度で精密な先端的な科学技術を必要としないことではない。国防の近代化に関連ある高度で精密な先端的な科学技術の研究と開発は引き続き進めなければならない(92年11月20日付『人民日報』社説「科学技術を発展させる方針をさらに明確にしよう」)という鄧小平政権の方針から考えて、科学技術の研究・開発において国防科学技術が重要な位置を与えられているといってよいであろう。

 国防科学技術工業委員会の創設
 鄧小平の軍事改革が始まる直前の1982年5月と8月に国務院の重要な機構改革があった。まず5月4日、それまで第二から第七までの機械工業部の名称の下で国防関連工業の仕事を担当していた単位が、核工業部・航空工業部・電子工業部・兵器工業部・宇宙航空工業部と改称され、あるいは併合された。それはたんなる名称の変更ではなく、文化大革命以来、軍の強い影響力の下にあって独立して存在していた兵器生産関連部門を、国務院の指導に戻すことに目的があった。
 ついで8月23日、国務院国防工業弁公室・中国人民解放軍軍事科学学校委員会・中共中央軍事委員会科学技術装備委員会弁公室を統合して、国防科学技術工業委員会が設置された。これは兵器生産関係の単位と同様に、軍の強い影響下にあった軍事技術の開発に関連する組織を国務院の指導下に統合し、国防工業関連各部を含めて、国民経済の長期発展計画のなかに組み入れ、有限の資金・資源を効果的に運用し、先端的な兵器を開発して鄧小平政権の目指す高度な水準の軍事力を構築する目的から実施された。さらに86年11月27日、機械工業部と兵器工業部を併合して、国家機械工業委員会が設置された。
 最小の軍事支出でいかにして最大の国防効果をあげるか、少ない財源・資源を使ってどのようにしてできるだけ多くの先端的な兵器・装備を生産するか、この目的を達成するために国防建設と国民経済建設の関係を円滑に解決する最も合理的な機構をどのようにして作り上げるかーこれがそれまで軍の軍事科学技術委員会主任であり、82年11月6日、鄧小平によって国防部長に抜擢された張愛萍に課せられた課題である。 
 鄧小平政権の軍事近代化計画が成功するかどうかは、一つには国務院総理趙紫陽と国防部長張愛萍による国防建設が円滑に進むかにかかっている。


*Deutschドイツ語→Zhào Zǐyáng (chinesisch趙紫陽/赵紫阳; * 17. Oktober 1919 in Hua, Anyang; † 17. Januar 2005 in Peking)Чжао Цзыянwar ein Politiker der Volksrepublik China. Er war Premierminister der Volksrepublik China von 1980 bis 1987 sowie Generalsekretär der Kommunistischen Partei Chinas von 1987 bis 1989.

 兵器輸出
 中国軍の兵器・装備の改善には、この数年間顕著なものがあるが、先進国家の軍隊の兵器・装備水準との間には大きな格差があり、その格差を縮めるには外国からまとまった軍事技術・知識を導入する必要がある。中国は第三世界諸国に自国製の兵器を輸出して外貨を獲得し、その外貨で米国を中心とする西側諸国から先進兵器を生産する技術を導入しようとしている。米国からの兵器輸出については「二ー2 米中軍事協力」で論じられるから、ここでは兵器輸出について概略する。
 米国国防総省情報局の報告によると、中国は毛沢東時代に52ヶ国の第三世界諸国に合計39億ドルの軍事援助を供与してきたが、それは毛沢東の反帝国主義・民族解放闘争を支援する目的から主として無償援助であった。ところが鄧小平政権になってからの中国は、その方針を転換し、第三世界諸国に兵器を売却して外貨を獲得し、その外貨で西側の先進諸国から進んだ軍事技術を導入して、自国の優れた兵器の技術改造を意図している。
 この政策の理論的裏付けを提供したのが、中国におけるロケット開発の中心人物であり、国防科学技術工業委員会副主任の銭学森である。彼は「軍需工業生産は計画指導下の商品経済であり、軍需物資も商品である。外貨を獲得し、それによって新しい技術を導入し、自分自身を高めるため、軍需物資を輸出してもかまわない」とのべている。

*Deutschドイツ語→Qian Xuesen, (chinesisch 錢學森 / 钱学森, Pinyin Qián Xuésēn, W.-G. Ch'ien Hsüeh-sên, veraltet nach Stange Tsien Hsue-sen, * 11. Dezember 1911 in Shanghai, China; † 31. Oktober 2009 in Peking) war ein chinesischer Wissenschaftler. Er gilt als „Vater des chinesischen Raumfahrtprogramms“, hat aber auch maßgeblich an der Entwicklung der amerikanischen Raumfahrttechnik mitgewirkt.
 この銭学森の考え方に基づいて、兵器を輸出するための六個の公司ー中国北方工業公司・中国船舶工業総公司・中国精密機械輸出公司・中国電子輸出入公司・中国航空技術輸出入公司・中国原子力工業公司が設立された。どれも国務院にある軍事関係工業部の対外貿易機構である。中国は83~84年から海外で開かれる兵器見本市に参加し、あるいは自国で同様の見本市を開催して、中国製兵器の売り込みに積極的である。86年11月北京で開催された国際防務技術展覧会は、300項目にのぼる自国製の兵器・装備を展示した大規模なものであった。
 中国製の兵器はすでにのべたように、1950年代および60年代のソ連の兵器のコピーまたはそれの改良であるが、西側の軍事観察者たちのみるところでは、それらの兵器の品質はモデルとなったソ連の兵器より優れている。なによりも操作が簡単であり、堅牢で、その上価格が安いことが、中国と同じように技術水準が低く、かつ財政能力を欠く第三世界諸国に受け入れられている理由のようである。
 中国の兵器輸出は83~86年に52億ドルで、ソ連・米国・フランスについで第四位である。かつて中国は「ソ連覇権主義は第三世界諸国に兵器を輸出し、これらの国を支配し、米帝国主義と覇権を争奪する手段の一つにしようとしている」と非難したが、いまや第三世界への主要な兵器輸出国になっている。
 (2)人材の育成
 正規の学校教育の復活
 中国軍では建国後とくに朝鮮戦争を契機に、ソ連軍の教育方式を踏襲して、軍事学院・政治学院・後勤学院を頂点とする各種各級の学院・学校体系が作り上げられたことについてはすでにのべたが、「戦争のなかで幹部を育成する」「長期の学校教育は無駄である」とする毛沢東の教育観によって、外国の経験を機械的に採用する「奴隷の思想」であり、「教条主義」であると批判され、文化大革命を機に全面的に瓦解した。その結果、幹部の高齢化とあいまって、中国軍は近代戦争についての知識と技能を欠く幹部の大集団と化した。
 中共11期三中全会以後中国軍の近代化・正規化が進展するとともに、幹部の若年化・知識化・専門化が緊急の課題となった。軍事教育とりわけ正規の学校教育の重要性が強く認識され、かつての学校教育体系が復活した。中国が公表したところでは、中国軍には各種学院(大学)・学校(専門学校)は百余校ある。その概要は次のようなものである。
 学院・学校は指揮系と専門技術系の二つに大別される。指揮系の学院・学校は初級・中級・高級の三階級制で、小隊・連隊・軍団の三級の指揮幹部を重点的に養成し、専門技術系の学院・学校は中等と高等の二種に分かれている。
 初級指揮学校の学生は部隊の高級中学(高校)卒業程度の学力を持つ分隊長・兵士と高級中学の新卒者のなかから募集し、各種小隊長・艦艇部門長・飛行隊長などを養成する。養成と訓練は中等専門学校・大学本科の二種の基準に沿って行う。
 中級学院・学校の学生は、初級指揮学校を卒業した大隊長・副連隊長、少数の中隊級指揮幹部のなかから募集し、高級軍事・政治・後勤指揮幹部と高級参謀を養成し、主に戦略を研究させて、戦役の組織と指揮を学ばせる。
 高級学院・学校の学生は、中級指揮学院・学校を卒業した師団級と少数の連隊級指揮幹部のなかから募集し、高級軍事・政治・後勤指揮幹部と高級参謀を養成し、主に戦略を研究させ、戦役の組織と指揮を学ばせる。
 中等専門技術学院・学校は、軍の中級専門技術幹部と医務幹部を養成するもので、二年制。高等専門技術学院・学校は、軍の高級専門技術幹部と医務幹部を養成するもので、大学専科が三年、大学本科が四~六年。
 こうして84年の建軍記念日には、軍事学院・学校の出身者が軍級指導幹部の96・5パーセント、師団級指導幹部の87パーセント、大隊級の指揮幹部の71パーセントを占めている事実が明らかにされた。
 また幹部の若年化も進み、作戦部隊の幹部若年化の年齢基準について、軍級50歳前後、師団級40歳前後、連隊級30歳前後という鄧小平の提案に基づいて、中央軍事委員会は長年実施してきた「老年のなかから年齢の小さい者を選ぶ」やり方を改め、「青年のなかから優秀な者を選抜する」新しい方針が採用された。その結果、幹部の平均年齢は、大軍区級で82年の65・3歳から86年には57・1歳、軍級で56・8歳から49・6歳、師団級で48・3歳から43・5歳、連隊級で39・1歳から37・2歳となった。

 国防大学の創設
 学校教育の改革のなかで最も注目すべき出来事は国防大学の創設である。国防大学は「近代戦争の要求および中国軍の精簡整備の必要に応じるために、軍事学院・政治学院・後勤学院の三つの学院を併合して」、1986年1月15日、北京に創設された。すなわちこの学校の諸軍種・兵種による協同作戦を遂行できる合成軍隊の建設という鄧小平の軍事路線を実現することにある。それゆえ教育にあたっては、陸軍・海軍・空軍、あるいは軍事系幹部・政治系幹部・後勤系幹部を混合した編成がとられている。校長は前副参謀長張震、政治委員は前瀋陽軍区司令員李徳生が任命された。 
 設置された課程と学生の対象は次の通り。
 国防研究系ー軍隊および地方の昇級・軍級以上、国家の関連する部・委員会の局長以上の幹部を対象に、国防建設に関する問題を研究する。
 基本系ー師団長・旅団長級の幹部を対象に軍長および大軍区以上の高級参謀を養成する。
 進修系ー師団以上の指導幹部および省軍区・学院学校の指導幹部を対象として、知識を向上させ、更新させる。
 研究生院ー大学本科卒業以上および軍隊の中級・高級指揮学院卒業で、軍隊に一年以上在籍した幹部を対象に、修士・博士レベルの指揮員・理論研究員・教員を養成する。
 教員養成所ー軍隊の指揮学院・学校および技術学院・学校卒業見込みの学生が対象で、全軍の中級指揮学院・学校の教員を養成する。
 86年夏、学生を募集し、9月1日より授業が開始された。

*Ranks of the People's Liberation Army Ground Force中国人民解放军陆军军衔The People's Liberation Army (PLA) has not always used ranks or insignia. In common with the practice of the Red Army at the time of its founding in 1927, neither were used until 1955 when a system of ranks was established. As a result of the Cultural Revolution, ranks were abolished in May 1965 (this led to a similar reform in Albania in the midst of the Albanian Cultural and Ideological Revolution).
 階級制度復活への動き
 近代戦争を運用できる幹部の養成という点で不可欠な一つの要素として、階級制度がある。中国軍は1955年に階級制度を導入したが、文化大革命直前の65年5月廃止した。しかし階級制度は軍の近代化・正規化にとって不可欠の要件であるから、中国軍の近代化・正規化への動きとともにその復活が問題となるのは必然であった。
 階級制度の復活は1979年頃から非公式に伝えられていたが、84年5月31日に改正された兵役法は階級制度の実施を明記した。そのさい総参謀長の楊得志は次のようにその意義をのべた。
 「軍人に階級を与えるのは軍隊における責任を明確にするためであり、それは軍人にとっても栄誉でもある。階級制度を実施すれば、諸軍種・兵種の協同作戦に有利で、国際交流にも都合がよい。また軍人の責任感を強め、戦闘と職務において積極的な役割を果たさせるのに有利である。さらに軍隊の規律性を強めて部隊の正規化を促進し、わが軍の戦闘力を高める上で有利である」。
 新兵役法は同年10月1日施行されたが、階級制度はいまだに実施されていない。当時楊得志は「階級制度の実施にはまだいくつかの準備作業が必要である」とのべて、階級制度の実施には時間が必要であることをほのめかしたが、それから三年後の87年4月4日、副参謀長の徐信は、「階級制度の廃止から二十余年たち、軍隊の人数が多いので、この作業を完遂するには大量の綿密な仕事と時間が必要である」ことを明らかにした。

*Xu Xin (Chinese: 徐信; pinyin: Xú Xìn; 16 March 1921 – 18 November 2005) was a general (shangjiang) of the People's Liberation Army (PLA). He was an alternate member of the 12th Central Committee of the Chinese Communist Party.
 階級制度の実施には軍人の階級付けをはじめ、準備しなければならない作業がたくさんあることは、徐信の指摘を待つまでもないことである。1979年の中越戦争とそれ以後毎年行われている国境での戦闘で戦績をあげた部隊や個人が、84年以来毎年戦闘英雄として表彰されている。この措置は幹部の昇進の一つの基準になっているばかりか、階級付与の重要な基準になると考えられる。
 その一例は、1987年第四号の『北京周報』に紹介された元雲南前線総指揮員の廖賜竜である。彼は農民出身で44歳、58年入隊、中越戦争で分隊長として戦功を立て、85年10月成都軍区副司令員となった。
 また百万の兵力削減を決定した中央軍事委員会拡大会議の時期に、副総参謀長に徐患滋、何其宗、総政治部副主任に周克玉、周文元、総後勤部副部長に宗順留、劉明𤧞、瀋陽軍区司令員劉精松、済南軍区司令員李九竜、成都軍区司令員傳全有、といったこれまで名前の知られなかった中堅の軍人が抜擢された。彼らのうち徐患滋は合成集団軍のテスト部隊となった瀋陽の第39軍の軍長、劉精松はテスト部隊ではないが、合成集団軍としての実質的編成を完了した第64軍の軍長であった。この二人は合成集団軍を編成する過程で果たした役割を評価されて抜擢された。

               二  軍事改革の国際環境
 1「平和な国際環境」と中ソ関係の改善
 国家関係正常化への歩み
 鄧小平の軍事改革は、戦争は当分の間生起しないという前提の下に進められている。それゆえ中ソ間の軍事的緊張の緩和は改革の大前提である。この数年来進行している中ソ関係の改善はこの脈絡で捉えられねばならない。
 中ソ関係改善への動きは1979年4月、中国政府が翌80年4月11日に期限が満了する中ソ同盟条約を延長しない旨をソ連政府に通告したさい、「両国の間で懸案になっている未解決の問題を改善するため中ソ双方が交渉する」ことを提案し、ソ連がこれを受入れ、同年秋モスクワで外務次官会談が開かれたことに端を発する。
 条約不延長の理由として中国政府は「国際情勢に大きな変化が生じ」、かつソ連が「踏み躙った」ため、条約は「とっくに有名無実になった」ことをあげたが、そこにソ連との関係改善に対する中国の立場が示されている。第一に、中ソ対立によって中ソ同盟条約を拠り所とする中ソの国家関係は不正常であるから、条約を解消してそれに代わる新しい国家関係をつくることである。「新しい国家関係」とはどのようなものか、それは現在の米中関係の基礎となっている上海コミュニケ(1972年)のような国家関係を律する外交文書に調印することであろう。第二に、中ソ同盟条約は日本と米国を敵国として締結されたが、中ソ対立をへて1970年代に入ると、米国・日本・西欧諸国との友好関係ができあがった。「国際情勢に大きな変化が生じた」とは、このことを指している。それゆえ中ソの「新しい国家関係」が西側諸国との友好という現在の枠組みと対立することはないとみられる。
 こうして始められた国家関係正常化のための中ソ会談は、外務次官という実務省レベルの会談であり、両国の首都で交互に開かれるところからみて、かなり長期にわたる会談になることが予想された。ところが最初の会談があって数ヵ月後に生起したソ連軍のアフガニスタン侵攻により中断し、1982年3月24日のソ連共産党書記長ブレジネフのタシケント提案Tashkent proposalによって再開され、以来年二回のペースで定期的に開かれている。それとともに中ソ関係も当初の人的交流から、経済・文化交流へと発展し、84年12月と85年7月、両国の副首相が相互訪問して、経済技術協力協定、科学技術協力協定、経済・貿易・科学技術協力委員会設置に関する協定が調印された。ついで1986~90年の長期貿易協定および中国が50年代にソ連から導入したソ連の工業施設の改造にソ連が協力するための協定も結ばれた。

*苏阿战争په افغانستان کې شوروی جګړهАфганская война (1979—1989)جنگ شوروی در افغانستانВійна в Афганістані‎‎Soviet–Afghan War,又称1979年阿富汗战争,是指1979年12月末蘇聯入侵阿富汗后持续9年的战争。此次入侵被認為是其對外政策的重大失敗,使蘇聯由盛轉衰以致解體的原因之一。

 これらの協定は1960年の中ソ対立以来初めて調印された長期協定であり、これにより両国の国家関係関係正常化のための一つの基礎が固められ、経済発展のための条件が整えられた。中ソ関係改善の次の課題は政治的対話の発展である。

 ゴルバチョフ提案と三大障害
 1986年7月28日、ソ連共産党書記長ゴルバチョフがウラジオストックで中ソ関係の改善を呼び掛けた。こ呼び掛けは、それまで中国が関係改善の前提として、「言葉ではなく実際の行動で示す」ことを執拗に繰り返してきた三大障害の除去について、ソ連が実際行動をとることを表明した点で注目された。三大障害とは、①モンゴルを含む中ソ国境からのソ連軍の引き揚げ、②アフガニスタンからのソ連軍の引き揚げ、③ベトナムのカンボジア侵略に対するソ連の支援停止をさし、1982年の中共第12回大会で当時中共中央書記処総書記であった胡耀邦によって、ブレジネフ提案に対する中国側の提案として提示されたが、ソ連側は「関係正常化は第三国と無関係に実現されなければならない」とこの提案を拒否してきた。上記呼び掛けで、ゴルバチョフはモンゴル・アフガニスタンからソ連軍の一部を撤退させることを約束した。中国側はゴルバチョフの提案に留意したものの、ベトナムのカンボジア侵略に対するソ連の支援停止に触れていないことに不満を表明し、カンボジア問題こそ中国が最も関心を持っている問題であるとのべた。

 中ソの政治関係の改善は依然として三大障害が障害となって進展していないが、三大障害がすべて除去されなければ中ソ関係は正常化はできないというのではないと思われる。日中国交樹立の過程で中国はそれまで日米安全保障条約の廃棄・日台断交などを執拗に主張してきたが、実際には日台断交だけで日中国交は樹立された。米中国交樹立のさいも同様であった。中ソ関係正常化の実現にあたっても、中国は三大障害除去の全面的な履行をソ連に求めることはないであろう。

*Русскийロシア語→Нормализация дипломатических отношений между Японией и Китаем произошлаThe normalization of diplomatic relations between Japan and China중일국교정상화(中日交正常化), когда Япония и Китайская Народная Республика установили дипломатические отношения в сентябре 1972 года, опубликовав совместное заявление между двумя странами.
 中ソは小規模とはいえ戦火を交えている。関係正常化には相互不信を払拭する努力が必要である。すでにかなりのレベルにまで達している人的往来、経済文化交流、ニューヨークでの両国外相会談の定期化、ゴルバチョフ提案が契機となって78年以来中断されていた中ソ国境会談の再開などは、それに大きく寄与している。今後とも正常化実現へ向けての地道な努力が積み重ねられるであろう。


①Españolスペイン語→El Comunicado Conjunto sobre el Establecimiento de Relaciones Diplomáticas《中华人民共和国和美利坚合众国关于建立外交关系的联合公报》Joint Communiqué on the Establishment of Diplomatic Relations, más conocido como comunicado conjunto sino-estadounidense del 1 de enero de 1979, estableció relaciones oficiales entre los Estados Unidos y la República Popular China (comúnmente llamada "China")②United States–China security cooperation refers to various projects, combined operations, communications, official dialogues, joint exchanges, and joint exercises, between agencies, groups, and individuals within the government of United States and the People's Republic of China, in a number of areas pertaining to global security, defense policy, and various forms of military and security cooperation.
 2 米中軍事協力
 米中軍事協力の進展
 米国は1979年1月1日に中国と国交を樹立した時点で、中国との軍事協力を考えていなかった。それが現在みられるような軍事協力関係へと発展した重要な契機は、79年末のソ連軍のアフガニスタン侵攻であった。80年1月5日中国を訪問した米国の国防長官ブラウンHarold Brownは、中国との対ソ戦略を提唱するとともに、ソ連には認めてない民間用技術(軍事転用可能)を中国に売る意向があるとのカーター政権の意思を中国に伝えた。また長官は「相当高いレベルの軍事顧問が訪中して訓練することがありうる」とのべて、訓練面での交流で合意をみたことを示唆した。
 同年5月、中共中央軍事委員会秘書長の耿飈がブラウン長官訪中の答礼として訪米した。ついで翌81年誕生したレーガン政権は、同年6月訪中した国務長官へイグAlexander Haigを通して、防衛性の殺傷性兵器をケース・バイ・ケースで売却する意思のあることを中国に伝えた。しかし同政権は中国に兵器を売却すると同時に台湾にも兵器を売却することを意図したため、中国政府は大使の引き揚げも辞さないとの強い態度を示し、米中関係は険悪化した。

*Deutschドイツ語→Geng Biao (chinesisch 耿飚, Pinyin Gěng Biāo; * 26. August 1909 in Liling, Chinesisches Kaiserreich; † 23. Juni 2000 in Peking, Volksrepublik China) war ein chinesischer Diplomat und Politiker der Kommunistischen Partei Chinas.
 1982年8月18日、米国の台湾向け兵器売却に関する米中共同声明が発せられ、米国側は①台湾への兵器売却を逐次減らし一定期間を経て完全に停止すること、②台湾へ売却する兵器の性能と数量は米中国交回復以後の数年間の供給水準を越えないことを約束して、米中間の最悪の事態は回避された。
 その間の同年3月、ブレジネフのタシケント提案があり、11月のブレジネフの葬儀を機に中ソ関係改善への動きは急速に進展した。中ソ関係改善への動きが急速に進むなかで、83年2月、米国の国務長官シュルツGeorge Shultz、5月商務長官ボリドリッジMalcolm Baldrige、9月国防長官ワインバーガーCaspar Weinbergerの中国訪問があり、米国の対中高度技術移転問題が急速に進展した。84年1月と5月に中国の首相趙紫陽と米国大統領レーガンの相互訪問があり、6月中国の国防部長張愛萍が米国を訪問した。中国の首相と米国大統領の相互訪問を挟んで行われた二回にわたる両国の国防相の会談で、中国の国防に関する広範囲な協議がなされ、米国はそれに協力することで意見の一致をみた。
 シュルツ訪中から張愛萍訪米にいたる過程は、台湾問題をめぐって米中間の政治的軋轢がつぎつぎに生起するなかで進行した。また中国はソ連カードを使う意思のないことをしばしば表明しているにもかかわらず、82年以降における中ソ関係改善への動きが米国に対してソ連カードとして作用した。

 米中の人的往来
 米中軍事協力は、両国高官の相互訪問による戦略的対話に始まり、軍事関係要人の往来、情報交換、米国から中国への軍事技術の移転および中国軍の軍事教育・訓練への協力へと進展している。
 






 

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