日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

People's Liberation Army of China☆中国人民解放军☆Народно-освободительная армия Китая/Shigeo Hiramatsu平松 茂雄Сигео Хирамацу(1987)CANADA🍁2023/10/23⑥


西側からの技術導入と兵器輸出
 中国は通常兵器に関しては陸戦兵器・艦艇・航空機ともだいたい軍の需要に応じることができるだけの生産能力を持っているが、それらの兵器はせいぜい60年代の水準の兵器である。中国の技術水準からみて、外国からまとまった兵器ないし技術を導入しないかぎり、中国軍の兵器水準を高めることは困難である。そこで鄧小平政権になってからの中国は、西側の軍事技術を導入して兵器の近代化をはかろうとしている。しかし中国軍の兵器はソ連の兵器をモデルとしているから、西側の兵器への転換には大きな財政的負担をともなう。
 他方、中国は戦車・火砲・対空ミサイル・多連装ロケット・戦闘機・ミサイル艇などの国産兵器を、イラン・イラク・エジプト・パキスタンその他の第三世界諸国に売却し、外貨獲得の手段にしていると報じられている。米国からの軍事技術導入および兵器輸出については「III鄧小平の軍事改革」で論じる。

              四  核兵器開発と核戦略
 1 核開発の決定
 「安上り」な核兵器開発
 中国が核兵器開発を決定したのは1956年である。この時から中国の核兵器開発の中心的指導者の一人であり、83年に国防部長に抜擢された張愛萍は、就任後執筆した論文で次の事実を初めて明らかにした。

Zhang Aiping (Chinese: 张爱萍; Wade–Giles: Chang Ai-p'ing; January 9, 1910 – July 5, 2003) was a Chinese military leader.
 「1950年代にわが国は帝国主義の包囲・脅威を受けたため、国防近代建設を突出させ、配分した資金も多かった。しかし資金は有限であり、もし平均して使用してすべてをやろうとすれば何もできず、二義的なものはできても、主要なものはできないであろう。そこでわれわれはミサイルと原子力を国防近代化発展の重点と確定し、ミサイルでは戦略ミサイルを重点とし、原子力の発展では核燃料生産基地の建設と原爆の研究製作を重点とした」
 建国後の数年間に、中国は朝鮮戦争、インドシナ戦争、1955年1月の大陳列島作戦に際し米国の核兵器の脅威にさらされ、それに対処するために核兵器開発を決心したが、その最大の理由は在来兵器の開発よりも核兵器の開発の方が「安上がり」であるところにあった。ミサイル核兵器の開発にはもとより多額の資金・資源を必要とするが、陸海軍の近代兵器の全面的な開発には、それとは比較にならないほど膨大な資金・資源を必要とするばかりか、巨大な米国の経済力・軍事力に対抗できないこと、それよりも戦争抑止力としてミサイル核兵器の方が経済的に「安上がり」であることが、国防建設の過程で認識された。
 中国軍の通常戦力を全面的に近代化するのにどのくらいの費用がかかるかを明らかにするのは簡単ではないし、あるいはそれを外国の事例から単純に類推しても意味はないであろうが、それ以外に手掛かりを求めることはできないので、それを承知で考えてみよう。
 当時、わが国の自衛隊における装備品の一年度当たりの平均調達費は約3・6億ドルである。当時の自衛隊の総員数は約20万人、中国軍は約250万人であったから、中国軍の総兵員数は自衛隊総数の12・5倍である。そこで単純に3・6億ドルを12・5倍すると、中国軍が当時の自衛隊の水準の兵器を保有するには、平均一年当たり45億ドルの資金が必要となる。当時の中国の国民所得は約450億ドル、国家財政支出は約124億ドルであるから、上述した45億ドルは、国民所得の10パーセント、国家財政支出の36・3パーセントである。中国軍が自衛隊と同程度の兵器を装備するには、大きな経済的財政的負担を必要とすることがわかるであろう。
 それに対して核兵器の開発にはどの程度の費用が必要であろうか。1964年の中国の第一回核爆発実験当時、ミシガン大学の鄭竹園教授は約15億ドルと推定し、台湾の見積りは総計96・8億元(39・5億ドル)で、そのうち蘭州基地施設(濃縮ウラン工場)に対する投資額は19億1400余万元(7・9億ドル)であった。また1955年頃の情報によると、米国がオークリッジ(テネシー州)その他に建設したウラン濃縮工場はそれぞれ10億ドルの建設費を要したといわれ、またフランスが水爆用の濃縮ウランをつくる目的で、南フランスのピエール・ラットに1967~76年の操業を目指して1958年から建設されたウラン分離工場も、約10億ドルの建設費が予定されていた。
 以上のような情報から考えて、10億ドル程度の費用をもってすれば、かなりの規模の濃縮ウラン生産設備を持つことはできそうである。中国が核兵器開発に着手した当時(1958年)の中国の国民所得は約450億ドル、人口は約6億5000万人であったから、一人当たり国民所得は69万ドルになる。当時米国の一人当たり国民所得は2132ドル、フランス742ドル、日本249ドルであったから、核兵器開発が中国にとって大きな経済的負担であったことは否定できない。しかし一人一人が貧しくても、それが6億5000万人の集団となると驚くべき威力となる。たとえば一人が一ドル節約しても、中国全体では6億5000万ドルになるから、数年の間に10億ドル程度の核兵器開発費を捻出することはそれほど困難ではないであろう。そのことは、次にあげるいくつかの事例からも過言ではないであろう。
 初めに中国とほぼ同じ時期に濃縮ウラン工場を建設したフランスと比較すれば、フランスの国民所得は約320億ドルであるから、開発を決定した時期の中国の国民所得の約三分の一であり、財政支出はフランスの91億ドルに対して中国は124億ドルである。
 次に中国の対外援助から見てみよう。1953年に中国は北朝鮮にたいして朝鮮戦争中の援助を無償としたほか、1954~57年の四年間に8億元(約3億4000万ドル)の物資を無償で贈与する約束をしていた。また1956~59年の国家予算は総計21億9100万元(約9億7000万ドル)が対外援助支出として計上され、そのうち14億8300万元が執行された。
 このようにみてくるならば、数年の間に10億ドル程度の核兵器開発費を捻出することは、それほど困難ではないであろう。中国が直面している軍事的脅威、中国が世界にその影響力を拡大しようと意図していること、中国国内における中共の独裁的地位などを考慮にいれるならば、中国経済が核兵器開発の負担に耐えられないことはないであろう。しかも戦争抑止力という点では、核兵器開発の方がはるかに効果が大きいのである。
 こうして1950年代後半以後、通常戦力の全面的な近代化は切り捨てられ、戦略核戦力の開発に重点がおかれるようになった。

水素爆弾(すいそばくだん、(英: hydrogen bomb)または熱核兵器(ねつかくへいき、(英: thermonuclear weapon)あるいは水爆(すいばく)Термоя́дерное ору́жие (водоро́дная бо́мба)とは、重水素および三重水素(トリチウム)の熱核反応を利用した核兵器をいう。
 2 対米核攻撃力の保持
 水爆の製造
 中国の核爆発実験の過程は、中国が当初から水爆と大陸間弾道弾(ICBM)の組み合わせによる対米核攻撃力の保有という明確な戦略的目的をもって核兵器の開発を進めてきたことを示している。
 核兵器には、ウラン235型とプルトニウム239型とがある。1964年10月16日に最初の爆発実験が行われる以前、中国の核兵器開発はプルトニウム型であると予測されていた。それは次にあげるいくつかの理由によるものであった。第一に、過去に行われた米国・ソ連・英国・フランスの第一回核爆発実験がすべてプルトニウム型であった。第二に、核兵器製造に関してウラン型よりもプルトニウム型の方が技術上の秘密が少ない。第三に、ソ連の援助で北京に建設された実験用原子炉が1958年9月に稼動して以来、中国には自力開発による原子炉が数基建設され、すでに原爆数発に相当するプルトニウムが蓄積されているとみられていた。第四に、ウラン235の生産には膨大な費用と電力と高度の技術が必要とされ、中国の経済的技術的能力では困難であろう。
 ところが中国の最初の核爆発はプルトニウム型ではなかった。そのことの軍事的意義は大きかった。第一に、水爆の引き金としてウラン235型の原爆はプルトニウム型よりも適しているから、ウラン235を使用した核実験の次には水爆の開発が日程に上がるはずであり、中国の核兵器開発は最初から水爆開発の段階に入っているともみられたからである。そして現実に一年半後の第三実験(1966年5月9日)では、熱核材料を含む爆発実験が行われたのである。
 中国の核爆発実験に最初からウラン235が使われたことのもう一つの軍事的意義は、中国が当初から原子力潜水艦の建造を目指していたことである。原子力潜水艦には小型で軽量の濃縮ウラン原子炉が必要とされるから、濃縮ウラン生産の成功は、原子力潜水艦用原子炉への道を拓いたといえた。

 中・長距離ミサイルの開発
 兵器を有効に使用するにはその性能に適した使い方をしなければならず、兵器はその使用目的に応じた性能を備えることが要求される。このことは核弾頭と運搬手段についても当てはまる。すなわち核弾頭を装着する運搬手段は、その使用目的に応じた航行距離・命中精度・弾頭威力を持つことが要求される。中国の核兵器開発は当然その点を考慮して進められたと考えられる。
 中国の核爆発の実験状況は、中国が三メガトン級の核弾頭を運搬する手段の開発を意図していることを示している。中国の核兵器開発の目的は対米抑止力の保持にあったから、この目的を達成するためには、米国本土を直接脅かす能力を持つ運搬手段を必要とする。有人爆撃機ならば米国のB-52のような大陸間航行能力を有する長距離爆撃機、ミサイルならば射程一万キロメートル以上のICBMが、潜水艦搭載のSLBMがこれに該当する。三メガトン級の核弾頭はこれらの運搬手段に相応する威力範囲のものである。中国も当初これら三種類の運搬手段の開発に着手したようであるが、開発の過程を振り返ってみるならば、地上発射の中・長距離弾道ミサイルの開発に最重点をおいたことがわかる。
 中国は核兵器の運搬手段としてICBMの開発に最重点をおいたが、経済的技術的理由から一足跳びにこれの開発を実現することは不可能である。まず準中距離弾道弾(MRRM,1000キロメートル)から中距離弾道弾(IRBM、2000~3000キロメートル)のミサイルを開発した上で、ICBMへと発展する段階をとるのが一般的であり、中国もその過程を経ている。軍事戦略的にいっても、対米直接攻撃力を持つことが究極の目的であるとしても、当面の目的は、周辺の米国の同盟国およびそこに存在する米国の軍事基地を核攻撃できる能力を持つことによって、限定された対米抑止力を保有することにある。
 1966年10月27日、中国はミサイル(MRBM)による核弾頭の爆発実験(通算第四回)を行った。中国ははやくも第二回の実験で航空機からの原爆投下による爆発実験を行い(1965年5月14日)、核弾頭の小型軽量化に着手していることを内外に示した。当時、米国は「中国は二年以内に小規模ながら効果的な核兵器生産に必要な核分裂物質を保有し、1967年にはIRBMを完成するであろう。また1975年にはICBMが実用化しよう」と予測したが、上述したミサイルによる核爆発実験の成功は、中国のミサイル核兵器の開発が米国の予測を上回るテンポで着実に進んでいることを示した。さらに1970年4月24日中国は人工衛星「東方」を打ち上げ、それによってミサイル開発がすでにIRBMあるいはMRBMの段階で一応の水準に達していることを示した。
 第一回核爆発実験以来、中国政府は「中国が核兵器を開発しているのは防衛のためであり、超大国の核威嚇・核恐喝・核ペテン政策に打撃を与え、核独占を打破し、核兵器を最終的に消滅させるためである」と繰り返し声明しているが、その最終目的はともかくその他の目的は、政治的にはこの段階である程度達成されたとみてよいであろう。それは政治的心理的兵器としての核兵器の特質を考えた選択であったといえよう。

 3 対ソ核戦略への転換
 核ミサイル開発計画の変更
 中国の核兵器開発は、当初、ソ連の技術援助をえて進められる計画であったが、中ソ対立によるソ連の援助打切りがあったため自力で行われた。それは困難に満ちていたが、1960年代末までに顕著な発展を示し、70年代中葉にはICBMを開発・保有するとみられるまでにいたった。しかし60年代初頭以来、中ソ対立の進展、とりわけ69年の駐ソ国境での軍事衝突、それ以後におけるソ連軍の増強は、中国の核ミサイル開発計画を大きく変更させた。70年代における核爆発実験・ミサイル発射実験は、それを裏付けている。
 第一に、核爆発実験内容の変化である。1970年までの実験では三メガトン級水爆の爆発実験が主体であったが、1970年代に入ると、71年11月18日、72年1月7日、3月18日に20キロトン前後の原爆の爆発実験が連続して実施された。これは戦術核兵器の開発と水爆起爆用原爆の改良(爆発効率の改善・軽量小型化)のための実験と推定された。その成果を取り入れたとみられる水爆の爆発実験も73年6月27日と76年1月23日にそれぞれ一回行われた。しかし第二に、開発初期にみられたように英・仏はもとより米・ソさえしのぐ速いペースで矢つぎばやに新しい爆発実験が行われることはなくなった。第三に、70年代前半の数年間、人工衛星の打ち上げは行われず、また大型ミサイルの発射実験もなかった。西側の予測に反してICBMの発射実験はなかった。なおその間に地下爆発実験が何回か行われているが、それらが何を目的としたかについてはわからない。
 こうした変化は三メガトン級水爆の開発が基本的に終了し、その改良・実用化の段階に進んでいること、それゆえ戦術核兵器の開発は当初からこのスケジュールであったとみることもできる。ICBMの発射実験が行われなかったことについては、技術上の困難のあったことも指摘できる。さらに文化大革命が核兵器開発を遅らせたことも考慮に入れなければならない。しかし70年代に入ってからの変化は、中国の核兵器の開発・装備の目標が対ソ核戦力の保有に指向された結果であった。中ソ国境での軍事衝突の国防方針・軍事戦略の全面的な変更を迫った。中国の主敵は米国からソ連に変わった。しかも米国の脅威が間接的であったのに対し、ソ連の脅威は直接的であった。

 ソ連の軍事的脅威
 1969年9月2日の対日戦勝記念日の前後に、ソ連ではこれを記念した多数の論文が書かれた。それらの論文の目的はたんに対日戦勝の記念にあるのではなく、当時最強と言われた関東軍を圧倒的な戦力で短時日のうちに撃破したソ連軍の威容を、中国に向かって誇示することにあった。1970年代の中国国境におけるソ連軍は、1945年夏のソ連軍とは比較にならないほど強大であった。中ソ国境のソ連軍は1960年代中葉には15個師団であったが、1969年には21個師団、1970年30個師団、1975年には45個師団と急速に増大し、総兵力は100万に達しているとみられた。ソ連軍の軍事力はたんに量の上での優位だけでなく、その質において中国軍のそれを圧倒していた。すなわちソ連軍の狙撃師団(歩兵師団)は兵力一万余で、中国軍の歩兵師団と比べると少ないが、車両は四倍の2500両、戦車は五倍の200両以上を備え、火力は10倍という強力さである。戦車師団は戦車300両以上で、中国軍の装甲師団の持つ戦車の三倍である。
 このように歩兵師団の火力・機動力・装甲突破力を総合した戦力を比較するならば、ソ連軍が中国軍のほとんど10倍に近い戦力であるといえる。こうした強大な軍事力がいつ国境を越えて中国に侵攻して来ないとも限らなかった。そして当時西側では、ソ連は中国に対して予防戦争を仕掛けようとしているといった類の中ソ戦争論がまことしやかに主張された。そのようなソ連軍の侵攻に備えて、対ソ戦力の構築に重点が移されるとともに、当初の核兵器開発計画とタイム・スケジュールに大幅な変更が加えられ、開発・装備すべき兵器の内容・優先順位などの再検討が行われたと推定される。

 第一に、ソ連を目標とするMRBM・IRBMの実戦配備である。第二に、当面あるいは近い将来、顕在化するかもしれない大規模なソ連軍の侵攻を阻止することに使用できる低威力(キロトン級)で移動可能な即応能力を持つ(発射準備時間の短い)原爆弾頭付けの戦術ミサイル・核爆弾・核地雷などの開発・装備である(ただしこれらの戦術ミサイル兵器は現在も未だ生産・配備されていない)。第三に戦術核爆弾の運搬手段としてジェット戦闘爆撃機F-9が生産された。第四に、偵察衛星開発の優先度が引き上げられた。中国は1970年4月最初の人工衛星に成功して以来、1970年代末までに八個の衛星を打ち上げた。その目的は宇宙の平和利用開発も含まれているであろうが、当面の目標は軍事利用、ことに偵察衛星の開発に向けられていることが、これまでの打ち上げの状況から推察される。八個の衛星のうち、回収が発表された三個(四号、七号、八号)は写真偵察衛星とみられており、同様の軌道諸元をもつ三号と五号も軍事目的の衛星とみられている。またそれらの衛星の打ち上げに使われたロケットはIRBMの改修型とみられた。
 以上論じた転換は林彪事件(1971年9月)が起きた時期と合致する。両者の関係を示す確実な証拠は存在しないが、この事件が中国の軍事戦略あるいは兵器・装備の全面的な再検討を促したことはありえないことではない。あるいはそれとは反対に軍事戦略あるいは兵器・装備の全面的な再検討が、林彪事件を惹起したことも考えられる。
 1970年代における中国の核戦力は『ミリタリー・バランス』によれば、核弾頭数百発、IRBM、MRBM各30~40基である。この程度の核戦力ではソ連に対する十分な抑止効果を期待できない。70年代を通して中国はソ連の強大な軍事的脅威に人民戦争戦略で対処しつつ、核戦力の迅速な構築に全力を投入した。

Françaisフランス語→Le programme spatial de la république populaire de Chine a accompagné l'essor économique très rapide du pays durant les années 1990. La Chine dispose de plusieurs familles de lanceurs (fusées Longue Marche) et a développé des programmes couvrant l'ensemble des domaines d'application spatiale : satellites de télécommunications, d'observation de la Terre, météorologiques (Feng-Yun), de navigation (Beidou). Космическая программа Китая (КНР) 中华人民共和国航天Chinese space program
 4 第二撃能力の保有
 現状と問題点
 1980年代に入ってからの中国では、鄧小平の政治指導のもとで、モスクワおよびヨーロッパ・米国の一部に到達する射程1万2800キロメートルのICBM(1980年5月)、一基のロケットによる三個の衛星の打ち上げ(1981年10月)、潜水艦からのミサイルの水中発射(1982年10月)、通信衛星の打ち上げ(1984年5月)、原子力潜水艦(SSBN)の就航(1984年10月)と次々に重要な開発が行われた。
 1984年8月1日の建軍節に中国が核兵器による戦略的反撃力すなわち第二撃能力を持っていることが明らかにされた。ついで同年10月1日の国慶節に北京の天安門広場で25年ぶりに挙行された軍事パレードで、ICBM・IRBM・SLBM(潜水艦発射弾道弾)をはじめとする各種ミサイルが初めて公開された。中国は最初の核爆発実験から20年を経て、第二撃能力を保有するにいたった。最小限核抑止力を構築する目的は一応達成されたことになる。その保有数および能力は第6表と第8図の通りである。
 中国の核兵器開発は着実に進展しているようにみえる。しかしながらその前途にはこれまでにもまして大きな困難が横たわっているように思われる。第二撃能力を保有したとはいえ、中国の核戦力は米国とソ連のそれとは比較にならないほど規模が小さく、水準が低い。中国は米ソのような核大国を目指す能力も意図も持っていないと思われるが、中国の核兵器開発の将来の発展にとって不可欠の要素は、ミサイル核弾頭の複数化と、そのための弾頭の小型・軽量化、精密誘導技術などの高度な軍事技術である。

 1950年代から60年代にかけての核兵器は、誘導技術はそれほど高度でなくても、死の灰をまき散らすメガトン級水爆弾頭の威力によって、抑止効果を達成することができた。しかし現在の米ソの核兵器は精密な誘導技術によって正確に誘導されるだけでなく、弾頭は誘導の過程で複数の弾頭に分かれて複数の目標に着弾することができるところにまで発展している。
 中国は81年に一基のロケットで三個の人工衛星の同時打ち上げに成功しているから、多核弾頭(MIRV)開発の技術的下地ではあるが、その後実験を重ねていないところからみて、兵器として実用化する上で技術的に問題を残しているようである。多核弾頭を開発するには、核弾頭は小型・軽量化されなければならない。それには核実験を繰り返す必要がある。中国の核爆発実験の回数は87年6月の地下実験を含めて31回である。スエーデンのストックホルム国際平和研究所の統計によると、84年までに米国は745回、ソ連は554回の核爆発実験を行っている。中国の核爆発実験回数がいかに少ないかがわかるであろう。ミサイルの発射実験回数も少なすぎる。
 なお中国の核戦力は米ソのそれとは比較にならないほど小さいが、その爆発力は数百メガトンに達する。100メガトンの爆発で「核の冬」現象が起こるといわれているから、過小評価してはならない。

                                               五   軍事機構と軍事指導者
 1 中共の指導と中共中央軍事委員会
 党が鉄砲を指揮する
 中国における軍事事項の最高意思決定機関は中共中央軍事委員会である。中国人民解放軍は中共の政治的革命的任務を遂行する目的から組織され存在する軍隊であるから、中共の指導に服さなければならない。毛沢東の「党が鉄砲を指揮する」という有名な言葉は、中共と人民解放軍との関係を規定した原則である。
 中共中央軍事委員会はこの原則を貫徹させるための組織であり、その指揮下の組織として党委員会が各級・機関(軍内党委員会)に設けられ、政治委員が配属されている。軍事指揮員の命令は政治委員の合意を必要とし、意見が一致しない時には上級の判断を求め、作戦上緊急を要する場合には、ひとまず軍事指揮員の指導に従い、その後で上級の判断を仰ぐことになっている。これを「党委員会の集団的指揮下の首長の責任分担制」(両長制)といい、これによって軍隊内のすべての重要問題が統一的に指導されることになっている。そしてこの党委員会の政治工作を執行している機関が政治部である。
 中共中央軍事委員会の組織・任務などについては、これまで党規約にほとんど規定がなく、またその組織法が公表されたこともないが、軍事行動に関する決定、長期の戦略軍備計画、一定時期の作戦計画・訓練計画・政治工作・後勤工作に関する最高方針・政策・最高人事などがここで決定されると考えられる。
 委員数も不明であるが、これまでの慣例では、中共中央主席が主席、国防部長が筆頭副主席、総参謀長が秘書長、総政治部主任が副秘書長を兼任した。また副主席には軍の長老、常務委員には総部(総司令部)、各軍種・兵種・大軍区の首長が兼務し、中央軍事委員会の指導が決定においてばかりでなく、執行においても中国軍のなかで徹底されるようになっている。
 先に論じたように、中国人民解放軍は中共の政治的任務を遂行する目的から生まれ存在する軍隊であるが、中共が政治権力を獲得して中国を統治する立場に立ったことによって、この軍隊には国防という新しい任務が課せられ、この任務を遂行するための軍事機構が中華人民共和国の国家機構のなかにつくられた。それゆえ中国軍に対して、中共中央軍事委員会を頂点とする中共の軍事機構と、中華人民共和国の軍事機構の二つの軍事機構が並存することになった。
 この二つの軍事機構は同じ機械のウラとオモテの関係をなすものであるが、現実に運用される過程でオモテ(国家)の軍事機構がウラ(党)の軍事機構とは違った機能を果たすことがしばしば起きることになった。

 2 中華人民共和国の軍事機構
 中華人民共和国主席と国防委員会
 中華人民共和国の誕生(1949年10月1日)により中共中央軍事委員会は廃止され、この時から中華人民共和国憲法の制定までの五年間、中国軍は中央人民政府委員会に直属する中央人民革命軍事委員会によって統率された。同委員会の下に人民解放軍総部があり、その指揮下に部隊が配属されていた。
 1954年9月20日、中華人民共和国憲法の制定により、近代的国家としての軍事機構が整備された。憲法の規定によれば、中華人民共和国のすべての武装力は人民に属し、新設された中華人民共和国主席(以下国家主席と略す)によって統率される。武装力を建設する仕事は国務院の職務である。そして全国人民代表大会が戦争と平和の問題を決定し、国家主席が戦争状態を宣言し、動員令・戒厳令を公布する。

 国家主席については、これを名誉職とみて、これまであまり重視されなかったが、次にあげるいくつかの出来事から、同主席はたんなる名誉職ではなく、国防委員会主席として中国軍を統率する権限すなわち軍の統帥権を持っていたといわなければならない。①文化大革命で劉少奇が国家主席の地位から追放されるとともに、その職務が事実上廃止された。②林彪事件の背後に国家主席を復活させようとする林彪の野望があったとされている。③林彪事件後の1975年1月17日に改正された憲法では、国家主席が廃止され、54年憲法で規定されていた「武装力を統率する」同主席の職権は中共中央主席に移譲された。
 国防委員会の権限・任務については、54年憲法にも他の法律にも何も規定されていないし、同委員会に関する報道もほとんどない。委員総数は96名で、15名の副主席および81名の委員のなかに国共内戦末期に中共軍に寝返った国府軍の将軍が若干名いるところから、この委員会は軍事政策の基本方針や構想を審議決定する権限を与えられておらず、軍事面における中共の統一戦線政策の反映であり、国防一般に関する国家主席の諮問機関にすぎない、とみられてきた。しかし同委員会の副主席・委員は国務総理・副総理・各部部長・名委員会主任・秘書長とともに、全国人民代表大会・同常務委員会によって決定され、国家主席によって任免されるから、国防委員会は国務院と同様国家主席に直属し、しかも主席は国家主席が兼任するのであるから、国防委員会の方が国務院より上に位置することになる。国防委員会が国家主席を補佐する権限を持っていたことは、同委員会の設置と同時に中共軍事委員会が設立された事実から推察される。中共中央軍事委員会の再設置により、国防委員会は機能しなかったのであろう。

 国防部と武装力の建設
 1954年の軍事制度の改革のなかで最も重要なものの一つは、国防部の新設である。それ以前、中華人民共和国には国防部は存在しなかった。国防部の設置は、中国人民解放軍が国防軍の方向に進むことを意味した。国防部長は軍政面では国務院総理、軍令面では国家主席の命令をうけ、その権限は強大かつ広範囲であった。
 憲法に規定された国務院の職権のうちで国防部の担当するものは、「武装力の建設の指導」である。「武装力の建設」とは何か明らかにされていないが、それはどのような構成で、どれだけの兵力を持つかという問題(質と量)であり、国防上の要求と国家の政策的見地に基づく必要と基礎として決定される。もう少し具体的にのべるならば、それは軍隊の編成・装備・人事・補給・経理・衛生・軍事法務などに関する問題である。これらの問題を実施する上で他の行政関連部門(外交部・財政部・国家計画委員会・国防工業関連部門など)との調整、また人民大衆に対しての兵役義務(平時)、動員(戦時)という重要な役割が国防部には課せられている。国防部長は国務院副総理を兼任することにより、職権が強化された。
 国防部長は軍政だけでなく、作戦に関する権限、いわゆる軍令に関する権限も持っていた。54年の軍事制度改革以前人民解放軍には総司令部が存在したが、国防部長の創設により廃止され、国防部長がその職務をついだ。国防部長が軍令をも掌握していることは、次のいくつかの事例から推察される。①58年の金門島砲撃の一時中止命令が国防部長の職名で出された。②62年の中印国境紛争の戦況に関する報道が国防部スポークスマンの職名で発表された。③79年の米中国交樹立による金門島砲撃停止命令が国防部長の職名で出された。
 国防部長が軍令を掌握したことは、中国軍が国防部長の指揮下にあることを意味する。それは、国防部長を補佐する副部長が、総参謀部長・総政治部主任・総後勤部長、海軍司令・空軍司令、兵種・大軍区および教育研究機関の代表などにより兼任されたことからも推測される。また歴代の国防部長は最近まで元帥であったのに対し、総部・軍種・兵種・大軍区・教育・研究機関の首長は大将・上将級であり、階級の上でも国防部長が中国軍を代表する地位にあった。
 国防部長の権限は、筆頭副主席として中共中央軍事委員会を主宰する権限を与えられたことによってさらに強化された。国防部長の中共内の地位は中央政治局委員であり、きわめて高かった。

 中国人民解放軍総部

 中国軍には総司令部という名称の組織は存在しないが、事実上それに該当するのが中国人民解放軍総部である。国防部が軍政を担当するのに対し、総部は中国軍の統率者(中華人民共和国主席または中共中央軍事委員会主席あるいは中華人民共和国中央軍事委員会)の軍令の執行機関あるいは補佐機関として、その指示・命令を受けて中国軍を指揮・統制する。しかし国防部と総部の活動は渾然一体となっていて、両者の活動を区別することは難しい。総部の長はごく最近まで国防部長であった。鄧小平政権になってからは、中央軍事委員会常務副主席であると考えられる。

 総部には幕僚機構として、建国当時、総参謀部と総政治部が存在したが、1954年の軍事制度の整備により訓練総監部(訓練・教育)・総幹部部(政治工作関係を除く人事行政)・武装力量監察部(戦闘準備状況の監視)・総軍械部(軍需生産)・総後勤部(兵站・後方支援)・財務部が設置され、八個となった。

 しかし1958年3月、武装力量監察部は廃止され、59年末までに訓練総監部は総参謀部に、総幹部部は総政治部に、総軍械部は総後勤部にそれぞれ編入され、幕僚機構は総参謀部・総政治部・総後勤部の三個となった。彭徳懐から林彪への国防部長の交替とともに中国軍の指揮・統帥権は国防部長から中共中央軍事委員会に移り、現在にいたっている。三個の幕僚機構の職務を簡単に説明する。

 総参謀部ー作戦部・軍事訓練部・情報部・動員部・隊列部・装備部・通信部・軍事学院学校部・測量局などの部局を持ち、作戦・教育訓練・編成装備・動員・情報・兵用地誌などを担当する。

 総政治部ー中共が中国軍を政治的に指導するための最上級機関であり、その機能を果たすために政治工作・政治委員・政治部などの一連の特別の組織・機構を持っている。それについてはすでにのべた。

 総後勤部ー軍需部・財務部・営房管理部・車両管理部・運輸部・衛生部・軍械(兵器)部などの部があり、兵站・後方支援および兵器・装備その他の軍需品の生産を担当する。

 3 中共中央軍事委員会の復活

 国家の軍隊から党の軍隊へ

 1954年9月以降、強大かつ広範囲の権限を持つ国防部長に就任した彭徳懐の下で、ソ連軍を雛型として中国軍の近代化・正規化が進行したため、ソ連軍の指揮員単独責任制(一長制)が導入され、中共中央軍事委員会を頂点とする党の軍事機構(両長制)は円滑に機能しなかった。1959年9月解任された彭徳懐に代ってその後任となった林彪の指導で、軍事機構の改革が断行された。人民解放軍は国防部長の指揮下から中共中央軍事委員会の直轄下に置かれた。


 1960年10月林彪の主宰で中共中央軍事委員会拡大会議が開催された。「軍隊政治思想工作の強化に関する決議」が採択され、部隊・機関の党委員会の建設に力が向けられた。61年10~11月、62年2月、63年12月~64年1月、65年12月~66年1月と四回にわたって、全軍政治工作会議が開かれた。その間の63年4月「中国人民解放軍政治工作条例」が採択され、「中国人民解放軍のなかに各級の党委員会を設立し、これを部隊の統一的指導と団結の核心とする」ことが規定された。
 こうした努力にもかかわらず、「党が鉄砲を指揮する」原則はなかなか貫徹されなかった。文化大革命で劉少奇を打倒したあと、中華人民共和国主席のポストが事実上廃止されていることは、同主席であった劉少奇を中心に国家の軍事機構が党の軍事機構とは異なる機能を果たしていたことを示唆している。
 党の軍事機構を機能させる毛沢東の試みは、林彪事件をへて75年憲法でようやく具体化された。この憲法は「中国人民解放軍と民兵は、中共の指導する労働者・農民の子弟兵であり、各民族人民の武装力である」と規定して、人民解放軍が党の軍隊であることを明確にするとともに、廃止された国家主席および国防委員会主席に代わって、中共主席が「武装力を統率する」ことを規定した。
 75年憲法でもう一つ注目される改正点は、「武装力の建設を指導する」という国防部の職務が削除されたことである。国防部が担当していたこの職務は、その後の動向からみて総参謀部が受け継いだと考えられる。1975年1月総参謀長となった鄧小平は大幅な兵員の削減による中国軍の全面的な改革に着手した。このことは総参謀長が「武装力の建設を指導する」という国防部の職務を担当したこと、総参謀部の職務が拡大し、国防部の職権がそれだけ狭められたことを意味した。もう一つは、1984年の全国人民代表大会で兵役法の改正を総参謀長(楊得志)が説明していることである。兵役工作は国防部の職務であり、1955年に初めて兵役法が採択された時には国防部長の彭徳懐が説明した。

Deutschドイツ語→Yang Dezhi (chinesisch 杨得志, Pinyin Yáng Dézhì; * 1911 in Liling, Zhuzhou, Hunan; † 25. Oktober 1994) war ein chinesischer General der Volksbefreiungsarmee und Politiker der Kommunistischen Partei Chinas (KPCh), der zwischen 1980 und 1987 Chef des Generalstabes und damit militärischer Befehlshaber der Streitkräfte war.
 4 国家軍事機構への回帰
 中華人民共和国軍事委員会の創設
 毛沢東の死後、とりわけ鄧小平政権の確立とともに軍事機構の改革が断行された。同政権が制定した82年憲法には、党の軍事機構から国家の軍事機構への回帰がみられる。それはなによりもまず75年憲法で初めて規定され、78年憲法に受け継がれた「中共中央主席が武装力を統率する」という条項が削除されたこと、および毛沢東が廃止した国家主席のポストが復活したことに示されている。もっとも復活した国家主席の職権には、54年憲法にみられた「武装力を統率する」権限は規定されていない。ではこの権限を掌握しているのは現在の中国ではだれか。82年憲法にはこれに関する規定はなく、近い規定を求めるとすれば「中華人民共和国中央軍事委員会は全国の武装力を指導する」という規定である。
 中華人民共和国中央軍事委員会は同憲法で初めて設置された。同委員会は全国人民代表大会により選出される主席、同主席により指名された全国人民代表大会により決定される若干名の副主席・委員から構成される。このことから同委員会は54年憲法の国防委員会に該当すると考えられるが、この委員会の主席は国家主席によって兼任されることもなければ、「武装力を統率する」権限も与えられていない。
 では何故、復活した国家主席に「武装力を統率する」権限が与えられなかったのか。あるいは「指導」という「統率」と異なる概念が使われているのか。その理由は「武装力を統率する」権限を有する者が政治を動かしてきたという中華人民共和国中央軍事委員会は全国の武装力を統率する」という規定があったことである。このことは、同憲法草案作成で重要な役割を果した張友漁が明らかにしている(『憲法論文集 続編』)。82年憲法の制定過程で、「武装力を統率する」権限を復活する国家主席に与えるのか、だれがその職務につくのかーといった問題をめぐって合意がえられず、上述した規定になったと推察される。
 鄧小平政権が「指導」を「統率」と同義語に解釈していることは、中央軍事委員会の性格・地位・役割を論じたある論文(『人民日報』83年1月2日)が、「新憲法の規定によれば、国家主席は全国の武装力を統率せず、この面では中央軍事委員会主席が責任を負うことになっている」「同委員会は国家の軍事事項の決定機関であり、全国の武装力を指導し指揮する」と説明しているところから推察される。そして中華人民共和国中央軍事委員会の構成員は中共中央軍事委員会の構成員と同じであるとされているから、同委員会は現在中国における軍事事項の最高決定機関であるといえる。
 この二つの機関は同じ機構のオモテとウラの関係をなすが、現実に運用される過程でこれまでしばしば生起したように、オモテの、すなわち国家の軍事機構が党の軍事機構と異なる機能を果たすことになるかどうかは今後の推移をみなければならない。

 国防部長の地位の低下
 82年憲法には、国務院の職権の一つとして「国防建設事業を指導し管理する」ことが規定されている。54年憲法の規定では、国防部の職務は「武装力の建設」であった。75年憲法で「武装力を建設する」国防部の職務が廃止された。その職権の重要ないくつかを総参謀部が担当していることについてはすでに論じた。現国防部長の張愛萍が担当している職務は、長期国民経済発展計画との関連で、核兵器を中心とする先端的兵器を開発して国防力を強化することである。それは鄧小平政権が21世紀へ向けて中国が発展してゆくための国家戦略として最も力を入れている領域である。「国防建設事業を指導し管理する」とはこれを指している、と考えられる。
 現国防部長の張愛萍の地位は、党では中央委員会委員にすぎず、中央軍事委員会では副秘書長、旧階級は上将であり、歴代の国防部長が中共中央政治局委員(林彪は同常務委員、中央委員会副主席)、中共中央軍事委員会副主席、旧階級は元帥であったことと比べると低い。現在では、中共中央政治委員である総参謀長(楊得志)および同委員と中央書記処書記を解任している総政治部主任(余秋里)の地位の方が、国防部長の地位よりも高い。そして中央軍事委員会の副秘書長に総参謀部・総政治部・国防部・総後勤部の四つの単位の長が任命されていることは、これら四つの単位が同じ地位にあること、いいかえればそれまでのように国防部長が他の三つの単位の上に立つ機関ではないことを示している。これまで国防部長は軍政ばかりでなく軍令をも掌握していたが、現在の国防部長は軍令に関する権限を持っていない。
 では、かつて国防部長が掌握した軍政・軍令の二つの権限を現在掌握しているのはだれか、それは中央軍事委員会常務副主席兼秘書長の楊尚昆である。彼は中央軍事委員会を主宰し、日常業務を処理しているから、中央軍事委員会常務副主席かつての国防部長の地位にいるといえる。これまで国防部長は軍事に関するあらゆる権限を掌握し、その地位は高すぎた。その弊害がようやく制度上除去されようとしている。中央軍事委員会主席(鄧小平)は同委員会常務副主席を通して、中国軍を指導し統率しようとしている。
 そして1981年6月の中共11期六中全会でその中央軍事委員会主席に就任した鄧小平は、百万の兵力削減により中国軍の全面的な改造に挑戦している。次にそれをみることにしよう。

Polskiポーランド語→Hu Yaobang胡耀邦Ху Яобан (ur. 20 listopada 1915 w Liuyang w prowincji Hunan, zm. 15 kwietnia 1989 w Pekinie) 후야오방, – chiński polityk, przywódca Komunistycznej Partii Chin, zwolennik reform. Represjonowany w okresie rewolucji kulturalnej i w 1976 roku, następnie jeden z najbliższych współpracowników Deng Xiaopinga国務院副総理、第3代中国共産党中央委員会主席・初代中国共産党中央委員会総書記。彼の死が後の六四天安門事件の引き金となった。
                                    III 鄧小平の軍事改革 一 兵力百万削減と中国軍の再編
 1 限定戦争論と即応能力の構築
 中共11期三中全会と中越戦争
 現在の鄧小平政権の軍事路線は1978年12月の中共11期三中全会に始まる。この会議は、文化大革命の指導理念であった毛沢東の「継続革命論」を否定することによって、中国軍を毛沢東軍事思想から解放し、党の活動の重点を経済建設に移すことによって、中国軍の近代化・正規化に道を開いた。三中全会の提示した新路線は、軍事的には初代国防部長彭徳懐の実施した近代化・正規化軍事路線への復帰を意味した。三中全会で彭徳懐の名誉が回復されたのは、それゆえ当然のことであった。
 翌79年2月17日に勃発した中越戦争は、近代化・正規化軍事路線を促進する重要な契機となった。この戦争は中国軍が近代戦争を遂行する能力を欠いていることを明るみにだした。
 鄧小平は文化大革命で失脚し、1973年4月副首相として復活、75年1月5日総参謀長に就任したが、1976年4月5日の天安門事件で失脚の後、四人組逮捕後の77年7月総参謀長に再復活、同8月中共中央副主席に就任した。鄧小平は総参謀長就任(1975年1月)後に行った。「軍隊の教育訓練を戦略的地位にまで高めなければならない」という講話で、次のようにのべていたが、その言葉が現実となったのである。「近代戦争の知識を真剣に学び、各軍種・兵種が協力して戦うことを学ばなければならない」「いま中隊長になると、モーゼル銃をふりかざして、”突っ込め”と叫んで、それで終わりとはならない。何台かの戦車がつき、砲兵中隊もつけられ、その上対空連絡・通信連絡をしなければならない」「まして大隊・連隊・師団・軍団ではなおさらである」。
 同年10月1日の国慶節に国防部長の徐向前は、「現在の兵器・装備に習熟し、協同作戦を組織し遂行して諸兵種の役割を十分に発揮させる上で、少なからず問題がある」ことを認めた。

Deng Xiaoping Theory (Chinese: 邓小平理论; pinyin: Dèng Xiǎopíng Lǐlùn)Теория Дэн Сяопина鄧小平理論덩샤오핑 이론, also known as Dengism, is the series of political and economic ideologies first developed by Chinese leader Deng Xiaoping.: 1500  The theory does not reject Marxism–Leninism or Maoism, but instead claims to be an adaptation of them to the existing socioeconomic conditions of China. 
 毛沢東軍事思想批判
 中国軍の軍事能力あるいは軍事戦略・戦術に対する批判は、必然的にその理論的基礎である毛沢東軍事思想に対する批判を生んだ。
 「紅軍が江西にいた時とった敵を深く誘い入れる方法を頑なに守り、機械的に現在に持ち込んでよいであろうか。当時、われわれには都市もなく、近代工業もなく、すべては敵の手にあった。敵が来れば、物質を埋めたり焼いたりして敵に利用されないようにして退却し、敵を深く誘い入れ、両手を開いて招き入れた。われわれは発展した新しい情勢に基づいて、新しい戦法を研究しなければならない」
 これあh1979年9月、軍事学院院長の齋克が同学院で行った講和の一節である。「敵を深く誘い入れて包囲殲滅する」積極防衛の戦略は毛沢東軍事戦略の基本であるから、この発言は毛沢東軍事戦略の有効性を根本的に否定したものだった。齋克はさらにこれまで戦略・戦術について研究・討議せず、戦略・戦術について語る場合、毛沢東が革命戦争中に書いた著作に限られていたことを批判し、「将来の戦争の特徴に着目し、近代戦争の要請に応える教材を編纂する」必要性を説いた。
 では「発展した新しい情勢」に応じた「新しい戦法」とは何か。齋克はそれについて何も言及していないが、それまで消極防御ないし単純防衛と批判されてきた、正規軍により国境地域で敵を破砕する前方防勢戦略である。「都市もなく、近代工業もなく、すべてが敵の手にあった」革命党の時代には、積極防衛は有効であったにしても、執政党となった現在、国家の主権と安全を侵犯させ、国土を焦土と化し、人民の生命と財産を破壊させる戦略をとることはできない。かくて戦争初期の作戦任務を遂行できる近代的正規軍の構築が、鄧小平政権の課題となっているのである。

 対ソ戦に必要な軍事力
 齋克の積極防衛に対する批判が、中ソ国境のソ連軍を念頭になされていることはいうまでもないが、中ソ国境地域でソ連軍の侵攻を破砕する戦略をとるとすれば、中国軍はそれに対抗できるだけの近代兵器で装備された軍事力を必要とする。それはどの程度の軍事力であろうか。その答えは簡単ではないが、米国の国防長官ブラウンが1980年1月に中国を訪問した当時『ニューヨーク・タイムズ』が報道した米国国防総省の報告は、この問いに答える上で一つの手掛りを与えてくれる。
 それによると、中ソ国境で中国軍がソ連軍の侵攻に対処できる能力を備えるには、中戦車3000~8600両、装甲兵輸送車8000~1万両、大型輸送車1万6000~2万4000両、空対空ミサイル6000発、地対空ミサイル720基、高性能戦闘機200機、戦闘爆撃機240機が必要とされている。
 これらの数字がどのような戦争の様相を想定して計算されたかについてはおくとして、それは20~30個師団の軍事力に相当する。仮にソ連軍の侵攻を破砕できないにしても、大敗を喫することはないであろう。中国軍はソ連軍の侵攻を食い止め、遊撃部隊を送り込んでソ連軍の後方を攪乱して戦争を長引かせ、その間に国際世論に訴えつつ政治交渉を進めて和平に導くことは可能であろう。
 中国軍は上述した軍事力を現在保有しているであろうか。すでに論じたように答えは否である。では将来においてはどうか。ここで単純な数字の遊びを試みてみよう。
 前記米国国防省の報告によると、上述した兵器・装備を調達するのに必要な経費は、410億ドルから630億ドルである。この数字がどのような根拠で計算されたものであるかについては、ここでは触れないことにする。
 鄧小平政権は今世紀末までに中国の工農業総生産を四倍増にする目標を掲げている。1980年に鄧小平は、今世紀までに一人当たりGNPを1000ドルに引き上げることができれば、それは「まあまあの社会」(原文は「小康社会」)であるとのべている。79年に中国が初めて公表した一人当たりGNPは253ドルであるから、一人当たりGNP1000ドルは79年のそれの四倍増にあたる。そこで250ドル(話を単純化するために250ドルとする)に総人口数の10億を掛けて80年のGNP(2500億ドル)とし、10年で二倍増、20年で四倍増とすると、10年後の90年の中国のGNPは5000億ドル、20年後の2000年には一兆ドルとなる。80年のわが国のGNPは約一兆ドルであるから、中国の経済成長が四倍増であれば、90年の中国のGNPは80年のわが国のGNPの半分、2000年には80年のわが国のそれとほぼ等しくなる。
 米国国防総省の上述した兵器・装備の調達費41~630億ドルを、中間をとって500億ドルとすると、それは90年のGNPの10パーセント、2000年のそれの五パーセントにあたる。しかし上述したような大規模な数量の兵器・装備の調達には、長期の時間を必要とする。仮に10年とすれば一年に50億ドルであり、90年のGNPの一パーセント、2000年のそれの〇・五パーセントにすぎない。改めて述べるまでもなく、わが国の防衛費はGNPの一パーセントである。
 このように論じてくるならば、500億ドルという金額を兵器・装備に支出することは、2000年には国家財政の上ではそれほど困難ではない。現実に鄧小平も1985年元旦の『人民日報』で次のように語っている。「工農業総生産四倍増の意義は大きい。これは今世紀末までにGNPが一兆ドルに達することを意味する。・・・一兆ドルのうち一パーセントを国防費にあてれば100億ドルになり、五パーセントをあてはめれば500億ドルになる。100億ドルあれば多くのことができ、多少の装備の改良など朝飯前である」。
 ただしこの数字の遊びは中国が今世紀までに四倍増しの経済成長を遂げるという前提に立っている。実際にそれが達成されるかどうかは別の問題である。それの達成を制約する諸要因については改めて検討されなければならない。また20年前に貨幣価値が変わり、兵器も発達するという条件も考慮されなければならない。そして仮に四倍増が達成され、国家財政的に上述した資金の支出が可能になったとして、おそらく最大の条件は中国の軍事科学技術が必要な水準にまで到達できるかという問題であろう。

 限定戦争論と即応能力の構築
 500億ドルで近代化される軍事力は、先に述べたように20~30個師団である。中国の軍事力は1982年に初めて公表されたところでは420万人であるから、現在進行している百万人の兵力削減(これについては後述される)が実現されても、近代化される兵力はそのうち一部分にすぎない。300万人の兵力の近代化にはその10倍の時間と経費を必要とする。さらに戦略核兵器、外洋海軍の建設も行うことになれば、財源はいくらあっても足りることはない。
 ちなみに米国の軍事支出は1983年で約2400億ドル、ソ連のそれは不明であるが、米国の軍事支出に匹敵するものとみられる。中国の国家財政支出総額は600億ドル前後であるから、仮に中国政府が国家財政の全額を軍事費に投入したとしても、それは米・ソの軍事支出の四分の一にすぎない。中国軍の近代化は財政的に自ずから限定されたものとならざるをえない。そこでその有限の財源をどのような領域に投入するかという問題は、すぐれて政治の問題とならざるをえない。
 鄧小平政権はアジアで軍事的手詰まりの成立している状況のもとでは、①全面戦争は生起しない、②将来戦は限定戦争であるという国際情報認識・戦争認識(欧米流の核抑止論・限定戦争論)に立って、最小限抑止力と戦略的限定奇襲攻撃に即応できる軍事力の構築を意図している。80年1月、鄧小平は80年代の任務を語った際、今世紀のうちに主要工農業製品の生産量で、世界の先進国の水準に到達することは、「不可能である」ばかりか、「不必要である」とのべて、華国鋒が実施してきた「四つの近代化」と10ヵ年計画を批判したが、軍事領域においても同様に米・ソの軍事力に匹敵するような強大な軍事力を構築する考えを持っていない。
 ここで鄧小平の軍事改革が戦争観の質的転換の上に遂行されている点に触れておかなければならない。それまで中国軍の建設は毛沢東の「世界戦争は必ず起こる」という戦争観ないし国際情勢認識に基づき、とくにソ連と「早く、大きく戦い、核戦争を戦う」との要請に沿って進められてきた。



































































































































































 

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