日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

People's Liberation Army of China☆中国人民解放军☆Народно-освободительная армия Китая/Shigeo Hiramatsu平松 茂雄Сигео Хирамацу(1987)CANADA🍁2023/10/23⑧

国防相の相互訪問に続いて、最高軍事指導者の相互訪問があった。84年8月米国海軍長官レーマンJohn Lehmanが訪中し、両国海軍が人的交流だけでなく軍事技術面でも交流することで意見の一致をみた。翌85年1月米軍参謀本部議長ベッシーJohn William Vessey, Jr.、10月には空軍参謀総長ガブリエルCharles A. Gabrielが訪中した。同年11月中国海軍司令員劉華清Liu Huaqing、86年総参謀長楊得志、同年10月総後勤部長洪学智Hong Xuezhi 、87年4月空軍司令員王海Wang Haiが米国を訪問した。さらに87年3月米国の海兵隊司令官ケリーJohn Francis Kellyが訪中、5~6月中央軍事委員会常務副主席の楊尚昆が訪米した。

 米中海軍艦艇の合同演習
 86年1月16日、両国海軍艦隊が西沙群島沖の海域で合同洋上演習を行った。米国側の発表によると、「パセックス(PASSEX)と名付けられたこの演習には米国海軍の駆逐艦・フリゲート艦各一隻と中国海軍の駆逐艦・補給艦各一隻の計四隻が参加し、通信、シグナル交換、エレクトロニクス・システムなどのテストが行われた。しかし中国側は、パキスタン、スリランカ、バングラデシュの三ヶ国を訪問して帰途にあった中国海軍艦艇が米国海軍艦艇と遭遇し、挨拶を交わしたことは認めたものの、合同演習を行った事実はないと否定している。

 米国海軍艦艇の青島寄港
 ミサイル巡洋艦「リーブスUSS Reeves」(7800トン)を旗艦とする米国太平洋艦隊United States Pacific Fleet所属の艦艇三隻が、86年11月5~11日、中国海軍北海艦隊司令部の所在地である青島に寄港した。米国海軍艦艇の中国寄港問題は、83年9月のワインバーガー長官が最初に中国を訪問したさい提案され、84年5月、海軍長官レーマンの訪中時に具体的な話し合いが行われ、85年5月、上海寄港が実現するところにまで進展したが、その直前の4月胡耀邦が訪問先のニュージーランドで、「中国に寄港する米軍艦艇は核兵器を搭載しない通常艦であるべきだ」と発言したことから、核搭載の有無を明らかにしないという米国の原則と真っ向から対立し、実現しなかった。
 青島寄港のさいの核搭載の有無については米中両国とも説明していないが、米国側は中国の「核搭載艦艇の寄港は認めない」という立場を、中国側は米国の「核搭載の有無は明かさない」という立場を、相互に尊重するということで合意したようである。寄港地の上海から青島への変更については、張愛萍は「われわれは上海でも厦門でもよい」と発言し、青島を選んだのは米国であることを示唆した。その背景には、86年7月ソ連海軍太平洋艦隊Морские силы Дальнего востокаの空母「ミンスクМинск」が北朝鮮東海岸の元山に入港したのに続いて、8月に西海岸の南海に寄港権を獲得したと伝えられるなど、ソ連と北朝鮮の軍事関係が緊密化していることに対する両国の利益の一致があった。

 情報交換
 新疆のウイグル自治区内にソ連のミサイル実験を監視する米国の地上レーダー追跡基地が設置されているとか、米国側は人工衛星で撮影したソ連の写真を、中国側は国境地帯で傍受しているソ連の無線電信の内容を相互に交換しているとか、ソ連の地下核実験を探知する地震観測施設を中国に建設する交渉が米中間で進んでいるとか、あるいは米国国防情報局Defense Intelligence Agency(DIA)の高官が秘密裏に北京を訪問したとか、ワシントンを訪問した中国外交部長呉学謙が中央情報部Central Intelligence Agency(CIA)長官ケーシーWilliam J Caseyと長時間の秘密会談を行ったとかいった情報がある。米中両国はこれらの情報を否定しているが、情報分野における両国の接触は進んでいるとみられる。

 兵器輸出
 1983年から84年にかけて両国の国防相が相互訪問した当時、中国は米国からTOW型対戦車ミサイルBGM-71 TOWを購入すると同時に、ヒューズ航空機会社と同ミサイルをライセンス生産する契約を結ぶとか、米国は中国にホーク型対空ミサイルHoming All the Way Killer, HAWKを売却し、野戦砲と防空システムの改良にも協力するとか、あるいは米国は中国国産の要塞戦闘機殲-8IIShenyang J-8の近代化のために航空電子装置(レーダーと火器制御装置)を供与するとともに、中国人パイロットを米軍基地で訓練することを約束したとかいった情報が流れた。さらに84年8月米国海軍長官レーマンが訪中してからは、米国は潜水艦を探知するソナーsound navigation and ranging, SONAR、マーク46魚雷Mark 46 torpedo、ファランクス対空砲Phalanx CIWS、ガスタービンGas turbine・エンジンなどの売却で中国と合意に達したことが報じられた。
 このように米国の対中軍事技術移転について多くの情報が流れたが、実際に売却されたのは、84年8月のシコルスキーS70ヘリコプター24機、85年9月の155ミリ榴弾砲の製造技術(9800万ドル)、86年11月の殲-8IIに搭載する航空電子装置55機分(5億5000万ドル)である。なお同航空電子装置の売却は10年計画とのことである。

 高度技術の移転
 1983年6月米国は、中国への高度技術製品輸出に関して、中国をこれまでの共産圏扱いから「非同盟友好国」扱いに変更し、制限を大幅に緩和した。これによちICBMの軌道計算機、原子炉設計用スーパーコンピューターなどの戦略兵器に関する超高度技術を除いて、メーンフレーム・コンピューター(電算機本体)、マイクロ・プロセッサー、マグネチック・テープレコーダー、オシロ・スコープ、集積回路製造装置、半導体などは、ケース・バイ・ケースで輸出可能となった。
 しかし対中高度技術移転には、ココム(対共産圏輸出統制委員会)の壁が存在する。米中間の兵器に関する商談もココム加盟国15ヶ国(アイスランドを除くNATO諸国および日本)のうち一ヶ国でも反対した場合実現できず。商品の供与であってもその都度ココムの承認をうる必要がある。そのため米国は85年1月ココムに対し、中国に対する例外輸出審査の迅速化・弾力化を要請し、同年12月ココム加盟国は中国向け高度技術の規制緩和で合意した。
*Українськаウクライナ語→Координаційний комітет з експортного контролю, більш відомий як КоКом або КОКОМ對共産圈輸出統制委員會 (англ. Coordinating Committee for Multilateral Export Controls, CoCom대공산권 수출 통제 위원회)Координационный комитет по экспортному контролю, более известный как КоКом или КОКОМ , — міжнародна організація, створена країнами Заходу в 1949 р. для багатостороннього контролю над експортом до СРСР і інших країн Ради економічної взаємодопомоги. У епоху Холодної війни Коком складав переліки «стратегічних» товарів і технологій, що не підлягають експорту в країни «східного блоку», а також встановлював обмеження з використання товарів і технологій, дозволених для постачання як виняток.
 この合意により、ココム加盟国すべての承認が必要なココム特別認可品目のうち、コンピューター、工作機械、半導体・半導体製造装置、産業ロボット、光フィーバーなどの27の分野を対象とし、中国向けの輸出にかぎり、各国が独自の判断で実施できることになり、ココム関連物資の対中輸出のうち、75パーセントが規制緩和された。しかしこの合意では、中国そのものをココムの規制対象圏から除くまでにはいたらず、ココム禁輸規制の運用面での配慮にとどまった。

 軍事教育・訓練への協力
 1985年秋、楊尚昆が河南省の軍事関係の学校を視察したさい、「計画的に外国の教授を招いて授業をしてもらい、学習のため留学生を派遣し、視察のため専門家を外国に送ることに私は完全に賛成する」との談話を発表した。この談話を掲載するにあたって『解放軍報』は、「この談話は中国軍の学校にとって一つのタブーを破るものである」と評価した。「タブーを破る」という言葉から、楊尚昆の談話で言及されている外国は、米国をはじめとする西側諸国であると考えられる。
 86年9月に発表されたところでは、同年1月の創設以来、国防大学には26組200余人の外国軍隊の指導者および世界的名人士・専門家・学者が招聘され、86年5月米国国防大学校長のリチャード・ローレンス中将が連合・合同作戦に関する講演、同年10月米国国防長官ワインバーガーが米中軍事関係の現状と将来について講演している。
 また87年の建軍節に明らかにされたところでは、86年に調査・研修・学術会議出席のため外国を訪問した中国軍の専門家・学者・技術者は1000人を越え、87年上半期は700人に達した。なによりも注目されることには、87年のうちに「高水準の軍事指導員養成のため、若い士官を外国の軍事大学へ派遣する」ことが公表された。この外国が米国であるかどうかはわからないが、ワインバーガーの第二回訪中直後に中国軍の若手幹部の米国の軍事学校への留学で両国間に合意が成立したとの情報があった。数年来の米中軍事関係からみて、中国軍若手幹部の米国軍への留学は時間の問題である。

 軍事協力関係の将来と問題点
 米中の軍事協力関係は今後どこまで進展するであろうか。高度技術の移転はさらに緩和されるのか、兵器売却は攻撃性の兵器にまで拡大するのか、米中艦隊の相互寄港が定期化するのか、軍事教育での交流が進展して共同訓練や共同演習が両国の軍隊の間で実施されるのか。
 米中軍事協力関係進展の背後には、極東におけるソ連軍事力の強化と活発な活動、すなわちSS-20の配備、太平洋艦隊の増強に示されている「ソ連の脅威」の増大がある。この米中両国に共通の戦略認識のもとに、今後も両国の軍事関係は中国軍の近代化に米国が影響力を行使する方向で進むと考えられる。しかし両国が軍事同盟関係にまで発展することはないであろう。
 米国のアジア・太平洋戦略のなかで、中国は米国の同盟・友好諸国とともに対ソ戦略の一翼を担う「地域勢力」としての役割を期待されているが、この地域における米国の同盟国(日本・韓国・フィリピン・タイ・オーストラリア・ニュージーランド)とは明確に区別されている。中国との軍事協力関係を進める上で、米国はアジアの同盟諸国への影響を配慮しないわけにはいかない。「安定した強い中国はアジアの平和と安定にとって利益である」というのが米国の対中政策の基本であるが、中国の周辺諸国にとっては、「安定した強い中国」は必ずしも利益ではない。米国がそのアジア・太平洋戦略のなかで中国に対して抱いている期待は、現在の中ソ対立の持続である。
 他方、鄧小平政権は「中国は独立自主の対外政策をとっている。われわれはいかなる大国または集団にも属さない」との立場を機会あるたびに表明して、中国が「ローカル・パワー」として米国の対ソ戦略に組み込まれることを望んでいない。中国は近代化達成のためにソ連との一定の緊張緩和を望んでおり、米国との関係を緊密化して対ソ交渉力を高め、中ソ関係正常化交渉でイニシアチブをとることを意図している。また外国から完成品の兵器を調達するのではなく、自国で兵器を生産できる技術の導入を意図している。米国の技術導入がなかなか進捗しない理由として、中国の外貨事情とともに、中国が完成品の輸入でなくライセンス生産を希望していることがあげられる。
 米国は今後中国軍の近代化への協力を通して、中国をどこまでその対ソ戦略のなかに組み込むことができるか、中国は軍近代化を達成する上でどれだけ米国に接近し利用できるか、米中軍事協力関係は両国の思惑を背景にこれからどのように展開してゆくか、注目される。

*《中华人民共和国政府和日本国政府联合声明》중일공동성명(中日共同聲明)The Joint Communique of the Government of Japan and the Government of the People's Republic of China was signed on September 29, 1972, in Beijing.Communiqué commun du gouvernement du Japon et du gouvernement de la république populaire de Chine
 3 日中軍事交流
 日中軍事交流の歩み
 日中間の軍事交流は、1972年9月29日の日中国交樹立以後、74年8月に駐在武官が相互に交換されたのを皮切りに少しずつ拡大してきており、これまでに中国側から11組、日本側から五組が相互訪問している。訪問団の数からいって中国側が積極的であることがわかるが、訪問者の地位からみても中国側が積極的である。
 中国側が日中平和友好条約締結直前の78年9月に副参謀長の張才千Zhang Caiqianが訪日したのに続いて、翌79年5月「日中友好の船」の最高顧問として来日した国防部副部長粟裕Su Yuが山下Ganri Yamashita防衛庁長官を表敬訪問した。84年7月国防部長張愛萍が、訪米の帰途わが国を訪問し、栗原Kurihara Yūkō長官を訪問し会談した。さらに86年5月訪米の帰途総参謀長の楊得志、同年6月副総参謀長の徐信が来日した。これに対して日本からはようやく85年5月夏目Haruo Natsume防衛事務次官が訪中しただけであった。

 日中関係が政治・経済・文化などあらゆる面で交流が深まるなかで、軍事交流だけがあまり進展しなかったのは、日本側とりわけ防衛庁の慎重な、あるいは消極的な態度によるところが大きい、とみられている。そうした態度の根底には、ソ連を刺激したくないという配慮が働いているが、他方で米中間の軍事関係の行方が見定まらないことがあった。
 83年9月と84年6月の米中両国の国防相の相互訪問により、米中軍事協力の枠組みができあがったのに続いて、84年11月加藤Kōichi Katō防衛庁長官が就任した。加藤長官は外務省時代中国課に勤務した経歴があり、中国に対する関心が強く、最初に中国を訪問する防衛庁長官になることを希望していたが、実現しなかった。

 栗原長官の中国訪問
 1987年5月29日~6月4日栗原防衛庁長官が中国を訪問した。その数年前から中国は教科書・政府閣僚の靖国神社訪問などの問題をとらえて日本を「軍国主義」と非難するようになり、87年に入ると日本の防衛費がGNPの一パーセントを突破したことを批判し始めた。

 中国を訪問した栗原長官は張愛萍国防部長との会談で、日本政府の防衛政策について、武力で紛争を解決しないことの平和憲法に基づく必要最小限の防衛力の整備であると説明し、軍事大国にならないことを説明した。これに対して張愛萍は「日本は自衛的な防衛力を持つべきであり、日米安保条約についても賛成である。軍事大国にならないとの考えはよくうかがった」とした上で、「歴史の悲惨な教訓に照らして、日本の防衛力発展には一定の限度があるべきであり、周辺諸国の不安を招いてはならない」とのべた。
 ついで栗原長官は万里副首相と会談したが、同副首相は「日本が一定の防衛力を持つこと、自衛のための必要最小限の防衛力を持つことは理解できる」との鄧小平の言葉を伝えるとともに、「日本に軍国主義を主張する少数の人がいるので、警戒しなければならない。過去のようなことがあってはならない」と要望した。
 こうした中国側の態度について栗原長官は、「日本の防衛政策を理解してもらった」「中国はGNP一パーセント突破問題を軍国主義批判と絡めてくることはないであろう」との判断を示した。
 もともと栗原長官の中国訪問は鄧小平とこの問題について「納得のゆくところまで話し合う」ことに目的があったが、肝心の鄧小平は高齢との理由で会見しなかった。趙紫陽首相も会見せず、万里Wan Li副首相が代わりに会見したのであった。しかし鄧小平と趙紫陽はその前日の5月29日(長官が国防部長張愛萍と会談した日)に中国訪問中のシンガポールの第一副首相と個別に会談しているから、栗原長官は鄧小平ばかりでなく趙紫陽らからも会見を拒否されたととるべきであろう。

*Русскийロシア語→Вань Ли (кит. трад. 萬里, упр. 万里, пиньинь Wàn Lǐ; 1 декабря 1916, Дунпин, пров. Шаньдун, Китайская Республика — 15 июля 2015, Пекин, КНР) — китайский государственный деятель, председатель Постоянного комитета Всекитайского собрания народных представителей 7-го созыва (1988—1993).
 鄧小平はそれによって日本の防衛政策に対して不満ないし不同意を表明したのであるが、それは栗原長官が帰国した日に鄧小平が公明党Komeitoの矢野Junya Yano書記長と会見し、防衛費のGNP一パーセント突破問題について厳しく批判したことによってはっきり表明された。鄧小平は日本の防衛費は少なくないこと、したがって一パーセントを突破する必要がないこと、にもかかわらず突破の前例をつくれば今後も突破の可能性があること、この問題は中国だけの反応ではないことを指摘し、「日本の政治家がこの問題を考える時もっと謙虚であってほしい」との「善意をこめた助言」をした。

 日中軍事交流の将来
 米中軍事協力の進展とともに、日中軍事交流をどのように位置付けて進めてゆくかについて日本は明確な方針を打ち出す時期に来ている。しかし米中軍事協力と日中軍事交流との間には重要な相違がある。
 米中軍事協力が主として米国のイニシアチブにより、緩慢ではあるにしても着実に進展しているのは、米国が中国をその対ソ戦略の一環としてつねに考えているからである。それに対して日本にはソ連を刺激しないという政治的配慮に加えて、自衛隊の法的性格、武器輸出三原則があり、日中軍事交流には自ずから限界がある。他方、中国側には、過去の日本軍国主義の中国侵略という歴史がある。中国の日本の防衛力増強への歯止めの必要性を要求するとともに、軍事大国化に対する中国を含めた周辺諸国の懸念を表明するのにはそれだけの理由がある。
 日中軍事交流は人的交流にとどまり、兵器の輸出や軍事訓練での協力などへ進展することはないであろう。

                                                   三 胡耀邦の辞任と中国軍
 1 胡耀邦の総書記を辞任
 二つの軍事委員会拡大会議
 1986年12月、中国各地で民主化を要求する学生デモが起き、その責任をとって翌87年1月16日、胡耀邦が中共中央総書記を突然辞任した。その理由・背景・辞任にいたる過程などについて未だ十分明らかでないが、胡耀邦辞任に中国軍がある重要な役割を果たしたことだけははっきりしている。
 学生デモが広がりつつあった86年12月11日から25日まで、中央軍事委員会拡大会議が開かれた。この会議で中国軍は胡耀邦を支持しなかった。そのことは、前年の中央軍事委員会拡大会議と比べるならば明瞭となる。
 85年の会議は百万人の兵力削減による中国軍の再編成を決定した会議である。胡耀邦は鄧小平とともに出席して「重要講話」を行い、会議に参加した同志たちを接見した。「重要講話」の全文は公表されなかったが、報道のさいの順序は胡耀邦、鄧小平であった。この二人と楊尚昆がにこやかに笑って拍手している写真も掲載された。この会議で鄧小平が胡耀邦を中央軍事委員会主席に就任させようと試みたかどうかについてはわからないが、胡耀邦が鄧小平の後継者であるとの印象を植え付けたことは否定できない。
 これに対して86年の拡大会議では、胡耀邦は「重要講話」を行わなかった。彼の名前がでてきた唯一の報道は会議に出席した代表との接見であったが、その序列は鄧小平、趙紫陽、胡耀邦の順であった。この会議で胡耀邦には活動の場がまったくなかった。
 二つの中央軍事委員会拡大会議の比較は、86年の会議で中国軍が胡耀邦を支持しなかったことを示している。それは、鄧小平が78年の中共11期三中全会以来毛沢東軍事路線を清算しつつ自己の軍事路線を定着させ、その過程で胡耀邦を中央軍事委員会主席にして中国軍を統率させる鄧小平の試みが、中国軍の抵抗にあって挫折したことを意味した。

 中国軍の改革と胡耀邦の台頭
胡耀邦と中国軍との最初の重要な関わりあいは、81年1月の全軍政治工作会議であった。この会議で当時中共中央書記処総書記であった胡耀邦は「重要講話」を行った。当時中共中央軍事委員会主席であった華国鋒は、この会議で「重要講話」を行わなかった。彼は76年10月政権について以来、78年6月と80年5月の二回、全軍政治工作会議を開催し、自ら出席して「重要講話」を行い、そのことが大きく報道された。ところが81年の会議では華国鋒の名前は報道されなかった。彼はその前年9月の第六期全国人民代表大会第三回会議で国務院総理を辞任しており、同年12月中共中央主席を辞任したとの噂が広まっていた。華国鋒はこの会議に出席しなかったのであろう。
これに対して胡耀邦の「重要講話」は全文ではなかったが、その内容が要約されて『人民日報』第一面のトップに掲載された。この紙面には、胡耀邦が講話を行っている姿とそれを聞いている代表を写した二枚の写真も付されていた。講話の内容は、中共11期三中全会以来鄧小平政権の理論的拠り所となっている「四つの基本原則」に基づいて書かれており、そのホコ先は華国鋒を中心とする文化大革命以来のスローガンである「プロレタリアートを興し、ブルジョアジーを滅ぼす」に依拠する「軍内左派」に向けられていた。
この会議を契機に、中国軍籍を持つ作家白樺の映画シナリオ『苦恋』を「ブルジョア的個人主義」とする批判が「軍内左派」によって始められたが、それは胡耀邦を中央軍事委員会主席にしようとする鄧小平の試みに対して向けられていた。同年6月の中共11期六中全会では、胡耀邦が中共中央委員会主席に、鄧小平が中央軍事委員会主席に就任した。

①Françaisフランス語→Bai Hua (白桦) (de son vrai nom Chen Youhua 陈佑华) est un écrivain chinois né le 20 novembre 1930, à Xinyang et mort le 15 janvier 2019 à Shanghai②Русскийロシア語→«Горькая любовь» (苦恋) — киносценарий, драматическая пьеса, написанная Бай Хуа и Пэн Нином. Пьеса была опубликована в журнале «Октябрь» в 1980 году и готовилась к экранизации.
 六中全会から約三ヶ月後の9月27日、河北省庁の張家口地区で実施された軍事演習を鄧小平が参観するとともに、演習に参加した部隊を閲兵した。『人民日報』は第一面に鄧小平と胡耀邦とが並んで閲兵している写真(第III部扉参照)を大きく掲載し、胡耀邦が鄧小平の後継者であることを印象付けた。
 これに対して中国軍、とりわけ毛沢東軍事思想を信奉する「軍内左派」の反発は激しく、翌82年9月の中共12回大会における胡耀邦の政治報告を契機に巻返しにでた。いわゆる趙易亜Zhao Yi’an論文である。この出来事は『解放軍報』の自己批判とその編集責任者である韋国清Wei Guoqingの総政治部主任辞任(後任は現主任の余秋星Yu Qiuli)により落着した。これ以後「軍内左派」あるいは毛沢東軍事思想を信奉する勢力の動きは急激に目立たなくなったが、決して衰退したのではなかったことは、今回の政変における彼らの重要な動向から明らかとなった。


①Wei Guoqing (Chinese: 韦国清; pinyin: Wéi Guóqīng; Zhuang: Veiz Gozcing; 2 September 1913 – 14 June 1989) was a Chinese government official, military officer and political commissar of Zhuang ethnicity.

②Deutschドイツ語→Yu Qiuli (chinesisch余秋里; * 15. November 1914 in Ji’an, Jiangxi; † 3. Februar 1999 in Peking) war ein chinesischer Generalleutnant der Volksbefreiungsarmee und Politiker der Kommunistischen Partei Chinas (KPCh), der unter anderem von 1975 bis 1982 Vize-Ministerpräsident sowie Mitglied des Politbüros der KPCh war.
 「軍内左派」の巻返しを処理した鄧小平は、中共第12回大会以後自己の軍事路線の定着化に着手した。兵力の大幅な削減による中国軍の全面的な改造である。そしてそれの進展するなかで、胡耀邦の中国軍部隊視察が行われた。
 公式文献でみるかぎり、胡耀邦の部隊視察は83年7月の蘭州部隊視察が初めてであり、次いで84年2月1日と85年2月18日に、それぞれ余秋里(総政治部主任)と張延発Zhang Yanfa(空軍指令員)、楊尚昆と余秋里を随員に中越国境を慰問し視察している。その間の84年4月7日には北京部隊司令員秦基偉の案内で内蒙古の中蒙国境、85年には副参謀長徐恵滋Xu Huiziの随行で新疆の中ソ国境・核実験基地および四川省西昌のロケット・衛星打ち上げ基地、86年元旦には海軍司令員劉華清をともなって西沙群島を訪問している。
 百万人の兵力削減が決定された85年5~6月の中共軍事委員会拡大会議に続いて、同年9月に開かれた中共全国代表会議およびその前後に開かれた中共12期四中全会と五中全会で、中央政治局・中央書記処・中央委員会その他の構成員の改選があった。中央政治局では10人が引退し、六人が補選された。中央委員会では64人が辞任し、56人の委員が補選された。候補委員を入れて、全体で約二割の中央委員会の構成員が入れ替わった。
 この人事異動で、中国軍の最長老である葉剣英をはじめとして徐向前、聶榮臻、韋国清、李得生、張延発の六人が中央政治局を引退した。長く軍籍にあった王震Wang Zhenと宋任窮Song Renqiongを入れれば八名にになる。その結果、中央政治局の軍人は改選前の12人(24パーセント)から57人(16パーセント)に減った。かつて軍籍のあった指導者を含めれば、中央政治局の過半数を占めて政策決定に大きな影響力を行使した中国軍の政治力は大きく後退した。
 これと対照的であったのは、中国共産主義者青年団の台頭であった。青年団出身の幹部は34人が中央委員会に進出し(中央委員21人、候補委員13人)、胡啓立Hu Qili、呉学謙Wu Xueqian、喬石Qiao Shiの三人が中央政治局委員に昇進した。
 こうして中国の最高党指導部から軍人が全面的に排除され、それに代わって中国共産主義青年団すなわち胡耀邦の勢力が進出した。「党が鉄砲を指揮する」という毛沢東の原則からいえば、党の最高政策決定機関から軍人の影響力を排除することは正常な事態であったが、こうした人事は中国軍の強い反発を生まないわけにはいかなかった。

 「軍人得失論」と老人前線戦士
 1986年春、中国軍による巻返しが始められた。その理論的武器は「軍人得失論」であり、巻返しを主導した組織は、中越国境の雲南省老山前線でベトナム軍部隊と死闘を繰り返している中国軍の戦士たちでつくられた「猫耳洞の声」楽団であった。巻返しを指導した中心的指導者は総政治部主任の余秋里であった。

 「軍人得失論」とは、軍人であること、軍隊に入ったことが得であったか。それとも損であったかという議論で、86年春某部隊がこの問題を討議したことに始まる。この討議は鄧小平政権の経済改革・対外開放政策が中国社会にもたらした「ブルジョア個人主義」が、中国軍にも深刻な影響を及ぼし、中国軍が士気の低下に悩んでいることを示している。この討議の報告を聞いた余秋里は、これを「精神文明建設」の具体化であると評価し、政治部関係の幹部会議で全軍で普遍的に展開させることを提議した。「精神文明建設」とは、同年9月29日に開かれた中共12期六中全会で採択された中共中央の「社会主義精神文明建設の指導方針に関する決議」を指しており、余秋里の演説は六中全会が開かれる直前の中共機関誌『紅旗』に発表された。
 胡耀邦辞任後の中国筋の情報によれば、同年7~8月に河北省の秦皇島にある避暑地北載河に、中共中央政治局常務委員・同委員、中央書記処書記その他が集まって、中共11期六中全会準備のための重要会議が開かれ、「ブルジョア個人主義」を広めたことで胡耀邦が批判された。鄧小平は87年秋に開催予定の中共第13回大会で引退することを前提に、胡耀邦に中央軍事委員会主席の地位を譲る考えであったが、この会議で軍部首脳が反対したという。「軍人得失論」の討議は北載河会議を念頭に余秋里により提唱されたのであった。
 猫耳洞とは、中越国境の峨々たる山岳地帯の岩山をくりぬいてつくられた洞窟である。雲南省老山地区では、1984年4~5月にかなり大規模な戦闘が行われて以来、この洞穴を拠点として死闘が耐えることなく続けられている。

 「猫耳洞の声」楽団が「ブルジョア的個人主義」を批判する役割を担って登場してきたことは、北載河会議および六中全会の直前の『人民日報』にその活動が報じられているところに現れているが、なによりも重要な動きは、中央軍事委員会拡大会議の開催中に同楽団が上京して北京の各大学で演奏会を開き、学生たちと交歓して、青春を犠牲にして戦っている同世代の青年たちの姿をみせたことである。それは民主化を要求して各地で盛り上がっている学生のデモに対して意識的に向けられており、さらに中央軍事委員会拡大会議における余秋里の政治工作報告を援護することを目的としていた。
 85年の中央軍事委員会拡大会議の主要課題が百万人の兵力削減による中国軍の全面的な改革であったのに対し、86年の会議のそれは政治工作であった。この会議で最も重要な報告である余秋里の政治工作報告には、「政治工作はわが軍の生命線であり、わが軍の戦闘力の源泉である」という毛沢東の言葉が蘇っていた。それが、「先進兵器こそ戦闘力の源泉である」とする鄧小平の軍事改革に向けられていることは、いうまでもない。


 2 鄧小平の軍事改革と栄光の将軍たち
 中国軍と全面通常戦争の思想
 「軍隊では昔から年功序列を重んじる習慣があり、鄧小平同志が掌握していれば一言ですむことが、われわれでは五言も必要だ。われわれの五言でもききめはあり、きかないわけではないが、彼なら一言だけですむ」。これは、香港の雑誌『百姓』の編集人との会見で 胡耀邦が語った言葉である。胡耀邦が中国軍に対して指導力のなかったこと、中国軍が胡耀邦を相手にしていなかったことがうかがわれる。前項で論じた胡耀邦の政治的台頭ないし中国軍に対する影響力の増大は、自らの力によるものではなく、その背後に存在する鄧小平の力によるものであったことがわかる。
 では何故中国軍は胡耀邦を支持しないのか。その理由は胡耀邦にあるのではなく、胡耀邦の背後に存在する鄧小平にある。では何故中国軍は鄧小平を支持しないのか。中国軍の近代化・正規化が緊急の課題であるという点で鄧小平と中国軍の意見は一致している。しかし中国の有限の財源・資源・後進的な経済・技術水準という制約の下で、どのような質の軍事力を整備するかという問題になると、両者の間で合意はえられていない。

 鄧小平が将来戦を限定戦争とみて最小限抑止力と戦略的限定奇襲攻撃に即応できる軍事力の構築を意図しているのに対し、中国軍の多くの指導者は将来戦を依然として中国の広大な国土で戦われる大規模な在来型の戦争とみて、全軍種・兵種の間でバランスのとれた一定規模の常備軍および戦時にそれを支えることのできる人的・物的動員体制の整備を主張するが、中国の現実的条件からみて毛沢東の人民戦争戦略・戦術を併用した戦争(現代条件下の人民戦争)を構想している。それは総参謀長楊得志の次の言葉のなかによく表されている。
 「現代の戦争では、敵は大量の技術装備を集中して使用し、後方への依存は増大し、戦争はわが国の広大な空間で遂行されるので、彼らは必然的に多くの克服できない弱点を持つことになる。これはわれわれが人民戦争を展開するのに有利な条件をつくりだしている。われわれは人民戦争の戦略・戦術思想を堅持してはじめて、わが国の社会主義制度の優越、国土が大きく人口が多いこと、正義の戦争の優勢を十分に発揮でき、各種の戦闘方式を相互に配合した全体の威力を十分に発揮でき、敵の兵器・装備の優勢を最大限に削減して、敵の弱点を利用し拡大し、敵とわが方の力の対比を徐々に変え、最後に戦争の勝利を勝ち取ることができる」(1983年12月26日の毛沢東生誕90年記念論文)
 鄧小平が1975年から大幅な兵力の削減による中国軍の全面的な改革(軍隊の改革)を意図しながら、それが進捗しなかった背景には、伝統的な戦争観・軍隊観に固執する中国軍の将軍たちの根強い反対・抵抗があった。

 鄧小平の軍事改革とマクナマラ
 胡耀邦が中共中央総書記を辞任した1987年1月16日付け『解放軍報』にマクナマラRobert Strange McNamaraの軍事改革をきわめて高く評価した「マクナマラの軍事改革に対する歴史的条件」という論文が掲載された。かつて中国はマクナマラの柔軟反応戦略を「火遊び」「望みのない戦略」と批判していたことを考えるならば、そのマクナマラを肯定的に評価したことはそれだけでも注目されるが、さらに重要な点は、この論文が現在鄧小平政権の進めている中国軍の改革の内容をマクナマラ*の軍事改革を借りて説明していること、とりわけ胡耀邦の総書記辞任とは関係なく軍事改革が続行されることを確認したと考えられることである。しかしながら論文は他方で、鄧小平の軍事改革が旧体制を維持しようとする軍事指導者たちの反対・抵抗にあって必ずしも円滑に進展していないことを示唆しているように思われる。そこで次にその概要を紹介する。

*マクナマラは1960年代前半期米国ケネディ政権の国防長官で、米国国防総省をはじめとする米国軍の全面的な改革を断行し、米国のベトナム戦争への介入を理論付けた柔軟反応戦略を提起した。
 ソ連の大陸間弾道弾兵器の保有によって、アイゼンハワー政権の大量報復戦略が破綻し、それに代わる戦略方針を明確にできなかったことから、米国の国防建設は統一計画を欠き、陸・海・空軍はそれぞれ自己の力の増強を意図して、予算の獲得に狂奔した。その結果、米国の軍事力は協調的な発展を欠き、いたずらに軍事費を浪費した。こうした事態をもたらした最も重要な要因は、米国の軍事指導者たちの保守的な思想にあった。彼らは多くの実戦経験をもっていたが、改革の意欲を欠くばかりか、新しい技術・方法の採用を受け入れなかった。たとえば当時すでに民間の企業ですら電子計算機を使用していたにもかかわらず、これらの将軍たちはシステム・アナリシスを荒唐無稽と考えた。こうして60年代初頭には、米国は対ソ軍事力・技術力において劣勢の立場に追込まれた。この窮状から脱出する唯一の方法は徹底した改革であり、改革を推進するには開拓者精神と新しい知識を持ち、科学的管理を理解する若い人間が必要であった。これを成し遂げたのがマクナマラであった。
 マクナマラは新進気鋭の若い専門家を抜擢して、強力な知識集団を形成し、システム・アナリシスによる科学的方法により、軍事改革の青写真をつくった。タテの面では、将来の国際環境についての予測に基づき、国家戦略を指針として軍事戦略を制定し、ついで軍事作戦戦略・軍事協調戦略を制定し、編成改革計画・訓練改革計画・兵器システム研究制作改革計画を進める。ヨコの面では、軍種面の敷居を取り除き、将来戦および平時における管理の必要に基づき、国防システムを戦略報復部隊・国土防空および対ミサイル部隊・一般任務部隊・航空運輸および海上輸送部隊・後進部隊・国民警衛隊に分け、さらに研究と発展・全般支援(訓練・後勤・基本建設などを含む)・退役金・民間防衛・組織と管理・軍人の俸給補助および人員の削減など11の系統に区分して、国防システム優先の原則で各系統を評価した。
 こうした複雑で慎重な論証を経てケネディJohn Fitzgerald Kennedy大統領に提出されたのが、柔軟反応戦略である。この戦略の核心は、多様化された軍事力を構築して、核部隊を盾とし、通常部隊を剣として、いつ、どのような地点でも適切な兵器と部隊を使用して、どのような規模・様式の戦争にも打ち勝つこと、ソ連の先制攻撃をうけても、ソ連の20~25パーセントの人口および50パーセントの工業を破壊できる第二撃能力を構築してソ連に核戦争を発動させないことーである。
 鄧小平政権は中国の有限の資源を効率的に配分して、最小限核抑止力と戦略的限定奇襲攻撃に即応できる軍事力の構築を目指しているが、ヒッチの費用対効果の方法に依拠して遂行されたマクナマラの軍事改革は、まさにその手本である。しかしながらこの論文は同時に鄧小平政権が進めている軍事改革に反対ないし消極的な軍人を批判することを意図している。文中で批判されている「多くの実戦経験をもっているが、改革の意欲を欠くばかりか、新しい技術・方法の採用を受け入れなかった」「保守的な米軍の将軍たち」とは、まさに鄧小平の軍事改革を受け入れられない中国軍の将軍たちを指している。「マクナマラの改革がなかったならば、米軍はおそらくもっと長い間旧秩序のなかを徘徊していたにちがいない」と論文はのべているが、それは鄧小平の心情の吐露でもあろう。

*Русскийロシア語→XIII съезд Коммунистической партии Китая проходил с 25 октября по 1 ноября 1987 года в Пекине.13th National Congress of the Chinese Communist Party中国共产党第十三次全国代表大会,簡稱中共十三大,於1987年10月25日至11月1日在北京召開。
 1987年10月25日から11月1日まで開催された中共第13回大会およびそれに続いて翌11月2日開かれた中共13期一中全会で、鄧小平は「栄光の将軍」を代表する何人かの軍事指導者を党の最高指導部から排除し、自己の軍事改革を直接間接に妨げてきた重要な障害を除去するのに成功した。
 鄧小平と楊尚昆を除いて、中央軍事委員会副主席の聶榮臻と徐向前、同委員会の四人の副秘書長である総参謀長の楊得志、総政治部主任の余秋里、総後勤部部長の洪学智、国防部長の張愛萍が中央委員会委員を引退し、さらに楊得志が中央政治局委員、余秋里が中央政治局委員と中央書記処書記を辞任した。この人事は、百万の兵力削減による中国軍の改革の基本的枠組みができあがったという認識の下に、今後の新しい最高軍事指導部を形成する目的から実施されたが、そのためには最長老の聶榮臻(88歳)と徐向前(86歳)、鄧小平政権の軍事改革を必ずしも支持しない楊得志、胡耀邦追い落としの中心人物である余秋里を最高軍事指導部から排除しなければならなかったのである。胡耀邦が中央政治局常務委員会委員を引退したものの中央政治局委員の地位を保持したことと余秋里の凋落は、今回の人事を象徴している。
 鄧小平は、一方では中央政治局常務委員会委員・中央顧問委員会委員を引退したばかりか、中央委員会委員に立候補しないことによって老齢幹部を引退させ、他方では「中央軍事委員会の構成員は中央委員会が決定し、中央軍事委員会主席は中央政治局常務委員会の委員のなかから選出される」という党規約の規定から傍点部分を削除し、彼が中央委員でなくても中央軍事委員会主席に留まれる法的裏付けを整えることによって、この人事を、実現した。中央政治局常務委員・中央顧問委員会委員を引退する中央軍事委員会主席には留任することを、鄧小平は同大会以前に機会あるたびにほのめかしてきたから、今回の措置は彼が不退転の決意で断行したといえよう。
 それゆえ今回の人事は鄧小平の強力な指導力を示したといえるが、同時に力で党規約を改正してまで鄧小平が中央軍事委員会主席に留まらなければならない事情があることを示唆している。鄧小平は「自分は中央軍事委員会主席を辞めたいのだが周りが辞めさせてくれない」としばしば説明してきた。鄧小平には辞めたくても辞められない事情があるのである。それは何か。それは鄧小平が未だに中国軍を掌握していないことであり、なによりも中共中央軍事委員会主席の地位を継ぐ後継者がいないことである。中共11期三中全会以来彼が自己の後継者として育ててきた胡耀邦は、87年1月中国軍の保守的な人事によって引きずり降ろされてしまった。
 13回党大会で中央総書記に就任した趙紫陽は、彼のために新設された中央軍事委員会第一副主席に就任し、中国軍に指導力を及ぼしてゆくことになるが、胡耀邦以上に中国軍とは関係のない指導者である。
 しかし彼は百万の兵力削減による中国軍の全面的な改革を決定した1986年の中央軍事委員会拡大会議に、国務院総理でありながら出席していない。彼が中国軍との関わりを避けたのか、それとも関係を持つことができなかったのかについてはわからない。趙紫陽が中国軍と積極的に関わるようになったのは、公式文献でみるかぎり胡耀邦の立場が微妙となり始めた1986年の夏からである。同年8月30日趙は中国海軍航空隊により青島で実施された中国国産の水上飛行機の展示飛行を視察している。ついで同年11月彼は副首相の李鵬をともなって広西壮族チワン族Zhuang people自治区の中越国境部隊を視察した。これまで趙紫陽が中国軍部隊を視察することはほとんどなかったから、この視察は彼が中国軍に影響力を及ぼそうとする意思を示すものとして注目される。

 胡耀邦が総書記時代に中央軍事委員会の構成員になれなかったことと比べれば、趙紫陽が鄧小平の後押しがあったとはいえ同委員会の第一副主席という重要な地位に就いたことは、鄧小平政権の軍事改革の将来にとってきわめて重要なできごとであるといわなければならない。
 鄧小平が中央軍事委員会主席に留任した理由は、趙紫陽を中国軍の統率者として育成してゆくためであるが、鄧小平、趙紫陽の新しい軍事指導体制を形成する上で、これまで中国軍における鄧小平の代行者であった楊尚昆が80歳の高齢にもかかわらず中央政治局委員・中央委員に留任したことには、大きな意味がある。彼は鄧小平とともに趙紫陽が中国軍の統率者に成長してゆく上で重要な役割を果たすであろう。また鄧小平とつながりが深い北京軍区司令員の秦基偉Qin Jiweiが中央政治局委員に昇格したことも見落としてはならない人事である。おそらく彼は中央軍事委員会副主席となり、これまで楊尚昆が果たしてきた役割を担って趙紫陽を補佐すると考えられる。

*Qin Jiwei (simplified Chinese: 秦基伟친지웨이; traditional Chinese: 秦基偉; pinyin: Qín Jīwěi; 16 November 1914 – 2 February 1997) was a general of the People's Republic of China, Minister of National Defense and a member of the Chinese Communist Party Politburo.
 中共第13回大会で鄧小平政権は当面の最大の課題の一つである最高軍事指導部の人事問題で大きく前進したといえるが、鄧小平政権にとって次の課題は、国防部長、総参謀長、総政治部主任、総勤部長などの人事を決定することである。おそらく鄧小平は軍事改革の過程で登場してきた中堅の軍事指導者(170ページであげた)を抜擢する方針であると考えられる。問題は現役を退かされる中央顧問委員会委員となった「栄光の将軍」たちが、今後いつ、どのような形で巻き返してくるかである。鄧小平政権と「栄光の将軍」との政治的確執はまだ終わってはいない。遠からず開かれる中央軍事委員会会議は、中国軍の今後を占う重要な会議となるであろう。
 あとがき
 本書は夏休みの二ヶ月を利用して一気に書き上げたが、中国軍の歴史、軍事力の実態と戦略、世界主要国の軍事力との比較、軍事制度と指導者、鄧小平政権の軍事改革などを270枚に収めることは、かなり難しい仕事であった。中国軍についての必要な知識に言及したつもりであるが、論じたりなかった点については、紙数の制約ということで、御容赦願いたい。
 著者はこれまでに、1950年代の彭徳懐の近代化軍事路線から毛沢東の核兵器と人民戦争の二本足路線への転換の課程を論じた『中国 超大国への道China's path to becoming a superpower』、鄧小平の軍事改革の背景と問題点を論じた『中国の国防と現代化China's national defense and modernization』、それとの関連の中ソの軍事関係および米中軍事協力を論じた『中国の国防とソ連・米国China's national defense, the Soviet Union, and the United States』を出版している(いずれも勁草書房)。参照していただければ幸いである。また鄧小平の百万の兵員削減による中国軍の再編とそれをめぐる問題については、近著を予定している。
 本書では、前田寿夫、伊達宗義(若松重吾)、石田隼人、山下竜三、川島弘三その他の諸氏の著書・論文を参考にさせていただいた。注記しなければならないが、新書という性格から注記されていない。御了承いただきたい。
 つぎに私事であるが、本書を、著者の指導教授であり、この3月に慶応義塾大学法学部教授を定年退職された石川忠雄先生に献呈することを御許し願いたい。著者が石川先生の御指導で現代中国の研究を始めたのは1960年4月であるから、まもなく29年になる。著者が現代中国の研究者としてどうやら一人前に成長できたのは、ひとえに先生の厳しいが暖かい御指導によるものである。これまでの御指導に対し感謝します。また先生は法学部を退職されても、慶応義塾大学塾長として引続き活躍されている。先生のますますの御発展を祈念します。
 最後に、本書は東海大学教授の辻康吾、岩波書店新書編集部の林建朗の両氏の御尽力により出版できた。両氏に感謝します。
                         1987年11月2日   平松茂雄



























 































 

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