日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『Taiwan台湾Тайвань』ーHumanity, history, mentality人間・歴史・心性Человечество, история, менталитетーDai Guohui戴國煇Дай Гохуан《Republic of China中華民国Кита́йская Респу́блика》중화민국 국가三民主义Drei Prinzipien des Volkes(CANADA)2024/01/14⑪


 ①当時、国府の政策決定の中枢の人間で、台湾に農地を所有しているものは皆無だった。地主は全部本省人だったので、国府にとって農地改革とは、いわば自分のふところを痛めないで他人のふところをスマートに利用できた。一方的なもうけ仕事だった。それへの本省人地主階級の不満が後に台湾独立運動のエネルギー源の一部となったことは先にもふれた。
 ②上からの農地改革の遂行は、必ず強力な権力がバックにいなければ成功しない。国府中央権力の台湾での再編と一元化は、軍事面だけではなく農地改革を初めとする民主面でも機能したと見るべきだろう(念のため書き添えるが、私はここで国府中央の存在と権力の行使を全面的に肯定し、合理化する文脈で解釈しているのではない)。
 ③台湾人地主は、2・28事件での挫折と、日本に範をとった農地改革の実施であるとの宣伝で、農地改革を心ならずも納得させられた。彼らは不満をもらすことはあっても公的には反対を唱えることが少なかった。無抵抗で実施できたのは、国府にとってはラッキーだった。
 ④国府当局は、台湾農民の支持を獲得しなければならない緊迫した状況にあった。彼らは、官民の大量流入に伴う食糧の確保と大陸敗退の教訓を活かす重要課題を、いやおうなく持たされたからである。
 農民を味方に取り込み、農村の安定を保持することを通じて、中共の浸透への防波堤となる農地改革の実施が急がれた。この点で、国府とアメリカは利害と意見の一致を見た。アメリカは日本の農地改革にも関わった。著名な白系ロシア系アメリカ人のウォルフ・ラデジンスキーWolf Ladejinskyを台湾に派遣した。また農地改革の実施に必要な行政費用を援助の名目で提供して支援した。

*Wolf Isaac Ladejinskyウォルフ・イサーク・ラデジンスキー (March 15, 1899 – July 3, 1975)沃夫·以撒·拉德金斯基Ладежінський Вольф Ісаакович、生於俄羅斯帝國卡捷琳諾皮爾Катеринопіль(今烏克蘭卡捷琳諾皮爾),漢名雷正琪 was an American Georgist agricultural economist and researcher, serving first in the United States Department of Agriculture, then the Ford Foundation and later the World Bank美國農業經濟學家,支持喬治主義。
 農地改革の一応の成功は、その後の経済の安定と成長に大いに貢献する。国府中央の台湾移転時の財政逼迫を助けたのは、専売収入と林務局経由の林産物販売に伴う収入だった。専売収入の重要性は後藤新平の時代以来、日本による植民地統治の全期間を通じて確認できることである。事実、それを光復後の財政政策にもつないで活用しようとしたのが、陳儀の政策だった。
 「輸出大国」化する以前、70年代前半までの台湾財政に占める専売収入のウェイトは、なお軽視できないものがあった。林産物の収入の確保と利用が可能だったのは、台湾の林野が植民地化に伴ってほとんど国有化されていて、光復後はそれを国有財産として接収確保できたからであった。国府当局にとっては、活用可能の莫大な財源がすでに存在していたのが大きい。
 また、初期外貨収入の面での中心は台湾糖業だった。台湾人だけの会社経営を許さなかった日本の植民地政策で、糖業関係企業には少数の台湾人株主があったものの、100%近くが日本人企業といってもよかった。そのため、接収業は自動的に国・公営企業となった。経営能率はさておき、終戦直後の世界糖価の好況は、国府の50年代の外貨収入に大いに貢献したことは統計が示すところだ。 

*Españolスペイン語→Yasuji Okamura (岡村 寧次오카무라 야스지Okamura YasujiЯсудзи Окамура, 15 de mayo de 1884東京都出身(B級戦犯容疑者)大日本帝国陸軍大将 – 2 de septiembre de 1966) fue un general del Ejército Imperial Japonés y comandante en jefe del Ejército Expedicionario de China desde noviembre de 1944 hasta el final de la Segunda Guerra Mundial侵华日军战犯,支那派遣军总司令官、历任华北方面军司令官,第11军军长等,官至勋一等功一级陆军大将。
 2 元日本軍人の国府への協力
 元日本軍人の回想
 植民地から解放された後の国作りの状況は、台湾と一般の開発途上国とではかなり異なる。多くの場合、植民地の遺産をめぐって、元の被植民者が民族的・階級的利害と思惑をからめながら、ヘゲモニーを奪いあう。このようにして試行錯誤を繰り返しながら、国作りの道を歩むのが通常の形だ。
 植民地支配から自由になった後の台湾は特殊だった。元の国への回帰と同一化が当時意識された主な課題だった。本来の被植民者である本省人は、そもそも始めから解放後の建設主体になろうとする明確な問題意識を持っていなかった。自分の力で獲得した解放でなかったことからくる弱さの現れでもあろうか。
 植民地支配からの解放後、事後処理の第一段階として、国府の非主流派の陳儀一統による接収が行なわれた。これが2・28事件で悲劇的な挫折をこうむったことは前に述べた。その傷がいえきらないうちに、二年後に第二段階が始まった。国府中央の台湾移転に際し、国府関係者は植民地解放後の事後処理を第一義的問題としてはとらえず、むしろ大陸で敗北をきっした自己の政権の崩壊をいかに食い止めるかに力点を置いた。本省人と国府関係者との間のこの意識上のギャップは大きかった。確認しておきたいのは、光復以来、国府関係者が台湾での植民地解放後の事後処理のヘゲモニーを握り、本省人はあくまで脇役でしかなかったということである。
 われわれは前の章で、蔣介石父子の整党と整軍について述べたが、整軍の過程で旧日本軍人の力をかりたという事実は記録に値する。その一人小笠原清Kiyoshi Ogasawara・元「支那派遣軍第一参謀(中佐)は、後日談として、『文藝春秋』1971年8月号に「蔣介石を救った日本将校団Japanese officers who saved Chiang Kai-shek」という一文を残している。
 小笠原によると、1949年11月、日本人軍事顧問団(白団)のメンバーが日本を飛び立ち中国大陸の重慶にわたり、下野中の蔣介石に引見された。国府中央の台湾移転にともない、日本人軍事顧問団が最初に台湾に渡ったのは翌50年の早春だった。彼らは台北近郊の円山公園近くに作られた円山訓練所で、大陸から台湾に敗退した国府軍の指揮官クラスの百余名を再訓練して自信と信念をうえつけ、再起の力をもたせて再出発させようと試みた。

*白團White Group:實踐學社,又稱為白團,是在1949年於日本東京由前大日本帝國陸軍軍人成立的軍事顧問組織,他們接受由蔣中正領導的中華民國政府聘僱,核心任務是前往臺灣幫助中華民國國軍抵抗中國人民解放軍。白團在臺灣戰後時期與1951年成立的美軍顧問團,及1963年成立的德國軍事顧問團,並行構成中華民國在臺灣時代的軍事外援主力La Practice Society, également connue sous le nom de White Group, est une organisation consultative militaire créée en 1949 à Tokyo, au Japon, par d'anciens soldats de l'armée impériale japonaise. Ils ont été embauchés par le gouvernement de la République de Chine dirigé par Chiang Kai-shek, et leurs la mission principale était d'aller à Taiwan pour aider les Chinois L'Armée nationaliste de la République de Chine a résisté à l'Armée populaire de libération de Chine.
 白団は第二期の仕事として、新たに部隊訓練と実兵訓練の業務を加え、その人数も51年の夏ころまでに83名の大所帯になった。北投の手前に指揮官編成の場として石牌訓練所が新設され、これと別に、台北の南の新竹県湖口訓練所では旧日本軍の兵科学校(自衛隊の富士学校に類似している)に該当する模範演習用師団が一つ作られた。ここでは中級実兵指揮官を集め、実兵指揮の訓練とともに、各兵科の典範令を作成し、部隊編成の基礎を確立しようとした。
 52年夏からは第三期に入った。湖口訓練所を閉鎖して石牌に集中し、旧日本の陸軍大学、海軍大学に該当する長期高級班を開き、軍司令官、師団長または兵団参謀長クラスを対象として教育を行なった。また短期中級班を開き、兵団の参謀や連隊長クラスを対象として作戦能力の向上を目指した。これが53年末ごろまで続いた。なお、この年、白団の後方部隊として、秘密機関の富士倶楽部が創設された。これは白団の第三期以後の活動に対応して戦史、戦略、戦術についての研究と資料の収集を主な任務とした。
 日華平和条約発効後も白団の活動はさらに続き、本格的な高級指揮官の訓練を行ない、64年までで大体完了した。一部はなおも残務整理と国府軍教官のアドバイザーとして、69年まで台湾にとどまった。

*蔣介石と旧日本軍の関係Relationship between Chiang Kai-shek and the Imperial Japanese Army:1907年(明治40年)日本に留学(東京振武学校)する。1909年、大日本帝国陸軍に勤務。高田の陸軍十三師団の野砲兵第19連隊の士官候補生/Tokyo Shinbu Gakko, a preparatory school for the Imperial Japanese Army Academy intended for Chinese students, Finishing his military schooling at Tokyo Shinbu Gakko, Chiang served in the Imperial Japanese Army from 1909 to 1911/1908年春被選送日本留學,振武學堂是1903年由日本陸軍參謀本部所創立之日本國立軍人養成學校,是為預計進入陸軍士官學校,或陸軍戶山學校就讀之清國留學生、1910年冬振武學校結業後、蔣在高田第13師團野炮兵第19聯隊入伍,據師團長長岡外史在回憶錄中稱。
 日華間の「見えない力」
 小笠原の回顧談から、われわれは数々の示唆を受けることができる。蔣介石は軍の再建にあたり、アメリカから兵器をはじめとする軍事援助を引きだしながら、アメリカ留学OBの孫立人将軍に、下士官と一般兵を対象としたアメリカ流の訓練を一部まかせていた。しかし、白団の活動から見る限り、再建の真の内実は日本方式であり、蔣が本当に信をおいたのが日本の軍事顧問団のほうであったことは明らかである。
 『中国白書』の苦い経験から、蔣介石がアメリカへののめりこみを危険と見なして自戒していたということは十分に考えられる。もちろん、蔣は日本陸軍士官学校留学以来のつきあいから、日本軍当局に人脈を持っていた。蔣は当時の旧日本軍の残存勢力も日本政府も、彼を裏切ることはできないと読んでいた。
 

   好都合なことに日本の元軍人を含む保守系のリーダー層は、終戦当時の「以徳報怨」(怨みに報いるに徳を以てせよUse virtue to repay grudges)の蔣介石発言に恩義を感じていた。また蔣は白団のコミットメントに対しては、東京にあった大使館をパイプに給料を含む報酬を支払い礼を尽した。また、白団の背後にいて、終戦直後肩身が狭く、生活に困窮していた岡村寧次Yasuji Okamura大将をはじめとする関係者の生活を物的な側面で支援した。こうして、窮地にあった元日本軍人の上層部が蔣介石への恩義をよりいっそう強く感じ、それへの報恩に意気を感じたのは、小笠原の文章の行間から十二分に読み取れる。
①(1945年8月14日)昭和天皇はポツダム宣言を受諾し降伏するという意向を徹底させるため戦地に皇族を派遣することとし、陸軍大将の朝香宮鳩彦王、陸軍少将の閑院宮春仁王、陸軍中佐の竹田宮恒徳王の3人をしてその任にあたらせたEmperor Showa decided to dispatch members of the imperial family to the battlefield in order to ensure that they accepted the Potsdam Declaration and surrendered, and ordered army general Prince Yasuhiko Asaka, army major general Prince Kan'in Haruhito, and army lieutenant colonel Prince Tsuneyoshi Takeda. I assigned three people to the task・・・派遣皇族の拘留等も考慮されて岡村のもとへ最も序列の高い陸軍大将だった朝香宮が派遣されたPrince Asaka, the highest-ranking army general, was dispatched to Okamura in consideration of the detention of the sent imperial family. 17日、総司令部のある南京に到着した朝香宮は岡村に逢うなり「(抑留の虞があるというが)閣下は私を抑留されますか」と言ったというOn the 17th, Prince Asaka arrived in Nanjing, where the general headquarters was located, and upon meeting Okamura, he reportedly said, "(There is a risk of being interned), Your Excellency, will you detain me?''

②蒋介石无罪释放冈村宁次引民愤,毛主席连夜发声明:抓回来!Chiang Kai-shek's acquittal of Okamura Yasuji aroused public outrage, and Chairman Mao issued a statement overnight: Catch him!蔣介石による岡村寧次の免罪(釈放)は民衆の憤激を巻き起こた。そして毛主席は即座に声明を発した:彼を捕えよ!⇔After the war, Okamura was found not guilty of any war crimes in January 1949 by the Shanghai War Crimes Tribunal1949年1月26日、中华民国政府军事法庭在上海宣布其“无罪”释放。
 こうして、反共のイデオロギー的基盤を共有し、日本的義理人情で増強された蔣介石グループと旧日本軍人グループの両者の関係は想像以上に堅固なものとなった。それが後日の日華関係の大枠を作り、それを支える主な基礎となった。白団が台湾へ入ってから以後の日華関係の展開を冷静に見つめるとき、白団を核とする日本の元軍人や保守系の政界・財界の指導者層が「見えない力」を発揮しながら、やがて台湾ロビーの一大勢力を形成していったのはよく知られているところであろう。
 日華平和条約の交渉に、白団を核とした「見えない力」が影響したかどうか明らかではない。だが、サンフランシスコ平和条約の発効で、日本が独立した後、白団と富士倶楽部に集まった人物たちが傍観していたとはとうてい考えられない。特に、岸政権の発足(1957年2月)後、自民党内に台湾ロビーが形成され、アメリカの「傘」を巧みに利用して隠然たる政治力を行使した軌跡は、今でも歴然たるものがある。彼らは50年代のなかばからだんだんと姿を表し、日本経済協力事業の初期の主なパイプ役となった。
 このように、蔣介石は、「整軍」を目的として旧日本軍の力を借りたのだが、それが状況の進展に伴って意図せざる政治的・経済的効果を生み出し、日華関係を堅固なものにしていった。そして、蔣が整軍の過程で実力なき将軍を淘汰していったことも忘れてはならない。円山訓練所所長兼連絡責任者として若手の彭孟缉Peng Meng-Chiを起用してにらみをきかせたことはその一環であった。

*Deutschドイツ語→Peng Meng-Chi彭孟緝 (12. September 1908 – 19. Dezember 1997), Höflichkeitsname Mingxi, wurde in Wuchang, Provinz Hubei, geboren und war ein erstklassiger General der Armee der Republik China臺灣防衛司令、臺灣警備司令、臺灣保安司令、陸軍總司令、參謀總長、駐泰國大使、駐日本大使、總統府戰略顧問。在二二八事件中造成大量高雄民眾傷亡,因而被稱「高雄屠夫」。

 呉国禎と孫立人
 一方、1953年1月20日、アイゼンハワーがアメリカ大統領に、翌日ダレスが国防長官に就任した。2月2日、アイゼンハワーは一般教書で台湾中立化の解除を発表した。Mutual Defense Treaty between the United States and the Republic of Korea米韓相互防衛条約대한민국과 미합중국간의 상호방위조약の調印(1953年10月)、日米相互防衛援助協定Japan-U.S. Mutual Defense Assistance Agreementの調印(1954年3月)に続いて、1954年12月2日に米華相互防衛条約の調印がワシントンで行なわれた。
*Русскийロシア語→Китайско-американский договор о взаимной обороне《中美共同防禦條約米華相互防衛条約 (англ. Sino-American Mutual Defense Treaty, официальное название англ. Mutual Defense Treaty between the United States of America and the Republic of China) 《中華民國與美利堅合眾國間共同防禦條約Traité de coopération mutuelle et de sécurité entre les États-Unis et Taïwan미국-중화민국 상호방위조약アメリカ合衆国と中華民国との間の相互防衛条約— двусторонний договор, заключённый между Соединёнными Штатами Америки и Китайской Республикой в декабре 1954 г. в условиях эскалации Первого кризиса в Тайваньском проливе. Он вступил в силу в марте 1955 г. и в существенной степени снизил угрозу безопасности Тайваня.
 ダレスらアメリカ当局が願ったのは、蔣介石一統による台湾の継続支配ではなく、台湾における親米派の台湾と、アメリカン・デモクラシーの台湾での実践とそれによる台湾の要塞化にあった。そのさい、呉国禎、孫立人など親米派の政治家と将軍たちは、アメリカにとって貴重な存在だった。
 蔣介石は国府中央の台湾移転以来、陳誠と彭孟緝を右の車輪に、呉国禎と孫立人を左の車輪に仕立てて再建築を実施していたが、蔣介石および特務機構の責任者の蔣経国と、これらの将軍たちの間に矛盾が発生し始めていた。
 呉の自ら語るところによると、彼は1949年12月から省政府首席の任にあったが、蔣経国と衝突し、暗殺されかかったのを契機に53年3月に省主席を辞任、5月24日アメリカに亡命した。また、孫立人は、部下に共産党のスパイがいてクーデター計画が未然に摘発されたとの理由で、55年8月20日総統府参軍長を解任された。以後、88年春まで実に30年以上にわたって台中で軟禁され、行動の自由が極度に制限されてきた。だが、クーデター計画などまったくのでっち上げであったことは今では常識になっている。

*台北遷都後は、蔣介石らから猜疑され失脚に追い込まれた。孫立人がようやく軟禁を解かれたのは、32年余り経過した1988年(民国77年)3月22日のことであるSun remained under house arrest for more than three decades: he was not released until March 20, 1988, shortly after the death of Chiang Ching-kuo. He died in his Taichung home at the age of 89 (91 according to the Chinese calendar)孙被判处“长期拘禁”在臺中市向上路寓所。1988年1月13日蔣經國逝世後,同年5月接任總統的李登輝,下令解除了孫長達33年的軟禁,恢復其自由
 こうした経過のうちに蔣介石グループは反対勢力になる可能性があると見たかつての側近を駆逐し、アメリカの期待は消失させられることとなった。この間の真相が明らかにされるのにはもう少し時間が必要のようだ。ともあれ、台湾移転以来の蔣介石父子一家への一元的権力の統合と集中をめぐる熾烈なドラマは、呉・孫事件の落着をもって、暫時幕を閉じた。こうして蔣家を核とする一党専制システムがより一層固定化されたのである。

 経済発展の台湾的特殊性
 農復会と美援会
 台湾に関する実証的な歴史研究は、政治的タブーにより大幅な立ち遅れを見せてきた。国府・蔣政権への一般的なマイナス・イメージの影響下で、台湾政治を、蔣介石・蔣経国両総統を頂点としたピラミッド型の一枚岩支配構造とアプリオリにとらえる見方が優勢であった。また、性急な論難が先行しがちで、冷静に、国府・蔣政権の実態と、台湾での戦後40年の歴史的発展のなかで蔣父子がどのような役割を果たし、またどのような歴史的位置を占めるのかを、社会科学的に問うことはあまりにも少なかった。

 ここでは、国府中央の台湾移転にともなって付加された経済発展の台湾的特殊性の解明を行なう。改めて断わっておきたいが、私は国府台湾の体制のすべてを肯定するつもりはない。私が試みたいのは、国府中央の台湾移転後の経済的発展にまつわる特殊性とその過程と構造を冷静に、客観的に探究し、解釈を行なうことである。まず、国府中央の台湾移転が何をもたらしたのかを整理してみよう。
 60万人の大軍を含む200万人の外省人の台湾への移転は、一般にはマイナス・イメージでとらえることが多かった。60万の大軍は、台湾民衆の目には敗残兵としか映らなかった。だが、この大軍がなんと朝鮮戦争の勃発を契機に、アメリカの軍事・経済援助を呼び込む誘い水として機能するようになる。これが歴史のいたずらでなくて、何であろうか。
 50年代から60年代前半にわたって、アメリカの援助の受け皿として大いに活躍した当時の中国農村復興委員会(農復会またはJCRR)と美(米)援運用委員会(美援会)が、伝統的ネポティズム(能力を無視した縁故登用)を排除し、高給をはずんだ上の能力人事に徹したことは有名である。そして、アメリカ側のきびしい要請と内政干渉まがいのチェックがあったこともよく知られている。
①Deutschドイツ語→Chinesisch-amerikanische Gemeinsame Kommission für den Wiederaufbau des ländlichen Raums (JCRR; Chinesisch: 中國農村復興聯合委員會Sino-American Joint Commission on Rural Reconstruction; Pinyin中国农村复兴联合委员会: Zhōngguó Nóngcūn Fùxīng Liánhé Wěiyuánhuì) ist eine 1948 auf dem chinesischen Festland gegründete Kommission②The Council for Economic Planning and Development行政院經濟建設委員會 (CEPD; Chinese: 經濟建設委員會; pinyin: Jīngjì Jiànshè Wěiyuánhuì; Pe̍h-ōe-jī: Keng-chè Kiàn-siat Úi-oân-hōe) was a government agency responsible for drafting overall plans for national economic development in Taiwan (ROC)美援運用委員会(美援会)を前身とする。
 そもそも農業と工業を対象としたアメリカの援助を活用して、経済計画の運営にあたったのは、例外なく欧米留学のOBだった。彼らもまた仕事の方便の一つとして、米側の「意向」と称しては、たくみにアメリカを引き出して口実に使った。これは軍、党、政、なかんずく特務機構を頭とする保守勢力のマイナス的関与を切り抜けるために使われた。

 経済政策の変遷
 1949年から53年にかけては、農地改革を柱に、農村の安定と農業の再建を計り、農業近代化の基礎をまず固めた。その後は、食糧の確保を基調に、商品作物栽培の普及と輸出による外貨獲得で工業化政策を支援した。
 農地改革と農業生産が軌道にのって、政治・経済・社会面においても効を奏し始めたのは、1953年頃からだった。この頃、アメリカの援助を強力なテコにする経済四ヵ年計画が相ついで実施に移された。第一次が53-56年、第二次が57-60年、第三次が61-64年と続いた。ちょうど第四次四ヵ年計画に入ったところの65年6月末日を期限に、50年以来、台湾経済を強力に支えてきたアメリカの経済援助が打ち切られることとなった。援助打ち切りで不足する一部を補ったのは日本政府からの一億五千万ドルの円借款供与だった。同協定は、アメリカの援助打ち切りの予告中だった65年4月26日に調印された。これ以降、日本と台湾経済の関係はより一層密接となって行った。
 1964年度に至って、工業部門の生産高が初めて農業部門を追い越すのを予見した上でのことであろうか。当局は「今後十年間に、経済構造を農業主体から工業主体へと積極的に転換、移行させる」というスローガンを掲げた。このようにして、第四次経済四ヵ年計画と並行して「十ヵ年長期経済発展計画」が実施に移され、より積極的な工業化の道を邁進するのだった。
 1965年3月5日、50年代以来、農地改革と経済計画の総元締であった副総統の陳誠が肝臓癌で死去した。蔣介石は呉国禎や孫立人を排除したように、陳誠の実権をも奪いつつあったため、陳は不遇であった。彼はアメリカの援助に与えられた台湾経済の時代を代表する人物であったが、その死は、くしくも援助打ち切りの直前にあって、旧い時代の幕引きと新しい時代の幕開けを予感させるものであった。
 蔣介石は陳誠から軍事・政治の実権を取り上げたばかりではなかった。中央銀行を核とする金融界にも陳の介入を許さなかった。軍、特務機関と金融は政権の命脈であり、蔣介石としては、そう簡単に身内以外の者に渡すわけにはいかなかった。金融界については蔣介石夫人の宋美齢を頭とする「官邸派」が一貫して牛耳っていた。

 蔣介石の権力掌握
 今にして、初めてよく見えてくるのではあるまいか。蔣介石が形式と内実の両面で、ほぼ完璧に一元的権力を掌握できたのは、1954年においてであった。
 蔣介石が第二期総統に就任したのは1954年3月、同年5月、陳誠の副総統就任にともない、行政院が改組された。組閣を命ぜられたのは、国庫所蔵の金銀と外貨の台湾への搬入に貢献した元中央銀行総裁で呉国禎についで台湾省主席(1953年6月ー54年6月)の任にあった俞鴻鈞Yu Hung-chunであった。これを機に、蔣介石は憲法の規定の外にある国防会議を創設し自らそれを統括し、中央の政策決定の実質的機関とした。また彼は蔣経国を同会議の副秘書長に任命し、補佐役の名において帝王学Imperial studiesを学ばせる一方、目付け役の任も兼ねさせた。

*Polskiポーランド語→Yü Hung-chün, znany też jako O.K. Yui (chiń. 俞鴻鈞; pinyin Yú Hóngjūn; ur. 4 stycznia 1898, zm. 1 czerwca 1960) – chiński ekonomista i polityk, premier Republiki Chińskiej w latach 1954-1958.
 蔣介石は、軍と特務機構それに青年学生の掌握を経国に、金融と財政を官邸派に、経済計画と農業問題さらには台湾人上層ブルジョアジーの人心収攬の役割は陳誠にと、それぞれ分担させ、分割支配を試みながら、統合と協同の実を上げさせようとしたようだ。
 蔣介石・経国父子は政権の掌握に関する限り、まったくのリアリストだった。彼らは孫文と三民主義のイデオロギーを一貫して掲げてきたが、本気になってなりふりかまわず実施したのは資本主義的経済成長策で、外資導入を基調にした上からの工業化・近代化である。

*Deutschドイツ語→Die Resolution 2758 der UN-Generalversammlung聯合國大會第2758號決議 betraf die Instandsetzung der Rechte der Volksrepublik China in den Vereinten Nationen in der 1976. Sitzung der Generalversammlung der Vereinten Nationen vom 25. Oktober 1971.United Nations General Assembly Resolution 2758アルバニア決議Резолюция Генеральной Ассамблеи ООН 2758Résolution 2758 de l'Assemblée générale des Nations unies유엔 총회 결의 제2758호「中華民國退出聯合國」“中华人民共和国恢复联合国合法席位”これにより、中華民国(台湾)は国連安保理常任理事国の座を失い、中華人民共和国が国連安保理常任理事国と見なされた。
 70年代の経済成長
 そのなかで、もっとも注目すべきは外国からの投資を保証するための外国人投資条例Foreign Investment Regulations(1954年7月公布、83年5月、86年5月に改正公布)と華僑回(帰)国投資条例Overseas Chinese Return Investment Regulations(1955年11月)の制定と実施を通じて、外資(華僑投資を含む)と外国技術を大いに導入したことである。1966年に入ると、日本を中心にする先進諸国の労働力市場の構造的変化を有効に活用すべく、高雄に輸出保税加工区を設立し(71年には高雄の楠梓と台中に増設)、外資系メーカーの進出を誘導して、労務輸出と技術の導入移転の一石二鳥を狙った。
 国連脱退Resolution on Admitting Peking(71年10月25日)、ニクソン訪中(72年2月21日ー27日)と相続いた外交上の敗退の衝撃の下に、72年の5月26日、蔣経国は行政院院長に就任した。彼は経済面を通じての起死回生策を「十大建設計画」に掲げ、73年度から78年度にわたって、実に50億ドルにのぼる大投資計画の実施に賭けた。
 計画の具体的実施を目撃した台湾の中上流階級が不安の胸をなでおろし、台湾に踏みとどまったとするたぐいの、よくできた話を耳にする。それはそれとして、彼らを踏みとどまらせた原因の一つに、実は大陸での中共の失政があるのを忘れてはならない。文革の悲惨な失敗で中共軍による武力解放がとりあえずはないと、人びとが判断したからに他ならない。

①[Film 2015] [Yoshinori Kobayashi] Véritables débuts au JAPON [édition histoire de Taiwan]②《Declaración del Nuevo Gomanismo Teoría Especial de Taiwán》日本の台湾統治を高く評価しつつ、戦後日本に代わって台湾統治者となった蔣介石や国民党の圧政を中心に描いているTout en faisant l'éloge de la domination japonaise sur Taiwan, il se concentre sur le régime oppressif de Chiang Kai-shek et du Parti nationaliste, qui a remplacé le Japon à la tête de Taiwan après la guerre③「大東亜戦争は自衛戦争であり、日本はアジア諸国として初めて白人による植民地体制に全面的に戦いを挑んだものであるLa guerre de la Grande Asie de l’Est était une guerre d’autodéfense, et le Japon fut le premier pays asiatique à entreprendre une guerre à grande échelle contre le système colonial blanc」

「終戦後のこと、この問題に関連するのだが、支那派遣軍最高司令官だった岡村寧次陸軍大将はAfter the end of the war, and related to this issue, Army General Yasuji Okamura, who was the supreme commander of the China Expeditionary Force、引き揚げて帰国後、戦時中日本軍兵士が中国大陸で犯した残虐事件について、数多くの資料を持っていることafter retiring and returning to Japan, he discovered that he had a large amount of material on the atrocities committed by Japanese soldiers in mainland China during the war、 日本人がかような残虐事件を犯すに至ったのは、過去の教育が誤っていたのではなかろうかI wonder if the reason why Japanese people committed such atrocities was because of our wrong education in the past、新生日本の将来を考えると、どうしても日本人の精神改造というか、人格の練り直しをはからねばならぬと思うが、研究してくれぬか、と大きな袋をかつぎ込んで相談にやって来たことがあるconsidering the future of the new Japan, I think it is necessary to reform the Japanese people's minds, or rather, to rework their personalities, and he came to me with a large bag in his hand, asking if I could help him with my research. 私ももちろん同感であったのだがOf course I felt the same way(後略Omitted later)(矢吹一夫Kazuo Yabuki『政変昭和秘史Secret history of Showa political change』(上))

【Japanese CM】 Yakult (Mayu Watanabe)
①Jun 2, 2016 — ヲタ卒の小林よしのり氏M. Yoshinori Kobayashi, diplômé d'Otaku、渡辺麻友1位でヲタ還りもMayu Watanabe s'est classé premier et il(Kobayashi) est redevenu un otaku「本番でも、まゆゆが1位になったらまずいかもしれないCe serait peut-être mauvais si Mayuyu prenait la première place dans la performance réelle. またわしがヲタ還りしてしまう恐れがあるJ'ai peur de redevenir un otaku」「まゆゆはアイドルの神なので、まゆゆが1位になったら、今より応援しなければ仕方がなくなるMayuyu est un dieu des idoles, donc si Mayuyu devient numéro 1, je n'aurai d'autre choix que de la soutenir encore plus」と複雑な思いを明かしたil a exprimé des sentiments mitigés. https://www.nikkansports.com/entertainment/akb48/news/1656933.html

May 16, 2017 —「橋下徹VS小林よしのり」大バトル勃発!La grande bataille « Toru Hashimoto VS Yoshinori Kobayashi » éclate !
②2015.03.15ーネトウヨの生みの親Le créateur de Netouyo・小林よしのりが右傾化を憂えている!Yoshinori Kobayashi s'inquiète de son virage à droite ! 「ようござんすね? このまま戦争でNe serait-ce pas bien pour vous, même si la guerre continue ainsi ?」「過剰に右傾化した日本の舵を、いったん真ん中に切り戻すLe gouvernail du Japon, trop incliné vers la droite, sera ramené au centre」 安倍とネトウヨを徹底批判Critique approfondie d'Abe et Netouyo https://lite-ra.com/2015/03/post-946.html←↑「活動の目的が革命だの改革だのにあるのではなく、目立ちたがっているだけなのだからThe purpose of their activities is not revolution or reform, but they just want to stand out、もし反対の側へと裏切ることによってさらに「有名」になった上に「よりおいしい」生活ができるとすれば、むしろ嬉々としてそうなってしまうのも当然ではないかIf betraying to the other side allows them to become even more "famous" and lead a "more delicious" life, wouldn't it be natural for people to do so happily?」(本多勝一Katsuichi Honda「”東大問題”とは要するに『西部問題』にすぎぬThe "Tokyo University problem'' is simply the "Nishibe problem''」(1988年8月5日号)『朝日ジャーナルAsahi Journal』)→Jan 22, 2018 —小林よしのりYoshinori Kobayashi「西部邁氏は立派であるM. Susumu Nishibe est admirable」←「社長の友Amigo del presidente」

Yoshinori Kobayashi s'élève« Les discours qui ne prennent pas le parti de la victime ne sont-ils pas autorisés ? » (↑またこの'ポーズ’?😩This 'pose' again?(「いつまでやりよん?😥How long have you been doing this?」)よっぽど気に入っとるんやね😆You really like it, don't you?→「相変らずですSame as usual、’チャンピオンchampion’」)
③小林よしのりYoshinori Kobayashi「元々わしはサヨクだったのだA l'origine, j'étais un sayoku. 学んで変わっていった過程も読者に見せてるし、読者と共に成長しているJe montre à mes lecteurs le processus d'apprentissage et de changement, et je grandis avec eux. もちろん今も変わり続けているBien sûr, je suis encore en train de changer」(「右でも左でもないNi à droite ni à gauche」→)「わしは(無?)思想しているのだからParce que je pense (à rien ?)」←↑「ホンモノの学者よりはタレント学者を起用したがる日本型マス・メディア(むろん『朝日新聞』も含めて)にあってはJapanese mass media (including the Asahi Shimbun, of course) prefer to use talento scholars rather than genuine scholars、有名性を利用するのも大いに結構だがit's perfectly fine to take advantage of their fame, though(後略Omitted later)(↑同Ibid.,)*代表例Typical example①旧世代Ancienne génération「該博な知識Extensive knowledge」:渡部昇一Shōichi Watanabe、武田邦彦Kunihiko Takeda②新世代Nouvelle génération「新進気鋭の若手Up-and-coming young people」:三浦瑠麗Lully Miura、成田悠輔Yusuke Narita+Jun 24, 2022 —百田尚樹Naoki Hyakuta「いまこそ「史論家」が必要だWe need "historicists" now──つくる会Japanese Society for History Textbook Reform、歴史共同研究再検証(後篇)Re-examination of historical joint research (part 2)」https://ch.nicovideo.jp/genron-cafe/blomaga/ar2105424などなど枚挙にいとまがないThere are too many to list(~♪みんなTout le monde、ともだちles amis’んこ’😁~♪)「再びなんらかの「8月15日」的なものにぶつかるまで止まらぬだろうCela ne s'arrêtera pas tant que nous n'atteindrons pas à nouveau une sorte de date du 15 août」(本多勝一Katsuichi Honda/2005年)⇔↑「わしは悪人であるJe suis une mauvaise personne(mal absolu/pure evil/чистое зло)」«Оботтяма-кун»『座右の銘Favorite motto』永続Permanent洞ヶ峠Horaga Pass≪日和見Opportunism机会主义≫『傲骨精神宣言Gōmanism Manifesto』(オブローモフОбломов/Oblomov)男Dude「我らがよしりんOur Yoshirin」社長への贈り物Tribute to the president≫↑↓ from Canada 2024/02/28
【[OPV] Gentle Poetry - Mayu Watanabe】Mayuyu will do her best in the general election and in the drama.

Маю Ватанабе (яп.渡辺 麻友와타나베 마유😍Ватанабе Маю, нар. 26 березня 1994, префектура Сайтама) - японський ідол, співачка і актриса, колишня учасниця японської поп-групи AKB482017年底自AKB48畢業,以演員為活動重心,后因身体原因於2020年6月1日退出演藝圈😢☆健康祈願I pray for your good health😊☆安全御守I pray for your safety😢☆祝你永远幸福快乐I wish you happiness forever😊☆

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