日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

The Rape of Nanking and Nanjing-fjöldamorðin /Masakro de Nankingo=南京大虐殺現場にいた・各日本新聞記者・特派員・文化人たちの証言集+Thirteen Lies=否定論13のウソ

アイスランド語⇒南京大虐殺=Nanjing-fjöldamorðin eða það sem hefur stundum verið kallað upp á ensku „The Rape of Nanking“ (íslensk þýðing: „?“), er samheiti yfir þá glæpi sem sem Japanir frömdu gagnvart Kínverjum eftir að hafa hertekið borgina Nanjin í bardaganum um Nanjing 13. desember 1937 í síðari heimsstyrjöldinni.Japanski herinn nauðgaði og myrti skipulega um 200.000 til 300.000 konum og stúlkum á því tímabili sem þeir héldu borginni (desember 1937 til mars 1938).エスペラント語⇒南京大虐殺=Masakro de Nankingo=La masakro de Nankingo (decembro de 1937–januaro de 1938) okazis dum la Ĉina-Japana Milito (1937–45), post okupo de la ĉina urbo Nankingo la 13-an de decembro 1937. La masakron, amasmurdojn efektivigis la soldatoj de la japana armeo, ili murdis la simplajn loĝantojn kaj la kapitulaciintajn soldatojn. Mortis ĉ. 100.000–300.000 homoj.Nanking estis ĉefurbo de la Kuomintang-gvidata Ĉinio inter 1928 kaj 1937. La masakron, detruon ordonis Matsui Iwane, generalo de la okupinta armeo. Dum la post-okupaj semajnoj estis ĉiutagaj la amasmurdoj kaj la japanaj soldatoj dekmile seksatencis ĉinajn virinojn. La armeo prirabis kaj eĉ bruligis la najbarajn urbojn, ruinigis trionon de la konstruaĵoj. La japanoj igis Nankingon en 1940 sidejo de la ĉina pupregistaro, gvidata de Wang Ching-wei.Post la dua mondmilito, la Orient-Azia Internacia Soldata Tribunalo juĝis Matsui-on kaj Tani Hisaó-n respondeca kaj oni ekzekutis ilin. Pliaj punintoj estis arestitaj kaj prijuĝitaj, sed ili ricevis pli poste amnestion
.トルコ語→南京大虐殺=Nankin Muharebesi (Çince: 南京大屠殺 / 南京大屠杀; nánjīng dàtúshā, Japonca: 南京大虐殺; Nankin Dai Gyakusatsu), 1937'de Çin Cumhuriyeti'nin dönemin başkenti Nanking'in Japon İmparatorluk Kara Kuvvetleri tarafından ele geçirilmesi sırasında ve ardında yaşanılan katliam ve tecavüz olayları. Altı hafta süren olaylar yaklaşık 300.000 kadar sivil ve silahsız askerin ölümü, ve 20.000-80.000 kadar kadının tecavüze uğramasıyla sonuçlanmıştır.Uluslararası Uzakdoğu Savaş Mahkemesine göre ölü sayısı 200.000 civarıdır; Çin'in resmi kayıtlarında ise bu sayı 300.000 olarak verilmektedir. スコットランド語⇒The Nanking Massacre wis an episode o mass murther an mass rape committit bi Japanese truips against the residents o Nanjing (then spelled Nanking), then the caipital o the Republic o Cheenae during the Seicont Sino-Japanese War. The massacre occurred ower a period o sax weeks stairtin on December 13, 1937, the day that the Japanese capturt Nanjing. During this period, sodgers o the Imperial Japanese Airmy murthert Cheenese ceevilians an disairmed combatants wha nummered an estimatit 40,000 tae ower 300,000,[7][8] an perpetratit widespread rape an luitin.[9][10]
「ゆうさま」の資料集からまた、引用させていただきました。もちろんかなり手元にもあるのですが。どうしてインターネットは便利で。いちいち原書から出してうつより。みなさん。日本人たちの「体験史」「実際に目で見た」人たちです。「小林よしのり」「ゴーマニズム」と頭にうかぶ。書店で目にする。ブックオフに山積みになってる。に接した時は「ゆうさま」「Sammy」「日本人の証言」をだぶらせることをおすすめします☆ 。いつもいつもおこしいただき、ありがとうございます。2016年10月 サミー

一体、「南京」で何があったのか
本来は笠原氏なり秦氏なりの新書を一冊読めば大体のところはわかるのですが、ネットではその手間すらかけずに、ネット情報のみでいい加減な発言をしている方を見かけることが珍しくありません。例えば、よく見かける「南京大虐殺はなかった」という表現にしても、発言者はどこまで意味をわかって発言しているのか。「中国側のいう30万人規模の大虐殺はなかった」ということでしたら、この点は日本側研究者のほぼ合意ですので、理解できないことはありません。しかし「南京における(少なくとも数万の)大規模な虐殺存在まで否定してしまうというのは、ちょっと無理な議論でしょう。*掲示板では「なかった派」という奇妙な自称を行う方を多くみかけますそしてそのような自称を行う方は、一体何が「なかった」と言いたいのか自分でもはっきりとわかっていないことが多いようです。「大規模な虐殺」の存在さえ承知していれば、そもそも「なかった」という表現を使用することに違和感を覚えるはずなのですが。本サイトを立ち上げてから既に5年が過ぎました(2008年1月現在)。その時々の私の関心事をいきあたりばったりにコンテンツ化していたサイトですので、「南京事件」について全く知識を持たない方にとっては読みにくいものになってしまっているのではないか、と懸念します。またネットでは、「何があったか」を包括的に説明するサイトがほとんど存在しません。そのことも、「なかった派」という奇妙な「派」の存在を許容する一因になっているのかもしれません。本コンテンツは、「南京事件」に全く知識を持たない方向けに、「初歩の初歩」を解説することを目的とします。全部読むのが面倒な方は、各章の最初の太字部分にのみ目を通していただければ、一応の「概要」はおわかりいただけると思います。*なお、このうちいくつかの内容は、いずれコンテンツ化することを予定していたものです。将来コンテンツを作成した際には、コンテンツへのリンクのみ残すことになると思いますので、ご承知ください。
まずよく誤解されるのですが、「南京事件」というのは、例えば数万人なり数十万人なりを一箇所に集めて、まとめて機関銃なり銃剣なりで殺した、という事件ではありません。基本的には、数多くの中小規模の「事件」の集積です。よく「南京大虐殺の存在を証明しろ」という大上段に振りかぶった議論をする方を見かけるのですが、その点さえ承知していれば、ネット掲示板の小さなスペースでそんなことが不可能であることぐらい、すぐにわかるはずです。「証明」のためには、数多い事件群についてそれぞれ資料を並べ、検証を行うという膨大な作業が必要になってきます。(ついでですが、そのような「証明」を求める方は、まず確実に、「基本的な入門書」すら読んでいません)「南京事件」は大きく、「捕虜殺害(敗残兵殺害を含む)」と「民間人殺害」に分けることができます。以下、「捕虜殺害」の例として「幕府山事件」「安全区掃討」「下関の捕虜殺害」などを取り上げ、「民間人殺害」については「スマイス報告」に重点を置いて説明していきたいと思います。 *上記のうち、「「南京事件」というのは、例えば数万人なり数十万人なりを一箇所に集めて、まとめて機関銃なり銃剣なりで殺した、という事件ではありません」の部分に、意外だった、との趣旨のコメントをいただきました。しかしこのことは、「南京」論議に加わる方でしたら「常識」の範囲に属することで、例えば「史実派」の代表的論客である笠原十九司氏も同趣旨のことを述べています。**掲示板では、「中国はもともと民間人殺害のみを問題にしており、捕虜殺害は問題にしていなかった」、あるいはもっと極端に、「捕虜殺害は戦闘行為の延長だから問題ではない」という暴論を見かけることがあります。実際には、早くも1946年「南京軍事法廷判決」主文で「捕虜および非戦闘員を虐殺」したことが問題とされていますし、また「捕虜殺害」は、よっぽどの理由がない限り、明確な国際法違反の行為であることは明らかです。***一般に「南京事件」というのは、「殺害」だけではなく、掠奪・暴行等の数々の「犯罪的行為」の集積として理解されます。ここではわかりやすく、「殺害」のみにスポットを当てていることをご了解ください。
小林よしのり氏「戦争論」の妄想
 「南京事件」については、あまりに膨大な「間違った情報」が流布しています。そのため、ほとんど知識のない方が「南京」について語ることは、至難の業になっています。さまざまな資料を集め、「情報」を取捨選択して、自分なりのイメージをつくっていく。 そのような手続きを経ないで「南京」を論じようとすると、傍目には
「間違いだらけのトンデモ議論になってしまいがちです。小林よしのり氏の「戦争論」などは、その好例でしょうほとんどまともな文献にあたらず、いい加減な「否定本」のみを頼りに書き飛ばす。 その結果としてこの本の「南京」関連部分は、少しでも知識のある方でしたら頭を抱えてしまうような代物になっています。にもかかわらず、「コミック」という媒体の影響力か、ネットでもこの本から得た知識を頼りに議論する方が後を絶ちません。
今井正剛『南京城内の大量殺人』
虐殺を眺める女子供以前の支局へ入ってゆくと、ここも二、三十人の難民がぎっしりつまっている。中から歓声をあげて飛び出して来たものがあった。支局で雇っていたアマとボーイだった。「おう無事だったか」二階へ上ってソファにひっくり返った。ウトウトと快い眠気がさして、われわれは久しぶりに我が家へ帰った気持ちの昼寝だった。「先生、大変です、来て下さい」 血相を変えたアマにたたき起こされた。話をきいてみるとこうだった。すぐ近くの空地で、日本兵が中国人をたくさん集めて殺しているというのだ。その中に近所の洋服屋の楊のオヤジとセガレがいる。まごまごしていると二人とも殺されてしまう。二人とも兵隊じゃないのだから早く行って助けてやってくれというのだ。アマの後ろには、楊の女房がアバタの顔を涙だらけにしてオロオロしている。中村正吾特派員と私はあわてふためいて飛び出した。支局の近くの夕陽の丘だった。空地を埋めてくろぐろと、四、五百人もの中国人の男たちがしゃがんでいる。空地の一方はくずれ残った黒煉瓦の塀だ。その塀に向って六人ずつの中国人が立つ。二、三十歩離れた後ろから、日本兵が小銃の一斉射撃、バッタリと倒れるのを飛びかかっては、背中から銃剣でグサリと止めの一射しである。ウーンと断末魔のうめき声が夕陽の丘いっばいにひぴき渡る。次、また六人である。つぎつぎに射殺され、背中を田楽ざしにされてゆくのを、空地にしゃがみこんだ四、五百人の群れが、うつろな眼付でながめている。この放心、この虚無。いったいこれは何か。そのまわりをいっばいにとりかこんで、女や子供たちが茫然とながめているのだ。その顔を一つ一つのぞき込めば、親や、夫や、兄弟や子供たちが、目の前で殺されてゆく恐怖と憎悪とに満ち満ちていたにちがいない。悲鳴や号泣もあげていただろう。しかし、私の耳には何もきこえなかった。パパーンという銃声と、ぎゃあっ、という叫び声が耳いっばいにひろがり、カアッと斜めにさした夕陽の縞が煉瓦塀を真紅に染めているのが見えるだけだった。傍らに立っている軍曹に私たちは息せき切っていった。
 「この中に兵隊じゃない者がいるんだ。助けて下さい」
 硬直した軍曹の顔は私をにらみつけた。
 「洋服屋のオヤジとセガレなんだ。僕たちが身柄は証明する」
 「どいつだかわかりますか」
 「わかる。女房がいるんだ。呼べば出て来る」
 返事をまたずにわれわれは楊の女房を前へ押し出した。大声をあげて女房が呼んだ。群集の中から皺くちゃのオヤジと、二十歳くらいの青年が飛び出して来た。「この二人だ。これは絶対に敗残兵じゃない。朝日の支局へ出入りする洋服屋です。さあ、お前たち、早く帰れ」たちまち広場は総立ちとなった。この先生に頼めば命が助かる、という考えが、虚無と放心から群集を解き放したのだろう。私たちの外套のすそにすがって、群集が殺到した。「
まだやりますか。向こうを見たまえ、女たちがいっばい泣いてるじゃないか。殺すのは仕方がないにしても、女子供の見ていないところでやったらどうだ」私たちは一気にまくし立てた。既に夕方の微光が空から消えかかっていた。無言で硬直した頬をこわばらせている軍曹をあとにして、私と中村君とは空地を離れた。何度目かの銃声を背中にききながら。大量殺人の現場に立ち、二人の男の命を救ったにもかかわらず、私の頭の中には何の感慨も湧いて来なかった。これも戦場の行きずりにふと眼にとまった兵士の行動の一コマにすぎないのか。いうならば、私自身さえもが異常心理にとらわれていたのだ。(『目撃者が語る日中戦争』P53-P55)*以上、十二月十五日の出来事、とのことです。
足立和雄『南京の大虐殺』 昭和十二年十二月、日本軍の大部隊が、南京をめざして四方八方から殺到した。それといっしょに、多数の従軍記者が南京に集ってきた。そのなかに、守山君と私もふくまれていた。 朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。私たちの仲間がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことがあってから、朝日の支局には助命を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上何ともできなかった。"便衣隊"は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。「悲しいねえ」私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた。(朝日新聞客員)(『守山義雄文集』P448) 石川達三氏は、南京占領後の1937年12月下旬、中央公論会の特派員として、上海、蘇州、南京をめぐりました。南京入りは1月5日のことです。氏は1月帰国後、兵隊たちから聴取した体験談をもとに、小説「生きている兵隊」を著しました。 この小説は「中央公論」三月号に掲載されましたが、「反軍的内容を持った時局柄不穏当な作品」として発売禁止処分を受け、その後「新聞紙法」違反で起訴、禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決を受けました。氏は、兵隊たちへの取材を通して、南京戦前後の日本軍の行動について十分な認識を持っていたようです。以下、戦後「読売新聞」に掲載された、石川氏へのインタビュー記事を紹介します。篠原正瑛『西にナチズム 東に軍国主義』戦時中、私は留学生としてドイツに滞在していたが、そのころ朝日新聞ベルリン支局長をしていた守山義雄氏(すでに故人)から、南京に侵入した日本軍による大虐殺事件の真相を聞いたことがある。守山氏は、朝日の従軍記者として、その事実をまのあたり見てきた人である。南京を占領した日本軍は、一度に三万数千の中国人、しかも、その大部分が老人と婦人と子どもたち、を市の城壁内に追い込んだ後、城壁の上から手榴弾と機関銃の猛射をあびせて皆殺しにしたそうである。そのときの南京城壁のなかは、文字どおり死体の山をきずき、血の海に長靴がつかるほどだったという守山氏は、このような残虐非道の行為までも"皇軍"とか"聖戦"といういつわりの言葉で報道しなければならないのかと、新聞記者の職業に絶望を感じ、ペンを折って日本へ帰ろうかと、いく日も思い悩んだそうである。(『日中文化交流』1970.8.1 No157 P5)読売新聞」昭和21年5月9日 (見出し裁かれる残虐『南京事件』(リード) 東京裁判の起訴状二項「殺人の罪」において国際検事団は南京事件をとりあげ日本軍の残虐行為を突いてゐる、 掠奪、暴行、■殺、■殺―昭和十二年十二月十七日、松井石根司令官が入城したとき、なんとこの首都の血なまぐさかつたことよ、 このころ南京攻略戦に従軍した作家石川達三氏はこのむごたらしい有様を見て”日本人はもつと反省しなければならぬ”ことを痛感しそのありのままを筆にした、昭和十三年三月号の中央公論に掲載された小説『生きている兵隊』だしかしこのため中央公論は発禁となり石川氏は安寧秩序紊乱で禁錮四ケ月執行猶予三年の刑をうけた  いま国際裁判公判をまへに”南京事件”の持つ意味は大きく軍国主義教育にぬりかためられてゐた日本人への大きな反省がもとめられねばならぬ、石川氏に当時の思ひ出を語つてもらふ(中見出し)河中へ死の行進 首を切つては突落とす(本文) 兵は彼女の下着をも引き裂いた すると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた。みごとに肉づいた、 胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた …近藤一等兵は腰の短剣を抜いて裸の女の上にのつそりまたがつた …彼は物もいはずに右手の短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた―"生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、 大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させたまた武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、 この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で 片ツぱしから殺害した戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、 三重県からきた片山某といふ従軍僧は読経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に数珠をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その数は廿名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師団長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまい。 ただしこれらの虐殺や暴行を松井司令官が知つてゐたかどうかは知らぬ 一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしいといふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師団長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた何れにせよ南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた、私たちの同胞によつてこのことが行はれたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思ふ(「読売新聞」昭和21年5月9日付 2面中上 リード4段、見出し3段) *■部分は、2か所とも「殴殺」に見えるのですが、字が潰れていて自信が持てないため、とりあえず■で表示しました。火野葦平 本名玉井勝則。 第十八師団第百十四連隊(小倉)に「伍長」として従軍し、のちには軍報道部に勤務、「徐州会戦」をテーマにした「麦と兵隊」などの戦争文学を著しました。火野氏は、12月17日の南京入城式に参加するため、南京を訪れています。この手紙には、「南京攻略戦」の途中、「嘉善」にて、投降した捕虜を全員殺害した事件が書かれています。 大変な長文であり、以下は「捕虜殺害」のシーンのみです。全文は「火野葦平の手紙」にアップしました。昭和十二年十二月十五日、南京にて それから、戸口の方へ廻ると、中でがやがや声がして居ます。戸を破らうとしたが、頑丈で破れない。コンクリイトの厚さは二尺近くもあります。 見ると、扉の横から電話線が通じてある、これは相当な奴が居ると思つたです。 戸口を銃剣でつついて、「ライライ」とどなりました。支那語は知らんし、来い来い、といふ言葉で、出て来いといふ意味を云ふ外なかつたのです。ライライと何度もどなつてゐると、中の奴が、戸口の方へ来る様子です。 出がけに打たれてもばからしいと思つてゐると、戸が内側からあいて、若い支那兵の顔が見え、向ふから銃をさし出しました。(中略)つないで来た支那の兵隊を、みんなは、はがゆさうに、貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、はがいい、とか何とか云ひながら、蹴つたり、ぶつたりする、 誰かが、いきなり銃剣で、つき通した、八人ほど見る間についた。 支那兵は非常にあきらめのよいのには、おどろきます。たたかれても、うんともうん(ママ)とも云ひません。つかれても、何にも叫び声も立てずにたほれます。中隊長が来てくれといふので、そこの藁家に入り、恰度、昼だつたので、飯を食べ、表に出てみると、既に三十二名全部、殺されて、水のたまつた散兵濠の中に落ちこんでゐました。 山崎少尉も、一人切つたとかで、首がとんでゐました。散兵濠の水はまつ赤になつて、ずつと向ふまで、つづいてゐました。僕が、濠の横に行くと、一人の年とつた支那兵が、死にきれずに居ましたが、僕を見て、打つてくれと、眼で胸をさしましたので、僕は、一発、胸を打つと、まもなく死にました。 すると、もう一人、ひきつりながら、赤い水の上に半身を出して動いてゐるのが居るので、一発、背中から打つと、それも、水の中に埋まつて死にました。泣きわめいてゐた少年兵もたほれてゐます。壕の横に、支那兵の所持品が、すててありましたが、日記帳などを見ると、故郷のことや、父母のこと、きようだいのこと、妻のことなど書いてあり、写真などもありました。戦争は悲惨だと、つくづく、思ひました。 (「国文学」2000年11月号 花田俊典「新資料 火野葦平の手紙」より)  「ライライ」と言って誘い出し、「ジユズつなぎにし」た捕虜を、「貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、・・・とか何とか云ひながら」、 上官の命令もないままに、自然発生的に「誰かが、いきなり銃剣で、つき通し」て、結果として三十二名全員を殺害してしまう。これはちょっと「正当化」のしようがない「捕虜殺害」でしょう。当時の戦場ではこの種の「捕虜殺害」が常態化していたことを伺わせる資料のひとつです。
なお田中正明氏は、文化人たちの「南京事件」認識について、こんな記述を行っています。
「南京事件の総括」より

 大宅壮一、木村毅、杉山平助、野依秀市、あるいは西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった高名な評論家や詩人、作家も陥落とほとんど同時に入城している。(中略)しかしそれらの視察記や紀行文の中には"大虐殺”を匂わすような文章はどこにも見当たらない。
終戦になり、東京裁判が始まって、軍の作戦や旧軍人に対する批判が高まった時でも、これらの作家や評論家や詩人のだれ一人として南京事件を告発したり、あげつらう者はいなかった。
 批判力旺盛な口八丁、手八丁と言われた大宅壮一でさえ、南京虐殺には終始否定的であった。
(「南京事件の総括」P237~P238)
太字で示したメンバーについては、既に取り上げました。
他のメンバーについても、検閲厳しい戦前に書いた文章の中に「匂わす文章はどこにも見当たらない」のは当たり前の話ですし、また「南京事件を告発」しなかったからと言って「南京事件」の存在を否定したことにならないのは、 言うまでもないでしょう。特に最後の、「大宅壮一でさえ、南京虐殺には終始否定的であった」との発言は、明らかな「ウソ」です。最後に、上の田中氏の記述についての洞氏のコメントを紹介します。
洞富雄「南京大虐殺の証明」より・・・大量虐殺否定論者の反論をもはや許さないていの、旧日本兵の勇気ある証言や事件当時の従軍日誌類の存在が、(「ゆう」注 1986年7、8月頃) 続々と新聞に報ぜられたではないか。しかし、これらの勇気ある証言者は、その後、匿名の非難・中傷・脅迫の電話や手紙でなやまされているのである。 (『毎日新聞』一九八四年九月二十七日号「記者の目」)。この事実一つをとってみても、南京大残虐事件の実見談を書くことの困難さが知られるではないか。 文筆家にとって、いまも「南京大虐殺」を語ることは鬼門であるらしい。 それをあえてすることは、たいへん勇気を必要とするばかりでなく、飯の食いあげにもなりかねないのである。あの毒舌家の大宅壮一すら、ひとこと「入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。 まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分いえるね」と語ったのは、「大宅考察組」を組織し、一九六六年に文化大革命下の中国に乗りこんだときの、現地南京でおこなった座談会でのことであって、 実際にその眼でみた事件の実相は語らずじまいであった。こうした事情であるとすれば、名乗り出るものがいないのは、事実がなかったからである、と言おうとするような短絡的思考は許されない。(P247-P248) 
松井石根大将(方面軍司令官)の日誌
ー「南京、杭州附近又奪掠、強姦ノ声ヲ聞ク 幕僚ヲ特派シテ厳ニ取締ヲ要求スルト共ニ責任者ノ処罰ナト直ニ悪空気一掃ヲ要スルモノト認メ 厳重各軍ニ要求セシム」(1937年12月26日・前掲148頁)「支那人民ノ我軍ニ対スル恐怖心去ラス寒気ト家ナキ為メ帰来ノ遅ルルコト固トヨリ其主因ナルモ 我軍ニ対スル反抗ト云フヨリモ恐怖 不安ノ念ノ去ラサルコト其重要ナル原因ナルヘシト察セラル 即各地守備隊ニ付其心持ヲ聞クニ到底予ノ精神ハ軍隊ニ徹底シアラサルハ勿論 本事件ニ付根本ノ理解ト覚悟ナキニ因ルモノ多ク一面軍紀風紀ノ弛緩カ完全ニ恢復セス」(1938年2月6日・前掲168頁)
-1938年12月、陸軍省兵務課長(軍紀風紀の担当)に就任した田中隆吉(少将)は、事件のことを
「世界史上最もひどい残虐行為」だとし、憲兵や兵務課で、軍司令官や師団長ら責任者を軍法会議にかけることを検討したが、参謀本部が反対したので実現しなかったと述べている(栗屋憲太郎ほか編「東京裁判資料・田中隆吉尋問調書」大月書店)。
ー「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦目もあてられぬ惨状とある。嗚呼之れが皇軍か」「日本新聞は、記事差止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直に千里を走って世界に大センセーションを引き起こした。あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼賛するのみであった」(石射猪太郎外務省東亜局長、38年1月上海))
「赴任して南京事件の実相を知るに及んで・・・我軍隊の素質、日本民族の堕落に憤りを発せざるを得なかった」(重光葵特命全権大使→42年南京に赴任)
ー「中華門付近の支那人街を視察。商店もマバラに開いているが、軍人や我々日本人の顔を見ると素早く奥へ逃げ込む。特に若い娘らの逃足の早いことには感心する」(1938年3月28日付「陣中メモ日記」、静岡民友新聞社の従軍記者として南京を取材した片山兵ニ(「わが青春の中国大陸従軍譚」非売品、1977年)。瀧川政次郎氏(法制史学者=弁護人として東京裁判の法廷において→)「私はこれらの証人が語った残虐行為をここに載録するに堪えない。・・・しかし、彼らの言に多少の誇張があるにしても、南京占領後における日本軍の南京市民に加えた暴行が相当ひどいものであったことは、蔽い難き事実である」「当時私は北京に住んでいたが、南京虐殺の噂があまりに高いので、昭和十三年の夏、津浦線を通つて南京に旅行した。南京市街の民家が概ね焼けているので、私は日本軍の爆撃によつて焼かれたものと考へ、空爆の威力に驚いていたが、よく訊いてみると、それらの民家は、いづれも南京陥落後、日本兵の放火によつて焼かれたものであつた。南京市民の日本人に対する恐怖の念は、半歳を経た当時においても尚冷めやらず、南京の婦女子は私がやさしく話しかけても返事もせずに逃げかくれした。私を乗せて走る洋車夫が私に語つたところによると、現在南京市内にいる姑娘(若い娘)で日本兵の暴行を受けなかつたものはひとりもいないといふ」)
ラトビア語⇒南京大虐殺=Naņdzjinas slaktiņš notika Otrajā Ķīna—Japānas karā. To veica japāņu karavīri, kad tika ieņemta pilsēta. Tā notika sešu nedēļu garumā no 1937. gada 13. decembra. Šajā periodā tika nogalināti civiliedzīvotāji un atbruņoti karavīri, kuru kopējais skaits svārstās no
40 000 līdz 300 000.[7][8] Vēl notika plaša izvarošana un laupīšana.[9][10]Šis joprojām ir strīdīgs politisks jautājums, viens no abu valstu attiecību šķelšanās jautājumiem. Ķīnas valdība tiek apsūdzēta, ka tā pārspīlē daudzus aspektus (piemēram, nogalināto skaitu),[11] japāņu nacionālisti apgalvo, ka masveida slepkavības tika fabricētas propogandai.[8][12][13][14] Tas arī ir viens no galvenajiem tematiem Japānas attiecībās ar citām Āzijas un Klusā okeāna valstīm.[15]Japānas valdība atzīst, ka slaktiņš ir noticis,[16][17] to apstiprinājuši arī japāņu kara veterāni.[18] Tomēr daļa sabiedrības uzskata, ka nogalināto skaits bijis karam "atbilstošs" un šāds noziegums nav par tādu uzskatāms. 
ウクライナ語⇒南京大虐殺=Різанина в Нанкіні— серія масових вбивств, зґвалтувань та інших злочинів, скоєних японськими військовими під час Другої Японо-Китайської війни у Нанкіні у 1937. Більшість подій сталась протягом шести тижнів після захоплення Нанкіна 13 грудня 1937 року. За цей час від 250 тис. до 300 тис. китайських громадян та військовополонених були вбиті солдатами Імператорської Армії Японії[1]. Близько 200 тис. китайців змогли врятуватися у таборах біженців, що знаходились неподалік посольства США в Нанкіні. 
広東語⇒南京大屠殺指侵華日軍響1937年12月13號攻陷中國首都南京至大概[[
1938年2月,喺南京城區同郊區犯嘅戰爭罪。 開頭日軍話要殺扮成平民嘅中國軍人,結果捉咗好多無辜嘅平民來殺。後來演變成大規模屠殺、搶掠、強姦。南京大屠殺嘅過程同死傷人數至今仍然有爭議,其中遠東國際軍事法庭認定至少20萬以上,中國學者考證為30萬以上,而日本學者嘅研究就眾說紛紜,難有統一定論。
タガログ語→南京大虐殺Masaker sa Nanking=Ang Masaker sa Nanking o Masaker sa Nanjing o Panggagahasa sa Nanking ay isang pagpatay ng maraming tao na nangyari nang anim na linggo pagkatapos ng Labanan ng Nanking at pagbighag sa lungsod ng Nanking na dating kabisera ng Republika ng Tsina noong Disyembre 13, 1937noong Ikalawang Digmaang Sino-Hapones. Sa panahong ito, ang daang daang libong mga sibilyang Tsino at mga walang armas na sundalo ay pinaslang ng mga sundalo ng Hukbong Imperyal na Hapones. [1][2] Widespread rape at looting ay kabilang.[3][4]
スロバキア語⇒南京大虐殺=Nankinský masakeralebo nankinská masakra boli vojnové zločiny páchané japonským vojskom asi 7 týždňov od 13. decembra 1937, po obsadení čínskeho hlavného mesta Nankingu počas druhej čínsko-japonskej vojny.Počas besnenia japonských vojsk boli v Nankingu masovo vraždení čínski vojnoví zajatci aj civilisti. K vraždám dochádzalo rôznymi brutálnymi spôsobmi, tisíce osôb boli zavraždené chladnými zbraňami, bodákmi či šabľami. Na iných miestach boli obete likvidované paľbou guľometov. Po popravách boli telá často hodené do rieky Jang-c’. Niekoľko desiatok tisíc osôb bolo mučených a znásilnených. Odhady hovoria o 20-80 000 znásilnených ženách a dievčatách. Veľkú časť mesta japonské vojská vyrabovali alebo vypálili. Bola pri tom zničená asi tretina mesta. Presný počet obetí masakru nie je známy, Medzinárodný vojenský tribunál pre Ďaleký východ (IMTFE) odhadoval počet obetí na približne 260 000 civilisto. Samotný veliteľ japonských síl Iwane Matsui odhadoval počet civilných obetí na asi 100 000Nankinský masaker nasledoval po ťažkých bojoch o Šanghaj, kde síce Japonci vyhrali ale utrpeli pri tom ťažké straty.

「南京大虐殺はなかった」という人へ  -「否定派のウソ」と「事実」-    大谷 猛夫
今、各地で「南京大虐殺はなかった」という人たちが「活発」に声高に叫んでいます。しかし、あったものをなかったということはできません。南京大虐殺否定派の主張のウソと「事実」を示してみます。[1、2]

 否定派のウソ 1「戦後の東京裁判で連合国が日本軍の残虐・非道ぶりを示すためにでっち上げたものである」
「事実」 1937年12月、南京は中華民国の首都であり、諸外国の公館も存在し、外国の報道機関も存在した。虐殺の報道は世界をかけめぐった。日本の外務省も軍も当時から知っていた。当時の外務省東亜局長石井猪太郎が回顧録でこのことを書いている。だいたい軍が知らないということはあり得ない。1937年12月15日以降多くの欧米の特派員が南京の事態を世界中に打電している。とくにイギリスの「マンチェスター・ガーディアン」の中国特派員ティンバリーは1938年8月に「戦争とは何か・・・中国における日本軍の残虐行為」を出版し、日本語訳も中国語訳も出版されている。日本の外務省はこのティンバリーの上海発の電報を押収し、南京その他で30万人を下らない中国民間人が殺されたと述べていることをワシントンの日本大使館に情報として伝えている。戦後の東京裁判で、はじめて日本が知ったわけではない。そもそも日本政府はこの東京裁判の結果をサンフランシスコ条約で受け入れたのである。つまり日本政府は公式に承認したということである。

否定派のウソ 2「東京裁判の証拠資料は伝聞ばかりで、直接証拠は何もない。マギー牧師の証言は虐殺をみたのは1件だけだと言っている」
 「事実」 マギー牧師はけが人や強姦の被害者の救済をしていた。殺害現場に立ち会わなかったのは当然。いわゆるマギーフィルムが殺害現場そのものの映像がないのは当然のことである。もし殺害現場を撮影していたら、日本軍はマギー牧師をそのままにしておかなかっただろう。むしろたくさんの被害者の映像記録を残している。
このことの方が重要な証拠となっている。東京裁判でも11人の証人が証言し、南京安全区文書・南京裁判所検案書・慈善団体の埋葬記録・ラーベの書簡・アメリカ大使館の文書・在中国ドイツ外交当局の報告書などが東京裁判で採用された。


 否定派のウソ 3「当時、国際的な批判はこの「事件」についてはなかった」
「事実」 1937年9月から10月にかけての国際連盟総会は日本軍の中国侵略そのものを非難している。
当時日本はすでに国際連盟を脱退し(1931年の柳条湖の事件をめぐっての国際連盟決議を不服として)ていて、国際的な孤立状態にあった。1937年9月というと南京陥落前であったが、南京爆撃を国際連盟の決議は非難している。つまり日本軍の中国侵略そのものを非難しているのである。南京大虐殺というひとつの事件に対する非難がないからと言って国際批判がないというのは当たらない。ドイツ人ラーベは南京安全区国際委員長として日本軍が占領した南京に止まり、市民とりわけ女性を日本軍の暴虐から守るために奮闘した。ラーベは1938年2月、帰国命令を受けベルリンに戻った。ラーベはナチス党員であったが、南京での日本軍の残虐行為をヒトラーはじめドイツ政府の指導者に知らせた。そしてヒトラーあての「南京事件・ラーベ報告書」を提出した。


 否定派のウソ 4 「蒋介石も毛沢東も南京のことは問題にしていない」
「事実」 1938年7月(南京陥落後)<日中戦争1周年>に蒋介石「日本国民に告げる書」
で日本軍の放火・略奪・虐殺を非難している。「南京」という名指しはないが、この時点で中国大陸における大規模で集団的な略奪・虐殺は南京以外に考えられない。蒋介石はこのことを念頭に書いている。次のように書かれている「・・わが婦女同胞に対する暴行がある。10歳前後の少女から5,60歳の老女までひとたび毒手にあえば、一族すべて逃れがたい。ある場合は数人で次々に辱め、被害者は逃げる間もなく呻吟して命を落とし、ある場合は母と娘、妹と兄嫁など数十人の女性を裸にして一同に並べ強姦してから惨殺した。・・・このような軍隊は日本の恥であるだけでなく、人類に汚点をとどめるものである・・・」 毛沢東は1938年1月週刊誌「群衆」南京大虐殺は人類に対する犯罪述べている。その内容は次の通りである。「・・・9・18に敵軍がわが東北・華北ではたらいた残虐な行為は、すでに世のともに知るところとなっている。しかし、南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未嘗有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。・・・」

 否定派のウソ 5
「当時の南京の人口は20万人しかなかった。だから30万人も殺せるはずがない」
「事実」 否定派が20万人というのは南京安全区委員会が1937年12月17日付け文書で「もし市内の日本兵のあいだで直ちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者がでることはさけられないでしょう」と書いてあることによる。しかし、これは南京陥落後の安全区内に避難収容された人にかぎった数であり、南京大虐殺以前の南京市の人口ではない。  南京市は「城区」(市部)と「近郊区」(県部)にわかれる。城区に限っても1937年11月23日(日本軍制圧直前)に南京市政府が作った文書には人口約50万人となっている。さらにこの後、避難民の流入もあり、日本軍に包囲された中国軍の兵士も15万人いた。
戦前、城区の人口は約100万人、近郊区の人口は約130万人という数字がでているそもそも30万人殺したか1万人殺したか数が問題なのではない。日本軍の残虐行為があったかなかったかの問題なのである南京大虐殺の犠牲になった市民・農民・兵士は一人ひとりの個人であり、名前をもった一度だけの人生を生きていた人たちである。個人の犠牲を考えれば、一万人、四万人、二十万人、三十万人という数の問題はあまり意味をもたない。


 否定派のウソ 6「南京虐殺の目撃者はいない」
 「事実」 全体像をみたものなど誰もいない。しかし1937年12月から翌年はじめにかけて南京城区・郊外で強姦、虐殺、略奪がおこったことは確かである。自分のまわりにおこったできごとを「目撃」して生存している人はたくさんいる。中国では幸存者といい、その目撃証言を大事にし記録している。日本政府を訴えている李秀英さんは日本軍の兵士に強姦されそうになり、全身にたくさんの傷を負った証言をおこなっている。この李さんを「ニセモノ」よばわりする人物が書物をあらわしているが、これも李さんは名誉毀損で提訴している。
 

否定派のウソ 7李秀英さんの証言を読むと食い違いがある。実際に体験したことではない」
「事実」 南京虐殺を否定する人は李さんの証言を直接聞いている人はほとんどいない。ニセモノだという人たちも伝聞で書いている。60年以上前のことを前後関係も数字もきちんと覚えていることの方が不思議である。何ケ所刺されたかなど「刺された人」が数えているはずもない。全体として李さんが体験したことに真実をみいだすべきである。マギーフィルムにも李さんが病院で治療している映像が収録されている。ことさら証言の細部にくいちがうことがあるからと言って「南京大虐殺」そのものをなかったことにしようという「よこしまな」意図が働いているとしか言いようがない。


 否定派のウソ 8「百人斬り」というのは捏造記事である」
 「事実」 百人斬ったかどうかが問題なのではない。戦闘で斬ったというのは確かに「ウソ」であるが、それよりひどいことをした。捕虜を斬ったのである。戦闘行為ではなく、降伏してきた無抵抗の中国兵を斬ったというのが事実である。これ自体とんでもないことである。もちろん南京虐殺を否定したことにはまったくならない。


否定派のウソ 9「遺体埋葬記録は信用できない。たくさんの人は死んでいない」
「事実」 紅卍会という宗教団体が埋葬した記録をつくっているが、1937年12月から翌年3月にかけて
南京市内で4万体以上の死体を埋葬した記録がある。(正確には40371体)この記録は他のいくつかの記録とも符号していて、信憑性の高いものである。また崇善堂という慈善団体も埋葬の行動をしており、これは11万2266体と記録している。その大半は1938年4月に南京城外で10万5千体を埋葬したとなっている
。その時期までに城内の死体埋葬はほぼ終了していた。崇善堂は数千の死体埋葬をすませていた。4月になると気温も上昇し、死体の腐敗もすすむという状況になったので、それまで死体に軽く土をかけただけのものなどが城外に放置されていた。これ以外に日本軍が揚子江に流してしまった遺体などは記録されていないのだから、実態は当然もっと多いことになる。


否定派のウソ 10「とらえた捕虜が暴動をおこしたので、仕方なく発砲した」
 「事実」 
1937年12月13日の戦闘で1万8千人の中国兵が無抵抗で捕虜となった。16日に捕虜収容所内でボヤが発生したが、捕虜の逃亡も銃撃もなかった。この夜、軍命令で揚子江岸の魚雷営で2千人から3千人が試験的に虐殺され、死体はその夜のうちに揚子江に流された。残りの捕虜を翌17日に上元門から約2キロ下流の大湾子で虐殺した。この日の虐殺は大量だったため、薄暗くなるころからはじまった虐殺が18日の明け方まで続いた。そして、死体処理には18・19日の2日間かかった。大量の死体は揚子江に流された。[

否定派のウソ 11「日本軍が殺したのは、民間人のふりをした「便衣兵」であり、投降兵である。正当な戦闘行為である」
「事実」 南京陥落前に主要な中国軍部隊は蒋介石とともに南京を離れている。南京陥落後に南京に残された中国兵は戦意を喪失しており、ほとんど日本軍への攻撃はなかった。南京陥落直後の南京で撃墜された日本軍機の搭乗員の遺体捜索活動に従事した奥宮正武の記述である。「便衣兵あるいは便衣隊といわれていた中国人は、昭和7年の上海事変の際はもとより、今回の支那事変の初期にもかなり積極的に日本軍と戦っていた。が、南京陥落直後はそうとはいえなかった。わたしの知る限り、彼らのほとんどは戦意を完全に失って、ただ生きるために軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。したがって彼らを通常いわれているゲリラと同一視することは適当とは思われない。」(「私のみた南京事件」PHP研究所1977年)南京占領後日本軍は「便衣兵の疑いあり」というだけで次々と虐殺した。また投降兵についても軍事裁判などの手続きをせずにどんどん殺害していった。

 否定派のウソ 12「南京虐殺は日本軍の仕業にみせかけるために中国軍の反日攪乱工作隊がやったことだ」
 「事実」 南京に潜伏した中国軍の兵士がいたのは確かだが、用心深く潜伏していることが重要であって、攪乱するなどという状況になかったことは明白である。こういうこしを発想すること自体「妄想」のたぐいである。
たしかに南京を退却する時の中国軍が脱出・避難のために必要な物資を略奪したり、不法行為を働いた事実もある。しかし、それをはるかにしのぐ進駐してきた日本軍の蛮行があったのである。「ニューヨークタイムズ」のダーディン記者の報告である。「南京に知勇国軍最後の崩壊が訪れた時、人々の間の安堵の気持ちは非常に大きく、また南京市政府及び防衛司令部が瓦解した時の印象はよくなかったので、人々は喜んで日本軍を迎えようとしていた。しかし、日本軍の蛮行がはじまると、この安堵と歓迎の気持ちはたちまち恐怖へと変わっていった。日本への憎しみをいっそう深く人々の心に植え付けた。」(「ニューヨークタイムズ」1938/1/9)

 否定派のウソ 13「南京大虐殺の写真はニセモノばかりである」
「事実」 日本の軍隊に従軍して写真をとっていた従軍カメラマンはたくさんいた。南京戦では200名をこす新聞記者やカメラマンがいた。しかし、撮影も報道もしていない。厳しい陸軍の検閲があったからである。「左に列挙するものは掲載を許可せず」といい、・・・我が軍に不利なる記事写真・・・というのである。これでは「我が軍に有利な写真しか」載らない。南京安全委員のマッカラムは日記に書いている。「1938年1月8日、難民キャンプの入口に新聞記者がやってきて、ケーキ・りんごを配り、わずかな硬貨を手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじのぼり、構内に侵入して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった。」
しかし、平站自動車第17中隊の写真班の村瀬守保氏は輸送部隊であったために比較的自由に写真を撮り、検閲もうけなかった。戦後「一兵士が写した戦場の記録」という写真集をだしている。この中には南京大虐殺現場の生々しい写真が何枚か収録されている。

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