日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

如果你被汪精卫的反动演讲吸引 那你就要当心了+Unknown History=★知られざる重要事項☆Doolittle Raid・ドーリットル空襲と汪兆銘(汪精衛)について

蒋介石政権(しょうかいせきせいけん)とは、中華民国における政権の1つ。中国国民党の蒋介石を事実上の指導者(一時、国家主席)とした南京国民政府(なんきんこくみんせいふ)の異称。
汪兆銘政権(おうちょうめいせいけん)は1940年から1945年にかけて中国に存在した中華民国の政権。行政院長(首相)は汪兆銘。首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政府(なんきんこくみんせいふ)とも呼ばれた。中華民国南京国民政府(ちゅうかみんこくなんきんこくみんせいふ)の名で呼ばれることも多い。
ドーリットル空襲(ドーリットルくうしゅう、英語:Doolittle Raid)は、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)4月18日に、アメリカ軍が航空母艦に搭載したアメリカ陸軍航空軍の爆撃機によって行った日本本土に対する初めての空襲である。なお、作戦遂行において中華民国の国民革命軍の支援を受けた。名称は空襲の指揮官であったジミー・ドーリットル中佐に由来する。相次ぐアメリカ本土攻撃[編集]
The Doolittle Raid, also known as the Tokyo Raid, on Saturday, April 18, 1942, was an air raid by the United States of America on the Japanese capital Tokyo and other places on the island of Honshu during World War II, the first air raid to strike the Japanese Home Islands. It demonstrated that Japan itself was vulnerable to American air attack, served as retaliation for the Japanese attack on Pearl Harbor on Sunday, December 7, 1941, and provided an important boost to American morale. The raid was planned and led by Lieutenant Colonel James "Jimmy" Doolittle, United States Army Air Forces.
アメリカ本土沿岸で通商破壊戦を行った伊10
ーサンフランシスコ市内に張り出されたシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令
1941年(昭和16年)12月8日に行われた真珠湾攻撃以降、アメリカ軍は日本軍に対し各方面で一方的な敗退が続
き、さらに開戦後には、同攻撃の援護を行っていた日本海軍の巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、伊23、伊25、伊26[1]。10隻との記録もある)は、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコの西海岸に展開し、12月20日頃より連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開した。


ーその結果、翌年上旬までにアメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を5隻撃沈し、5隻大破させ、その総トン数は6万4669トンに上った。中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中に多くの市民の目前で貨物船を撃沈した他、浮上して艦船への砲撃を行い撃沈するなど、活発な作戦を行った。
ーさらに1942年(昭和17年)2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を行いこれに成功するなど[2]、一連の本土への先制攻撃を行った。
ーこれらの日本軍による一連の本土への先制攻撃は、これまで殆ど本土を攻撃された経験のないアメリカ政府のみならず国民にも大きな衝撃を与え、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は日本軍の本土上陸は避けられないと判断し、ロッキー山脈でこれを阻止する作戦の立案を指示し、同時にニイハウ島事件の影響もあり日系アメリカ人の強制収容も行うこととなった。
ーさらにアメリカ政府はこれらの日本軍の本土攻撃に対して、国民の動揺と厭戦気分を防ぐべくマスコミに対する報道管制を敷いたが、その後も日本軍の上陸や空襲の誤報が相次いだ。さらには上記の砲撃作戦の翌日には、ロサンゼルスに対する日本軍機の空襲を誤認した陸軍による高射砲戦が行われた結果、6人の民間人の死者を出すなど(ロサンゼルスの戦い)、アメリカ国内は官民を問わず大きな混乱と恐怖に覆われることとなった。
日本本土攻撃計画[編集]
ーこの様な状況を受けて、アメリカ軍は士気を高める方策として首都東京を攻撃する計画を立てた。しかし、当時アジア太平洋の各地域で敗退を続けていたアメリカ海軍の潜水艦は、警戒の厳しい日本本土を砲撃することのみならず、近付くにも大きな危険が伴うために、海軍艦船による砲撃は行えないと考えられた。
ーなおアメリカ海軍は日本海軍のような潜水艦搭載偵察機とそれを搭載する大型潜水艦を実用化していなかった上に、アメリカ陸軍航空軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、ソ連の領土は日ソ中立条約のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。また、アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆撃のためには空母を日本近海に接近させる必要があり、これは太平洋上で唯一動ける空母機動部隊が危険に晒されることを意味した。その一方、アメリカ軍空母機動部隊は1942年初頭から、マーシャル・ギルバート諸島機動空襲を皮切りに日本軍の警戒が手薄な拠点に牽制攻撃をかけている。宇垣纏連合艦隊参謀長は2月2日の陣中日誌『戦藻録』に「冒険性は彼の特徴なり。今や戦局南に西に火花を散らすの時機に投じたりと謂ふべく実効果と合わせ牽制の目的を達したり。今後と雖も彼として最もやりよく旦効果的なる本法を執るべし。其の最大なるものを帝都空襲なりとす。」と記した[3]。宇垣は3月11日にも、戦勝祝賀日の最中に本土空襲があることを想定して「其の結果思ふだに戦慄を禁ずる能はず」と述べている[4]。
空母艦載機による空襲計画[編集]
空母ホーネットに詰め込まれたB-25
 B-25ミッチェル爆撃機
ールーズベルト大統領は、真珠湾攻撃から間もない1942年1月16日の段階で、海軍に日本本土空襲の可能性を研究させていた[5]。1月31日、空母ホーネットを上空から視察した海軍作戦部作戦参謀フランシス・S・ロー海軍大佐は、双発爆撃機を空母から発進させるプランを思いつく。ロー大佐はこのアイデアを航空作戦参謀ドナルド・B・ダンカン海軍大佐に報告した[6]。2月1日、ノーフォーク沖でジョン・E・フィッツラルド海軍大尉とジェームス・F・マッカーシー海軍大尉がB-25をホーネットから発進させることに成功した[7]。そんな中、アメリカ海軍の潜水艦乗組員が「航続距離の長い陸軍航空軍の爆撃機を空母から発艦させ、爆撃後には同盟国である中華民国の領土に着陸させてはどうだろうか」とルーズベルト大統領に進言した。


ー航空軍爆撃機の空母からの発艦は実戦では初であり、この作戦の詳細はルーズベルト大統領にさえトップシークレットとされた。また、空母に着艦するのではなく、日本列島を横断して当時、日本軍と戦争中であり、連合国軍の主要構成国の1国であった中華民国東部に中華民国国軍の誘導信号の下で着陸する予定となった。アメリカ軍はウラジオストクを避難場所とすることを検討してソ連に提案したが、日本と中立条約を結んでいた同国は拒否した[8]。B-25を搭載する空母はホーネットとされ、姉妹艦のエンタープライズが護衛に付くこととなった。
ーB-25爆撃機の方は、第17爆撃隊(第34、第37、第95爆撃中隊、第89偵察中隊)から志願者を選別し24機を抽出した。長距離飛行が要求されるため、燃料タンクを大幅に増設したほか、任務の性格上必要ないと判断されたノルデン爆撃照準器を取り外し[9]、代わりに簡易照準器が搭載された。4月1日、16機がサンフランシスコ・アラメダ埠頭で空母ホーネットの甲板にクレーンで搭載された[10]。
横須賀軍港に対する空襲
艦隊発見[編集]

ー1942年4月1日、16機のB-25を搭載した空母ホーネットおよび護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻はサンフランシスコを出撃した。途中、エンタープライズと巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と合流し、日本へ向かった[11]。エンタープライズの乗組員は、ソ連にB-25を輸送する任務だと噂している[12]。攻撃予定日前日の4月18日02:10(03:15とも。以下時刻は24時間制で表記。)、エンタープライズはレーダーに2つの光点を発見する[13][14]。米艦隊はSBDドーントレス爆撃機を索敵のため発進させ、同機は80 km 先に哨戒艇を発見した[15]。06:44、米艦隊は哨戒艇を視認。それは日本軍特設監視艇「第二十三日東丸」に発見されたことを意味した[16]。「第二十三日東丸」は軽巡ナッシュビルの砲撃で07:23に撃沈され、乗員14人全員は艇と運命を共にしたが、それまでにインチ砲弾915発と30分を必要とし、日東丸に無線を使う時間を与えた[17][18]。06:45に発信された『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』が「第二十三日東丸」最後の無電となった[19]。
ーアメリカ軍は付近の哨戒艇を一掃する事を決意、エンタープライズを発進したドーントレス(アメリカ軍記録ではF4Fワイルドキャット戦闘機)は周辺の哨戒艇を攻撃する[20]。7:00に「栗田丸」、10:00に「海神丸」、11:00に「第一岩手丸」と「第二旭丸」、「長久丸」。11:30に「第一福久丸」、「興和丸」、「第二十六南進丸」。12:00には「栄吉丸」
と「栗田丸」(2回目)、「第三千代丸」をそれぞれ攻撃した[21]。「第一岩手丸」は米軍機の爆撃と機銃掃射で航行不能になり、翌日17:00に沈没した。船員は潜水艦「伊七四」に救助された[22]。「長久丸」は機銃掃射で火災が発生し、翌日03:00に沈没した。生存者は「栗田丸」に救助された[23]。「栄吉丸」はSBD1機と交戦し、航行不能となり、支援艦「赤城丸」に曳航されて本土に向かった。12:50、「第二一南進丸」が至近弾で航行不能となり、翌日17:00に軽巡洋艦木曾が砲撃処分した。乗員は「木曽」に救助された[24]。13:00、「長渡丸」は『米空母2隻、米巡洋艦2隻を発見』したと通報する[25]。約30分後の13:36、ナッシュビルが「長渡丸」を6インチ砲102発、5インチ砲63発と1時間を消費して沈めた。乗員9名が戦死し、5名がナッシュビルに救助されている[26]。第二哨戒艇部隊は監視艇3隻と22名(行方不明14、戦死7、重軽傷13)を失い[27]、第三哨戒部隊は監視艇2隻と15名を失った[28]。
ー米艦隊は発艦予定海域手前の予想外の遠距離で日本軍に発見されたため、当初の夜間爆撃の予定をとりやめ[12]、予定より7時間早い07:20からB-25爆撃機を発艦させ始めた。最後のB-25が08:19に発艦した後、艦隊は直ちに退避を開始した[29][30]。なお、B-25の7番機(テッド・W・ローソン中尉)の搭載爆弾には、駐日米海軍武官補佐官ステファン・ユーリカ海軍中尉の所有物で、かつて日本から授与された紀元2600年祝典記念章がドーリットルの手で装着されていた[31]。
空襲[編集]
ードーリットル率いるB-25爆撃機16機は東京府東京市、神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市、三重県四日市市、[32]兵庫県神戸市を爆撃した。16機中15機が爆撃に成功した。以下、特筆すべき機のみ記載する。
ードーリットル機(機体番号40-2344)は茨城県から東京上空に侵入し、12:15に空襲を行った。東京第一陸軍造兵廠を目標としていたが、全く無関係の場所を爆撃してしまい、民間人に死傷者を出す[33]。結果、早稲田中学の校庭にいた4年生の小島茂と他1名が死亡、重傷者4名、軽傷者15名、家屋50棟という被害が出た。ドーリットル機は日本陸軍の九七式戦闘機の追尾を振り切り、海軍厚木基地近くを通過して海上に出た。この時厚木基地に配備されていた機体は、旧式の九六式艦上攻撃機だった[34]。
ー相模湾を北上して東京へ侵入しようとした4番機(機体番号40-2282、機長エベレット・W・ホームストロム少尉)は、唯一爆弾を海上に捨てて離脱したB-25となった。機長は日本軍機多数に迎撃され、機銃も故障して離脱したと申告している。
ー6番機(機体番号40-2298)は東京を目標としたのち、中国大陸沿岸の日本軍の占領区域に不時着した。爆撃手ダイター軍曹、航空機関士フィッツマーリス伍長が死亡し、機長ホールマーク中尉、副機長メダー少尉、ネルソン航空士が捕虜となった。
ー8番機(機体番号40-2242、エドワード・J・ヨーク大尉)は鹿島灘から東京へ侵入したが、燃料消費がはやく、北上して栃木県西那須野駅、新潟県阿賀野川橋梁付近を爆撃しつつ、日本海へ抜けてウラジオストクに向かった[35]。日本海を越えて19:35にソ連本土に不時着したが、すぐにソ連警察によって拘留されてしまう。乗員は各地を転々と移送されたのち、同盟国のイギリスの影響圏であるイラクに脱出して、1943年(昭和18年)5月29日にようやくアメリカに帰還した[36]。
ー他に2番機(機体番号40-2292)、3番機(機体番号40-2270)、4番機(機体番号40-2282)、5番機(機体番号40-2283)、7番機(機体番号40-2261)、9番機(機体番号40-2303)、10番機(機体番号40-2250)の計10機が東京を目標とした。また11番機(機体番号40-2249)と12番機(機体番号40-2278)が横浜を目標とした。
ー13番機(機体番号40-2247エドワード・E・マックエロイ中尉)は、房総半島の南部を横断して横須賀に向かった。13:00頃、記念艦「三笠」の上空から爆撃を開始し、3発目の爆弾が、横須賀軍港第4ドックで潜水母艦から空母へと改装中だった「大鯨」(龍鳳)に命中する[37]。「大鯨」では火災が発生した。13番機は日本海軍の中枢(横須賀鎮守府)を爆撃することに成功し、対空砲火の中を離脱した。
ー16番機(機体番号40-2268ウィリアム・G・ファロウ中尉)は名古屋を目標としたのち歌山に向かい、後に中国奥地で全員が捕虜となった。この16番機は日本領土内の各地で民間人に対する機銃掃射を行い、これが後の死刑判決に繋がった。
ー他にも14番機(機体番号40-2297)が名古屋を、15番機(機体番号40-2267)が神戸を爆撃した。空襲を終えた16機のB-25のうち、北のウラジオストクへ向かった8番機を除く15機のB-25は日本本土南岸の洋上を飛んで中国大陸へ向かった。この時、B-25は遭遇した船舶に対して、それが民間船であろうと機銃弾のある限り攻撃を行った[38]。15:00、室戸岬沖で漁船「高島丸」が攻撃を受け重傷1名。16:00、足摺岬沖で漁船「第二三木丸」が2機に銃撃され、2名が死傷。17:15、鹿児島県口永良部島近海で漁船「昌栄丸」が機銃掃射を受け、重傷1名が出た。
日本軍の反応[編集]
4月18日06:30、「第二十三日東丸」から「空母2隻を含む機動部隊発見」という通報を受けた日本軍は警戒を厳とする[39][40]。しかし日本海軍は、アメリカ軍の攻撃は航続距離の短い艦載機によるものと判断し、米軍機の発進・空襲は19日早朝と推測した[41]。そこで連合艦隊は「対米国艦隊作戦第三法」を下令し、近藤信竹中将指揮の第二艦隊に米機動部隊の捕捉・撃滅を命じる[39]。横須賀にいた空母祥鳳、重巡洋艦の愛宕と高雄、水上機母艦瑞穂、駆逐艦嵐と野分に加え[42]、三河湾にいた重巡洋艦摩耶、瀬戸内海にいた重巡洋艦羽黒と妙高、軽巡洋艦「神通」、日本に帰投中の重巡洋艦鳥海が米艦隊迎撃任務にあたることになった[43][44]。同時に第二六航空戦隊も戦闘準備を整えつつ、哨戒機を発進させた。当時無敵を誇った南雲忠一中将指揮の南雲機動部隊はインド洋で行われたセイロン沖海戦から日本への帰路についており、台湾近海を航行中だった。第二航空戦隊(山口多聞少将司令官)に属する空母蒼龍、飛龍に迎撃命令が下ったが[45]、関東沖合の米機動部隊を捕捉するには距離が遠すぎた[46]。日本海軍からの通報を受けた陸軍は、万一に備えて各地の飛行部隊と防空部隊に防衛と哨戒命令を出した。さらに敵爆撃機警戒警報を出したが、「敵機の高度は高い」の通達が各地の判断を惑わせる。このため各部隊はB-25編隊を発見しつつ、日本軍機と勘違いして上級司令部へ通報してしまう[47]。菅谷と岩屋監視哨はB-25を米軍機と断定して報告したが、電話交換手と監視隊本部との押し問答で15分を浪費し、情報は有効に生かされなかった[48]。かろうじてB-25の通過前に迎撃を開始した高射砲部隊もあったが、旧式の八八式七糎野戦高射砲でB-25を捕捉することは出来なかった[49]。逆に高射砲弾の破片が市民7名を負傷させた。陸軍よりも海軍の高射砲台の方が活発に射撃したが、1発の命中弾もなく終わる[50](また、各砲台は半分以上が工事中だった[51])。横須賀軍港には多数の艦艇が停泊しており、空母「祥鳳」、重巡洋艦愛宕、高雄、駆逐艦嵐、野分、朝潮、荒潮、潮、漣、第二十二駆潜艇が発砲したが、いずれも命中弾はなかった[52][53]。第二艦隊(旗艦:愛宕)は外洋に出て米機動部隊を捜索したが会敵できず、21-23日にかけて各艦は母港へ戻った[54]。なお陸海軍とも三八式歩兵銃による対空射撃が多数記録されているが、当然、全く命中しなかった[55]。
三沢海軍航空隊第十一航空艦隊第二六航空戦隊の木更津基地からは、一式陸上攻撃機部隊が米艦隊捜索に発進した[56]。第四索敵機(有川俊雄中尉)が09:30にB-25単機を発見したのみで、米艦隊発見には至らなかった[57][58]。エンタープライズは50 km まで接近した偵察機の存在を記録している[59]。午後12時30分、第十一航空艦隊は敵艦隊の位置がわからないまま、魚雷を装備した一式陸攻30機、偶然内地に帰還していた空母加賀所属の零戦24機(12機とも)を米艦隊発見地点に向かわせた[60][61]。しかし米艦隊は既に反転しており、出撃は空振りに終わった[62]。一式陸攻3機が墜落と不時着で失われ、零戦1機も不時着して大破した。三沢海軍航空隊は19日以降も索敵を行い、大部分は米軍機動部隊攻撃に備えて待機したが、もはや出番はなかった。
B-25の大半の侵入ルートにあった水戸陸軍飛行学校は、本来航空通信と機上射手の教育を目的としていたため、航空戦力がなかった。教官の平原金治曹長が九七式戦闘機で出撃したものの、B-25には追いつけなかった[63]。しかしながら、試作戦闘機「キ61」(のちの三式戦闘機「飛燕」)試作2・3号機に搭載したホ103 一式十二・七粍固定機関砲射撃試験のため、水戸飛校を訪れていた陸軍飛行実験部実験隊の荒蒔義次少佐、梅川亮三郎准尉がキ61で迎撃している。荒蒔機は装備の弾薬筒を代用弾(演習弾)から実弾に変更するため離陸が遅れ、会敵出来なかったものの、梅川機は代用弾のまま先行離陸、B-25の11番機(ロスグリーニング大尉)を捕捉し、白煙をふかせた。11番機は東京に侵入することができず、偶然発見した香取海軍飛行場を爆撃し、九十九里浜を抜けて離脱した[64]。なお、これによって撃破されたB-25は4番機(ホームストロム少尉)ともされている[65]。なお11番機は日本軍戦闘機2機の撃墜を報告したが、キ61は無事帰還した。また川崎を爆撃した9番機(ハロルド・F・ワトソン中尉)は、機関銃を4丁装備した引き込み脚の戦闘機から攻撃を受けたと報告している。
さらに正午に翌日ラバウル航空隊へ送るために試験飛行をしていた海軍の十三試双発陸上戦闘機が横浜上空に高角砲の弾幕と山肌スレスレを飛行する双尾翼の双発機を目撃して操縦していた小野飛曹長は九六式陸上攻撃機かと思ったものの、当日早朝に敵空母機動部隊発見の報告から警戒警報が出されていたことから米軍機かもしれないと考え、実弾を積んでいなかったため攻撃は行わず、急いで木更津基地へ滑り込んだ[要出典]。
横須賀航空隊からは、宮崎勇飛行兵曹ら3機の零戦が発進し、哨戒飛行にあたっていた。零戦隊は『双発機2機が試験飛行で飛ぶので注意せよ』との通達を受けており、対空砲火の中を飛ぶB-25を通達のあった味方機と誤認した。零戦隊が敵機だと知らされたのは着陸してからだった[66]。
東海地区では、B-25到達までに時間があったことから、空襲前に迎撃機が発進した。鈴鹿海軍航空隊から九六式艦上戦闘機9機、九六式艦上攻撃機、九七式艦上攻撃機6機が出撃したが、空振りに終わった。「陸上爆撃機は高高度襲来」の思い込みから高高度で待機し、少数機が低空で飛行するB-25を見落とした結果だった。逆に洋上哨戒に出た九七式艦上攻撃機1機が不時着し、乗員は救助された[67]。陸軍からは明野陸軍飛行学校が臨時防空戦闘機隊を編成し、一式戦闘機「隼」3機、九七式戦闘機15機に教官が搭乗して離陸した。この部隊もB-25と遭遇できずに帰還した[68]。阪神地区では、陸軍の飛行第13戦隊が空襲にまったく対応できず、出撃記録も不明である。ただし、B-25の15番機が神戸上空で九七式戦闘機2機を目撃している。海軍は阪神地区の防空を担当しておらず、動きはなかった。岩国航空隊が所属機を横須賀に派遣したのみである。
洋上では、佐伯海軍航空隊所属の九九式艦上爆撃機2機が15:47に高知県足摺岬沖でB-25を発見した。井上文刀大尉は追跡を命じたが、速度の遅い艦上爆撃機ではいかんともしがたく、振り切られた。16:17には、宮崎県都井岬沖で駆逐艦「黒潮」がB-25数機を発見し、主砲と機銃で攻撃したが、損害を与えることはできなかった[69]。
結果[編集]
ー捕虜となったB-25搭乗員を連行する憲兵下士官。搭乗員を処刑した事に対するアメリカのプロパガンダ諷刺画
日本側には死者87名、重軽傷者466名、家屋262戸の被害が出た[70]。このうち9名は日本軍高射砲の破片によると
認められている[71]。国際法上禁止されている非戦闘員に対する攻撃を故意に行った機もあり、葛飾区にある水元国民学校高等科生徒石出巳之助が機銃掃射を受け死亡した[72]。この学童には「悲運銃撃善士」という戒名が与えられた[72]。朝日新聞社は『鬼畜の敵、校庭を掃射』等を報じている[73][74]。


ーまた、日本軍の航空機と勘違いし、手を振った学童に対しても機銃掃射したが死者は出なかった。ただし、このB-25(3番機)は学校屋上に設置されていた防空監視櫓を見て軍事施設と誤認した可能性がある[75]。14番機は名古屋病院を爆撃したが、これは第3師団司令部を狙った攻撃がそれたためである[76]。16番機は他のB-25に比べて積極的に機銃掃射を行った。
ー爆撃機隊は日本列島を横断し、中華民国東部にて乗員はパラシュート脱出した。この結果、15機のB-25が全損となった。8番機はソ連のウラジオストクに不時着、乗員は抑留された。乗員は戦死が1名、行方不明が2名、捕虜となったのが8名で、残る隊員はアメリカへ帰還して熱烈な歓迎を受けた[77]。
ー昭和天皇は杉山元参謀総長からではなく東久邇宮稔彦王防衛総司令官に真相を直接報告せよと勅命した。それに対し、東久邇宮防衛総司令官は「敵機は一機も撃墜できませんでした。また今のような体制では国内防衛は不可能です」と答申する[78]。なお、大本営は「敵機9機を撃墜。損害軽微」「わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり」と発表した[79][80]。中部軍に至っては、空襲直後に「東京防空隊ノ撃墜セシ機数7」を報告している[81]。しかし当日は晴天であり、墜落した航空機など市民からは一機も確認されなかった。このため、大本営の発表に対し、『皇軍は空機(9機と空気をかけた駄洒落)を撃墜したのだ』と揶揄するものもいた[82][83]。そのため陸軍は中国大陸に不時着したB-25の残骸を回収し、4月25日から靖国神社で展示して、国民の疑念を晴らそうとした[84]。4月26日の朝日新聞は『まさしく大東亜戦下の靖国神社臨時大祭にふさわしい景観』と評している[85]。陸軍報道部は「指揮官はドゥ・リトルだが、実際(被害)はドゥ・ナッシング」と発表した[83]。この空襲のため東京六大学野球の開会式が中止となった[86]。
ー朝日新聞は4月19日朝刊で『バケツ、火叩きの殊勲、我家まもる女子、街々に健気な隣組』『初空襲に一億たぎる闘魂、敵機は燃え、堕ち、退散。"必消"の民防空に凱歌』『われに必勝不敗の国土防衛陣あり』等を報じ、日本国民の冷静さを強調した[87]。一方、日本軍は空襲に対して疑心暗鬼となっていた。空襲前日の4月17日、伊豆諸島沖を航行していたソ連商船「セルゲイ・キロフ」が駆逐艦「澤風」の臨検を無視して逃走し、「澤風」が拿捕する。ソ連船は4月22日まで拘留された。足摺岬沖のソ連商船「バンゼッチ」も、九九式艦爆2機から威嚇射撃を受けた。これはソ連商船がB-25の行動を本国に報告しており、空襲と関係があるものと疑ったためである[
ー空襲後は各地の監視哨から存在しない敵大編隊発見の報告が入り、上級司令部を混乱させた。カモメの大群を「敵味方不明の大編隊」とする報告や、存在しない米軍機との交戦報告が多数寄せられている[89]。一例として、大阪警備府は「ブリストル ブレニム爆撃機と目下大阪上空にて防空隊と交戦中」と4月19日に報告した[90]。また陸海軍機に対する誤認と誤射が18日から21日にかけて多数発生し[91]、鹿島空の九六式陸上攻撃機が陸軍戦闘機から誤射され、高橋光夫電信員が戦死した。
一方、日本軍に逮捕された爆撃機搭乗員8人は、都市の無差別爆撃と非戦闘員に対する機銃掃射を実施した戦時国際法違反であるとして、捕虜ではなく戦争犯罪人として扱われた[92]。アメリカは爆撃機搭乗員が捕虜になったことを知ると、「彼らは軍事目標のみを攻撃した」と事実とは異なる主張を展開した[93]。5月6日、昭和天皇は蓮沼蕃侍従武官長に以下の希望を述べた[94]。
1.日本武士道に反せざるよう[94]
2.国際関係に悪影響を及ぼさざるよう[94]
3.帝国臣民にして敵側に抑留せらある者(将来も起り得べし)に対する敵側の報復を誘わざるよう、穏便に行うこと[94]


ーその後、上海市で開廷された軍事裁判の結果、8名全員に死刑が言い渡された。1942年(昭和17年)10月15日に上海競馬場で操縦士2名と銃手1名が処刑された(ディーン・E・ハルマーク(ホールマーク)中尉、ウィリアム・ファロー中尉、ハロルド・スパッツ軍曹)。捕虜の処刑を受けてアメリカは日本の行為を『野蛮人の蛮行』として非難し、大々的にプロパガンダに利用した[95]。また日本の指導者であった東條英機を「血に飢えた独裁者」であると宣伝し、現在もアメリカ国内ではそのように認識されている。1944年(昭和19年)にこれら捕虜を描いた映画『パープル・ハート』が20世紀フォックスによって製作された。
ー3人の遺体は火葬ののち国際赤十字を通じてアメリカ側に引き渡された。残り5人の死刑執行は猶予された。ロバート・J・メダー少尉は1943年(昭和18年)12月1日に南京で栄養失調による赤痢と脚気で死亡した。1人は1945年(昭和20年)当時重慶で療養していたと報道された[96]。1945年(昭和20年)8月20日に捕虜が解放された。16番機爆撃手ジェイコブ・ディシェイザーは1945年(昭和20年)8月20日に北京で解放されたあとキリスト教の伝道者となり、日本で布教活動をおこなった[97][98]。真珠湾攻撃の飛行隊総隊長を務めた淵田美津雄中佐は戦後ディシェイザーの冊子を読んでキリスト教に興味を持ち[99]、1949年(昭和24年)に改宗した。淵田はアメリカ伝道活動中、ジミー・ドーリットルと対面している[100]。
影響[編集]アメリカ本土空襲[編集]
ー開戦以来日本軍に対し各地で敗退続きだったアメリカ国内はこの空襲によって沸き立ったが、この東京初空襲に対抗して、ただちに日本軍もアメリカ本土に対する攻撃を活発化させた。6月20日には日本海軍の潜水艦「伊26」が、カナダのバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を砲撃し、翌6月21日には日本海軍の潜水艦が、オレゴン州アストリアにあるフォート・スティーブンス陸軍基地を砲撃した。
ーその後9月9日と同月29日に日本海軍の潜水艦の艦載機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度に渡り空襲した(アメリカ本土空襲)。この空襲による日米両陣営の被害はなかったものの、「ドーリットル空襲」後も敗退を続けたアメリカ政府及び軍は、国民への精神的ダメージを配慮してこの日本海軍機による空襲の事実を公表しなかった。なおこの空襲は、現在に至るまでアメリカ本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。
Aftermath[edit]Fate of the missing crewmen[edit]

 Lt. Col. Doolittle with members of his flight crew and Chinese officials in China after the attack. From left to right: Staff Sgt. Fred A. Braemer, bombardier; Staff Sgt. Paul J. Leonard, flight engineer/gunner; General Ho, director of the Branch Government of Western Chekiang Province; Lt. Richard E. Cole, copilot; Doolittle; Henry H. Shen, bank manager; Lt. Henry A. Potter, navigator; Chao Foo Ki, secretary of the Western Chekiang Province Branch Government.Following the Doolittle Raid, most of the B-25 crews who had reached China eventually achieved safety with the help of Chinese civilians and soldiers. Of the sixteen planes and 80 airmen who participated in the raid (with the single exception of Capt. Edward York and his crew (eighth off—AC #40-2242), which landed in Soviet Russia and the crew interned), all either crash-landed, were ditched or crashed after their crews bailed out. Nevertheless, 69 escaped capture or death, with only three killed in action (KIA) as a result of the loss of their aircraft. When the Chinese helped the Americans escape, the grateful Americans in turn gave them whatever they had on hand. The people who helped them paid dearly for sheltering the Americans. Eight Raiders were captured (POW), but their fate was not fully known until 1946.[28][29][30]Accounted for as KIA shortly after the raid was Cpl. Leland D. Faktor, the flight engineer/gunner on Lt. Robert M. Gray's crew, (third off—AC #40-2270). The citation for his posthumous Distinguished Flying Cross reported that after Faktor successfully bailed out with the rest of his crew over mountainous terrain near Suichang, Zhejiang Province, China, he was killed shortly afterwards when he fell down a cliff.[29][31]The crews of two aircraft (ten men in total) were unaccounted for: Hallmark's crew (sixth off) and Farrow's crew (last off). On 15 August 1942, the United States learned from the Swiss Consulate General in Shanghai that eight of the missing crew members were prisoners of the Japanese at the city's Police Headquarters. Two crewmen drowned after crash-landing in the ocean. On 19 October 1942, the Japanese announced that they had tried the eight prisoners and sentenced them all to death, but said several had received commutation of their sentences to life imprisonment. No names or details were given.
The story of the missing crews was revealed in February 1946 during a war crimes trial held in Shanghai to try four Japanese officers charged with mistreating the eight captured crewmen. It was learned that two of the missing crewmen, Staff Sgt. William J. Dieter and Sgt. Donald E. Fitzmaurice, drowned when their B-25 crashed into the sea. The other eight were captured: Lieutenants Dean E. Hallmark, Robert J. Meder, Chase Nielsen, William G. Farrow, Robert L. Hite, and George Barr, and Corporals Harold A. Spatz and Jacob DeShazer. On 28 August 1942, pilot Hallmark, pilot Farrow, and gunner Spatz faced a war crimes trial by a Japanese court alleging they strafed and murdered Japanese civilians. At 16:30 on 15 October 1942, they were taken by truck to Public Cemetery Number 1, and executed by firing squad.
 Robert L. Hite, blindfolded by his captors, 1942
The other captured airmen remained in military confinement on a starvation diet, their health rapidly deteriorating. In April 1943, they were moved to Nanking, where Meder died on 1 December 1943. The remaining men, Nielsen, Hite, Barr and DeShazer, eventually began receiving slightly better treatment and were given a copy of the Bible and a few other books. They were freed by American troops in August 1945. Four Japanese officers were tried for war crimes
against the captured Doolittle Raiders, found guilty, and sentenced to hard labor, three for five years and one for nine years. DeShazer graduated from Seattle Pacific University in 1948 and returned to Japan as a missionary, where he served for over 30 years.[32]
Total crew casualties: 3 KIA: 2 off the coast of China, 1 in China; 8 POW: 3 executed, 1 died in captivity, 4 repatriated.[28][29][30][33] Of the surviving prisoners, Barr died of heart failure in 1967, Nielsen in 2007, DeShazer on 15 March 2008, and the last, Hite, died 29 March 2015.
Service of the returning crewmen[edit
Immediately following the raid, Doolittle told his crew that he believed the loss of all 16 aircraft, coupled with the relatively minor damage to targets, had rendered the attack a failure, and that he expected a court-martial upon his return to the United States. Instead, the raid bolstered American morale to such an extent that Doolittle was awarded the Medal of Honor by President Roosevelt
, and was promoted two grades to brigadier General, skipping the rank of colonel. When General Doolittle toured the growing Eglin Field facility in July 1942 with commanding officer Col. Grandison Gardner, the local paper of record (the Okaloosa News-Journal, Crestview, Florida), while reporting his presence, made no mention of his still-secret recent training at Eglin. He went on to command the Twelfth Air Force in North Africa, the Fifteenth Air Force in the Mediterranean, and the Eighth Air Force in England during the next three years.
Corporal David J. Thatcher (a flight engineer/gunner on Lawson's crew) and 1st Lt. Thomas R. White (flight surgeon/gunner with Smith) each received the Silver Star for helping the wounded crew members of Lt. Lawson's crew to evade Japanese troops in China. All 80 Raiders were awarded the Distinguished Flying Cross and those who were killed or wounded during the raid awarded the Purple Heart. Every Doolittle Raider was also decorated by the Chinese government.

Twenty-eight of the crewmen remained in the China Burma India theater, flying missions, most for more than a year. Five were killed in action. Nineteen crew members flew combat missions from North Africa after returning to the United States, four of whom were killed in action and four becoming prisoners of war. Nine crew members served in the European Theater of Operations; one was killed in action. Altogether 12 of the survivors died in air crashes within 15 months of the raid. Two survivors were separated from the USAAF in 1944 due to the severity of their injuries.[1]The 17th Bomb Group, from which the Doolittle Raiders had been recruited, received replacement crews and transferred to Barksdale Army Air Field in June 1942, where it converted to Martin B-26 Marauder medium bombers. In November 1942 it deployed overseas to North Africa, where it operated in the Mediterranean Theater of Operations with the Twelfth Air Force for the remainder of the war.
Zhejiang-Jiangxi Campaign[edit]
After the raid, the Japanese Imperial Army began the Zhejiang-Jiangxi Campaign (also known as Operation Sei-go) in order to prevent these eastern coastal provinces of China from being used again for an attack on Japan. All airfields within a range of some 20,000 sq mi (50,000 km2) in the areas where the Raiders had landed were torn up.[34] Germ warfare was used and atrocities committed, and those found with American items were shot. The Japanese killed an estimated 10,000 Chinese civilians during their search for Doolittle's men.[35] Some estimates are that as many as 250,000 Chinese were killed during the campaign.

歴史[編集]
中国国民党:国民政府
中国共産党との国共合作を行って、1926年以後、蒋介石の指導の下に北伐を行って軍閥政権との戦いを続けた。だが、急激な勢力拡大と共産党勢力の浸透は反共的な蒋介石の支持者や経済界の不満を抱かせた。そこで、1927年4月上海クーデターを起こして共産党勢力や労働組合の粛清を図り、同年4月18日南京に南京国民政府を樹立した。蒋介石はこれに反対する武漢国民政府を屈服させ、1928年6月には軍閥政府の根拠地である北京を陥落させた。1928年10月、蒋介石は全国統一を受けて政府主席に就任し、「訓政綱領」と「国民政府組織法」を定めた。これは「以党治国」(国民党による国民政府の指導)と行政・司法・立法・考試・監察の5院制を定めたものであった。だが、翌年以後蒋介石の方針に反対する勢力と保内紛が勃発し、1931年5月には広州国民政府が成立して蒋介石を脅かした。だが、同年の満州事変の勃発が和解機運を生み出し、1932年1月には南京国民政府は統一を回復した。蒋介石は主席の地位を林森に譲って自らは軍事委員長に転じ、行政院長に汪兆銘(後に孔祥熙)を擁立したが、実権は蒋介石が掌握していた。南京国民政府成立後最初の10年(南京十年)は、第一次上海事変の影響で一時洛陽に疎開した他は南京にあり、関税自主権の回復や廃両改元などの幣制改革や鉄道網整備などの経済基盤を確立して都市の資本家や中間層の支持を固め、列強から認められる安定政権の確立に成功した。だが、内実は農村部における共産党勢力の浸透は重大な脅威とされ、日本の侵略に対する自国の国際的信頼の低さから、「先安内後攘外」(国内の安定化を優先し、その後で対外的危機にあたる)路線を打ち出して、国内各層の反感を買った。
日中戦争[編集]
その後、西安事件を機に蒋介石は「先安内後攘外」路線の放棄と国共合作の復活を余儀なくされる。1937年7月に始まった日中戦争は、12月13日に首都南京の陥落を招き、政府は武漢、ついで重慶への疎開を余儀なくされた(重慶国民政府)。この間国民参政会・国防最高委員会を組織して、蒋介石に全国陸海空軍統帥権を付与するなど抗日戦争を指揮する体制を整備し、連合国から治外法権回復や軍事・経済援助を受けるなどの支援策を受け、1943年10月には蒋介石を再び政府主席とした。だが、汪兆銘の離反と支持基盤である東部の喪失、急速な財政悪化と物資不足、国民党と共産党との反目と事実上の内戦再開など、統治の不安定要素も増加していった。
国共内戦[編集]
1945年9月2日のポツダム宣言調印(日本の降伏)を機に首都南京を回復した蒋介石政権は、10月15日にGHQの命令を受けて台湾に進駐し、10月25日に光復式典によって台湾を編入した。蒋介石は国共内戦を開始する一方で、1947年1月に中華民国憲法を公布、1948年3月には制憲国民大会が召集された。これをもって訓政及び国民政府制度の終了と立憲・民主政府による憲政確立が宣言され、蒋介石が新設の中華民国総統、李宗仁が副総統に選出された。だが、内戦に不利とそれに伴う経済危機克服のために程なく事実上の軍政に突入し、実態は国民政府時代と大きな違いはなかった。やがて、1949年1月21日に蒋介石は総統辞任と李宗仁への移譲を決断、4日後に政府の広州移転を決断して、南京国民政府はここに崩壊した。1949年4月23日に中国人民解放軍が南京を占領、10月1日に中華人民共和国が成立すると、共産党による中国大陸支配が始まった。これを受けて、2ヶ月後の12月7日に、中華民国政府は台北への疎開が決定された。

「新政府」樹立の決意
これまで見てきたように、重慶脱出後、ハノイへ向かった汪兆銘らは、近衛首相の突然の辞任により、結局「梯子を外された」形になります。彼らは、和平運動の「次の一手」を見いだせぬまま、そのまましばらくハノイに滞在します。そんな汪兆銘にとって転機となったのが、腹心、曾仲鳴の暗殺事件でした。
『汪精衛自叙伝』より
三月二十一日の午前二時、わたくしは曾仲鳴夫妻と、寝苦しいまま深夜まで語り耽つてゐた。(P216)

その時仲鳴は『先生一統の和平派が河内に脱出したことを、重慶では外遊するのだと宣伝してゐますが、さういふデマの効果があるうちはともかく、なくなれば必ず先生はじめわれわれの生命を狙ひに来るでせう。先生の身体は中国四億の人民のもので、先生個人のものではない。どうぞ御用心下さい』と夫妻で部屋に引き取ったが、五分と経たないうちに塀の外でピストルの音がした。わたくしは眼をつぶつて凝つとしてゐたが、機関銃のダダダダといふ音と共に仲鳴夫妻がやられた。『生きてくれ君璧、生きてわたしの代りに汪先生の力になつてくれ』と朱に塗つた仲鳴は叫びつづけてゐた。そして有名な『国事は汪先生にあり、家事は我が妻にあり、今や我れ何等心配すべき事なし』といふ遺言を残して逝つた。 仲鳴は妻の君璧女士を庇はんとして、機関銃弾を七八十発も受けて殆れたのだ。幸に夫人は助かつたがわたくしは尚ほ春秋に富む曾仲鳴を、わたくしの身代りにしたことを慟哭したのであつた。犯人は藍衣社系の現役軍人で王老僑と推知された。(後上海で捕へられ処刑された) (P217)
 
曾の暗殺は、汪に大きな衝撃を与えました。汪は「黒幕」と見られる蒋介石への怒りを顕わにし、蒋に対抗する政府の樹立を決意します。日本側もまた、ハノイでは汪の安全が確保できないことを懸念し、影佐禎昭・犬養健に命じて、汪をハノイから脱出させます。脱出後、上海へ向かう船の中で、汪はその決意を、影佐にこう語りました。影佐禎昭『曾走路我記』より


汪氏とは爾後上海に至る間日々屡々会談をしたのであるが、その間に於て汪精衛氏の自分及犬養氏に語った重要なることは概ね左の通りである。
 第一点は汪氏日く
「従来和平運動の展開は国民党員を中心とする和平団体を組織し言論を以て重慶の抗日理論の非なるを所以を指摘し和平が支那を救ひ東亜を救ふ唯一の方法であろうといふことを宣揚し逐次和平陣営を拡大し究局に於て重度を転向せしめやうと云ふ案で進んで来たがよくよく考へるに言論のみにては重慶政府を転向せしむることは甚だ困難である。寧ろ百歩を進めて和平政府を樹立して叙上言論による重慶の啓発工作以外に更に日支提携すればこれだけ好く行く 従つて抗戦は無意義であるといふことを事実を以て証明しこれによつて輿論の帰趨を問ひ重慶政府の動向を和平に転ずるの外なきに至らしむる方が適当であらうといふ結論に達した。 従つてもしも貴国政府に於て異存がなければ従来の計画を変更し和平政府樹立の計画に変更したい希望を持って居る。」と。(P365)
要するに、新政府を樹立して日本と和平条約を結ぶことによって、中国-日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待する、という構想です。
ただしこれは、重慶脱出時の構想と、根本的に異なるものでした。当初汪は、日本の占領地の外に新政府を樹立して、蒋政府に対抗する「第三勢力」を築き上げる計画だったはずです。しかしその計画が不可能となった今となっては、日本の占領地を間借りしてそこに政府をつくる、という何とも屈辱的な方法しかなくなってしまったのです。 今さらそんなことをやって、成功の見通しがあるのか。「汪兆銘工作」の当事者であるはずの今井武夫すら、悩みを見せます。今井武夫『支那事変の回想』より
この頃私は、汪兆銘の南京に政府を樹立する構想に対し、その成果に懸念を感じ、必ずしも賛意をあらわしかねていた。元来重光堂会談に於ける高宗武の主張は、政権樹立に当っては日本軍の占領地域を忌避して、極力雲南、貴州、、広東、広西等の日本軍未占領地を選ぴ、汪派の軍隊を以て之れを占拠し、重慶の抗戦国民政府に対立して和平政府を樹立する如く揚言していたに拘らず、遽かに方針を変更し、進んで日本軍占領区域内の南京に国民政府を樹立しては、所謂傀儡政権に堕し、従来の臨時、維新両政府と何等選ぶところがなくなり、果して事変解決に寄与するか、或いは寧ろ全面和平の障碍となるか不明にして、大いに検討する必要があった。
たとえ汪の主張の如く重慶側に働きかけて、彼等の抗戦政策を転向させるように施策するにしても、汪政権が自ら傀儡政府となっては、彼も亦国を売るものとして、国民大衆の指弾する所となりかねない。殷鑑遠からず、北京臨時政府の王克敏や、南京維新政府の梁鴻志の轍を履むのではないかと恐れたので、上海で汪の腹案を聞いた時、私は事の意外に驚き、その考の一端を述べて、周佛海や梅思平と討議した。(P96)
今井は「上策とは云い難いが次善策」と思い直し、汪政府構想に協力することになりますが、従来汪兆銘工作の中心にあった西義顕などは、完全に批判的な立場に転じます。
西義顕『悲劇の証人:日華和平工作秘史』より
少なくとも、日本軍の占領地域に政府をつくる場合に比べ、自主性を維持することが比較にならぬはど容易であり、最後の自由行動権はそこなわれることなく保留される。(P245-P246)
日本軍の占領地域に政府をつくる場合は、そうはいかない。生殺与奪の権は完全に日本軍の手中に握られるのである。いわば日本軍の捕虜になるのである。何を苦しんで、みずから進んで日本軍の捕虜になる必要があるのか。(P246)
 
田尻愛義の批判は、さらに痛烈です。『田尻愛義回想録』より


日本の占領地では北京の王克敏にせよ、南京の梁鴻志にせよ、占領地の行政のために日本に協力しているのであって、別に蒋介石に対抗するためではない。ところが汪が重慶脱出前には占領地の傀儡政府を嫌いながら今になって占領地の政府を統合して自分がその長になろうというのは一体何と解釈していいのか。私に言わせれば、彼には自分の一身の利害があるだけで、もう中国、中国人のための平和幸福の目標をすてている。全占領地域にわたる政府をつくりたいというのは蒋との対抗意識の現れ以外の何ものでもない。しかも自分をも裏切るばかりか、占領地の中国人を欺くことにもなる。(P71)
ともかくも、汪は新政府設立を決意しました。しかしこれは、日本に対して抵抗を続ける重慶政府から見ると、敵陣営に投降するに等しい「裏切り行為」です。どうやって「漢奸」の汚名を着ることなしに「政府」を設立できるのか ― 汪の苦悩が始まります。
2  厳しい「和平」条件
1939年10月より、いよいよ汪兆銘と日本側との、和平条件をめぐる交渉が開始されます。しかし日本側が示した条件は、予想外に強硬なものでした。それは、日本側の交渉当事者ですら、愕然とせざるをえないものでした。
影佐禎昭『曾走路我記』より
自分は近衛声明の具体化されたものは即ち昭和十三年の暮決定を与へられた「日支関係調整方針」であつて要すればこれに「戦時下の過渡的弁法」を附加する程度のものと予想して居たのである。然るに十月初興亜院会議決定事項として堀場中佐及平井主計中佐の持参せる交渉原案を見るに及び自分は暗然たるを禁じ得なかつた。「日支関係調整方針」及「戦時下の過渡的弁法」は自分の予想の如く指示されたが其の以外にこれに便乗附加せられた条項の少くないのは一驚した。例へば普北十三県を蒙彊に編入せんとするが如き北支政務委員会の権限を著しく拡張せんとするが如き重要鉄道を日本側に委任経営せしめんとするが如き防共的永久駐兵の区域を著しく拡張せんとするが如き海南島に対する権益を設定せんとするが如きは如何に見ても近衛声明より逸脱するものであると思はざるを得ない。堀場中佐は自分に問ふて曰く「この条件で汪政府が民衆を把握する可能性ありや」と自分は「不可能である」と答へざるを得なかつた。(P376)(みすず書房『現代史資料13 日中戦争5』所収)
今井武夫『支那事変の回想』より
この内約は日本側にあっては、近衛第三次声明の基本政策たる日支新関係調整方針に基づき、十月初め既に日本側試案を決定したが、権益思想に依り新たに政府各省から便乗追加された条項も少くなく、忌憚なく言って、帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物であった。即ち一例を挙げれば、日本軍の傀儡たる蒙彊政権の境域を拡張したり、又日本軍の指導力の浸透していた華北政府の権限の拡大を図ったり、或いは鉄道の経営権を日本側に委託せしめようとしたり、日本軍の駐兵区域を増大したりした。更に甚しきは海軍側から海軍独自で突然新たに、海南島に日本海軍の権益を設定せんと、秘密裡に協議を図る等何れも重光堂に於て日華双方が協議決定した日華協議記録に違背し、近衛第三次声明の精神を逸脱するもので、その理由は常に戦時特例として、臨時的な必要だと言うにあった。
(P103)
犬養健『揚子江は今も流れている』より


東京の興亜院から汪精衛に対して実に過酷な和平条件をつきつけて来たからである。(P199)「やあ、遅くなりました。それが問題の『内約』かね」私も早速浴衣一枚に着替えながら、影佐の背中に声をかけた。
「首尾はどうです。よほど手厳しい内容のものか」
「うむ。手厳しいにも何にも、話にならんのだ。―勿論わしも今は戦争がつづいていることだから、この『内約』にも多少は戦時の過渡期の取り定めというような条件が入ると覚悟はしていたがね。
今ここで読んで見ると、この書類の七割ぐらいはその戦時の要求というやつで埋まっているのだ。そのうえ、秘密協定の手厳しいのが、あちこちに八ヵ所も臆面なくのさばっている始末だ。
これじゃあ和平実現どころじゃない。汪さんは中国国民に不明を恥じて詫びなけれはならんよ。執筆者の堀場中佐でさえ、あまりひどいので、冷却期を置いて再検討しようと主張しているそうだ。
とにかく、近衛さんも興亜院などという大変な役所をつくってしまったものだな」(P200)
 
岡田酉次『日中戦争裏方記』より


今にしてこれを思えば、これは明らかに汪派の和平工作にあらかじめ死刑の宣告を与えたものとも見ることができる。少なくとも工作の将来に致命傷を与えてしまったことは、その後の経過に徴し明らかであろう。(P209)
 
これ以降、汪側は、少しでも条件を緩やかなものにするため、苦心の交渉を重ねることになります。


しかし交渉は難航し、12月25日には、途方に暮れた汪は、ついに「交渉打ち切り」すら申出するに至ります。
影佐禎昭『曾走路我記』より
尚十四年十月二十五日交渉停頓して一時決裂の危機に逢着した。汪氏は自分の来印(ママ)を促し悲痛な面持を以て語つて曰く「貴下を初めとし梅華堂の諸君が交渉の結果を近衛声明に成べく近づけんと努力し大乗的の態度に出て居ることは自分の衷心感謝に堪へない所である。 併し乍ら御承知の如く日本側の提議された原案は実は近衛声明と距ること頗る遠くその為に同志の中には失望を感じて既に落伍するものもあつたし、又今後も落伍者を見んとするような状況に立ち到つた。其後交渉により修正を見るに至つたと雖今日支両委員会の聞に於て交渉の停頓して居る事項は凡て自分の和平運動に対する致命的の問題のみである。又貴下がこの上和平運動を成立させる為にこれ等主要問題につき譲歩されるといふことになれば貴下自らが日本政府に対して重大なる責任を負はなければならぬといふことになり之亦自分の忍び難いところである。仍て本交渉は寧ろ打切つてはどうかと思ふ。固より自分が和平を旨とするといふことは信念として変るところはないのであるが唯政府樹立の形式に依る方法を中止してはどうかと思ふ」と。
(みすず書房『現代史資料13 日中戦争5』所収)
この時は、影佐の説得により、汪はとりあえずは翻意し、交渉は継続されることになりました。そして結局、当初の条件を幾分緩和した形で、交渉は妥結しました。しかしそこに、とんでもない事件が起こります。
3高宗武らの離脱
高宗武は、1934年、28歳の若さにして国民党政府の亜州司長(日本の「外務省アジア局長」に相当)に就任。1938年5月には松本重治らの導きにより日本を極秘訪問、板垣陸相らと「和平」をめぐる話し合いを行いました。この時高宗武は、中国国民党内部にも汪兆銘らの「和平派」が存在することを伝え、日本側に和平への希望を与えました。これはのち「汪兆銘工作」に発展しましたが、結果として「和平」は実現せず、国民党の反蒋グループが離脱したというだけの結果に終ってしまったことは、先のコンテンツでも見てきた通りです。 高宗武は、早い時期から「汪兆銘工作」の中国側の中心的存在として活動していました。しかし高は、その工作の「変質」に、心を痛めざるをえませんでした。
昭和十四年十二月の旅行の際、高宗武に招待されて、しみじみと話し合ったことがある。この運動のきっかけをつくったのは、松本と高だが、樹立する政権は日本の傀儡になってはならないということを、誰よりも明確に主張していたのも、高だったのだ。
そんなこともあって、汪兆銘と一緒に東京に来た際も、宿舎を別にされたり、日本の軍人のなかには彼を「斬る」などと息巻く者までいた。彼は僕を招待した席でしみじみとこういうんだ。
「このままでは僕は同胞に合わせる顔がありません。われわれは、大変なあやまちをおかしたのではないでしょうか」 正直にいって、僕は何と答えていいか、わからなかったよ。(P167)
 
そして高は、ついに汪グループからの離脱を決意します。そして、あまりに過酷な日本側の条件を、国民党系新聞『大公報』に持ち込み、世界に暴露してしまったのです。高の暴露が、汪グループに与えた衝撃は、計り知れないものがありました。周仏海が泣き出す様子を書いた、神尾茂の記述がリアルです。


神尾茂『香港日記』より一月二十三日(火) 
  清水、矢野、犬養、小池、扇、波多の七人で海光寺で昼食してゐると、二時頃迎賓館より犬養君に電話があつて、周佛海が来るといふ。十分もたたない中に同氏座に在り
「実に残念だ、憤激に堪へない」とて二三枚の罫紙に書いたものをポケットから出し「日本の皆様に済まない、私は泣いた」


と言ひつつ犬養氏に渡す。今受取つたばかりの大公報の記事全文を伝へた電報だ。周は頭を垂れて両眼に涙をためてゐたが、彼は感極まつてすすり泣き、終に泣き出してしまつた。大公報の記事は高宗武、陶希聖が、国家のためにこの秘密協定全文を暴露すると称して、投書した形になつてゐる。協定全文は秘かに撮影して、国民政府に送つたといふことも書いてある。聞けば十二月に入つて関係書類を一晩持つて帰つたことがあつたといふ。この時から高は今日の毒計を考へてゐたものに違ひない。(P177)周曰く
「汪先生は三回忠告した、それ以上は言ふことが出来なかつた。この運動は私と梅さんと、陶希聖と高宗武と四人が協力して進めて来たものだ。二人に叛かれて二人になつてしまつた。実に残念だ」と泣く。(P177-P178)
座に在るもの皆粛然、慰むるに言葉なし。(P178)
周も、その日記の中で、「二匹のクズはいつか必ず殺してやる」と、感情の高ぶりを隠そうとしません。


『周佛海日記』より一月二十二日
昼食後上海からの無線電を受け取るが、高、陶のクズどもが香港で条件をすべてを発表したとのこと、憤慨の極みなり。影佐が釆て、大局には関わりないとして、余から汪先生にそのことを伝えて安心させるよう勧められた。彼の意図は余を慰めることにあるのだが、その内心も苛立つことこの上なしの情況である。 三時に青島に着き、汪先生に従って海軍の艦艇に乗って上陸する。ついで汪先生の代理として当地の中日各責任当局をそれぞれ訪問し、さらに影佐と蒙古問題を協議する。夕食後、汪先生が同行した幹部を集めて会議を開き、会議への各種対応策を協議する。 晩に思平と高、陶の件で話し合うが、憤慨の余り一睡も出来なかった。上海に戻ったら長文の声明を発表して内容の説明と我々の態度を明らかにして全国民の耳目を正すことにしよう。高、陶の二匹のクズはいつか必ず殺してやる。(P151)
実を言えば高が暴露した文書は、汪兆銘側の努力によりやや緩和された最終案ではなく、日本側が思い切り高飛車な要求をぶつけてきた、当初案でした。日本側と汪は、そのことを指摘して反撃を試みますが、もはや世界への衝撃を薄めようもありません。汪が日本の傀儡となろうとしている― このイメージは中国国民の間に完全に定着してしまいました。*余談ですが、28歳の若さで国民党政府「亜州司長」の地位を得、その後「汪兆銘工作」の影でこれだけの活躍をした高宗武は、これを最後に「引退」してしまいます。彼の表舞台での人生は、30歳代前半という若さで終わってしまったわけです。その後高はアメリカに渡り、しばらくは貧困に苦しみましたが、タイピストの妻の「内助の功」もあり、晩年は悠々自適の生活を送ったと伝えられます。(1996年没)
4「新政府」は成立したが・・・
 1940年3月30日、紆余曲折の末、ともかくも汪兆銘政府は発足しました。ただし、汪は「国民党の正統はこちらにある」と主張していたため、新政府設立にあたり、「南京遷都」という形式をとります。
『汪精衛自叙伝』より
南京還都


東亜新建設の基礎たるべき中華民国政府還都典礼は、三月三十日午前十時から桃の花かをる南京国民政府大礼堂において挙行された。定刻国民政府主席代理たるわたくしをはじめ、立法院長陳公博、司法院長温宗尭、考試院長王揖唐、監察院長梁鴻志等新政府諸員は席につき、式典は国家奏楽をもつて開始された。孫総理の遺嘱朗読につぎ中央壇上に立つたわたくしは、感激に溢れる歴史的遷都宣言を行つた。青天白日満地紅旗のもと、国民政府は和平の実現と憲政の実施の二大方針を掲げて、再び首都南京に帰還し、この日をもつて中華民国唯一の合法的中央政府たるべき旨を宣言した。中日の全面的和平実現への組織はここに固められ、新生中国は力強くその第一歩を踏出したのである。(P270-P271)
 
汪はこう書きましたが、関係者は、新政府の前途困難を思わずにはいられませんでした。金雄白『同生共死の実体』より


しかし、汪政権成立のこの日の演説は、なんの特別の印象ものこっていない。彼の声はとても低く、生彩を欠いて力がなかった。おそらく彼の一生のうち、最も失敗した演説であったろう。(P109-P110)
かつて汪兆銘工作を進めた「同志」、西義顕も、式典への出席を謝絶しました。西義顕『悲劇の証人:日華和平工作秘史』よりちなみに、汪兆銘の南京政府が南京遷都の形式で成立したのは、昭和十五年(一九四〇)四月三十日のことである。 日本政府は、阿部信行特派大使を派遣して盛大にその式典を祝った。汪兆銘から、私に対しても、伊藤芳男を介して、祝賀式典参列の招待があったが、私は、式服の準備がないからとの措辞で謝絶した。(P270)初期に高宗武と会見するなど、「工作」に一定の関わりを持った西園寺公一も、同様でした。


 西園寺公一回顧録『過ぎ去りし、昭和』より
汪兆銘政権は、昭和十五年三月に樹立されている。彼は、日本に裏切られ、当初の構想とはまったく異なる「新政権」の首班となったわけだ。南京では盛大な式典が行なわれたらしい。僕も汪さんから招待されたが、とても行く気になれなかった。だからわざと日をずらして、式典の数日後、南京へ入ったんだ。(P169)
新政府の実態については、初期から「工作」に関わり、新政府発足後も「顧問」という形で汪に協力した影佐が、こんなことを書いています。影佐禎昭『曾走路我記』より
汪政府成立後其の傘下に来り投じた者は非常に多数に上るが其の質に至りては真に玉石混淆であった。(P384)
自分の観る所では真に和平の信念に燃えて居る人々は上層部では汪氏以下十指を以て数へ得る過ぎないのではあるまいかと思ふ。


而して自分の意外とする所は下級の官吏、軍人中に此信念を抱いて居る者が案外少くなかつたことである。其の他大部の者に至りては信念とか見識を持て汪政府に参加したものではなく其の日暮しで今日を以て明日の去就を卜し得ない者も少からざる様見受けられた。(P384-P385)
然るに新政府が成立しても全般の雰囲気が前と余り変り栄へが目立たないものであるから真面目ながら性急なる青年官吏軍人等は悶々の情に堪へぬが此煩悶を解いて呉れる様な上官が少ない。
 斯くて意気銷沈して和平運動の前途を悲観し或は運動からの離脱を志す者も生ずるに至つた。(P385)
(みすず書房『現代史資料13 日中戦争5』所収)
下級官吏には「理想」を失わないものも案外いたが、肝心の上層部はほとんどが「理想」を失っている。これでは、新政府が「和平運動」に力を持てるはずもありません。 結局のところ、汪の和平構想は、失敗に終わりました。以降汪は、放置すれば横暴になりがちな日本側から、少しでも民衆を守ることに心を砕くことになります。
ここまで見てきた経緯から明らかな通り、汪兆銘は、蒋介石に対抗するだけの、政治家として力量を欠いていたことは事実です。しかしこの状況を生んだ原因を、汪兆銘の側にだけに求めるのは酷でしょう。工作に関わった民間人は、口々に、汪兆銘を「悲劇」に追いやった日本政府、軍部を批判します。
西園寺公一回顧録『過ぎ去りし、昭和』より
汪兆銘政権は、日本の軍部がつくったようなものだった。でも、日本政府がこの政権を「承認」するのは、この年の十一月だ。何故、即座に 「承認」ということにならなかったかといえば、汪兆銘政権ができても局面打開の手がかりにならないことがはっきりしていたからなのだ。
この間、日本が何をやっていたかといえば、水面下で蒋介石政府と和平交渉していたんだな。それがことごとく失敗した後に、自分の手でつくった政権を「承認」したというわけさ。ずいぶんひどい話だよ。(P170)
水面下の交渉の一つに、宋子文の実弟・宋子良と陸軍参謀本部の鈴木卓爾中佐との交渉がある。このことについて、僕が関係しているようにいわれているらしいが、間違いだ。僕はこの交渉にはまったく、無関係だ。(P170-P171)
汪兆銘は日米戦争が始まってしばらくすると病気になり、名古屋の病院に入院した。
そして、昭和十九年にここで亡くなっている。不幸な死にかただったな。(P171)
西義顕『悲劇の証人:日華和平工作秘史』より
かくては、いかに偉大な革命家とても何事をなしうるものであろうか。日本の指導者のそれほどまでの低劣さとは知らず、種々奔走し、汪兆銘重慶脱出の契機をつくったひとり、大悲劇の因をつくった私らの愚劣さ、またたとうべきものもなく、今はなき汪兆銘に対しては謝すべきことばも知らないのであり、回想するだに慨嘆の極みであるが、この物語は、順序として、日本の軍閥と属僚政府がいかに程度の低い存在であったかを再説せざるをえないのである。(P226)
 
犬養健『揚子江は今も流れている』より


結局一番ひどい目に会ったのは汪精衛であって、もともと「蒋を相手にせず」と言ってしまった近衛の失言の穴埋めに、代理役として引き出したのだという先入主が、どうしても陸軍の脳裡にあるから、和平条約の内容をきめる両国の交渉委員の折衝に際しても、最上の条件を汪に与える気は毛頭ない。そういう立派な御馳走ほ蒋自身が乗り出した時の「取って置き」のものであって、汪には勿体ないという考え方である。これでは汪の立場も台無しである。度重なる日本陸軍の違約と冷遇に直面して、汪は生涯の政治力をも使い果してしまった。彼は名古屋の帝大病院に入院して、手術失敗の結果、やがて死んで行った。(P313)
善意の政治家であった汪を「悲劇」に追い込んだ原因は、日本側のあまりに場当たり的・無責任な対応にあった。そのように判断すべきところでしょう。




×

非ログインユーザーとして返信する