日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Suh Joon-sik・Follow Passion for self- reliance-From Korean political prisoner to human rights activist/서준식・자생에 대한 열정 - 한국의 정치범에서 인권 운동가로/徐 俊植・自生への情熱―韓国の政治囚から人権運動家へ ①

서준식(徐俊植, 1948년 ~ )은 일본 출생의 대한민국 진보 인권운동가이자 사회주의자이다. 1971년 소위 유학생 형제 간첩단 사건으로 투옥되어 7년을 복역하고 사상과 양심의 자유를 지키기 위해 전향을 거부한 이유로, 10년을 더 복역하고 1988년에 출감하였다. 인권운동사랑방 대표를 역임했다.
17年間政治犯として囚われていた著者が釈放後に新聞・雑誌に寄稿した文章のうち、その生き方や問題意識を最もよく示しているものを選び、本書のための新たな書き下ろしを加えて翻訳...17 년간 정치범으로 사로 잡힌 저자가 석방 후 신문 및 잡지에 기고 한 문장 중, 그 삶의 방식과 문제 의식을 가장 잘 보여주는 것을 선택하고, 본서에 대한 새로운 신고를 더해 번역. .
希望の人権運動 ー自生と禁欲のための弁明ー    1995年
平凡で安定した暮らし、自分の力で、自分の流す汗で妻と子どもを養いながら、音楽を聞き、本を読み、文章を書く、こじんまりとした暮らし、これが私の昔からの夢だった。小さいころには中学校の体育教師になる夢、大学時代には小学校の教師になる夢、教師になる夢を奪われた監獄での20代には小さな出版事業の夢、監獄での30代後半にはカンカン照りの日差しのもとでツルハシを振りおろす肉体労働という最後の夢を追いかけていた。私が「したかったこと」は、いつもこのように取るにたりないことだった。しかし、これらの取るにたりないことでさえも、いつも私にとっては非現実的な「夢」でしかありえなかった。
これらの取るにたりない願いがなぜ非現実的な夢でしかありえないのかを、私は、遅まきながら近ごろになってようやく、46歳になった人間の確かな手ごたえでもって理解する。人権運動に明け暮れながら、私は、こうした「ささやかな暮らし」をわれわれに許してくれない無残に破壊された世界の生々しい姿をひしひしと感じており、また、その破壊された世界の中で疎外されている多くの人々に自分が「借り」を負っていると自覚するがゆえに、私はやはりこの「ささやかな世界」に籠ってしまえないことを感じている。
借りを負っている人間は「禁欲の痛み」のなかで生きていくほかない。
出獄から7年。世間からまったく隔絶された真っ暗な監房から、「6月大抗争」[1987年6月、大統領の直選制などを求めて高まり、チョン・ドゥファン<全斗煥>政権を崩壊へと導くことになった民主化運動]以後の、激しく鼓動する心臓のような熱気溢れる祖国の現実の真っ只中へと、生きて戻ってきた私は、冷戦のもたらした南北分断と強権による支配の維持を目指す保守勢力の力と、これに反対して南北統一と民主化を求める民衆勢力の力とが、今もなお激しくぶつかりあっている「あまりにも政治的な」この地で、融通の利かない禁欲の隠遁者のように偏屈に、ひたすら「私の人権運動」を創造することに没頭してきた。あまりにも政治的な社会では誰もがそうであるように、私としてもやはり、政治的な心性を育みつつ、力強く政治スローガンを叫びながら生きていきたい。人権運動は、元来、私が「したいこと」ではなかったし、今でももちろん「したいこと」ではないのだ。
しかし「自生への情熱」は、現在でも私を人権運動という「土地」に縛りつけている。権利、それは、人間のもっとも原初的な要求に基づく政治的な主張であり、かつ、いまだ体系化されていない断片的な主張だ。私は、もっとも直接的な仕方で疎外の構造にたいする深い認識にわれわれを導いてくれるのは、結局は「人間の権利」という概念であることを、いつのころからか確信するようになった。あまたの権利が波のように寄せては返し、たがいにぶつかりあい、絡まりあいながら渦巻く広大な「権利の海」で、ときには溺れ死にそうな苦痛にもがいたりしながらも、私は、人間の権利というこの上もなく確かな概念につかまりながら、私の希望、すなわち、人々を疎外から解放してくれる理念の実現へ向かって近づいていきたい。私の希望は既製品ではない。人権運動は、私の希望が自生するための禁欲の場だ。
自生のための努力は、苦痛に満ちた喜びだ。自生を成し遂げていく過程は喜びだが、そのために踏まえて立たねばならない場は、まさに、禁欲の痛みに溺れる海だ。私は、監獄での私の生を愛したが、監獄は憎んだ。私は、自生の喜びに向かって歩む私の人権運動家としての生を愛するが、明らかに、人権運動それ自体はあまり「したくないこと」なのだ。
「禁欲の痛み」と「自生への情熱」、これが、いまもなお私の生の様式だ。
17年の監獄暮らしが私を育んでくれている間に、冷戦の時代は過去へ過去へと流れ去り、世の中は「両極」から「多極」へと移りゆきつつあった。そして、私の監獄の歳月も変わりつつあった。監獄で30代後半に差しかかっていた私の人生は、血を涸らす苦悩とメランコリーで綴られていた。私はそのとき、拷問よりももっと恐ろしいものがあるという事実をはじめて知った。
われわれの生きている世の中というもの、そして、人間の実存というものが、私が20代の若いころに安易に把えていたような単純なものではけっしてないという強烈な思いが、30代後半に差しかかっていた私の胸を強く打ちはじめた。それは途方もない苦痛であり、茫々たる大海にひとり投げ出されたような絶望だった。
単純明快な抽象と集団的な情熱に身をゆだねる私の「安楽な進歩」の季節は過ぎ去ってしまい、人間の現実の限りない複雑さを正直に受けとめながらも進歩の側にしっかり立たねばならない苦痛の季節の扉がしだいに開かれつつあった。それは当然に苦難だ。なぜなら、それは、具体的な現実を踏まえて最初からやり直さなければならないからであり、現実の破片をかき集め、それらをふたたび少しずつ「希望の体系」へと統合していくための地道で生彩を欠いた歳月を耐えなければならないからだ。具体性への回帰。これが、失意に陥った人間と歴史をいつも健かに蘇らせてくれる力なのだ。そして、この作業は、「自生への情熱」、したがって、「禁欲の痛み」なしには成し遂げえない。このころから私は、冷たい壁に囲まれた独房から具体的な生の海のなかへ飛びこむことを熱望しはじめていた。
監獄で私が熱望していた具体的な仕事は、けっして人権運動ではなかった。近代市民革命の完成とともに地球上に生れ出た人種という概念は、資本主義を支えるために階級の概念を覆い隠してきた、きわめて西欧的なイデオロギーだと思ったからだ。事実、労働者階級は人権運動をしない。帝国主義は、「普遍的な人種」を押し立てて、労働者階級の根本的に正当な希望を踏み潰してしまったりする。「具体的な仕事に精魂を傾ける努力は貴いが、しかし、人権運動は、具体的現実の海で没価値的に、方向性なしに、もがくだけであり、社会の質的問題に鋭く迫ることがなく、「超越」を試みない。変革の地平を見つめない。人権運動は、どうしてもやはり、私の「したくないこと」だ・・・。」これが監獄の中での私の人権運動観だった。しかし、奇妙なことに、いま私は、想像もできなかったその人権運動をしており、そのなかでメランコリーを克服しつつあり、そして生涯にわたって人権運動家として生きていく決心をしている。

私は、長い監獄暮らしの果てに、南韓[大韓民国]で[非転向スパイ]という烙印を捺された姿で釈放された。釈放された私は、そうした私を取り巻くさまざまな制約された条件のもとでは、自活するための職業を持ち、身を伏せてじっと迫害に耐えながら生きていくのが、とりあえずは現実的だと考えていたにすぎない。こじんまりと暮らしながら、監獄で長い間にこの胸に積もり積もった思いを原稿用紙にぶちまけたい願いは痛切だったけれども、「非転向スパイ」が人権運動をすることができるとは思いもよらなかったし、また、人権運動をしたいという気もさらさらなかった。
しかし「したいこと」と「せねばならないこと」をふたつの皿に乗せた私の天秤は、いつでも、後ろ髪を引かれながらも、「せねばならないこと」のほうに傾くようになっている。「チョンジュ「清州」保安監護所非転向出獄第一号」だった私は、何も知らない世間に向かって、長期囚と転向について激しく語りかけざるをえなかった。これは、どうにも逃れようのない獄中同志にたいする人間としての「借り」だったし、この世から正しい主張が葬り去られないための「物理的根拠」として自らの身体をいつも宿命のように捧げてきた私にとって、絶体絶命の義務だった。南韓で「長期囚問題」、つまり長期服役政治犯の問題は、「北韓[朝鮮民主主義人民共和国]や「社会主義」の問題とほとんど直結する問題であるために、それは、「6月大抗争」直後の雰囲気のなかで事実上解禁されはじめたとはいえ、あいかわらず、テロの可能性までも含む非常に危険な問題だと、一般に考えられていた。そうした時期に私は、じつに逆説的にも、転向書を書くことを正面から拒否しぬいたがゆえに、いいかえれば、迫害のなかで曖昧に妥協することなく、現体制のもとで利益をひとりじめにしている保守勢力との完璧な断絶を固守しぬいたがゆえに、極右反共の社会で堂々と長期囚の話をすることができたし、その運動を開拓することができたのだ。
当時、南韓の監獄には、200名を越す長期囚がいた。しかし、じつに奇異なことに、人々は、長期囚についても思想転向についても語らなかった。それは、「長期囚=北韓のスパイ」という図式が完璧に成立していたからだ。長期囚救援運動をする難しさは、まさに、ほとんどすべての長期囚が「スパイ罪」で服役しているというところにあった。
「北からの脅威」は、分断状況のなかでありとあらゆる利益を享受する保守勢力の決まり文句だった。「スパイ」という、南韓社会で特殊な意味をもつ概念は、この「北からの脅威」の核心に位置づけられ、「北からの脅威」を象徴することによって、一方では、北韓にたいする恐怖と敵愾心を国民に呼び起こす機能を果たし、もう一方では、進歩や統一を擁護するいかなる主張も封じこめるための恐怖政治の道具として機能してきた。分断体制を維持するためには、この象徴はつねに再生産されていなければならなかったし、1950年代前半の北韓政治工作員も、戦争捕虜も、海外の「親北人士」も、また、単に北韓を訪問しただけの者も、すべて「スパイ」でなければならなかった。いや、数多くの平凡な国民たちも「スパイ」にデッチ上げられねばならなかった。「スパイ」こそ、分断体制のもとではだれも疑問を提起してはいけない、分断体制の最後のタブーだったのだ。
「スパイ」論理を打ち破れるのは、論争でも理論でもなかった。それは、ほかでもなく、具体性への回帰―「スパイ」たちは具体的にどんな人々なのか、彼らの為した行動は具体的にどんなことだったのか、そして、そうした彼らが刑務所という無法地帯で受けてきた虐待はどんなものだったのかを、誇張もなく、隠し立てもせず、ありのままに調査して語っていく具体性への回帰―でなければならなかった。具体性への回帰は、つねに、壁にぶち当たったわれわれを救ってくれる。南韓で、分断体制を支えるこの最後のタブーを打ち破るための突破口を開いたのは、統一運動ではなく、まさに人権運動だったのだ。
私は人権についてはなにも知らなかった。人権にはどんな項目があるのかも具体的に知らなかったし、労働者や女性、子どもや障害者の権利が、韓国の人権団体で言う人権の範疇に入るのかどうかについても、自信をもって語れなかったし、「世界人権宣言」すら一度も通読する機会をもてなかった。「世界人権宣言」の類いは読んだことがなくても立派に仕事ができるのが、韓国の人権運動だったのだ。しかし、3年間の「したくない」長期囚救援運動の結果、私は、彼が国の社会運動の一角に「人権運動家」として独自の場を占めるようになった。私としては人権運動をしているというはっきりとした意識がなかったのに、人々は私のことをいつからか人権運動家と呼んでいた。長期囚問題に傾けた私の努力を人権運動と呼ぶのなら、私は長期囚救援運動を通じて人権運動に入門しつつあったわけだ。そうした過程で私は、人権と人権運動の展望について開眼しつつあった。具体的な事実を踏まえて人間にたいする抑圧と闘うがゆえに「無敵」の人権運動・・・。

1960年代後半から徐々に冷戦体制が揺らぎはじめるともに、世界のあちこちで民主化運動ないしは民権運動の風が吹き、この過程で、お払い箱になっていく軍事政権に代わって、「文民」政権が誕生しはじめる。1970年代前半から1987年の「6月大抗争」に至る韓国民衆の反独裁闘争・軍事ファッション打倒闘争は、根本的に、この世界史的な流れのなかに位置する。
今日の韓国の人権運動は、相変わらず、「維新[パク・チョンヒ(朴正煕)政権]「五共[チョン・ドゥファン(全斗煥)]」当時の血なまぐさい反独裁闘争の伝説のなかにある。独裁打倒闘争は、その明分としていつも人を押し立てたし、人権運動は、いわば、独立した運動ジャンルであったというよりは、反独裁闘争、民主化運動の一部であったし、その時代にはすべての人々が(キリスト教会や仏教寺院までも)、反体制をはっきりと志向しながら「人権!」と叫んでいたのだ。その当然の結果として、人権は「市民的・政治的権利」を意味するほかなかったし、とくに、具体的には「良心囚」釈放運動を意味するほかなかった。そして、その方法は、しばしば、独裁と反人権にたいする大衆の巨大な憤怒の感性に依拠する「即自的」方法であり、それは粗削りで拙くはあったが、そのなかには痛切さとみずみずしさがあったことはたしかだ。

「6月大抗争」は二つの点で社会運動の方法に変化を促したと思われる。ひとつは、露骨に暴力的で強圧的だった統治方法が、合法・改良を装って狡猾に暴力を動員する方法へとしだいに変わっていくにつれて、大衆の意識のなかで憤怒の感性が鈍ったために、社会運動が、そのような状況変化のなかで、大衆にとって説得力のある新たな方法を開発せねばならなくなったという点であり、もうひとつは、運動力量の飛躍的発展が引き起こした必然的な過程として、この反独裁民主化運動が、もはや「人権!」と呼ばなくなった労働、農民、女性、スラム、環境などのさまざまな専門的運動へ分化しはじめたという点だ。
この状況のなかで、人権運動は、自分の拠って立つ地盤と運動の展望をめぐって、あらためて苦悶せざるをえなくなっていた。そして、いまや人権運動にたいしては、軍事政権下でのみずみずしさを失ってしまうことなしに自らの運動方法を成熟させ、社会運動全体のなかに人権運動を明確に位置づけるという差し迫った課題が与えられているように思われた。すなわち、韓国の人権運動は、変化した状況の挑戦を受けながら、過去の「即自的」な運動から、自分自身の運動的使命と展望を自覚しはじめたのであり、韓国人権運動のこの困難な課題は、自然の成り行きとして、私が引き受けざるをえない役目となった。

長期囚救援運動を経て、自分の残りの人生を人権運動家として生きていく決心を固めつつあったころ、私は、人権と人権運動についてこんなふうに考えていたー。
「だれにでもまったく同様の適用される人間の権利」を実現していかねばならない人権運動家は、赤裸々な政治的主張を押し立てることなく、だれをも人間として尊重しつつ、人間の権利を主張する人権の専門家として、公平無私に活動せねばならない。しかし、だからこそ党派性(政治的立場ないしは表向性)を捨てて事実の次元だけ忠実でなければならないというのは、正しい言い分ではなく、それ自体がまたひとつの政治的主張でありうる。階級の問題をめぐって苦悶せず、社会構造の問題に鋭く迫らず、人権の実現される世の中へ向かっての「超越」や変革を夢見ず、そして、祖国統一への願いをもたずして、どうして普遍的に人権を実現するために苦悶できるというのか。私は、社会の変革を夢見ながら、人権運動をしている。われわれが生きる世の中に価値中立的なものはなにもない。人間の権利それ自体は、イデオロギー的に無色で普遍的だが、しかし、すべての分野の運動の現場がそうであるように、人権運動の場にも、あきらかに保守と進歩との熾烈な葛藤がある。これは厳然たる現実だ。
変革への希望は、人間の権利のための公平な活動と矛盾するものではない。いや、矛盾しないだけではなく、相互補完的だ。人権運動は、変革への希望をしっかり胸に抱くことによって、人権運動を自らの政治的利害に従属させようとする邪な政治的影響力から、自分らの純粋さを守ることができ、未来に向かって人権概念をより人間的なものに拡大させていくことができる。変革への希望は、人間性を抑圧する既存のすべてに挑戦する人権の視点をもつことによって、つねに具体的な立脚点をもつことができ、人間にたいする愛情を積み上げることによって人間の顔をしたものになることができる・・・。
韓国の人権運動を「対自的」なものとして打ち立てること、この仕事には、おおよそ次の二つの課題が含まれていると、私は思う。第一は、韓国人権運動の方法を、より計画的で意識的で専門的なものへと発展させるという課題であり、第二は、韓国人権運動の運動的意味と理念を創造していく仕事だ。
この仕事の困難さをうっすらと自覚したとき、私は、私の生をいっそう太い根をもった新たな生へと更新するために、「最大の努力で食い入っ」ていた長期囚問題から「最大の勇気で抜け出し」た[中国現代水墨画家李可染が伝説水墨画の研究に携わったときの姿勢を語った言葉]。それは、私の出獄後わずか3,4年のことであり、時あたかも、長期囚問題は韓国最大の人権問題として浮かび上がりつつあった。長期囚救援運動に資金が集まりつつあり、獄中の長期囚たちは、毎年、獄外の支援勢力と連帯しながら堂々と断食闘争を繰り広げており、アムネスティ・インターナショナルは韓国の長期囚を続々と「良心の囚人」に指定しはじめていた。
*이가염(간체자:李可染, 한어병음: Lǐ kěrǎn 리 커란, Lǐ kěrǎn, 1907년 3월 26일 ~ 1989년 12월 5일)은 중국의 근대 화가이자 시인이다.


*국제앰네스티(Amnesty International)는 국제 비정부 기구로 "중대한 인권 학대를 종식 및 예방하며 권리를 침해받는 사람들의 편에 서서 정의를 요구하고자 행동하고 연구를 수행하는 것"을 그 목적으로 삼고 있다.[1] 영국사람인 페터 베넨슨(1921년-2005년)변호사, 에릭 베이커, 루이스 쿠트너가 설립하였다. 앰네스티의 로고는 철조망에 둘러싸인 촛불 모양이다. 이것은 1961년 6월에 지역그룹 회원인 다이아나 레드하우스(Diana Redhouse)에 의해 도안 되었으며, 이 상징적 의미는 억압 속에서도 꺼지지 않는 인류연대의 희망을 나타낸다. 사무총장을 역임한 마틴 에널스의 이름으로 1993년에 마틴 에널스상이라는 인권상을 제정하여 시상하고 있다.
愛着を捨てること、そして、その仕事をする過程で形づくられた人間関係や専門的知識を捨てることは、まさしく、不安と愛情を克服することを意味する。それにたいして投げかけられる無理解と、ときには非難までも甘受せねばならないことを、それは意味する。自分のもっているものを捨てるということは、それゆえに、「最大の勇気」を必要とし、その「最大の勇気」には、いつも「禁欲の痛み」が影のようについてまわる。「在日同胞」から「本国の人間」へ、「非転向長期囚」から「長期囚問題専門の人権運動家」へ、「長期囚問題専門の人権運動家」から「韓国人権運動を対自的運動として打ち立てる人権運動家」へ・・・。私の悲しみや痛い傷痕を、私の愛や知識や闘争を、けっして「売り物」として生きていきたくなかった私は、つねにラディカルに私の生を更新してきたし、そのたびに、大いなる「禁欲の痛み」を味わってきた。荷は重かったが、私はいつも私の生の更新を喜んだ。
韓国人権運動の反独裁闘争の伝統は、もちろん誇らしい。しかし、人権運動は、たんに邪な政治権力にたいする憎悪にとどまるものではなく、反独裁闘争を超えるものとならねばならないだろう。人権運動の行う過程そのものは、きわめて実務的な性格をもっているが、それは、たとえば法律改廃運動や「良心囚」釈放運動のような狭い範囲に閉じこもった運動を超える、世界史的視野や人間の価値についての哲学的洞察を含む運動でなければならないだろう。

したがって人権運動は、当然ながら、軍事独裁時代への情緒に、そのときの範囲に、そのときの「売り出し品目」に、そして、そのときの方法に、いつまでもしがみついていることはできない。哲学をもつと同時に、それは専門化されねばならない。専門化されねばならない人権運動の実践的課題は、活動領域を自由権から社会権の分野に広げていくこと、科学的な方法で資料を収集・整理していくこと、能動的に人権教育を組織していくこと、長期的な視野をもって理論家と活動家を養成していくこと、そして、人権を擁護するための国際的な分業システムに積極的に参加すること、などだ。
残虐な独裁の時代に無一物で、素手で闘ってきた裸足の韓国人権運動に向かって、こうした姿に変貌することを要求しながら、私は、ふたたび途方もない荷を背負い、更新された私の生を歩みはじめた。
若い活動家たちにー
それぞれがズキズキ痛む傷痕を抱え、今日も「人間の権利」を考える活動家たち!
世の中が変わっても、そして、その変わった世の中にわれわれがどんなに慣れても、いまだにわれわれに残っている悲しみと怒りを、われわれはしっかりと胸に抱いていなければならない。それは、われわれのすべてであってはいけないが、あきらかにわれわれの生命であるはずだ。
急がないでほしい。急いで世界と社会を説明しようとしないでほしい。自分に世界や社会を説明する能力のないことを嘆かないでほしい。法律家や大学教授の知識は、われわれにとってたしかに羨ましいものだ、しかし、けっしていじけないように。そうしたものは、われわれの生、われわれの希望に比べれば、結局はちっぽけなものだ。悲しみと怒りによって運動家は、この思想と暴力に満ちた今日をラディカルに拒否し、明日を待ち焦がれながら生きることのできる人間だ。われわれは、新しい現実に向かって今ある現実を超越しようとする遺志と希望のゆえに生きていることができ、現実をひとつひとつ変えていく喜びのゆえに生きていることができる人間だ。知識を羨むかわりに、誠実をしっかり胸に抱いてくれ。そして、誠実に誇りをもってくれ!
運動家には、運動家だけの本領があり、使命があり、能力がある。
条理が通らない世の中で、大学教授の声が、たった数十名しか参加しない学術討論会の会場内でだけ、じれったく谺しているとき、弁護士の法律知識と真実の主張が、それがいったいどうしたのかと、保守的な裁判官によって黙殺されるとき、その現実を突き破る使命と力をもった人間は、まさに、われわれのような運動家だ。人間の尊厳が日常的に踏みにじられるこの世界で、何ごとかが正しいと主張されるためには、その正しさを肉体でもって固守し、肉体でもって叫ぶ物理的根拠がなければならないはずであり、そうした物理的根拠をもたない主張は、概して、空しくあるほかないのだ。恐れるな。身を投げ出してくれ。この暗い世の中で、つねに何が正しいのかを主張しつづける物理的根拠として機能してくれ。そうした凛々しい活動家でありつづけてくれ。
しかし、誠実は、ただたんに善良であることとは異なることを、肝に銘じなければならない。善良さは、疑いもなく美徳だが、運動家が備えるべき十分条件ではない。善良さは、自己犠牲を必ずしも要求しないが、誠実は、すでにそのなかに自己犠牲を含むものだ。また、運動家は、機関車のように猛進しながら具体的な成果を上げねばならず、こうした活力こそ、ほかでもなく誠実から生まれるものなのだ。
生きてほし。専門性を備えるための努力を怠らず、しかし、運動性を失わずに。生きてほしい。自分の運動の哲学的意味を突きつめながら、しかし、大衆とともに。生きてほしい。ときには果てしなく深く、ときには限りなく広く、運動の意味と方法を追究しながら。
それぞれがズキズキ痛む傷痕を抱き、今日も「人間の権利」を考える若い活動家たち!粗末な飯を食い、擦り切れるまで安物の服を何度も洗って着なければならない君たち。休暇もなく、定時退勤もない君たち。
勇気をもってどうか耐えてくれ。君たちが40歳を過ぎ、世の中にたいする洞察力の充満した、有能な活動家となるときまで。そんな君たちを見るのが私の夢なのだ。君たちがそのようになれるように心を尽くして献身することが、まさに、私の大きな夢なのだ。
[1995年3月15日、著書ソ・ジュンシクが代表を務める人権運動センター「人権運動サランバン」の会議の席で、年下の実務者たちに語りかけたもの]

人権運動は、きわめて具体的な案件と取り組む運動でありながら、普遍的人権を理念とするゆえに、けっして局地性に埋もれてしまうことはない。さらに、人類の歴史とともにダイナミックに変化してきたし、また、これからもダイナミックに変化していくだろう人権という概念は、根本において、硬直しない「進歩イデオロギー」だ。私は、こうした人権運動が、私の自生のための絶好の場だと感じている。
普遍的人権を実現しようとする人権運動は、じつは、その内部に途方もない葛藤を抱えている。それは、つまるところ、何を普遍とするかの解釈にかかっているだろう。「法の前の平等」という古い概念を人権の真髄だと主張するエセ人権運動は、今日でもあちこちで幅を利かせており、米国とヨーロッパの「先進」資本主義国家は、自分たちの国家イデオロギーとしての「人権」が「普遍的人権」だと強弁してきた。しかし、普遍的人権を自分自身の政治的利害と一致させようとするいかなる企てもー自分自身の政治的利害がそのまま普遍的人権の実現である場合を除いてはー結局は、普遍的人権を独占することはできないだろう。そして、この世界に階級間の対立が存在する限り、普遍的人権を独占することはできないだろう。そして、この世界に階級間の対立が存在する限り、普遍的人権の理念は当然ながら成就されないだろう。だとすれば、階級を無くそうという主張が、根本的に、普遍的人権という理念の実現に向かって開かれている主張だと言わざるをえない。したがって、階級問題をめぐって苦悶しない人権運動論は、エセ普遍主義でしかありえないのだ。私は、どんな政治勢力によっても利用されない純粋さを保持しながらも、階級問題をめぐって真摯に苦悶する人権運動に向かって歩みつづけようと思う。
言うまでもなく、人権概念は、「天賦」の固定したものではなく、歴史的存在としての人間が作っていくものだ。それは、一種のダイナミックに変化する進歩イデオロギーだ。したがって、人権運動は、或る歴史的条件のなかで与えられている人権を擁護するだけの、防御的運動ではけっしてない。人権運動は、人間の真の価値の実現をめぐってつねに苦悶しながら、絶え間なく新たな人権概念を作り出していくべき創造的運動であり、したがって、攻撃的運動だ。私は、あまたの疎外された大衆の解放と、引き裂かれた私の祖国の統一という、私の人間的願いが籠められた人権運動を創造していきたい。
元来、空しく自滅しないために傾けられる「自生」への努力は、与えられたものに寄生することに甘んじないその危うさゆえに、その過程で自滅する可能性をつねに含んでいる。しかし、「禁欲の痛み」に親しんでいる私は、おそらく自滅せずに、ふたたび大いなる生へと自分自身を更新できるだろう。私が私の人権運動とともに前進している限りは・・・。

今日も祖国の空は青く         1988年
昨日遅くまで飲んだ焼酎のために、今でも頭がボーッとしています。重い頭を上げて、窓の外の空を見上げます。青空です。
手紙、確かに受け取りました。一度も会ったことのないチョン君が、まるで昔からの同郷の後輩のように感じられます。
チョン君、1人の人間の生涯をつうじて「至福の瞬間」というのは、それほどたびたびあるものではないでしょう。17年前、天が崩れる絶望のなかで私は、私が愛する母校に二度と足を踏み入れられなくなってしまったと思いました。絶望が途方もなかったために、チョン君のような多くの後輩たちの熱烈な歓迎を受けながら17年ぶりに母校を訪れることのできた昨日は、私の人生において、まさにそうした「至福の瞬間」としてきっと残ることでしょう。私は、輝く瞳たちに取り囲まれた講義室での、図書館前での、そして「スペース(学生酒場)」での、昨日のあのさまざまな瞬間を永遠に忘れることができないでしょう。

私は、約20年前に、生まれて初めて祖国の土を踏みました。海洋性気候の国で育った私にとっては、祖国の青い空は、ひとつの驚異でした。私にはその空が純潔と心に沁みとおるような悲しみからできているように感じられました。私はその空が好きでしたし、いまも好きです。
チョン君、なぜこの祖国から出ていかなかったのかと疑問に思いますが、数日前、或る外国人が私に尋ねました。あなたに対してそんなにも苛酷だった祖国をあなたは愛することができるのかと。私は答えました。私の祖国は私を苛酷に取り扱いませんでした。私に対して苛酷だったのは、この美しい祖国をズタズタに引き裂き、傷だらけにして呻吟させる外国勢力であり、分断体制を必死に維持しようとしている独裁政権だと。

私は、私のこの祖国に無限の感謝を捧げたいし、深い嘆息を捧げたいし、そして、熱烈な愛を捧げたいのです。
私が突き抜けてきた17年は、たしかに苦難の歳月でした。しかし、チョン君は、私が多くの試練をいつも凛々しく、見事に、動揺なしに克服してきたとはけっして思わないでほしいのです。私は、チョン君も、そしてすべての人間もがそうであるように、愚かで軟弱です。そして、17年の苦難に克ち抜いた意志がどこから出てきたのかと、チョン君がしいて問うなら、私は、私の愚かさと軟弱さにたいする痛切な自覚から出てきたと答えようと思います。
もちろん、祖国に対する心に沁みとおるような愛もありました。私の信条の正しさにも力づけられました。そして、率直に言えば、捨てばちになったこともあります。
しかし、そうした多くの醜態を生み出した私の愚かさを軟弱にたいする痛切な後悔がなかったら、私は、果てしなく後退と敗北を繰り返したでしょうし、ついには精神的にまったく破滅してしまっていたでしょう。
私は、私に少なからぬ苦難が与えられたことを、或る意味では幸せだと思います。澄んだ瞳の後輩たちがペッコル[白骨]団[デモ参加者の逮捕を担当する武装警察隊]に犬のように叩かれながら引っ張られていくこの暗黒時代の我が祖国で、あの澄んだ瞳たちと基本的に同一の苦難を、痛みを、悲しみを、絶望を、そしてその結果である希望までも、分かちもつことができた私という人間は、どれほど幸せな人間でしょう!

*전투경찰순경(戰鬪警察巡警)은 작전전투경찰순경(작전전경. 약칭 전경)과 의무전투경찰순경(의무경찰. 약칭 의경)으로 구분한다. 작전전경은 대간첩작전 수행을 위해 현역 육군 소속 훈련병 중 육군훈련소에서 차출하여 임용하였으며, 2011년 12월 26일에 마지막으로 전경 3211기를 차출하여 2013년 9월 25일에 폐지되었다. 한편 의무경찰은 치안업무 보조를 위해 본인 지원에 의해 병역 미필 민간인 중 현역 판정자에 한해 선발하여 임용한다. 기존에 있던 전투경찰대 설치법은 2016년 1월 25일에 일부 개정으로 명칭이 의무경찰대 설치 및 운영에 관한 법률로 개정되었다.
*대한민국의 경찰(大韓民國의 警察)은 대한민국 국민의 생명과 신체 및 재산을 보호하고, 범죄를 예방, 진압, 수사하며, 주요시설을 경비하고 요인을 경호하며 대간첩·대테러 작전을 수행하고, 치안정보를 수집, 작성, 배포하며, 교통의 단속과 위해를 방지하며, 외국의 정부기관 및 국제기구와의 국제협력을 꾀하며 그 밖의 공공의 안녕과 질서를 유지하는 임무를 맡는 조직[1]과, 해양에서의 경비·안전·오염 방제·해상에서 발생한 사건의 수사를 담당하는 조직을 말한다.
チョン君、私を愛してくれる日本人の友人たちは私に、1日も早く「帰ってこい」と言ったりします。しかし、狂ったような分断体制の暗闇から、あんなにも長い長い孤独をくぐり抜けて、ついに我が祖国へ、そして同胞たちのなかへ「帰ってきた」私が、これ以上帰るところがいったいどこにあるというのでしょう。
今日も、わたしたちの頭上の空は、こんなにも青い。もちろん、チョンジュ[清州]保安監護所の空も、そして、きっと北の空も・・・。
チョン君の発展を期待します。

保安観察法 -私に嵌められた足枷、私が驚くべき足枷―    1992年
1988年5月25日、明け方の1時、チョンジュ[清州]保安監護所から出所するとき、大通りに通じる真っ暗な進入路は、ネズミ一匹うろつかない静寂に包まれていた。数限りなくその道を通ううちに亡くなった母の血涙の滲んだ足跡も、もう残っていなかった。

チョンジュ保安監護所転向出獄第1号・・・。「再犯の顕著な危険性」、すなわち、事実上は思想の危険性を理由に、裁判もなしになんと10年間も私を閉じ込めていた「悪魔の城」を最後に振り返る私の脳裏を、「勝った」という思いがよぎっていた。非転向思想犯は生きたまま監獄の外には絶対に出さないという維新[パク・チョンヒ(朴正煕)]・第5共和国[チョン・ドゥファン(全斗煥)]政権の執念は揺らいでおり、社会安全法が徐々に崩れつつあった。
邪な体制を無理やり支えようとする「法律」というものは、元来、辻褄の合わないとんでもない構想を持つものだ。それは、最後の悪あがきをしていた1940年代の帝国主義日本でも、また、揺らぎはじめた自らの存在基盤である分断体制を強権で維持しようとしていた維新・第5共和国の韓国でも、まったく同じだった。
1950年の戦争[朝鮮戦争]を経て今日に至るまで苛酷な分断体制が維持されてきた我が国では、いわゆる「反国事犯」という烙印を捺された数万名の人々が、世界にほとんど類例を見ない苛酷な刑罰を科されてきたし、その人々のうちの多くが、その刑罰の重みに耐えられずに飢え死にし、病死し、殴り殺され、あるいは老衰死した。
彼らにたいする歴代軍事政権の基本的政策の基調は、言うまでもなく、彼らを政治的に再起不能にすることにあった。そのために、まず、1956年に思想転向を強要する「制度」的装置が確立された[「左翼囚を思想転向させ、転向を拒否する左翼囚は厳重に隔離せよ」という法務部長官通牒が、1956年、各刑務所に通達された]のだが、これは、帝国主義日本の思想転向制度をそのまま移しかえて復活させたものだった。それ以後、多くの政治犯が政治的に淘汰されていったし、1973年から74年にかけてのとてつもない拷問の嵐が過ぎた直後、非転向のまま残った政治犯の数は約200名ぐらいにしかならなかった。
この200名は、ほとんど全員が無期囚だった。そして、無期囚についてはたいして問題はなかった。彼らは、監獄に30年、40年と、それこそ無期限に閉じ込めておけば、自然と淘汰されるから!
しかし、問題は有期囚だった。非転向を貫徹して、過去にすでに出獄してしまったり、拷問の嵐を耐え抜いて満期出獄を待っている有期囚はどうするのか。
日本帝国主義の懐のなかで育った韓国の軍事ファシストたちは、困ったときにはいつも「母の教え」を思った。方法はあった。母も、太平洋戦争という困難のなかで、新治安維持法[1941年施行、予防拘禁制度を導入]という万能の「法」を持っていたではないか。同じものを作ればいい!
こうして1975年に制定された社会安全法は、過去の左翼政治犯の「再犯の危険性」の顕著さの度合に応じて保安拘禁、住居制限、保護観察という三段階の行政処分を科すことのできる「法」だった。「再犯の危険性」を測定する科学的方法はありえないために、おのずと<非転向=再犯の顕著な危険性=保安拘禁>という図式が成立して、有期囚である非転向政治犯をふたたび監獄に掻き集めて「無期囚化」できるというわけだった。社会安全法は「法」というよりむしろ偏執狂的な暴力だった。刑期の苛酷さにもまさるこの保安拘禁の苛酷さには、たんに「国家安保」のための冷徹な計算だけでなく、明らかに何かが作用している。それはおそらく根本的には、日本帝国主義の庇護のもとで、そして日本帝国主義から解放された直後からは米国の庇護のもとで、「左翼」と対決しながら反共体制を構築してきた既得権勢力の、「左翼」にたいする怨恨と敵愾心に起因するものだろう。なんど仇を討っても晴れない恨み、鎮まらない敵愾心。
私はおそらく、思想転向を完璧に拒否して独裁の監獄から健康な体で出てくることのできた最初の左翼政治犯だった。それは、冷戦体制の清算と「多様化」の進行という国際政治秩序の改編の影響で、国内では軍事ファッションがもはや民主化と祖国統一という大衆的熱望を露骨な力で弾圧しにくくなりつつあった時代的背景に起因するものだったろう。つまり、分断体制が揺らいでいたからだった。思想転向制度が揺らいでいたからだったし、制定後10年にして社会安全法が崩れはじめたからだ。
出獄直後、私がカンドン[江東]警察署で受け取った「最後の贈り物」は、次のような内容が記された一枚の紙だった。
社会安全法による被処分者告知事項
1、居住地に日常的に居住し、生業に忠実に従事すること。
2、住居制限処分所定の居住地以外の地域に出入りする場合には、事前に管轄警察署長の出入り許可を受けとること。
3、罪を再び犯す憂慮のある一定の活動をしないこと。
4、罪を再び犯す機会または衝動を与えうる一定の物件を所有、保管または所持しないこと。
5、罪を再び犯す機会または衝動を与えうる一定の者、または一定の集団の者と通信、会合したり、こうした者を雇用または宿泊させないこと。   
  ソ・ジュンシク殿                  1988年5月26日 カンドン警察署長

分断体制は揺らいでいただけで崩れてしまったのではなかった。保安拘禁から住居制限に「処分変更」されて出獄した私は、この一枚の紙を読みながら、私が「小さな監獄」から「大きな監獄」に移されたという実感を抑えることができなかった。この告知事項に違反しても、すぐには罰則規定はなかったが、再び処分を保安拘禁に変更することは可能だった。だが、まさかそこまでするだろうか。17年も監獄暮らしをしてやっと出てきたばかりなのに・・・。6月抗争[1987年]の直後なのに・・・、チョン・ドゥファン政権も崩れたのに・・・。
事実上すべての市民的権利の放棄を要求するこのような通牒が公権力の権威でもって伝達されるとき、誰もが不安と恐れを感じるものだ。私もやはりそうだった。
しかし、余人はいざ知らず、私だけはこの乱暴な干渉に、死人のように黙って従うことはできなかった。それは、私が非転向出獄第1号だったためであり、監獄にはまだ出獄を待っている多くの非転向政治犯がいたためだ。先立って道を歩く者には、難儀であっても、引き受けねばならない役目があるものだ。私が監獄から出てきたとき、圧政の下で長いあいだ耳を塞ぎ目を覆い口を噤んできた世間はまだ眠りから覚めたばかりで、「非転向」から「長期囚」も何の意味なのかほとんど知らなかった。私は、「非転向出獄第1号」という強迫観念に追い立てられるように、そんな世間にたいして声高に、精力的に、長期囚の話、転向の話を投げかけた。
出獄後、私の人権運動の経歴の序章を飾ったのは、ほかでもなく、まさに、私に10年間も裁判なしに足枷を嵌めた社会安全法を攻撃して叩き壊すための活動だった。眠りから覚めたばかりの社会で大衆的基盤もなしに数名の若者たちとともに身を酷使する社会安全法廃止運動は、私が「非転向出獄第1号」であることを呪いたくなるくらい大変だった。
1989年の春、体も心も傷だらけになり、くたびれて倒れかけていたころだった。社会安全法が廃止されるという知らせを聞いて、われわれはどんなに感激したことか![1989年5月、国会本会議で同法の廃止が決議されたことを指す]そうした感激を一生に一度でも味わえる人間は幸せな人間だと言ってもよいだろう。
しかし、実際には、社会安全法の廃止は、われわれの努力の勝利だという側面とともに、他の側面を持っていただろう。

チョン・ドゥファン政権の第5共和国が民衆抗争によって崩壊したとき、韓国の支配勢力は、根本的改革なしの最小限の譲歩で体制の骨格を維持する方策を必死に模索した。その当時ほとんど流行語のようになって人々の心を弾ませていた「民主化」「5共[5共和国]清算」は、民衆抗争のエネルギーを集約できなかった民主勢力の力不足によって、結局、裏切られる結果に終わったのだ。第5共和国当時の各種の法律、制度、官僚機構がほとんどそのまま残っており、これらを動かす支配勢力の人的構成はほとんど変わらなかった。
こうした時期に、「5共清算」作業の一環だとして政治圏で為された社会安全法の廃止は、体制の骨格を維持するための「最小限の譲歩」のうちのひとつとして、あるいは政治圏での取引の道具のひとつとして、実現したのだろうということは、想像に難くない。
しかし、社会安全法は完全に廃止されたのではなかった。「5共清算」がポーズで終わってしまう運命にあった第6共和国[ノ・テウ<盧泰愚>政権]国会で、それは当然すぎることだったかもしれない。社会安全法は、寿命が尽きて息を引き取る間際に、自分の凶悪な姿に似た子を産んだ。「保安観察法」というのがその子につけられた名前だった。社会安全法が比較的容易に保安観察法によって代替された理由は、それが抜け目なく実を取った後退となりえたからだ。とくに、社会安全法は、前近代的な人権弾圧法だという国際的非難にもはや耐えなれなくなっていたし、当時チョンジュ保安監護所に収監されていた被保安監護者たちのほとんど全員が疾病と老衰に苦しむ高齢者であったことから、無用論はなおさら説得力を持つにいたった。
のみならず、社会安全法上の住居制限処分が課す義務規定はかなり厳格なものだったので、当初から現実性を欠くものだった。それが、6月抗争が誘導した民主化過程でいっそう無意味なものになってしまい、出獄する政治犯たちにたいする監視体制が現実的な線まで後退させながら効果的に再整備する必要があったのだ。
保安観察法が私自身をはじめとする多くの出獄長期囚の「足枷」としてこの世に生まれ出るころ、私は民家協[民主化実践家運動協議会]で長期囚部門を担当し、監獄にいるときには想像すらできなかった人権運動の道を歩みはじめた。


*민주화실천가족운동협의회(민가협)는 1985년 12월 12일에 양심수를 후원하기 위해 결성된 사회운동단체이다. 대부분 양심수들의 가족들이 참여하고 있다. 사무실은 서울특별시 종로구 명륜3가 108-3에 위치하고 있다. 1992년부터 서울시 종로구 탑골공원 앞에서 양심수 석방과 국가보안법 철폐를 요구하는 목요 집회를 개최하고 있다.
長期囚問題は、国際的な冷戦体制の最前線である分断された我が国においては、40年のあいだ、ほとんど厳格なタブーに属する問題だった。私が長期囚問題に没頭しはじめた時期に、事実上この問題は少しずつ「解禁」されつつあったのだ。それは、純粋に人道主義的な見地から慎重に人々の口に上っていたにすぎなかったのだ。長期囚問題は、まだ一般的にはかなり危険な問題だと認識されていた。
獄中の長期囚は転向書を書いて1日も早く社会に復帰して社会運動の隊列に合流すべきだという主張が、一般的にかなり説得力のある主張として受け入れられている。しかし、逆説的なことに、私が何憚るところなく精力的に「長期囚釈放運動」を開拓することができたのは、まさしく、私が転向書を書くことを拒否して、勝利のうちに出てくることができたからだった。
こうした時期に、私は、民家協の活動をしながら、パク・チョンヒ政権とチョン・ドゥファン政権が1970年頃から計画的に大量のスパイ事件を捏造してきたことを一生懸命に暴露し、北から南派されてきた工作員たちは「スパイ」ではなく「政治犯」だと主張しつづけた。私がもし思想転向をしていたとすれば、思い切ってこのような活動をすることができなかったということは、あまりにも明白だ。
そんな私を保安観察法がどこかで睨んでいた。
「自らの過去の犯罪に対する改悛の情が全くなく、むしろ民家協会員たちとともに全国の各矯導所[刑務所]と各大学、野党党舎などを巡回しながら、社会安全法、国家保安法の撤廃を主張し、スパイ造作事例の説明会を持ち、長期囚の釈放を要求し、断食籠城を繰り返すなどの点を統合すれば、再犯の危険性があるがゆえに、保安観察処分の期間を更新することが必要と認定される。」<1990年3月、検事の保安監禁処分更新請求書より>
保安観察法は、社会安全法のうち国際的に悪名の高かった身体拘禁と実効性を失った住居制限とをなくす代わりに、日常生活に対する警察監視の部分については、刑事処罰条項まで設けていっそう整備、強化し、改悪した「法律」だった。「だが、まさかそこまでするだろうか。17年も監獄暮らしをしてやっと出てきたばかりなのに・・・」だった私の再投獄の可能性は、現存する危険となって、現実の不安となって追ってきたのだ。
保安観察法は、韓国の刑法、軍刑法、国家保安法などに規定された内乱、間諜、反乱、利敵、そして、いわゆる「反国家団体」と関連した様々な行為によって、禁固刑以上の刑を受け、その刑期の合計が3年以上である者を対象とする。惨たらしい戦争と長い間の独裁政治を経験してきたこの不幸な国では、こうした要件に該当する数は5万余名に上るといわれ、もちろん、ムン・イクツァン[文益煥]牧師、イム・スギョン[林秀卿]氏(それぞれ1989年3月と7月に、南北朝鮮の統一を促進するため、朝鮮民主主義人民共和国を[非合法的に]訪問)のような場合もこの対象者に含まれる。

このような対象者がこうした「犯罪行為」を「再び犯す危険性があると認定される充分な理由がある」とき、保安観察処分を受けることになるのだ。この処分は、その決定過程に法院が介入しない行政処分としてなされ、2年という処分期間を無限に更新することができるという点で、社会安全法と全く同じであり、したがって、帝国主義日本の治安維持法をほとんどそのまま踏襲している。具体的な内容は次のとおりだ。まず、処分対象者あるいは被処分者が身を隠したり、逃走したりすると、3年以下の懲役だ。被処分者には申告の義務が課されるのだが、そのうちで最も重要なのは、3ヶ月ごとに書面で提出せねばならない定期申告だ。これは、
(1)、3ヶ月間の主要活動事項。(2)、通信・会合した他の保安観察処分対象者(5万名以上にもなる)の人的事項とその日時・場所・内容。(3)、3ヶ月以内に行った旅行に関する事項。(4)、管轄警察署長が申告するよう指示した事項。
以上の申告を怠る場合、2年以下の懲役または100万ウォン以下の罰金だ。この他に、被保安観察者には、検事や警察官の指導を受ける義務と、措置に従う義務がある。
この措置の内容は、
(1)、保安観察該当犯罪を犯した者(6万名を越えるだろう)との会合、通信を禁じる措置。(2)、公共の安寧秩序に直接的な危険を及ぼすことが明白な集会または示威の場所への出入りを禁止する措置。
(3)、保護、調査のために特定の場所への出席を要求する措置。
この「措置」に被処分者が違反すると、1年以下の懲役または50万ウォン以下の罰金だ。保安観察法がいろんな面で基本的人権を蹂躙していることは明らかだ。まず、過去の「犯罪」行為を理由に合法的な警察監視のもとに置くのは二重刑罰だ、という指摘がある。
次に、再犯の危険性を客観的に測定する方法がないために、事実上、対象者の「思想の危険性」を判断して処分決定を下すほかないという意味で、この法は良心の自由を蹂躙している。安全に行政処分として処分を決定するという点で、裁判を受ける権利を侵害している。その他に、市民的・政治的自由、通信の自由、住居移転の自由、旅行の自由などが侵害されることはもちろん、人と人が会うというきわめて原初的な行為までも規則の対象になる。

保安観察処分を受けた人々は、つねに緊張と不安のなかで暮すことになる。
1989年11月、人権関連3団体は、社会安全法廃止に伴うチョンジュ保安監護所閉鎖に当たって、「社会安全法出所者歓迎会」を準備した。ところが、ほんの200名を収容する程度の講堂でこの屋内行事を、当局は「公共の安寧秩序に直接的な危険を及ぼすことが明白な集会」と規定し、夜も明けないうちから対共[対共産主義]部署の刑事たちを出所者たちの居住地に、バス・ターミナルに、鉄道の駅に派遣し、かれらの参席を封鎖してしまった。辛うじてこの行事に参加した6名は、帰宅途中で警察に連行され、刑事立件された。
養老院に起居する被処分者たちは外部からの面会が許可されない場合もあるし、彼らが友人の慶弔行事に参席したくても、警察からの圧力で養老院は外出を許可しないことがよくある。チェ[崔]氏は、私の娘の1歳の誕生日の祝宴に参加しようとしたが、警察に阻止されてついに果たせなかった。また、チョンノ[鍾路]二街[ソウルの繁華街]でバッタリと出会ったり[李]氏は、喫茶店で私と30分ほど話をして別れ際に、われわれの会った事実を警察に申告せねばならないかどうかについて、憂鬱な表情で苦悶した。
彼らは随時、対共部署の警察官の訪問を受ける。これが彼らに与える精神的苦痛についてはいまさら言うまでもないだろうが、問題は、こうしたことが彼らの周辺、すなわち、家庭あるいは職場に及ぼす影響が深刻なことだ。警察が焚きつける家族との不和はよくあることであるし、臨床検査技士の資格を持っている氏は、就職した病院から理由なしに2度も解雇され、長い失業者生活の末に、結局、警備員として露命を繋いでいる。
保安観察法は、人間が誠実に社会の一員であろうとする努力を抑えこむ[法律]であり、自由であろうとする渇望を踏みにじる[法律]だ。どんなに多くの人々が正当な社会活動と政治活動を封じられ、失意のうちに身を竦めて暮らしていることだろう!
私は、保安観察法が施行[1989年9月]された当初から、これが私に課すさまざまな義務を全く無視して生きてきた。その理由は、根本において、私が17年間監獄で非転向を貫徹した理由と同じだ。マーチン・ルーサー・キングは言った。「悪法には随順することなく、これを拒否して逮捕されることによって、それが悪法であることを世の人々に知らせねばならない」と。私はこの言葉に同意する。私は、自分で恐ろしくなったり不安になったり弱気になったりするとき、キングを思って自らを恥じる。


*마틴 루터 킹 주니어(영어: Martin Luther King, Jr. 마틴 루서 킹 2세[*], 1929년 1월 15일 ~ 1968년 4월 4일)는 미국의 침례교 목사이자 인권 운동가, 흑인 해방 운동가, 권리 신장 운동가, 기독교 평화주의자로, 미국내 흑인의 인권 운동을 이끈 개신교 목사들 가운데 한 사람으로 꼽힌다. 1964년 노벨 평화상을 받았다.
人権運動は政権の弾圧からの「安全地帯」だという通念は、保安観察処分を受けている私には該当しないものだった。私は、保安観察法によっていつでも逮捕可能な人間だ。保安観察法がある以上、私はつねに「逮捕可能」の札をぶら下げて、人権運動の道を駆けねばならなかった。青い縁取りのついた行政封筒が警察から舞い込むたびに、妻は不安になった。
被保安観察申告をせねばならないにもかかわらず、これを履行せずにいる・・・。刑事処罰などの不利益な処分を受けることも有り得る。<1989年10月、警告状>
3ヶ月間の主要活動事項などに対する申告書を提出せねばならないにもかかわらず、これを履行せずにおり・・・刑事処罰などの不利益な処分を・・・。<1990年11月、警告状>
このように、私にとっても妻にとっても、保安観察処分は「格子なき監獄」そのものだった。2年間の民家協での活動に終止符を打って、人権委員長として全国民族民主主義連合<全民連>に加わったのは1991年3月だった。直ちに次のような警告状が舞い込んできた。全民連で仕事をするということ自体が犯罪要件を構成するという趣旨だった。


*민주주의민족통일전국연합(民主主義民族統一全國聯合) 또는 약칭 전국연합(全國聯合)은 1991년 12월에 결성하여 2007년까지 활동한 대한민국의 정치단체다.
全民連人権委員長職にありつつ保安観察該当犯罪を犯した者との会合、通信および不法集会参加などの違法行為を恣にする憂慮があり・・・特に留意するよう警告するものです。
<1991年3月 警告状>
私は、報復を予感していた。どこかから睨んでいる保安観察法の陰険な視線を感じていた。全民連人権委員長として、連行された労働運動家たちと面会するために対共分室に通い、或る地方大学[トンク(東学)専門大]の白色テロを調査し、職業病でとてつもない苦痛に喘ぐウォンジン[源進]・レーヨンの労働者たちの集会と座り込みに参加した。「こんなことをしているといつかはやられるだろう、報復を受けるだろう・・・」と思いながら、引っ張られていくときの心の準備をしながら・・・。
「あの事件」が起こったのは、全民連人権委員長に就任してまだ2ヶ月にもならないときだった。
昨年[1991年]4月26日、1人の青年[カン・ギョンデ(姜慶大)]がデモの途中に鎮圧警察の逮捕チーム[俗称「ペッコル[白骨]団」]の鉄パイプで殴り殺された衝撃的な事件は、ノ・テウ政権最大の危機政局と言いうるほどの巨大な国民的怒りの嵐を呼び起こした。連日、全国で大規模な示威が展開されるなかで「ノ・テウ政権打倒」を叫ぶ若者たちの抗議の焼身事件が相次いで起こった。驚くべきことに、全民連人権委員会で私の唯一の補任活動家だったキム・ギソル[金基 ]がソガン[西江]大学の屋上で焼身し、投身したのだった。それは5月8日、「5月政局」4番目の焼身事件だった。彼の葬儀の日、私は、白色テロが横行するソクチョ[束草]へ、職業病の地獄であるウォンジン・レーヨン<彼とともに熱心に行き来した記憶が映像のように蘇り、溢れ出る涙を抑えることができなかった。
キム・ギソルの抗議の焼身は5月闘争の熱気のなかでとんでもない方向に飛火していった。焼身直後、チョン・グヨン[鄭 永]検察総長は、まるであらかじめ準備していたとでもいうように、相次ぐ焼身事件の「背後勢力」を捜し出すというおどろくべき発表をし、ついには、5月闘争が絶頂を迎えた5月18日、全民連でのキム・ギソルの同僚であるカン・ギツン[姜基勲]がキム・ギソルの決行を助けるためにキム・ギソルの遺書を代筆したという、いわゆる「遺書代筆事件」なる奇々怪々な事件を発表したのだ。

ミョンドン[明洞]聖堂で籠城しながら検察を相手に繰り広げた[遺書代筆]攻防は熾烈だった。文章力も優れ達筆であるキム・ギソルの遺書をいったいなぜカン・ギフンが代筆せねばならないのか、そんな常識的な疑問すら忘れたまま、人々は理性を失い、「代筆論争」に引きずり込まれていった。在野運動の道徳性は大きく傷つけられ、「5月闘争」の熱気は急速に冷めていくなかで、私は、腐った政権を支え、権力の威信を守るために、無実の一青年を平気で犠牲にする者たちの卑劣さに憤りながら、いつのまにか「遺書代筆」攻防の最先鋒に立っていた。
全国写真手配者一覧が発表されたとき、私にかけられた容疑は「集会及び示威に関する法律違反」となっていた。集会と示威に関しては、明らかに、私には実刑を受けねばならない理由はなかった。人々は皆、私が逮捕されねばならない理由を知っていた。私も、結局は彼らが「いつでも逮捕可能な」保安観察処分で拘束するだろうと思っていた。

元来、醜い人権弾圧法というものは、自分の姿を万人のまえに赤裸々に現さずに、陰に隠れたまま威圧効果を及ぼすのが最も望ましいはずだ。保安観察法の適用を濫発することによってそれを世間の激しい批判の矢面に立たせるよりも、それが存在するという重圧だけで「アカの前科者たち」が自分から萎縮して、公安警察の意図におとなしく従ってくれるほうが、明らかに望ましいだろう。
こうした道理を十分に弁えていたがゆえに、そして、私の肩に「非転向出獄第1号」の責任が重くのしかかっていたがゆえになおさら、私は萎縮すまいとした。私のこの傍若無人さがなんとか黙過されるくらいのものだとすれば、私はなすべき仕事をしていくし、はらはらするような均衝状態はつづいていく。これは悪くない。他方、私の傍若無人さがとうてい黙過されえないのだとすれば、私はふたたび監獄に行くが、その代わりに保安観察法は世間にたいしてその醜い姿を曝すことになるだろう。これもそんなに悪くない。こうして私は、私の体を担保にして、1年半の間、はらはらする曲芸を演じてきたわけだ。

「遺書代筆」攻防は、この均衡状態をついに破った。「集会及び示威に関する法」違反は、私を「遺書代筆」攻防から引き離すには明らかに不十分だった。しかし、保安観察法は、それを投げさえすれば、私が絶対に引っ掛かってしまう全能の網だったのだ。保安観察法の醜い姿を白日の下に曝すという代価を支払って私を拘束するのは、彼らにとっても明らかに曲芸だった。こうした曲芸を敢行せざるをえないほどに、「遺書代筆」攻防は、検察の死活が懸かった重要な問題だったのだ。ミョンドン監獄に40日。私は「遺書代筆」捏造劇と保安観察法との両方に対決して闘う人権運動家の溢れんばかりの誇りを胸に抱きながら、逮捕された。保安観察法による拘束第1号だった・・・。
ソンドン[城東]拘置所・・・。「遺書代筆」事件は、いったん、私の手の届かない遠いところに行ってしまい、保安観察法との闘いが目の前に迫ってきた。私の妻といっしょに拘置所の面会場まで来てから、警察への申告のことが心配になって面会申請をしないまま、遠く離れた窓の外から面会室にいる私に一生懸命に手を握っていたチュ[周]老人の顔をみながら、私は、私に嵌められたこの足枷を私に解くという仕事の意義の大きさを全身で感じていた。
「私は、たとえ獄から解き放たれても、保安観察法による申告義務には、やはり応じないでしょう。人の世にあってはならない法だからです。拒否してまた捕まり、また拒否して捕まり・・・。もどかしいことですが、そのように闘うほかありません。」
(1991年7月、拘束適否書)
「前代未聞の悪法である社会安全法によって奪われた30歳から40歳まで10年間の私の青春はいまだに賠償もされていないのに、私は今ふたたびその「子悪法」である保安観察法によって鉄格子のなかに囚われていなければなりません。私が外の世間を歩き回った期間は3年です」
(1991年8月 冒頭陳述)
「保安観察対象者とのいわゆる会合・通信に関する詳細な申告の強要は、基本的な「人間」としての義理までも放棄することを私に要求し・・・。度過ぎた監視・統制は、しばしば彼らの人間性の破壊をもたらすだろうということもまた、明らかです。」
(1991年8月 冒頭陳述)

6ヵ月後に私は執行猶予で釈放された[1991年12月13日]。「遺書代筆」事件の宣伝公判[第1審。同年12月20日]で私は、この時代の裁判官たちの小心な残酷さしか感じとることはできなかった。「遺書代筆」事件が、大法院[最高裁判所]で有罪判決が確定するにいたるまでのあいだ、あまり世間の注目を集めることのなかった私の保安観察法の控訴審は、静かに進行した。私は控訴審の法廷に保安観察法が違憲であるという憲法的判断を要求したが、当然ながら却下され、憲法裁判所に再びこの問いを投げかけている[1992年6月26日提訴。なお、韓国では、違憲立法審査権は、日本の最高裁判所にあたる大法院にはなく、この憲法裁判所にある]。
保安観察法は、私の人権運動に打撃を加えるための「最後の切り札」だった。聖域は崩れた。監獄は相方ともに崩れたのだ。一方では、保安観察法の罰則条項がはじめて適用されることによって、「威嚇はあっても処罰は無」かった聖域が崩れ、他方では、ヴェールに包まれていた悪法のその醜悪な顔の聖域が崩れた。お互いに我が身に傷を負いながら相手の聖域を壊すこの曲芸のような闘いは、いまその真っ最中だ。条理が通らない独裁の社会で、悪法は法律家が叩き壊すのではない。それは、結局、運動家が叩き壊すほかない。私はこの事業を痛いほど心に刻んでいる。私に嵌められた足枷、それは結局、私が私のこの手で解かねばならない足枷なのだ。

トンウ専門大の暴力組織とチョン・ヨンソク焼身事件    1991年
集会中、殴打に抗議して焼身したチョン・ヨンソク
去る3月20日[1991年]、学園暴力に抗議して焼身を企てた後、ウォンジュ[原州]キリスト病院の火傷患者室に身を横たえていたチョン・ヨンソク君(23、トンウ[東宇]専門大写真科除籍)の焼け爛れた顔には、ふたつの目だけが生気を放ち、負けじと魂でキラキラ輝いていた。そこで伝え聞いたソクチ[束草]のトンウ専門大学の話は、右翼テロが荒れ狂っていた自由党[イ・スンマン[李承晩]政権時の与党]の時代にならありえたかもしれないような、あまりにも凄惨なものだった。チョン・ヨンソク君を看護する学生たちは「財団側に唆された」暴力組織のテロに歯軋りして憤っていた。さらに驚いたことには、学生たちは、昨年交通事故死として処理され、今では世間からほとんど忘れられてしまった故キム・ヨンガプ学生会長の死を、確信に満ちた眼差しで、他殺であると断言したのだ。
去る3月20日、学園の自治と民主化を成し遂げるために自らの体に火を放ったチョン・ヨンソク君の闘いは、トンウ専門大を牛耳ってきた傍若無人の暴力と不正に、いったんブレーキをかける大きな力として作用した。

昨年10月、サークル連合会長選挙に出馬したチョン・ヨンソク君は「塔」という学内暴力サークルとの一騎打ちの選挙戦で圧倒的に優勢に立ったのだが、「塔」は当時のサークル連合会長を拉致して殴打・脅迫する一方、チョン・ヨンソク候補に辞退を強要しながら鉄パイプなどで集団殴打し、鼻の骨を折るなど全治5週間の傷を負わせる。この事件の後、警察はイム・ソンホ、キム・ナミ外6名ほどの学生を容疑者として手配したが、逮捕はしなかった。
しかし、サークル連合会長に当選したチョン・ヨンソク君は、冬休み中に、学事警告を一度も受けないまま学校当局によって除籍され、1991年の1学期が始まるいなや、「塔」の残党6名は鎌と煉瓦をもって連合会事務所に乱入し、今回は「ナルナル」というサークルの登録と、チョン・ヨンソク君除籍による補欠選挙の立候補権あるいはサークル連合会執行部役員2名分の明け渡しのいずれかを要求しながら、机と窓ガラスを壊し、ふたたびチョン・ヨンソク君を殴打する。この時、学生課の職員チン・ジャンス氏が現われ、「ナルナル」の暴力には言及することなく、サークルの幹部たちに、「ナルナル」に対抗するなら除籍すると警告した。「ナルナル」というサークル名の由来は、チン・ジャンス氏が持っているレジャー・スポーツ用カヌー11艇をいわゆる「救学隊」たちに気ままに利用させてやったことからきているという[「ナル」は「渡し舟」の意]

ここに、トンウ大学の総学生会・サークル連合会・代議員会は、暴力の温床である学生課職員全員の辞職と暴力行使者全員の除籍を要求して全面授業拒否を決議するが、驚くべきことに、その翌日の学園内暴力勢力糾弾集会には学生全体の半数になる1500余名が参加するにいたる。しかし、「ナルナル」は再びこの集会に因縁をつけて乱入し、これに抗議するチョン・ヨンソク君を失神するまで殴打したが、その直後にチョン・ヨンソク君はシンナーを浴び、さらにそれを飲んで、体に火をつける。全身に火がついたままチョン・ヨンソク君は、1500余の学生たちが集まっていた民主広場へ向かって走りながら、「学園暴力を助長する学長チョン・ジェウク[全載旭]を処断せよ」と叫んだ。
この闘いは、その翌日の3月21日、2000名規模の糾弾集会へと拡大し、22日の校門外への進出、そして座り込みへと続くが、学校当局の巧妙な瓦解工作、刃物をもって座り込み場に乱入して学生会長と代議員の生命を脅かす暴力「救学隊」の脅迫、そして警察の偏向的捜査(現在までに学生指導部6名が拘束され、約10名が手配されているのに対して、「救学隊」はその日のうちに全員釈放された)によって瓦解した。
トンウ専門大学長と自由総連盟
4月1日、休校令が解除された学校には、いまだに緊張感が漂っていることがひしひしと感じられた。筆者は、全校学生3300名中「運動圏」が20~30名というこの学校で、かなりの数の学生たちと対話を試みた。食堂で親しげに昼食をとっていた2人連れは、運動圏の学生たちが必ずしも勉強ができないから除籍されるのではないかと断言したし、ボール遊びをしていた男子学生たちは、不正入学問題や学生課と暴力組織との密接な関係を語った。きれに着飾ったある女子学生は、顔を曇らせながら、はやく文教部[文部省]が監査に乗り出してほしいと語った。

寄宿舎を除けば3棟の建物だけがぽつんと立っているこの奇妙な「大学」のとてつもなく広い敷地を、ソクチョの3人は32坪とも36坪とも言った。1980年の設立当時に坪当たり10~15ウォン(2円前後)だったこの土地は、現在、坪当たり200万~300万ウォン(約25万~40万円)が言い値だということだったし、キム・ヨンガプ学生の亡霊に劣らず幽霊のようにしつこく徘徊するのが、トンウ専門大の土地投機の噂だった。ひとつの問題が明らかにされる度にその背後にまた何かが身を潜めているという「伏魔殿」のような学校。この「伏魔殿」のもっとも奥深いところにひょっとすると「土地」が身を潜めているかもしれない、とある人は言った。
この学校が自由総連盟(1954年にアジアの反共国家8カ国によって創設されたアジア民族反共連盟の韓国支部を前身とする反共団体。89年から現在の名称となり、反共活動の指導、反共組織の拡充、反共教育などを目的とする)と密接な関係にあることは誰でも知っている。名誉理事長のチョン・イルグォン(丁一権)氏は自由総連盟の総裁であったし、学長のチョン・ジェウク氏は自由総連盟のソウル支部長だ。学生課の職員キム・ジン氏もやはり、そのソウル支部で数年間勤務した。ソクチョのある元老政治家の今回の糾弾を「自由総連盟と民主学生との対決」だと表現した。
*한국자유총연맹(韓國自由總聯盟, Korea Freedom Federation)은 대한민국의 법정단체, 국민운동단체로, 본부는 서울특별시 중구 장충단로 72 자유회관이다. 2003년부터 한전산업개발의 지분 51%를 보유하고 있었으나[1][2][3] 2010년 12월 상장공모 당시 20%를 매각해 2017년 3월 현재는 31%의 지분을 갖고 있다. 자유총연맹의 설립 근거는 '한국자유총연맹 육성에 관한 법률'[4]이다.
1980年に設立されて以来、学生たちの低い意識と学校側による学生自治機構の統制のために、これといった学園民主化運動がなかったこの学校は、伝統的にソクチョ派とカンヌン[江陵]派との葛藤と暴力的な勢力争いのなかで歳月を送ってきた。学生会選挙では常に徒党を組んでの喧嘩、相手候補の拉致、暴行、脅迫などが伴ったといわれ、あるときは、チュンチョン[春川]出身者が立候補したが、ソラク[雪岳]山に拉致されて脅迫とリンチを受けたすえに、学校を自分から退学してしまったこともあったという。学生たちは、学校側がこの両派の葛藤を巧妙に利用しながら両派を互いに牽制させることでもって学生の自治機構を無力化させてきた、と主張している。
トンウ専門大の民主化運動は、1988年4月、総学生会の主導で12項目の要求を掲げて学内集会をしたことから始まったが、これは、学校側による学生会長の除籍でいったん終熄する。「この学校の主人は私だ。だから私の学校は私の思うようにする。厭ならおまえが出て行け」といった考え(1990年2月、登録全凍結交渉をするチョン・ジェウク学長が言った言葉)をもった学長のもとで、この学校の民主化運動が涙ぐましい試練を経てきたことは推察するにあまりある。
1989年4月12日に発足したトンウ学園民主実践委員長(トン民委)は、この学校最初の民主勢力求心体として、トンウ大学生運動史のひとつの画期を成す。トン民委は5・18クァンジュ[光州]民衆抗争追悼式および街頭デモ、マダン劇[社会批判をテーマとする野外劇]公演、全教祖[全国教職員労働組合]の合法性獲得闘争などで大衆的基盤を拡大していった。組織的にうまく展開はできなかったものの、学友たちの参加は素晴しかったという。

ソクチョ地域の暴力組織―学生課職員―学園暴力サークルの連携
しかし、この頃から暴力「救学隊」の動きはふたたび活発になりはじめ、以後、両者の対立は悲劇へ向かって突き進んでいく。2週間の学長室占拠座り込み闘争は、夜間に酒を飲んで乱入したソクチョの暴力団員たちによって強制解散させられ、指導部5名(シン・ヨンジェ、チェ・テクス、キム・ヨンギル、チュ・ドンジン、キム・インギ)はヤンヤン(襄陽)に逃避せざるをえなかった。後にこの5名は皆、学内で暴力「救学隊」に捕まって犬のように惨たらしく半殺しにされるほど殴られた。
1989年9月、トン民委所属のキム・ヨンガプ君(養殖科89年入学)は、トンウ大最初の自主総学生会建設の旗を掲げて総学生会選挙に出馬することになる。当時、トンウ大の実状からして民主勢力の出馬は非常に危険であったし、今もある学生は「これは、人ひとりを無駄死にさせることになるのではないか・・・」という心配が先立ったと回想する。キム・ヨンカプ君は、さまざまの脅迫と暴行、選挙妨害工作に堪え抜き、433票(ソクチョ派候補は293票、カンヌン派候補は293票)を獲得し、圧勝を収めた。しかし、開票途中で勝ったことを確認しながらも、彼らは逃亡せざるをえなかった。ソクチョ、カンヌンから攻め込んできたやくざたちが酒を飲みながら学園内に駐屯していたためだった。その日、サークルの部屋はすべて彼らによって破壊された。

選挙後、学校側は、比較的穏健で良心的であった学生課の職員チェ・ジョンチョル氏を解雇して、トンウ専門大代議員長を経て卒業後自由総連盟ソウル支部の職員となっていたキム・ジン氏(現在、ソクチョ最強の暴力組織の頭目パク[朴]某と懇意の仲として知られている)と、やはりこの学校で「救学隊」の大将校をして卒業したチン・ジャンス氏(現在、ソクチョでパク某と競う頭目ムン[文]某の直系の「後輩」)を学生課に迎え入れる。
キム・ヨンガプ君は、学生会長として約1ヶ月間をあらゆる暴行と脅迫に耐えて活動していたところ、3月28日、うら寂しい道路脇で変死体で発見される。
キム・ヨンガプ君が死んでから、「救学隊」は合法的な活動の場を持ちはじめるが、イム・ソンホ君(観光科89年入学)を中心とした100名ほどの暴力学生たちは「塔」とういサークルを作って、強引にサークルに登録し、公式的な活動をはじめる。彼らが学生課に随時集まったり学生課の職員たちと食堂・酒場で一緒にいたりする姿を多くの学生たちが目撃したという。

1991年度に、ソクチョ最大の暴力組織を代表するパク某氏(32)がトンウ大夜間経営科の学生として入学する。1991年度の学生会長チョン・ヒョンチョル君はパク某の直系の部下だというが、今回、チョン・ヨンソク君の焼身後に行なわれた座り込みを強制解散させるにあたってパク某が最も大きな功をたてた。
学生会長キム・ヨンガプの疑惑だらけの死
学生会長就任後キム・ヨンガプ君は「救学隊」のテロに苦しめられる学友たちを見るにつけて、「これ以上我慢できない。われわれやわれわれの後輩たちが殴られることが続くなら、黙ってないぞ。僕が死ぬことになっても、黙ってないぞ」と語ったという。彼は平素から絶対に人気のない広場を使わなかったし、死ぬ少し前から護身用のナイフまで忍ばせていたという。
彼の死は交通事故として処理され、ひき逃げの運転手ムン・ジョンソク氏は約2日間隠れていて自首し、現在、懲役3年を宣布されて服役中だ。彼はトンウ大学生課の職員キム・ジン、チン・ジャンス両氏と懇意の仲で、賭博による多額の負債を背負っていたという。
学生たちは、キム・ヨンガプ君が死ぬ数日前、ある学生課の職員が「俺を裏切った者は容赦しない。人をクルマに当てても6ヶ月しか懲役を喰らわない。また、自分ではなく別の者にやらせる」と語ったのを記憶している(この発言は偶然録音されて、学生たちが保管している)。彼は普段でもキム・ヨンガプ君に、会長の辞任を要求しながら、これと似たようなことを言っていたという。
キム・ヨンガプ君の死はほんとうに疑惑だらけだ。▽27日午後7時から11時20分まで「救学隊」たちと一緒に酒を飲んだ事実だけが彼らの陳述を通じて分かるのみで、その後、死亡時刻と推定される28日明け方2時までの彼の足取りは全くわからない。▽バンパーの左側がキム・ヨンガプの左の脛に当たったというが、死体には理解できない多くの傷口および凝血がある。▽70kg以上に人を当てた乗用車にこれといった破損がない(運転手は前のガラスが壊れて自分ひとりで新しいものと取り替えたと陳述したが、それは不可能だ。しかし警察は可能だという)。▽運転手は高速度でブッ飛ばしていて急ブレーキをかけたというが、アスファルトにタイヤの跡がない。▽靴が両方とも脱げて、それぞれが反対方向にずっと離れたところに落ちていたが、特に左側の靴は25・6mも離れた林の中で発見された。▽運転手は事故当時ひとりだったといったが、そのクルマの目撃者2人は3~4名が乗っていたと陳述して後に口を噤んでしまった。疑惑はこの他にも多くある。

暴力・除籍の二重奏とトンウ大の不正
1988年からトンウ専門大先生たちが提起してきた問題は決して大それたことではない。それは単に「学校暴力と不正の剔抉」にすぎない。ひとりの若者は、ただこのことのためだけに、身体にシンナーを浴びて火をつけざるをえなかった。学校当局はこの行動を「計画的」であると非難し、「救学隊」は「擬装自殺」であると断定した。これほど遣り切れない話があろうか!
この学校では暴力は何発か殴る程度のものでは決してない。ビールびんが割れて鉄パイプ・鎌・煉瓦が乱れ飛ぶ集団殴打だ。このような例は枚挙にいとまがない。大きな山脈でソウルと遮断されたこの大学(?)で、われわれは我が社会に散在する野蛮性の典型を見る。暴力の被害者は主に学内民主化のために努力する学生たちだが、ときには一般学生たちも犠牲者になる。
暴力問題で注目すべきことは、学校当局とソクチョの暴力組織との癒着関係だ。この点は大変重要な事実で、この点を看過すると、執拗なトンウ大の「暴力と不正」問題の本質を把握しえないだろう。学生たちが批判する財団の不正は、利権に絡んだ不正と学事行政の不正とに分かれる。利権に絡んだ不正問題はさて置くとしても、学事行政の問題は、学校当局による学生統制の手段として、極めて重要な位置を占める。
運動場にいたある女子学生は「集会に参加したくても除籍が恐くて・・・」と言葉尻を濁した。学事警告もなく、したがって、学生たちに釈明する機会も警告を受ける機会も事実上与えられない学事除籍は、運動圏の学生たちの間では恐怖の対象となっている。学校側は集会指導者たちをあらかじめ除籍生リストに挙げておいて、(成績、出席とは関係なく)その学期が終われば成績不良で除籍されている疑いが強い。その外にも奨学金問題、不正入学問題、不正卒業問題等についての情報が多くもたらされた。そして、集会主導学生たちがほとんど例外なく除籍されたのに比して、「救学隊」の学生たちの除籍事例はただの1件たりとも収集できなかった。
事例1 シン・ヨンジェ(観光科88年入学):学校に対する不満のためにサークル事務室の窓ガラスを割ったとして、学事警告なしに除籍。
事例2 キム・ヒョンジャ(観光科88年入学):1989年2学期に本人には通告されずに書類の上で学事警告。90年1学期の授業も「救学隊」に負けないつもりで真面目に出席し、レポートなどもすべて提出し、試験もすべて受けたのだが、全科目F(落第点)。90年4月、キム・ヨンガプ疑問死真相究明集会の主導者のひとりとして、学生課で見た除籍対象者リスト14名の6番目にあがっていた。
トンウ専門大代議員長(キム・ソンゴン、経営科90年入学)に会ったのは非常代議員会で10対3で正常授業に入ることが決定された直後だった。「何故そのように決定したのか」と尋ねるわれわれに、彼はうなだれたまま「これ以上学生側の被害が出てはいけないと判断した」と答えた。さらに「「被害」とは何か」と問うわれわれに、彼は「除籍、そして肉体に加えられる被害」だと返答するのだった。彼の返答は、暴力と除籍の二重奏こそ学校側のもっとも重要な統制手段だということを告白していた。

チョン・ヨンソク君の焼身事件は、政権退陣を要求する焼身でもなく、「アメリカ帝国主義」追放を主張する焼身でもなかった。それだけになおさら、チョン・ヨンソク君の焼身は途方もない人間的悲哀を感じさせる。
キム・ヨンガプ君の疑惑だらけの死も、物証は乏しい。しかし、心証はずっと深い。人権運動に物証は必ずしも必要ではない。いや、物証があるなら闘う必要もないだろう。われわれはただ、第二のキム・ヨンガプ、第二のチョン・ヨンソクを出さないために努力するだけだ。
良心宣言(人が、身の危険や不利益を覚悟しながらも、自らの良心にかけて行う宣言。ここでは、犯罪・不正行為の当事者や目撃者が、その事実を自らの良心にかけて公表すること)は出るだろうか?必ず出るだろう。いつかは・・・。
われわれは、いま良心宣言を出せないでいる人々を咎めるつもりはない。ただただ、韓国の人権運動の力がソクチョの暴力組織の力よりも強くありえないことをキム・ヨンガプ君に、そして、チョン・ヨンソク君にたいして申し訳ないと思うばかりだ。

澄んだ瞳の君たちに      1992年
南韓(大韓民国)の北の果て、巨大な山脈に遮られた狭い闇の地で、私は火花を発する君たちの澄んだ瞳を見た。「人間が生きる世」を熱望する君たちを見た。
澄んだ瞳たち。
枠に嵌められていく日常の不毛さにへたばってしまいそうになるとき、あるいは、巨大な「主義」や「路線」の重みに圧しひしがれ、息が詰まって死にそうになるとき、私はときどき君たちを思う。君たちの清々しさを思う。
君たちは難解な路線論争はできず、君たちが我が身を燃やすときに叫んだスローガンは「政権打倒!」でもなく、たかだか「学内暴力剔抉!」だったけれども、しかし、恥ずかしがる必要はない。「人間が生きる世」で人間らしく生きたいと思う君たちの熱望は、だれにも負けないくらい熱いのだ。熱望がだれにも負けないくらい熱いがゆえに、君たちはだれにも負けないくらい強いだろう。
邪な勢力に最も確実に打撃を加える方法は何か。未消化の主義をまず主張しようとするのは、君たちのすべきことではないのは明らかだろう。大都市で行なわれる絢爛たる運動方式ややたら真似するのも、やはり君たちのすることではないだろう。苦痛と恐怖に震えさせられてなるものかという努力、殴られてなるものかという努力、要するに、君たちの世を君たちがのびのびと生きていこうという努力、こうしたことが、闇の支配する息苦しいこの地に、君たちが民主化闘争の金字塔を打ち立てることのできる最も確かな努力であることを、固く信じてくれ。
溌剌としていたキム・ヨンガプはこう言った。
「これ以上我慢できない。われわれやわれわれの後輩たちが殴られることが続くなら、僕が死ぬことになっても、黙っていない。」
この言葉はほんとうに恐ろしい言葉だ。キム・ヨンガプが「死ぬことになっても、黙っていない」でいようとした恐怖と暴力。邪な勢力が最後まで信じて依拠する手段というのはこうした恐怖と暴力しかないからだ。この手段を失えば、邪な勢力も滅びざるをえないからだ。生半可な「主義論争」「路線論争」に消耗した君たちの青白い顔を、だれが恐れるだろうか。遠い星の世界の運動方式で君たち自身である大衆から遊離してしまった君たちを、だれが怖がるだろうか。

キム・ヨンガプのこの言葉は、君たちの運動の出発点にならねばならない。キム・ヨンガプにたいする追慕こそ、今の君たちの綱領にならねばならない。
黙っていなかったキム・ヨンガプは、ついに闇のなかで命を失った。その闇のなかでどんなに苦しかったろう。どんなに絶望したろう。その濃い闇のなかで・・・。
暴力組織の力に及ばなかったわれわれ人権運動の力・・・。私は、幽霊のように執拗に付きまとう澄んだ瞳のキム・ヨンガプに、骨身に沁みる申し訳なさを感じつつ、許してくれと祈りたい。
澄んだ瞳の君たち。気を引き締めてよく聞いてくれ。
今、われわれ人権運動ははっきりと君たちの痛み、悲しみ、無念を、両目をカッと見開いて見つめよう。君たちの苦難がわれわれすべての苦難であることをわれわれは忘れないだろうし、君たちの闘いがわれわれすべての闘いであることを忘れないだろうし、そして、君たちがわれわれすべての戦いの先鋒であることを決して忘れないだろう。
それにもかかわらず、澄んだ瞳たちよ。
結局は、その痛みと悲しみと無念さの主人公は君たち自身でしかありえないのだ。それを肩代わりしてくれる人はだれもいない。鉄拳にも鉄パイプにも出刃包丁にも、君たちはまさに君たちの美しい希望と信念の力で堂々と打ち克たねばならない。だから、キム・ヨンガプを復活させられるのは、とどのつまり、君たちしかいないのだ。
暴力に勝てるのは暴力ではない。肝に銘じてほしい。希望だ。信念だ。
いつも自分自身の内部を深く覗き込み、満天下に一点の恥もない人間になってくれ。若さの慢心、怠惰、恐れ、安逸と熾烈に闘いながら、自分の限界を不断に打ち破っていく強靭な闘士になってくれ。キム・ヨンガプを復活させられる希望と信念の力は、そうした生き方から出てくるのだ。

澄んだ瞳たち。
美しい山と美しい海が暖かく包んでくれる地。その地を暗黒が支配しているとしても、君たちは間違いなくその地の主人だ。
教授たちが、乱暴に君たちを除籍しておいて、君たちを「外部勢力」だと呼ぼうが呼ぶまいが、学長が学校の主人は自分だと傲慢に宣言しようがすまいが、学校の主人は君たちだったように、その地でどんな蔑視と虐待を受けようとも、君たちはその美しい地の主人なのだ。まさにその地で君たちは自由にならねばならず、のびのびと生きていけるのでなければならない。私を歓迎するところといえば監獄しかないこの切ない祖国で、私が米国に、日本に逃げ出さずに耐えているように、君たちもそのように耐えなければならない。
キム・ヨンガプ追慕事業は、たんに死んだキム・ヨンガプのためだけの事業でないのは明らかだ。それは、他でもなく、君たちが、今は暗黒のその地で、いつの日にかついに自由に、のびのびと生きるための、まさに君たちのための事業だ。キム・ヨンガプが死んでいるあいだは君たちも死んでおり、キム・ヨンガプの復活とともに君たちも明るい顔で復活できるからだ。
つねに心の底深くキム・ヨンガプの記憶を大切にしまっていてくれ。キム・ヨンガプ。君たちの力で復活するだおうキム・ヨンガプ。闇のなかから蘇るだろう君たちの光、キム・ヨンガプ・・・。
澄んだ瞳たち。
今日その目の輝きを失うな。君たちはどんなときでも孤独ではないだろう!

私の「遺書事件」1年    1992年
雨上がりのマソク[磨石、キョンド(京畿道)ナミャンジュグン(南揚州郡)内の地名]・モラン(牡丹)公園[「民主烈士墓城」がある]を吹き抜ける風は爽やかだった。
静かなたたずまいの墓<民主烈士キム・ギソル[金基卨]の墓>。こじんまりした墓碑は雨風に堪えながらひっそりと立っていた。[早くも1年が過ぎたのだ・・・。]昨年(1991年)のうちにすっかり涸れてしまったかのようだった涙腺の奥から、今ふたたび涙が少しずつこみ上げてくる。[お前、どうしてあんな死に方をしたのだ!]
遺書事件、遺書事件と言いながら私の1年は慌ただしく過ぎさった。一挙に3,4年分生きてしまったほど多くの怒りと喜び、悲しみと痛みが入り乱れて行き交った1年。1年をそんなに慌ただしく生きてきたのに、相変わらずカン・ギフン[姜基勲]は濡衣を着せられて監獄におり、そして、あの哀れなキム・ギソルの名誉は汚されたままだ。いったい私は何をなしえたというのか。
私の17年の監獄暮らしの後半は、血を涸らし精神を蝕む懐疑と苦悩の連続だった。
世の中や人間というものは決して単純なものではないという思いが私の胸に深く沁みとおってきて私を苦しめはじめたこの懐疑と苦悩の正体は、要するに、私が20代のはじめに大きな感動をもって学習し、私の生の支柱となってきた社会科学理論だけで、世の中や人間の問題をいったいどこまで解決できるのか、ということをめぐるものだった。独居房にあって世の中と人間から断絶された私には、具体的な実存を備えた具体的な人間に対する具体的な愛の蓄積はなかったのだ。これは恐ろしい事実だった。私は具体的な働きを通して世の中に寄与する道を渇望していた。人恋しかったのかもしれない。
しかし私は監獄では、私が人権運動をすることになるだろうとはまったく予想もしていなかった。人権運動は、価値中立的に具体的な案件に埋没するものであるために、社会の質的問題(ないしは質的変革の問題)を結果的に隠蔽する致命的な逆機能をもっている、と思ったからだ。ところが私は今、奇妙なことに、人権運動をしている。
私が17年の監獄暮らしを終えたとき、世間はやっと目が覚めたところで、「長期囚」も「非転向」も何の意味かよく知らなかった。チョンジュ[清州]保安監護所非転向出獄第1号として、多くの長期囚たちを監獄に残したまま出てきた私は、そんな世間に対して「長期囚!非転向!」と叫ばざるをえなかったのであり、そうした振る舞いが、私の人生の可能なさまざまな道筋を人権運動の方向に整理していく契機となってしまったのだ。
私は<民家[民主化実践家族運動協議会]長期囚家族協議会会長として、長期囚問題に懸命に取りくみ、その過程で、変革運動の地平を見つめる人権運動の可能性を探り出して、2年後に長期囚問題から決然と身を引いた。
具体的案件を対象とする人権運動は、人間に対する具体的な愛着を積み上げていくことによって、どんな体制、どんな社会をも「人間の顔をした」ものにしていくことに具体的に寄与する。これが人権運動の栄光だ。他方、人権運動が、変革運動の目を持たずに、目の前の具体的な案件のなかに埋没してしまうとき、それは、改良主義者たちと似た汚辱の道を歩むほかない。このような人権運動観を抱いて、私は「全民連[全国民族民主運動連合]に人権委員長として入っていったのだ。しかし、入ってからわずか2ヶ月で、あの運命的な事件が起こってしまった。

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