日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

American black historyアメリカ黒人の歴史История негра в Америке/Sozo Honda本田 創造Создано Хондой☆African-Americanアフリカ系アメリカ人Афроамерика́нцы☭2022/12/11/CANADA🍁Антид Ото⑪


だが、夕方近くなって、壇上にキング牧師が姿をあらわしたとき、この日の大集会はクライマックスに達した。
「われわれが、この国の首都にやってきたのは、いわば小切手を現金に換えるためである。わが共和国の建設者たちが、憲法と独立宣言の崇高な言葉を書き記したとき、かれらはすべてのアメリカ人が受けつぐべき約束手形に署名していたのである。こんにち、黒人市民にかんするかぎり、アメリカがこの約束手形の支払いを履行していないことは明らかである。だからこそ、われわれはこの小切手を現金に換えるために、ここにやってきたのだ。
われわれはもはや冷却期間をもつぜいたくをしたり、漸進主義という鎮静剤を飲んだりしている余裕は全くない。今こそ、民主主義の約束を実現すべきときである。今こそ、人種的隔離の暗い荒廃の谷間から立ち上がって、人種的正義の陽のあたる道を歩むべきときである。黒人に市民的諸権利が与えられないかぎり、アメリカには安らぎも静けさもない。反抗の旋風は、公正な輝かしい日が到来するまで、わが国のいしずえをゆさぶりつづけるであろうWe have come to the capital of this country, so to speak, to cash our checks. When the builders of our republic wrote the lofty words of the Constitution and the Declaration of Independence, they signed the promissory note that every American should receive. Today, as far as black citizens are concerned, it is clear that America has failed to pay this promissory note. That's why we're here to cash this check. We can no longer afford to indulge in cool-down periods or take the sedatives of gradualism. Now is the time to realize the promise of democracy. Now is the time to rise from the dark valleys of racial segregation and walk the sunny path of racial justice. There will be no peace or tranquility in America until black people are given their civil rights. The whirlwind of defiance will continue to shake the foundations of our country until a just and glorious day comes・・・」
キング牧師は、かねてから自己の信念をこのように力説してから、本書の「プロローグ」でも引用した「私には夢があるI have a dream」のあの名文句で、大群衆のあいだに鳴りやまぬ拍手と共感を呼び起こした。

このあと、参加者たちは、議会と政府にたいし、10項目の要求を満場一致で採択して、この日の大集会は幕を閉じた。20万人を超した人びとの群れは、おもいおもいの感慨にふけりながら、新たな決意を胸に秘めてリンカン記念堂前の広場をあとにしたが、黒人指導者の一団は、ホワイトハウスでケネディ大統領と一時間余り会談し、去る6月19日、彼が議会に提出していた新公民権法案の早期成立を望むとともに、黒人の地位改善について大統領としてのいっそうの努力と尽力を強く要請した。

1964年公民権法1964년 민권법1964年民權法案(1964ねんこうみんけんほうЗакон про громадянські права 1964 року 、英語:Civil Rights Act of 1964)は、アメリカ国内において人種差別を禁止する法律。1950年代以降にアメリカ国内で活発化した公民権運動を背景として、1964年に連邦議会で成立した。同法は11条からなり[1][2]、職場・公共施設・連邦から助成金Subsidyを得る機関・選挙人登録Voter registrationにおける差別と分離教育School segregation in the United Statesを禁止している[2][3]。
1964年公民権法
ワシントン大行進から僅か三ヶ月後、ケネディ大統領は、一年後に迫った次期大統領選挙で再選を勝ち取るため、南部への遊説に旅立った矢先の11月22日、テキサス州のダラスでパレードに集まった衆人環視の中で、兇漢の銃弾に倒れて非業の死をとげた。
彼の死にかんしては、「ブラウン判決」の最高裁判所判事、アール・ウォーレン(アール・ウォーレン(英語:Earl Warren、1891年3月19日 - 1974年7月9日)Ерл Воррен は、アメリカ合衆国の政治家、法律家、法学者)を委員長にしたウォーレン委員会の報告書や、FBIの調査など、かなり詳しい資料があるが、暗殺の真相部分はなお不透明な謎につつまれている。だが、このケネディの死が、多くのアメリカ黒人の目には「リンカン悲劇の再来The Lincoln Tragedy Revisited」と映じたと同時に、南部の白人優越主義者のあいだには「怒れる天の配剤Angry Heaven's Dispensing」と感じた者が少なくなかったであろうことは確かである。

*ケネディ大統領暗殺事件(ケネディだいとうりょうあんさつじけん、英: Assassination of John F. KennedyУбийство 35-го президента США Джона Кеннедиは、1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を遊説中の現職の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがダラス市内をパレード中に銃撃され、死亡した暗殺事件である。
そうした情勢の中で、ケネディ大統領が議会に提出していた新公民権法案は、副大統領から昇格して彼のあとを継ぎ、「ケネディ大統領の栄誉を称えるには、一刻も早くこの法案を成立させることですTo honor President Kennedy, pass this bill into law as soon as possible」と上下両院合同会議で演説したLyndon Baines Johnsonリンドン・B・ジョンソンЛіндон Бейнз Джонсонの政権下でも、ひきつづき闘われていた黒人を先頭とする公民権闘争や、いっそう盛り上がりをみせていた内外の民主勢力の圧力を受けて、ようやく翌年の2月10日に賛成290票、反対130票で下院を通過した。その後、法案は上院で500を超える修正案が提出され、南部派議員による記録的なフィリバスター(議事妨害のための長時間演説*FilibusterФилиба́стер≫は、議会の少数派が議院規則の範囲内で議事の進行を意図的・計画的に妨害すること)が行なわれ、結局は討論打ち切り動議を採択するといった異例の白熱した審議をへて、6月19日ーこの日は、奇しくもケネディ大統領が政府原案を議会に提出してから、ちょうど満一年にあたるーついに賛成73票、反対27票で上院も通過し、それから十数日後の7月2日、ジョンソン大統領の署名を得て正式に連邦の法律として成立した。上院における反対27票は、その年の11月の大統領選挙で、共和党候補となって民主党候補のジョンソンに惨敗した、超保守主義者のバリー・ゴールドウォーター(バリー・モリス・ゴールドウォーター(英語: Barry Morris Goldwater、1909年1月2日 - 1998年5月29日)Баррі Морріс Голдвотерは、アメリカ合衆国の政治家)をはじめとする共和党議員六名と、南部民主党議員21名が投じた票である。
こうして制定された1964年公民権法は、「憲法上の投票権を実施し、公共施設における差別にたいする差止救済を与えるため、合衆国地方裁判所に裁判権を付与し、公共機関、公教育における憲法上の権利を保護するため、訴訟を提起する権限を司法長官に授権し、公民権委員会を拡大し、連邦援助計画における差別を防止し、平等雇用機会委員会を設置する等の目的のための法律To enforce constitutional voting rights, to grant injunctive relief against discrimination in public accommodations, to grant jurisdiction to United States district courts, and to bring litigation to protect constitutional rights in public institutions and public education. Acts for the purpose of empowering the Attorney General, expanding the Civil Rights Commission, preventing discrimination in federal aid programs, establishing the Equal Employment Opportunity Commission」という長い正式名称をもつ総括的な法律で、アメリカ人としての黒人の市民的諸権利の保護にかんし、相互に密接な関連がありながら、それぞれが独立した11篇の個別法(タイトルI-タイトルXI)からなり、新たに導入された諸規定の部分と、既存の公民権法その他関係法令の諸規定を修正補強した部分とを合成するかたちで編成されている。
その主要な内容は、この正式名称からもうかがえるように、第一に、選挙のさいの「読み書き能力テストliteracy test」を一定の条件付で禁止したのをはじめ、登録係官が恣意的に課すさまざまな異なった投票基準、慣行、手続きなどから黒人を保護し、投票権行使における人種差別の排除につとめたことである。この黒人選挙権の保障は、翌年に制定された1965年投票権法によって、いっそう強化された。第二は、なんびとも、人種、肌の色、宗教、あるいは出身国を理由に、次のような施設で差別もしくは隔離されてはならず、そこでは、すべての人が財、サーヴィス、設備、特典、利益、便宜を「完全かつ平等complete and equal」に享受する権利を有することが明記されている。そして、その施設として、①五室以下で持主が同じ建物に住んでいる場合以外の旅館、ホテル、モーテルその他の旅行者用宿泊施設、②その構内において、おもに食事の販売を営むレストラン、カフェテリア、ランチ・ルーム、ランチ・カウンター、飲物売場あるいは他の設備、③映画館、劇場、コンサートホール、スポーツ競技場、スタジアムあるいは他の展示や娯楽の場所、が列挙されている。第三に、公教育における人種差別を排除するため、合衆国教育局がその実情について調査し、人種共学の実施について専門的援助を行ない、また司法長官は人種、肌の色、宗教もしくは出身国を理由に公立学校への入学や出席などを拒否されているという訴えを書面で受け取ると、連邦地方裁判所への提訴を含む適切な救済措置をとることが定められている。第四に、この法律は、連邦政府の援助のもとに行なわれる活動や事業では一切の差別を禁止し、これに違反した場合は助成金の打ち切りなどを定めるとともに、さらに広く雇用における人種差別廃止をおし進めるために、平等雇用機会委員会を設置し、また裁判所にたいし適当な「差別是正措置(affirmative action*)を講じるよう命じている。

*1965年投票権法(英語:Voting Rights Act of 1965)は、アメリカ合衆国議会(連邦議会)で成立し、投票時の人種差別を禁止したことで一時代を画した法律である。

①Affirmative action적극적 우대조치積極的優待措置Позитивна дискримінація, also known as positive action or positive discrimination (British English), involves sets of policies and practices within a government or organization seeking to include particular groups based on their gender, race, sexuality, creed or nationality in areas in which such groups are underrepresented — such as education and employment.
*②政府関連企業における雇用上の人種差別を禁止した大統領命令は、すでに述べたようにフランクリン・D・ローズヴェルトが1941年に発令した大統領行政命令第8802号にまでさかのぼることができるが(169ページ参照)、アファーマティヴ・アクションの語が法令上最初に用いられたのはケネディ大統領による大統領行政命令10925号(1961年)で、その中で連邦政府と契約する企業においては、人種、信条、肌の色あるいは出身国にかかわりなく、求職者の雇用や待遇を保護するため、契約者Contractorは「アファーマティヴ・アクションを講じるものとするshall take affirmative action」ことが命じられている。また、ジョンソン大統領が発令した大統領行政命令第1124号(1965年)は、これを引き継ぎ性差別の禁止を追加するなど一部を修正補強したもので、こんにちまで効力を有している。しかし、このアファーマティヴ・アクションの語が法律上初めて用いられたのは、今、述べた1964年公民権法(第七編706条g項)で、そこでは「被告人が故意に違法な雇用を行なってきたり、あるいは行なっていると認められた場合、裁判所は被告人にたいしてそのような違法行為を差し止め、さらに・・・適当なアファーマティヴ・アクションを命じることができる」と定められている。
近年、合衆国最高裁判所において、その合憲性あるいは適法性をめぐって激しい議論が交され、裁判官(現在は九名)のあいだに鋭い意見の対立や分裂をひき起こしたもののひとつに、このアファーマティヴ・アクションにかかわる一連の係争問題があるが、こんにちまで最高裁判所がこれにかんして下した裁定はー「逆差別reverse discrimination」問題として世の注目を浴びた1978年の「バッキ判決」(カリフォルニア大学評議員バッキ事件)を含めてー全部で11件ある。
①逆差別(ぎゃくさべつ、英語:reverse discriminationОбратная дискриминацияは、差別を改善し撤廃しようとする過程で、優遇されて来た集団の優位性や平等性が失なわれることで起こる差別である。

②Regents of the University of California v. Bakke, 438 U.S. 265 (1978), is a landmark decision by the Supreme Court of the United States which involved a dispute of whether preferential treatment for minorities can reduce educational opportunities for whites without violating the Constitution.
なお、アファーマティヴ・アクションの最も重要な具体策のひとつとして、黒人その他のマイノリティや女性の雇用、またマイノリティの高等教育機関への入学などにさいして一定の優先的な割当枠(quota)を設けることが多く、そのため、この語の訳語として「優遇措置preferential treatment」、「優先措置priority action」、「特別措置special measures」、「割当措置allocation measures」、「肯定措置affirmative action」などが用いられることがある。1964年公民権法の当該箇所には、その意味についてなんら具体的な定義が示されていないので、多少、ニュアンスを異にした解釈が成立しうるが、私は過去における人種差別や女性差別にたいする償い以上に、今なお厳然として存在しているこれらの差別を、断固、是正していくための積極的な行為と解する立場から、あえて訳語を当てるとすれば、「差別是正措置Correction of discrimination action」がわかり易いと考え、これを用いた。
このように、1964年公民権法は、難をいえば、たとえば住宅差別の禁止や最低賃金制の実施その他の点で黒人たちの要求が全面的かつ十全に盛り込まれているとはいいがたいが、第二次世界大戦後の公民権運動をとおして、かれらが生命にを賭して求め闘ってきた宿年の成果が総括的に集大成された最も強力なもので、「南北戦争以来の画期的な黒人救済措置」といわれるこの法律が制定されたことの歴史的意義はきわめて大きい。しかも、この同じ年の1月には、正副大統領をはじめとする連邦レベルの国政選挙において、「投票権は、合衆国またはいかなる州も、人頭税その他の税を支払わないことを理由に、これを拒否または制限してはならないVoting rights shall not be denied or restricted by the United States or any state on the grounds of failure to pay poll or other taxes」ことを規定した憲法修正第24条が成立しており、さらにこの年の12月には、キング牧師にノーベル平和賞が授与されるなど、公民権運動は文字通りその頂点に達した。

*노벨 평화상( - 平和賞Нобелівська премія миру, 스웨덴어: Nobels fredspris, 노르웨이어: Nobels fredspris, 영어: Nobel Peace Prize)诺贝尔和平奖Нобелевская премия мира

*The long, hot summer of 1967 refers to the more than 150 race riots that erupted across the United States in the summer of 1967. In June there were riots in Atlanta, Boston, Cincinnati, Buffalo, and Tampa. In July there were riots in Birmingham, Chicago, Detroit, Minneapolis, Milwaukee, Newark, New Britain, New York City, Plainfield, Rochester, and Toledo.
南部白人の反動攻勢と「長く暑い夏」の到来
だが、まさに、この時期に、南部の各地では、人種主義者の白人の反動攻勢White Backrushが、また全米とりわけ北部の主要土地では、その後数年にわたる「長く暑い夏Long Hot Summer」が始まっていたのである。事実、アラバマ州のウォーレス知事George Corley Wallace Jr.は、今回の公民権法が成立すると、いち早くそれが合衆国憲法に違反すると宣言し、法廷であくまでも「黒白」を争うといきまいたし、他の南部諸州の知事や有力政治家の中からもこれに同調する者があらわれていた。
政治の場ばかりではない。大統領選挙を三ヶ月後にひかえて、1964年8月4日付の『ニューヨーク・タイムズ』は、「米機、北ヴェトナム基地を爆撃US planes bomb North Vietnam base」の全段ぶち抜きの大見出しを掲げていわゆるトンキン湾事件を大々的に報道したが、これとならんで人びとはもうひとつのショッキングな見出しに見入らねばならなかった。そこには、鮮やかな文字で、「FBI、公民権運動家とおぼしき三死体を発見FBI finds three bodies believed to be civil rights activists」と記されていた。
この記事は、CORESNCCが協力して、その年の夏に予定していた、学生層を中心に教師、牧師、弁護士など1000人もの黒人、白人の参加者によるミシシッピ州での黒人選挙権登録促進その他の教育啓蒙活動計画、いわゆるミシシッピ・プロジェクトの先遣隊のメンバーだった三人の若者が、新公民権法が上院を通過した僅か二日後の6月21日、その根拠地のメリディアンMeridianを出発したネショバ郡Neshoba Countyの片田舎で数日前起こった白人暴徒の黒人教会焼打ち事件の調査に出かけた帰り、同州のフィラデルフィア郊外で保安官代理のセシル・プライスCecil Priceにスピード違反の言いがかりをつけられて逮捕され警察に連行されたあと、夜の10時半頃、近くにKKKが待ち伏せる人気のない路上で釈放されたが、その後、忽然と消息を断ったまま、二日後の6月23日にかれらの乗っていたステーション・ワゴンが付近の沼沢地で焼けただれて発見されながら、依然としてその行方がようとしてわからなかったのに、約六週間ぶりにやっとかれらとおぼしき死体が見つけだされたことを報じたものであった。①Freedom Summer自由之夏, also known as the Freedom Summer Project or the Mississippi Summer Project密西西比夏日計畫, was a volunteer campaign in the United States launched in June 1964 to attempt to register as many African-American voters as possible in Mississippi②Cecil Ray Price (April 15, 1938 – May 6, 2001) was an American police officer and white supremacist. He was accused of having taken part in the murders of Chaney, Goodman, and Schwerner in 1964.
フィラデルフィアの西南五マイル程の地点にある農地に、新しい池を作るために設けられた高さ六千メートルの土手の底から、クレーンやブルドーザーを使って掘り出された死体には38口径の銃弾が撃ち込まれて、見るも無残な姿だったが、歯や指紋を照合した結果、これらの遺体はいずれも消息不明でその生存が危ぶまれていた当の活動家たちー白人のマイケル・H・シュワーナーとアンドルー・グッドマン、それに黒人のジェームズ・E・チェイニーであることが判明した。遺体の中でも、黒人のチェイニーは鉄鎖で全身をめった打ちにされ、頭蓋骨を割られたうえ、頭に一発、胴体に二発の銃弾を浴びていて、とくに黒人活動家にたいする南部白人の憎悪があらわに示されていた。

*エメット・ルイス・ティル (Emmett Louis “Bobo” Till、1941年7月25日 - 1955年8月28日) Емметт Луїс Тіллは、白人女性に口笛を吹いたことで殺されたアフリカ系アメリカ人の少年。愛称ボボ。Françaisフランス語→Emmett Louis « Bobo » Till, né le 25 juillet 1941 à Chicago dans l'Illinois est mort le 28 août 1955 à Money dans le Mississippi, est un adolescent afro-américain qui fut lynché et torturé à mort dans la région du delta du Mississippi aux États-Unis.
**この事件は、本文中では述べなかったが、1955年8月に、夏休みを利用してシカゴからミシシッピ州の田舎町マニーMoneyに住むモーゼス・ライトMose Wrightのもとに遊びにきていた彼の甥で14歳の黒人少年、エメット・ルイス・ティルが、雑貨店の主婦に「無礼にも」口笛を吹いて話しかけたというただそれだけのために惨殺され、ブライアントRoy Bryant(and Carolyn Bryant)とマイラムJ. W. Milamという二人の白人が明らかに犯人として逮捕され裁判にかけられながら、全員が白人ばかりの陪審員の評決によって無罪放免となった(Apr 27, 2023 — Carolyn Bryant Donham, the White woman whose accusation led to the 1955 lynching of Black teen Emmett Till in Mississippi – and whose role in the brutal death was reconsidered by a grand jury as recently as last year – has died in Louisiana)。「ティル少年殺害事件」の場合とはちがって、ミシシッピ州当局が犯人を起訴しなかったので、連邦大陪審が犯人を告発した結果、プライス保安官代理ら七人に3年から10年の有罪判決が下された。なお、四半世紀後の1989年6月になって、連邦議会は三人の犠牲者の勇敢な行動をたたえ、6月21日を「チェイニー・グッドマン・シュワーナーの日Chaney Goodman Schwarner day」とする決議を採択した。ちなみに、この事件を素材にしたジョエル・ノーストJoel Norst小説『ミシシッピ・バーニングMississippi Burning, 1989』を映画化した同名の映画が1989年にわが国でも上映されたが、二人の捜査官(ジーン・ハックマンGene Hackmanとウィレム・デフォーWillem Dafoeの活躍に重点がおかれ、ファクトとフィクションの絡みのむずかしさを改めて感じさせられた。この点では、1990年に上映された南北戦争中の激戦のひとつでワグナー要塞攻撃Second Battle of Fort Wagnerに参加した黒人連隊54th Massachusetts Infantry Regimentの活躍を描いた映画『グローリーGlory』のほうが、事実をよくつたえている。

③『ミシシッピー・バーニング(Mississippi BurningМіссісіпі у вогніは、1964年に米ミシシッピ州フィラデルフィアで公民権運動家3人が殺害された事件[2]をモデルにした社会派映画social movie(こういう表現もザ「我が国」らしいけど、問題あると思うThis expression seems to be the "our country", but I think there is a problem)。1988年公開。アカデミー撮影賞受賞作品。

④James Earl Chaney (May 30, 1943 – June 21, 1964) was an American civil rights activist②Andrew Goodman (November 23, 1943 – June 21, 1964) was an American civil rights activist.③Michael Henry Schwerner (November 6, 1939 – June 21, 1964) was an American civil right activist.

⑤『グローリー』(GloryСлава (фильм, 1989)は、1989年公開のアメリカ映画。アメリカ南北戦争において実在したアメリカ合衆国初の黒人部隊を描く戦争映画。この映画で黒人兵士を演じたデンゼル・ワシントンDenzel Washingtonは第62回アカデミー賞および第42回ゴールデングローブ賞の助演男優賞を受賞した。
しかし、このような惨事にもめげず、1964年のミシシッピ・サマー・プロジェクトは、幾多の犠牲を払いながらも続行され大きな成果をおさめた。そして、こうした草の根運動を背景にして、すでにこの年の4月に結成されていたミシシッピ州の黒人たちを主体にした独立政党であるミシシッピ自由民主党(Mississippi Freedom Democratic Party)は、国政レベルにおいても、より民主的な政治改革を求めて、かれら自身の声を、直接、反映させるため、8月下旬にニュージャージー州のアトランティック・シティで開かれた白人ばかりの民主党全国大会に、黒人代議員を送る活動を展開するまでに成長していた。
ミシシッピ州で三人の公民権活動家が射殺された事件は、南部の暴力主義的な白人の反撃を象徴する出来事にすぎない。その直後の6月25日にはフロリダ州のセント・オーガスティンSt Augustineで、すでに黒人にも開放されていた海岸で海水浴をしようとした約100人の黒人が75人の白人暴徒に襲撃され、7月に入ってからは10日に映画『シェーン』(『シェーン』(Shane«Шейн»は、1953年のアメリカ合衆国の西部劇映画)などでも馴染みの俳優のジャック・パランス(ジャック・パランス(Jack Palance, 1919年2月18日 - 2006年11月10日)は、アメリカ合衆国の俳優。本名はVolodymyr PalahniukВолодимир Палагню́к、ペンシルベニア州出身で両親はウクライナУкраїнаからの移民Тернопі́льська о́бласть/Льві́вська о́бластьが、アラバマ州のタスカルーサTuscaloosaの映画館で人種差別を支持する群衆に取り囲まれ、警察の助けをかりて難を逃れた。さらに、翌日の11日には、ジョージア州のハイウェイで、ワシントンへ帰る途中の黒人教育指導者主事のレミュエル・A・ペンが、あとからきた自動車の中から何者かに散弾銃で撃たれて死亡するという事件も起こって、白人優越主義者による黒人への暴力行為や、公民権活動家にたいするテロや迫害はとみに増加し、黒人たちの中に「暴力には暴力をViolence for violence」という動きが広がり始め、指導的な黒人解放組織のあいだにも不協和音が聞かれるようになった。

*Lemuel Augustus Penn (September 19, 1915 – July 11, 1964) was the Assistant Superintendent of Washington, D.C. public schools, a decorated veteran of World War II and a Lieutenant Colonel in the United States Army Reserve who was murdered by members of the Ku Klux Klan, nine days after the passage of the Civil Rights Act of 1964.
このような状況のもとで、翌年の1965年2月21日、すでに黒人回教団Nation of Islam(NOI)を離脱し、『アフリカ系アメリカ人統一機構The Organization of Afro-American Unity (OAAU)』という政治組織を結成して「非暴力には非暴力で、しかし暴力には暴力で対決するConfront nonviolence with nonviolence, but violence with violence」ことを公言してキング牧師などとは異なった道を歩みながらも、必要なときには共に闘っていた黒人民族主義者Black nationalistの指導者、マルコム・Xがニューヨークで暗殺された。他方、南部の黒人有権者登録促進闘争はその一ヶ月程前から今度は舞台をアラバマ州に移して、SCLCと、いっそう急進化しつつあったSNCCの指導のもとに開始されていた。

①The Organization of Afro-American Unity (OAAU) was a Pan-Africanist organization founded by Malcolm X in 1964. The OAAU was modeled on the Organization of African Unity, which had impressed Malcolm X during his visit to Africa in April and May 1964. The purpose of the OAAU was to fight for the human rights of African Americans and promote cooperation among Africans and people of African descent in the Americas
②マルコムX(Malcolm XМалколм Ікс, 1925年5月19日 - 1965年2月21日)、出生名マルコム・リトル(Malcolm LittleМалкольм Литтлel-Hajj Malik el-Shabazzالحاجّ مالك الشباز‎Ел-Хадж Малік Ел-Шабаззは、アフリカ系アメリカ人の急進的黒人解放運動指導者[1]、イスラム教導師である。公民権運動の時代に、特に貧困層のアフリカ系アメリカ人に支持された。彼はネーション・オブ・イスラムのスポークスマンだったが、後に教団を離脱した。

③Malcolm X, an African American Muslim minister and human rights activist who was a popular figure during the civil rights movement, was assassinated in Manhattan, New York City on February 21, 1965. While preparing to address the Organization of Afro-American Unity at the Audubon Ballroom in the neighborhood of Washington Heights, Malcolm X was shot multiple times and killed.
それは、ちょうど前年の選挙で大勝したジョンソン大統領が、「貧困と人種的不公平の廃絶Eliminating Poverty and Racial Injustice」を盛り込んだ「偉大な社会Great society」構想を実現する決意を高らかに謳いあげていた頃のことであった。1月19日、この日、セルマSelmaの裁判所前に選挙権登録を要求して集まってきた黒人群衆と、かれらを阻止するために出動してきたダラス郡保安官、ジェームズ・J・クラークJames J. Clarkの率いる警官たちとのあいだに大きな衝突が起こり、多くの黒人が逮捕された。2月1日には、キング牧師も捕えられ、これらの弾圧に抗議する黒人たちの闘いは近くのマリオンMarionにも波及して日毎に増大し、そうした中でジミー・L・ジャクソンJimmy L. Jacksonという黒人の若者が警官に射殺される事件が発生するにいたって、3月6日、キング牧師はセルマからモントゴメリーへの「自由の行進March of freedom」を呼びかけたのである。

*Jimmie Lee Jackson (December 16, 1938 – February 26, 1965)[1][2] was an African American civil rights activist in Marion, Alabama, and a deacon in the Baptist church. On February 18, 1965, while unarmed and participating in a peaceful voting rights march in his city, he was beaten by troopers and fatally shot by an Alabama state trooper. Jackson died eight days later in the hospital.
これにたいしウォーレス知事はただちに禁止命令を発し、ジョンソン大統領も同調したため、キング牧師はやむなく、一時、行進を見合せた。しかし、ストークリー・カーマイケルStokely Carmichaelその他のSNCCの指導者たちはこれを拒否し、翌日の7日の500人の参加者が行進を開始した。その直後に、セルマの出口のエドマンド・ぺタス橋Edmund Pettus Bridgeのたもとに待機していたクラーク保安官Sheriff Clarkの率いる警官と、ジョン・クラウド少佐Major John Cloudの指揮するアラバマ州兵とが、無防備な行進参加者ばかりか、これを沿道から応援していた女や子どもを含む群衆にたいして、棍棒と催涙ガス、はては騎馬隊まで使って襲撃し暴力的にかれらを解散させてしまった。おびただしい数の負傷者を出し、ボストンから応援にきていた白人牧師のジェームズ・リーブJames
Reebを死にいたらしめたこの事件は、たちまちテレビや新聞を通じて広く世界に報道され、やがて澎湃と巻き起こってきた世論の圧力を受けて、3月13日にジョンソン=ウォーレス会談Johnson-Wallace Meetingが開かれた。

①ストークリー・スタンフォード・チャーチル・カーマイケル(Stokely Standiford Churchill Carmichael, 1941年6月29日 - 1998年11月15日)は、アメリカの差別撤廃闘争の指導者。

②1965年の血の日曜日事件Selma to Montgomery marches(ちのにちようびじけん)Марши от Сельмы до Монтгомериは、1965年3月7日に、アメリカの公民権運動中にアラバマ州の都市セルマで起きた流血事件③James Joseph Reeb (January 1, 1927 – March 11, 1965) was an American Unitarian Universalist minister, pastor, and activist during the civil rights movement in Washington, D.C., and Boston, Massachusetts.
その二日後の15日、ジョンソン大統領は、ついに投票権法(1965年公民権法)の成立を求め、連邦議会において、その最後を「われら、打ち勝たんWe shall overcome」の言葉で結ぶ演説を行なった。ついで17日には、合衆国最高裁判所が、セルマ=モントゴメリー行進は憲法が認める範囲内の示威行進であり、これにたいする妨害は排除されなければならないとの見解を示した。こうして、3月21日、ブラウン・チャペル教会The Brown Chapel Churchに参集した3200人の群衆が、セルマを出発してモントゴメリーへ向かう「自由の行進」を開始したのである。五日間かけて50マイルの道程を歩き通したこの行進には、全国各地からの白人の修道女や学者、俳優などまで、さまざまな人びとが参加し、25日に行進がモントゴメリーのアラバマ州議会議事堂前に到着したときには人びとの群れは2万5000人にもふくれあがっていた。その大群衆に向かって、キング牧師は南部の人種主義的白人権力を激しく非難するとともに、投票権法の即時成立を要求する熱のこもった演説を行なった。
①Brown Chapel A.M.E. Church is a church at 410 Martin Luther King Jr. Boulevard in Selma, Alabama, United States.

②1965年投票権法(英語:Voting Rights Act of 1965)は、アメリカ合衆国議会(連邦議会)で成立し、投票時の人種差別を禁止したことで一時代を画した法律である[7][8]。1965年8月6日に公民権運動の高まりの中でジョンソン大統領が署名して法制化された。
それは、1955年にこの地で黒人だけの力で初めてバス乗車拒否運動が始められて以来、10年間にわたって闘われてきた公民権運動の勝利と、白人とも協力しつつ非暴力主義に徹したキング牧師の大衆的直接抗議運動の時代が終りに近づきつつあったことを告げる象徴的な集会となった。その夜、ミシガン州から参加していたヴィオラ・G・リウッツォという39歳の白人活動家が、KKKに襲撃され殺害された。そして、8月6日、選挙権行使における人種差別を禁止した投票権法がジョンソン大統領の署名を得て成立したが、その五日後の11日にはアメリカ史上最大規模の黒人暴動が、ロサンゼルスの黒人居住地区ワッツで発生した。
*ワッツ暴動(ワッツぼうどうWatts RiotsЗавору́шення у Во́ттсі (Повста́ння у Во́ттсі)とは、1965年8月11日から8月17日にかけてアメリカ合衆国のワッツ市(カリフォルニア州、現在はロサンゼルス市に吸収)で発生した暴動事件。
その年が明けた1966年6月6日、ミシシッピ大学入学事件(186ページ参照)で、一躍有名になったジェームズ・メレディスが、有権者登録を激励するため、ただ一人でテネシー州のメンフィスからミシシッピ州のジャクソンへ向かう行進の途中、ミシシッピ州に入ってまもなく、待ち伏せしていた何者かに背後から射たれて重傷を負う出来事が起こった。主要な解放組織の代表は、ただちにメンフィスに集合し、かれらの統一した主導権のもとにメレディス行進を引き継ぐ示威行進計画について検討を重ねたが、基本方針をめぐって見解の一致をみるにいたらず、NAACPNULは行進参加を取り止め、SCLCは最後まで行動を共にしたものの、SNCCCOREの強硬路線には同調できずに次第に亀裂を深め、ここに主要解放組織は大きく袂を分かつことになる。

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