日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

American black historyアメリカ黒人の歴史История негра в Америке/Sozo Honda本田 創造Создано Хондой☆African-Americanアフリカ系アメリカ人Афроамерика́нцы☭2022/12/11/CANADA🍁Антид Ото③


①白人年季奉公人制度White indentured servant system:イギリスでアメリカ大陸植民地経営のために、契約によって一定期間の労働を義務づけられて渡航した人々。初期のアメリカへの移民の形態であり、18世紀以降は黒人奴隷制度に切り替えられていったPeople who traveled to England to work for a certain period of time by contract for the management of the Americas colonies. A form of immigration to America early in the 18th century that was replaced by black slavery②年季奉公(ねんき ぼうこう、英: indentured servitudeДоговорное рабствоは、雇用者との契約の下に一定期間働く雇用制度の一形態である。
原住インディアンと白人年期奉公人
しかし、1619年の黒人奴隷の輸入によって、アメリカ黒人奴隷制度がただちにできあがったわけではない。イギリス領アメリカ植民地は、17世紀から18世紀初頭にかけて着実に発展をつづけ、この国の「最初の13州」(建設年順でなく、地理的位置にしたがって言えば、北から南にニューハンプシャーNew Hampshire、マサチューセッツ、コネティカットConnecticut、ロードアイランド、ニューヨークNew York、ニュージャージーNew Jersey、ペンシルベニアPennsylvania、デラウェアDelaware、メリーランドMaryland、ヴァージニア、ノースカロライナNorth Carolina、サウスカロライナSouth Carolina、ジョージアGeorgia)の最後のものであるジョージアがつくられたのは、1732年のことである。この間、植民地における黒人奴隷の数も漸次増加したが、その増加は各植民地の基礎がほぼできあがった17世紀末頃までは、さしみるべきものはなかった。


①Españolスペイン語→La Esclavitud entre los nativos americanos en Estados Unidos incluye la esclavitud de los nativos americanos, así como la esclavitud por los indígenas americanos aproximadamente dentro de los Estados Unidos actuales

②Slavery among Native Americans in the United States includes slavery by and slavery of Native Americans roughly within what is currently the United States of America.
諸般の事情で、初めから奴隷労働を必要としなかった北部植民地は問題外として、すでに煙草その他の主要商品作物Staple Cropsの生産に従事し始めていた南部植民地においても、当時は労働力の主たる担い手は黒人奴隷ではなくて、白人の年期奉公人だった。イギリス人の植民者たちも、スペイン人の先例にならって、最初は原住インディアンの奴隷化Enslavement of Native Indiansを試みた。だが、この企ては、インディアンがまだ氏族社会の段階にあった狩猟民で農耕に適していなかったというだけではなく、頑強な諸種族の抵抗があったり、すでに奴隷化されたものへの逃亡援助が絶えず繰り返されたりして、そうでなくても地理に明るいかれらを一ヶ所に縛りつけておくことは困難で、結局、うまくいかなかった。それでも、インディアンの奴隷化は熱心に行なわれ、たとえばサウスカロライナの場合には、1708年の総人口9580人のうち1400人がインディアン奴隷だった。
こうした事情のもとで、植民者たちが目をつけたのが、白人の年期奉公人である。その主な供給源は、本源的蓄積期のイギリス本国で土地を奪われた農民や、都市の貧窮民だった。渡航費のないかれらは、それを前借りし、その代り一定の期間(一般に5~7年)植民地の主人のもとで隷属的に働くことを、年期契約書によって約束させられた。ほかにも、もっと非合法的なやり方、たとえば誘拐や略奪によるものもあった。「数千人の人びとがイギリスの諸都市の路上で殴り倒され、残忍な紐にひきずられてThousands beaten down in the streets of British cities, dragged by brutal cords」むりやり植民地に送り込まれた。また政治犯や罪人(当時イギリスでは浮浪行為も犯罪とみなされたので浮浪者や乞食もこれに含まれた)の中にも、強制的に植民地に送り込まれて不自由労働に服した者もいた。
植民地での年期奉公人の状態は、場所や主人によって多少の相違はあるが、総じて勝手に結婚することはできず、酒を買ったり、ものを売ったりすることもできなかった。逃亡を企てれば、鞭で打たれたうえ、焼印を押されたりすることもあった。ときには別の主人に売り渡されることもあって、その境遇は奴隷に近かった。そのうえ、年期もいろんな理由をつけて、ひき延ばされることが稀ではなかった。そんなわけで、かれらは、しばしば年期奴隷と呼ばれたが、それでも年期があけると自由人として生活するために一定の給付を受けた。これを解放給付Freedom Duesという。一般に、農具、種子、衣服、武器など、当時の金で10ポンド相当のものだったが、ときには50エーカー程の土地を支給されることもあった。
こうして、たとえば、ヴァージニアでは、1625年にはその総人口1200万人のうち500人人足らずが、1670年には四万人のうち6000人が白人の年期奉公人で、この後者の場合は、当時のヴァージニアの黒人奴隷2000人の三倍にあたる。カーティス・ネッテルスCurtis P. Nettelsは、いわゆる煙草植民地Tobacco colonyは、「1635年から1705年までの時期に、毎年1500人ないし2000人の白人奉公人を輸入していたBetween 1635 and 1705 it imported between 1,500 and 2,000 white servants each year」と指摘して、「1680年頃までは、ヴァージニアとメリーランドの不自由労働人口の殆どがかれらによって占められBy about 1680 they made up most of the unfree labor population of Virginia and Marylandーおもに野良働き、家内奉公人として使われていたこれらの働き手が、当時のアメリカ植民地の主要な労働力であったPrimarily used as field workers and domestic servants, these laborers were the main labor force in the American colonies at the time」と述べている。結局、植民地時代を通じて、植民地人口の10~20%がこうした白人の年期奉公人だったといわれる。

黒人奴隷制度の成立
だが、17世紀も終りに近づくにつれて、ヴァージニアやメリーランドでは煙草栽培が急速に発展し、さらに18世紀に入ると、サウスカロライナやジョージアでは米、つづいて藍の栽培が促進され、これらの主要商品作物の生産の増大にともない、従来の白人の年期奉公人は、プランターにとって、労働力の提供者としてきわめて不満足なものであることが、次第に明らかになってきた。
一定の年期があけるごとに、自由な独立生産者として他に去っていくような労働力を、常時、必要なだけ手許に維持しておくことは、生産規模が拡大すればするほど、プランターにとって困難だった。そのうえ、黒人奴隷にくらべると、それに要する費用も高くついた。年期奉公人に要するプランターの出費は、まず、最初の購入費で、これは年期の長さによって異なるが、だいたい10ポンドから20ポンド、つぎに年期中の諸経費、そして最後に、すでに述べた解放給付に分けられる。これにたいして、黒人奴隷の場合は、最初の購入費は年期奉公人よりも高くついたが、かれらは一生奴隷で、その維持費は白人奉公人よりは安く、また子どもができれば維持費だけで購入費は要らなかった。
そればかりではない。白人の年期奉公人の中には、かれらにたいするプランターの取り扱いに抗議して、生活条件の改善を要求する者があいつぎ、場合によっては、契約期間の満了をまたずに、実力に訴えてもその苛酷な境遇から脱しようとする不穏な動きが目立ってきた。かれらが、最もしばしば用いた抵抗形態は、のちの黒人奴隷の場合と同様、逃亡であった。この逃亡には、黒人奴隷が一緒に参加することも稀ではなかった。
仕事にたいする意識的な怠慢も、しばしば試みられた。暴動計画や実際の蜂起も行なわれた。黒人も参加していた1663年の暴動計画の指導者の一人、アイザク・フレンドIsaac Friendは、法廷で「そのために自由か死かを賭けたI risked my freedom or my death for it」と言っている。こうした中で、1676年にヴァージニアで起こったナサニエル・ベイコンの反乱は、参加者の多くが白人奉公人だったこともあって、自由を求める白人の年期奉公人に大きな影響を与え、このため、この頃からプランターは、かれらを危険視して、もっと安全だとおもわれていた黒人奴隷に切り換えていく傾向が強くあらわれてきた。さきのネッテルスも、「この苦い経験がプランターたちに白人奉公人を嫌悪させ、ますます黒人奴隷に頼らせることになったThis bitter experience made the planters loathe white servants and make them increasingly dependent on black slaves」と述べている。
①Virginia's Indentured Servants' Plot: A sizable indentured servant's uprising occurred in Virginia in 1661 over the issue of adequate food. The customary ration for servants at the time included meat three times a week. When a planter named Major Goodwin decided to keep his servants on a diet of cornbread and water, discontent followed. Leaders of the servants named Isaac Friend and William Cluton determined to petition the king for redress

②ベイコンの反乱(英: Bacon's Rebellion、またはバージニアの反乱、英: Virginia RebellionВосстание Бэконаは、1676年にイギリス領バージニア植民地(現在のアメリカ合衆国バージニア州)で、ナサニエル・ベイコンによって起こされた反乱である。アメリカの植民地で起こった反乱としては初めてのものであり、不満を抱いた開拓者が参加した。同じ年にメリーランドでも類似した反乱が起こった。この反乱はジェームズタウンの総督に対して向けられたものであり、ベイコンは急進的なインディアン対策を要求した③Nathaniel Bacon (January 2, 1647 – October 26, 1676) Натаніе́л Бе́кон was a colonist of the Virginia Colony, famous as the instigator of Bacon's Rebellion of 1676, which collapsed when Bacon died from dysentery.
白人年期奉公人制度から黒人奴隷制度への転換にさいして、これを促進した事情として、黒人は、そもそも熱帯および亜熱帯での労働に適していたこと、インディアンとちがって、すでに農業がかなり発達した社会に住んでいたこと、肌の色が黒く逃亡してもすぐ見分けができたこと、さらに黒人には白人が尊重しなければならないような法律上の権利は、いっさい与えなくてもよかったこと、などの諸点がよくあげられる。だが、これほど白人優越=黒人蔑視の偏見に根ざした理由づけはない。黒人が、そもそも、本来的に奴隷労働に適した人間であるというようなことは、事実に反する「神話」にすぎない。
結局、この転換を引き起こした基本的な理由は、当時のアメリカ植民地において、南部では煙草その他の主要商品作物をいっそう多量に生産するために、白人奉公人に代るべき、より安定性のある労働力を、もっと沢山、もっと安い費用で、絶えず確保することがプランターにとって必要だったこと、他方、北部では、すでに述べたように、大商人や船主たちが、黒人奴隷貿易を、きわめて有利な「職業」として、大規模にこれに従事し始めるようになったことである。しかも、植民地におけるこれら支配者層の利益は、とりもなおさず、当時のイギリス本国の重商主義、したがって、その重要な一環としてのアメリカ植民地政策の要請とも合致した。
ここに、このような労働力の担い手として、アフリカ黒人がアメリカ史の前面に大きく登場してくる。
17世紀後半から18世紀初頭にかけて、アメリカ黒人奴隷制度は、次第にその根を下ろしていった。初めの頃、自由人1人にたいして白人の年期奉公人6人という高率を維持していたメリーランドでも、1658年には1000人以上の白人奉公人を輸入していたのに、1696年には625人、1697年には353人と次第にその輸入を減じ、1710年にはその総人口4万3000人弱の19%にあたる約8000人が黒人奴隷だったのにたいして、白人奉公人は7%にあたる約3000人にすぎなかった。そして、18世紀後半の独立革命の頃になると、植民地に輸入される白人奉公人は殆どいなくなってしまった。
これとともに、初めのうちは、奴隷というよりは白人奉公人に近かった黒人の状態も次第に悪化し、黒人は身分的にも、はっきりと奴隷、したがって所有者の財産として、たとえば「役畜、家財道具、皿、書物など)と同等にみなされることが、法律によって定められるようになった。同時にまた、デュボイスが「はりつけ、火あぶり、断食などは奴隷を罰する法律的なやり方であるCrucifixion, burning at the stake, and fasting are legal ways of punishing slaves」と言った、黒人の一挙手一投足までも規制する黒人奴隷取締規則が制定された。
*2020/02/28 —Repressive Legislation: Slave Codes, Northern Black Laws, and Southern Black Codes
*1619年にジェームズタウンに「輸入」された20人のアフリカ人は、法律的な意味では奴隷ではなかった。「これらの新来者は、たまたま黒人だったが、かれらはたんなる年期奉公人程度だった。たとえば、1623年と24年の人口調査の分類では、かれらは奉公人として記載されていたThese newcomers happened to be black, but they were mere indentured servants. For example, in the Census classifications of 1623 and 1624 they were listed as servant」と、ジョン・ホープ・フランクリンは書いている。

①John Hope Franklin (January 2, 1915 – March 25, 2009) was an American historian of the United States and former president of Phi Beta Kappa, the Organization of American Historians, the American Historical Association, and the Southern Historical Association. Franklin is best known for his work From Slavery to Freedom, first published in 1947, and continually updated. More than three million copies have been sold. In 1995, he was awarded the Presidential Medal of Freedom, the nation's highest civilian honor.
他方、奴隷と呼ばれた場合でも、「17世紀前半にみられる奴隷という言葉は、法的身分にかんしては何ら明確な意味をもたない。というのは、奴隷という言葉は一般に外国生まれの身分の低い人間を指すために普通使われていたし、アイルランド人にもロシア人にも適用されていたThe term slave in the first half of the seventeenth century has no clear meaning in relation to legal status. For the word slave was commonly used to refer to foreign-born lowly persons, and applied to both Irish and Russians」と、オスカー・ハンドリンは述べている。

②Oscar Handlin (1915–2011) was an American historian. As a professor of history at Harvard University for over 50 years, he directed 80 PhD dissertations and helped promote social and ethnic history, virtually inventing the field of immigration history in the 1950s. Handlin won the 1952 Pulitzer Prize for History for The Uprooted (1951).[7][8] Handlin's 1965 testimony before Congress was said to "have played an important role" in passage of the Immigration and Nationality Act of 1965 that abolished the discriminatory immigration quota system in the US.

ヴァーニジアの植民地議会が1661年に、黒人を終身奴隷とし、白人の年期奉公人とは異なった身分にするという法律を制定し、黒人奴隷制度を法制化したのと相前後して、マサチューセッツ(1641年)、コネカット(1650年)、ロードアイランド(1652年)、メリーランド(1663年)、ニュージャージーとニューヨーク(1664年)、サウスカロライナ(1682年)、ペンシルヴェニア(1700年)、ニューハンプシャー(1714年)、ノースカロライナ(1715年)、デラウェア(1721年)、ジョージア(1750年)と、植民地全土にわたって、黒人奴隷制度が法制化されていった。
これと軌を一にして、各植民地における黒人奴隷数も増加した。たとえば、ヴァージニアでは、1640年には、僅か150人だった黒人奴隷は、1670年には2000人(当時のヴァージニアの総人口は4万人、以下、カッコ内は総人口)、1690年には9000人(5万3000人)と増加したが、18世紀に入って1710年になると2万3000人(7万8000人)、1750年には10万2000人(23万1000人)を数えるにいたった。植民地全土における黒人の増加は、表2のように推定されている。
独立革命当時には、植民地全体の総人口約250万人のうち50万人程が、さらに1790年に行なわれたこの国の最初の国勢調査では、総人口392万9000人余のうち69万8000人弱が黒人奴隷ー自由黒人を含めた黒人数は75万7000人余-であった。そして、その黒人奴隷の90%以上が南部に住んでいた。表3は、1790年の黒人奴隷人口を各州別に示した一覧表である。ただし、ケンタッキーKentuckyとテネシーTennesseeは、この時期にはまだ州になっていなかった。これらの地域が連邦に加入したのは、前者が1792年、後者が1796年である。

①アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそうВійна за незалежність США、英: American War of IndependenceAmerikanischer Unabhängigkeitskriegは、1775年4月19日から1783年9月3日までのイギリス本国(グレートブリテン王国)と北アメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争②アメリカ合衆国の独立(アメリカがっしゅうこくのどくりつ)あるいはアメリカ革命(アメリカかくめい、英語: American Revolution)、アメリカ独立革命(アメリカどくりつかくめいAmerikanische Revolution、英語: American Independence Revolution[1])Американская революцияとは、18世紀後半に北アメリカの13植民地が結束して宗主国であるイギリス(グレートブリテン王国)の植民地政策に抵抗し、アメリカ独立戦争を経て、当時までほとんど常識であった君主制を離れて、アメリカ合衆国という共和制国家を成立させた一連の出来事のことである。その後のフランス革命などにも大きな影響を与えた。
2 独立革命
クリスパス・アタックス
アメリカ植民地全土にわたって、すでに不穏な空気がみなぎっていた。七年戦争Seven Years' War(アメリカ史ではフレンチ・アンド・インディアン戦争French and Indian Warとよばれている)後の新しい事態のもとで、従来の「有益な怠慢」を捨てたイギリス本国が植民地に押しつけてきた国王の宣言線Royal Proclamation(1763年)や砂糖法Sugar Act(1764年)などの植民地規制は、植民地人のあいだに大きな不満を引き起こしていたが、1765年に印紙税が制定されると、これらの不満は植民地全体の憤激に変った。

*Crispus Attucks (c. 1723 – March 5, 1770)Криспус Аттокс was an American whaler, sailor, and stevedore of African and Native American descent, commonly regarded as the first person killed in the Boston Massacre and thus the first American killed in the American Revolution.
人びとは「代表を出さずして課税されることはないNo tax without representation」と主張して植民地人の権利について語り、たとえば、ヴァージニアの植民地議会ではパトリック・ヘンリー(パトリック・ヘンリー(Patrick Henry、1736年5月29日 - 1799年6月6日[1])Патрик Генріは、アメリカ合衆国の弁護士、政治家)が、「シーザーにはブルータスがあり、チャールズ一世にはクロムウェルあり、そしてジョージ三世(ときのイギリス国王)には・・・Caesar had his Brutus; Charles the First, his Cromwell; and George the Third may profit by their example." (Brutus assassinated Caesar; Cromwell had Charles the First beheaded.)」と叫んで、議長から「大逆罪!大逆罪!Great treason! Great treason!」と制止を受けたにもかかわらず、あえて演説をつづけ、「これらの前例によって考えてみるがよいConsider these precedents。これを大逆というのなら、大いに大逆罪を犯すべきであるIf this be treason, make the most of it」と結んだという話は有名である。また、ボストン、フィラデルフィア、ニューヨークなどの諸都市ではイギリス商品不買運動が展開され、さらに職人、労働者、小市民を中心に民衆の革命組織である「自由の息子たちSons of Liberty」が結成されて、その指導のもとに実力行使による公然たる抵抗運動が開始されていた。このため、印紙税法は撤廃されたが、つづいて制定されたタウンゼンド諸法Townshend Acts(1767年)は、イギリスの植民地政策がいっそう強化されたことを、はっきりと植民地人に教えた。
1770年3月5日の「ボストンの虐殺」は、こうした中で起こった。その日、ボストンの町には雪が積もっていた。「虐殺」のきっかけは、ささいなことから始まった。最初は、ちょっとした喧嘩だったが、問題は、この喧嘩が植民地の民衆とイギリス駐屯兵とのあいだに当然起るべくしておこったものであり、その結果、植民地人五人がイギリス兵の銃弾に倒れ、ほかに数名が負傷して、それが独立革命の発火点になったということにある。

①ボストン虐殺事件(ボストンぎゃくさつじけん、Boston Massacre,Incident on King Street[2])Бостонська бійняとは、1770年3月5日にマサチューセッツ湾直轄植民地Province of Massachusetts Bay、アメリカのボストンでトマス・プレストン大尉Captain Thomas Preston率いるイギリス軍が民間人5人を発砲により射殺した事件のことである。[3]この頃、既に植民地の住民はその3年前、1767年に成立したタウンゼンド諸法に強い不満を持っていた。イギリス軍と植民地の民間人との間の緊張は高まり、暴動を引き起こした。その最中、イギリス軍が民間人暴徒に銃を向け、射殺したのである。のちに独立戦争を引き起こすきっかけともなった事件の1つでもある②ボストン(英語: BostonБостонは、アメリカ合衆国のマサチューセッツ州北東部サフォーク郡Suffolk Countyにある世界都市。
さらに重要なことは、この日、イギリス兵の銃弾を受けてボストンの雪を真っ赤に染めたこの五人がみな船乗りやロープ職人などの労働者で、しかもその最初の犠牲者がクリスパス・アタックスという黒人だったということである。彼は、それより20年前に逃亡によって奴隷身分から脱出し、事件勃発当時は47歳の自由黒人で、彼の血管の中にはインディアンの血も混じっていた。そのアタックスが、「自由の息子たち」の活動家だったことを考え合わせると、そこには独立革命にたいする黒人の態度が象徴的に示されている。

*アメリカ独立宣言(アメリカどくりつせんげんDéclaration d'indépendance des États-Unis、英語: United States Declaration of IndependenceДекларация независимости СШАは、イギリス(グレートブリテン王国Kingdom of Great Britain)によって統治されていた北米13植民地Thirteen Coloniesが独立したことを宣言する文書である。1776年7月4日、大陸会議Continental Congressによってフィラデルフィアで採択された[2]La Déclaration unanime des treize États unis d'Amérique。このため、7月4日("Fourth of July")は「アメリカ合衆国の独立記念日」(Independence Day)として毎年盛大に祝われる。
独立宣言と合衆国憲法
その後、ボストン・ティーパーティー事件(1773年)や、ボストン港閉鎖を含む「耐えがたい諸法」と呼ばれた弾圧法(1774年)などにつづいて、その年のうちに開かれた第一回大陸会議、翌年の1775年のレキシントン=コンコードの武力衝突を経て公然と開始された独立革命は、基本的には二つの目的をもって戦われた。
その目的のひとつは、重商主義にもとづくイギリス本国の植民地支配をたち切って国の独立を勝ち取ること、もうひとつは、植民地時代を通じて漸次増大してきた植民地の生産力のいっそうの発展を阻止していた主として土地所有における植民地内部の前近代的諸要素を除去することであった。すなわち、それは、外圧にたいする「独立」戦争であると同時に、内圧にたいする「革命」戦争であって、一言でいえば、植民地解放・民族独立のためのブルジョア民主主義革命だった。そして、この歴史的課題は、かなりの程度まで実現された。
*ボストン茶会事件(ボストンちゃかいじけん、英: The Boston Tea PartyБостонське чаюванняは、1773年12月16日にイギリス領マサチューセッツ湾直轄植民地(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)のボストンにおいて、植民地人の急進派がイギリス本国議会(グレートブリテン議会Parliament of Great Britain)に対する抗議として停泊中の船舶から積荷の茶箱を海に大量投棄した事件。アメリカ史において、後のアメリカ独立戦争への転機になった出来事と評される。
というのは、この国は、この革命をとおして、第一にイギリスの植民地支配から民族的独立と自己の市場とを獲得することによって、その後の国家的発展の基礎を築くことができ、第二に植民地内部の前近代的諸関係を大幅に廃棄し、国家と教会を分離して世界最初の成文憲法をもった近代的民主共和国をつくりあげることができ、第三に農民、都市の小市民や労働者など民衆の政治的、社会的諸権利を実現するための客観的諸条件をつくりだすことができたからである。そういう意味で、独立革命はその後のアメリカ社会の近代化ーアメリカ資本主義発展のための歴史的前提をなしたのである。この点で、この革命は、マルクスKarl Marxが述べているように、「ヨーロッパのブルジョアジーにたいする警鐘Alarm bells for the European bourgeoisie」を打ち鳴らし、世界資本主義発展の道標のひとつになった。
独立革命は、このような先進的性格をもち、その成果も偉大だったが、この革命は原住インディアンと黒人には何ももたらさなかったThis revolution brought nothing to Native Americans and Negroes。「自由と平等と幸福liberty, equality and happiness」は、かれらの前を素通りしてしまったばかりか、結果は、これまで以上の忍従と服従をかれらに強いることになった。独立革命の最大の弱点がここにあったが、それは、この革命戦争が黒人奴隷も含んだ民衆の力を原動力として戦われたにもかかわらず、革命の指導権を握ったのが、北部の商業資本家と南部の大プランターだったという事情に結びついている。ルイス・ハッカーは、彼の書物の中で植民地時代から独立革命期を取り扱った箇所に「独立革命におけるアメリカ商業資本主義の勝利Victory of American Commercial Capitalism in the Revolution」という見出しをつけている。そのような独立革命の歴史的限界の集中的な一局面は、革命的気運の最も熟していた時期に、全世界に表明された歴史的文書で、この国が民主主義の手本として誇る1776年の独立宣言の作成過程に端的にあらわれていた。

①History of the Development of American Capitalism (1942) Unknown Binding – Antique Books, January 1, 1942②Louis Morton Hacker (March 17, 1899 – March 22, 1987) was an American economic historian, Professor of Economics at Columbia University, and founding dean of its School of General Studies, and author. He is known as a leading proponent of adult education
イギリス本国にたいする独立の宣言というよりは、アメリカが植民地状態から独立しなければならなくなった理由を表明したこの記念すべき文書は、その年の6月にジョン・アダムズJohn Adams、ベンジャミン・フランクリンBenjamin Franklin、ロジャー・シャーマンRoger Sherman、ロバート・リヴィングストンRobert Livingstonらとともに、独立宣言起草委員の一人に選ばれたトマス・ジェファソンによって主として作成された。彼はヴァージニアのプランターで自分でも多くの奴隷を所有していたが、そのジェファソンが書いた独立宣言草案の中には、アメリカが何故にイギリス本国にたいして叛旗をひるがえさなければならなくなったかという一般的根拠をあげたあと、つづいてこれまでイギリス国王が行ってきた専制的非行の事実を列挙して述べた最後に、黒人奴隷貿易を激しく非難した次のような一条項が書き加えられていた。

国王(ジョージ三世)は、人間性そのものに反する残忍な戦いを行ない、いまだかつて彼に逆らったことのない僻遠の人びと(アフリカ黒人)の、生命と自由という最も神聖な権利を侵犯し、かれらを捕えては西半球の奴隷制度の中に連れ込んでしまうか、あるいは運搬の途上にて悲惨な死にいたらしめた。異端な力によって行なわれてきた恥ずべきこの海賊的な行為は、キリスト教徒たる大英帝国の国王によってなされてきた戦いである。人間が売り買いされなければならないような市場を、あくまでも開放しておこうと決意して、この憂うべき取引の禁止ないしは制限を企図したあらゆる法律の成立を妨げるために、彼は拒否権を行使してきたのである。・・・
この条項は、のちにジェファソン自身が『自伝』の中で述べているように、「奴隷の輸入をこれまで決して抑制しようとせず、そればかりか今後ともそれを続けていこうとしたサウスカロライナとジョージアの機嫌をそこねないために」、大陸会議によってその全部が削除されてしまったが、このような南部のプランターの主張を強く支持したのは、ほかならぬ北部のニューイングランドの奴隷貿易商人などだった。

こうして、人民の主権と、人民の革命権とともに、なによりも、「人間はすべて平等につくられ、造物主によって一定の奪うことのできない権利を与えられ、その中には生命、自由および幸福の追求が含まれるthat all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness」とした基本的人権を、全世界に表明した7月4日のこの歴史的文書の作成過程で、南部のプランターは北部の商人の支持を得て、黒人奴隷貿易禁止の一条項を完全に抹殺してしまった。そうすることによって、彼らは黒人奴隷制度そのものを温存する決定的な足がかりを固めたのである。
Права человека в СШАアメリカの人権と人権政策Human rights in the United States: In the United States, human rights comprise a series of rights which are legally protected by the Constitution of the United States (particularly the Bill of Rights),[1][2] state constitutions, treaty and customary international law, legislation enacted by Congress and state legislatures, and state referendums and citizen's initiatives. Derechos humanos en Estados Unidos미국의 인권Droits de l'homme aux États-Unis
だが、これは、ことの始まりにすぎなかった。北部の商業資本家と南部のプランター寡頭権力の連合勢力に代表されたアメリカの支配者層は、イギリスからの独立を勝ち取ることによって、その目的がいちおう達成されたとみるや、革命のそれ以上の進展ー民衆のいっそうの革命化を阻止しようとして、1787年5月に、いわゆる連合規約Articles of Confederationを改正して、より強力な権限をもった合衆国憲法をつくるための会議をフィラデルフィア(フィラデルフィア(英語: Philadelphia、漢字/和名:費拉特費または費府Філадельфіяは、アメリカ合衆国のペンシルベニア州南東部にある同州最大の都市)に召集した。民衆の反撃をおそれて、秘密会議に終始したこの連邦会議Federal Conventionもしくは憲法制定会議Constitutional Conventionには55人の代表がロードアイランドを除く各州から参加したが、その大部分が有産者階級の代弁者で、この点で第1回、第2回の大陸会議とはその性格を著しく異にしていた。こうして、できあがった1789年の合衆国憲法は、「大衆の犠牲のうえにつくられた二つの支配階級の利益の妥協A compromise between the interests of two ruling classes made at the expense of the masses」の産物といわれるが、その「大衆の犠牲」を最もはっきりと受けとめたのが、広大な土地を「合衆国に直属する領土」(第四条第3節第2項)として奪われたインディアンと、「奴隷」という文字こそ用いられなかったが、「その他のすべての人びと」という表現のもとに、下院議員の選出と直接税の課税基準において白人一人につき五分の三と数えられた(いわゆる「五分の三条項」、第一条第2節第3項)70万人の黒人奴隷だった。
そのうえ、「入国を適当と認められる人びとの移住または輸入」(黒人奴隷貿易)は、若干の税金させ支払えば1807年以前は憲法によって保障されることになり(第一条第9節第1項)、アメリカ黒人奴隷制度はこの国の最高の法律に守られて生きながらえる法的基盤を得たのである。中国の故事、いわゆる堅白同異(けんぱくどうい
まったく矛盾することを無理やりこじつけることのたとえ
A parable of forcibly forcing something that is completely contradictory詭弁きべんを弄ろうすることのたとえParable of playing with sophistry)の弁にみえる「白馬は馬に非ずWhite horse is not a horse(無理に理屈をつけることのたとえParable of reasoning unreasonably《公孫竜子ー白馬論》)式に言えば、「黒人は人に非ずBlack people are not people」ということを合衆国憲法が宣したことになる。


*アメリカ合衆国憲法(アメリカがっしゅうこくけんぽうКонституция США、英語: United States Constitution)は、アメリカ合衆国の憲法である。全7762文字で構成される[1]。この憲法は、1787年9月17日に作成され、1788年に発効し、現在も機能している世界最古の成文憲法[2]で、アメリカ法の基礎をなすものであり、原法典は「1787年アメリカ合衆国憲法」とも呼ばれる。
フランス革命(フランス革命(フランスかくめい、仏: Révolution française, 英: French Revolution Французька революціяとは、フランス王国Royaume de Franceで1789年7月14日から1795年8月22日にかけて起きたブルジョア革命Bourgeois revolutionにさきがけて、自由と平等を旗印に掲げて民主主義革命Democratic revolutionを行ない民主共和国Democratic republicになったこの国は、その生誕の過程で、またもや(1619年のことを想起せよ!Remember 1619!)最も非民主主義的な奴隷制度を、憲法によって容認することになった。その歴史的重要性について、ジェームズ・アレン(James Allen (28 November 1864 – 24 January 1912) Джеймс Аллен was a British philosophical writer known for his inspirational books and poetry and as a pioneer of the self-help movement)は次のように述べている。「アメリカ共和国においては、イギリスにたいする革命(独立革命)が、第二の革命(南北戦争)を生みだす政治的外殻をつくりだした。北部には自由な農業と自由な労働にもとづく社会が生れたが、他方、南部では奴隷を動産とする制度にもとづく社会が発展した。ただひとつの憲法と、ただひとつの共和国の枠内で、北部と南部はそれぞれ異なった社会・政治制度を生みだしたのであるIn the American Republic, the revolution against England (the Revolution of Independence) created the political shell that gave rise to the second revolution (the Civil War). In the North, a society based on free agriculture and free labor was born, while in the South, a society based on the system of making slaves chattels developed. Within one constitution and one republic, the north and the south produced different social and political systems」と。

反奴隷制感情の高まりと黒人兵士の活躍
独立革命には、このような歴史的制約=限界があったことは事実だが、しかし、こうした事態が、民衆とその代弁者の側から、なんらの抵抗もなしに実現されたわけでは、もちろんない。
植民地における革命的気運の高まりは反奴隷制感情を呼び起こし、革命の指導者の中から、率先して奴隷制度に非難の声をあげる者があらわれてきた。クェーカー教徒のあいだには、早くから奴隷制反対の気持を抱いていた者が多かったが、そうした一般的な反奴隷感情から一歩前進して、その中で自由にたいする黒人の不可譲の権利を主張しただけでなく、かれらの抵抗権さえ擁護したジェームズ・オーティス(ジェイムズ・オーティス(James Otis, 1725年2月5日 - 1783年5月23日)Джеймс О́тисは、マサチューセッツ湾直轄植民地の法律家、政治活動家)の『イギリス植民地の諸権利The Rights of the British Colonies Asserted and Proved』が1764年にあらわれたのは、このような気運の最初の表明であった。スキルマン牧師Pastor daniel skillmanも、『自由の美点についてThe Beauty of Freedom』の中で、黒人奴隷の即時解放を要求するとともに、かれらの抵抗権が自然の法に合致すると述べた。また、アビゲイル・アダムス(アビゲイル・スミス・アダムズ(Abigail Smith Adams , 1744年11月11日 - 1818年10月28日)Абіґе́йл Сміт А́дамс )は、夫ジョン・アダムズ(ジョン・アダムズ(John Adams、1735年10月19日(ユリウス暦)/10月30日(グレゴリオ暦) - 1826年7月4日)Джон А́дамсとは、アメリカ合衆国の政治家副大統領(初代、1789年から1797年の2期)、第2代大統領(第2代、1797年-1801年)を務めた)に宛てた1774年の手紙の中で、「私には、私たちと同様、自由になる権利を十分もっている人びと(黒人)から私たちが盗み奪い取っている自由の獲得をめざして、本国イギリスの圧政と戦うことが、なんとも不条理に思えてならないのですIt seems absurd to me to fight the tyranny of England at home for the liberties we steal from those who, like us, have the full right to be free」と書いている。
これらの人びとのほかにも、われわれは、奴隷制度に非難の声をあげた多くの「革命の父祖」の名前をあげることができる。たとえば、『コモン・センスCommon Sense』の著者として一躍有名になったトマス・ペイン(トマス・ペイン(Thomas Paine、1737年1月29日[1] - 1809年6月8日)Томас Пейнは、イギリス出身のアメリカ合衆国の哲学者、政治活動家、政治理論家、革命思想家)は、この書物が出た前年の1775年にフィラデルフィアの新聞に「アメリカにおけるアフリカ人奴隷制度African slavery in America」と題する論説を発表したが、彼はその中で奴隷制度の廃止とあわせて、解放された黒人に自由だけでなく生活手段として土地も与えるべきであると主張した。トマス・ジェファソンは、みずからの奴隷の殆どを解放したし、ジョージ・ワシントン(ジョージ・ワシントン(英語: George Washington、グレゴリオ暦:1732年2月22日 - 1799年12月14日(ユリウス暦:1731年2月11日生まれ)[1])Джо́рдж Ва́шингтонは、アメリカ合衆国の軍人、政治家。初代アメリカ大統領)も遺言で自分の奴隷を解放するように言い残した。
こうして、1775年4月、アメリカ最初の奴隷制反対協会が、ベンジャミン・フランクリンの指導のもとでフィラデルフィアに設立された。彼は奴隷制度は工業の発展を阻止するものであり、また黒人が白人より劣等だとする人権理論に反対していた。これを皮切りに、その後各州にあいついで地方的な奴隷制反対協会が組織され、1794年1月には、ついにフィラデルフィアで全国大会が開かれるにいたった。この全国大会には10州からの代表が集まったが、かれらは奴隷制度と奴隷貿易を激しく非難するとともに、議会に大衆的な陳情を行なった。これらの運動には、進歩的な白人だけでなく、自由黒人も多数参加していた。

*ベンジャミン・フランクリン(英語: Benjamin Franklin, グレゴリオ暦1706年1月17日<ユリウス暦1705年1月6日>- 1790年4月17日)Бе́нджамин Фра́нклинは、アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。

*各州に設立された奴隷制反対協会を年代順にあげると、ニューヨークでは1785年、ロードアイランドでは1786年、デラウェアでは1788年、メリーランドでは1789年、コネティカットでは1790年、ヴァージニアでは1791年、ニュージャージーとペンシルベニアでは1792年。
黒人たちは、自由黒人も奴隷も、この革命が、かれらに自由をもたらすものであることをからだで感じとって、率先してこの戦いに参加した。クリスパス・アタックスは、その象徴にすぎない。早くもオーティスが自由にたいする黒人の不可譲の権利を主張した頃、マサチューセッツでは黒人自身が奴隷制度は自然権に反するが故に、かれらにも自由が与えられるべきだと主張して、植民地議会に請願を行なった。ハーバート・アプシカーは、1773年から1780年までの時期に、マサチューセッツ、コネティカット、ニューハンプシャーで行なわれた自由を求める黒人の集団請願が、資料として現存するものだけでも十指を超えると述べている。
これらの活動に奴隷が参加することはむずかしかったが、黒人たちは、大別して二つの方法で積極的に革命に参加した。ひとつは、非常に沢山の黒人奴隷が南部のプランテーションから個人的、集団的に逃亡したことであり、もうひとつは、奴隷も含めて、多くの黒人が直接に革命軍に身を投じてイギリス軍と戦ったことである。

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