日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

American black historyアメリカ黒人の歴史История негра в Америке/Sozo Honda本田 創造Создано Хондой☆African-Americanアフリカ系アメリカ人Афроамерика́нцы☭2022/12/11/CANADA🍁Антид Ото①


合衆国総人口の約十二パーセント,三千万人以上を占める黒人たち.人間としての,市民としての平等を求める彼らの闘いは,どのようなものであったのか.合衆国独立前から南北戦争を経て公民権運動へ,さらに真の解放を目指す現在までの長い苦闘の歩みを歴史的発展とともにたどる.旧版以後二十七年の変化を見据え,大幅に書き改めた。
Black people make up about 12% of the total population of the United States, or more than 30 million people. What was their struggle for equality as human beings and citizens? From pre-independence, through the Civil War, to the civil rights movement, to the present, we will trace the long struggles of the United States, along with its historical development, in pursuit of true liberation. Considering the changes in the 27 years since the previous version, it has been significantly rewritten.
Чернокожие составляют около 12% от общей численности населения Соединенных Штатов, или более 30 миллионов человек. Какова была их борьба за равенство людей и граждан? От периода до обретения независимости, через Гражданскую войну до движения за гражданские права. , до настоящего времени, мы проследим долгую борьбу Соединенных Штатов, наряду с их историческим развитием, в поисках истинного освобождения.Учитывая изменения за 27 лет с момента предыдущей версии, она была значительно переписана.
本田 創造(ほんだ そうぞう、1924年(大阪府出身) - 2001年)は、日本の歴史学者。専門はアメリカ史。一橋大学名誉教授。サンケイ児童出版文化賞受賞Sozo Honda (1924-2001) is a Japanese historian. His specialty is American history. He is a professor emeritus at Hitotsubashi University. He received the Sankei Children's Publishing Culture AwardСодзо Хонда ( 1924—2001 ) — японский историк . _ Специализируется на американской истории . Почетный профессор Университета Хитоцубаси. Получил премию Sankei Children's Publishing Culture Award.

アフリカ系アメリカ人(英: African-American)は、アメリカ合衆国民のうち、アフリカ出身の黒人(ネグロイド)もしくはその子孫である。アフリカン・アメリカン、アフロアメリカン (Afro-American)、アメリカ黒人ともいう。

African Americans (also referred to as Black Americans and Afro-Americans) are an ethnic group consisting of Americans with partial or total ancestry from sub-Saharan Africa.[3][4] The term "African American" generally denotes descendants of enslaved Africans who are from the United States. While some Black immigrants or their children may also come to identify as African-American, the majority of first generation immigrants do not, preferring to identify with their nation of origin.Афроамерика́нцы (англ. African American, Afro-American) — жители США, имеющие полное или частичное происхождение от африканцев, принадлежавших к негроидной расе.
はしがき
本書の旧版が出たのは、1964年の夏である。爾来、四世紀余にわたって、それは当初の予想をはるかに越えた沢山の読者を得てきた。その間、友人や知人から、直接、数々の貴重な意見を聞くことができたほか、熱心な見知らぬ読者からも、質問や感想をしたためた幾通かの手紙を頂戴した。
なかには、被差別部落Discriminated tribeの中学生、もう還暦をすぎたという재일 한국인・조선인在日朝鮮人Koreans in Japan、黒人と結婚してアメリカに住む日本人女性A Japanese woman who is married to a black man and lives in the United Statesなどの読者の手紙も混じっていたが、大半は大学に籍をおく学生や、高校を終えて働きながら学ぶ読者からのものであった。また、高校生用の世界史や社会科の教科書、参考書類に、書物のごく一部分が資料として転載されたりもした。著者として、これらにまさる喜びはない。
私は、今も、大学で学生たちと一緒に合衆国の歴史、とりわけ黒人史の勉強をつづけているが、授業などで、つい相手もよく承知しているものと錯覚して、「あのワシントン行進March on Washington for Jobs and Freedomのとき・・・」とか、「あのケネディJohn Fitzgerald Kennedy大統領が暗殺されたのは・・・」などといった言葉が、無意識のうちに口をついて出る。そんなとき、学生たちの側からちらっと浮ぶ困惑した表情に、今度は私のほうが戸惑って、話の展開を一時中断し、その事柄の説明から始め直さなければならないことが、しばしばある。考えてみれば当たり前のことだが、私が「きょうの重大ニュース」として身近に感じとったこのような出来事が起こったとき、そして本書の旧版が出版されたときにも、これらの学生たちは、まだこの世に生まれてさえいなかったのである。
アメリカ史研究者として、私がそれとともに同時代を生きてきた戦後のアメリカ黒人史上のさまざまな出来事は、彼らと同じ世代の若い読者には、完全な「過去の歴史的事件」になってしまっている。しかし、それについては、旧版では殆ど語られていない。若い世代の読者にとってのこれらの出来事は、それをそのときどきの個々の重要な時事問題として皮膚感覚的に受けとめてきた私としても、そろそろ歴史研究の対象として相対化し、その全体像について考察しなければならない時期にきていることを、だいぶ以前から痛感していた。私自身の個人的事情で延び延びになっていたこの課題に、曲りなりにもこたえようとして、なんとか出来上がったのが、今回の新版である。
本書においては、旧版のときには歴史研究としてはまだ叙述し得なかった公民権闘争を中心とした黒人解放運動と、その後の黒人の状態の変化にかんする三つの章を書き加えるとともに、プロローグもこんにちの視点から新たに書き改めた。しかし、それ以前の歴史の部分は、その後の内外の研究史も踏まえて、適宣、補筆・削除して訂正を行なったものの、その内容については、私の立場・歴史認識に基本的な変更がないため、主として文体と形式の統一を図ることに重点をおいた。
新しい世代の歴史研究者の手で、新しい時代に適応した、新しいアメリカ黒人の歴史が、近い将来、一日も早く書かれることによって、本書が無用のものとなる日が到来することを願いつつ、それまでの橋渡しとして本書を作成したというのが、今の私の偽らざる気持である。それが、学問研究の継承、発展というものだろう。
また、これとは次元を異にするが、1986年の中曽根Yasuhiro Nakasone首相(当時)発言「アメリカには黒人とかプエルトリコとか、メキシカンとか、そういうのが相当おって、平均的にみたら(インテリジェンスが)非常に低い。アメリカでは今でも黒人は字を知らないのが随分いるThere are quite a few blacks, Puerto Ricans, Mexicans, and so on in America, and on average their intelligence is very low. In America, there are still many black people who don't know how to read」、その二年後の渡辺Michio Watanabe自民党政調会長(当時)発言「アメリカには黒人だとかがいっぱいいるから、あすから破産だといわれてもアッケラカンのカーだThere are a lot of black people in America, so even if they say they're going bankrupt tomorrow, it's just Akkerakan(quite indifferent)no ka-( not seem to care)」、そしてまたもや二年たった1990年の梶山가지야마 세이로쿠法相(当時)発言「悪貨が良貨を駆逐するというかIt is said that bad money drives out good money、アメリカにクロ(黒人)が入ってシロ(白人)が追い出される、というように(新宿が)混住地になっている(Shinjuku) has become a mixed residential area, with Kuro (blacks) entering America and Shiro (whites) being kicked out」など、わが国の一部政治家のあいだにみられる「インテリジェンス」の欠如というより、破廉恥きわまりない言辞に象徴的に示された差別意識は、決してかれらだけのものとしてすまされるべきではない(The sense of discrimination symbolically shown in the most shameless remarks should never be dismissed as something that belongs only to them)。それは、また、私たち、ひとりひとりが、私自身の問題として真剣に考えなければならない事柄である(It is also a matter that each of us must take seriously as our own matter=2022/12/12★DRAGON怒羅権OSAMA★加拿大。こうした中で、本書が多少とも積極的役割を果たすことができれば幸いである。

①Русскийロシア語⇒Ясухиро Накасонэ (яп. 中曽根 康弘 Накасонэ Ясухиро) (27 мая 1918(群馬県出身), Такасаки, Япония — 29 ноября 2019, Токио, Япония)②Українськаウクライナ語→Ватанабе Мічіо (яп. 渡辺美智雄; 28 липня 1923(千葉県生まれ栃木県出身), Отавара, Префектура Тотіґі, Японія — † 15 вересня 1995, Токіо)③Seiroku Kajiyama (梶山 静六, Kajiyama Seiroku, March 27, 1926(茨城県出身) - June 6, 2000)


こうした程度の書物でも、出来上がるまでには多くの方々のお力添えを得た。なかでも、一橋大学助教授の辻内鏡人(Deutschドイツ語→Makoto Tsujiuchi ( * 1954 ; † 4. Dezember 2000 ) ist ein US-amerikanischer Historiker. Geboren in Kobe City, Präfektur Hyogo著書『アメリカの奴隷制と自由主義Slavery and Liberalism in America』1997年氏と同大学博士課程大学院学生の大森一輝Kazuteru Omori氏(著書『アフリカ系アメリカ人という困難: 奴隷解放後の黒人知識人と「人種」African-American Difficulties: Post-Emancipation Black Intellectuals and 'Race'』2014年)には、ひとかたならぬお世話になった。とくに辻内氏には、在外研究中の貴重な時間の多くを私のために割いていただいた。両氏の惜しみない協力がなかったら、本書の刊行はまだもっと先に延びてしまっていたであろう。また、岩波新書編集部の富田武子氏は、私の勝手な注文や我儘を、すべて辛抱強くきき入れて下さった。これらの方々のご厚意に、心からお礼申し上げる。
                            1991年1月2日      本田創造 

ラングストン・ヒューズ(Langston Hughes、1902年2月1日 - 1967年5月22日) James Mercer Langston HughesДжеймс Ме́рсер Лэ́нгстон Хьюзは、詩・小説・戯曲・短編・コラムなどに活動したアメリカの作家である。ハーレム・ルネサンスの指導者とも呼ばれる。
プロローグーアメリカ黒人とは
黒いアフリカの海岸をひっぺがされて 僕はきたのだ 「自由の母国」をつくるために 自由の? おお、アメリカを再びアメリカにしよう いまだ一度もなかったことはないのだが だが、必ずやなるにちがいない国土にしよう 「あらゆる」人が自由な国土に 僕のものと言える国土に 貧乏人の、インディアンの、黒ん坊の、「僕」のー おお、そうだ 僕はかくさず言おう アメリカはこの僕にアメリカであったことがないけれど、僕はここに誓うのだ アメリカはそうなると! 水生の種子 その夢は僕の心臓ふかくよこたわる
ラングストン・ヒューズ『アメリカを再びアメリカにしよう』(木島始訳)より*"Let America Be America Again" is a poem written in 1935 by American poet Langston Hughes.


ガス室に消えた黒人青年の訴え
1987年5月20日、午前零時一分・・・ミシシッピ州サンフラワー郡パーチマンにある州立刑務所内のガス室で、リーク郡高等裁判所の判決により、26歳の一人の青年の死刑が執行された。刑の開始から五分後の零時六分、彼の心臓は完全に機能を停止した。
①ミシシッピ州(ミシシッピしゅう、英: State of Mississippi [ˌmɪsᵻˈsɪpi] )Міссісіпі (штат)は、アメリカ合衆国南部に位置する州②Mississippi State Penitentiary (MSP)ミシシッピ州立刑務所, also known as Parchman Farmパーチマン農園, is a maximum-security prison farm located in unincorporated Sunflower County, Mississippi, in the Mississippi Delta region.

処刑されたこの若者の名前は、エドワード・アール・ジョンソンといい、アメリカ合衆国の中で、今なお人種差別と偏見が最も根強く残っている深南部(ディープサウスDeep South)の一州、ミシシッピ育ちの黒人だった。

Edward Earl Johnson (June 22, 1960 – May 20, 1987)[1] was a man convicted in 1979 at the age of 18 and subsequently executed by the U.S. state of Mississippi for the murder of a policeman, J.T. Trest, and the sexual assault of a 69-year-old woman, Sally Franklin. Throughout his eight years on death row, he continued to plead his innocence. Johnson was executed by gas chamber.
「事件」は、それより8年前にさかのぼる。1979年6月、リーク郡Leake CountyウォルナットグローヴWalnut Groveで60歳の白人女性が何者かに襲われ、救助に駆けつけた白人保安官が殺された。ジョンソンが逮捕されたのは、この保安官殺害容疑による。現場から走り去ったのと同じ型の車を彼が所有していたというのが、唯一の逮捕理由だった。ジョンソンは面通しを受けたが、以前から顔見知りだった被害者の女性は、彼女を襲ったのはジョンソンではないと、はっきりと証言した。それにもかかわらず、いったん釈放されたジョンソンが、物的証拠はなにひとつないまま再逮捕された。警察に連行された彼は、あらかじめ用意されていた虚偽の自白調書に、むりやり署名させられた。この間の事情について、ジョンソン自身はこう語っている。
日曜日の夕方、保安官と捜査官の二人に、人気のない道端に車を止めさせられた。「言うとおりに答えなければ殺す」と脅かされて、まだ18歳だったぼくは、どうしていいか、わからなかった。途方にくれていた。・・・助けてくれる人は誰もいなかった。二人は白人で、ぼくは黒人、かれらの言うとおりにしなければ、殺されるのは間違いなかった。・・・警察で、かれらは署名を強要した。「内容は気にするな。ともかく署名しろ」と。ぼくは、とても怖かったので署名した。
刑務所長を別にして、看守も服役者の誰も、ジョンソンが真犯人だとは思っていなかった。その所長も、七年以上にわたって、無実を主張しながら刑務所生活を送った彼の服役ぶりについて、「ジョンソンは模範囚だった」と言っている。
弁護団をとおして、州最高裁判所や連邦地方裁判所へ提出した再審や刑の執行停止の申請は却下された。また州知事の恩赦も得られず、「心から神を信頼すれば、神はかならず疑いを晴らしてくださる」と祈りつづけたジョンソンの願いも空しく、彼の死刑は予定どおり執行された。処刑後の会見で質問に応じた刑務所長は、ジョンソンの最後の言葉として、「ぼくは無実だ。誰も恨んではいない。今まで力になってくれた人びとに感謝する。」そして、もう一度「ぼくは無実だ!」と言葉静かに、はっきりとつけ加えたと答えている。
「こんにちの文明社会で、こんなことが許されて、はたして、いいのだろうか!」処刑まぎわまでジョンソンを担当した白人教誨師の言葉である。
合衆国で黒人が白人を殺害したとき死刑になる割合は、白人が黒人を殺害したときの四倍以上にのぼる。しかし、ジョンソンの場合、彼が真犯人ではなく、冤罪であることにほぼ間違いない。さきの被害者の女性の証言だけでなく、処刑後、弁護団は彼女が襲われた日のその同じ時刻に、ジョンソンと一緒にビリヤード場にいたという黒人女性を見つけだしたが、この女性が裁判所で彼のアリバイを証言しようとしたところ、白人の係官に「余計なことはするな」と阻止された。
だが、この「事件」のもついっそう大きな意味は、彼の処刑がたんなる冤罪ではないということである。ジョンソン自身がいみじくも語っているように、彼の有罪(死刑判決)は、「裁判以前に決っていた」のだ。それはミシシッピ州という「閉ざされた社会」で、容疑者が黒人、殺されたのが白人保安官、そして裁いたのが白人権力といく人種力学が必然的にもたらした結果である。しかし、それは同時に、ミシシッピ州という特定の一州にかぎらず、WASP(ワスプ:アングロサクソン系のプロテスタントの白人)を中心とする多人種・多民族国家の合衆国に、こんにち、なお牢固として存在している白人優越・黒人蔑視の人種主義の多様な構図の一側面を最も劇的に示したものといえる。
WASP(ワスプ、"WASPs")とは、ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント (White Anglo-Saxon Protestants)Білі англосаксонські протестантиの略称(アクロニム)で、白人のアメリカ人プロテスタント、かつイギリス系の上流階級を指す。WASPエリート集団は、アメリカ合衆国の歴史の大部分において米国の社会・文化および政治を支配し、婚姻・相続及び縁故主義を通じて諸分野を寡占した。

*ワシントン大行進(ワシントンだいこうしん、March on Washington for Jobs and Freedom「仕事と自由の為のワシントンへの行進」)«Марш на Вашингтон за рабочие места и свободу»は、1963年8月28日に、アメリカ合衆国のワシントンD.C.で行われた人種差別撤廃を求めるデモ。英語では「The Great March on Washington」とも呼ばれる。
ワシントン大行進25周年 ジョンソンの処刑後、1年3ヶ月を経た1988年8月27日、首都ワシントンで、それより25年前の「ワシントン大行進」(1963年8月28日)とその象徴的人物だったマーティン・ルーサー・キング牧師を記念する大衆集会が開かれた。

*マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(英語: Martin Luther King Jr.、1929年1月15日 - 1968年4月4日)Ма́ртин Лю́тер Кинг-младшийは、アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師である。市民やメディアからキング牧師と呼ばれ、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動したが、1968年に暗殺された。
この集会は、秋の大統領選挙を間近に控え、すでに民主、共和両党の大統領選挙も決まっていたこともあって選挙戦がらみの様相を呈し、午前中に行なわれたワシントン記念塔からリンカーン記念堂までの行進には、指名こそ得られなかったが、民主党全国大会で「黒い大旋風」を巻き起こしたジェシー・ジャクソン牧師や、同党の大統領候補でマサチューセッツ州知事のマイケル・デュカキス(マイケル・スタンリー・デュカキス(英語: Michael Stanley Dukakis、1933年11月3日 - )Майкл Стенлі Дукакісは、アメリカ合衆国の政治家)が、キング牧師夫人のコレッタ・スコット、息子のマーティン・ルーサー・キング三世、アトランタ市長のアンドルー・ヤング(Andrew Jackson Young Jr. (born March 12, 1932)Эндрю Джексон Янг младший is an American politician, diplomat, and activist)らと一緒に腕組みをして参加した。主催者側は共和党候補のジョージ・ブッシュGeorge Herbert Walker Bush副大統領にも招待状を出していたが、折からテキサス州を演説中だった彼は、「黒人その他のマイノリティが獲得した成果」を強調した簡単なメッセージを寄せただけで、直接、この集会に姿を見せることはなかった。

①ジェシー・ジャクソン(Jesse Louis Jackson,Sr.、1941年10月8日 - )Дже́сси Лу́ис Дже́ксон-старшийは、アメリカの公民権活動家でキリスト教バプティスト派の牧師。

②コレッタ・スコット・キングCoretta Scott King(1927年4月27日 – 2006年1月30日)Коретта Скотт Кингは、アメリカ合衆国の作家、活動家、政治運動指導者、そしてマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの妻であった。アラバマ州女性の殿堂に登録され、ジョージア州議会議事堂にて(顕彰と弔問のため)遺体安置が行われた最初のアフリカ系アメリカ人である[1]。コレッタ・スコットは「公民権運動のファーストレディ」と呼ばれている[2]。

③Martin Luther King III (born October 23, 1957) is an American human rights activist, philanthropist and advocate. The oldest son and oldest living child of civil rights leaders Martin Luther King Jr. and Coretta Scott King, King served as the 4th President of the Southern Christian Leadership Conference from 1997 to 2004.
演説の中で、デュカキスは、「この集りは、公民権運動の25年間の成果を祝う行進でもなければ集会でもない。この世からすべての黒人差別、反ユダヤ主義などの人種差別がなくなるまで、続けなければならない行進であり集会である」と述べ、またキング牧師のもとで公民権運動を闘ってきたジャクソンは、「キング牧師の掲げた夢を夢に終らせてはならない。黒人は、まだその賃金その他さまざまな人種差別を受けており、公民権要求の運動は、いっそう強化されなければならない」と訴えた。
④アフリカ系アメリカ人公民権運動(アフリカけいアメリカじんこうみんけんうんどう、African-American Civil Rights MovementРух за громадянські права афроамериканців у СШАとは、主に1950年代から1960年代にかけて、アメリカ合衆国の黒人(アフリカ系アメリカ人)が、公民権の適用と人種差別の解消を求めて行った大衆的な社会運動である。
コレッタ・スコット・キングは、「われわれには、依然として人種主義と差別の癌から国民を解放すべき夢がある。すべての人が愛と配慮につつまれて、兄弟姉妹として平等に暮らす夢がある」と、25年前にキング牧師が、
私には夢がある。いつの日か、この国は立ち上がり、《われわれは、自明の真理として、すべての人は平等につくられ・・・》という(独立宣言の中に示された)この国の信条の真意に生きゆくときがくるであろう。
私には夢がある。いつの日にかジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子どもたちと、かつての奴隷主の子どもたちとが、一緒に腰を下し、兄弟として同じテーブルにつくときがくるであろう。
私には夢がある。いつの日か、人びとの不正と抑圧の熱気で蒸し返るミシシッピ州も、自由と正義のオアシスに変わるときがくるであろう。
私には夢がある。いつの日にか、私の四人の小さな子どもたちが、肌の色によってではなく、人となりそのものによって人間的評価がされる国に生きるときがくるであろう。
私には夢がある。いつの日か、谷間という谷間は高められ、あらゆる丘や山は低められ、でこぼことしたところは平らにされ、曲りくねったところは真直ぐにされ、そして神の栄光が啓示されて、人みなともにそれを見るときがくるであろう。
これが、われわれの切なる願いである。
と、こう国民に訴えた「その夢」が、今なお実現していないことを強調し、さらに女性の社会的、政治的進出と、貧困からの国民の解放が必要だと呼びかけた。
気温33度の猛暑の中で開かれたこの大衆集会に、全国各地から参集した人びとの数は5万5000人で、63年の大行進の20数万人、83年の20周年記念集会の30数万人とくらべると、はるかに少なかったが、その精神は黒人のみならず、新しい時代感覚を身につけた若い世代の多くの白人、その他のマイノリティの人びとに脈々と引き継がれていた。
「人種差別の全面廃止!」「公民権法を完全実施せよ!」「仕事と自由!」「平等の賃金を!」など、あまたのプラカードの中で、ひときわ人目を惹いたのは、「われら打ち勝たん」と大書した大きな矩形の板の上部に、縦横十文字に「平和」と書き抜いた直系1メートル余りの円形の板を組み合わせた巨大なプラカードだった。
1950年代半ばから60年代に激しく展開された公民権運動をとおして、アメリカ黒人の状態が多方面で改善され、かれらの地位も全般に急速に向上したことは紛れもない事実である。そのような黒人の具体的状況については最終章で述べるが、それにもかかわらず、多くの専門研究者の協力によって1989年に出版された調査報告書『共通の運命ー黒人とアメリカ社会』は、1939年以後、約50年のあいだに変化した現在の黒人の地位を、「半ば満たされたコップ」(達成された成果)=「半空っぽのコップ」(白人との格差)、'a glass that is half full of a glass that is half empty'と巧みな表現でたとえている。

*"Is the glass half empty or half full?" is a proverbial phrase, used rhetorically to indicate that a particular situation could be a cause for pessimism (half empty) or optimism (half full), but there are other view points too, like realism (if poured out, half empty; if filled up, half full, but it is only a point of view), or as a litmus test to simply determine an individual's worldview. The purpose of the question is to demonstrate that a situation may be seen in different ways depending on one's point of view.
しかし、これはこの期間だけを対象にして各種の資料を統計的に比較したたんに数量上の比喩であって、こんにちのアメリカ黒人の歴史のダイナミズムをつたえるものではない。いわんや、半世紀前の当時の黒人の状態が、絶対的にも相対的にも、いかに劣悪なものであったにせよ、かれら黒人の歴史的現実が「完全に空っぽ」だったなどと示唆するものでは毛頭ない。事実、アメリカ黒人は、それよりはるかに以前から、すでに三世紀以上の長きにわたって、黒人奴隷制度と人種差別制度の重圧のもとにおかれながらも、みずからの解放とこの国の社会進歩のために営々と闘いつづけてきた苦しくも輝かしい歴史をもっていた。

①アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史(アメリカがっしゅうこくのどれいせいどのれきし、英:The history of slavery in the United StatesEsclavage aux États-Unisは、イギリスがバージニア植民地に初めて入植したすぐ後に始まり、1865年のアメリカ合衆国憲法修正第13条の成立で終わったことになっている②人種差別(じんしゅさべつ、英: racial discrimination)とは、人種的偏見 によって、ある固定の人種を差別すること。人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨ぐ又は害する目的又は効果を有するもの(International Convention on the Elimination of All Forms of Racial Discrimination、ICERD人種差別撤廃条約Internationales Übereinkommen zur Beseitigung jeder Form von Rassendiskriminierungにおける定義)。
毎年、商務省国勢調査局が発行している『米国統計年鑑』の1990年度版によれば、1988年現在、アメリカ合衆国で黒人とみなされている人びとは、総人口の12・3%を占める3032万6000人いるが、国勢調査局はその中で将来の予測として、1990年には3114万8000人(総人口の12・4%)、95年には3319万9000人(同、12・8%)、2000年には3512万9000人(同、13・1%)、そして2015年には4000万人をはるかに超えて、総人口の14%に達するだろうと推定している。
*あとで述べるアフリカ奴隷貿易に従事したスペイン人Españolやポルトガル人Portuguesesは、アフリカ奴隷のことをNegroと呼んだが、この語はそもそも「黒い」を意味するラテン語のnigerに由来する。爾来、数世紀にわたって、アメリカ黒人は侮蔑的な意味あいもこめてNegro(ときにはColored)と呼ばれてきた。それが、1960年代に最高揚期を迎えた公民権運動の過程で、黒人自身が誇りをもってBlackと称するようになり、現在では、日常会話はもとより、新聞や書物などの印刷物でもNegroに代って、このBlackが広く使われているが、フォーマルにはAmericanをそのあとに添えてBlack American Afro American African Americanなどが用いられている。そこには遠い祖先を共有するかつての母なる国、アフリカの人びとへの連帯感と同時に、ここ合衆国でアメリカ人として黒人のアイデンティティ(自己確認)を主張するアメリカ黒人の自意識が、色濃く映しだされている。
【参照】①奴隷貿易(どれいぼうえき、英: slave trade)とは、国家間で奴隷を取引の目的物とする貿易である②Españolスペイン語→El comercio de esclavos africanos fue una de las prácticas realizadas con esclavos capturados en África③Portuguêsポルトガル語→O comércio de escravos no Atlântico ou comércio transatlântico de escravos, também chamado de tráfico negreiro
10年毎に行なわれてきた国勢調査における用法としては、1970年の第一回センサス以降は、1950年の第17回センサスにいたるまで、黒人はすべての箇所でNegro(ときにはColored)と記されてきた。1960年の第18回センサスの調査用紙にはまだNegroという語が用いられているが、70年のセンサスの調査用紙にはNegro or Blackが、そして80年、90年のそれにはBlack or Negroと、それぞれの語を前後に入れかえて記載されている。なお、商務省国勢調査局から毎年発行されている『米国統計年鑑』(U.S. Bureau of the Census. Statistical Abstract of the United States)の人種別表では、1976年版までは全部Negroという語が、77年度版以降はすべてBlackという語が使用されている。
1990年は、第21回センサスが行なわれた年であるが、その資料は現時点では利用できない。第一回センサスから1980年までの各センサス年における黒人人口と、総人口中に占める黒人の割合は、表1のとおりである。
その殆ど全部が、16世紀から19世紀にかけて母国アフリカ大陸から略奪的に引き離され、あからさまな暴力によって強制的に西半球に連れられてきたアフリカ黒人の子孫である。彼らは、人種的にはアフリカ黒人の諸種族の血が多種多様に混交したものと、これにさらに白人やIndigenous peoples of the AmericasインディアンAmerican Indianその他の地が混交したものと二つに類別できる。かりに第一の種類のものを「純粋な黒人」(黒人にかぎらず、現実には「100パーセント純粋な人種」というものは存在しないのだから、この場合も正確には「比較的純粋な黒人」というべきであろう)、第二の種類のものを「混血の黒人」と呼べば、人種のるつぼといわれる合衆国でも、過去長年にわたる黒人奴隷制度とその後の黒人差別制度のもとで、黒人は表向きにはそのるつぼから排除されてきたはずであるが、じっさいには「純粋な黒人」は一般に考えられるよりははるかに少なく、「混血の黒人」がきわめて多い。
国勢調査をはじめとする各種の人口統計において人種による大別がなされる場合、「白人」「黒人」「その他の人種」の三つのグループに分けられてきたのが普通であるが、「黒人」と「その他の人種」は一括して「非白人」として示されることもある。そのさい、黒人とは、「混血の黒人」も「純粋な黒人」と区別なく一様に「黒人」とみなされ、白人との混血は「黒人の血の割合がどんなに少なくても黒人と申告しなければならない」というのが、国勢調査局が指示してきた黒人に関する分類上の基準である。しかも、その適用は、1950年の国勢調査までは一般に計数者の所見によって判断されてきたが、60年以降、その他の人種と同様、黒人にも原則的に自己申告制が採用されるようになった。
**1980年の第20回センサスの調査用紙の「人種」欄には、次の15のグループが列挙され、そのいずれかに本人が印をつけるよう指示されている。White, Black or Negro, Japanese, Chinese, Filipino, Korean, Vietnamise, American Indian, Hawaiian, Guamanian, Samoan, Eskimo, Aleut, Other. なお、1990年に行なわれた第21回センサスの場合も、形式の変更とそれにともなうJapanese以下の順序の入れ替えはあるが、これと同じである。
また、たとえば1970年に制定されたルイジアナ州の州法では、32分の1以上の黒人の血が混じっている住民は黒人とみなされ、出生、結婚、死亡などの証明書に黒人と明記されることになっている。そして、このような基準は、黒人詩人ラングストン・ヒューズが自伝『大海原』の中で、「アメリカ合衆国では、黒人という言葉は、ともかく血管の中にいくらかでも黒人の血が流れている者には誰にでも適用されるのだ」と述べた。黒人についてのこの国の社会通念とも完全に合致する。このことは、裏返していえば、たとえ白人の血がいかに多くても、黒人の血が一滴でも確認されれば、その人は「白人」ではなく、れっきとした「黒人」だということである。
したがって、われわれが、ごく普通に思い浮かべがちな黒人の身体上の特徴によってアメリカ黒人のことを判断すると、とんだ間違いをおかすことになりかねない。たとえば、肌の色は黒檀(エボニーEbony)のような黒色から雪花石膏のような白色まで、濃淡さまざまである。また頭髪も絹のようになめらかで、金髪(ブロンドBlonde)のものさえいる。容貌についても、これと同じことがいえる。
具体的な例をあげると、かつてアトランタ大学の学長をつとめたジョン・ホープ(John Hope (June 2, 1868 – February 22, 1936), born in Augusta, Georgia, was an American educator and political activist, the first African-descended president of both Morehouse College in 1906 and of Atlanta University in 1929)博士はしばしば白人と間違えられたし、俳優のドロシー・ダンドリッジ(ドロシー・ダンドリッジ(Dorothy Dandridge、1922年11月9日 - 1965年9月8日)Дороти Дэндриджは、アメリカ合衆国の女優・歌手。アフリカ系アメリカ人)やレナ・ホーン(レナ・ホーン(Lena Horne, 本名:Lena Mary Calhoun Horne, 1917年6月30日 - 2010年5月9日)Лена Мері Калхун Хорнは、アメリカ合衆国のジャズ歌手、俳優)は海外ではラテン・アメリカ人と見られることが多かった。アダム・パウエル(Adam Clayton Powell Jr. (November 29, 1908 – April 4, 1972)[1] was an American Baptist pastor and politician who represented the Harlem neighborhood of New York City in the United States House of Representatives from 1945 until 1971)がただ下院議員パウエル氏と紹介されれば、彼の容貌の中に「黒人」を見出す人は殆どいないだろう。また、長年にわたって全国黒人向上協会の事務局長をつとめたウォルター・ホワイト(Walter Francis White (July 1, 1893 – March 21, 1955) was an American civil rights activist who led the National Association for the Advancement of Colored People (NAACP) for a quarter of a century)は肌の色もその名前のとおり白く、そのうえ髪は金髪、眼は青く、そのためリンチ事件などが起るとどこへでも出かけて、白人としてつぶさに調査することができた。だから、彼は現場では白人として取材し、帰ってきてからは黒人として記事を書いた。では、何故、ホワイトは黒人なのか?それは彼の血管の中に64分の1の黒人の血が流れていると、彼自身が公言したからである。
アメリカの黒人について、右にあげたような例は、いささか極端に走りすぎたきらいがあるかもしれない。その身体的特徴によって黒人と識別できる場合のほうが多いことは事実である。しかし、それにもかかわらず、ここでこのような「白い黒人」の存在について述べたのは、アメリカ黒人という概念が純粋に科学的な生物学上の範疇ではなく、人種=血統を基礎にしながらも、この国の歴史そのものの発展過程で形成されてきた社会的・政治的範疇だということを強調しておきたかったからである。

Kingsblood Royal is a 1947 novel by American writer Sinclair Lewis.

***このように外見が白人と全く同じで、白人との区別がつかない黒人が、白人社会に白人として仲間入りして生活することを「パッシング」(passing)という。しかし、何かのきっかけで黒人の血の一滴でも混じっていることが判明すると、その瞬間からその人は黒人として白人社会から黒人社会へ追い返されることになる。
実在の人物ではないが、シンクレア・ルイスは、『血の宣言』という題名で訳されている小説Kingsblood Royal(1947)の中の主人公を題材に、そうした事情を見事に描きだしている。
主人公のニールは、美しい愛妻ヴェスタルと可愛い一人娘ビディと一緒に、平和な家庭生活を送っていたかなり裕福な銀行員だった。ある日、ニールは、彼の家系にイギリス王家の血が流れているという話を聞かされ、ふとしたことから自分でそれを確かめてみる気になった。ところが調査の結果、彼はあまりにも驚くべき事実に遭遇した。ニールが発見したのは王家の血どころか、じつは黒人の血とインディアンの血だったのである。ニール自身が32分の1の黒人であることが、このときわかった。そうすると、白人の妻であるヴェスタルとのあいだに生まれた一人娘のビディは64分の1の黒人ということになる。もちろん、ビディは妻と同じくらい色白で、ニール以外に誰ひとり知らないこの事実をかくしておきさえすれば、彼の一家は今後とも、そして永久に白人家族である。
・・・だが、ニールは迷った。事実にたいして目を閉じることは、彼のこころが許さなくなった。黒人は、黒人として生きることの中に人間としての生きがいも、生きることの意義もあるのではないか。個人的な感情をすべて押し殺して、ついにニールは自分の血管の中には黒人の血が流れていることを世間に宣言したのである。このとき、この瞬間から、それまで白人だったニールは、そして娘のビディも、もはや白人ではなくなり、黒人になった。これからあとは、ニールの黒人としての受難の物語である。つまり、この小説では、ニールというひとりの人間の一生は、前半が白人、後半が黒人だったのである。
その昔、この地に連れられてきた黒人は、もとより「100パーセント純粋なアフリカ人」だった。そのアフリカ人は、かつてのアングロ・サクソン人がアメリカ人になったと同様、そもそもの初めからアメリカという国の歴史形成に参加し、この国の社会進歩に貢献することによって、今やアメリカ人になった。そういう意味では、アメリカ黒人の歴史は、かつてのアフリカ人がいかにしてアメリカ人になってきたのか、その苦難に満ちた歩みの歴史であるということができる。









                                 



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