日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

American black historyアメリカ黒人の歴史История негра в Америке/Sozo Honda本田 創造Создано Хондой☆African-Americanアフリカ系アメリカ人Афроамерика́нцы☭2022/12/11/CANADA🍁Антид Ото⑧

だが、この選挙権の剥奪は、その他一切の黒人差別の集中的なあらわれにすぎない。たとえば、黒人の市民的自由について言えば、1883年に合衆国最高裁判所が、「アメリカ国民に与えたいろいろな特権(公民権)はそもそも州の市民にそなわるものであるから、これらは黒人の市民権付与を規定した憲法修正第14条の適用は受けないSince the various privileges (civil rights) granted to American citizens are originally vested in the citizens of the states, they are not subject to the 14th Amendment to the Constitution, which provides for the granting of black citizenship」として1875年の公民権法を否定して以来、南部諸州では交通機関、学校、レストラン、娯楽施設などにおける人種差別と隔離が、州法や市条例その他の法律によって法制化されていった。そして、こうしたことに、とりわけ大きな役割を果たしたのが、1896年5月18日に最高裁判所がルイジアナ州の列車内の黒人隔離にかんして下した判決(プレッシー対ファーガソン事件)で、それは「隔離しても平等Separate but equal」なら差別ではないとする有名な原理を確立したことによって、あらゆる人種差別に法的支柱を与え、これを背後から助長したのである。

①分離すれども平等(ぶんりすれどもびょうどうSéparés mais égaux、英: Separate but equal隔离但平等とは、アメリカ合衆国憲法における法原理。これによれば人種隔離Racial segregation in the United Statesは全ての人々に法の下の「平等な保護」を保障するアメリカ合衆国憲法修正第14条に必ずしも違反していないものとされた②プレッシー対ファーガソン裁判(プレッシーたいファーガソンさいばんПлесси против ФергюсонаPlessy v. Ferguson)は、「分離すれど平等」の主義のもと公共施設での白人専用等の黒人分離は人種差別に当たらないとし、これを合憲としたアメリカ合衆国の裁判。

*ジム・クロウ法(ジム・クロウほうLois Jim Crow、英語: Jim Crow lawsЗаконы Джима Кроу, Джимкроуи́змは、1876年から1964年にかけて存在した、人種差別的内容を含むアメリカ合衆国南部諸州の州法の総称。ジム・クロウ制度とも[1]。
7 近代黒人解放運動
ジム・クロウ
民主的再建の挫折を画したヘイズーティルデンの妥協は、アメリカ独占資本の成立過程の重要な一環として、世紀転換期に南部諸州で黒人差別を広く法制化したことの中に見事に実を結んだ。しかし、ここで注意しなければならないことは、黒人差別制度(もしくは黒人差別主義)とは、黒人差別の個々の州法や市条令などのたんなる集積ではないということである。
事実、それらの黒人差別法の成立とその実施のかげには、多くの黒人の血が流された。「見えない帝国」として再建時代に公然と猛威をふるったKKKは、組織としては往時ほどではなくなっていたが、南部の全体的風土の中に定着し、白人優越=黒人蔑視の人種的偏見を大々的に宣伝したばかりか、絶えず暴力を煽動して黒人迫害の先頭に立った。記録に残っているだけでも、黒人にたいする非合法的制裁の最たるものであるリンチが、1890年から20世紀初頭にかけて猖獗をきわめたのも偶然ではない。かなり控えめなタスキーギ・インスティテュートの調査でも、1882年から1947年の期間に黒人にたいして行なわれたリンチ数3426件のうち、36%にあたる1217件が1890年代の10年間に起こっている。

「ジム・クロウ*」として知られるアメリカの黒人差別制度とは、こうした合法・非合法のあらゆる手段をもって、黒人を白人からはっきりと区別した第二級市民に押しとどめ、そこに固定化することによって、独占段階に達したアメリカ資本主義が、たんに黒人を搾取するためばかりではなく、労働者階級全体を搾取するためにつくりだした法制的、暴力的、イデオロギー的なこの国の特殊な収奪体系で、肌の色の相違に根ざすたんなる人種的偏見の所産というようなものではない。したがって、黒人差別制度の根幹が南部にあったとしても、それは、事態の推移とともにもすぐに波及し、とくに黒人が南部の農村を離脱して北部の諸都市に移住し始めると、たとえ法制的には黒人差別がない地域においても、ジム・クロウは事実上どこでも広くゆきわたるようになる。その後、北部の諸都市にみられる雇用、住宅をはじめとするさまざまな黒人差別は、こうしたことのあらわれであった。
①ミンストレル・ショー(minstrel showМенестрель-шоуとは、顔を黒く塗った(Blackface)白人(特に南北戦争後には黒人)によって演じられた、踊りや音楽、寸劇などを交えた、アメリカ合衆国のエンターテインメントのこと。

②アメリカのミンストレルの祖といわれるトマス・D・ライスThomas Dartmouth Rice(1808-60年)は、1830年頃、たまたまシンシナティCincinnatiの路上で、ぼろ着姿の黒人の子どもが、「おいらの名前は ジム・クロウ まわれ まわれ ジム・クロウ 踊りで はねまわれ」という奇妙な歌をうたいながらとびまわって遊んでいるのを見た。ライスは、早速、これを取り入れ、自分も顔を黒く塗ったおどけた「黒人姿」でこの「歌と踊り」を世間にひろめ評判となった。これが、「ジム・クロウ」という言葉が使われだした始まりだといわれている。その後、ダン・エメットDaniel Decatur Emmettやジョージ・ブリムローズGeorge H. Primroseにひきつがれ一般化したが、その後「ジム・クロウ・カー」などで知られるように、黒人にたいする差別と隔離の一切を総称して黒人差別というほどの意味で広く用いられている。

タスキーギ運動とナイヤガラ運動
近代黒人解放運動の先駆となったナイヤガラ運動は、これまで述べてきたような黒人差別制度にたいする抵抗運動として、今世紀初頭の数年間に戦闘的な少数の黒人知識人によって行なわれた人種差別撤廃闘争である。しかし、この運動をひき起こした直接的契機は、この頃になってようやくその数を増してきていた黒人知識人のあいだにみられる黒人解放にかんする基本的な考え方の相違にあった。この相異なる考え方を代表する指導的人物として、ブッカー・T・ワシントンとW・E・B・デュボイスの二人をあげることができる。
①タスキーギ、あるいはタスキギー (Tuskegee) はアメリカ合衆国アラバマ州メイコン郡の市。この地でブッカー・T・ワシントンは「白人と黒人の相互和解」を呼びかける穏健で妥協的な黒人運動を展開したIt was here that Booker T. Washington launched a moderate and compromising black movement calling for "mutual reconciliation between whites and blacks."ナイアガラ運動Niagara Movement米国における公民権運動の先駆。 1905年ナイアガラ滝に近いカナダ領フォートエリーにW.E.B. デュ・ボイスら黒人知識人が集まり,すべての黒人が差別反対運動を展開することを訴える宣言を発表Pioneer of the civil rights movement in the United States. 1905 W.E.B. du Bois and other black intellectuals gather at Fort Erie, a Canadian territory near Niagara Falls, and announce a declaration appealing for all blacks to develop anti-discrimination movements.

Up from Slavery«奴隷から身を起こしてВоспрянь от рабства» is the 1901 autobiography of American educator Booker T. Washington (1856–1915).
『奴隷から身を起こして』という自伝の題をそのまま実践することによって、1881年にはアラバマ州のタスキーギに黒人の職業教育のための大学を創設し、みずから学長にもなったワシントンは、黒人の地位や境遇の改善には黒人自身がまず腕を磨き技能を身につけ、産業社会で白人と友情の絆を深めながら一歩一歩努力していくことが一番大切だと考えていた。そこから、やがて徳性ある黒人の中産階層が生まれ出るであろう。そうすれば白人も黒人の立場を尊重しなければならなくなる。だから、彼は、こうした足もとの努力を怠って、やたらに黒人差別の廃止を要求するやり方には反対だった。ワシントンのこの考え方は彼の非政治主義となり、たとえばさきに述べた人民党運動にみられる黒人の闘いも、彼の目には白人の反黒人感情をいたずらに刺戟するものとしか映らなかったのである。
1895年9月にアトランタで開かれた綿花博覧会の席上、ワシントンは、何人かの白人知名人に混じって、黒人代表として講演する機会を与えられた。このとき、彼の心をとらえていたのは、「白人と黒人とのあいだの友情を固く結びつけ、心からの協力を生みだす何か重大なことを話したいという願いA desire to say something significant that will cement friendship and produce heartfelt cooperation between whites and blacks」だった。その「何か重大なことsomething significant」が、「現在位置でバケツを下ろせLower the bucket at the current position」という教訓として語られたのである。すなわちー何日も漂流してアマゾン河口にやってきた漂泊船が、この付近でやっと友船を発見することができた。飲料水に欠乏した漂泊船は、ただちに友船に水の補給を求める信号を発した。すぐに、友船からは「現在位置でバケツを下ろせ」と返信があった。だが、給水してくれる様子は少しもなかった。漂泊船からはいくたびか給水を請う信号が発せられたが、返信は依然として同じだった。やっとその意味に気づいた漂泊船の船長が急いでバケツを海中に投じたところ、河口の塩分のない綺麗に澄んだ水を手に入れることができた。そういう話である。
「われわれ黒人の中には見知らぬ土地で自分たちの境遇がよくなることを当てにしている者や、隣近所の人達である南部の白人とのあいだに友愛関係を培うことの重要性を軽視する者がいるが、私はかれらに現在の場所でバケツを下ろせと言いたい。農業、機械技術、商業、家政その他の専門職業に各自のバケツを下ろしなさいSome of us negroes count on improving our situation in a strange land, and some underestimate the importance of cultivating fraternal relations with our white neighbors in the South. but I want them to drop their buckets at their current location. Drop your bucket on agriculture, mechanics, commerce, home economics and other professions」ワシントンは、黒人に向かってこう教えた。他方、白人にたいしては、「ストライキもやらず、労働戦争も行なわず、あなた方の田畑を耕し、森林を開拓し、あなた方の鉄道や都市を建設し、また大地の中から財宝を掘りだし、南部の進歩に大きな役割を果してきた黒人たちの中にバケツを下ろしなさいNo strikes, no labor wars, plowing your fields, clearing your forests, building your railroads and your cities, digging your treasures out of the earth, playing a major role in the progress of the South. Drop the bucket among the blacks who have gone」と要請した。
当時、人民党運動に悩まされていた支配階級が、この講演の中に大きな光明を見出したとしても不思議ではない。講演が終るとジョージア州のバロックRufus Bullock知事が走るようにやってきて、ワシントンと固い握手を交した。数日後、グローヴァー・クリーヴランドStephen Grover Cleveland大統領も、この講演を称える親書を送り、一夕、彼をホワイトハウスに招いて食事をともにした。アンドルー・カネギーAndrew Carnegieが彼の教育事業に60万ドルの寄付金を出したのをはじめ、スタンダード石油のH・H・ロジャースHenry Huttleston Rogers、南部鉄道Southern Railway会社の副社長ボールドウィン二世William Henry Baldwin Jr.などの財界の巨頭たちも物心両面からワシントンの事業に支援の手をさしのべた。こうして、ワシントンは1896年にはハーヴァード大学から、1901年にはダートマス大学から名誉学位を授けられ、「もっとも偉大な黒人」として白人社会から手厚いもてなしをうけた。
だが、デトロイトの一新聞さえ「アトランタの博覧会にはテネシー州のリンチも南部の特産物として出品されるべきであったAt the Atlanta Exposition, Tennessee lynching should have been exhibited as a Southern specialty」と書いたほどで、デュボイスをはじめとする急進的な黒人知識人は、ワシントンの教義の中に黒人解放への大きな危険と障害とを見てとり、彼の講演を「アトランタの妥協Compromise in Atlanta」と決めつけ反撥した。そのデュボイスは、南部再建運動の最中の1868年にマサチューセッツ州のグレートバリントンGreat Barringtonで、自由黒人の子として生まれ、フィスク大学Fisk University、ハーヴァード大学Harvard University、そしてFriedrich-Wilhelms-Universitätベルリン大学Friedrich Wilhelm Universityにも学び、当時はアトランタ大学で教職についていた。1903年、彼は『黒人の魂The Souls of Black Folk』と題する書物を出版したが、これはワシントンの教義にたいする反対テーゼの結実ともいうべきものであった。しかし、彼はこの書物の中で、黒人解放運動の中核は少数のすぐれた黒人知識人によっておし進められるべきであるとする、いわゆる「才能ある十分の一Talented tenth」理論を展開した。この理論は、その後も、しばらくデュボイスの信条であったばかりでなく、彼の指導した黒人解放運動が中産階級的な急進主義として展開し、その枠をなかなかつき破ることができなかったことに大きく作用している。彼がこうした理論と訣別したのは、もっと後年になってからのことである。

①The Souls of Black FolkLes Âmes du peuple noir: Essays and Sketches is a 1903 work of American literature by W. E. B. Du Bois. It is a seminal work in the history of sociology and a cornerstone of African-American literature②The talented tenth is a term that designated a leadership class of African Americans in the early 20th century. Although the term was created by white Northern philanthropists, it is primarily associated with W. E. B. Du Bois, who used it as title of an influential essay, published in 1903. It appeared in The Negro Problem, a collection of essays written by leading African Americans and assembled by Booker T. Washington.
ワシントンの教義とそれにもとづいた黒人解放運動(タスキーギ運動と呼ばれている)には、デュボイスばかりでなく、意識ある黒人の側からの強い反対が高まっていた。早くも1896年には全国黒人協会や全国黒人婦人協会が結成されたが、1899年にはアフロ・アメリカ会議African American Conferenceが組織され、リンチの撲滅ならびに憲法修正第13条、第14条、第15条の無条件実施を要求した。こうした組織はいずれも短命に終ったが、その活動にはタスキーギ運動にたいする反対と同時に、ウィリアム・マッキンレーWilliam McKinley大統領やセオドア・ローズヴェルトTheodore Roosevelt Jr.大統領の帝国主義的外交政策にたいする反対がはっきりと表明されていた。
これが、ナイヤガラ運動を生みだした黒人側の背景であった。デュボイスをはじめ、ボストンの黒人新聞『ガーディアン(The Boston Guardian was an African-American newspaper, co-founded by William Monroe Trotter and George W. Forbes in 1901 in Boston, Massachusetts, and published until the 1950s)によって黒人差別撤廃活動をつづけていたウィリアム・モンロー・トロッター、ジョージ・フォーブスら約30人の急進的な黒人知識人は、1905年7月、ついにナイヤガラ瀑布付近のカナダ領フォートエリーFort Erieに集まって第1回目の会合を開いた。この地は、かつての地下鉄道の終着駅として、多くの逃亡奴隷たちが安堵の息をついた歴史的な場所である。いわゆる『ナイヤガラ宣言Niagara Declaration』は、このとき、この場所で採択された。それは、一切の黒人差別に反対し、「不屈の精神をもって絶えず世論を喚起することこそ解放への道であるThe way to liberation is to constantly stir public opinion with fortitude」と、黒人差別撤廃闘争に立ち上がるよう呼びかけた黒人の権利宣言だった。つづいて翌年、1906年には、かれらは今度はかつてのジョン・ブラウンの蜂起の地、ハーパーズフェリーHarpers Ferryを集合地に選び、そこで第2回目の会合を開いた。

①William Monroe Trotter, sometimes just Monroe Trotter (April 7, 1872 – April 7, 1934), was a newspaper editor and real estate businessman based in Boston, Massachusetts②George W. Forbes (1864-1927) was an American journalist who advocated for African-American civil rights in the late 19th and early 20th centuries.
「夜もまだ明けきらぬ小高い丘に、薄もやをとおして百人の人影がみうけられた。かれらは行列をつくり、はっきりした目的をもって行進した。やがて明るくなるにつれ、顔がわかってきた。かれらは厳粛な巡礼を行なう黒人だった。敬虔と目的への徹底した献身をあらわすかのように、黒人たちはみな裸足だった。巡礼たちの精神と目的が崇高だったと同様、行進の光景もきわめて心打つものがあった。黒人たちの目的は、かれらの住む国に正義をもたらすことだったThrough the thin haze, I could see the shadows of a hundred people on a small hill where the night had not yet finished. They formed a procession and marched with a clear purpose. As it got brighter, I could recognize his face. They were negroes making solemn pilgrimages. All the blacks were barefoot, as if to show their piety and utter devotion to purpose. The spectacle of the procession was as poignant as the spirit and purpose of the pilgrims. The purpose of the blacks was to bring justice to their country」と参加者の一人だったジョン・ホープは、そのときの情景をこのように記しているが、このときデュボイスは、ナイヤガラ運動の精神と目的とを、高らかにこう訴えたのである。
「われわれは、完全な人間の権利をほんの少し欠いても満足しない。われわれは、自由に生まれたアメリカ人がもっている政治的、市民的、社会的な一切の権利を要求する。われわれは、これらの権利を手に入れるまでは、どんなことがあっても、抗議することをやめず、アメリカ人の耳を打つことをやめぬつもりである。われわれが行なっている闘いは、われわれ自身のためばかりではなくて、すべての真のアメリカ人のためのものであるWe are not satisfied with the slightest lack of perfect human rights. We demand all the political, civil and social rights that free-born Americans have. We will never stop protesting and hitting Americans' ears until we have these rights. The fight we are fighting is not just for ourselves, but for all true Americans
ナイヤガラ運動の精神は、このように気高くかつ戦闘的だったが、この運動はさきに指摘したようなこの時期のデュボイスの思想からもうかがえるように、ついに大衆運動に発展することなく僅か四年でその活動は停止した。死金の不足もわざわいしたが、現実の行動綱領と、それを具体化するための組織活動を欠いていたことが、最大の弱さだった。それにもかかわらず、この運動は黒人差別制度についての関心を黒人のあいだだけでなく、ひろく白人のあいだにも喚起し、つづいて組織された全国黒人向上協会の中に引き継がれることによって、近代黒人解放運動の先駆としての歴史的役割を果たした。

*全米黒人地位向上協会/全国有色人種向上協会(ぜんべいこくじんちいこうじょうきょうかい/ぜんこくゆうしょくじんしゅこうじょうきょうかいassociation nationale pour la promotion des gens de couleur、英: National Association for the Advancement of Colored People, NAACPНаціональна асоціація сприяння прогресу кольорового населенняは、メリーランド州ボルチモアに本部を置く、アメリカ合衆国で最も古い公民権運動組織の一つ[1] である。組織名として有色人種(Colored People)という語彙が残っている稀な例である。
全国黒人地位向上協会と全国都市同盟
その全国黒人地位向上協会( National Association for the Advancement of Colored People.一般にNAACPと略記)の結成は、直接的には1908年にイリノイ州のスプリングフィールドSpringfieldで起こった大規模な人種暴動Race Riotに端を発している。

*The Springfield race riot of 1908 consisted of events of mass racial violence committed against African Americans by a mob of about 5,000 white Americans and European immigrants in Springfield, Illinois, between August 14 and 16, 1908.
この人種暴動が当時「全国を震撼させたShook the whole country」大きな理由は、白人の暴挙にたいして黒人が同じく暴力に訴えて激しい抵抗を試みたことである。このときの模様は、その後まもなく、現地でこの暴動を取材したウィリアム・E・ウォーリングWilliam E Waringの筆によって広く世間に報じられた。彼自身南部人だったが、ウォーリングは、その中で、その頃あちこちで盛んに行なわれていたリンチや人種暴動の悲劇をこれ以上繰り返させないためには、黒人に政治的、市民的自由を保障し、こうした悲劇の根源を取り除くために努力する組織がどうしても必要であることを強く訴えたのである。社会事業家のメリー・W・オヴィングトンMary White Ovingtonやヘンリー・モスコヴィッチHenry Moscovitch博士、それにかつての奴隷制廃止主義者ガリソンの孫のオズワルド・ヴィラードOswald Garrison Villardなどの知名人が、ただちにウォーリングの訴えに耳を傾けた。
かれらは、リンカン大統領の生誕100年にあたる翌年の1909年2月12日を期して、ウォーリングの訴えを具体化し、黒人の問題を討議する会議を開くことを決定して、著名な白人自由主義者と数名の黒人を含む50数人からなる署名簿とともに、これを広く発表した。白人に懐疑的だったトロッターは参加しなかったが、デュボイスは署名簿に名前を連ねただけでなく、積極的にこの組織活動に加わった。こうして、その年の5月、ニューヨークで開かれた集まりで全国黒人委員会National Black Commissionが結成され、つづいて一年後の1910年5月にやはりニューヨークで開かれた第二回年次大会で、全国黒人地位向上協会の名称が決定された。
NAACPは、かつての共和党急進派のチャールズ・サムナーCharles Sumnerのもとで秘書をつとめ、のちにアメリカ弁護士協会の会長にもなったモアフィールド・ストーリMoorfield Storeyを会長に、ウォーリングを執行委員会議長に、デュボイスを広報調査部長に選出し、さらに機関誌として『危機Crisis』を発行した。デュボイスは協会の役職についた、ただひとりの黒人だった。NAACPは、デュボイスをこの地位につけることによって、ナイヤガラ運動が開始した政治路線と戦闘精神とを、多少とも承認するかたちをとった。NAACPは、この国の黒人たちに市民的諸権利とくに裁判の公正を保障し、あわせて経済的、社会的、政治的機会を確保して、かれらの地位を向上させることを基本目的にした。NAACPは、その具体的活動としてはリンチや人権暴動の反対闘争で大きな成果をおさめた。このため、リンチの数は減少し始めた。
しかし、白人の自由主義的知識人を中核にしていたため、結成当時、デュボイスがあるリンチ事件にかんして、「われわれは、そうしたことに、いつまでも耐えていくつもりはない。かりに死ななければならぬものなら、神よ、乾草のようにではなく、人間らしく身を滅ぼさしめよWe are not going to put up with it forever. If you must die, O God, let it die like a man, not like hay」と言った厳しい抵抗精神は次第にうすれて、1934年にはついにデュボイス自身がこの協会から去らなければならないことになる。
そうした軟化傾向にたいして、最初のうちはNAACPに敵意さえ示し、もっぱらワシントンの運動を支持してきた資本家の中からも、秋波を送る者があらわれた。サイラス・マッコーミックCyrus H. McCormick夫人やハーヴェイ・ファイヤストンHarvey Samuel Firestone Sr.などが、そうであった。NAACPが結成当時の精神を再発見し、今度は広く黒人大衆とも手をとりあって黒人差別撤廃闘争で指導的役割を果たすようになるのは、第二次世界大戦後になってからのことである。
NAACPがリンチ反対運動や法廷での黒人差別撤廃闘争に精力を傾けていた頃も、南部農村からの黒人の離脱は進行し、とくに北部の大都市に多数の黒人が集まってくると、黒人の都市生活の問題に解決の手をさしのべなければならない状態が急速にあらわれてきた。NAACPに代って、こうした要請に、多少ともこたえることができたのが、NAACPより少し遅れて結成された全国都市同盟(National Urban League一般にNULと略記)である。

*The National Urban League全国都市联盟, formerly known as the National League on Urban Conditions Among Negroes, is a nonpartisan historic civil rights organization based in New York City that advocates on behalf of economic and social justice for African Americans and against racial discrimination in the United States.
しかし、1911年にこのNULが結成されたのは、ひとつには成立当初のNAACPの政治路線にたいする反撥からだった。ブッカー・T・ワシントンにくみした黒人指導者たちとかれらを支持した人びとは、NAACPよりもっと穏健な組織を欲していた。NULの初代議長に選ばれたボールドウィン夫人(夫のウィリアム・ボールドウィンは鉄道会社の巨頭)は、結成大会の席上、この組織の目的について、こう言った。「私たちは、黒人として、また白人として、どちらの仲間だけの狭い利益のために働くのではなく、アメリカ市民として一緒に手をつなぎあって、私たちの共通の都市、共通の国の全体の福祉のために奉仕しようではありませんかAs blacks and whites, we do not work for the narrow interests of either fellowship alone, but together as American citizens we work hand in hand to serve the entirety of our common city, our common country. Let Us Serve for the Welfare
NAACPが黒人解放運動の系列としてナイヤガラ運動に属したとすれば、NULはタスキーギ運動に属した。したがって、NULは政治行動を排して、社会改良的な綱領のもとに、黒人の生活実態調査を行ない、職業教育の振興や保健衛生思想の普及につとめた。NAACPNULも、ともに白人の自由主義者と黒人との共同組織だったことにかわりはないが、後者にはどちらかといえば慈善団体的な色彩さえみうけられた。

ガーヴェイ運動
第一次世界大戦World War Iがアメリカ合衆国の歴史的発展におよぼした影響は測りしれぬほど大きく、それについてここで語ることなどできようはずはないが、それにしても、この戦争はこの国の黒人の生活にも直接、多大な変化をもたらした。
すでに指摘した南部農村からの黒人の離脱、北部の大都市への移住は、この戦争を通じて飛躍的に増大し、戦後経済の活況はこれに拍車をかけた。これらの黒人の数は正確にはつかみにくいが、ルイス・ハッカーは1914-17年の時期だけで40万人という数字をあげ、またジェームズ・アレンは1910-30年の時期に、南部のブラック・ベルトから流出した黒人だけで、100万人以上にのぼると推定している。同時に、この頃には南部内部においても黒人の都市への移住が始まって、ブラック・ベルトは今や大都市の工場に安価な労働力を補給する兵站基地としての役割を受け持つことになった。こうして、ここに、とくに北部の大都市を中心に、ようやく黒人の中にも労働階級が形成され初めた。
このような事態の推移は、都市の黒人たちに、これまでかれらが知らなかった問題を投げかけた。なによりも、かれらは都会の生活に慣れていなかった。買物ひとつにしても、以前とは全く勝手がちがっていた。しかも、かれらを待っていたものは、南部と殆ど変らない差別待遇である。賃金は少なく、住居もゲットーと呼ばれる隔離された貧民街の一区域に押し込められた。激しい抵抗心と同時に、不安と焦燥の念が、かれらのあいだにみなぎっていた。しかも、かれらの中には、あの戦争で勇敢に戦い、戦場においてさえ自国の差別待遇の苦渋をいやというほど味わわされるとともに、他方ではフランスをはじめ同盟軍である他国の将兵から初めて人間としての扱いを受けて、ますます人種差別制度にたいする反感を強めて帰ってきた帰還兵士も数多く混じっていた。
1919年の夏を頂点として、その頃各地に頻発した大規模な人種暴動は、こうした社会的背景をもっていた。なかでも、この年の7月にシカゴで起こった人種暴動は最大のもので、ことの発端はミシガン湖に泳ぎにきていたユージン・ウィリアムズという17歳の黒人の若者が、いかだに乗って遊んでいるうちに、うっかり白人が勝手に決めた「禁止線」を破って白人用の泳ぎ場に「侵入」してしまったために、白人群衆から石の雨を浴びて溺死させられたという事件であった。それが、たちまち全市を震撼させた13日間にもおよぶ人種戦争と化し、白人15人、黒人23人が殺され、ほかに白人178人、黒人342人が傷つき、数百軒の家屋(その大半が黒人家屋)が焼き払われるという結果になったのは、この事件が牛肉罐詰工場で新しく組織された労働組合弾圧に意識的に利用されたからである。

①Eugene Williams (1902–1919), a 17-year-old African American killed after unintentionally swimming in a segregated area, which triggered the Chicago race riot of 1919

②The Chicago race riot of 1919Массовые беспорядки в Чикаго was a violent racial conflict between white Americans and black Americans that began on the South Side of Chicago, Illinois, on July 27 and ended on August 3, 1919. During the riot, 38 people died (23 black and 15 white).
そこには、当時の大都市における黒人の一般的状況が、きわめて劇的なかたちで示されていた。だが、NULはもとより、NAACPも、こうした黒人の問題に対処することができなかった。このような事情が、大戦中から戦後にかけて、次に述べるガーヴェイ運動が多くの黒人の心をとらえた社会的背景だった。
この運動の指導者マーカス・ガーヴェイは、1887年にジャマイカで生まれた黒人で、肌の色の黒さにあらわれたその「純粋な黒人」ぶりは、彼の誇りだった。印刷工として働くうち、ブッカー・T・ワシントンの著作に啓発され、みずから黒人解放に挺身することを決意すると、1914年、ジャマイカで全黒人地位改善協会を設立した。だが、ガーヴェイが本格的に活動を開始したのは、彼が1916年にアメリカに渡ってからである。
これより少しまえ、ガーヴェイは、イギリスに渡り、そこでアフリカからやってきていた幾人かの黒人から、つぶさに白人のアフリカ侵略の話を聞き、白人の植民地主義と人権的抑圧とにいっそう強い憎悪を抱くようになっていた。
ガーヴェイは、全黒人地位改善協会の本部をニューヨークにおき、機関紙として『黒人世界Negro World』を発行した。彼の運動はたちまち多くの黒人の支持を集め、1919年までに国内各地に30の支部をもち、『黒人世界』は一躍有名になった。会員数については、1922年に、アメリカだけで200万人、全世界で400万人を数えるにいたったと、彼自身は述べているが、デュボイスはじめ、ガーヴェイの運動の批判者たちは一様に、そんな数字はとんでもない大ぼらだと決めつけている。

*Negro World was the newspaper of the Marcus Garvey's Universal Negro Improvement Association and African Communities League (UNIA).
ウィリアム・ピッケンズはせいぜい100万人以下だと言い、この協会の公式会計報告から会員数を割り出したがW・A・ドミンゴは1920年の会費納入会員数は僅かに1万7784人だと述べ、デュボイスもこれとほぼ同じ人数をあげて、会員数については大きな開きを示しているが、いずれにしても、ガーヴェイ主義がごく短期間に驚くほど多くの黒人の心をとらえたことだけは間違いない。そうした黒人の殆どが、比較的新しく南部を離れて大都市にやってきた黒人たちだったということは、このさいとくに留意しておかなければならない。

①ウィリアム・ピケンズ(William Pickens、1881年1月15日 - 1954年4月6日)はアフリカ系アメリカ人の雄弁家、教育者、ジャーナリスト、エッセイスト、NAACPのメンバーだった。彼は2つの自伝を書いた。最初に書いたのは『奴隷の相続人The Heir of Slaves』(1911年)、第二は『爆発する柵(しがらみ)Bursting Bonds』(1923年)で、1919年の暴動における、アフリカ系アメリカ人に対する人種差別的攻撃と、1921年のリンチ事件Aftermath of a Lynchingをあつかった。

②Wilfred Adolphus Domingoウィルフレッド・アドルファス・ドミンゴ (W. A. Domingo) (26 November 1889 – 14 February 1968) was a Jamaican activist and journalist who became the youngest editor of Marcus Garvey's newspaper, the Negro World.
ガーヴェイ運動の特徴は、一言でいえば、黒人の民族感情にふれる戦闘性と一種の敗北主義との同居である。全黒人地位改善協会は、その第一回大会で前文と54ヶ条からなる権利宣言とを採択したが、前文の中では、白人の国ヨーロッパ列強が、黒人の国アフリカを強奪し、黒人を隷属状態におとしいれたばかりでなく、西インド諸島や新大陸にまでその爪先をのばしていったことに強い抗議がくわえられるとともに、なによりもアメリカ黒人にたいするリンチや人種的抑圧、その他さまざまな差別待遇に激しい非難の矢が向けられた。
つづいて、権利宣言の中では、これに反対する具体的項目が、税金の不払い、黒人差別法の無視、暴力にたいしては「手段をえらばぬno choice」自己防衛といったぐあいに、きわめて過激なかたちで列挙されている。しかし、権利宣言の要は、なんといっても、「アフリカをアフリカ人に返せGive Africa back to the Africans」という要求で、そこには次のように述べられている。「われわれは、世界の黒人のためにアフリカの自由があることを信じる。ヨーロッパ人のためのヨーロッパ、アジア人のためのアジアという信条にのっとって、われわれも、また、国内でも国外でも、アフリカ人のためのアフリカを要求するWe believe in freedom in Africa for the black people of the world. In the credo of Europe for Europeans, Asia for Asians, we also demand Africa for Africans, at home and abroad」こうして、すべての黒人がアフリカの自由市民であり、民族自決権をもつべきであると強く主張された。
ここから、あの「アフリカへ帰れBack to Africa」という、そのことじたいは歴史的にもそれほど珍しくないスローガンが、彼特有の空想的着想のもとに大きく打ちだされ、ガーヴェイ運動はもっぱらアフリカ復帰運動というかたちをもって展開される。彼は、街頭でも集会場でも、あらゆる機会を利用して、黒人が少数民族をなす白人の国では、どんなにしても正義を獲得することはできないから、かれら黒人は母国アフリカに帰り、自分たちの国を建設してこれを手に入れなければならないと、強く訴えた。1921年にニューヨークで開かれた全黒人地位改善協会の第二回大会には、国内各地はもとより、西インド諸島、南アメリカ、アフリカからも多くの黒人が集まり、その数は2万5000人にのぼったといわれる。ガーヴェイは、この大会で「アフリカ帝国African Empire」の樹立を宣言すると、みずからその臨時大統領に就任し、いつの日かアフリカから白人侵略者を追い出すために「アフリカ旅団African brigade」を編成した。黒、赤、緑の三色からなる国旗が制定され、黒色は人種、赤色は血、緑色は希望を、それぞれ象徴するとされた。彼は紫色と金色の制服に身をつつみ、頭には「ギアナ草ほども丈のあるAs tall as Guiana grass」鳥毛のついた帽子をかぶったが、「アフリカ自動車隊African car corps」や「黒鷲飛行隊Black Eagle Flying Team」の隊員たちは、国旗と同様、黒、赤、緑の三色の制服で身を固めた。かれらは、こうした服装で、しばしばニューヨークその他の都市をラッパを吹き太鼓を打ち鳴らしながら大示威行進を行なった。

ガーヴェイは、これらの軍隊をアフリカに輸送するには、どうしても船がいることを痛感し、以前から黒星汽船会社Black Star Steamship Companyを設立して船の入手につとめていた。しかし、この事業が直接的には彼の運動を挫折にみちびいた。黒星汽船会社は、株を売ったり、募金などで100万ドルの金をつくり、ようやく待望の船も購入して少しばかりは航海もしたが、事業不振でたちまち会社は倒産してしまった。そのうえ、ガーヴェイは、募金に絡む詐欺罪で、1925年から五年間アトランタの監獄に収容されることになった。しかし、じっさいには二年間だけ服役して、彼が1927年に監獄から出てきたときには、「アフリカ帝国」も、その軍隊も、もはやかつての栄光を失い、崩壊の危機に瀕していた。運動は内部分裂し、第49州運動49th State Movementやエチオピア平和運動Ethiopian peace movementなどの小グループに分散していった。ガーヴェイ自身は、その後、西インド諸島やロンドンで再起を図ったが、どれほどのこともなしえず、1940年にこの地で淋しく死んだ。
黒星汽船会社は、そもそもガーヴェイの「崇高な夢」を実現するための手段以外のなにものでもなかったはずであるが、そうした事業に手を染める中で、ガーヴェイズムの戦闘性は急速に色あせていった。ことに事業の不振はこの傾向を助長した。彼はNAACPを嫌悪し、労働組合に強く反撥し、「資本主義は世界の進歩になくてはならぬものだCapitalism is essential to the progress of the world」などとも言った。ガーヴェインの思想や行動の中には互いに矛盾するものが多いばかりでなく、その極端さに当惑させられることが多々ある。しかし、ガーヴェイに指導されたこの運動から、彼の個性に象徴的に示された粉飾を取り除いてしまうと、そこには素朴で自然な黒人民族主義Black Nationalismが脈々と波打っているのを感じとることができる。
ガーヴェイの、ある意味では喜劇とさえいえる悲劇は、アメリカ黒人の労働階級形成過程にあらわれた近代黒人解放運動の弱さの一面を露呈したが、それが黒人の民族感情を刺戟し、黒人の魂にふれることによって、やがてこの国の中で正義と市民的諸権利を獲得する積極的闘争をおし進めるための精神的風土を培った。事実、その正しい発展のあらわれを、われわれは、とくに第二次世界大戦後に、アメリカ全土を席巻した公民権運動を基軸にした黒人解放運動の中に見ることができる。また当時においても、主として文学や音楽に託してあらわれたものであったが、この国の社会主義運動や労働運動とも絡み合いながら、『メッセンジャーMessenger』グループを中心にした「新しい黒人New Black」の形成の中にも見ることができる。いわゆる『二グロ・ルネッサンスNegro
Renaissance』とか『ハーレム・ルネッサンス』とか呼ばれる運動である。

*ハーレム・ルネサンス(Harlem Renaissance)とは、アメリカ合衆国の特にニューヨーク市マンハッタン区ハーレムにおけるアフリカ系アメリカ人のアート、文学、音楽、文化、芸術の全盛期。1919年に始まり1930年代初期または中期まで続いたとされる。Га́рлемский ренесса́нс (англ. Harlem Renaissance или Новое негритянское движение англ. New Negro Movement)
「アフリカへ帰れ」というスローガンは、奴隷制度の時代にも聞かれたし、ガーヴェイ以後も全くなくなってしまったわけではない。だが、それが白人優越主義の表明であれ、黒人民族主義の発露であれ、ついにこの運動は実を結ぶことはなかった。反対に、そうした幾世代にもわたる試練に耐え抜くことによって、この国の黒人は、はっきりとアメリカ人としての意識と自覚を涵養し、じっさいにアメリカ人以外のなにものでもなくなったのである。そして、今やかれらの課題は、そのアメリカ人として、当然、享受すべきこの国の憲法が全国民に保障している政治的、社会的、経済的諸権利を完全に獲得することにあった。

×

非ログインユーザーとして返信する