日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

American black historyアメリカ黒人の歴史История негра в Америке/Sozo Honda本田 創造Создано Хондой☆African-Americanアフリカ系アメリカ人Афроамерика́нцы☭2022/12/11/CANADA🍁Антид Ото⑩

自由のための乗車運動
バス乗車拒否運動からランチ・カウンターでの坐り込み運動へと、公民権闘争が激しい高まりをみせるにつれて、ひとつの運動がさらに別の新しい別の運動を連鎖的に生みだすという社会状況が、全面的に醸成されてきた。フリーダム・ライドと呼ばれる「自由のための乗車運動」は、そうした連鎖反応として開始された。


1961年の初め、それまでNAACPの企画部長をしていたジェームズ・ファーマーが、20年程前にみずからその結成に参画したCOREの議長に就任した。学生たちの坐り込み運動と、その闘いの中から誕生したSNCCの活動に強い刺戟を受けたファーマーは、沈滞気味だったCOREの活性化を図る目的もあって、就任早々の3月13日、州境を越えて運行する長距離バスにおいては、車内だけでなく、バス・ターミナルの諸施設での人種隔離をも禁止した三ヶ月前の最高裁判所の判決(ボイントン対ヴァージニア事件)が、実際にどれだけ守られているかを現地調査するため、首都ワシントンからルイジアナ州のニューオーリンズにいたる長途のバス乗車運動を行なうという呼びかけをした。

*Freedom Riders自由乘车者 were civil rights activists who rode interstate buses into the segregated Southern United States in 1961 and subsequent years to challenge the non-enforcement of the United States Supreme Court decisions Morgan v. Virginia (1946) and Boynton v. Virginia (1960), which ruled that segregated public buses were unconstitutional.
参加者たちにたいしては、いかなるときも、徹底して非暴力主義で対決し、もしも逮捕され投獄されるようなことがあっても、保釈金などは支払わず、釈放されるまで監獄にとどまることが求められた。しかし、途中、とりわけ深南部では過激な人種主義者の妨害にあうことが予想されたので、COREの指導部は、4月に入るとジョン・F・ケネディ大統領、司法省ならびに連邦捜査局(FBI)、関係バス会社などに万一の場合の保護を要請する手紙をあらかじめ送っていたが、そのどこからも一通の返事も得られなかった。
5月4日、女性二人を混えた7人と6人の白人からなる13人の「乗客たちRiders」(そのうち四人がフォーマーほか黒人と白人のCOREのメンバーで、他の黒人のほとんどはジョン・ルイスをはじめ坐り込み運動の学生活動家、または白人は平和主義団体や社会主義的組織からの参加者だった)が、グレイハウンド社Greyhoundとトレイルウェイズ社Trailwaysのバス二台に分乗し、黒人が前の座席に白人が後ろの座席に坐ってワシントンから南に向かって出発した。

*ジョン・ロバート・ルイス(John Robert Lewis、1940年2月21日 - 2020年7月17日)Джон Роберт Льюис は、アメリカ合衆国の政治家、公民権運動活動家。1987年から2020年までジョージア州選出の下院議員を務めた。民主党に所属。
バスは、リッチモンド、ピーターズバーグPetersburg、リンチバーグLynchburgなどを通って、ヴァージニア州からノースカロライナ州に入った。坐り込み運動の発祥地グリーンズボロGreensboroを過ぎ、5月8日にシャーロットCharlotteで逮捕者一人をだしたものの、翌日9日にはサウスカロライナ州のロックビルRockvilleにくるまでは、黒人が白人用の便所に入ったり、白人が黒人用の待合室に入ったりしても、騒動らしい騒動は起こらず、比率的平穏な旅がつづいた。だが、ロックビルのグレイハウンド社のバス・ターミナルでは、20人の暴漢が「乗客たちRiders」の到着を待ち構えていた。ナッシュヴィルの坐り込み運動の活動家で、すでに五回も逮捕歴のある21歳のジョン・ルイスが、まず白人用の待合室に近づくと、皮ジャンバーを着て髪をダックテールDucktailにした白人の若者たちが待合室の入口の前に立ちはだかり、「黒ん坊!ここはお前の来る場所じゃねぇNigger! this is not the place for you」と口汚く叫びながら、棍棒で彼をめった打ちに叩きのめした。ルイスのあとにいた平和主義者のアルバート・ビゲロー(Albert Smith Bigelow (1 May 1906 – 6 October 1993) was a pacifist and former United States Navy Commander)も、三人の荒らくれ男たちに襲撃された。しかし、かれらと一緒にいた一人の女性「乗客」が路上に押し倒されるにおよんで、これらの暴行を傍観していた警官が、ようやく白人暴徒らを制圧し、「乗客たち」全員が白人用の待合室に入ることができた。
しかし、ロックビルから南方37マイルのウィンズボローWinnsboroでは、白人用の軽食堂で飲食物を注文しようとしたCOREのジェームズ・ベックJames Beckと黒人学生のヘンリー・トマスHenry Thomasが、警官に逮捕された。バスはさらに進んでカムデンを通り、サウスカロライナ州内を迂回してジョージア州へ入り、オーガスタ、アセンズAthensを経て、13日にアトランタに到着した。「乗客たち」はこの地で人員を再構成して、これから先のいっそう危険なアラバマ州、ミシシッピ州への旅立ちの準備に一夜を過した。
5月14日の日曜日、その日は母の日であった。アトランタを発ってアラバマ州に入ったグレイハウンド社のバスは、タイヤが擦り切れ、アニストンAnnistonの近くの郊外で停車した。そのとき、突然、棍棒や鉄パイプやチェーンで武装した暴徒の群れがバスを取り囲んだ。窓ガラスが壊され、火焔びんが投げ込まれた。車内に濃い煙が充満し、「乗客たち」は燃え上がる火の中を、暴徒たちの殴打を浴びながら夢中でバスから脱出した。そのうちバスは炎上して、たちまち黒こげの鉄の骸骨と化してしまった。警官はもとより、かれらを助けてくれる者は誰もいなかった。結局、「乗客たち」は、バーミングハムから駆けつけてきたフレッド・L・シャトワース牧師の指揮する「自動車隊」によって救出されたのである。

*Freddie Lee Shuttlesworth (born Freddie Lee Robinson, March 18, 1922 – October 5, 2011) was an American civil rights activist who led the fight against segregation and other forms of racism as a minister in Birmingham, Alabama.

一方、トレイルウェイズ社のバスは、約一時間遅れてアニストンにやってきた。すると、8人のやくざ風の男がバスに乗り込んできて、最前列の席に坐っていた黒人学生に、ただちにかつての「黒人用の後部席」に移るよう要求した。学生たちがきっぱりと拒絶すると、男たちはいきなり暴力を振い始めた。COREのジェームズ・ベックと退職した61歳の元教授ウォールター・バーグマンWalter Bergmanが、前の方に進み出て説得にあたろうとしたが、バックはたちまち床に殴り倒され、バーグマンも頭を強打されて重傷を負った。「乗客たち」は、仕方なく全員揃って後ろの席に移り、バスはそのままバーミングハムに向かった。

*バーミングハム運動(Birmingham campaign)は、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアと南部キリスト教指導者会議 (SCLC)が組織し展開した、公民権運動の中の戦略的運動のひとつ。アラバマ州バーミングハムにおけるアフリカ系アメリカ人に対する不平等に注目を集めた。この運動は1963年[1]春に行なわれ、黒人の若者と白人側の市当局との対立を広く知らしめることになり、最終的には市政府に差別的な法律を変えさせる圧力となった。キング牧師率いる運動家らは、不公正と考えられる法律に対して、非暴力による直接行動の戦術を用いた。
このバスがバーミングハムのターミナルに着いたときには、もうKKKのメンバーを含む40人の暴徒が、プラットフォームに近い歩道に列をなして押しかけていた。「雄牛Bull」のコナーと呼ばれる白人優越主義者のユージン・T・コナー署長(セオフィラス・ユージーン“ブル”・コナー(Theophilus Eugene"Bull" Connor 1897年7月11日 - 1973年3月10日)は、アメリカ合衆国・アラバマ州バーミングハムの警察署長、公安委員長。1960年代、同州における公民権運動を徹底的に弾圧した事で有名。・・・この様子はマスコミによって全米はもとより世界中に配信され、大きな衝撃を与えると共に激しい非難が沸き起こり、当時のジョン・F・ケネディ政権による連邦政府の介入を招くきっかけとなり、コナーは失職に追い込まれた)のバーミングハム市警本部はそこからわずか二ブロック程のところにあり、そのうえ、KKKとも陰で連絡していたコナーは間違いなく騒動が起こることを事前に知らされていたが、あたりに警官の姿はただの1人も見られなかった。「乗客たち」が下車して待合室の方に歩きだすと、鉄パイプをかついだ若者たちが、そのあとにつづいた。「乗客たち」は整然と白人用の待合室に入り、真っ直ぐにランチ・カウンターに向かった。襲撃が始まったのは、このときである。「乗客たち」のこの行動に激昂した暴徒たちは、かれらを路地裏に追いたて、あらんかぎりの暴行を加えたが、とくにジェームズ・ベックには6人の男が一緒になって鉄パイプで襲いかかった。気を失い、血まみれの状態で路上に倒れていたベックは、病院で頭の傷を53針も縫わねばならなかった。警官が現場にやってきたのは、すでに暴徒たちが車で逃げ去ったあとのことである。
コナー署長は、この問題で質問を受けたとき、「警察の保護が間に合わなかったのは、部下の殆どが、ちょうど母の日のため、そのとき出払っていたからだThe reason police protection didn't arrive in time was that most of my men had gone out at the time, just in time for Mother's Day」と、臆面もなく答えた。また、アラバマ州のジョン・パターソン知事(John Malcolm Patterson (September 27, 1921 – June 4, 2021)Джон Малкольм Паттерсон was an American politician)は、事件の直前、「他人の家のゴミ箱をひっくり返すような扇動者を守る義務は、私には全くない。よその土地にきて騒動を起こすつもりなら、初めから助けなど期待すべきではない。かれらは警察の保護を求めるくせに、いつも警察を批判ばかりしている。そんな愚者の安全は保障できないI have absolutely no obligation to protect agitators who overturn other people's trash cans. If you're going to come to another land and cause trouble, don't expect help in the first place. They always criticize the police even though they want the protection of the police. I can't guarantee the safety of such fools」と、公言していた。
こうした困難な状況のもとでも、「自由のための乗車運動」の推進者たちは、新たな陣立てをして、翌日の午後バーミングハムから州都モントゴメリーへ出発する準備を整えていた。しかし、かれらを乗せてくれるバスの運転手を見つけることは、もはや不可能に近かった。それでも、「乗客たち」はプラットホームでバスを待ちつづけた。そのあいだにも、暴徒たちは再びかれらのまわりに集まってきた。そこで、「乗客たち」は白人用の待合室に入って、坐り込みをすることにした。おし迫る危険をひしひしと身に感じながら、彼らは、ついにバス旅行の続行を断念し、司法省が用意した飛行機に乗ってニューオーリンズへ行き、その地で5月17日に七年前のその日、最高裁判所が下したあの歴史的な判決(公立学校での黒人と白人の隔離を違憲とした1954年の「ブラウン判決」を記念して開かれる大衆集会に参加することに計画の変更をせざるを得ない仕儀にたちいたった。
その日の夜遅く、「乗客たち」を乗せてバーミングハムを飛び立った飛行機は、真夜中にニューオーリンズに着陸した。COREによって始められた「自由のための乗車運動」は、その第一幕を閉じた。
だが、この開幕のベルが、同時に第二幕を告げるベルになった。この間の非常事態の推移を注意深く見守っていたナッシュビルとアトランタのSNCCの指導者たちは、きゅうきょ互いに電話連絡をとりながら、今ここでこの運動をやめれば、それは非暴力が暴力に屈したことになるので、「自由のための乗車運動」は自分たちの手で引き継ぎ、非暴力的抵抗の威厳を示しつづけなければならないとの結論に達した。学生たちは、ただちに行動を開始した。5月20日の朝、モントゴメリーへの旅立ちのためバーミングハムのバス・ターミナルに集結した新しい「乗客たち」は、坐り込み運動の女性闘士だったダイアン・ナッシュが率いるナッシュヴィルからの17人を中核にして、これにアトランタから飛んできたやはり女性活動家のルビー・ドリス・スミスや、ジョン・ルイス、ヘンリー・トマスを含む第一次「乗客たち」から数人を加え、総勢21人によって編成されていた。

①Diane Judith Nash (born May 15, 1938) is an American civil rights activist, and a leader and strategist of the student wing of the Civil Rights Movement

②Ruby Doris Smith-Robinson (April 25, 1942 – October 7, 1967) worked with the Student Nonviolent Coordinating Committee (SNCC)

③Henry "Hank" James Thomas (born August 29, 1941) is an African American civil rights activist and entrepreneur
この頃になると、ケネディ政権も、なにかしらの手段を講じないわけにはいかなくなった。ロバート・F・ケネディRobert Francis Kennedy司法長官は、その前日、大統領と相談して、司法長官補のジョン・シーゲンサラーJohn Seigenthalerを、きゅうきょ特使としてモントゴメリーへ派遣した。彼は、現時点では、連邦政府が介入するつもりはないので、アラバマ州が州の責任において早急に事態の改善を図るよう、パターソン知事に強く要望したが、知事はあいまいな態度をとりつづけた。しかし、シーゲンサラー特使の熱意に心を打たれた州保安局長のフロイド・マンFloyd Mannが、知事に代って法と秩序を維持し、新しい「乗客たち」を守ることを約束した。こうして、バスはようやくバーミングハムを出発し、昼頃モントゴメリーに到着した。
そのときの情景について、ルビー・ドリス・スミスは「私たちのバスのまわりには沢山の警察の車がつき添っていて、頭上にはヘリコプターも舞っていました。ところが、バスがモントゴメリーの市内に入った瞬間、それらはすべて消え失せてしまいました。あたりには一人の警官の姿も見られませんでしたThere were a lot of police cars escorting our bus around and a helicopter hovering overhead. But when the bus entered the city of Montgomery, they all disappeared. I didn't see a single policeman around」と述べ、またジョン・ルイスも、「モントゴメリーに近づくにつれ、ヘリコプターもパトカーも消えて、バス・ターミナルに着いたときは、なんとも不思議な雰囲気につつまれていました。妙に静かで、やけに平和でした。タクシーもいなければ、他のバスも見当たりませんでした。人の気配さえ感じられなかったのですAs we approached Montgomery, the helicopters and police cars disappeared, and when we arrived at the bus terminal, there was a strange atmosphere. It was strangely quiet and awfully peaceful. There were no taxis, no other buses in sight. I couldn't even feel the presence of people」と語っている。

最初に車外に降り立ったのは、白人学生のジェームズ・ツワーグ(James Zwerg (born November 28, 1939) is an American retired minister who was involved with the Freedom Riders in the early 1960s)だった。彼の姿を見た数人の白人女性が「黒ん坊にいかれたドブ鼠め、やっちまえ!Do it, you nigger-crazed ditch mouse!」と金切り声をあげて暴徒たちをけしかけた。すると激昂した若者の一団がツワーグに襲いかかり、拳骨と棍棒で彼を叩き伏せ、血だらけのまま歩道に投げだした。彼がやっと起き上がると、今度は他の暴徒たちがアスファルトの道路に彼の顔を押しつけた。しかし、ツワーグは、ただの一度も自分の手を振りあげることなく、もうろうとしていく意識の中で最後まで非暴力的抵抗を貫きとおした。二時間以上も路上に放置されたあと、やっと救急車で病院に収容されたツワーグは、満身創痍のからだをベッドに横たえたまま、記者の質問に、「ぼくたちは、自由のための乗車運動をつづける。たとえ、ぼくは行けなくても、仲間の乗客たちが必ず目的地のニューオーリンズまで行く。ぼくたちは、この運動に命をかけている。人種差別は、どんなことがあっても廃止されるべきだWe continue to ride for freedom. Even if I can't make it, my fellow passengers always go to their destination, New Orleans. We are committed to this movement. Racism should be abolished at all costs」と、しっかりした口調で答えた。
ジョン・ルイスをはじめ、多くの「乗客たち」も暴漢の殴打を浴びたが、この流血の惨事に巻き込まれたのは、かれらだけではなかった。『タイム・ライブ・ニュースTimesLIVE』記者のノーマン・リッターNorman Ritterは、別の新聞記者を助けようとしたとき、暴徒に殴られた。そればかりか、そのときこの暴動の現場に居合わせていたシーゲンサラー特使も、負傷者を自分の車に乗せようとして、いきなり後ろから殴られ、意識を失って路上に倒れた。やがて警官の一隊が到着し、彼が警察の車で病院に運ばれたのは、それから25分後のことである。その頃には、暴徒の群れは、もう3000人以上に膨れあがっていた。警官がきてからも、暴力行為はおさまらなかった。パターソン知事に代って、法と秩序の維持を約束した州公安局長のフロイド・マンの努力は、人種主義者の知事自身によって完全に踏みにじられたのだ。そして、これらのなまなましい惨状は、たちまち合衆国内だけでなく、広く世界の注目を集めた。
そこで、ケネディ大統領は声明を出して、この情勢を「最も深い懸念を呼び起こすもの」と述べ、アラバマ州当局がこれ以上の暴動の発生を阻止し、早急に事態の収拾を図るため万全の措置を講じるよう強く要望するとともに、連邦政府も全力をあげて「その責務を果す」ことを、全国民に約束した。ロバート・ケネディ司法長官は、ただちに600人の連邦保安官とFBIの特別班を現地に派遣し、KKKなどの反黒人組織の取締りにあたらせた。
そんな中で、一応の傷の手当を受けて一夜を過ごした「乗客たち」は、翌日の5月21日の夕方から、ラルフ・アバナシー牧師の第一バプティスト教会で、1200人を超す黒人と少数の白人によって開かれた大衆集会に出席した。「自由のための乗車運動」を支援し、今回の人権暴動を厳しく糾弾したこの夜の大集会には、著名な黒人牧師たちも多数参加した。「乗客たち」は、互いに手を取り合い、「さあ、もう一度みんなで!Come on, let's do it again!」、「そして自由を!And freedom!」と誓い合った。教会の外には、またもや白人の暴徒たちが集まって、教会の庭に空瓶や石などを投げ始めたが、連邦保安官が警護にあたっていたので、大きな惨事にはいたらなかった。
学生たちは、あくまで「自由のための乗車運動」を続行する計画を、着々とおし進めていた。かれらがモントゴメリーに滞在しているあいだに、ナッシュビルから、アトランタから、ニューオーリンズから、そしてワシントンやニューヨークからも続々と新手の学生たちが到着した。連邦政府の強い圧力を受けて、今度はアラバマ州も、ミシシッピ州も、連邦保安官とともに、かれらを警護することになった。こうして、5月24日早朝、総勢27人からなる第三次「乗客たち」は、連邦保安官が道路の両側を固める中を、二台のバスに分乗し、その第一陣(11人の黒人と一人の白人)が、ミシシッピ州のジャクソンJacksonに向かってモントゴメリーを出発した。このジャクソンへの旅は、まるで軍事行動のようなものものしさで、報道関係者のほかにアラバマ州兵が一緒にバスに乗り込み、そのうちの幾人かは銃剣さえつけていた。空からは三機の飛行機と二台のヘリコプターが監視し、道路ではパトカーがけたたましいサイレンを鳴らしながら、頻繁に往き来していた。やがて州を越えてミシシッピ州に入ると、警護はミシシッピ州兵に引き継がれた。
バスがジャクソン市内に近づくと、「乗客たち」のあいだから歌声が湧き起こった。
長距離バスの前に 腰かけて ジャクソンの町まで やってきたI sat down in front of the long-distance bus and came to the town of Jackson ハレルヤ 旅は続く ハレルヤ 最高さ 自由の幹線を 旅するんだHallelujah The journey continues Hallelujah is the best Travel along the trunk line of freedom 
バスは、ついにジャクソンのターミナルに到着した。「乗客たち」は、元気にプラットホームに降り立った。ところが、かれらが揃って白人用の待合室に入ろうとしたとき、警備にあたっていた警官たちに全員その場で逮捕されてしまった。理由は、治安妨害と警官の命令にたいする不服従ということだった。
ここでは、暴漢ではなく、多くの警官が「乗客たち」を捕えるために待ち構えていた。暴漢たちに暴動を起こさせない代りに、「乗客たち」が到着すれば警官がかれらを逮捕するとの「紳士協定Gentlemen's agreement」が、ミシシッピ州選出のジェームズ・D・イーストランド上院議員Senator James D. Eastlundとケネディ司法長官とのあいだで、事前に結ばれていたからである。これが、白人優越主義者のイーストランド上院議員やロス・R・バーネット知事(Ross Robert Barnett (January 22, 1898 – November 6, 1987) was the 53rd governor of Mississippi from 1960 to 1964. He was a Southern Democrat who supported racial segregation)を権力の座に擁するミシシッピ州のやり方だった。そのバーネットは、「黒人は、われわれ白人とはちがう。神が、黒人を罰するために、かれらを白人とはちがう姿におつくりになったのだBlack people are different from us white people. God made them different from the whites to punish the blacks」と公言して憚らなかった人物である。
あとから到着したジェームズ・ファーマーを含む第二陣の「乗客たち」も、第一陣の者たちと全く同様の「出迎え」を受けた。逮捕された「乗客たち」全員が有罪を宣告され、執行猶予二ヶ月の刑もしくは200ドルの罰金を課せられた。かれらは、罰金を払うより監獄に入ることを望んだので、裁判所の筋向いのハインズ地区監獄に連行された。
こうして、二度の引継ぎによって行なわれた「自由のための乗車運動」は、当初の計画どおり最終目的地のニューオーリンズには到達できなかったが、同じような運動は澎湃として南部各地で展開され、夏の終り頃までに1000人以上が命がけでこの闘いに参加し、監獄はこれらの人びとの群れで満ちあふれた。かれらは、その後も執拗に活動をつづけ、司法省も努力を重ねた結果、州際交通委員会は、9月22日、州境を越えて運行する車輌は、「人種、肌の色、信条、出身国のちがいによって座席を区別してはならずSeats shall not be differentiated based on race, color, creed or national origin」、また、これらの車輌は、「人種差別をしているターミナルを使うことはできないYou can't use terminals that are racist」との決定を下し、州際交通における人種隔離は大幅に廃止されていった。そして、1962年の暮れには、COREは、「自由のための乗車運動」は勝利したと宣言した。

ワシントン大行進
1963年は、戦後黒人解放運動における頂点であり、その歴史に最も輝かしい一頁を刻み込んだ年である。キング牧師に象徴される非暴力的直接行動を基軸にした公民権運動は、もうそれ以上の開花を望みえないまで最盛期に達していた。
そんな中で、ますます頑迷さを増して狂暴化してきた南部の人種主義勢力にたいし、果敢な闘いを挑んできた黒人の自己解放闘争は、新しい時代精神に目覚めた多くの白人をその陣列に加えながら大きく前進し、草の根からの民衆運動としての性格をいっそう強めるとともに、暴力には暴力をもって対決する積極的な実力行使の兆しを示し始め、また闘争の場も南部という従来の地域枠を越えて全国的規模で拡大していった。
リンカン大統領が奴隷解放宣言を公布してから、ちょうど100年目にあたる、この年の夏ー8月26日、首都ワシントンには、おびただしい人の波が、「1963年までに完全解放を!Complete liberation by 1963!」との標語のもとに、うしおのように押しよせた。大部分は黒人だったが、白人も少なくなかった。老いも若きも、男も女も、職にあるものも失業中のものも、あらゆる階層のあらゆる人びとが、この地にやってきた。林立するプラカードには、黒人たちの切実な願いをこめたいくつもの要求が掲げられていた。「一切の黒人差別を、ただちに廃止せよ!Abolish all black discrimination now!」「今こそ、自由を!Now is the time to be free!」「官憲の残虐行為を、即刻やめよ!Stop the brutality of the authorities immediately!」「白人と平等の賃金を、今すぐ!Equal pay for whites, NOW!」「新公民権法の即時無条件成立を!Pass the new civil rights law immediately and unconditionally!」等々・・・。「今すぐ!」という言葉が、まず目にとまった。集合予定時刻の午前10時までに、ポトマック川畔Potomac Riverの緑地帯を目指して続々と集まってきた人びとの群れは、その中心部に聳え立つ高さ555フィートのワシントン記念塔の周辺を埋めつくし、「われら、うち勝たんWe shall overcome」「力強いとりでMighty fortress」「おお、自由をOh Freedom」などの歌声が、あたり一面に高らかにひびきわたっていた。
おお 自由を おお 自由を おお自由を われらに 奴隷たらんより 死して 葬られ 神のみもとで 自由とならんRather than being slaves to us, die and be buried and be free under God's presence
この「おお、自由を」は、この年の4月から5月にかけて「人種主義アメリカの首都」とか、KKKなどの爆破事件が多いことから「ボムミングハム」(Bombingham)ともいわれたバーミングハムで、シャトルワース牧師の要請に応じたキング牧師の指導のもとに、市当局にたいして黒人たちが展開した熾烈な差別撤廃闘争の頃から、急速に各地の大衆集会や示威行進でうたわれだした歌である。対決を意味するConfrontationの頭文字のCをとって「C計画運動」と呼ばれたこの闘いを、白人優越主義者のジョージ・ウォーレス知事(ジョージ・コーレイ・ウォレス・ジュニア(英語: George Corley Wallace Jr.、1919年8月25日 - 1998年9月13日)Джордж Корли Уоллес-младший は、アメリカ合衆国の政治家・・・人種隔離政策や労働者の権利拡大を強く訴え、圧倒的得票で1962年にアラバマ州知事に就任する「今ここで人種隔離を!明日も人種隔離を!永遠に人種隔離を!I say segregation now, segregation tomorrow, segregation forever」)の後楯を得たコナー署長の率いる警官隊は獰猛な警察犬を使い、また消防隊は強力な高圧ホースで放水して弾圧し、小・中学生の子どもを含む大勢の黒人を大量逮捕しては、スクールバスまで動員してつぎつぎに拘置所に連行し、その数は数千人にもおよんだ。また、キング牧師自身も逮捕されただけでなく、彼の弟(A・D・キング)の家やキング牧師が泊まっていたSCLCの闘争本部のガストン・モーテルGaston Motelには爆弾が投げ込まれ、激昂した黒人群衆はついに暴力による対決にまで発展した状況に追い込まれた。これらの模様の一部始終は、連日、テレビや新聞によって合衆国のみならず、広く世界に報じられ、海外からも多くの批判と抗議が寄せられた。

*Alfred Daniel Williams King (July 30, 1930 – July 21, 1969) was an American Baptist minister and civil rights activist. He was the younger brother of Martin Luther King Jr.
こうした動向を注意深く見守っていたケネディ大統領は、5月12日、ようやく重い腰をあげ、3000人の連邦軍をバーミンガムに派遣するとともに、アラバマ州兵を連邦軍に編入して事態の収拾にあたらせた。そして、ついに6月11日、ホワイトハウスからテレビを通じて、不満が爆発するのは自治体に問題があるとの声明を出さざるを得なくなり、その中で「この危機は弾圧を旨とした警察行為によって鎮圧することなどできません。今こそ連邦議会、諸君の州および市の議会、なかでも、われわれの日常生活のすべてにおいて行動すべき時が到来したのですThis crisis cannot be quelled by police action aimed at repression. The time has come for action in Congress, in your state and city legislatures, and above all in all of our daily lives」と述べ、人種差別をなくすために、早急に新しい公民権法案を議会に提出することを全国民に約束し、8日後の19日にこれを履行したのである。
このバーミングハム闘争をはじめ、サヴァナ(ジョージア州)、ケンブリッジ(メリーランド州)、グリーンウッド(ミシシッピ州)、ダンヴィル(ヴァージニア州)などの南部各地から、さらにメイソン=ディクソン線を越えてニューヨーク、デトロイト、シカゴ、ボストンなどの北部の大都市にまで広がっていた広範な人種差別撤廃闘争の急激な高まりを受けて、この日、全国各地からワシントンに参集した人びとの数は、主催者側の期待を上廻り、20万人をはるかに凌駕した。そのうち、四万人ないし五万人が白人だったと推定されている。
正式には『March on Washington for Jobs and Freedom仕事と自由のためのワシントン行進Марш на Вашингтон за рабочие места и свободу』と呼ばれるこの集会の総指揮官で、労働運動の指導者として知られていた寝台車ポーター組合会長のA・フィリップ・ランドルフA. Philip Randolphがいみじくも述べているように、それは、まさに「この国の歴史が始まって以来の最大のデモンストレーションThe biggest demonstration since the history of this country began」となった。1941年にもこれと同じような大集会を計画し、その後もその実現に努力してきた彼は、ワシントン大行進の最初の提唱者としての感慨をかくしきれず、こうも言った。「私の夢は成し遂げられたのだMy dream has come true」と。
道程は一マイル程の短い距離であったが、行進参加者たちは、この日を前にして、その前日(8月27日)、遠くアフリカのガーナ(ガーナ共和国Republic of Ghana(ガーナきょうわこく)Респу́блика Га́на、通称ガーナは、西アフリカにある共和制国家)首都アクラ(アクラ(英語: Accra [əˈkrɑː]; アカン語: NkranАккраは、アフリカ西部ギニア湾に面したガーナの首都)で、その生涯を人種差別撤廃運動につくし、95歳の高齢を全うして死去した「アメリカ近代黒人解放運動の父Father of the modern black liberation movement in America」W・E・B・デュボイスの霊に黙禱を捧げたあと、リフレクティング・プールReflecting Poolの両側をふたてに分かれ、リンカン記念堂に向かって、真夏の炎天下を力強い足取りで歩みつづけた。一方の列の先頭には、ランドルフをはじめ著名な黒人指導者たちが立ち、他方の列の最前列には、ケネディ大統領が全国民にたいして新しい公民権法案を議会に提出することを約束した翌日の6月12日、ミシシッピ州のジャクソンの自宅前で銃弾を浴びて射殺されたNAACPのジャクソン支部の書記メドガー・エヴァースの未亡人の悲痛な面持ちも見うけられた。

*メドガー・エヴァース(Medgar Evers、1925年7月2日 - 1963年6月12日)Медгар Уайли Эверсは、アフリカ系アメリカ人の公民権運動家である。NAACP(全米黒人地位向上協会)ミシシッピ州支部委員。1963年6月12日に白人優越主義組織白人市民会議Citizens' Councilsのバイロン・デ・ラ・ベックウィズByron De La Beckwithに暗殺された。
やがて午後二時、ランドルフ議長の開会の言葉とともに、いよいよ、この日の集会記念演説が始まった。全米自動車労組会長で、AFL=CIOの副会長でもあったウォールター・ルーサー(Walter Philip Reuther (/ˈruːθər/; September 1, 1907 – May 9, 1970)Уолтер Філіп Ройтер was an American leader of organized labor and civil rights activist)は、「長年にわたって権利を奪われてきたアメリカ黒人の耐忍は終った。かれらは、もはや屈辱や冷遇や野蛮な取り扱いを容認しないと宣言した。ケネディ大統領が提出した新公民権法案が今すぐ制定されるよう、われわれはアメリカ人の道義的良心を喚起し、議会にたいして圧力をかけねばならぬ。市民的諸権利と機会均等の問題は、党派的な政治を超えた問題である。それは、まさに自由社会における人間対人間関係の道徳的問題だからである。なんびとにたいしても自由が否定されているかぎりは、私の自由も危険にさらされているのだ。バーミングハムの自由を否定しつづけるかぎり、アメリカ民主主義はベルリンの自由を主張できないThe patience of black Americans disenfranchised for many years is over. They have declared that they will no longer tolerate humiliation, ill-treatment and barbaric treatment. We must summon the moral conscience of the American people and press Congress to enact the new civil rights bill President Kennedy has introduced. Issues of civil rights and equal opportunities transcend partisan politics. Because it is precisely the moral question of human-to-human relations in a free society. As long as my liberty is denied to everyone, my liberty is in danger. American democracy cannot claim Berlin's freedom as long as it continues to deny Birmingham's freedom」と訴えたが、その彼は、同時にAFL=CIOが所属組合の個別参加は認めたものの、AFL=CIOとしてこの歴史的大行進に参加する承認決議をしなかったいきさつを明らかにし、労働組合の中に今なお強固に残る黒人差別の一端を、あえて隠そうとはしなかった。
*アメリカ労働総同盟・産業別組合会議(アメリカろうどうそうどうめい・さんぎょうべつくみあいかいぎ、英語:American Federation of Labor and Congress of Industrial Organizations、アメリカン・フェデレーション・オブ・レーバー・アンド・コングレス・オブ・インダストリアル・オーガニゼーションズ)Американская федерация труда - Конгресс производственных профсоюзов (AFL-CIO) は、アメリカ合衆国の労働組合のナショナルセンター。
また、NAACPのロイ・ウィンキンスは、「大統領の提案は、きわめて穏当なものばかりである。したがって、そのどのひとつでも骨抜きにされたり、削除されるようなことになれば、あとはもう砂糖水も同然である。新公民権法案のなかみは、なんとしても強化されねばならぬ、大統領は、われわれとともに闘うべきであるThe President's proposals are all very modest. Therefore, if any one of them is watered down or deleted, the rest is nothing more than sugar water. New civil rights bill must be strengthened at all costs, president should fight with us」と、ケネディ大統領が勇気をもって彼の公民権法案を迅速かつ公正に成立させるよう強く要求した。NULのホイットニー・ヤングも、「すべてのアメリカ人が第一級市民としての諸権利を獲得するという目標に向かって、今ほど力強く団結したことはないWe have never been more united than we are now toward the goal that all Americans have the rights of first-class citizens」と述べて喝采を博した。

①Roy Ottoway Wilkins (August 30, 1901 – September 8, 1981) was a prominent activist in the Civil Rights Movement in the United States from the 1930s to the 1970s.

②Whitney Moore Young Jr. (July 31, 1921 – March 11, 1971) was an American civil rights leader.
折から獄中にいたCOREのジェームズ・フォーマーからは、次のようなメッセージが寄せられた。「私は、この偉大な日に、みなさんと一緒にワシントンに行きたいと心の底から願っていた。今、ここに投獄されている私の兄弟姉妹も、みな同じ気持である。かれらが、何故、こんなところに閉じ込められなければならなかったのか?その罪状、それは、かれらが、今すぐ自由をと強く要求して闘ったからだFrom the bottom of my heart, I wanted to go to Washington with you on this great day. My brothers and sisters who are now imprisoned here feel the same way. Why were they locked up in a place like this? The crime, it's because they fought for their freedom now」と、黒人歌手のマヘリア・ジャクソンが立ってゴスペル・ソングを美しい声で歌い、エヴァース未亡人が「夫の遺志をいかそうI will carry out my husband's will」と呼びかけたときには、感動のあまり頬に涙するのも見うけられた。

①James Leonard Farmer Jr. (January 12, 1920 – July 9, 1999) was an American civil rights activist and leader in the Civil Rights Movement "who pushed for nonviolent protest to dismantle segregation, and served alongside Martin Luther King Jr."

②マヘリア・ジャクソン(Mahalia Jackson, 1911年10月26日 - 1972年1月27日)Махалия Джексонは、アフリカ系アメリカ人の女性ゴスペル歌手。世界で最も影響力のあるゴスペル歌手の一人として「ゴスペルの女王」[1][2]と呼ばれ、またキング牧師らと共に、その歌と活動により当時の公民権活動に貢献した。

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