日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

American black historyアメリカ黒人の歴史История негра в Америке/Sozo Honda本田 創造Создано Хондой☆African-Americanアフリカ系アメリカ人Афроамерика́нцы☭2022/12/11/CANADA🍁Антид Ото⑥


②Nat Turner's Rebellion, historically known as the Southampton Insurrection, was a rebellion of enslaved Virginians that took place in Southampton County, Virginia, in August 1831.[1] Led by Nat Turner, the rebels killed between 55 and 65 White people, making it the deadliest slave revolt in U.S. history.

③ジョン・ブラウン(John Brown、1800年5月9日 - 1859年12月2日)Джон Браунは、アメリカの奴隷制度廃止運動家。
そのジョン・ブラウンは、1800年にコネティカット州のトリントンTorringtonで生まれた。両親は敬虔な清教徒だった。「彼が如何に卓越した白人の奴隷制廃止主義者だったかは、黒人指導者としてのフレデリック・ダグラスやハリエット・タブマンに匹敵し、このことについて論議の余地は殆どないHow outstanding a white abolitionist he was, on a par with black leaders Frederick Douglass and Harriet Tubman, leaves little room for debate」と、タブマンの伝記作家のアール・コンラッドEarl Conradは書いている。両親と同様、熱心な清教徒だったブラウンは、初めのうちは奴隷制度の残忍さを憎みながらも、暴力によるその廃止には大きな抵抗を感じていた。だが、ナット・ターナーの暴動は、彼の心境に大きな変化をもたらした。地下鉄道にも関係していたブラウンは、つづいてカンザスの内戦によって、はっきりと暴力闘争の必要を身をもって感じとったのである。
*Bleeding Kansas, Bloody Kansas, or the Border War was a series of violent civil confrontations in Kansas Territory, and to a lesser extent in western Missouri, between 1854 and 1859. It emerged from a political and ideological debate over the legality of slavery in the proposed state of Kansas.
この戦争で奴隷制反対闘争の強力な指導者のひとりになったブラウンは、1857年についに奴隷を暴動に決起させるための準備にとりかかった。一般的な兵学のほかに、彼は山岳地帯でのパルチザン闘争、とくにハイチの奴隷解放戦争の教訓を丹念に研究した。ジョン・ブラウンの蜂起として知られる1859年10月のあのハーパーズフェリーの襲撃は、こうして起こった。ハーパーズ・フェリーは、ヴァージニア州北西部の州境に近い小さな町で、連邦兵器庫の所在地のひとつだった。
*John Brown's raid on Harpers Ferry[nb 1] was an effort by abolitionist John Brown, from October 16 to 18, 1859, to initiate a slave revolt in Southern states by taking over the United States arsenal at Harpers Ferry, Virginia (since 1863, West Virginia). It has been called the dress rehearsal for, or Tragic Prelude to the Civil War.
ブラウンは自分の息子3人を含む、白人と黒人あわせて22人からなる少人数で、この地を奴隷がいっせいに蜂起することを期待していたのである。しかし、そのことにかんするかぎり、彼の計画は失敗に帰した。ブラウンと彼の仲間たちは、圧倒的多数の軍隊のまえに衆寡敵せず、彼の2人の息子は戦死し、ブラウン自身も重傷を負って捕えられた。結局、彼の蜂起は失敗したが、「私、ジョン・ブラウンは、罪深いこの国の罪業(奴隷制度)は流血によってのみ洗い清めることができるのだと、今こそはっきりと確信している。これまで、私は、多くの血を流すことなくそれができるだろうと考えて自分を慰めてきたが、それは誤りだったI, John Brown, am now quite certain that the crimes of this guilty land will never be purged away but with blood. I had, as I now think, vainly flattered myself that without very much bloodshed it might be done」と、毅然として絞首台に立った彼の英雄的行為は、たちまちアメリカ全土を震撼させたばかりでなく、遠く海外にまで反響を呼び起こした。

北部の各地で大衆的な追悼集会が開催され、ソローHenry David ThoreauやエマソンRalph Waldo Emersonやホイッティアなどの著名な知識人も心からブラウンの死を悼んだが、フランスの作家のヴィクトル・ユゴーVictor-Marie Hugoが「奴隷制度は如何なるものも消滅する。南部が殺害したのは、ジョン・ブラウンではなくて奴隷制度であったAny form of slavery will disappear. It wasn't John Brown that the South killed, it was slavery」と、いみじくも予言したように、それから1年数ヵ月後には、北部の農民や労働者たちは、「ジョン・ブラウンの遺骸は墓の下に朽ちるとも、彼の魂は進軍するJohn Brown's body may rot beneath the grave, but his soul marches on」と歌いながら、大挙して奴隷制打倒の戦争に立ち上がっていたのである。

奴隷制廃止運動の歴史的意義
奴隷制廃止運動は、これまでみてきたような地下鉄道による奴隷の逃亡援助や奴隷暴動との関連においてのみ意義があったのではない。本質的には中産階級的な急進主義に立脚していたとはいえ、この運動は黒人、農民、労働者、婦人、ならびに進歩的知識人の統一的な民主主義運動の中核であった。運動の内部における立場の相違や見解の多様性にもかかわらず、この運動は、いっそう広範な奴隷制反対勢力を結集していったところに、その大きな歴史的意義があった。
このことは、現実政治の局面では既存政党の再編成の地ならしをするとともに、その中から奴隷制反対政党を誕生させるというかたちをとってあらわれた。事実、1840年にアメリカ奴隷制反対協会が分裂すると、奴隷制廃止運動を政治運動と結びつけようとした人びとは、ガリソンの非政治主義、非妥協主義(ガリソンは妥協をともないがちな政治的方法にあくまでも反対だった)、道徳的説得主義と訣別してジェームズ・バーニーJames Barneyを中心に自由党Liberal Partyを結成し、この年の大統領選挙にバーニーを立候補させたほどであった。
1843年のバッファロBuffaloにおける黒人集会は自由党を支持し、ダグラスはじめ多くの黒人奴隷制廃止主義者が同党に入党した。自由党は、1844年にもバーニーを大統領選挙戦に出馬させたが、そのときの綱領で首都ワシントンの奴隷制廃止と準州への奴隷制度の拡張反対をはっきりと要求し、たとえ如何なるところでも奴隷制度は自然権に反すると表明した。
一方、テキサスの奪取とMexican-American Warメキシコ戦争Intervención estadounidense en Méxicoに反対する闘いの中から、1846年には、いわゆる「ウィルモット建議」が生まれたが、それは戦争の結果メキシコから奪い取る如何なる地域においても、奴隷制度の禁止を要求したものだった。この「ウィルモット建議」は既存政党の内部に大きな衝撃を与え、これをめぐってホイッグ党では「良心的なホイッグ」と「綿のホイッグ」とに分かれ、さらに民主党のおいても、たとえばニューヨークの組織では奴隷制度に反対する「バーンバーナー派*」とあくまでも奴隷制度を擁護する「ハンカー派**」との対立となってあらわれ、その他の各地でも奴隷制度に反対する民主党員(「自由土地民主党員」と呼ばれた)がでてきた。やがて1848年になると、これらの「良心的なホイッグ」、「バーンバーナー派」、「自由土地民主党員」とともに、奴隷制廃止主義者の自由党員が自由土地党を結成した。この党のスローガンは、「自由な土地、自由な労働、自由な人間!Free land, free labor, free men!」だった。
①アメリカ史におけるホイッグ党(ホイッグとう、英語: Whig Party[1])Партія вігів (США)とは、アメリカ合衆国にかつて存在した政党②ウィルモット条項(ウィルモットじょうこうEnmienda Wilmot、英: Wilmot Proviso)は、19世紀半ば、米墨戦争の結果としてのメキシコ割譲地として知られた地域を含み、将来的にメキシコから獲得した領土では奴隷制を禁じるという法案だったが、成立しなかったものである③自由土地党(じゆうとちとう、英: Free Soil Party)«Партия свободной земли», «Фрисойлеры» は、19世紀半ばのアメリカ合衆国で短命に終わった政党である。
Barnburners、-ねずみを追いだすために自分たちの納屋を焼き払うということから、民主党内の奴隷支持派が奴隷制反対派を組織の破壊者と非難して、こう呼んだ。
**Hunkers-語源は明らかでないが、官職をもしくはつまり渇望するというほどの意味。
こうして、1850年の逃亡奴隷取締法と、54年カンザス=ネブラスカ法に反対する闘いの中から、より大きな奴隷制反対政党として共和党が誕生(現在の共和党の始まり)してくることになる。1854年にウィスコンシン州のリボンで新党結成への強力な第一歩が踏み出され、やがてミシガン州のジャクソンの樫の木の下で開かれた大会で、共和党という政党名が採用された。この共和党は、1856年の大統領選挙には、はやくもジョン・フレモントJohn Charles Frémontを候補者に立てて、敗れたとはいえ多くの票を獲得した。そのときの要求の主なるものは、「一フィートの新しい土地も奴隷制にあけわたすな。国外での海賊的政策をやめよ。奴隷貿易の再開を非難せよ、自営農地法を制定せよ!Don't give a foot of new land to slavery. End piracy abroad. Condemn the resumption of the slave trade, enact the self-employed farm land law!」であった。
①カンザス・ネブラスカ法(英: Kansas-Nebraska ActЗакон Канзас-Небраскаは、1854年にアメリカ合衆国でカンザス準州とネブラスカ準州を創設して新しい土地を開放し、1820年のミズーリ妥協を撤廃し、2つの準州開拓者達がその領域内で奴隷制を認めるかどうかは自分達で決めることを認めた法律である②共和党(きょうわとう、英語: Republican PartyРеспубликанская партия (США)は、アメリカ合衆国の政党。民主党Democratic Partyと並んで、現代のアメリカの二大政党である。GOP(Grand Old Party)とも呼ばれる。党のイメージカラーは赤で、共和党が強い州を「赤い州(Red State)」と呼ぶ。

*南北戦争(なんぼくせんそう、英語: American Civil WarГромадянська війна в СШАは、1861年から1865年にかけて[12]、北部のアメリカ合衆国United States of America(USA)と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国Confederate States of America(CSA)の間で行われた内戦である。奴隷制存続を主張するミシシッピ州やフロリダ州など南部11州が合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまったその他の北部23州との間で戦争となった美國内戰남북 전쟁Der Sezessionskrieg oder Amerikanische Bürgerkrieg

①Dred Scott (c. 1799 – September 17, 1858)Дред Скотт was an enslaved African American man who, along with his wife, Harriet, unsuccessfully sued for freedom for themselves and their two daughters in the Dred Scott v. Sandford case of 1857, popularly known as the "Dred Scott decision".
5 南北戦争
ドレット・スコット判決
アメリカ合衆国の中間選挙は、次の大統領選挙戦をうらなう意味で、いつも大きな政治的関心が寄せられてきた。だが、1858年の中間選挙は、そのような一般的な政治的意味をはるかに超えて、もっと決定的な歴史的意義をこの国の歴史に記すことになった。
結成後、四年をけみしたにすぎない若い共和党が堂々と民主党に挑戦し、下院においては指導権を掌握することになって、もはやゆるぎもしない大政党に成長することができたというだけではない。このときの選挙戦を通じて、奴隷制問題が紛れもなくこの国の運命を賭した「第一の問題」であることを、広く内外に告知することになったからである。
*民主党(みんしゅとう、英語:Democratic PartyДемократическая партия (США)は、アメリカ合衆国の政党。共和党と並んで、現代のアメリカの二大政党である。党のイメージカラーは青で、民主党が強い州を「青い州(
Blue State)」と呼ぶ。
イリノイ州では、民主党の大物スティーヴン・ダグラスStephen Arnold Douglasにたいして、当時49歳のエイブラハム・リンカン(1809-65年)が共和党から初めて上院議員に立候補した。この選挙戦でリンカンとダグラスとのあいだに交された数々の政治討論ーとくに8月、9月、10月の三ヶ月にわたってこの州の七つの都市で行なわれた立会演説会における二人の論争ーは、イリノイ州外でも大きな関心を呼び起こし、のちにリンカン=ダグラス論争Lincoln–Douglas debatesとして有名になった。それは、奴隷制問題をめぐって危機に直面していた合衆国がこれといかに対決すべきかという、国のありかたの基本原理にかかわる論争だった。したがって、この論争を梃子にして闘われたこのときの中間選挙の歴史的意義を理解するには、どうしてもこれと関連のあるアメリカ史の知識をある程度知っておく必要がある。ここでは、「ドレッド・スコット判決」(ドレッド・スコット対サンフォード事件)として知られる1857年の合衆国最高裁判所の判決について、まず述べておこう。
ドレッド・スコットというのは、ある黒人の名前である。彼は、1795年頃ヴァージニア州で生まれたサムと呼ばれた奴隷だった。彼の最初の主人のピーター・ブロウPeter Blowは、1819年に一家ともども奴隷をひき連れアラバマ州に移住したのち、1827年には再び移住してミズーリ州のセントルイスに定住することになったが、1831年にこの地で死んだ。その後サムは土地の医師ジョン・エマソンJohn Emersonに売り渡され、名前もドレッド・スコットと改められた。エマソンは、1833年の暮に軍医になると、ほどなく任地であるイリノイ州のロックアイランドRock Islandのアームストロング要塞Fort Armstrongに赴任し、その後ウィスコンシン準州のスネリング要塞Fort Snelling(現在はミネソタ州)に転勤を命じられた。こうして、スコットはこの間の数年を新しい主人とともに奴隷制度のない自由地域(イリノイ州はそもそも自由州だったし、ウィスコンシン準州は1820年のミズーリ協定によって奴隷制度が禁止されていた)に住むことになったばかりでなく、この間に結婚して家族も養った。
1843年の暮にエマソンが死ぬと、スコットとその家族は、他の財産と一緒にエマソンの未亡人と彼の子どものための信託財産となった。当時、スコットは奴隷として再びミズーリ州に住んでいたが、このとき、彼はなんとかして自由を獲得したいと考えた。スコットは、1846年、彼がかつて奴隷制度のない自由地域に住んでいたという事実を理由に自分の身の自由を主張し、エマソン未亡人を相手に自由人としての身分確認のための訴訟を、ミズーリ州のセントルイスの巡回裁判所に提訴したのである。このとき、スコットは勝訴したが、事件は上訴によって州の最高裁判所へ係属した。その結果、こんどはスコットの敗北となった。この判決があってから、エマソン未亡人はマサチューセッツ州に移住し再婚したが、それとともにスコットの名義上の所有者はニューヨークのサンフォードにかわった。そこで、こんどはスコットはこのサンフォードを相手に、ミズーリ州の連邦巡回裁判所に提訴したが再び敗れ、やがて事件はスコットの上告によって1854年に合衆国最高裁判所にもち込まれ、1857年にロジャー・トーニー裁判長のもとで最終判決が下されることによって、ついにスコットの敗訴という決着をみたのである。

②ドレッド・スコット対サンフォード事件(英:Dred Scott v. Sandford、またはDred Scott Case、または
Dred Scott Decision«Дред Скотт против Сэндфорда»は、1857年にアメリカ合衆国最高裁判所で判決が下されたアメリカ合衆国の歴史の中でも転換点となった事件である。この判決は、アフリカ人の子孫が奴隷であるか否かに拘らず、アメリカ合衆国の市民にはなれないとし、アメリカ合衆国議会は連邦の領土内で奴隷制を禁じる権限がないとした。
この事件が、最終的なかたちとしては、スコットとサンフォードとのあいだの、たんなる個人的係争問題であったとしたら、それをここでとくべつに取り上げなければならない必要はない。それが「ドレッド・スコット判決」として知られる歴史的大事件のひとつになったのは、この事件が一人の奴隷と一人の奴隷所有者とのあいだの個人的な争いではなくて、その背後にあったすべての奴隷とすべての奴隷所有者とのあいだの闘争ばかりか、全奴隷反対勢力と全奴隷制擁護勢力とのあいだの社会対立ー後者にたいする前者の広範な民主主義闘争を集中的に反映していたからである。いうまでもなく、スコットという一人の奴隷が数年間にもおよぶ法廷闘争を行ない得たということは、それだけを考えても、彼がいかに自由を渇望し、いかに執拗に闘ったにしても、スコット個人の力ではとうていできることではなかった。事実、直接、彼の法廷闘争を支えた人びとの中には、ミズーリ州の奴隷制反対派のトマス・ベントンThomas Hart Bentonや最初の共和党全国大会で議長をつとめたフランシス・ブレアFrancis Preston Blair Jrの二人の息子などがいたのである。最高裁判所の判決それじたいが、そうした社会的事情を雄弁に物語っている。
この事件には、法律上の専門的事項がいっぱいあった。だから、そのどれかひとつをもとにして、最高裁判所がスコットに不利な判決を下そうとおもえば、それは容易にできたはずである。ところが、最高裁判所は、そうする代りに奴隷制度にかんするいっそう広範な問題について判決を下してしまった。すなわち、ロジャー・トーニー裁判長がベンジャミン・カーティスBenjamin Robbins Curtis、ジョン・マックリーンJohn McLean両判事の反対論をおさえて、七人の判事の多数意見として下した1857年3月6日の判決は、スコットの提訴をおよそ次の三つの理由によって却下されるべきであると主張した。
第一に、黒人奴隷ならびにその子孫は、所有者の財産であって合衆国の市民ではない。劣等人種であるかれらは、白人と同等の権利をもつことはできない。だから、黒人であるスコットには連邦裁判所に提訴する権利は与えられていない。第二に、スコットはミズーリ州の市民ではない。したがって、この事件は異なる州の市民のあいだの訴訟ではないから、連邦裁判所にはこの事件についての管轄権がない。スコットがたとえ一時的に自由州であるイリノイ州に住んでも再びミズーリ州に帰ってきた以上、彼はミズーリ州の法律に服さねばならず、イリノイ州の法律によって自由を要求することはできない。そのミズーリ州の法律によれば、彼は奴隷以外のなにものでもない。第三に、スコットが北緯36度30分以北の自由地域に住んだという事実は、決して彼を自由身分にするものではない。というのは、連邦議会は合衆国の準州に奴隷制度を禁止する権限をもっていないからである。したがって、1820年のミズーリ協定は憲法違反であり、奴隷財産はこの国のどこででも保護されなければならない。
奴隷制反対勢力にとって、これは、あまりにも挑発的な判決だった。とくに判決の最後の点は、スコットとサンフォードとの係争問題の枠を大きくはみだして、まさに奴隷制寡頭権力が当時一番望んでいたものの表明にほかならなかった。しかも、この判決がどれほど国家権力の手に守られて政治的意図のもとになされたかは、民主党選出のジェームズ・ブカナン(ジェームズ・ブキャナン・ジュニア(James Buchanan, Jr., 1791年4月23日 - 1868年6月1日)Джеймс Бьюке́ненは、アメリカ合衆国の政治家)大統領が3月4日の大統領就任演説で、「その判決にたいしては、私は、すべての善良な市民とともに、その内容のいかんにかかわらず喜んで従うつもりであるI, along with all good citizens, will gladly comply with that judgment, regardless of its content」ことを前もって強調し、それから僅か二日後に、裁判長はじめその過半数が南部人によって構成されていた最高裁判所が下したものであったという事実の中に端的に示されている。

分かれた家は立っていることができない
「ドレッド・スコット判決」が、奴隷制反対勢力にたいする奴隷制寡頭権力のいわば最後通牒的な挑戦状であり、そのいちおうの勝利であったにしても、歴史を注意深く見つめる者の目には、それが直接、奴隷制寡頭権力の敗北への道につらなるものであることが読みとれた。
それは、「妥協の政治家」として知られるヘンリー・クレイHenry Clay Sr.の肝いりで、南北の和解策として成立した1850年の大妥協以来、奴隷制問題をめぐって急速に表面化してきていたこの国の危機の産物であり、たとえば1852年のストー夫人の『アンクル・トムの小屋』の出版、1854年のカンザス=ネブラスカ法、その結果としてのカンザス戦争と共和党の成立、1856年のブルックスによるサムナー殴打事件などにつづく一連の出来事のひとつだった。
*The Caning of Charles Sumner, or the Brooks–Sumner Affair, occurred on May 22, 1856, in the United States Senate chamber, when Representative Preston Brooks, a pro-slavery Democrat from South Carolina, used a walking cane to attack Senator Charles Sumner, an abolitionist Republican from Massachusetts.
これらの出来事を生みだした危機は、1850年になっていっそう深められはしたが、しかし危機そのものは、このときになって突如として出現したのではない。すでにみたように、独立達成後のアメリカ合衆国では、独立革命の歴史的限界、とりわけこの革命が植民地時代の黒人奴隷制度を廃棄できなかったということと、その後この国が直面した内外の諸情勢とが絡み合って、19世紀が進むにつれて南部においては「綿花王国」が形成され、政治の実権も「綿花貴族cotton aristocrat」とその代弁者たちの手にゆだねられた。
ところが、他方、北部においては、この革命の結果、とくにニューイングランド地方を中心に諸種の工業が発達し、木綿工業を軸にした産業革命の進展とともに自由な労働を基礎にした近代社会・資本主義社会が急速に発展しつつあった。また、西部においても同様に自由な労働にもとづいた農民社会の形成がみられた。この西部は最初のうちはミシシッピ州によって経済的には北部よりはむしろ南部と結びついていたが、運河ならびに鉄道の発達にともない、1850年代にははっきりと北部との紐帯を深めることになった。
こうして、19世紀前半のアメリカ合衆国では、各州それぞれに別個の州憲法をもちながらも、合衆国憲法のもとに組織されたひとつの国家の枠内で、南部と北部に、互いに異質であったばかりでなく敵対関係にたつ二つの経済制度、すなわち前近代的なプランテーション奴隷制度と近代的な資本主義制度にもとづいた別々の社会が誕生し発展したのである。これが、危機そのものを醸成した母胎だった。
当然、危機は南北間の「地域」抗争というかたちをとってあらわれた。しかも、そのさい、そこにみられる顕著な特色は、この抗争が主として北部にたいする南部のイニシアティヴによって引き起こされ、北部の譲歩によっていちおうの妥協に達したということである。この間の事情を定式化して、マルクスは「奴隷所有者の権力が北部の民主党と手を握って、ますます連邦を悪用してきたということは、いわば今世紀(19世紀)初め以来の合衆国の歴史の一般公式である。つぎつぎにとられた妥協的措置は、連邦をますます奴隷所有者の奴隷に転化する、あいつぐ侵蝕作用の度合を示すものであったIt's been a general formula in US history since the beginning of the 19th century, so to speak, that slaveholder powers have increasingly abused the Union, hand in hand with Northern Democrats. One compromise after another marked the degree of encroachment one after another, transforming the Union more and more into the slaves of the slaveholders」と書いている。1820年のミズーリ協定*は、その最初の公然たるあらわれだった。
*1820年当時、合衆国は22州によって構成されていたが、自由州と奴隷州はともに11州ずつであった。このとき、ミズーリが州として連邦に加入する問題が起こった。ミズーリが自由州になるにしても奴隷州になるにしても、いずれにしても、それは南北間の均衡を破ることになる。南部は奴隷州としての連邦加入を強く主張した。その結果、北部は南部の主張を認めてミズーリを奴隷州とする代り、マサチューセッツ州からメインMaineを切り離し、これを自由州とすることで北部と南部のあいだに妥協が成立した。そして、このとき、将来こうした紛争を避けるために北緯36度30分のところ(だいたいミズーリ州の南端沿い)に境界線を設け、今後西方に新しくできる諸州にかんしては、この緯度の北では奴隷制度を禁止し、その南ではこれを認めるという取り決めを行なった。これが、いわゆる「ミズーリ協定」である。

*ミズーリ妥協(ミズーリだきょう、英: Missouri CompromiseМиссурийский компромиссは、1820年にアメリカ合衆国議会United States Congressにおいて、奴隷制擁護と反奴隷制の党派の間で成立した取り決めであり、主に西部領土における奴隷制の規制を含んでいた。北緯36度30分のメイソン=ディクソン線Mason-Dixon Lineを西に延伸したミズーリ妥協線(Missouri Compromise line)と呼ばれる境界線の北にある元ルイジアナ準州Louisiana Territoryでは奴隷制を禁じたが、既に提案されていたミズーリ州の領域内を例外とした。ミズーリ協定Missouri Accordsとも訳される。
それにしても、このミズーリ協定の段階では、奴隷制領土の拡大にたいして、まだ、ともかくも一定の地理的境界線が設けられていた。だが、その後急速に発展をとげた南部のプランテーション奴隷制度とその基礎のうえに打ち建てられた「綿花王国」にとっては、このような地理的制限は、もはやその存立の死命を制する桎括以外のなにものでもなくなった。
このため、1854年になるとカンザス=ネブラスカ法が、新たに連邦に加入する諸州における奴隷制度採否の決定はその準州の住民の意志にゆだねるという「住民主権Popular Sovereignty」の原理(その推進者が北部民主党のスティーヴン・ダグラスだった)によって事実上ミズーリ協定を破棄したが、つづいて、最高裁判所が下した「ドレッド・スコット判決」は、これに追討ちをかけるかのようにミズーリ協定を違憲であると宣しただけでなく、さらに一歩進んでダグラスの「住民主権」の原理さえ否定してしまった。
*国民主権(Souveraineté populaireこくみんしゅけんVolkssouveränität、英語: popular sovereigntyНародний суверенітет국민주권國民主權Народный суверенитетは、主権者は国民であるという思想であり、国民が政治権力の責任主体であり、政府は国民の負託により運営される機関であるとする思想。
さきにふれたリンカン=ダグラス論争の主要な問題点のひとつは、この「住民主権」の原理と「ドレッド・スコット判決」との関係をダグラスがどう受けとめるかを、リンカンが鋭く追及したことにあった。結局、ダグラスは、実質的には「ドレッド・スコット判決」よりは「住民主権」の原理を優先させる彼自身の立場を明らかにしたが、それは民主党を内部分裂に追いやることになって、1858年の中間選挙で上院議員になれなかったリンカンを、1860年の選挙では大統領に当選させるための池ならしをしたのだった。

ここにいたって、南部の「侵蝕作用」は、ひとつの画期点に到達したようにみえる。というのは、このような情勢が、逆に北部にそれ以上の「忍従」に耐えていることを不可能にさせてしまったからである。こうして、北部における反奴隷制感情の急激な高まりの中で、1858年の中間選挙がやってきたとき、あの穏健なリンカンでさえ、「もしも国、分かれ争わば、その国立つこと能わず、もしも家、分かれ争わば、その家立つこと能わざるべしA house divided against itself cannot standーI do not expect the Union to be dissolved—I do not expect the house to fall—but I do expect it will cease to be divided. It will become all one thing, or all the other」という聖書の中の文句を引用して、アメリカ合衆国という統一連邦は「半分奴隷、半分自由の状態では存続できないI believe this government cannot endure, permanently half slave and half free」ことを断言し、こうした分裂状態を防ぐために、奴隷制度をこれ以上拡大させてはならないよう、そしてやがてはそれをなくしてしまうように、強く世論に訴えなければならなかった。このリンカンの演説は、このときの選挙で彼が共和党の上院議員候補に選ばれた6月16日のスプリングフィールドSpringfieldにおける共和党大会の席上で行なわれたものだったが、同じ考えをリンカンよりやや急進的なやはり共和党のウィリアム・H・シュアードWilliam Henry Sewardは、数ヵ月後の10月25日に「どうにも抑えることのできぬ軋轢An Irrepressible Conflict」として、次のように述べた。「それは、たがいに敵対し耐え忍んできた力のあいだの、どうにも抑えることのできぬ軋轢である。それは、合衆国が全くの奴隷所有国家となるか、それとも全く自由労働国家となるか、そのいずれかを意味するものであるIt is an irrepressible conflict between opposing and enduring forces, and it means that the United States must and will, sooner or later, become either ...」と。そういう意味で、南北戦争はまさに不可避だったのである。

*アメリカ連合国(アメリカれんごうこく、英語: Confederate States of America, 略号:CSAКонфедеративні Штати Америкиは、1861年から1865年まで存在した北米の未承認共和国である。 1861年に分離独立を宣言してから、南北戦争でアメリカ合衆国と争ったが、1865年に降伏して消滅した。
南部諸州の分離から内戦勃発へ
奴隷制寡頭権力は、連邦政府がみずからの統制下にあり、自己の勢力の保持と拡大とに役だっていたかぎり、その存在価値を認めていた。だが、1858年の中間選挙における共和党の進出と、この選挙にあらわれた北部民主党の動揺によって、統一連邦がもはや南部にとって価値なきものと判断されたとき、奴隷制寡頭権力は、ついに自分のほうから剣を引き抜く覚悟を固めた。
1860年の大統領選挙で、北部民主党がダグラスに投票したのにたいして、南部民主党があえてブレッキンリッジ(ジョン・キャベル・ブレッキンリッジ(英語: John Cabell Breckinridge、1821年1月16日 - 1875年5月17日)Джон Кабелл Брекинриджは、アメリカ合衆国の弁護士、政治家。ケンタッキー州選出上院議員および第14代アメリカ合衆国副大統領を務めた)に票を集中したのはこのためだった。リンカン大統領の出現は、こうした民主党の内部分裂の結果である。そうはいっても、そもそも民主党を内部分裂にまで追いやった社会的諸力が、ほかならぬ共和党を育て強固にした全国の奴隷制反対勢力であったことも、ここにあわせて銘記しておかなければならない。
こうして、リンカンは1860年11月6日に大統領に当選したが、当時は大統領が11月に選ばれても翌年の3月までは辞任することができなかったため(1933年の憲法修正第20条によって、今では大統領は1月に就任する)、この数ヶ月間、政府の官職は依然としてブカナン大統領と内部分裂した民主党によって占められていた。南部の奴隷制寡頭権力が、北部にたいして公然たる敵対行動を開始したのは、まさにこのときだった。それは、連邦からの南部諸州の分離というかたちをとってあらわれた。
最初に行動を開始したのは、サウスカロライナ州だった。この州は、すでに大統領選挙が行なわれる以前の10月に、他の南部諸州とひそかに連絡をとり、もしもこの選挙で民主党が敗北し、その結果同州が連邦から分離すれば、それらの諸州はこれにどうこたえるかを確かめていた。そのときの確信にもとづいて、サウスカロライナ州は、早くもその年のうちに連邦からの分離を宣言したのである。翌年の2月1日までに、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスの南部六州が、これにならった。そして、2月4日には、テキサスを除くこれらの諸州の代表がアラバマ州のモントゴメリーMontgomeryに集まり六日間の討議のすえ、合衆国とは敵対関係にたつ「南部連合」を組織して、ジェファソン・デーヴィス(ジェファーソン・フィニス・デイヴィス(Jefferson Finis Davis, 1808年6月3日 - 1889年12月6日)Джефферсон Фініс Девісは、アメリカ合衆国及びアメリカ連合国の軍人、政治家)を大統領に、アレクサンダー・H・スティーヴンス(アレクサンダー・ハミルトン・スティーヴンズ(英語: Alexander Hamilton Stephens, 1812年2月11日 - 1883年3月4日)Александр Гамильтон Стивенсは、アメリカ連合国の副大統領、第50代ジョージア州知事)を副大統領に選出し、やがて公然と奴隷制度を認める憲法を採択した(南部連合の首都は、その年の6月にモントゴメリーからヴァージニア州のリッチモンドに移された)。それだけではなかった。南部でこうした敵対行動がおし進められていたときも、合衆国の首長であるブカナン大統領は、それを阻止するなんらの方策も講じなかったばかりか、分離諸州の政府が連邦の兵器庫、税関、郵便局などを接収するのさえ黙認していたのである。こうして、3月4日にリンカンが合衆国大統領に就任したときには、南部でチャールストン港Charleston Harborのサムター要塞Fort Sumterとペンサコーラ湾Pensacola Bayのピッケンズ要塞Fort Pickensならびにキーウェスト要塞Key west fort(Fort Jefferson)だけが、合衆国政府の手に残されていたばかりだった。
4月12日の未明、南軍によるサムター要塞砲撃が内戦の発火点になったことはあまねく知られているが、その後、南部連合にはヴァージニア、ノースカロライナ、アーカンソー、テネシーの四州が参加し、ここに、これら南部11州と北部23州のあいだに、4年にわたる南北戦争開始の幕が切って落とされたのである。

奴隷解放宣言
この時期に、この戦争の本質が奴隷解放戦争であり、1世紀近くまえの独立革命がなすべくしてなし残した歴指摘課題を、今こそこの国が清掃すべき第二の革命戦争であると言いきることのできた人は、そう多くなかった。
1861年3月4日のリンカンの大統領就任演説は、事態に対処する共和党政府の立場を広く世界に表明するものとして内外の注視と期待のもとに行なわれたが、そこにはなんらの「革命」も認められなかった。この演説で、リンカンは、「現に奴隷制度が存在する諸州の奴隷制度には直接にも間接にも干渉する意図がないI have no purpose, directly or indirectly, to interfere with the institution of slavery in the States where it exists」ことを改めて強調し、自分がなすべき課題としては「憲法それじたいが、明らかに私に課しているように、統一連邦の諸法律がすべての州で忠実に実行されるようできるだけ努力するI hold, that in contemplation of universal law, and of the Constitution, ... I do the very best I know how – the very best I can; and I mean to keep doing ..」ことを法律論的見地から約束した。しかも、そのさい「流血や暴力はなんら必要でないIn doing this there needs to be no bloodshed or violence」ばかりか、「逃亡奴隷は国家の権威によって引き渡されるのか、州の権威によるのか、憲法は明確にしていないShall fugitives from labor be surrendered by national or by State authority? The Constitution does not expressly say」と述べて、奴隷財産の擁護論まで展開したのである。ここには高南部のいわゆる境界諸州の動向にたいする政治的配慮が含まれているが、それにしてもこの戦争におけるリンカンの最高目的が、奴隷解放にではなく連邦の統一護持にあったことが示されている。
このようなリンカンの立場は、事態が奴隷解放の布告を余儀なくさせ、彼自身もそのことを真剣に考えざるをえなくなったときになっても依然として変ることはなかった。1862年8月22日、リンカンは『ニューヨーク・トリビューン』の主幹で熱心な奴隷制反対論者の共和党員だったホーレス・グリーリが出していた公開状に回答を送ったが、その中で、彼はこの点にかんして、もっとはっきりと次のように述べた。「この戦いにおける私の最高目的は連邦を救うことであって、奴隷制度を救うことでもなければ、それを破壊することでもない。もしも、私が、すべての奴隷を解放することによって連邦を救えるものなら、私はそうもするだろう。そして、もしも、私が、一部の奴隷を解放し他のものをそのままにしておくことによって連邦を救えるのなら、私はそうもするだろうMy paramount object in this struggle is to save the Union, and is not either to save or to destroy slavery. If I could save the Union without freeing any slave I would do it, and if I could save it by freeing all the slaves I would do it; and if I could save it by freeing some and leaving others alone I would also do that….

だが、黒人たちは、そうは考えなかった。奴隷制度の鉄鎖につながれていた南部の奴隷たちは、もしこの戦争で北軍が勝てば自分たちにも必ずや自由がもたらされ、反対にもし南軍が勝てば自分たちはひきつづいて奴隷身分におしとどめられるだろうということを、からだで感じとっていた。のちにタスキーギ大学Tuskegee Universityを創設し、そこの学長として産業教育をとおして黒人の地位向上に献身したブッカー・T・ワシントンは、まだほんの子供だった当時を回想し、奴隷だった彼の「母の子どもたちの枕もとにひざまずき、リンカンと北軍が勝って、いつの日か母子も解放されるようにと熱心に祈っている声に目をさました ... was awakened by my mother kneeling over her children and fervently praying that Lincoln and his armies might be successful, and that one day she and ...」と書いている。このような気持を代弁して、フレデリック・ダグラスは、「火には水を、闇には光を与えなければならないように、自由を破壊する戦争には奴隷制度を破壊する戦争をもって立ち向かわねばならぬ。この戦争を終らせるには、戦争の根本原因である奴隷制度それじたいを打ち砕くというただひとつの道があるだけである。・・・奴隷にたいする自由が、今こそ国会議事堂から全戦場の砲焔の空高く宣言されなければならない。黒人奴隷も、自由黒人も、黒人を軍務につかせよ、そして黒人解放軍を組織せよ。かれらは南部に進軍し奴隷たちのあいだに解放の旗を掲げるであろうFire must be met with water, darkness with light, and war for the destruction of liberty must be met with war for the destruction of slavery.  The only way to end this war is to destroy its root cause, slavery itself ... Freedom over slaves must now be proclaimed from the Houses of Parliament high above all battlefield gunfire. Negro slaves and free negroes, enlist the negroes and form the Negro Liberation Army. They will march south and raise the banner of liberation among the slaves」と、早くも奴隷解放の布告と黒人軍隊の編成を強く世論に訴えた。

*ブッカー・トリヴァー・ワシントン (英: Booker Taliaferro Washington [ˈtɒlɪvər], 1856年4月5日 - 1915年11月15日)Букер Тальяферро Ва́шингтонは、アメリカ合衆国の教育者、作家。
かつての奴隷制廃止運動の指導者たちは、サディウス・スティーヴンスThaddeus Stevensやチャールズ・サムナーCharles Sumnerなどを先頭に共和党急進派を形成して、戦争目的の達成につとめた。奴隷制度に反対する多くの農民や都市の小市民や労働者が、解放戦士として戦場におもむいた。しかし、最初のうち戦況は北部に有利に展開しなかった。リンカン政府の不決断と軍首脳部の腐敗、そこからくる戦争準備の不足が、内戦の第一段階をあいつぐ北軍の敗北にみちびいた。
開戦早々、南部連合のウォーカーLeRoy Pope Walker陸軍長官はすぐにも自分たちの旗をワシントンWashingtonの国会議事堂United States Capitolのうえにひるがえしてみせると豪語していたが、1861年7月、ブルランFirst Battle of Bull Runにおける北軍の軍事的敗北によって、首都ワシントンは、早くも陥落の危険にさらされた。その年もおし迫り、やがて戦争第二年目の年を迎えようとした頃から、ワシントンの国会では、共和党急進派が内外の奴隷制反対勢力の支持を背景にして急速に進出し始めた。戦況は双方ともに一進一退の状態を繰り返していたが、この時期に開始され、その後一年余りのあいだに、つぎつぎに採用されていった北部の積極政策こそ、一定の限界はあったとはいえ、この戦争を真の革命戦争に転化し、北軍の軍事的勝利を最終的に約束するものとなった。
軍首脳部内からの南部派の追放、「コッパーヘッドCopperhead」(北アメリカ産の毒蛇の一種)と呼ばれ戦争と兵役義務に反対していた資本家仲間にたいする抑圧、農民や労働者がその獲得をめざして長年闘ってきた自営農創出のためのホームステッド法、前年のそれよりいっそう強力な反乱者財産没収法、首都ワシントンでの奴隷制度の有償廃止、その発展としての奴隷解放予備宣言とこれにつづく奴隷解放令、懲役法と人身保護令停止法等々・・・。こうした一連の積極政策の中でも、1863年1月1日の奴隷解放令の公布はとくに重要なものだった。
①Copperhead (politics)МедноголовыеIn the 1860s, the Copperheads, also known as Peace Democrats, were a faction of Democrats in the Union who opposed the American Civil War and wanted an immediate peace settlement with the Confederates.②The eastern copperhead (Agkistrodon contortrix)Мокасинова змія мідноголова, also known as the copperhead, is a species of venomous snake, a pit viper, endemic to eastern North America
奴隷解放のことが日程にのぼらざるを得なくなったときにも、リンカンは、できることなら奴隷は漸進的に解放し、その所有者には補償金を支払い、なおかつ解放された黒人はアフリカかどこかに植民させるのがよいと考えていた。だが、黒人の側からの強い反対と国会における共和党急進派の活躍が、このようなリンカンの考えを粉砕した。
やがてリンカンは、アンティータムBattle of Antietamの戦闘で北軍の軍事情勢が好転の兆しをみせ始めた機会をつかむと、1862年9月22日、ついに戦争遂行上の「適当かつ必要な軍事的措置Appropriate and Necessary Military Measures」として、奴隷解放予備宣言Preliminary Emacipation Proclamationを公布することに踏み切った。それは、反乱諸州が翌年の1月1日までに連邦に復帰しないならば、これら「合衆国にたいし反乱の状態にある州あるいは州の指定地域内に奴隷として所有されているすべての人びとは、この日、それより以後、そして永遠に自由を与えられるIf the rebels did not end the fighting and rejoin the Union by January 1, 1863, all slaves in the rebellious states would be free」ことを、国の内外に表明したものだった。そこには、二つの点で大きな懸念と制約があった。もしも、翌年の1月1日までに反乱諸州が連邦に復帰することを認めたとしたら、この布告はどうなるのだろうか?また、この布告は反乱諸州にはくみしていない奴隷州のデラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリの境界諸州をはじめ、布告で指定された地域外の奴隷には適用されないことになっていた。これは、この段階においても、リンカン政府が奴隷の即時、無条件、全面解放をためらっていたあらわれだった。
それにもかかわらず、黒人たちは、1月1日をひたすら待ちのぞんだ。12月31日の夜、ボストンのトレモント寺院Tremont Abbeyには、ホワイトハウスからの知らせを待つ3000人の人びとがつめかけた。フレデリック・ダグラスも、みんなに挨拶するため、ここにやってきていた。初めの一時間程マーティンFriedrich Gustav Emil Martin Niemöller牧師とデッキンソンEmily Elizabeth Dickinson女史が講演をした。講演を聞きながら、人びとの心には一抹の不安があった。そこで、ダグラスが、人びとの気持をひきたたせるための短い講演をした。しかし、時計の針が10時を廻っても、ワシントンからはなんの知らせも届かなかった。あたりに重苦しい空気が漂い始めた。
そのときである。突然、ひとりの使いがホールの中に転がるように飛び込んできて、大声で叫んだ。「そら来た!電報だ!」拍手とどよめきが、あたりに湧き起こった。やがて宣言文が読みあげられると、人びとはほとばしり出る感情を抑えることができず、歓喜の叫びで朗読も妨げられがちだった。ダグラスは、静かにみんなを歌にみちびいた。吹き鳴らそう!Let's blow!諸君よGentlemen、トランペットを吹き鳴らそう!Blow the trumpet!一人の黒人牧師が讃美歌をうたいだした。
エジプトの 暗い海を越えて 高らかに タンバリンを ひびかせよ エホバは勝った その人民は自由だShout the tambourine loudly across the dark seas of Egypt Jehovah has won His people are free
夜も更けて、トレモント寺院を立ち去らなければならない時刻になった。けれど、人びとは家路につく気持にはなれなかった。提案がなされ、集会はフィリップス街の第12バプティスト教会に場を移して行なわれることになった。歓喜の集りが、さらに数時間にわたってつづけられた。ようやく集会が解散したときには、はや夜が明け始めていた。輝かしい朝、偉大なる朝、1863年1月1日の朝!
こうして予備宣言は、今や最終的なかたちの奴隷解放として、400万人にのぼる黒人奴隷の自由を国の内外に高らかに宣したのである。のちに、彼自身が述べているように、リンカンは、「自分が事態を支配するのではなく、事態が自分を支配するI claim not to have controlled events, but confess plainly that events have controlled me」ことに忠実であったことによって、アメリカの最も偉大な大統領に一人になった。しかし、じっさいにこの国の黒人奴隷が自由を勝ち取るためには、これからあと二年もつづく血みどろな戦争に耐えぬき、その間における黒人をはじめとする全民主勢力のたゆまない闘いによって、1865年に憲法修正第13条が制定されるまでの困難な時間を必要としたのである。

×

非ログインユーザーとして返信する