日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Sunji Sasamoto japán haditudósító magyar kitüntetése【Европа во время Второй мировой войны/Europe during World War II/Europa während des Zweiten Weltkriegs/第二次世界大戦下のヨーロッパ】Сюнджи Сасамото笹本 駿二Shunji Sasamoto(CANADA)2024/03/11⑥


*サー・リチャード・スタッフォード・クリップス(Sir Richard Stafford Cripps, CH, QC, FRS, 1889年4月24日 - 1952年4月21日)Ричард Стаффорд Криппは、20世紀前半のイギリス労働党の政治家。
 他方、スターリンの許には、国外の権威筋からも警告は送られていた。四月末、チャーチルはスターリン宛てのメッセージで、ヒトラーの対ソ攻撃がまちがいないことを告げ、「おそらくその日どりは、ナポレオンのロシア侵入とおなじ6月22日になろうThat date will probably be June 22nd, the same day as Napoleon's invasion of Russia.」とさえ記したといわれる。また、アメリカ政府も外交機関を通じて「ドイツのソビエト攻撃が近づいているGermany's attack on the Soviet Union is approaching.」という判断をソビエト政府に対して通報している。また、外国から送られた情報の中には、ゾルゲが、駐日ドイツ大使オッツから得たかなり精確度の高い”東京情報Tokyo information”もあった。

①リヒャルト・ゾルゲ(ドイツ語: Richard Sorge, ロシア語: Рихард Зорге, 1895年10月4日 - 1944年11月7日) Ика Рихардович Зорге «Рамза́й», «Инсон», «Зонтер»Рихард Густавович Зоргеは、ソビエト連邦のスパイ。1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけてゾルゲ諜報団Sorge Intelligence Groupを組織して日本で諜報活動をおこない、ドイツと日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事していたが、ゾルゲ事件の首謀者として日本の警察機関によって逮捕され、刑事裁判で治安維持法Gesetz zur Aufrechterhaltung der öffentlichen Sicherheit (Japan)および国防保安法National Defense Security Law違反により死刑判決を受け、処刑されたhanged in November 1944 . . . He was posthumously awarded the title of Hero of the Soviet Union in 1964

②オイゲン・オット(Eugen Ott、1889年4月8日‐1977年1月23日)Ойген Отт(дипломат)Ойген Отт (генерал-майор)は、ドイツの陸軍軍人、外交官。 陸軍少将。日本では1941年10月のゾルゲ事件に巻き込まれた駐日ドイツ特命全権大使Außerordentlicher und bevollmächtigter Botschafter(駐日ドイツ大使Deutschen Botschafter in Japan)として知られる。
 しかし、これらの警告や情報も、スターリンをはじめクレムリンの首脳たちの固い頭を突き破ることはついにできなかった。しからばなぜスターリンは、ヒトラー”不意打ちsucker punch”説を承服しなかったのか?その理由如何となると歴史家の判断も必ずしも一致してはいない。アイザック・ドイッチャーが、スターリンの過失を痛烈に批判していることは前章で述べた。チャーチルも「戦争は概して目録であるが、スターリンと共産党首脳部が、バルカンにおけるあらゆる可能性を投げすてWar is generally an inventory, but Stalin and the Communist Party leadership have abandoned all possibilities in the Balkans、ロシアに降りかかろうとしていた恐ろしい襲撃を便々と待ったというかthey were waiting for the terrible attack that was about to befall Russia、それに気づかなかったというか、そうしたことにおいてかれらが犯した過失に比べられる過失が歴史の上にあったかどうかが疑問であろうit is doubtful that they did not realize this, or that there were any mistakes in history that could be compared to the mistakes they made in such matters. これまでわれわれは、かれらを利己的打算者と見てきているのだが、あのときのかれらは同時に間抜けでもあったUntil now, we have seen them as selfish planners, but back then they were also stupid. 戦略、政策、先見、有能などが審判者である限りにおいていえばInsofar as strategy, policy, foresight, ability, etc. are the judges、あのときのスターリンとかれの人民委員らは、第二次世界大戦中もっともひどく出し抜かれたへまな人間であることを示したStalin and his people's commissars at that time proved to be the most outsmarted bums of World War II.(『大戦回顧録Memoirs Of The Second World War』邦訳十巻230頁Japanese translation, 10 volumes, 230 pages)、と辛辣な批判を加えている。
 しかし、チャーチルがひやかしているように、スターリンがそれほど愚鈍であったとはとても考えられないし、といってドイッチャーの見るごとく、スターリンが過度の自信だけから失敗を犯したというのも一面的ではあるまいか?といってわたくしに確乎たる答えがあるわけではない。ただひとつ確信できそうに思われるのは、あのときのスターリンは、ヒトラーの肚を探り兼ねて動揺をつづけていたということである。はじめバルカン問題で示したように強気で出てみたり、そのすぐあとには弱気でアピーザーの姿勢をとったり、ジグザグのコースを辿らねばならなかったのもそのためである。そしてこの”不決断indecision”の土台には、ドイツの戦力に対する無限の恐怖Infinite fear of German strengthがあった。したがって武力で対決する、という考えには、スターリンはどうしてもなれなかったのではあるまいか?その意味では、仏英が、西部戦線でドイツの攻撃を便々として待ったのとまったくおなじことではなかったか?”ドイツ軍”に対する恐怖という点では、チャーチルもスターリンをわらうわけにはゆくまい。

*Deutschドイツ語→Matsuoka Yōsuke (japanisch 松岡 洋右Ёсукэ Мацуока ; * 3. März 1880 im Kumage-gun (heute: Murotsumi, Hikari山口県出身(A級戦犯容疑者) † 26. Juni 1946 in Tokio) war Außenminister Japans im Kabinett von Premierminister Konoe Fumimaro.
 松岡外相の行動
 さて”独ソ戦の序曲Prelude to the German-Soviet war”と題したこの章を結ぶにあたってもうひとつ付け加えておきたいことがある。ちょうどこの時期に行われた松岡の訪欧が、独ソの緊迫した関係の中でどんな意味を持ったか、ということである。

 松岡は三月中旬東京を出発し、3月20日すぎモスクワ到着、モスクワ滞在中ソビエト首脳と会談したあと三月下旬ベルリンに着いた。ベルリンではヒトラー、リッベントロップと会い、ローマに出かけた。ローマからの帰途ふたたびベルリンに立寄って、ヒトラー、リッベントロップと会談した。ちょうど、ユーゴスラビア攻撃の前夜に当り、ヒトラーは多忙をきわめていた。ベルリンを出発したあとまたモスクワに寄り、ここで日ソ中立条約に調印している。以上が松岡訪欧の足どりである。

*日ソ中立条約(にっソちゅうりつじょうやくSoviet–Japanese Neutrality Pact、ロシア語: Пакт о нейтралите́те ме́жду СССР и Япо́ниейJapanisch-Sowjetischer Neutralitätspaktとは日本とソビエト連邦(以下ソ連)が1941年(昭和16年)4月13日に締結した中立条約。Japanese–Soviet Non-aggression Pact (日ソ不可侵条約, Nisso Fukashin Jōyaku)
 ベルリンの記者会見で松岡は、「日本の外務大臣が同盟の相手のヒトラーさん、リッベントロップさんとお互いに顔も知らないではお話にならぬIt is impossible for Japan's foreign minister to talk to our allies, Mr. Hitler and Mr. Ribbentrop, if we don't even know each other. 一度会ってジックリと懇談するために出かけてきたのだI came out to meet with you guys once and have a detailed discussion.」とその訪欧の目的を説明したが、ほんとうの目的は日ソ中立条約調印にあった。しかし、ベルリンにおけるヒトラー、リッベントロップとの会談の意義も決して小さくはなかった。松岡は二回のベルリン滞在中に、ヒトラーとは二回、リッベントロップとは三回、合わせて五回もドイツ最高首脳と会談を行なっている。ドイツ側が松岡訪問を相当に重要視したことがこれでよくわかる。ドイツ外務省の記録によるとこの五回の日独会談の眼目はつぎの諸点にしぼることができる。

 ①ドイツ側からは、日本のシンガポール攻撃によってイギリスの降服を早めることが望ましいと要望されたThe German side hoped that Japan's attack on Singapore would hasten Britain's surrender. この場合ソビエトが対日軍事介入に出れば、ドイツは全力をあげてソビエトを攻撃することをドイツ側は確約したIn this case, Germany promised that if the Soviet Union were to intervene militarily against Japan, Germany would attack the Soviet Union with all its might.
 ②松岡から、日ソ中立条約締結の意図をほのめかしたのに対して、リッベントロップから、日ソ関係の深入りは時宜に適せず望ましくない、という考えが示されたWhile Matsuoka hinted at his intention to conclude a Japan-Soviet Neutrality Pact, Ribbentrop expressed the idea that deepening the Japan-Soviet relationship would be inappropriate and undesirable. その理由として、独ソ関係はどうなるかわからぬ、ことが言及されたThe reason for this was that it was unclear what would happen to German-Soviet relations.(ドイツ外相は、松岡に対して日本に帰ってからも、独ソの衝突はあり得ないことだなどといわないようにしてもらいたい、と述べているThe German foreign minister said that he would like Matsuoka to refrain from saying that a conflict between Germany and the Soviet Union is impossible even after he returns to Japan.)ヒトラーも、独ソ国境には150コ師のドイツ軍が集結しているとはっきり述べているHitler also clearly stated that 150 German troops were gathered on the German-Soviet border.
 ③松岡は、日米衝突が不可避であること、日本のシンガポール攻撃は既定の方針で、実行は時の問題であること、を確言したMatsuoka affirmed that a conflict between Japan and the United States was inevitable, that Japan's attack on Singapore was the default policy, and that its implementation was only a matter of time.

 この議事録から見れば、松岡はリッベントロップの勧告を無視して日ソ中立条約を調印したことになる。また松岡は、日本に帰ったあと、リッベントロップの示唆した、独ソ衝突の可能性を閣議に報告しなかったばかりでなく、当時日本でも流布されはじめた独ソ開戦の噂を否定していた。何故松岡が、リッベントロップがしばしば繰返して語った独ソ開戦可能性を無視したのかについては、はっきりした説明がなされていない。松岡自身何の記録も残していない。
 しかし、松岡のこのサボタージュのおきおこした波紋は小さくはなかった。まず第一に、国際情勢の判断が正確でなかったという理由で、松岡自身の首が飛んだ。時の首相近衛は当時の事情について、「ドイツは日本と何の打合せもなくソビエトを攻撃し、三国同盟の予想したソビエト引き入れとまったく正反対の結果を招来したからGermany attacked the Soviet Union without any consultation with Japan, resulting in the complete opposite of the outcome expected by the Triple Alliance in bringing in the Soviet Union、三国同盟の存在理由をも減却したものである、との理由でこれを廃棄しようとさえ考えたが、軍部などの反対が予期させられたのでついに問題にならなかったThere was even consideration of abolishing the Triple Alliance on the grounds that it diminished the reason for its existence, but this was ultimately not an issue as opposition from the military and other parties was anticipated.(『東郷茂徳外交手記Togo Shigenori Diplomatic Notes』)と語っている。

①Русскийロシア語→Берли́нский пакт 1940 го́да, известный также как Пакт трёх держа́в 1940 го́да или Тро́йственный пакт (нем. Dreimächtepakt, итал. Patto Tripartito, яп. 日独伊三国同盟) Tripartite Pact— международный договор (пакт), заключённый 27 сентября 1940 года между главными державами Оси.

②Русскийロシア語→Князь Фумимаро Коноэ (яп. 近衞 文麿 Коноэ Фумимаро, после упрощения — ; 12 октября 1891東京都出身(A級戦犯容疑者=服毒自殺) — 16 декабря 1945) — японский политик, 34-й (4 июня 1937 — 5 января 1939), 38-й (22 июля 1940 — 18 июля 1941) и 39-й (18 июля 1941 — 18 октября 1941) премьер-министр Японии. Брат Хидэмаро Коноэ, дед Морихиро Хосокава.

③Deutschドイツ語→Tōgō Shigenori (japanisch東郷 茂徳; * 10. Dezember 1882 in Hioki, Japanisches Kaiserreich鹿児島県出身(A級戦犯=20年の禁固刑)† 23. Juli 1950 in Tokio)Тоґо Сіґенорі war ein japanischer Politiker, der unmittelbar vor und während des Pazifikkriegs verschiedene Ministerposten bekleidete.
 近衛が、折角思いついた三国同盟廃棄を実行できなかったことは残念なことだが、他方松岡が、ヒトラー、リッベントロップとの会談内容を詳しく報告しなかった、ということはまことに奇怪な行動といわねばならない。松岡のやったように、重大な国際会議の中味を、個人的な企図や判断ですりかえるということは断じて許されぬことである。また、わたくしがヒトラー・松岡会談議事録を読んで不快に感じるのは、松岡のヒトラーに対する態度に卑屈の色が強すぎることMatsuoka's attitude toward Hitler is too subservient、日本のアラやボロを外国の首脳の前であばき立てて平然としている無神経ぶりであるHe is so callous that he is unperturbed by exposing Japan's faults and rags in front of foreign leaders.
 松岡はヒトラーを最大限に持ちあげお追従たらたらだったMatsuoka should have taken Hitler to the maximum and followed him. これは当時の日本の外務大臣として、また日本第一流の政治家のふるまいとしてほめたことではなかった。また三国同盟については、「自分は前々からこの構想を持っていたが、同盟実現の前にはどうしてもシンガポールを占領し、それを土産にして同盟に入りたい考えだったI had had this idea for a while, but before the alliance was realized, I wanted to occupy Singapore and use it as a souvenir to join the alliance. ところが、シンガポールに手もつけいないまま同盟が実現したのは面目ない次第であるHowever, it is a shame that the alliance was realized without touching Singapore.」と奇怪なことをいっており、また「日本では自分の反対派が多いので物をいうにも用心しなければならないのだIn Japan, there are many people who oppose you, so you have to be careful when saying things.」とか、「今度の話(対米戦争不可避という松岡の意見その他)についても今後は電報のやりとりはやめて、必要の場合はクーリエを交換しましょうRegarding the next topic (Matsuoka's opinion that war with the US is inevitable, etc.), let's stop exchanging telegrams and exchange couriers if necessary. 日本では機密がすぐに洩れるのです。ドイツの機密保持には信頼がおけますが、日本はそうは参らないのですIn Japan, secrets are easily leaked. Germany's confidentiality can be trusted, but Japan cannot.」といっているのなどは甚だしく不見識ではあるまいか?すくなくとも日本の外務大臣として日本の体面を保つ所以ではない。
*【追加参照資料Additional reference material①】「・・・のちに、ヒトラー総統の通訳者が明らかにしたところによればHitler's translator later revealed that、松岡外相は、ヒトラー総統とリッベントロップ外相との会談のなかで、ドイツの要求を受け入れ、近い将来、天皇と近衛首相を説得して、シンガポールに攻撃を加える方向に日本をひきずることを約束していたDuring his meeting with Fuhrer Hitler and Foreign Minister Ribbentrop, Foreign Minister Matsuoka promised to accept Germany's demands and persuade the Emperor and Prime Minister Konoe in the near future to move Japan toward attacking Singapore・・・それほど重大なこの発言が、天皇と首相が知らないまま、外相の口からでたのであるThis very important statement came from the Foreign Minister's mouth without the Emperor and Prime Minister knowing.

 ここで20年も前に亡くなった人物の誤りを指摘するのは、松岡をあらためて責めるためではなく、現在の日本の指導的政治家に、こういうあやまちのないように教訓をひき出してもらいたいからである。その意味からも、当時のひとたちにはこの議事録を一度は読んでもらう必要があろうとわたくしは考えている。国家の重大な問題の決定に当って個人プレイが顔を出しすぎることは禁物であるからだ。
*【追加参照資料Additional reference material②】「・・・こうしたなかで7月2日、日本のゆくべき道を決定する午前会議が開かれたAgainst this backdrop, on July 2nd, a Gozen Kaigi(Imperial Conference) was held to decide on the path Japan should take. その会議では、つぎのような「帝国国策遂行要綱」が決定されたAt that meeting, the following "Imperial National Policy Implementation Guidelines'' were decided. ①支那事変(中国との戦争)は、あくまでやりとおすWe will continue with the China Incident (war with China).②日本の「自存自衛」のために、「南方進出の歩」を進めるFor the sake of Japan's "self-existence and self-defense," advance the "step of advancing southward".③「情勢の推移」によっては、「北方問題」を解決するDepending on the "development of the situation," the "northern problem" will be resolved. この決定は、陸軍と海軍の考えかたを、一つの作文としてまぜ合わせただけのものであるThis decision simply combines the ideas of the Army and Navy into a single essay. しかも、そのどちらについても、ドイツの勝利をあてにしての方針であったMoreover, in both cases, the policy was to rely on Germany's victory.「他人のふんどしで相撲をとる」ということわざの見本みたいなものであるThis is a sample of the proverb, "Wrestling sumo in someone else's loincloth.''(家永三郎Saburō Ienaga『日本の歴史History of Japan』)

①Deutschドイツ語→Unternehmen Barbarossaバルバロッサ作戦 (bzw. Operation Barbarossa, ursprünglich Fall Barbarossa)Operațiunea Barbarossa巴巴羅薩行動Operazione BarbarossaBarbarossa hadművelet war der Deckname für den Angriffskrieg der deutschen Wehrmacht auf die Sowjetunion im Zweiten Weltkrieg. Der vom NS-Regime geplante und vorbereitete militärische Überfall am 22. Juni 1941 eröffnete den Deutsch-Sowjetischen Krieg. Die Operation Barbarossa war mit 3 Millionen Soldaten, die die Grenze der Sowjetunion überschritten, der größte und zerstörerischste militärische Feldzug der Geschichte.The Führer to the German People: 22 June 1941 - Wikisource, the free online library

②独ソ戦(どくソせん、獨蘇戰、英語:German-Soviet WarВеликая Отечественная война、または東部戦線(ドイツ語:die OstfrontEastern Front (World War II)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけて、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国Achsenmächteとソビエト連邦Союз Советских Социалистических Республикとの間で戦われた戦争を指す。
                 5 激突とその波紋
 ドイツ軍のソビエト侵入
 1941年6月22日という日は、第二次世界大戦史上もっとも重大な転機を記録する歴史的な日となった。この日午前四時、ドイツ軍は独ソ国境を越えてソビエト領土に向って侵入をはじめた。
 最後通牒もなく、宣戦布告もない、まったくの”やみ討ちSneak Attack”だった。古来、侵略者は”やみ討ち”を好む。しかし、これほど壮大な規模の”やみ討ち”は歴史に例がない。ドイツ軍地上兵力約150コ師団、ルーマニア、フィンランドなど同盟軍30コ師団、その総兵力は約500万。3300台の戦車、2500機の飛行機、大砲五万台、という巨大な戦力が、バルト海から黒海を結ぶ1300キロの戦線にわたって一斉に大規模な侵略行動を開始したのである。破壊の対象となったのはソビエトの戦力だった。このときソビエトの西部国境方面には、約190コ師団のソビエト軍、約5000の飛行機、4000台の戦車が配備されていた。
 戦力のおいてはまさに互角といってよかった。しかし、戦いの条件はまるでちがっていた。前章で述べたような理由から、ソビエト軍はまだ戦闘態勢に入っていなかった。万端の準備の下に攻撃をはじめたドイツ軍との間には天地のひらきがあったのである。いわば”寝首をかかれたstabbed in the back”ソビエト軍の、緒戦における敗北は痛ましいものがあった。
 ドイツ軍の”やみ討ち”を受けたソビエト軍が如何なる状況にあったかは、Институт марксизма-ленинизма при Центральный комитет КПССソビエト共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所Institut für Marxismus-Leninismus編集の『第二次世界大戦史History of World War 2』(以下ソビエト共産党編纂『第二次大戦史』と略す)のつぎのような記述に明らかである。
 「ドイツ軍攻撃の奇襲性は、赤軍部隊を困難な状態におとしいれたThe surprise nature of the German attack put Red Army units in a difficult situation. 赤軍はドイツ軍の攻撃をよりいっそう組織的に迎え撃ち、それに殲滅的な反撃をあたえるためのあらゆる可能性を持っていたThe Red Army had every possibility to meet the German attack more systematically and to mount a devastating counterattack. ただ時機を失せずに、国境軍管区部隊を高度の戦闘態勢におきさえすればよかったのであるAll they had to do was to take advantage of the opportunity and put the Border Military District troops in a high-level combat posture. しかし、それがなされなかった ヒトラー軍司令部がその軍隊をソ連邦の西部国境沿いに展開しつつあるということが明らかになったときHowever, this was not done when it became clear that Hitler's military command was deploying its forces along the western border of the Soviet Union、ソビエト政府、国防人民委員部、参謀本部は西部国境軍管区軍を増強するために、いくつかの措置を講じたThe Soviet government, the People's Commissariat of Defense and the General Staff took several measures to strengthen the forces of the Western Border Military District. しかし、敵の攻撃の脅威が増大していたにもかかわらずHowever, even though the threat of enemy attack was increasing、これらの措置は、ドイツ軍の、あり得べき対ソ攻撃への撃退に要する兵力を、西部国境近くに集中することを予定していなかったThese measures did not allow for the concentration of forces near the western border necessary to repel a possible German attack on the Soviet Union.
 やっと6月21日になって、ドイツ軍が6月22日ー23日に、ソビエトを攻撃するという反駁の余地のない情報がはいってきたときFinally, on June 21st, irrefutable information came in that the German army would attack the Soviet Union on June 22nd-23rd、ソビエト政府は、当面の危険について国境軍管区および海軍の各司令部に警告を発し、国軍を戦闘態勢におく決定を採択したthe Soviet government issued a warning to the Border Military District and Navy commands about the immediate danger and adopted a decision to place the armed forces in combat readiness. 赤軍西部国境軍管区の地上軍と空軍を戦闘態勢におく指令は、6月22日午前1時半にこれらの管区の軍事会議へ伝達されたThe order to place the ground forces and air forces of the Western Border Military District of the Red Army in combat readiness was transmitted to the military councils of these districts at 1:30 a.m. on June 22nd. しかし直接の執行官への指令の伝達措置がまちがっていたため、執行官の多くが、この文書を知ったときには、すでに戦闘行動がはじまったあとであったHowever, because the instructions were not conveyed directly to the executive officers, many of the executive officers learned of this document after combat operations had already begun.
 また同書は、当時の前線責任者だった軍人たちから多くの証言を集めている。そのいくつかをあげてみよう。
 「部隊を完全な戦闘状態におけ、という参謀本部の命令が軍管区参謀部に延着したためThe order from the General Staff to put the troops in full combat status was delayed to the Military District General Staff、掩護部隊が、防衛計画にしたがって、6月22日午前四時ー六時国境へくり出したとき戦争はすでにはじまっていたthe war had already begun when the cover troops moved out to the border between 4:00 and 6:00 a.m. on June 22, in accordance with the defense plan.(キエフ特別軍管区Kyiv Special Military District・ブルカエフ大将General Burkaev)
 「6月22日午前四時、ブレスト・リトフスクは空軍と砲兵の攻撃を受けたAt 4 a.m. on June 22nd, Brest-Litovsk was attacked by air force and artillery. 何の警告もなかったので、攻撃は部隊にとって無条件な不意打ちだったSince there was no warning, the attack was a surprise attack for the troops.(第28狙撃軍団長28th sniper corps commander・ポポーフ大将General Popov」
 「軍管区司令部が部隊を国境へ集結するための若干の措置をとっていたにもかかわらずDespite the fact that the Military District Headquarters had taken some steps to concentrate troops on the border、管区軍の多くの部隊にとっては、戦争の開始はまったく予期しないものだったFor many units of the District Army, the start of the war was completely unexpected. その後、全戦線で激戦がくりひろげられていたときでさえ、軍管区の後方にいた多くの部隊は、情勢の真相がつかめなかったAfter that, even as fierce battles raged on all fronts, many units in the rear of the military district were unable to grasp the truth of the situation. たとえばリガから国境方面に進出した第48狙撃師団は、不意に空から打撃をくわえられFor example, the 48th Rifle Division, which advanced from Riga to the border, was suddenly attacked from the air、突破してきたドイツ軍地上部隊に攻撃されて、大損害をこうむり、国境に行きつかないうちに粉砕されてしまったthey were attacked by German ground forces that had broken through, suffering heavy losses and being crushed before they could reach the border.(バルト特別軍管区第八軍Eighth Army of the Baltic Special Military District・ソペンニコフ司令官Commander Sopennikov)
 こんな調子で『第二次大戦史』(同書邦訳第三巻第一章)は、ドイツ軍の”やみ討ち”が、ソビエト軍に如何にはげしい打撃をあたえたかを詳細に述べている。中でも、ソビエト軍にとって最大の痛手となった空軍の損害については、つぎのように語っている。
 「敵の地上部隊が成功をおさめるうえに大きな役割をはたしたのはその空軍だったThe enemy's air force played a major role in the success of the enemy's ground forces. ドイツ軍司令官は、ソビエト空軍を殲滅し、開戦当初の数日から制空権を奪取しようとつとめ、飛行機に攻撃をくわえるために、その空軍の大兵力を参加させたGerman commanders sought to annihilate the Soviet air force and seize air superiority from the first days of the war, and enlisted large forces from that air force to attack planes. 戦争の第一日目のあいだに、敵の爆撃機は国境軍管区の66の飛行場に集中的な空襲を断行したDuring the first day of the war, enemy bombers carried out intensive air attacks on 66 airfields in the Border Military District. 新設計のソビエト戦闘機基地となっていた飛行場が主として攻撃を受けたThe airfields, which served as bases for newly designed Soviet fighter aircraft, were primarily attacked. これらの攻撃と激烈な空中戦の結果、ソビエト空軍の損害は、6月22日の正午までに約1200機(地上破壊800機以上を含む)であったAs a result of these attacks and intense air combat, Soviet air force losses were approximately 1,200 aircraft (including over 800 destroyed on the ground) by noon on June 22nd.
 開戦から八時間で1200機を失ったとすれば、つづく数日中には、西部戦線にあったソビエト空軍4000機の大部分がやられた、という推定は難くない。ドイツ軍”やみ討ち”による緒戦の戦果はおよそ想像されよう。
 一方ソビエト軍は、総崩れ一歩手前の態勢を立てなおす暇もなく、追撃するドイツ軍の前から総退却しなければならなかった。

*【追加参照資料Additional reference material】①「私にはできない。(開戦)演説はモロトフにやらせてくれI can't do it. Let Molotov do the (start of war) speech(ドイツの奇襲攻撃のニュースを聞いてHearing the news of the German surprise attack).」Molotov Addresses the Soviet Union on the Nazi Invasion, June 22, 1941 (English Subtitles) - YouTube②1941年7月3日、スターリンは、戸惑う国民に導きの手を与えるため、遂に沈黙を破った。彼は、放送を通じて国民に呼び掛け、“重大な危機”について語ったOn 3 July 1941 Stalin at last broke silence to offer guidance to a bewildered nation. In a broadcast address he spoke of the ‘grave danger’「・・・敵は残忍苛酷で、容赦を知らない。敵はわれわれの額の汗のそそがれた大地、われわれの手の働きで確保された穀物や石油をとりあげようとしている。・・・(ソ連邦の諸民族を)ドイツ化し、彼らをドイツ貴族の奴隷にしようとしているThe enemy is cruel and implacable. He is out to seize our lands watered by the sweat of our brows, to seize our grain and oil, secured by the labor of our hands. . . . to Germanize [the people of the Soviet Union], to turn them into the slaves of German princes and barons・・・止むを得ず後退するさいには・・・あらゆる車輌を引き揚げなければならない。機関車1台、車輌1台、穀物1ポンド、燃料1ガロンも敵の手に残してはならない。集団農場員は、後方へ輸送するためすべての家畜をひきあげ、穀物を提供してこれらを当局の安全な保管に委ねなければならない。金属、穀物、燃料を含む、あらゆる貴重な財産で疎開できないものは、ぜひとも破壊しなければならないIn case of a forced retreat. . . . all rolling stock must be evacuated, the enemy must not be left a single engine, a single railway car, a single pound of grain, or gallon of fuel. The collective farmers must drive all their cattle and turn over their grain to the safe keeping of the authorities for transportation to the rear. All valuable property, including metals, grain, and fuel, that cannot be withdrawn, must be destroyed without fail.(ドイッチャーDeutscher『スターリンStalin』)Stalin's radio broadcast to the Soviet people (3 July 1941) [Subtitled] - YouTube

 ”ソビエト軍戦力の撃滅Destruction of Soviet military forces”という戦略目的を求めるドイツ軍の追撃ははなはだ急だった。しかし、ロシアはフランスとはちがっていた。ここでは電撃戦は通用しなかった。逃げる敵軍を機械化部隊が迂回して退路を断つ、というドイツ軍得意の戦法がここロシアの大平原ではあまり功を奏しなかった。広大な無限の平原、それに道路が悪かった。逃げる方向が広すぎた。追いかける戦車の足が鈍すぎた。
 立派な舗装道路が四通八達し、逃れゆく空間も限られたフランスとロシアとではまるで条件がちがっていた。それでもドイツ軍は、五万、一〇万単位のソビエト軍を方々で包囲し、捕虜にすることはできた。しかし、そんなことではソビエト軍主力をつぶすことはできなかったのである。そして追跡をつづけるうちに、ドイツ軍はいつしかロシアの奥深くひっぱり込まれていた。

*【追加参照資料Additional reference material】①Kanji Ishiwara (石原 莞爾, Ishiwara Kanji, 18 January 1889山形県出身(大日本帝国陸軍中将) – 15 August 1949)Кандзі Ісівара was a general in the Imperial Japanese Army in World War II②独ソ戦に対しては、石原はRegarding the German-Soviet war, Ishiwara was、1941年10月当時から、ドイツは地形の異なるバルカン半島においても西部戦線と同一の戦法を採っておりSince October 1941, Germany has adopted the same tactics as on the Western Front, even in the Balkan Peninsula, where the terrain is different、また東部戦線においてもその戦法に何ら変化の跡が見られないことから、ドイツはソ連に勝てないと断言していたFurthermore, since there was no sign of any change in tactics on the Eastern Front, declared that Germany would not be able to defeat the Soviet Union.


 













 

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