日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Sunji Sasamoto japán haditudósító magyar kitüntetése【Европа во время Второй мировой войны/Europe during World War II/Europa während des Zweiten Weltkriegs/第二次世界大戦下のヨーロッパ】Сюнджи Сасамото笹本 駿二Shunji Sasamoto(CANADA)2024/03/11⑤

 ブロックの方はもっと観察が細かく、「ヒトラーの目的が何であったかは、ほんとうのところはよくわからないままでおわっているがWhat Hitler's goals were remains largely unknown、多分これは、ソビエトの目をくらまそうとする大がかりな偽装マヌーヴァーだったのであろうthis was probably a massive deception maneuver to blind the Soviets. また、何とかして対ソ攻撃に代るものを求めようとした、リッベントロップの試みだったとも解されるIt can also be interpreted as Ribbentrop's attempt to somehow find an alternative to attacking the Soviet Union. ヒトラーは、リッベントロップの提案は、別段害のあるものではないので、一応やらせることにしたのだろうHitler probably decided to let Ribbentrop do it because he didn't think it was particularly harmful. しかし、ヒトラーの本心はこのときはもう大体対ソ攻撃に傾いていたようだHowever, Hitler's true intentions seemed to be leaning toward attacking the Soviet Union by this time. そして、モロトフとの会談のあとではもはや迷いはなかったAnd after the meeting with Molotov, there was no hesitation anymore. その証拠にヒトラーは、モロトフ会談直後、ゲーリングに向って、”来春はソビエトをやっつけるんだ”と語ったAs proof of this, Hitler told Goering immediately after the Molotov meeting, "Next spring we will defeat the Soviet Union.''」と記している。

*Deutschドイツ語→Hermann Wilhelm Göringヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング (* 12. Januar 1893 in Rosenheim; † 15. Oktober 1946 in Nürnberg)Ге́рман Вильге́льм Ге́ринг war ein deutscher nationalsozialistischer Politiker und Kriegsverbrecher. 1933 wurde er Reichsluftfahrtminister, ab Mai 1935 war er Oberbefehlshaber der Luftwaffe. Ab 1936/1937 übernahm er die Führung der deutschen Wirtschaft und des Reichswirtschaftsministeriums.
 それでは、一方のスターリンの心境はどうだったのか?ケナン教授が、その答えを含めて興味深い観察を下しているのでそれを紹介したい。

 「スターリンの逆提案の条件を見れば、三国同盟の仲間入りを高い値段で売りつけることができる、とスターリンが考えていたことがわかるIf you look at the terms of Stalin's counteroffer, you can see that Stalin believed that he could sell his membership in the Triple Alliance at a high price. スターリンは、この条件でまずとりひきをはじめることができると踏んでいたのであるStalin believed that under these conditions he could begin negotiations. しかし、これはとり返しのつかぬ誤算だったHowever, this was an irreversible miscalculation. 数々の輝かしい軍事的成功を収めたヒトラーには、スターリン相手に話し合う、という気持は毛頭なかったHitler, who had achieved many brilliant military successes, had no desire to talk to Stalin. 他方、ヒトラーはいろいろの悩みや夢があった。たとえばドイツの戦争経済はすっかり行きづまってきて、ソビエトが供給する食糧や原料に支払う代替物も乏しくなっていたOn the other hand, Hitler had many worries and dreams. Germany's war economy, for example, had become severely strained, and substitutes to pay for the food and raw materials supplied by the Soviet Union were becoming scarce. ドイツは、ソビエトが供給する資源を手に入れるには実力行使以外に術がなくなっていたGermany had no choice but to use force to obtain the resources provided by the Soviet Union. それは、ちょうど1918年、ブレスト・リトフスク条約(第一次世界大戦の末期の1918年3月、ソビエト革命政府代表とドイツ軍代表はブレスト・リトフスクで講和条約を調印した)のあと、ドイツ軍をウクライナに押しやったときとまったくおなじ局面であることを想起する必要があるWe need to remember that this is exactly the same situation as in 1918, when German troops were pushed into Ukraine after the Treaty of Brest-Litovsk(In March 1918, at the end of World War I, representatives of the Soviet revolutionary government and the German military signed a peace treaty in Brest-Litovsk).
 ドイツ戦争経済がそんなに苦しくなっていたか、わたくしはそれをつまびらかにしない。しかし、陸海空あわせれば600万を超える巨大な軍隊をいつまでもぶらぶら徒食させておくわけにはゆかぬ、という理由はあったにちながいない。ヒトラーの頭の中にウクライナの穀倉が浮かんだこともまちがいあるまい。その上に、ポーランド、フランスを破ったドイツ軍将兵の士気、自信が頂点に達したいま、自分に対する国民の信頼が絶大であるいま、この時点を逃してはならないという考えもヒトラーにとっては重要であったと思う。ヒトラーにとっては、あらゆる条件が、対ソ攻撃に適している時機と判断するにいたったのであろう。
 ここでもうひとつ忘れてはならない重要なファクターがある。それは、「大国ドイツの存続に不可欠な食糧と資源は、これを東方に求めなければならないFood and resources essential to the survival of Germany, a great power, must be sought from the East.」という考え、19世紀の末以来ドイツ保守勢力に伝統的なこの東方膨張政策が、ナチスの時代にあっても、資本家、軍部、保守的政治家(ナチス時代には進歩的政治勢力は存在しなかった)たちから依然として強い支持を受けていた、という事実である。この膨張政策は第一次世界大戦の戦争目的の重要項目となっていたが、1918年3月のブレスト・リトフスク講和条約のあと、ドイツ軍がウクライナを占領し、さらにコーカサス地方まで支配の手をのばしたという事実こそは、この膨張政策を露骨に表明するものだった。したがって、ソビエトを崩壊させ、ここにドイツ帝国の広大な植民地をうち立てるという考えは、なにもヒトラーの発明ではなく、半世紀も前からドイツ保守勢力の脳裏を離れなかった夢なのである(この場合のドイツ保守勢力とは、中産階級をも含む大きな層だったことを忘れてはならない)。

*Deutschドイツ語→Lebensraum im Osten東方生存圏 ist ein politischer Begriff, der mit der „germanischen“ oder „arischen“ Besiedlung von Gebieten außerhalb der deutschen Grenzen, vor allem im (nördlichen) Mittel- und Osteuropa, verbunden ist. Er wurde von der völkischen Bewegung im wilhelminischen Kaiserreich geprägt und im NS-Staat rassenbiologisch interpretiert. Er lieferte den ideologischen Hintergrund für den von Reichsführer SS Heinrich Himmler in Auftrag gegebenen Generalplan Ost, der die Vertreibung und Vernichtung der „rassisch unerwünschten“ Bevölkerung aus den eroberten Gebieten in Mittel- und Osteuropa, ihre „Germanisierung“ und wirtschaftliche Ausbeutung vorsah.
 ヒトラーから、”対ソ作戦計画Operation plan against the Soviet Union”の立案を命じられたハルダー参謀総長はじめ陸軍首脳が、何の抵抗もなくこれを引き受けたということは、ドイツ陸軍に、ロシア植民地化政策を支持する伝統があったことを証明している。つまり、ソビエトを含む広大な東方をドイツの植民地とし、そこにドイツ大帝国の必要資源を確保するという考えは、ドイツ支配階級が、ナチス以前から是認してきた大きな国策だったのである。ヒトラーはこのテーゼを一段と強調し、”東方への突進Rush to the east”というような刺激的な言葉で表現したが、これはいわばドイツ帝国主義の古くからの宿題だったのである。その意味では、1941年春を迎え、この宿題を果たす好機がいよいよ到来した、とヒトラーが決意したまでのことといってもよかろう。

*フランツ・ハルダー(Franz Halder、1884年6月30日 - 1972年4月2日)Франц Га́льдерは、ドイツの陸軍軍人。最終階級は陸軍上級大将。第二次世界大戦初期に参謀総長を務めるが、戦前からアドルフ・ヒトラーに隔意を持ち、スターリングラード攻略で決定的に対立、更迭された。
 ヒトラーの対ソ侵略の背後には、このような大きな要因がひそんでいたことを、スターリンはどうやら見抜けなかったようである。
 幾人かの専門家の意見もこの点ではほぼ一致しているが、たとえばドイッチャーは、この点について、「スターリンは、あまりにも狡猾な人間が陥りやすい誤りのひとつを犯したStalin made one of the mistakes that the most cunning people are prone to make. かれは、いろいろな兆候から顔を背けたHe turned away from all the signs. 自分ほどの鍛えられたものは、どんな策略にも、どんなトリックにも対応できる勘を持っているのだから、どんな事態がおこってもびくともしないのだ、という確信を持っていたHe was confident that someone as trained as him would be able to handle any strategy or trick, so no matter what situation happened, he wouldn't budge.」と評している。

*Deutschドイツ語→Isaac Deutscherアイザック・ドイッチャー(auch: Isaak DeutscherИсаа́к До́йчер ; * 3. April 1907 in Chrzanów, Galizien, Österreich-Ungarn; † 19. August 1967 in Rom) war ein polnisch-britischer Schriftsteller, Journalist und Historiker des Kommunismus.
 ドイッチャー説によると、スターリンの頭の中には「ヒトラーの手の内はわかっているのだI know what Hitler's doing.」という自信めいたものがあったようだ。一年前のヒトラーとの大きなとりひき、そこに至るまでのスターリン外交のうまさ、などを考えれば、スターリンがヒトラー操縦に相当の自信を持っていたとしても不思議ではない。そしてスターリンは、今度も結局は”話がつくI can talk”ということを信じて疑わなかった。したがってそこには、対ソ攻撃を決意したヒトラーと”独ソ協定の新版New version of the German-Soviet Agreement”をあてにしたスターリンとの状況の大きな食いちがいがあった。1940年秋から1941年初夏までの独ソ関係を動かしたものはこの”食いちがいdiscrepancy”であり、それは、1941年春さきまでの第一段階では、バルカンにおけるドイツの進出(もちろん戦争準備を目指すものだった)と、これを阻もうとするソビエトの妨害という形をとり、1941年春以後、ドイツの対ソ攻撃の気配が濃厚となってくる第二段階では、ヒトラーに対するスターリンの、露骨な”宥和ジェスチャーappeasement gesture”となってあらわれたのだった。

*Русскийロシア語→Страны «о́си» (нем. AchsenmächteAxis powers; яп. 枢軸国 су: дзику-коку; итал. potenze dell'Asse; по термину «ось: Берлин — Рим», а позднее «ось: Берлин — Рим — Токио»), известные как нацистский блок, гитлеровская коалиция, — агрессивный военный и экономический союз Германии, Италии, Японии и других государств, которому противостояла во время Второй мировой войны антигитлеровская коалиция.Kingdom of Hungary · Kingdom of Romania · Kingdom of Bulgaria · Republic of Finland · Slovak Republic · Independent State of Croatia · Thailand Kingdom
 ドイツのバルカン工作
 バルカンにおける独ソの争い、ヒトラーに対するスターリンのアピーズメント。この二つの、まったく相反する要素、これがいわば独ソ戦争の序曲を組み立てる主題だった。それは現実には、一体どういう動きとなって表にあらわれたか?
 モロトフのベルリン訪問のあと、ドイツはすでに夏の終りごろから手をつけていたバルカン工作に精力的に乗り出した。目標は、全バルカンを軍事的に把握することにおかれた。それは、対ソ戦争をやる場合、不可欠の前提条件だった。第一に、ソビエトと長い共通国境線をもつルーマニアは、対ソ攻撃の重要な戦線となる。第二に、対ソ戦争をはじめれば、バルカンはイギリスから狙われる危険がある(イギリスは地中海制海権を握っているので、バルカン南部に上陸する力を持っていた)。
 1940年の秋から1941年にかけて、ヒトラーは、バルカン諸国の指導者たちを順々に招いて、三国同盟加入を求め圧力をかけた。11月末までにハンガリー、ルーマニア、スロバキア三国が同盟に加入した。その結果ドイツ軍のハンガリー領通過が自由になり、12月から翌年三月にかけて、連日連夜、ドイツ軍をのせた輸送列車が大手をふってハンガリー領を通りルーマニアに向った。三月末には70万のドイツ軍がルーマニアに集結した。
 ブルガリア、ユーゴスラビアの同盟ひきこみは、前記三国のようにすらすらとはゆかなかった。ブルガリアはソビエトに気兼ねしなければならなかったし、ユーゴスラビアはもともと親独的な国ではなかったからである。そこに十月末、イタリアがアルバニアからギリシャに攻めこんだため、この両国の立場は微妙になってきた。イタリア軍はギリシャには攻めこんだものの、自力ではギリシャを片づけきれぬことがわかってきた。もたもたしているうちに、1941年1月下旬にはイギリス軍がギリシャに上陸してきた。ドイツは、ムッソリーニの軽挙で予想外の重荷を負わされることになった。
*【追加参照資料Additional reference material】「1940年10月28日、ムッソリーニがヒトラーの事前了解を得ることなしにイタリア軍をアルバニアからギリシャへ侵攻させOn October 28, 1940, Mussolini invaded Greece from Albania without Hitler's prior consent、ギリシャ軍によって撃退されるという醜態を演じたのであるperformed the shameful act of being repulsed by the Greek army.(野田宜雄Nobuo Noda『ヒトラーの時代Hitler's era』)

*ギリシャ・イタリア戦争(ギリシャ・イタリアせんそうΕλληνοϊταλικός ΠόλεμοςGreco-Italian WarCampagna italiana di Greciaは、1940年10月28日から1941年4月30日まで、枢軸国のイタリア、ドイツと連合国のギリシャとの間で戦われた第二次世界大戦の戦争を指す・・・ドイツのアドルフ・ヒトラーAdolf Hitler総統も対英戦を棚上げして中立同盟を結んだソ連へ奇襲を仕掛けて侵攻する構想を立てていた都合上、「バルカン諸国を平和に保つべきであるThe Balkans should be kept at peace」としてギリシャ侵攻には強く反対していた。しかし、これらの意見を黙殺してベニート・ムッソリーニBenito Mussoliniはギリシャへの遠征を命じた。Итало-греческая войнаGriechisch-Italienischer Krieg
 1941年2月28日、ちゅうちょしていたブルガリアがとうとう三国同盟に加入し、翌日ルーマニアにいたドイツ軍がブルガリアに進駐した。最後に残ったユーゴスラビアも、ついに3月25日ウィーンで三国同盟加入を調印した。ところが翌26日から27日にかけてベオグラードで軍部クーデターがおこり、三国同盟を調印した政府は倒れ、反独的な色彩の強い軍人政権がこれに代った。

①Deutschドイツ語→Jugoslawischer Staatsstreich 1941ユーゴスラビアクーデターYugoslav coup d'étatМартовски пучtDer Jugoslawische Staatsstreich ereignete sich am 27. März 1941 in Belgrad im Königreich Jugoslawien. Durch die Besetzung verschiedener bedeutender Regierungsgebäude in ganz Belgrad sowie des Königshofs wurde die Regierung unter Prinzregent Paul gestürzt. Geplant und durchgeführt wurde der Putsch von einer pro-westlichen Gruppe serbischer Offiziere der jugoslawischen Luftwaffe. Vor allem richtete er sich gegen die Zusammenarbeit der Regierung mit den Achsenmächten im Zweiten Weltkrieg.Государственный переворот в Югославии (1941)
 激怒したヒトラーはユーゴ攻撃を決定し、4月6日進軍を開始した。勇敢な抵抗のあと、ユーゴスラビア軍が降服したのは4月17日だった。

②The invasion of YugoslaviaAprilski rat ili Travanjski ratユーゴスラビア侵攻Der Einmarsch in JugoslawienЮгославская операция, also known as the April War[a] or Operation 25,[b] was a German-led attack on the Kingdom of Yugoslavia by the Axis powers which began on 6 April 1941 during World War II. The order for the invasion was put forward in "Führer Directive No. 25", which Adolf Hitler issued on 27 March 1941, following a Yugoslav coup d'état that overthrew the pro-Axis government.
 このユーゴスラビア戦争と関連して興味をひくのは、ソビエトがドイツ軍のユーゴスラビア攻撃の前夜にあたる4月5日夜半、同国との友好不可侵協定を調印したことである。これは明らかな挑発行為であったし、ヒトラーの怒りを買ったことはいうまでもない。
 *[Договор о дружбе и ненападении между Советским Союзом и ЮгославиейTreaty of Friendship and Non-aggression between the Soviet Union and YugoslaviaUgovor o prijateljstvu i nenapadanju između Sovjetskog Saveza i Jugoslavije] On April 5, 1941, Soviet Union and Yugoslavia signed the Treaty of Friendship and Non-aggression in Moscow.
 もっともソビエトは、ルーマニア、ハンガリーなどの三国同盟加入の度に抗議や警告を発してきていたし、ブルガリアに対しては特別に強い妨害を試みているので、ユーゴスラビアの場合も、この線に沿う動きのひとつだったことも明らかである。しかし、明日はドイツが攻めこもうとしている国と友好不可侵協定を結ぶ、というのは何といっても異常な行為のように見える。しかしスターリンは、ユーゴスラビア軍が頑張ってくれること、ひょっとしてドイツがここでちょっとしくじること、つまずくこと、その結果バルカンの一角に小さいながらもひとつの反独戦線ができることなどを期待したのではないだろうか?一月下旬には、小部隊ながらイギリス軍がギリシャ南部に上陸していた。ユーゴスラビア軍が頑張り、ギリシャ軍も抵抗をつづければ、その間にイギリス軍は増強もするだろう。そうなれば、ドイツ軍は二ヵ月や三ヵ月は、バルカンから手が抜けなくなる。ドイツがいくらかでも精力を消耗することは歓迎するところだ。という気持がスターリンになかったとはいえないように思う。ことに、バルカン諸国がひとつまたひとつと順番にドイツの手に落ちて行くのを、じっと傍観せざるを得なかった弱いソビエトであった。最後に残って、勇敢にヒトラーに挑戦したユーゴスラビアの軍人政権を激励することは、ソビエトにとってある意味では当然の行為だった、ということもできよう。
 ところが、ドイツ軍はあまりにも強すぎたのである。ユーゴスラビア攻撃とおなじ4月6日、ブルガリアにあった別のドイツ軍がギリシャに進入し、4月23日ギリシャ軍も降服した。しかし、ヒトラーはこのバルカン作戦のために大きな犠牲を払った。それはヒトラーが、このため対ソ戦争の時期を、はじめの予定よりも38日も延ばさなければならなかったことである。ヒトラーは、バルカン作戦のため、折角ルーマニアに集めた機械化部隊のうち十コ師団を動かさなければならなかった。バルカン戦争が終結し、また東部戦線に送り返すのにこれだけの日々が必要だった。こうして空費した38日が如何に重大な意味を持つかについては後述したい。

*Magyarマジャール(ハンガリー)語→Magyarország a második világháborúbanUngarn im Zweiten Weltkrieg第二次世界大戦下のハンガリーHungary in World War IIВенгрия во Второй мировой войне: A két világháború közötti Magyarország fő célkitűzése az 1920-as trianoni békeszerződés revíziója és a külpolitikai elszigeteltségből való kitörés volt, ennek érdekében olasz, majd német segítséget remélt. A fenti politika 1938–1941 között jelentős területgyarapodással járt (bécsi döntések, Kárpátalja visszacsatolása, a délvidéki bevonulás), azonban Magyarország szembe került a szövetséges hatalmakkal. A magyar vezetés a fegyveres semlegesség kudarca után a háborús részvétel minimalizálására törekedett, de a Magyar 2. hadsereg keleti fronton elszenvedett veszteségei után 1944-1945-ben Magyarország lényegében a szovjet és német erők ütközőzónájává vált, végül totális háborús vereséget szenvedett.[1] Az 1947-es párizsi békeszerződés nyomán Magyarország a trianoni békeszerződésben meghatározott és kijelölt területénél is kisebb területtel fejezte be a háborút. A második világháború további következményeként az ország 1990-ig, a szovjet katonaság kivonásáig szovjet fennhatóság alatt maradt.
 ハンガリーの運命
 ユーゴスラビア、ギリシャの降服で、バルカンを見舞った混乱は収束され、1940年の秋から翌年の春にかけて、東南ヨーロッパ全体を包んだ不安の空気も一掃された。同時にこの地域一帯の相貌も激変した。
 自国の存立を、大国間の力関係の如何に委ねなければならなかったことは、19世紀以来、東南ヨーロッパ諸国の辿った運命であるが、かれらの運命に対して、今度ほどドラマチックな決定が下されたことはかつてなかった。ドイツはいまやこの地域全体を掌握し、あるいは衛星国とし、あるいは占領地域として完全に支配することになった。ソビエトは、ねばり強い抵抗も空しく、バルカンからはきれいさっぱり追払われてしまったのである。ドイツはもう誰に気がねすることもなく、全バルカンを戦争協力に動員することができるようになった。ハンガリーももちろん例外ではなかった。1940年の秋、ドイツはルーマニア派兵のためドイツ軍用列車のハンガリー領の通過をやりはじめた。12月18日、対ソ攻撃計画の最終決定が下ったあとは、占領地治安を任務とするハンガリー軍の参加もほぼ決まった。三国同盟にもとづく経済協力の名の下に、相当量の食糧供給も義務づけられた。ブダペストをはじめ地方の主な都会には、ドイツ軍の輸送に当るドイツ兵の姿も目につくようになってきた。こうして、ハンガリーも、じわじわとドイツの戦争にひき入れられてゆくのだった。それは、ブダペストの表情にも次第に影をおとして行った。夏の終りまでは、あんなに明るく、平和の気分に溢れていたこの町の”戦争不在”の雰囲気も、秋風とともに急速に崩れて行った。春から夏にかけて、遠く離れたどこかのできごとのように思われていた戦争ーもう間もなく終るはずだった戦争が、急に身ぢかになってきたことをブダペスト市民も感じはじめた。そのころ、あるハンガリー人の友だちから面白い言葉を聞いたことがある。
 「どうもドイツの軍服が目障りだな。奴らの数が増えてくるというのは不吉な前兆だよ。迷惑な話だねI think the German military uniforms are an eyesore. It's a bad omen that their numbers are increasing. That's annoying.
 実際、ブダペストでもドイツ将兵の数はだんだん増えつつあった。そして、四月上旬のある日、ドイツ兵の大群が、突然ブダペストにあらわれ南を指して走り去った。ベオグラードの”寝返りTurning over”に憤慨したヒトラーが”懲罰戦争Punitive war”を命令した直後のことである。ドナウの河岸、ブダペスト市民の大切な散歩道一ぱいを行進するドイツ軍を見て、ハンガリー人たちはわれとわが眼を疑った。
 何も知らなかったブダペスト市民が胆をつぶしたのは無理もなかった。しかし、その翌日、ドイツ軍のハンガリー領通過が、この国にとって何を意味するかを、ハンガリー国民たちは深い哀しみとともに理解することができた。ドイツ軍がブダペストを通過したその晩、テレキー首相が自殺したのである。

*セーク伯爵テレキ・パール・ヤーノシュ・エデ(ハンガリー語: Teleki Pál János Ede、1879年11月1日 - 1941年4月3日)Pál (Paul) Graf Teleki von SzékГраф Пал Телеки де Секиは、ハンガリーの政治家、政治学者、地理学者。戦間期に成立したハンガリー王国において首相を務め、二度目の首相在任中の1941年4月3日に自殺した。
 著名な地理学者であり、リベラルな政治家だったテレキーに、この悲劇的な最後を強いたのはつぎのような事情である。ユーゴスラビア攻撃のため、ドイツ軍はどうしてもハンガリーを通過しなければならなかった。そこでヒトラーは、四月上旬、ハンガリーのホルティ摂政につぎのような趣旨のメッセージを送った。
 「ドイツの協定を公然と破ったユーゴスラビアは撃滅しなければならないYugoslavia, which openly broke the German agreement, must be destroyed. そのためドイツ軍の大部分はハンガリーを通過する必要があるが、戦闘の中心はハンガリー領では行われないAlthough most of the German forces would have to pass through Hungary, the main focus of the fighting would not be on Hungarian territory. しかし、この際ハンガリーも軍事行動をおこすことを要請するHowever, at this time, Hungary also requests military action. その代償としては、ハンガリーがユーゴスラビアに割譲させられた旧領土を取返すことができるだろう。至急同意の返事を願うIn return, Hungary would be able to regain its former territory ceded to Yugoslavia. I hope for a reply of consent as soon as possible.

*ヴィテーズ・ナジバーニャイ・ホルティ・ミクローシュ(ハンガリー語: Vitéz Nagybányai Horthy Miklós ハンガリー語発音: [ˈvite̝ːz ˈnɒɟbɑ̈ːɲɒi ˈhorti ˌmikloːʃ]、1868年6月18日 - 1957年2月9日)Miklós Horthy de NagybányaМи́клош Хо́рти, витязь На́дьбаньяи は、ハンガリーの海軍軍人、政治家。国王不在のハンガリー王国における元首たる摂政Regent of Hungary(ハンガリー語: kormányzója)を務めた(在任:1920年3月1日 - 1944年10月17日)。
 ヒトラーからこんな要請を受けたハンガリーの立場は大へん苦しかった。三国同盟の加盟国として、ハンガリーはドイツに協力する義務を負っていた。他方ハンガリーは、四ヶ月前にユーゴスラビアと友好条約を結んだばかりである。また、摂政ホルティをはじめテレキー首相など、ハンガリー政府首脳の多くはドイツに好感を持っていなかった。元来自由主義者であるテレキーは、ユーゴスラビアとの友好条約を破ってまでヒトラーに忠義立てする気持は毛頭なかった。
 その上に、ドイツ軍がハンガリー領に侵入し、ブダペスト通過をはじめたその日、テレキーは、「ハンガリーがドイツのユーゴスラビア攻撃に味方するならば、イギリスはハンガリーに宣戦するIf Hungary sides with Germany's attack on Yugoslavia, Britain will declare war on Hungary.」というイギリスからの脅迫も受けた。自分の政治的信条と国際道義とは、ヒトラーの要請に応ずることをテレキーに拒んだ。進退きわまったテレキーはその晩自宅でピストル自殺を遂げたのである。
 テレキーの自殺は、ハンガリー国民に強い衝撃をあたえた。そしてかれらは、自分たちの国がいまどんな状態におかれているかをおぼろげながら理解することができた。

 第二次世界大戦は、いたるところ、大小無数の悲劇を生んだが、テレキーの死はもっとも苛烈なもののひとつであろう。小国の悲運は歴史に枚挙のいとまのないところではあるが、戦後11年、ハンガリーがまたもや大きな悲劇の舞台となったことはまだ記憶になまなましい。すべてこれらの悲劇は、大国エゴイズムの所産であるが、この冷酷な現実は、1970年代を迎えた今日においてもすこしも変るところはない。
 ベトナムを見よ!Look at Vietnam!チェコを見よ!Look at the Czech Republic!
 テレキーの悲劇を述べたついで、もうひとつ、ブダペストで見聞した、悲劇とはいえないが、何となく胸打たれる話をつけ加えておこう。

*バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartók Béla Viktor János [ˈbɒrtoːkˌbe̝ːlɒˈviktorˌjɑ̈ːnoʃ], 1881年3月25日 - 1945年9月26日)Béla Viktor János BartókБе́ла Ба́ртокは、ハンガリー王国のバーンシャーグ地方のナジセントミクローシュに生まれ、ニューヨークで没したクラシック音楽の作曲家、ピアニスト、民俗音楽研究家。Béla Bartók died at age 64 in a hospital in New York City from complications of leukemia (specifically, of secondary polycythemia) on 26 September 1945.
 話は、テレキー自殺の半年前にさかのぼる。1940年の10月はじめのある晩、わたくしはバルトークの演奏会に出かけた。バルトークがみずからピアノを弾くというのは珍しいことだったし、それにこの演奏会には”お別れFarewell”という意味もこめられていた。30年も前のことなので記憶もすっかり薄れているが、ピアノを弾く手や身体は、どことなく弱々しく、拍手を受けてお辞儀をする姿にも沈痛の気分が漂よっていた。顔には何か思いつめたような表情があり、まなざしもくらかった。全体として悲愴の気に満ちたバルトークの姿だった。バルトークはそのあと間もなくブダペストを去ってアメリカにむかい、五年あとにニューヨークで客死したのである。後日バルトーク伝Béla Bartók: Biographyを読んで知ったところによると、バルトークは、ナチスに対してはじめから強い嫌厭の念をいだいていたらしい。そのナチスが、オーストリアやチェコスロバキアを征服し、フランスを破って事実上全ヨーロッパの主人公となり、ついにはハンガリーもその支配下におかれるにいたって、バルトークは深い絶望状態に陥ってしまった。そして、ナチス・バーバリズムNazi barbarismのそば近く生きなければならぬ苦痛から逃れるために、ブダペストを去る決意を固めることになったようである。
 ナチスのドイツから、ナチスのヨーロッパから去った文学者、音楽家、その他の芸術家は無数といっていいThere are countless literary figures, musicians, and other artists who left Nazi Germany and Nazi Europe. その去り方もまたさまざまであるThere are also various ways of leaving. トーマス・マンのように、ナチスに絶縁状Letter (insulated)breaking offを叩きつけ派手に去って行ったひともある。しかしわたくしは、きよらかな魂の拒絶にすべてを任せて、無言で静かに去っていったバルトークにより強い共感を覚える。

*Paul Thomas Mannパウル・トーマス・マン (UK: /ˈmæn/ MAN, US: /ˈmɑːn/ MAHN; German pronunciation: [ˈtoːmas ˈman] ; 6 June 1875 – 12 August 1955)Па́уль То́мас Манн was a German novelist, short story writer, social critic, philanthropist, essayist, and the 1929 Nobel Prize in Literature laureate. His highly symbolic and ironic epic novels and novellas are noted for their insight into the psychology of the artist and the intellectual. His analysis and critique of the European and German soul used modernized versions of German and Biblical stories, as well as the ideas of Johann Wolfgang von Goethe, Friedrich Nietzsche, and Arthur Schopenhauer. . . . In 1933, while travelling in the South of France and living in Sanary-sur-Mer, Mann heard from his eldest children, Klaus and Erika in Munich, that it would not be safe for him to return to Germany. The family (except these two children) emigrated to Küsnacht, near Zürich, Switzerland, but received Czechoslovak citizenship and a passport in 1936. . . . In 1939, following the German occupation of Czechoslovakia, Mann emigrated to the United States. He moved to Princeton, New Jersey, where he lived on 65 Stockton Street and began to teach at Princeton University.
 テレキーにしろ、バルトークにしろ、この二つの悲劇のどちらにもハンガリー音楽の短調のひびきがこもっているようにわたくしには思われてならない。

 スターリンの動揺
 ギリシャとユーゴスラビアが簡単に降服したことは、ソビエトにとって大きな失望だった。これでソビエトのバルカンにおける手がかりは一切消えてなくなった。ドイツのバルカン制覇に対して執拗に抵抗しつづけてきたソビエトも、ついにバルカンからの全面後退を認めざるをえなくなった。同時に、ソビエトの対独姿勢も大転換をとげることになる。挑戦、抵抗は、妥協、宥和に一変した。

 四月末から五月にかけて、独ソ国境におけるドイツ軍の集結ぶりは外目にも明らかになってきた。ソビエト軍首脳も、事態の重大性を認めざるを得なくなった。もちろんスターリンの許にも情報はどんどん流れた。ソビエト軍側でも、西部国境に大軍を待機させる命令を下した。しかし、スターリンはあくまでも”ドイツの不意打ちがあり得るGerman surprise attack possible”とは信じなかった。ヒトラーは、軍事的な圧力を背景として必らず話し合いを求めてくることをスターリンは疑わなかった。そして、「ヒトラーとの話し合いならば、うまく乗り切れるIf I have a discussion with Hitler, I can get through it.」という考えから、露骨な対独アピーズメントのジェスチャーがはじまった。そのうちのひとつ、スターリンみずからモスクワ駅頭で演じた芝居は、第二次世界大戦を通じてもっともグロテスクなコメディのひとつとされている。

 話は4月14日のことである。その前日、日ソ中立条約を調印した松岡洋右Yōsuke Matsuoka(当時の外務大臣Minister of Foreign Affairs at the time)がこの日モスクワを出発することになっていた。駅には枢軸諸国の外交官たちが大勢見送りにきていた。スターリンはひょっこりそこに姿をあらわした。スターリンが見送りのため駅にやってくる、ということはまったく前例のないことなので、ひとびとはびっくりした。スターリンは、まず松岡とあいさつをかわし、「われわれはアジア人同志だ。だからお互いによく理解し合うことができるはずだWe are fellow Asians. So we should be able to understand each other well.」と述べたあと、ドイツ大使を探し求めた。
*【追加参照資料Additional reference material】「・・・彼(スターリン)は、調印式のあとの宴会で、日本の一軍人に、『これで日本も、安心して南進できる』と語りAt a banquet after the signing ceremony, he (Stalin) told a Japanese military officer, "Now Japan can advance southward with peace of mind''、松岡外相がモスクワをはなれる夕方、慣例をやぶって、駅にきて、外相にキスし、その体を抱擁したIn the evening before Foreign Minister Matsuoka left Moscow, Stalin broke with tradition and came to the station, kissed him, and embraced him. このとき、スターリンは、酒に酔っていたというがIt is said that Stalin was drunk at the time、そのキスと抱擁とは、日本とドイツのはさみうちから、ソ連を救った喜びの表現であったのだろうbut, those kisses and hugs were probably an expression of joy at having saved the Soviet Union from the clutches of Japan and Germany.(家永三郎Saburō Ienaga『日本の歴史History of Japan』(1987年)ほるぷ出版Holp Publishing)。

 そしてシューレンブルクを見つけると、大使の肩を抱きながら大声で話しかけた。
 「わたしたちはいつまでも友人でいなければなりませんぞ。あなたはこのため全力をつくさなければならないWe must remain friends forever. You have to do your best for this.

 つづいてスターリンは、ドイツ大使館付武官に向って、「われわれは、いかなることがあろうと君たちと友だちでいるんだよWe will be your friends no matter what.」と語った。「どんなことがあろうと、ドイツとは友だちなんだNo matter what happens, we are friends with Germany.」というスターリンのこのせりふには、ドイツがどんな提案を持出そうとも、ソビエトはそれを呑むんだNo matter what Germany proposes, the Soviets will accept it、という明白な意志表示が含まれていたのである。二年前、ヒトラーとの間に交した隠微な信号とおなじ性質のものだったが、このときのヒトラーにはもはや何の意味もないものになっていた。それを悟らなかったスターリンは五月から六月にかけて、あの手この手で対独宥和のポーズをとりつづけた。
 5月6日、突然、みずから人民委員議長に就任したのもそれであったし、これまで承認を拒否していたイラクの親独政府を承認したのもそのひとつである。つづいて、これまでモスクワに残っていた、ベルギー、ノルウェー、ユーゴスラビアなどの公館閉鎖を命じたこと、独ソ開戦の一週間前の6月14日には、”独ソ開戦近しGermany-Soviet war approaching”という流言を飛ばしたという理由で、クリップス英大使を非難する声明をタス通信が出したこと、いずれもベルリン向けの御機嫌とりだったのである。しかし、すべては徒労だった。

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