日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

American black historyアメリカ黒人の歴史История негра в Америке/Sozo Honda本田 創造Создано Хондой☆African-Americanアフリカ系アメリカ人Афроамерика́нцы☭2022/12/11/CANADA🍁Антид Ото②


①「鎖につながれたわが同胞」と題するホイッティアの詩(1835年)に添えられた黒人奴隷Negro slave accompanying Whittier's poem (1835) entitled "Our Countrymen in Chains

②John Greenleaf Whittier (December 17, 1807 – September 7, 1892)Джон Гри́нлиф Уи́ттьер was an American Quaker poet and advocate of the abolition of slavery in the United States. Frequently listed as one of the fireside poets, he was influenced by the Scottish poet Robert Burns. Whittier is remembered particularly for his anti-slavery writings, as well as his 1866 book Snow-Bound.

①ジェームズタウン(JamestownДжеймстаун (Виргиния)は、イギリスが北アメリカに建設した最初の永続的植民地で、後のイギリス帝国の広大な植民地の端緒でもある②バージニア植民地(バージニアしょくみんちColonie de Virginie、英語: Colony of Virginiaは、北アメリカ大陸に設立されたイギリス領植民地であるВірджинія (колонія)
ジェームズタウン
アメリカ合衆国の歴史で、1620年、1776年、1863年、1929年などの年をあげれば、すぐにもメイフラワー号Mayflowerや独立宣言United States Declaration of Independenceや奴隷解放宣言Emancipation Proclamationや大恐慌The Great Depressionのことを思い浮かべることのできる人も、1619年という年を聞いただけで、あれか、とうなずける人はそう多くないだろう。しかし、1619年という年も、ここで一緒に記憶にとどめてほしい。
周知のように、北アメリカの恒久的なイギリス植民地は、1606年に、当時の国王ジェームズ一世James Iから得た勅許状にもとづいて、この年設立されたロンドン会社London Company(のちにヴァージニア会社Virginia Company)が、その翌年の1607年に、105人からなる植民者の一団を、新大陸の一地点に送りとどけたことから始まる。国王の名前をとってジェームズタウンと名づけられたジェームズ川James River畔のこの地が、北アメリカにおけるイギリス最初の植民地ヴァージニアの発祥地になった。ヴァージニアの呼称は、ジェームズ一世のすぐ前に王位にあって、すでにその治世に寵臣ウォルター・ローリ(サー・ウォルター・ローリー(Sir Walter Raleigh, 1554年 - 1618年10月29日)Во́лтер Ре́ліは、イングランドの廷臣、軍人、探検家、作家、詩人)をこの地方に派遣し、植民を試みたが失敗した処女王エリザベス一世Elizabeth Iの名前に由来する。
ウォルター・ローリによって、煙草のことはすでにイギリスに知られていたが、植民者とりわけ会社の指導的地位にあった貴族や商人たちは、初めから煙草栽培を目的にして、ここにやってきたのではなかった。かれらが最初に求めていたものは、メキシコMexicanosやペルーPerúを武力と奸計によって略奪した16世紀前半のスペインの征服者Conquistadorと同様、なによりも、まず金銀GoldSilverであり、ついで東洋への通商路Route to Asia だった。だが、数年にわたるジョン・スミス(ジョン・スミス(英: John Smith、1580年–1631年6月21日)Джон Смитはイギリスの軍人、植民請負人、船乗りおよび著作家である)をはじめとする探索者たちの未知の世界の調査や、困苦にみちた植民者たちの生活との闘いー1609-10年の冬はとりわけ厳しく「餓死の時期」と呼ばれ、当時500人に達していた植民者は60人に減って生存者の多くが植民を断念しようとさえしたーのすえに、かれらが抱いていた一攫千金の夢は空しくついえさった。金鉱は、ここでは、ついに発見されなかったからである。けれども、その代り、かれらは、それによってやがて黄金をもたらすことのできる貴重な植物を手に入れることができた。それは煙草Tobaccoであった。ジョン・ロルフ(ジョン・ロルフ(英: John Rolfe、1585年頃 - 1622年)Джон Рольфは、北アメリカのイギリス人初期入植者、商人)が、その栽培に初めて成功したのは、1612年のことである。
すでに現住インディアンーコロンブス(クリストファー・コロンブスChristopher Columbus1451年ごろ - 1506年5月20日)Cristoforo Colomboは、探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人Cristóbal ColónХристофор Колумбが初めて新大陸に到達したとき、そこをインディアス(当時のスペインでは東アジアをさした)と誤認して以来、北アメリカでこう呼ばれるようになったーによって作られていた煙草の栽培ならびにその葉の乾燥にロルフが成功したかげには、彼の妻となったインディアン酋長(首長)ポウハタンの娘ポカホンタスの助けが大きかったといわれる。ロルフとの結婚にさいして洗礼を受け、レベッカという洗礼名をもらった彼女は、また、この未知の大陸にきてまもない頃のジョン・スミスの危機を命がけで救ったという話で、今なお植民地開拓史上の美談の主にされている。ウィリアム・バードリッジWilliam Burdridgeの作になる彼女の像を、われわれは、こんにち、ジェームズタウンの旧蹟に見ることができる。
*インディアス(Las Indias)はスペイン人が発見・征服・植民した地域の総称で、現在の西インド諸島、アメリカ大陸の一部、およびフィリピン諸島を指す。元来は中国、日本を含む東アジア地域の総称であった。

①ポウハタン(英:Powhatan、綴りは Powatan あるいは Powhaten という形もある、あるいはポウハタン・レナペ、英:Powhatan Renape)は、アメリカインディアンの部族名である②ポウハタン酋長Powhatan (Native American leader)(ポウハタンしゅうちょうПоухатан (вождь)、ワフンセナカウWahunsenacawh、またはワフンスナコックWahunsunacock、1545年6月17日頃-1618年頃)Вахунсунакокは、ポウハタン族インディアンの酋長

③ポカホンタス(Pocahontas、1595年頃 - 1617年)Покахонтасは、ネイティブアメリカン・ポウハタン族 (Powhatan) の女性。英名「レベッカ・ロルフRebecca Rolfe」。本名はマトアカ (Matoaka) またはマトワ(Matowa)で、「ポカホンタス」とは、実際は彼女の戯れ好きな性格から来た「お転婆」「甘えん坊」を意味する幼少時のあだ名だった。

最初の黒人奴隷
アメリカ史上最初のアフリカ黒人が、植民地労働力としてヴァージニアに「輸入」されたのは、ちょうど、このような時期である。1619年8月20日、一隻のオランダNetherlands船がジェームズタウンにやってきて、20人のアフリカ黒人をここに陸上げして売り渡した。
もっとも、北アメリカ最初のアフリカ黒人といえば、コロンブスと一緒に新大陸にやってきた水先案内人の一人、ピェドロ・アロンソ・ニーニョ(Pedro Alonso Niño (c. 1455 – c. 1505)[1] was a Afro-Spanish explorer. He piloted the Santa María during Christopher Columbus's first voyage to the Americas in 1492,[1] and accompanied him on his third voyage in 1498 to Trinidad)が黒人だったという説は別にしても、コルテス(初代バジェ・デ・オアハカ侯爵エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロ(スペイン語: Hernán Cortés de Monroy y Pizarro, 1485年-1547年12月2日)Ферна́ндо Корте́с де Монро́й и Писа́рро Альтамира́ноは、スペインのコンキスタドール。メキシコ高原にあったĒxcān Tlahtōlōyānアステカ帝国Imperio aztecaを征服した)がメキシコを征服した直後の1526年に、のちのサウスカロライナSouth CarolinaのビーディBeady川口に植民地建設を試みたスペイン人のルカス・デ・アイリョンLucas Vázquez de Ayllón[a] (c. 1480[1] – 18 October 1526) was a Spanish magistrate and explorer who in 1526 established the short-lived San Miguel de Gualdape colony, one of the first European attempts at a settlement in what is now the United States)に連れてこられた黒人奴隷、また1528-36年にフロリダFloridaからメキシコにかけて探索を行なった、やはりスペイン人のカベサ・デ・バカ(アルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカ(Álvar Núñez Cabeza de Vaca, およそ1490年 - およそ1559年)Альвар Нуньєс Кабеса-де-Вакаは、スペインのコンキスタドール。初期の新世界の探検家であり、最初の人類学的著者として記憶されている)に同行した黒人エステバンなどの例がないわけではないが、その後のアメリカ黒人奴隷制度の発展という見地からみれば、この1619年のジェームズタウンにおける黒人の輸入が、この国の歴史で最初のアフリカ黒人として重要な位置をしめる。
①サン・ミゲル・デ・グアルダーぺ(San Migel de Gualdape)と呼ばれたこの植民地は、白人たちの酷使に耐えかねて暴動を起こした黒人奴隷の反抗によって失敗し、スペイン人はかれらを残したまま本国に逃げ帰ったが、黒人奴隷はその後サント・ドミンゴSanto Domingo(現ドミニカ共和国首都)に戻ったといわれている②イスパニョーラ島(イスパニョーラとう、フランス語: Hispaniola、スペイン語: La Española、ハイチ語: Ispayola)は、カリブ海にある大アンティル諸島に属する島である。西側3分の1をRepiblik d AyitiハイチRépublique d'Haïti、東側3分の2をRepública Dominicanaドミニカ共和国Dominican Republicが統治しているエステバ二コ(英語名はスティーヴンLittle Stephen)ともいう。彼は、1539年にも、メキシコからアリゾナArizona New MexicoニューメキシコNuevo México方面の探索を行なった探検隊の案内人をつとめたことで有名である④エステバニコ(Estevanico, およそ1503年 - 1539年)は北アフリカ出身のベルベル人Berbersで、探検家。エステバニコは当時ポルトガルの飛び領地だったモロッコMoroccoのアザモール(Azamor、現アゼンムールAzemmour)の町に生まれた。エステバニコは1513年にポルトガル人によって奴隷にされ、1520年にスペイン貴族のアンドレス・ドランテス・デ・カランツァAndres Dorantes de Carranzaに売られた。
それは、ヴァージニアについで、北アメリカにおける第二のイギリス植民地となっただけでなく、ヴァージニアがそれに属する南部植民地とは、あらゆる点で異質のもうひとつのイギリス植民地(北部植民地のもとになったプリマス植民地)が建設される一年数ヶ月前のことだった。その一年数ヶ月後の1920年11月には、102人からなる「巡礼始祖Pilgrim Fathers」を乗せたメイフラワー号が、予定の目的地ではなく、それより北のコッド岬Cape Codに着いてしまい、やむなくこの地に上陸することになったが、そのとき上陸に先立って、41人の成人男子が船上で「メイフラワー誓約」を取り決めたことは、よく知られている。

①プリマス植民地(プリマスしょくみんちColonia de Plymouth、英: Plymouth Colony, New Plymouth, The Old ColonyПлимутская колонияは、1620年から1691年までの北アメリカにおけるイギリス植民地の魁けである②ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim FathersОтцы-пилигримыは、イングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世による弾圧を恐れてメイフラワー号に乗り、アメリカに渡ったイングランド(イギリス)のピューリタン(清教徒)たちである。「Pilgrims」は「巡礼始祖」の意味。Pilgerväter필그림 파더스Pères pèlerins③メイフラワー誓約(英: Mayflower CompactМэйфлауэрское соглашениеとは、メイフラワー号で北アメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズが、プリマス植民地で作成し、のちのアメリカ連邦制の基礎の一つとなった文書。1620年11月20日、乗船客100人以上のうち41人によって署名された。

1619年という年については、もうひとつ、ふれておかねばならないことがある。というのは、このアメリカ最初の黒人売買が行なわれた。その同じ年の、月もひと月ちがいの7月に、やはり場所も同じジェームズタウンで、ヴァージニア植民地議会の代議員が初めて開かれたからである。その代議員の一人に、トマス・ジェファソンのアメリカ最初の先祖も含まれていた。

*トーマス・ジェファーソン(トマス・ジェファソン、英: Thomas Jefferson、1743年4月2日(ユリウス暦)/4月13日(グレゴリオ暦[注 1]) - 1826年7月4日)Томас Джефферсонは、アメリカ合衆国の政治家。第3代アメリカ合衆国大統領(1801年 - 1809年)で、「アメリカ独立宣言」の起草者のひとりである。
この代議員の開設は、この年にロンドン会社の支配人になったエドウィン・サンズの自由主義的方針に負うところが大きく、また、すべての立法は会社の承認を要するというようなことはあったが、いずれにしても、それは、植民地の自治がすでにはっきりしたかたちで始められていたことを意味し、その後のアメリカの代議制議会制度、したがってアメリカ民主主義の制度上の端緒として、ヴァージニア植民地のみならず、以後この国の全歴史的発展にとって記念すべき出来事となった。アメリカ史の多くの教科書には、それがアメリカ民主主義の萌芽をなすものとして、きわめて高く評価し、また誇りとする記述がみうけられる。
しかし、ここで、とくに指摘しておきたいことは、アメリカ最初の代議制議会の誕生という民主主義的なものの始まりと、アメリカ最初の黒人奴隷の輸入、すなわち生身の人間を動産とする黒人奴隷制度という非民主主義的なものの始まりとが、同じ時に、同じ場所で、同じ人間によってなされたことのアメリカ史の皮肉である。それは、たんに皮肉ということ以上に重要な歴史的意味を、その後のこの国の歴史において現実にもつことになるが、この二つの出来事は、偶然というには、あまりにも偶然的でありすぎた感がある。

奴隷貿易
奴隷取引の歴史はきわめて古い。また、アフリカ黒人だけが、無知蒙昧の故につねに奴隷にされてきた、ということもない。古代エジプトでは、あらゆる肌の色をした奴隷がみられ、その中にはもちろん多くのアフリカ黒人がいたが、ギリシャやローマではヨーロッパ人やアジア人が奴隷にされた。アフリカ黒人であることが、あたかも奴隷への道のパスポートであるかのような錯覚を人びとに起こさせる時代がやってきたのは、ヨーロッパで資本主義が勃興し始めてからのことである。

コロンブスが大西洋を横断するちょうど半世紀前の1441年、ポルトガルからアンタム・ゴンサルヴェスAntão Gonçalves Антан Гонсалвіш was a 15th-century Portuguese explorer who was the first European to capture Africans in the Rio do Ouro region)の指揮下に、「一隻の小さな帆船」が出帆した。彼が受けた命令は、それより数年前に他の船長たちがやっていたように、アフリカ西海岸に沿って南方に舵を向けることだった。彼は、新しい発見に出かけたわけではなく、ただポルトガル人が最近アフリカの大西洋岸で馴染みになった「海の狼」(トドアシカ)の皮と油の貨物を運ぶことによって、自分の値打ちを示すつもりでだった。

だが、青春の気にあふれたゴンサルヴェスは、ふと、この未知の国の住民を何人か生け捕りにして、エンリケ王子
(エンリケ航海王子(エンリケこうかいおうじ、Infante Dom Henrique、1394年3月4日 - 1460年11月13日[1])
Генрих Мореплавательは、ポルトガル王国の王子であり、自らは航海しなかったが、大航海時代の初期における重要人物の1人である)への土産に供することができたらと考えた。彼と仲間の乗組員は、この小さな船で、こんにちのモロッコの海岸ないし旧スペイン領西サハラSáhara Españolの沿岸あたりまでやってきていた。ついにゴンサルヴェスは部下九人を連れて海岸に上陸し、陸地に向かって歩を進めた。こうして、彼は一人の男と一人の女を生け捕ることに成功した。ちょうど、このとき、ヌニョ・トリスタンNuno TristãoНуну Тріштанwas a 15th-century Portuguese explorer and slave trader, active in the early 1440s, traditionally thought to be the first European to reach the region of Guinea)という、もう一人のポルトガル人が海岸にいた。この「勇敢で若い騎士」は武装した帆船の船長で、沿岸地方を探検し、できるだけ多くの「土人」を生け捕りにして持ち帰るよう命令を受けていた。そこで、二人の船長は、共同でこの仕事をすることになった。その夜、かれらは、ただちに「土人」を襲撃し、激しい戦いののち男女と少年あわせて10人を生け捕りにした。かれらは、こうして生け捕りにした12人をLisboaリスボンLisbonに連れて帰ったが、これを見たエンリケ王子は大いに喜び、Papaローマ法王Bishop of Romeに特別使節をたてて、この「十字軍」の今後の進め方について説明した。法王もこれを歓迎し、「この戦いに従事する者すべてにたいし、あらゆる罪の完全な赦免Full remission of all sins for all who engage in this battle」を与えた。
これが、サハラ以南におけるアフリカとヨーロッパとの最初の出会いの場面である。アフリカの歴史に恥辱と屈従と衰退の烙印を焼きつけ、19世紀に始まるヨーロッパ帝国主義のあのむきだしのアフリカ侵略=近代植民地主義にみちびいた。数世紀にわたる黒人奴隷貿易は、こうして今から550年程前の15世紀半ばに、まずポルトガルの手によって開始された。この黒人奴隷貿易は、世界近代史の最も血なまぐさい一局面をなすとともに、いわゆる資本の本源的蓄積過程においてきわめて重要な役割を果たしたが、そこでは人間が人間の尊厳はおろか、そもそも人間が人間であることさえ完全に否定されてしまった。リスボンの宮廷の熱心な支持のもとに、奴隷狩りはアフリカ海岸に沿って、ますます南のほうにおし拡げられていった。それとともに、奴隷狩りは奴隷貿易という商取引のかたちを整えていった。
*資本の本源的蓄積(しほんのほんげんてきちくせきAcumulación originaria、英 primitive accumulation of capital, 独 ursprüngliche Akkumulation des KapitalsПервісне нагромадження капіталуとは、封建社会が解体し、資本制社会が成立する過程における生産様式の変化のことを指す。Acumulação primitiva
16世紀から17世紀初頭にかけては、殆どポルトガルとスペインの独占の時代がつづいた。だが、他のヨーロッパ諸国がいつまでも黙ってこれを見ているわけがなかった。まもなくオランダ、ついでフランスが、さらにイギリスが、そのうちにはイギリス領アメリカ植民地までがこの「人肉市場」にくびを突っ込み、獅子のわけまえを主張し始めた。そして、このような事態を引き起こすことに道を開いたのが、あの「地理上の大発見」といわれる歴史上の大事件、とりわけ1492年のコロンブスの西インド諸島への到達だった。
ヨーロッパとアフリカとの出会いは、ここに新大陸アメリカが登場してきたことによって、突如として様相を一変した。1517年、スペインの植民地宣教師ラス・カサスは植民地に来住するスペイン人には黒人奴隷12人の所有を認める提案をしたが、これが新世界における奴隷貿易の始まりになった。1619年にオランダ船でジェームズタウンに連れてこられた20人のアフリカ黒人は、こうした歴史の流れの一滴だったわけである。

*バルトロメ・デ・ラス・カサス(Bartolomé de las Casas, 1484年8月24日 - 1566年7月17日)Бартоломе́ де лас Ка́сасは、16世紀スペイン出身のカトリック司祭、後にドミニコ会員、メキシコ・チアパス司教区の司教。当時スペインが国家をあげて植民・征服事業をすすめていた「新大陸」(中南米)における数々の不正行為と先住民(インディオ)に対する残虐行為を告発、同地におけるスペイン支配の不当性を訴えつづけた。
やがて時の経過とともに、イギリスが全面的に黒人奴隷貿易を専断する時代が到来する。1672年には、Duke of Yorkヨーク公James IIはじめ王政復古Stuart Restorationの王侯貴族、大商人、大プランターらによって巨大な奴隷貿易独占会社である王立アフリカ会社(王立アフリカ会社 (Royal African Company) Королевская Африканская компанияは1672年から1698年まで、奴隷貿易を含む対西アフリカ貿易を独占したイギリスの特許会社。ロンドン商人が中心となり、後にジェームズ二世となるヨーク公を代表として設立された)が設立された。スペイン王室は、1595年に新大陸の自国領植民地への奴隷貿易にかんし、従来の許可制に代って独占的請負制を導入していたが、アシエント(アシエント(スペイン語:asientoАсьентоは、スペイン語で「契約」を意味する歴史用語で、王室がある特定の個人や団体に徴税や貿易などの独占権を与えることを意味した)と呼ばれるこの奴隷供給契約は、1640年まではポルトガルの手にあったのに、そのうちオランダの手に渡り、さらに1701年にはフランスの手に移っていたが、1713年にはユトレヒト条約(ユトレヒト条約(ユトレヒトじょうやく、英: Treaty of UtrechtУтрехтський мир は、スペイン継承戦争を終結させるために、1713年4月から1715年2月にかけて、ネーデルラント連邦共和国Republiek der Zeven Verenigde Nederlandenのユトレヒトで結ばれた一連の平和条約の総称)の結果ついにイギリスの手に帰し、以後1750年までイギリスが保有した。しかし、イギリスにとっては、18世紀に入るとスペイン領植民地との奴隷貿易は次第に重要さを失い、むしろ北アメリカの自国の植民地のほうが、ますます多くの奴隷を必要とするようになってきていた。
こうした事情は、1698年に王立アフリカ会社が奴隷貿易の独占を廃止し、その代り10%程度の税を課すことによってこれをイギリス国旗を立てたすべての船舶に開放したことともあいまって、ついにイギリス領アメリカ植民地British America and the British West Indies(1776年に大西洋沿岸の13植民地が独立を宣言してアメリカ合衆国を建国するまで、北アメリカにおけるイギリス植民地の正式名称は「英領アメリカおよび英領西インド諸島Британская Америка и Британские Западные Индии」であった)をも奴隷貿易に駆りたてることになった。ニューイングランド(ニューイングランド(New England)は、アメリカ合衆国北東部の6州(北から南へメイン州、ニューハンプシャー州、バーモント州、マサチューセッツ州、ロードアイランド州、コネチカット州)を合わせた地方であるНова Англія。ボストンはこの地方における最大の都市であり、中心的存在である)の船主や大商人たちが、堰をきったようにこの儲けの多い取引に参加し始めた。アメリカ最初の奴隷船は、セイラム(マサチューセッツ)(セイラム(SalemСейлем (Массачусетс)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州エセックス郡Essex Countyに位置する都市である)の船舶で、『希望号DESIRE』と命名された。やがて、ロードアイランド(ロードアイランド州(ロードアイランドしゅう、英: State of Rhode Island、en-us-Rhode IslandРод-Айлендは、アメリカ合衆国東北部、ニューイングランド地方にある州)が黒人貿易の中心地になり、ニューポート(ニューポート(NewportНьюпортは、アメリカ合衆国ロードアイランド州南東部、ニューポート郡に位置する港湾都市)の歴史は規模こそ小さかったが、「リヴァプールの複製Liverpool replication」といわれた。
こうして、18世紀には黒人奴隷貿易は最盛期を迎え、このときまでに生れ故郷から一切を断ち切られて遠く異国に運び込まれたアフリカ黒人の数は「余りにも厖大too big」ということ以外に表現のしようがなく、正確な数字をあげることはできないが、たとえばエドワード・E・ダンバーEdward E Dunbarの1861年の推定によれば、16世紀には88万7500人、17世紀には275万人、18世紀には700万人、19世紀には325万人ということで、統計1400万人近くにもおよぶ。しかも、「一人の黒人を新大陸にもたらすまでには五人の黒人が途中で死んだFive Negroes died on the way before they brought one Negro to the New World」というW・E・B・デュボイスの言葉を基準にすれば、統計7000万人のアフリカ黒人が無残にも母国から奪い去られたことになる。ウィリアム・Z・フォスターは、「少なくとも6000万人at least 60 million」という数字をあげている。*

ウィリアム・エドワード・バーグハード・デュボイス(William Edward Burghardt Du Bois、[djuːˈbɔɪs] dew-BOYSS;[1][2]、1868年2月23日 - 1963年4月27日)Вільям Едуард Беркхардт Дюбойсは、アメリカの社会学者、社会主義者、歴史学者、公民権運動家、パン・アフリカ主義者、作家、編集者。

William Zebulon Foster (February 25, 1881 – September 1, 1961) was a radical American labor organizer and Communist politician, whose career included serving as General Secretary of the Communist Party USA from 1945 to 1957.
これらの黒人奴隷はブラジル、カリブ海諸島や中央アメリカ、イギリス領アメリカ植民地のいずれかに運び込まれたが、その内訳を数字で示すことは困難である。イギリス領アメリカ植民地へは、17世紀末までは西インド諸島を経由してくるほうが圧倒的に多かったが、18世紀に入ると直接ここに運び込まれることが次第に多くなった。
*統計学的手法を採用した近年の研究では、この数字はかなり少なくなっている。たとえば、1969年に出版されたフィリップ・D・カーティンの書物によれば、16世紀に24万1400人、17世紀に134万1100人、1701年から1810年の間に605万1700人、それ以後の19世紀に189万400人という数字があげられている。結局、彼の推定では統計が952万4600人t1000万足らずということになる。これにたいして、別の研究者からカーティンは過少に推定しすぎているという批判もある。
*フィリップ・カーティン(Philip De Armind Curtin、1922年5月22日 - 2009年6月4日)は、アメリカの歴史学者。ジョンズ・ホプキンス大学名誉教授。アフリカ史、とくに奴隷貿易の研究が専門。

*ミドル・パッセージ(英語: the Middle PassageMiddenpassageとは、大西洋間奴隷貿易において、アフリカの黒人奴隷たちを奴隷船に乗せて南北両アメリカ大陸へと運んだ道筋を指す言葉であるPasaje del medioPassage du milieu
「中間航路」の悲劇
ヨーロッパ諸国の場合も、イギリス領土アメリカ植民地の場合も、黒人奴隷貿易は、たいてい三角形の周囲を一周する大循環路によって行なわれた。ヨーロッパ諸国の場合は、安いヨーロッパ製品をアフリカに運び、ここでそれを奴隷に換えて、大西洋のかなたの新大陸に運び去る。新大陸に運び込まれた奴隷は、この地の特産物その他の品々と交換されて、再び海を渡ってヨーロッパに持ち帰られる。
イギリス領アメリカ植民地の場合は、この循環路はニューイングランドーアフリカ(主としてIvory Coast象牙海岸Côte d'Ivoire(現コートジボワール共和国République de Côte d'Ivoire旧「象牙海岸共和国」)、黄金海岸Gold Coast(黄金海岸(おうごんかいがん、葡: costa do ouro)は、金、石油、スイート原油、天然ガスが豊富な西アフリカWest Africaのギニア湾Golfe de Guinéeに面した地域の名称だった。この地域は現在、ガーナGhanaとして知られている)、とりわけ奴隷海岸Slave Coastなどの西海岸)-西インド諸島を結ぶ三角形となるのが、最も普通である。ニューイングランドからアフリカへはラム酒(ラム酒(ラムしゅ)またはラム(英語: rum、フランス語: rhum、スペイン語: ronРомとは、サトウキビの廃糖蜜または絞り汁を原料として作られる蒸留酒である)その他が運ばれ、そこでこれらの品々は奴隷に換えられ、こうして西インド諸島にもたらされた黒人貿易はラム酒製造のための糖蜜に姿を変えて、再びニューイングランドに帰ってくる。こうした循環貿易は、いわゆる『三角貿易』として知られるもののひとつで、この三角形の第二辺をなすアフリカと新大陸とを結ぶ大西洋横断航路が、史上に悪名高い「中間航路」である。黒人奴隷にとって、それは、文字通り生地獄だった。その航路の悲劇については幾多の記録が残されているが、たとえば1829年にR・ウォルシュR. Walshというイギリス人が見た光景は、彼によって次のように書き記されている。
「奴隷たちは、すべての甲板の下に鎖でつながれて詰め込まれていた。その場所は非常に低いので、かれらはお互いの足のあいだに坐り、またびっちり詰め込まれていたから、夜でも昼でも、横になることも場所をかえることさえできなかった。彼らは、だれかに所有され、所有主とは別な人間によって輸送されていたから、羊のように、所有主のさまざまな形の焼印を押されていた。胸の下、または腕に焼印を押され、船員が全く冷然と教えてくれたところでは、灼熱した鉄で焼かれたとのことであった・・・The slaves were crammed in chains under all decks. The place was so low that they sat between each other's legs, and were so tightly packed together that they could neither lie down nor change their place, night or day. Possessed by someone and transported by someone other than their owner, they were, like sheep, branded with various forms of their owners. They were branded under the chest or on the arms, and, as the sailors told me with complete coldness, they were burned with hot iron...」この奴隷船には男女あわせて505人の黒人奴隷がおり、17日間に55人死んで海中に棄てられたという。

*奴隷海岸(どれいかいがんCosta dos EscravosSlave CoastCôte des Esclavesは今日のトーゴ、ベナン、およびナイジェリア西部の海岸地帯のヨーロッパ勢による呼称Невольничий Берег。ベニン湾に沿った西アフリカの大西洋岸である。16世紀初頭のポルトガルの到来から19世紀初頭の奴隷貿易の公式廃止まで、大西洋岸の全域から多くの黒人奴隷が大西洋奴隷貿易で売られ、西欧や新世界(南北アメリカ大陸)へ運ばれる奴隷船に乗せられた。他の黄金海岸・象牙海岸・胡椒海岸(穀物海岸)と並び、「主要産品」にちなんで「奴隷海岸」と呼ばれた。奴隷商人は現地の黒人の部族に旧式の武器などを渡し、他の部族を襲わせ、武器の対価として奴隷を獲得した(三角貿易)。その数は1000万人とも2000万人とも言われており、大多数が働き盛りの男性だったことから、アフリカの人的・経済的・文化的な損失となった。
この三角貿易は、儲けの多い取引だった。ここでは、あからさまな不等価交換が二回にわたって行なわれ、それぞれの段階で法外な譲渡利潤が別個に搾出された。こうして別個に得られた利潤の和が三角貿易の儲けである。したがって、この儲けは倍化された譲渡利潤ともいうことができる。そして、この三角貿易をひとつの体系として支えていた基軸が奴隷取引で、中間航路は三角形の文字通り底辺だった。重商主義政策下のヨーロッパ商業資本は、利潤抽出のためのまさに恰好の場をここに見出したのである。新大陸の黒人奴隷制度は、こうして近世植民地奴隷制度として発生することになった。アメリカ黒人奴隷制度も、その例外ではなかった。本源的蓄積期のイギリスの落し子といわれる所以である。
*重商主義(じゅうしょうしゅぎ、英: mercantilismМеркантилізмとは、貿易などを通じて外貨準備などを蓄積することにより、貴金属や貨幣などの国富を増やすことを目指す経済思想や経済政策の総称。


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