日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

그래픽 보고서 청산되지 쇼 - 조선인 강제 연행의 기록 숲 栄代 [사진 · 글]/清算されない昭和 ー朝鮮人強制連行の記録/ 林 えいだい【写真・文】/Graphic report: Showa not liquidated-Record of forced compulsory Koreans転送追加(CANADA)2023/9/30②

               解説 高崎宗司
ー今、日本人にとって朝鮮人強制連行問題とは何か、それを一言で、謝罪と賠償をせまられている問題と言えよう。盧泰愚大統領の訪日を2ヶ月前にした今年(1990年)の3月26日、ソウルで、日本政府に賠償と謝罪を要求する集会が開かれた。主催団体は、強制徴用や徴兵で犠牲になった朝鮮人に対する損害賠償訴訟を準備中の「太平洋戦争犠牲者遺族会」(会長・襄海元)である。彼らは、参戦者と遺族あわせて600余名が参加した中で、「日本は、朝鮮植民地統治期間中、600万名の朝鮮人を強制連行し、このうち200万名を犠牲にしたにもかかわらず、去る1965年の日韓会談で2万1919名の死亡者名簿を提示しただけで、残りの犠牲者を行方不明と処理するなど、強制徴用や徴兵の資料を焼却・湮滅した」と指摘し、犠牲者名簿の公開、遺骸の発掘および送還、犠牲者に対する応分の賠償、遺族に対する精神的被害補償などを要求した。会員たちは、集会後、日本大使館を訪問して、謝罪と賠償を求める集会決議を伝達した。(この集会について、韓国の各紙は大きく伝えたが、日本の新聞は無視し、あるいは小さく報道しただけであった。)
ーそして4月12日、同会は「声明」を発表し、「盧泰愚大統領の訪日前に太平洋戦争の戦後処理および犠牲者の問題が解決されるよう外交的な努力を傾けること」を韓国政府に要請した。また4月21日には、同会の梁順任常任理事が日本の厚生省を訪ねて、強制徴用・徴兵者名簿の公開を要求した。さらに5月11日には集会を開き、日韓間の戦後処理問題が解決されるまで盧泰愚大統領の訪日に反対することを決めた。続いて、12日には、同会と「松代大本営韓人犠牲者真相糾明会」は合同で記者会見を行い、「明仁天皇におくる公開書簡」を発表し、植民地支配と戦後処理問題に対する明確な謝罪を要求した。盧泰愚大統領に随行して崔浩中外相は、5月25日、中山外相との会談で、強制連行された人たちの名簿作りへの協力をはじめて要望した。そして28日の衆議院予算委員会では、社会党・護憲共同の竹村泰子が、強制連行の数や内訳などについて質問した。それに対し、厚生・労働・外務各省とも「担当外」などの理由で答えられず、結局、中山外相が「政府として調査し報告する」と答えた。こうして、29日の閣議で、石原官房副長官を中心に名簿の所在を改めて調査し、政府としての統一見解をまとめる、との申し合わせが行われた。5月31日づけの『毎日新聞』は、明治大学の海野福寿が韓国記録保存所釜山支所に「倭政時被徴用者名簿」が保管されていることを明らかにしたことを伝えた。韓国各紙はその後の調査で、この名簿は1957年に徴用者や遺族の申告にもとづいて韓国政府が作成したもので、合計50~60万名分の名が登録されていると推定した。


―しかし、日本政府筋は、日本国内での調査にしぼり、韓国内にあるとされる各種の資料について韓国側にあるとされる各種の資料について韓国側に問い合わせる考えがないことを改めて明らかにした、「この問題にあまり深入りすると新たな補償問題を生みかねないという懸念もあって、各省庁とも及び腰の姿勢が目立つ」(『朝日新聞』6月2日づけ)のである。6月9日、第2次世界大戦中に強制連行され、旧大阪第2飛行場(現大阪国際空港)の拡張工事に従事していた朝鮮人の名簿が2冊、兵庫県伊丹市立博物館に保存されていたことがわかった。つづいて、沖縄県本部町発行の『本部町史・資料篇』に強制連行者の名簿の一部が収録されていることが関係者の指摘でわかった。このことから、日本と韓国の新聞や週刊誌そしてテレビが、強制連行関連のニュースを流し始めた、『朝日新聞』の「論理」は歴史教育者協議会会長・池田錬二の「強制連行調査 企業も対象に」を掲載し、6月26日から28日にかけて「いえぬ傷跡 朝鮮人強制連行」を連載した。それに前後して、『朝鮮時報』『統一日報』など、いわゆる民族紙が調査に乗り出し、キャンペーンをはった。政府の名簿調査は進まず、すでに調査を事実上打ち切ったところも10府県ある(『朝日新聞』6月30日づけ)が、それとは対照的に草の根の名簿掘り起こし運動は広がっている。そして、8月25日、26日の両日には名古屋市で、「強制連行・強制労働を考える全国交流集会」が開かれようとしている。強制連行問題は今、新しい段階を迎えつつあるのである。
―そうした中で本書が出版されることの意義は何か、それを確かめるために、朝鮮人強制連行問題についての研究史を概観してみよう。朝鮮人強制連行についてはじめて関心が高まったのは、1951年に始まった日韓会談が最終段階に入った1960年代前半のことであった。朝鮮植民地支配を美化し、韓国への再進出を目指す日本政府・独占資本に対して、植民地支配の実態を対置しようということで、強制連行に関する本がまとめられたからである。その本の名は、朝鮮大学校地理歴史学科『太平洋戦争中における朝鮮人労働者の強制連行についてー日本帝国主義の爪跡』(朝鮮大学校、1962年)と朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(未来社、1965年)であった。後者は、朝鮮人強制連行について書かれた古典的な著書として、その後も多くの読者に迎えられた。強制連行政策、強制連行者に対する労務管理や訓練、強制連行者の逃亡や死傷の状況などを全体的にまとめ、体験者の聞き書きを記録したこの本の価値は、今も失われていない。次に関心が高まったのは1972年、沖縄の本土復帰の年であった。弁護士尾崎陸や評論家藤島宇内を中心に「第2次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団」が結成され、「第2次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団報告書」がまとめられた。それは、「かつて沖縄戦に強制連行された朝鮮人に対する虐待、虐殺の実態と真相を調査することにより、ふたたびくり返されようとしている日本軍国主義の再侵略の意図をくじき、在日朝鮮人の人権を擁護すると共に、日韓両国人民をはじめとするアジア諸国民の友好関係の一層の増進をはかるため(『報告書』より)であった。

―調査団は、沖縄における調査を契機として、翌1973年には北海道、1974年には九州、1975年には東北を調査した。そして、『北海道朝鮮人強制連行―真相と虐殺の実態』『九州地方朝鮮人強制連行の実態』『東北朝鮮人強制連行の実態』をまとめた。また、『朝鮮人強制連行の記録―北海道・千島・樺太篇』(現代史出版会、1974年)を出版した。同書は、46名からの聞き書きを中心に収めた687ページにもなるものであった。こうした動きに刺激されて、在日朝鮮人2世による聞き書きが始まった。金賛汀編著『証言 朝鮮人強制連行』(新人物往来社)がそれである。3度目の関心の高まりをもたらしたのは、1977年に発行された吉田清治「朝鮮人慰安婦と日本人―元下関労務動員部長の手記」(新人物往来社)であった。この本は、加害者本人によるなまなましい強制連行の実態の告白であったという点で、画期的な本であった。(吉田については本書の冒頭部分でも触れられている。)1981年に出版された本書の著者林えいだいの『強制連行・強制労働―筑豊朝鮮人坑夫の記録』(現代史出版会)も、加害者である日本人側の証言を収めていたという点で、同様に貴重な仕事であった。1982年、日本の歴史教科書が国際的な批判を浴びるという事件がおこった。そして、強制連行に対する関心が高まった。新聞やテレビで朝鮮人強制連行問題を取り上げ、森岡武雄『はるかなる海峡―蔡晩鎖物語』(旭川出版社、後、民衆史道連出版部)や、相模湖ダムの歴史を記録する会編・発行『相模湖ダムの歴史―強制連行の証言記録』が出版された。そして翌1983年には、吉田清治『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房)や、鄭清正『怨(オン)と恨(ハン)と故国―わが子に綴る在日朝鮮人の記録』(日本エディタースクール出版部)が出版された。後者は強制連行された朝鮮人自身によって書かれたはじめての強制連行に関する本であった。また、1985年には、石田真弓『故郷はるかにー常盤炭鉱の朝鮮人労働者との出会い』(アジア問題研究史)が出版された。
-1986年以後、強制連行に関する本が続々と出版されるようになった。同年には、福地曠昭『袁号、朝鮮人の沖縄戦』(月刊沖縄社)や、強制連行に関するはじめての写真集である上の英信・趙根在監修『アリラン峠』(写真万葉録・筑豊9・葦書房)、長野県松代で強制労働に従事した朝鮮人の様子を、その労働者の子供の目で回想した山根昌子『遥かなる旅―戦後史の谷間から』(銀河書房)が出版された。そして、1987年には、韓国総務処政府記録保存所所蔵の『倭政時被徴用者名簿』などを利用した海野福寿・権丙卓『恨(ハン)=朝鮮人軍夫の沖縄戦』(河出書房新社)や、高木健一編著『待ちわびるハルモニたちーサハリンに残された韓国人と留守家族』(梨の木舎)、金慶海ほか、『鉱山と朝鮮人強制連行』(明石書店)が出版された。1988年には、強制連行者・鄭正漠の生涯を記録した林えいだい『朝鮮海峡―深くて暗い歴史』(明石書店)が、1989年には、林えいだい『消された朝鮮人強制連行の記録―関釜連絡船と火床の坑夫たち』(明石書店)が出版された。後者は63人の証言を中心にまとめられた733ページの大冊であった。
―今年1990年は、これまで続けられてきた市民運動の成果が出版された年として記憶されるであろう。すでに、札幌郷土を掘る会編・発行『海峡の波高くー札幌の朝鮮人強制連行と労働』や、土屋光男編『生徒たちのマツシロ大本営』(郷土出版社)、そして、兵庫朝鮮関係研究会『地下工場と朝鮮人強制連行』(明石書店)が出版され、強制連行問題に対する関心は、今、5度目の高まりを迎えている。「消された朝鮮人強制連行の記録」という裏付けをもつ林えいだいの本書は、前掲『アリラン峠』に収録された写真を遥かに上回る質量の写真でもって、強制連行に対する認識と関心を一段と高め、朝鮮に対する歴史的負債の清算を迫る有力な武器になるであろう。

*高崎宗司(たかさき そうじ、1944年 - )は、日本の歴史学者、韓国問題評論家、津田塾大学名誉教授。アジア女性基金運営審議会委員長。高崎宗司 (다카사키 소지, 1944 년 -)는 일본의 역사 학자 , 한국 문제 평론가 , 쓰다 주쿠 대학 명예 교수 . 아시아 여성 기금 운영 심의회 위원장. 

Bahasa Indonesiaインドネシア語→Takasaki Soji (高崎宗司, 1944 -) adalah Jepang sejarawan , Korea masalah kritikus , Tsuda Tinggi kehormatan profesor . Ketua Dewan Manajemen Dana Wanita Asia .


                     あとがき
ー筑豊に生まれ育った私は、地域的にも炭鉱との係りあいは深い。姉が炭鉱主のところへ嫁いで、4歳のころ母に連れられて遊びに行った。「大将、非常に起こった」と、労務係の1人が坑内事故を鉱主の義兄のところへ知らせにきた。炭鉱には事故はつきものといわれるが、私も義兄と一緒に坑口へと走って行った。そこには炭鉱で顔は真っ黒に汚れた坑夫が2人、担架に乗せられて横たわっていた。眼球が垂れ下がり、腹部が破裂して腸が飛びだし、低いうめき声を上げていた。「親方、この半島はどげっしましょうか?」「病院に連れていっても助かるまい。そこら辺りに穴を掘って埋めたらよか」義兄は無造作にいうと、そのまま家へ帰ってしまった。なぜ生きている人間を病院へ連れていって治療しないのかと、子供心に憤慨して、義兄の後姿をにらみつけたことを覚えている。坑口のすぐ側にスコップで穴が掘られ、2人の朝鮮人は生き埋めにされてしまった。それが強烈な印象として、こんにちまで記憶にのこっている。
-太平洋戦争が激化して、筑豊の炭鉱には朝鮮人が強制連行され、私の周辺では彼らの姿が目につくようになった。父が村の神社の神主で、毎朝参拝するので私もお供をした。お勤めが終わって帰ろうとしたところ、床下で何かごそごそと人のいる気配がした。床下へ潜って見ると、そこには朝鮮人が5,6人たむろして震えていた。「お前ら早う出てこい、飯をやるから心配するな」と父はいった。床下から出てきた彼らは、服は破れて全身血だらけで、目だけが異様に光っていた。福地山脈を越えて、炭鉱から逃げ出した朝鮮人を見つけたら村の駐在所に届け出るように、村長から回覧板がきていた。炭鉱の労務係が朝鮮人寮から逃げた人たちを追って、村の中を探し回っていた。私は父のいいつけで家に帰ると、母に麦飯を握ってもらい、井戸でバケツに水を汲んで再び神社に引き返した。父は握り飯と水を彼らに与えて気分を落ち着かせた後、どこの炭鉱から逃げてきたのかとたずねていた。1943年ごろになると、山越えして逃げてくる朝鮮人の数は増え、1ヶ月に5,6回は神社の床下に潜んでいるのを見つけた。父は知人の鉱山主(原石山)に話をつけて、仕事の世話をした。彼らの殆どは、父に朝鮮の故郷に帰りたいから下関まで連れて行ってくれと、片言の日本語で哀願した。列車の切符も配給制度で、小さな駅ではなかなか手に入らなかったが、下関まで送って関釜連絡船に乗船させた。私も、4,5回ついて行ったが、貧乏神主の父がその旅費をどう工面したのかは知らない。そうした行為がバレたら国賊とまでいわれた時代のこと、駐在所に渡さず下関まで送ってやった父は立派だったと尊敬している。こんにち私が朝鮮人問題に関心をもち始めたのは、幼いころのそうした原体験の延長戦上にあるともいえる。
―韓国に取材に行って田舎に泊っていると、私がきていることを知って、関係者が訪ねてくる。父親が徴用されたまま帰ってこないので、探してくれという。夫が、兄弟が、息子がと、その消息をたずねられると、加害者側の日本人の1人として身の置き場もなくなる。サハリンをはじめ、北は北海道から南は沖縄にいたるまで、日本列島はまさに朝鮮人の血と汗にまみれた犠牲者の白骨列島なのである。お寺の過去帳にでてくる朝鮮人に、ただ「鮮人」としか書いてないものがある。死してなお自分の本名もなく、“創始改名”の名前を見るにつけ、日本国と日本人の原罪を見る思いがする。引き取り手もなく異国の地に眠る遺骨は、自分の故郷に帰る道を閉ざされたままである。これまで放置したのは、いったい誰なのであろうか。韓国の盧泰愚大統領の来日の際、外務大臣が強制連行した朝鮮人の名簿の提出を日本政府に要求したことで、敗戦後40数年にしてはじめて名簿問題が公的に明らかになろうとしている。だが賠償問題がからんでいるだけに、日本政府は本気になってやるはずがない。戦争責任をとる意志があれば、戦後すぐの段階でとりかかっていたはずである。戦争遂行のために国策として朝鮮人を強制連行したのは日本政府であり、企業は労働者不足を補充するために労働力として酷使したわけで、その責任上もっと早く戦後処理をしなければならなかった。無差別に、無理矢理に朝鮮人を狩り出したこと、それが権力によって行われたということは、国家的犯罪といわなければならない。現在もなお統く家族探しや遺骨の問題を含めて、朝鮮人強制連行と徴兵の問題は、何ら解決してはいないのである。朝鮮植民地統治の後遺症はいまなお続き、彼らにとって、戦争はまだ終ってはいない。
ー日本人ほど過去のことを忘れやすい民族は、世界に類がないと思う。自国にとって都合の悪いことは、故意に消そうとしているのが現状である。教科書問題に見る文部省の考え方は、過去の歴史の事実に目を閉じさせようとしている。歴史の教訓に学ばない民族は、結局自ら滅亡の道を歩むしかないだろう。強制連行した朝鮮人の名簿探しの問題だけでなく、日本政府は戦争責任をはっきりと取るべきである。朝鮮を植民地支配して、なおかつ反省のない状態では、朝鮮半島の隣国と日本とのこれからの友好もないだろうし、新しい展望も開けない。終わりに、本書をまとめるにあたって、過去の事実を正確に記録するために、歴史的・資料的な記述に際しては「半島」「鮮人」等の差別語をそのまま使用したことをお断りしておきたい。また、貴重な写真や史実を提供していただいた多くの方々に、この場を借りて厚くお礼を申し上げたい。岩波書店編集部の片岡健さんには、私のわがままを通させていただいたことを感謝して、あとがきとしたい。    1990年8月7日  林えいだい


*林 えいだい(はやし えいだい、本名・林 栄代〔しげのり〕、1933年12月4日 - 2017年9月1日)は、日本の記録作家。アリラン文庫主宰。強制動員真相究明ネットワーク呼びかけ人。福岡県田川郡採銅所村(現・香春町)生まれ하야시 에다이林えいだい (하야시 에다이, 본명·하야시 에이요[시게노리],1933년 12월 4일 -2017 년 9월 1일 )는 일본의 기록 작가. 아리랑 문고 주재. 강제동원 진상규명 네트워크 호소인. 神主だった実父は、脱走してきた朝鮮人炭鉱労働者を匿い、特高警察に検挙され、拷問の後間もなく死去した。林は2017年の新聞記事で「私を奮い立たせるものは何か。元をたどればそこに行き着く」と述べている。Deutschドイツ語→Eidai Hayashi (bürgerlicher Name Shigenori Hayashi, 4. Dezember 1933 – 1. September 2017) war ein japanischer Dokumentarfilmer. Er ist der Kopf von Arirang Bunko. Er ist Mitglied des Forced Mobilization Truth Investigation Network. Geboren im Dorf Dodosho, Bezirk Tagawa, Präfektur Fukuoka (derzeit Stadt Kaharu). Sein leiblicher Vater, ein Priester, versteckte einen entflohenen koreanischen Bergmann, wurde von einer Sonderpolizei der Oberschule festgenommen und starb kurz nach der Folter. In einem Zeitungsartikel aus dem Jahr 2017 sagte Hayashi: „Was motiviert mich?“ „Wenn ich zur Quelle zurückverfolge, werde ich dort landen.“

松代大本営建設の徴用Requisition for construction of Matsushiro Imperial Headquarters
1944年11月11日から着工された松代大本営建設における徴用の場合、当初は朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が、1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が交代で作業したIn the case of requisitions for the construction of the Matsushiro Imperial Headquarters, which began on November 11, 1944, approximately 7,000 Koreans and 3,000 Japanese were initially employed, and around April 1945, 10,000 Japanese and Koreans worked in shifts. 延べ人数では西松組・鹿島組県土木部工事関係12万人、付近の住民などの勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人だったThe total number of people included 120,000 people involved in the Nishimatsu-gumi and Kashima-gumi prefectural civil engineering departments, 79,600 labor service volunteers such as nearby residents, 157,000 people related to Nishimatsu-gumi and Kashima-gumi, and 254,000 Korean workers. The total number of people was 610,600.「勤労報国隊」「勤労報国会」そして学生や生徒,児童などの日本人も工事に携わっていた"Kinro Hokokutai=Labor patriotism corps'', "Kinro Hokukai=Labor patriotism association'', and Japanese students, pupils, and children were also involved in the construction work. しかしその労働は過酷であり、松代大本営の地下壕の掘削は、そのほとんどが朝鮮人の手で進められたというHowever, the labor was grueling, and it is said that most of the excavation of the underground bunker at Matsushiro Imperial Headquarters was carried out by Koreans.
「松代」で働かされていた朝鮮人の中には、給金がもらえるものがいたし、「怪我や病気なんかするとすぐに病院にいけた」と言う者もいたSome of the Koreans who were forced to work at Matsushiro received a salary, and some said that they could go to the hospital immediately if they were injured or sick.しかし一方でその生活は極めて劣悪であり、3k労働である上に、食事はコーリャンに塩をかけたもので、量も少なく栄養失調や目が見えなくなった人もいたというHowever, on the other hand, their lives were extremely poor, with 3k hours of labor and their meals consisting of kolyang with salt sprinkled on them, and the portions were so small that some people suffered from malnutrition and even lost their eyesight.また、朝鮮語を話しただけでもリンチを受け、あまりに酷い扱いに耐え切れず逃げ出すと見せしめに拷問を受けたという証言もあるThere are also testimonies that they were lynched for even speaking Korean, and that when they could no longer endure the harsh treatment and ran away, they were tortured as a demonstration.そして天皇の「ご座所」を掘った朝鮮人180名は、秘密漏洩を防ぐため殺害されたとも言われているIt is also said that the 180 Koreans who dug into the Emperor's throne were killed to prevent secrets from being leaked.山口公一によると、こうして動員された強制労働は過酷を極め、炭鉱労働者の場合「たこ部屋」に入れられ、12時間を超える平均労働時間、生命の危険が多い炭鉱夫への配置がなされ、実際に死亡率が高かった
According to Koichi Yamaguchi, the forced labor mobilized in this way was extremely harsh, with coal miners being placed in ``octopus rooms,'' with average working hours exceeding 12 hours, and being placed in coal miners where their lives were often in danger. , the mortality rate was actually high. また、賃金は日本人の半分程度であり、強制貯金と労務係のピンハネの結果、手元には残らなかった、というIn addition, their wages were about half of those of Japanese people, and as a result of forced savings and interference from the labor department, they said they had no money left.



①사실을 세계에 발신하는 모임史実を世界に発信する会 (시지츠를 헛소리하는 법)은 영어 인터넷 권에 만연하고 있는 사실에 대항하기 위해 사료에 근거한 일본어 문헌을 전문 번역가 에게 영어 번역 받고 인터넷 공개하는 것을 활동 내용으로 하는 단체. 영어명은 「Society for Dissemination of Historical Fact」. 덧붙여 자매 사이트로서 「영역 일본의 역사관」이 있다. 이곳은 민간 자원 봉사자 에 의한 간단한 영역 작업으로 붐비고 있다.

2022/11/15ーDiplomatic critic Mr. Hideaki Kase dies; conservative commentator
②가세 히데아키(일본어: 加瀬 英明, 1936년 12월 22일 ~ 2022년 11월 15일)는 일본의 우익 외교 평론가, 언론인겸 로비스트이다. 부친은 일본 패전전후에 초대 유엔대표부 특명전권대사등을 지낸 외교관 가세 도시카즈(加瀬俊一)이며, 모친은 일본흥업은행총재 오노 에이지로[1](小野英二郎)의 딸이다. 또한 존 레논의 아내 오노 요코는 가세의 사촌이다. 후소샤를 대신하여 새로운 역사 교과서를 만드는 모임(약칭 새역모)의 교과서를 간행하는 지유샤(自由社)의 대표이사이며, 우익잡지 월간 자유의 편집의원대표이다. 반한 서적 《추한 한국인》의 저자이다.Хидеаки Касэ (加瀬 英明, Kase Hideaki?) , урожденная ле22 декабря 1936 г.в Токио и умер15 ноября 2022 г.Sep 15, 2012 — 謝罪と賠償Entschuldigung und Entschädigung -- 『醜い韓国人』を書いた醜い日本人Der hässliche Japaner, der „Ugly Korean“ geschrieben hat

③Kase is said to be the author of “Minikui Kankoku-jin (Ugly Koreans)醜い韓国人 / 朴 泰赫박태혁【著】《パク/テヒョク》,” which was published under the name of a fictitious Korean journalist.카세는 한국의 가상 언론인의 이름으로 출간된 『미운 한국인』의 저자라고 한다.

Forced recruitment強制連行 is a term used to refer to the labor mobilization of Chinese and Koreans carried out by the Japanese government based on the National General Mobilization Act from the Sino-Japanese War to the Pacific War. It appeared in the 1950s and is said to have been popularized by Park Kyung-sik 's book "Records of the Forced Reduction of Koreans.'' It is also sometimes used to mean subtraction by public authorities, etc.

Polskiポーランド語→Korea była pod okupacją japońską przez 35 lat, od 22 sierpnia 1910 do 15 sierpnia 1945 roku, jako Generalne Gubernatorstwo Korei朝鮮日治時期,大韩民国和朝鲜民主主义人民共和国稱日帝強佔期朝鮮語일제강점기日帝强占期 iljegangjeomgi). W 1910 roku ostatni koreański cesarz Sunjong podpisał traktat aneksyjny swojego kraju po tym Japonia anektowała Koreę. Protektorat zmieniono na Generalne Gubernatorstwo Korei. Pod panowaniem japońskim zaczęła rozwijać się gospodarka. Na północy rozwijał się przemysł, a na żyznym południu zmodernizowano rolnictwo. Zaczęła się japonizacja społeczeństwa, Koreańczycy jednak nie pogodzili się z obcym panowaniem i organizowali protesty przeciwko japońskim rządom, natomiast Japończycy bezwzględnie rozprawiali się z przejawami niezależności ze strony Koreańczyków. Japońskie rządy zakończyły się po klęsce Japonii w II wojnie światowej wraz z wkroczeniem Armii Czerwonej od północy, a wojska amerykańskie zajęły południową część kraju. Wzdłuż 38 równoleżnika powstała linia demarkacyjna, która stała się przyczyną powojennego podziału półwyspu na dwa zwaśnione państwa koreańskie.


고바야시 요시노리(일본어: 小林 よしのり, 본명: 고바야시 요시노리(일본어: 小林 善範), 1953년 8월 31일 ~ )는 일본의 만화가이자 평론가이다. 1976년에 만화가로 데뷔한 이후에 만화 《도쿄 대학 일직선》, 《왕괴짜 돈만이》를 발표하며 이름을 알렸다. 1992년에 《고마니즘 선언》을 발표하면서 정치·시사·사회 평론가로도 활동했다.

①2016-02-18 ー“Japan-Korea comfort women ‘agreement’ betrayal” Yoshinori Kobayashi Rising Vol.166

②2019-09-17ー闘論席Discussion table:リベラル左翼のやり方では日韓関係は好転しないJapan-Korea relations will not improve with the liberal left's approach - 小林よしのり(漫画家)Yoshinori Kobayashi (manga artist)
With the Japanese government removing South Korea from its list of "white countries'' and the South Korean government's decision to abolish the GSOMIA (Japan-Korea General Security of Military Information Agreement), Japan-Korea relations are all the rage. In the first place, this issue stemmed from South Korea's reversal of the issue of compensation for former conscripted laborers, which had been "completely and finally resolved'' in the 1965 Claims Agreement accompanying the Treaty on Basic Relations between Japan and Korea, and declared it "not yet resolved.'' is the origin. Therefore, Japan just needs to stick to the principle that it is wrong to not abide by international law and international treaties.



鄭 大均(てい たいきん(정대균、チョン・テギュン、Chung Daekyun)、1948年4月8日- )は、日本の東洋学の学者。東京都立大学名誉教授정대균Chung Daekyun, 1948년 4월 8일 - 은 일본의 동양학 학자専攻は東アジアのナショナル・アイデンティティ、日韓関係論、第12回大平正芳記念賞を受賞 is a Japanese scholar of Oriental studies.Professor Emeritus of Tokyo Metropolitan University . His majors are East Asian national identity and Japan-Korea relations, and he won the 12th Masayoshi Ohira Memorial Prize.
*강제납치 신화The myth of forced abduction in Japan

마츠키 쿠니토시松木 国俊 (まつき くにとし, 1950년 (쇼와 25년) 熊本県出身- )는 일본의 실업가 , 「조선문제연구가」. '조선근현대사연구소' 소장Kunitoshi Matsuki (born 1950 ) is a Japanese businessman and "Korean issue researcher.'' He is the director of the Institute for Modern and Contemporary Korean History.
*현실은 '한일병합'이 대한민국을 구했다!In reality, “Japan-Korea annexation” saved South Korea!
지금까지의 한일 역사 인식은 거짓말 투성이! 전후 행해진 역사의 왜곡을 1차 자료에 의해 밝히고, 한일 사이에 상호이해와 호혜평등의 관계를 형성하려면 어떻게 하면 좋을지를 생각한다. 〔「은을 원대로 돌려주는 나라・한국」(2019년 간)The understanding of Japanese and Korean history so far is full of lies! We will use primary sources to clarify the distortions of history that took place after the war, and consider what we can do to form a relationship of mutual understanding and mutual benefit and equality between Japan and South Korea. [“Korea, a country that repays kindness with a revenge” (published in 2019)



김용운(金容雲, 1927년 9월 6일 ~ 2020년 5월 30일)은 대한민국의 수학자, 철학자, 문명 비평가이다. 수학, 철학, 인류학, 언어학의 여러 분야에서 활동하였으며, 한국의 수학사를 확립하였다는 평가를 받는다. 한양대학교 수학과 교수로 재직하였다. 본관은 광산이다.Kim Yong-un (Korean: 김용운; September 6, 1927 – May 30, 2020) was a South Korean mathematician, philosopher, and critic of civilisations. He was active in various fields of mathematics, philosophy, anthropology, and linguistics, and is considered to have established the history of mathematics in Korea. He was a professor of mathematics at Hanyang University.

Русскийロシア語→Масахидэ Ота ​​(大田昌秀, Ота Масахидэ ? ) — японский политик и учёный , родившийся12 июня 1925 г.в Кумедзиме и умер12 июня 2017 г. Он занимал пост губернатора Окинавы с 1990 по 1998 год . Именно под его руководством в 1995 году был установлен памятник « Краеугольный камень мира» , посвященный пятидесятилетию битвы за Окинаву и окончанию Второй мировой войны.
*2000/05/16ーNew edition Ugly Japanese - Japanese awareness of Okinawa       Written by Masahide Ōta
Have the Japanese been able to escape from their ugliness? This is a new edition of the old book that showed the origins of the Okinawa issue, with additions of his experiences as a governor.


Українськаウクライナ語→Коре́йське генера́л-губерна́торство (яп. 【朝鮮総督府】, ちょうせんそうとくふ, Чьōсен сōтоку-фу) — адміністративно-територіальна одиниця Японської імперії в 1910—1945 роках в Кореї й прилеглих островах, генерал-губернаторство.

Record of forced abduction of Koreans - Written by Park Kyung-sik朴慶植박경식
私たちはかりにヒロシマを忘れても朝鮮を忘れてはならない。なぜなら、それは被害の記録ではなく、加害の記録だから。本書は、連行され虐殺された朝鮮人の血と告発の記録であるEven if we forget Hiroshima, we must not forget Korea. This is because it is not a record of damage, but a record of perpetrators. This book is a record of the blood and accusations of the Koreans who were taken away and massacred.


金 賛汀(きん さんてい、キムチャンジョン、1937年2月26日 -2018年4月2日)は、在日二世のノンフィクション作家김 찬정(1937년 2월 26일 ~ 2018년 4월 2일)은 재일조선인 2세대 논픽션 작가이다. Kim Chan-jeong (February 26, 1937 - April 2, 2018) was a second-generation Zainichi Korean nonfiction writer.
*증언 조선인 강제연행Forced abduction of Korean testimonies


Русскийロシア語→Принудительная вербовка強制連行Корейский принудительный труд — это термин, используемый для обозначения трудовой мобилизации китайцев и корейцев, проводимой японским правительством на основе Закона о национальной всеобщей мобилизации, начиная с китайско-японской войны до войны на Тихом океане. Оно появилось в 1950-х годах и, как говорят, было популяризировано книгой Пак Кён Сика «Записи о насильственном сокращении корейцев». Иногда оно также используется для обозначения вычитания со стороны государственных органов и т. д.

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