日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

그래픽 보고서 청산되지 쇼 - 조선인 강제 연행의 기록 숲 栄代 [사진 · 글]/清算されない昭和 ー朝鮮人強制連行の記録/ 林 えいだい【写真・文】/Graphic report: Showa not liquidated-Record of forced compulsory Koreans転送追加(CANADA)2023/9/30①


<グラフィック・レポート>『清算されない昭和』-朝鮮人強制連行の記録ー
 <写真・文>林えいだい <序文>朴慶植 <解説>高崎宗司 岩波書店(1990年)

         序文  ー日本政府の責任を問うー                 朴慶植

 朝鮮人強制連行は日本の朝鮮植民地支配の最後の時期、その軍国主義の露骨な牙をむきだしにした侵略戦争遂行のための凶暴な政策であった。日本は米・英帝国主義を背景に武力と奸計によって、1910年8月朝鮮の国土を奪って植民地としたのち、一切の政治的権利の剥奪、苛酷な経済的収奪、民族意識・思想・文化の抑圧、”皇民化”の強制、そしてこの強制連行といわれる労働力・兵力として人間の略奪を行った。日本近代史において当然のことながら、朝鮮植民地支配についての歴史的事実の科学的研究とその正確な記述がなされなければならない。明治以来のアジア侵略、そして台湾、朝鮮、”満州国”などの植民地支配の問題を抜きにしては、正しい日本の近代史を語ることも、叙述することもできない。日本は戦後責任として当然、朝鮮植民地支配の歴史的事実を明らかにするとともに、それに対する償いがなされなければならなかった。しかしこれまで日本政府はこれらの歴史事実を明らかにしないだけでなく、却って歪曲、隠蔽したりしてそれを合法化し、適正な対策を講じようとしなかった。1965年の”日韓条約”における日本政府のあり方がそうであった。このことは日本の近現代史研究や日本国民の意識にも反映して、歴史認識がいびつなものになっている。

 以下強制連行がどういうものであったかを、若干言及してみよう。1938年4月、日本政府は中国への侵略戦争の拡大にともなって「国家総動員法」をつくり、翌年7月労働力総動員のための「国民徴用令」を公布し、これを朝鮮人に適用して、日本・朝鮮内、その他への強制連行(徴用)が開始されるようになった。企画院の「労務動員計画」で労務供給源の一つとして「朝鮮人労務者の重要産業への移入」が決定され(1925年以来の「朝鮮人労働者移入制限方針」の解消)、労働力の不足を告げていた炭坑、鉱山および土建業への集団的連行となった。しかし朝鮮人に対する「徴用令の発動は、ともすれば無用の誤解摩擦を招くおそれがあった」として、徴用令そのままの形での適用を避け、欺瞞的な方法をとった。1937年7月内務・厚生両次官名義の通牒「朝鮮人労務者内地移住(入)二関スル件」によって、同年度は8万5000人の集団的「移入」が各企業に認可された。そして「朝鮮人労働者募集要網」などが定められ、「募集」方式の連行となった。「募集」による朝鮮人労働者は「思想堅実、身元確実、身体強健にして、成るべき国語を理解し、所轄警察署長において内地渡航支障なしと認定したる者に限る」とし、「内地渡航後の心得」として厳しい規則が設けられていた。この方式は1941年まで続けられたが、太平洋戦争が起こり、労務動員の強化の必要から1942年2月の閣議決定「朝鮮人労務者活用二関スル方策」に基づく朝鮮総督府の「朝鮮人内地移入斡旋要網」がつくられ、より強力な動員政策をとった。これがいわゆる「官斡旋」方式で、朝鮮総督府が主体の朝鮮労務協会や朝鮮人労務者輸送協議会がつくられ、労務者供出、輸送、訓練などで綿密な計画のもとに連行が進められた。1944年に入ると労働力の充足がより切実な問題となり、「半島労務者ノ移入二関スル件」など二度の閣議決定を経て、9月から「内地労務送出者ヲ能フ限リ広範囲二一般徴用二依リ動員」することとなり、「一般徴用」方式に切換えられた。「国民徴用令」による労務者動員は在日朝鮮人にも適用されている。

 次に朝鮮からの連行状況をみると、各企業の労務係は割当てられた員数の朝鮮人労務者を連行するために、朝鮮の予め指定の地域に出張し、総督府(道庁、群庁、面事務所)官公使、警察官、地方有力者らと一体となって欺瞞的、暴力的方法で朝鮮人を狩り集め、監視付きで炭坑や軍需工場に送り込んだ。大部分の者が行先や仕事の内容を知らされてなかった(連行者の名簿作成、写真撮影は行っている)。(中略)こうして「国民徴用令」によって強制的に日本内に動員された朝鮮人労務者は、1939~45年間に約150万人(朝鮮総督府の帝国議会説明資料および「特高月報」から算定)を数え、朝鮮内の労務動員は450万人を超える(日本政府はいまだにこれらの動員数を公表していない)。前記の日本内での動員数150万人を就業別にみると、石炭山約60万人、金属山約15万人、軍需工場約40万人、土建業約30万人、港湾荷役約5万人である。この他軍人(志願兵・徴兵)、軍属(軍要員)として36万4186人(軍人20万9279人、軍属15万4907人ー厚生省第二復員局調査)、また女子挺身隊の名のもとに数万人が従軍慰安婦として連行された。日本への強制連行に対して各企業では、いわゆる「皇国臣民タルノ資質ノ練成」として、朝鮮現地訓練、就労地到着訓練、皇民訓練、国語訓練、生活訓練などを実施し、”皇国臣民”思想をたたきこみ、多くの精神的苦痛を与えた。その上、かれらは食事、賃金などの民族的差別待遇をうけ、労働保護設備もなく、最も危険な労働に狩り出され、労務監督の暴力的労務管理のもとで強制労働に従事することを強いられた。しかし朝鮮人労働者はこのような苛酷な条件のもとでも抵抗した。まず死傷事故の多い炭坑などからの、消極的ではあるが逃走という抵抗を行った。1942年に平均35・6%、43~45年ではさらに高率となっている。次に待遇改善、契約違反、暴力的管理反対、民族差別反対などを要求して、サボ・スト・直接行動に立上がっている。官庁資料によると、1939~44年に約2500件、参加人員延15万人の労働争議が起きている。またひそかに民族意識の高揚、民族独立のための準備としての学習会やグループ活動を行ったりした。これらの抵抗に対しては直ちに警察官の出動となり、時には軍隊までも動員して弾圧し、多くの被検挙者がでた。以上のような劣悪な労働条件のなかで、朝鮮人労働者には多くの死傷者などの犠牲がでた。1939~45年間に朝鮮労働者の死傷者は、死傷率から計算しておよそ30万人、うち死亡者は6万人と推定される。軍人・軍属の場合、1953年5月現在、復員(見込)24万2620人、死亡・不明1万6363人であるが、”生存見込”という非常にあいまいな者が10万5203人もいる(厚生省第二復員局調査)。

 最初の数年間、朝鮮人強制連行に関する資料の発掘、実態調査、体験者からの聞書きなどがある程度進められ、研究論文・研究書などが出されて、その真相と実態が解明されつつある。なかでもこれまであまり手をつけなかった飛行機会社の地下工場の調査が行われている(兵庫県朝鮮関係研究会『地下工場と朝鮮人強制連行』(1990・7)。しかし、強制連行に関する日本政府ならびに企業側の資料が全面的に公開されてないので不明な点が多く、調査研究の障害となっている。本年5月韓国盧 泰愚大統領訪日を機に、太平洋戦争犠牲者遺族会から強い要望のあった被強制連行者名簿の問題が提起され、その名簿さがしがマスコミで大きく取り上げられている。現在民間側でわかった被強制連行者名簿にある人数は2万人位である。名簿はあるのか、ないのかの議論もあるが、連行当時名簿は作成されている。朝鮮総督府の群庁や道庁で連行者名簿が作成され、顔写真も撮られている(一部未作成もあると思う)。また在日朝鮮人の動員(徴用)名簿も地方自治体、警察関係(あるいは協和会)で当然作成している筈である。また朝鮮人労働者を働かせた企業側や軍関係官署にもあると思う。これらが現在どうなっているのか、死亡者人員名簿をも合わせて、日本政府は徹底的に調査してもらいたい。また朝鮮植民地支配ならびに強制連行に関する資料の調査・整理とその研究が緊急な課題である。これらに関する資料は、当然日本政府の該当官庁(関係者省資料室、国立公文書館、国会図書館、防衛庁資料室)、地方自治体管轄下の図書館・文書館などに、そして国公立・私立大学図書館、研究所にもあると思う。国立公文書館などで未整理、プライバシイ侵害のおそれありとして未公開のものもあるが、都合の悪いことに蓋をする非公開主義は侵略戦争、植民地支配の責任回避につながると思う。植民地支配の実態、侵略戦争、強制連行などの歴史的事実を明らかにすることは、まさに現在の日本の現実を科学的に正しく把握するための基礎となるものであり、さらに日本の将来のあり方、日本と朝鮮をはじめアジア諸民族との友好関係を展望できる鍵になると思う。今後これらの関係資料の 集、整理、体験者からの聞書きなどをいっそう精力的に進める必要性を痛感するが、そのような仕事を進める上で、林えいだい氏の永年にわたる体験者の聞書きなどの努力によって出来上がった本書は、今後植民地支配・戦争責任を追及する武器となるものとして高く評価したい。特に本書に収録されている600余枚の写真は、他書に求められない貴重なものである。

*朴慶植(パク・キョンシク、1922年12月7日 - 1998年2月12日)は、在日朝鮮人の歴史研究者。慶尚北道奉化郡鳳城面金峰里で生まれるPark Kyung -sik ( December 7 , 1922 - February 12 , 1998 ) was a Korean historian living in Japan . He is a former professor at Chosun University [1] . Born in Geumbong- ri, Bongseong- myeon, Bonghwa-gun, Gyeongsangbuk-do.1929年3月に両親とともに来日。1943年9月、日本大学高等師範部地理歴史科(夜間)卒業。1942年9月、国民学校助教となる。1949年3月、東洋大学文学部史学科卒業。朝鮮中高級学校、朝鮮大学校の教員を務める。1998年、自転車で帰宅途中に交通事故死。満75歳没

박경식朴慶植 (박경식, 1922년 12월 7일 - 1998년 2월 12일 )은 재일조선인 의 재야 역사연구자. 전 조선대학교 교원. 경상북도 봉화군 봉성면 금봉리에서 태어난다・・・이 시기 하따다 타까시(旗田 포), 카지무라 히데끼(梶村秀樹) 등 일본의 한국사학자들과 만남을 가졌고, 1970년 일본 당시 '조총련'계라 만날 수 없던 방문 박경식(朴慶植), 강재언(姜在彦), 이진희(李進熙), 박종근(朴宗根), 강덕상(姜德相) 등 재일 한국 ...

 2、捕虜の帰国
 太平洋戦争が始まった直後、日本軍は東南アジア各地の占領地で、おびただしい捕虜を抱えた。彼らを国内産業に投入して、労働力不足を補うという政府方針が決まった。敗戦までに国内へ連行した捕虜は、3万2418人、九州の炭鉱では、そのうち6500人を主に筑豊の炭鉱で、召集された坑夫の穴埋めとして採炭作業などに従事させた。8・15の日本の敗戦によって、こんどは戦勝国人として、支配者と被支配者の立場は逆転した。日炭高松炭鉱(旧日産化学工業)では、オーストラリア兵のアービンが脱走して岩沼曹長が銃殺した事件があり、その他事故や栄養失調で何人も死亡させている。戦争が終わると、やがては連合国によって戦争責任が問われ、戦争犯罪人の追及が始まるであろうと予想された。イギリス軍将校が戦犯調査にくると、炭鉱側は収容所前の古賀の山中にある十字架の墓に案内して、捕虜の遺骨はそこに丁重に安置したと説明した。その墓は敗戦直後に、捕虜に感づかれないように、夜中にこっそり突貫工事をして1週間で完成させた、付近の住民には堅く口止めした、いわくつきの十字架の墓である。それに比べて朝鮮人が死亡すると、朝鮮から遺族が受け取りにこないものは、十字架の墓のある谷間に埋めたのである。その空しい十字架ほど、戦時中の企業の姿を象徴するものはないであろう。連合軍の捕虜の帰国は優先され、9月中旬には全員長崎へ向って出発した。

 3、残された海峡
 1945(昭20)年8月9日、サハリン(旧樺太)の国境にソ連軍が侵入し、日本軍の国境警備隊と激しい戦闘が始まった。ソ連軍は飛行機による爆撃と戦車による猛攻撃でたちまち国境を突破した。日本軍の偵察機は、ソ連軍の中に東洋人らしい兵隊を発見して、単純にそれは朝鮮人だと判断してしまった。そこから朝鮮人の悲劇が始まるのである。前線の戦況は、後方の軍司令部へ逐一報告された。実際に、東洋系の兵隊や北方少数民族のオロッコ人、ギリヤーク人などが、ソ連軍の中にいたのである。日本軍にとっては、サハリンに住んでいる朝鮮人が、ソ連軍に内通していたのではないかと疑った。「朝鮮人がスパイをしている」。その噂は、日本軍と警察全体にたちまち広がった。思いがけないソ連軍の越境というパニック状態にある時だけに、日ごろの平静さを完全に失ってしまった。関東大震災の際、朝鮮人に対して軍隊がとった行動と同じことが、サハリンで再現された。

 住民の疎開命令はサハリン全土に出され、男たちは自警団をつくり、ソ連軍隊との戦闘要員として残された。国境の町ポペジノ(旧古屯)、スミル二ー(旧気屯)方面からは、避難する住民の疎開列車が南下してきた。軍隊の陣地構築や兵舎づくりに動員されていた朝鮮人が、ソ連軍隊の攻撃を知って独自行動を取り始めた。国境方面からレオ二ドーヴォ(旧上敷香)までは一本道で、ポロナイスク(旧敷香)に出るには、どうしても町外れの敷香川にかかる橋と上敷香警察署前を通らなければならない。巡査と憲兵が数人橋の上に立ちはだかって、南下してくる朝鮮人の中で態度があやしいとにらんだ者を、スパイ容疑で逮捕した。敗戦を知った飛行機建設の田中飯場では、朝鮮解放を喜んで酒を飲み「万歳、万歳!」と叫んだ。通りかかった憲兵がそれを見て、騒いでいる10数人を逮捕した。そして責任者の飯場の親方と16歳になる息子を留置してしまった。18日、いよいよソ連軍が迫って砲撃の音が激しくなると、憲兵は留置している30人の朝鮮人をひとりひとり呼び出して、その場でピストルで処刑した。そして射殺の事実を隠すために、ガソリンを撒いて建物に火をつけた。炎は警察署全体を包み込んだ。留置されていた1人姜さんは、ピストルの音を聞くと、毛布にくるまって看取室の椅子の下に隠れた。炎の中を便所に潜り込み、汲取り口から脱出に成功して、ソ連軍に救助された。姜さんが脱出したことで、虐殺事件はサハリン在住の朝鮮人に知らされた。敗戦後の18日に、そうした残酷な事件が、日本人の官憲の手で行われたことに、朝鮮人は大きなショックを受けた。


 東京都練馬区大泉町の李甲秀さんは、事件直後にレオ二ドーヴォに行って、遺体が埋められた場所に”朝鮮人殉職者の碑”を建てたという。昨1989年10月、全羅北道 郡泰仁面に金義鎮さんを訪ねた。金さんは妻と子供2人をサハリンに残してきたが、最近やっとその消息が分かったと喜んで、私がサハリンに行くなら、是非会ってくれないかと頼まれた。金さんは1944年9月、太平炭鉱から福岡県の三井鉱業所漆生炭鉱へ、樺太転換坑夫として配転されたとき、家族をそのまま残してきた。韓国に残された妻たちとは、全く逆のケースである。敗戦になってサハリンまで迎えに行こうとして果たせず、金さんだけが帰国して家族とは生き別れになっていた。その後郷里で再婚して、5人の子供をもうけている。5日後にユージノサハリンスクの郊外に住んでいる前妻の柳南珠さんを訪ねると、彼女は韓景件さんと再婚していた。長男の金公浩さんは、韓国の父親のもとへ永住帰国の申請をして順番をまっているといった。韓国語が全く話せない公浩さん一家が帰国して、どうして生活できるのか不安がつきまとう。


 ユージノサハリンスク駅前で1人の老人が私の前に立ちはだかった。いきなり「お前、イルボンサラム(日本人)か?」と寄ってきた。まだ一言も話さないのに、どうして私を日本人だと分かったのであろうか。忘れかけた日本語をひとつひとつ繋ぎ合わせながら、何しにサハリンまできたのかと不思議そうな顔をした。全羅北道淳昌郡出身の沈相完さんで、故郷の話をしてやると、路上で声を出して泣き出した。沈さんの家を訪ねることを約束して別れた。翌朝、腰まで埋まる雪をかきわけて、郊外に独りで住む沈さんの家を訪ねた。部屋に入ると挨拶もそこそこに、鏡台の上から古びた手紙をもってきた。サハリンの西内淵炭鉱にきたとき撮ったという、沈さんの若き日のものだった。坑内で採炭中に落盤事故に遭い、地面に叩きつけられて大怪我をしたあごは変形していた。従兄からきた代筆の手紙の表には「樺太地方西内淵第6合宿舎、青松相完殿」と書いてあった。その手紙は、沈さんが1943年(昭18)に強制連行された後、女房は悲観して1年後に死亡したという内容だった。故郷に帰りたいが、身元引受人がいないので、招聘状がもらえず、サハリンで独り死ぬしかないと嘆いた。沈さんのような境遇の1世の老人は、次々と世を去り、4世までいれると3万5000人がサハリンに住んでいる。日本がサハリンへ強制連行してきたのは約6万人。戦後日本人だけは引き揚げたが、朝鮮人4万3000人は置き去りにされた。大邱市の李斗勲さんの父親李東日さんが強制連行されたのは1941年1月、それからというもの親子は会うことがなかった。父親は韓国への帰国を願って再婚せず、酒で淋しさをまぎらわして体を壊して、1972年亡くなった。ホルムスク(旧真岡)の墓で李さんが、冷たい墓石の父親と涙の対面をした。


①大村入国管理センター(出入国在留管理庁入国者収容所大村入国管理センター、英語:Omura Immigration Center)は、長崎県大村市に位置する入国者収容所で、収容・送還を行う。

②The Omura Detention Center Incident大村収容所事件 refers to Omura City, Nagasaki Prefecture , where the Immigration Bureau of the Ministry of Justice detains Korean stowaways from the Korean War and Korean residents in Japan who have committed crimes for deportation. The incident occurred in November 1952 at the immigration detention center (currently Omura Immigration Center ) located in Omura.
 4、大村収容所
 8・15解放後、日本に残された朝鮮人の生活は、言語に尽くせないほどみじめだった。異国で生きるためには職業の選択などとはいっておれず、いやおうなしに日本人の嫌がる職業を求めざるをえなかった。しかし、戦後の日本で朝鮮人にいかなる仕事があったというのであろうか。失業者であふれる戦後、土方仕事さえも容易に見付からなかった。ボロ買いといわれる金属回収業、闇の担ぎ屋、闇市の商売、日雇いの沖仲仕、衛生人夫、養豚業など、どれ1つとっても永久的なものはなく、ともすれば法すれすれのところで生きてきた。彼らは転々と職業をかえた。仕事探しに疲れた朝鮮人は、食べるために法律で禁止されているドブロクや、焼酎、マッカリーなどの密造酒をつくり始めた。税務署から摘発されて罰金をくらい、それが重なると刑務所へ送られることもあった。税務署に密告するのは、密造酒を買いにきた日本人だからやりきれなかった。密造酒づくりの経験のある朝鮮人で罰金刑を受けない者は珍しいくらいだ。彼らにとって、犯罪を犯して実刑を受けたり前科があることは、強制収容所ともいうべき長崎県大村収容所送りとなり、1年以上の実刑ともなれば強制送還される。
 福岡県田川郡添田町の姜九 さんは、1969年(昭44)に入国管理事務所から、突然、国外追放をいい渡された。在日朝鮮人の暮らしを根底から奪うハガキが届いたのは、結婚して子供が3人生まれ、貧しいながらも家庭を持っていたときのことである。福岡入国管理事務所へ出頭した姜さんに対して、係官は「日本にいる資格はない」と一方的に国外退去を告げた。「妻子と別れて、私1人だけ帰国せよとは人権無視もはなはだしい。嫌だ」と、姜さんは突っぱねた。係官はただ、日本の法律だから従うしかないと主張するばかりだった。姜さんは1953年(昭28)10月、古鉄売買のもつれから、窃盗罪に問われたことがあった。出頭した当時、手術をして生活保護を受けていたので、その2つが重なっての強制退去命令だった。姜さんは19歳のとき、全羅南道から住友鉱業所忠隈炭鉱に強制連行された。2年契約を信じて採炭を続けていたが、炭鉱側は一方的に契約延長を告げた。目の前で落盤事故があって仲間が死亡したのを見て、恐ろしくなって寮から逃亡した。飛行場の工事現場などを転々としているうちに、鹿児島本線の車中で特高に逮捕された。再び炭鉱に連れ戻されて、死ぬほどのリンチを受けたという。「嫌がるのを無理やり日本へ強制連行され、危険な坑内で働いてきた。日本人と同じ生活をしているのに、どうして自分だけ国外追放するのか」と抗議した。

*出入国管理及难民认定法(日语:出入国管理及び難民認定法/しゅつにゅうこくかんりおよびなんみんにんていほう*/?,昭和26年政令第319号)是日本的一项法规,涉及出入境管理制度[1](包括进入日本、返回日本、离开日本以及外国人在日本居留所需的许可条件和程序、居留资格制度、出入国在留管理厅的职能,以及非法入境和非法居留相关行为的处罚等),以及基于难民公约和难民议定书设立的难民认定制度。
 1951年にできた出入国管理令で、朝鮮人は日本国から外国人扱いされるようになった。日韓協定で協定永住権をとれる道も開かれたが、それも韓国籍の人に限られるのだ。しかし姜さんのように、法令違反、犯罪を犯したり、日本政府に反抗的な態度をとれば強制退去の対象になる。いつ強制送還されるか分からない不安な毎日、月2回入国管理局に呼ばれた。毎月18日には日常生活の状況を聞かれ、23日には在留許可の更新手続きに行かなければならなかった。姜さんは遂に、退去取り消しを求める裁判を起こした。その間に係官は、朝鮮籍から韓国籍に変えて永住権を申請したらどうかと説得した。戦前に日本にいたことがあり、戦後帰国してから密入国した場合は、不法入国者扱いを受けて大村収容所に送られ、強制退去となる。たとえ法的刑罰を受けた後であっても、大村収容所に送られて二重の刑罰を受けることになる。1977年(昭52)4月、国会議員、弁護士を中心とする大村朝鮮人収容所調査団と一緒に、私は大村収容所を訪ねた。その日までに韓国に送還された者は約1万8000人だった。当時の収容者は102人、退去強制令無効の行政訴訟を起こすと、裁判が確定するまでどうしても収容が長引いてしまう。このため1年から2年が15人、2年から3年が10人、3年以上が2人という、大村収容所は刑期なき刑務所で、新たな人権問題となっている。大村収容所に収容されている人たちは、過去の朝鮮植民地政策が生んだ犠牲者であって、日本国の犯罪者ではないのである。その歴史的背景を考えないで、日本の法律を押し付け、人間のきずなを断とうとするところに問題がある。


 5、棄民
 北九州市門司区浜町、門司労災病院の607号室が、金鐘甲さんの住所である。1971年(昭和46)、門司港で沖仲仕として働いている時に、金さんは脳卒中を患って意識不明となり、左半身麻痺で手足が不自由になった。金さんと知り合って15年になるが、会うたびに衰弱している。金さんの故郷に身寄りの者はいないが、近頃はあまりにも帰りたがるので車椅子でしか動けない彼のために、慶尚北道金泉市の写真を撮ってきて見せた。金さんの話を聞くうちに、彼の記憶の中から2つの過去がぷっつり切れているのは驚きだった。人間は死にたいほどいまわしい過去は忘れてしまいたいものだが、本当に消えてしまうことを金さんは物語っている。金さんは若いころ、叔父と2人で満州(中国東北部)に出稼ぎに行き、1941(昭16)春、帰ってきたところを千島へ強制連行された。記憶をたどり寄せるようにして、やっと思い出したのは飛行場建設工事のモッコ担ぎと、夜が3時間くらいだったということだけ。カムチャッカに近い、千島の北端ではないかと思われる。その後、飛行場建設は中止となって、宮城県多賀城に移り、海岸の飛行場建設の菅原組の飯場で働いた。菅原組の幹部が朝鮮人を虐待するので、仲間が集まって殺す相談をしている時に敗戦になった。
 宮城県の三菱鉱業所細倉鉱山に仕事があると聞いて、金さんは細倉に住みついた。鉱石の運搬、闇米の担ぎ屋、朝鮮アメをつくったりして生活した。金さんは鉱山の敷地内にバラックを建てて住んでいたが、会社はアパートを建てるからと立ち退きを要求してきた。それを拒否したところ、こんどは盗品運搬の疑いをかけられて逮捕された。裁判では懲役1年2ヶ月の実刑をいい渡され、弁護士のいう「控訴するよりも服役したほうが早く出られる」を信じて、仙台刑務所に服役したのだった。金さんは1年以上の実刑を受けた場合、強制退去になることを知らなかった。出所すると門前に数人の男が出迎え、強制退去処分で大村収容所へ連行された。当時の李承晩韓国大統領が、刑余者の送還を拒否していたことから送還を免れ、1958年に特別在留許可を受けて、6年間の大村収容所生活から解放された。ところが、1953年収容所内の待遇改善闘争で警官400人、警備官200人による催涙弾・棍棒の弾圧。また1954年2000人の警官が収容棟に乱入した事件を、金さんはいっさい記憶していない。1971年に再び強制退去処分を受けたが、まもなく仮放免となった。目まぐるしく変わる滞在資格に彼の怒りが爆発した。民族としては朝鮮人だが日本国籍を有するはずだという日本国籍確認訴訟と、強制連行と大村収容所の苦痛に対して3000万円の損害賠償、慰謝料を請求した。最終的には、最高裁で金さんの訴えは却下されてしまった。




《반일 종족주의》(反日 種族主義)는 이영훈, 김낙년, 김용삼, 주익종, 정안기, 이우연이 저술한 책이다. 2019년 7월 10일에 미래사에서 출간되었다. 부제는 〈대한민국 위기의 근원〉이다.Anti-Japan Tribalism (반일종족주의, 反日種族主義) is a book written by Lee Young-hoon, Joung An-ki, Kim Nak-nyeon, Kim Yong-sam, Ju Ik-jong, and Lee Woo-yeon. It was published by Miraesa on July 10, 2019. It was subtitled "The Root of the Korean Crisis" (대한민국 위기의 근원). The Japanese version, published on November 14, 2019, is subtitled "The Root of Japan-South Korea Crisis" (日韓危機の根源).The book is based on a series of lectures delivered on the web-based Rhee Syngman TV, of which Lee is the host. The Japanese version was published by 주식회사 분게이슌주Bungeishunjū Ltd株式会社文藝春秋. in November 2019 and immediately became a bestseller (No. 1 at Amazon on the day of publication[1]). Bungeishunjū announced it had sold 200,000 copies within a week.

이영훈(李榮薰, 1951년 9월 10일 ~ )은 대한민국의 경제학자이다. 서울대학교 경제학부 교수를 역임했다. 낙성대경제연구소 이사장과 이승만학당 교장을 맡고 있다.Lee Young-hoon (이영훈, 李榮薰, born 1951 in Daegu, South Korea), Lee Yong-hoon, Rhee Yong-hoon, or Yi Yŏnghun is a former professor of economics at Seoul National University and the president of the Naksungdae Institute of Economic Research (낙성대경제연구소).



《만화 혐한류》(일본어: マンガ嫌韓流 만가 겐칸류[*], ISBN 4-88380-478-X)는 일본 작가인 야마노 샤린(山野車輪)의 만화책이다. 2005년 7월 26일 신유샤(晋遊舍, Shinyusha Co., Ltd.)에서 출판했다. 독도, 한일 병합, 역사교과서 문제 등에 대해 일본 극우주의를 중심으로 한 왜곡된 주장을 중심으로 그려졌다.

Manga Kenkanryu (マンガ 嫌韓流, Manga Kenkanryū , „Hating the Korean Wave“ [2] oder „Hating the Korean Boom“ [3] ) ist ein japanischer Manga von Sharin Yamano mit einem Thema, das auf antikoreanischen Gefühlen basiert Japan . Der Manga begann als Webcomic auf der Website des Autors mit dem Titel CHOSEN , und nachdem ihm zwei Jahre lang die Veröffentlichung verweigert wurde, wurde er von Shin-yo-sha veröffentlicht und am 26. Juli 2005 in Japan veröffentlicht. Er war umstritten und löste eine japanische Internetbewegung aus.

야마노 샤린(일본어: 山野 車輪, 1971년 - )은 일본의 만화가로, 《만화 혐한류》와 《만화 혐중국류》의 작가이다. 자신의 본명이나 거주지, 학력 등의 신상 정보가 일체 공개되어 있지 않다.

Sharin Yamano (山野 車輪, Yamano Sharin , né en 1971) est un mangaka japonais connu pour son Manga Kenkanryu (Hate Korean Wave) . Ses bandes dessinées présentent l’histoire moderne de l’Asie de l’Est, mais fortement orientées vers une vision favorable du Japon impérial. 






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