日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

После распада Советского Союза Экономическая реальность☭Кадзуо Огавы/After the dissolution of the Soviet Union Economic reality☆Kazuo Ogawa/Après la dissolution de l'Union soviétique Réalité économique★Kazuo Ogawa『ソ連解体後―経済の現実☭小川和男』①

After the dissolution of the Soviet Union Economic reality author Written by Kazuo Ogawa/Après la dissolution de l'Union soviétique Réalité économique auteur Écrit par Kazuo Ogawa/После распада Советского Союза Экономическая реальность автор По сценарию Кадзуо Огавы


解体から一年余,ますます混迷の度を深める旧ソ連.急速な市場経済化に伴うインフレの進行や民族対立などが軍民転換や企業の民営化を困難にしている一方で,豊かな資源を背景に,各地方ではすでに活発な経済活動が始まっている.長年ソ連経済を実地に調査してきた著者がその現在の姿を正確に見すえ,今後の日本とのかかわりを展望する
The former Soviet Union has become more and more confused for over a year since its dismantling. While inflation and ethnic conflicts associated with the rapid market economy have made it difficult for military-civilian conversion and corporate privatization, active economic activities have already begun in each region against the backdrop of abundant resources. The author, who has been investigating the Soviet economy for many years, looks at the current situation accurately and looks at the future relationship with Japan.
L'ex-Union soviétique est devenue de plus en plus confuse depuis plus d'un an depuis son démantèlement. Alors que l'inflation et les conflits ethniques associés à l'économie de marché rapide ont rendu difficile la conversion militaro-civile et la privatisation des entreprises, des activités économiques actives ont déjà commencé dans chaque région sur fond de ressources abondantes. L'auteur, qui étudie l'économie soviétique depuis de nombreuses années, examine avec précision la situation actuelle et se penche sur les relations futures avec le Japon.
Бывший Советский Союз становился все более запутанным за прошедший год с момента его развала. Хотя инфляция и этнические конфликты, связанные с быстрой рыночной экономикой, затруднили преобразование военно-гражданского сектора и корпоративную приватизацию, активная экономическая деятельность уже началась в каждом регионе на фоне обильных ресурсов. Автор, много лет исследующий советскую экономику, точно смотрит на текущую ситуацию и смотрит на будущие отношения с Японией.

はじめに
ゴルバチョフМихаи́л Горбачёв氏がペレストロイカперестройкаとグラースノスチгласность(情報公開)を進める前の旧ソ連では、中央集権的な体制の下で情報は厳しく管理されていた。最高指導者たちから政府要人たち、高級官僚と中堅官僚たち、高名な学者から若手の学者たちがみな、国の経済政策や外交政策について一様に語った。だからわれわれ外国の研究者は旧ソ連では多勢に会う必要はなく、「権威」と目される誰か1人と会えれば上首尾であり、時のソ連の経済や外交について断定的に書き、報告してまず間違いはなかった。現実にも、旧ソ連において、外国人に比較的自由に接触できる人間は非常に限定されていた。
ペレストロイカとグラースノスチの時代になって、状況は大きく変った。グラースノスチはとりわけ、旧ソ連で自由がもっとも抑圧されていた分野、つまり、言論、集会、信教、出版、報道等々を解放し、政治・社会に新風を吹き込んだ。言論人たちとその圧力であるインテリゲンチャたちこそ、時流の変化をもっとも享受した人たちである。言論人たちは、今まで長い間、100の事実を50程度にしか書けなかったし、国家や共産党にとって都合の悪いことはまったく書けない場合も多かった。かれらは、グラースノスチが大勢となって、昔は秘密にされていたさまざまな事実を白日にさらし、場合によっては些事を極大化して報じたり、100の事実を200までも誇張して書くようになった。
ソ連・ロシアの新聞・雑誌・テレビは、かつて無味乾燥であったのが、内容が豊かになり、読んで、見て、面白いものになった。センセーションを狙う報道も出てきた。つまり、われわれが毎日暮しているマスメディアに非常に似てきたのである。そして、モスクワ在住の外国の特派員たちが通常そうした新聞やテレビで得た情報や知識を本国に送信し、われわれがそれを毎日の新聞やテレビで見ているわけである。われわれにとって、このような情報・ニュース伝達の仕組みを十分に知悉し、注意している必要がある。
ジャーナリズムの報道が「変化」ばかりを追い求めていることには、よほどの注意が必要である。ジャーナリズムにとってそれが体質であるとはいえ、特派員にとっても、本社のデスクにおいても、「変化」こそ報道する価値があるものなのである。経済問題については、「改革派」、それも「急進改革派」の主張こそ取り上げる価値がある、保守派の考えは「面白くない」ということで、「急進改革派」の論客との会見記事ばかりが紙面を埋め、テレビの画面に映し出される。われわれは、そうした急進的主張ばかりを読まされ、きかされているわけで、急進的改革が今すぐにでも実現されるように錯覚してしまう。
だがしかし、旧ソ連でもロシアでも、変化しない部分が大きいし、「急進改革派」は概して少数派であることを見逃すことはできない。急進的改革に反対し、抵抗する勢力が非常に強いのが現実である。
1990年より高まった連邦と共和国の関係の緊張は、1991年8月の「政変」で頂点に達し、その直後にソ連共産党が消滅、1991年12月にはソ連邦が解体し、ゴルバチョフ連邦大統領は辞任した。独立を達成した共和国によるCIS(独立国家共同体)が成立し(独立国家共同体(どくりつこっかきょうどうたい、ロシア語: Содружество Независимых Государств, СНГ、 英語: Commonwealth of Independent States、英略称: CIS)は、ソビエト連邦の崩壊時に、ソビエト社会主義共和国連邦を構成していた15か国のうちバルト三国を除く12か国(発足当初は10か国)によって結成されたゆるやかな国家連合体(コモンウェルス)。当時の欧州共同体 (EC) 型の組織をモデルにしたが、独自の憲法や議会は持っていない。本部はベラルーシの首都ミンスクに置かれている)、エリツィン大統領が率いるロシアでは米国政府やIMF(国際通貨基金)が期待する「ショック療法」が敢行されたが(国際通貨基金(こくさいつうかききんМеждународный валютный фонд, (МВФ)英語: International Monetary Fund, IMF)は、国際連合(国連)の専門機関の一つ。国際金融と為替相場の安定化を目的として設立された。本部はアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.。2018年現在、加盟国は189か国である)、結果は厳しいインフレと劇的な生産の減少、市民生活の困窮となって、失敗が明らかになった。政治力が低下したエリツィンБори́с Е́льцин大統領は、ロシアの現実に即した穏健な経済改革を主張する「市民同盟」に歩み寄り、1992年12月には妥協が成立、市民同盟を背景とするチェルノムィルディン政府が発足した。
Гражданский союз (избирательный блок)市民同盟Grazhdahskii Soyuz:GSロシアの政党連合。自由ロシア国民党,全ロシア「刷新」同盟,ロシア民主党の中道穏健勢力3派が 1992年6月に形成した政治ブロックで,エリツィン大統領の急進経済改革路線の修正を唱え,建設的野党の位置に立つ。 92年 12月には急進改革派の旗手ガイダル首相代行を辞任に追込み,市民同盟が推薦するチェルノムイルジンを新首相に据えることに成功するなど勢力の伸長ぶりを誇った。しかし,93年4月の国民投票で国民の信任を得たエリツィン大統領の巻返しに抗せず,急速にその勢力は衰えていった。その後チェルノムイルジンを支える会派は「われらの家ロシア」を形成した。

*ヴィクトル・ステパノヴィチ・チェルノムイルジン(ロシア語: Виктор Степанович Черномырдин, ラテン文字転写: Viktor Stepanovich Chernomyrdin, 1938年4月9日 - 2010年11月3日)は、ロシア連邦の政治家。ボリス・エリツィン政権にて初代ロシア連邦首相、1998年に設立したガスプロムの初代社長を務めた。
歴史的大変化が起こったわけである。報道が右往左往し、われわれがそれに振りまわされるのも、けだし当然であろう。しかも、昔と違って今では、だれもかれもが自分の個人的見解や経験であると前置きして、まことに自由自在に話すようになった。かれらが話すことはみな真実である。今や、われわれの情報を受け取る側が、複雑にからみ合い、互いに矛盾する情報のなかから真に重要なものを見きわめる能力を持たなければならないのである。
本書では、ソ連解体前後の経済について、私の80回を越える訪ソの経験を踏まえて、変化の顕著な側面と変らない側面を、できるだけ具体的事実を示して紹介することに努めた。右に述べた能力を養う一助となれば幸いである。なお、写真は全部、私自身が写したものであり、キャプションも私自身が書いた。
本書は、旧友である後藤洋一さん(岩波書店ロシア語辞典編集部)にお薦めいただいたのが執筆の契機であり、山田まりさん(新書編集部)に大変お世話になった。お2人に心から謝意を表する。1993年1月 小川和男

第一章 大都市の悲観主義と地方主義の台頭 
1 市民生活の実像
計画経済から市場経済へ
旧ソ連では、中央集権的な計画化経済システムのもとで、小売価格は原則としてすべて国が定めた公定価格であった。食料品や家賃は非常に安価に、教育や医療は原則として無料、衣料品や耐久消費財はきわめて高価に定められていた。社会主義のもとで、富の分配は平等が公けにはかかげられていた。そして人々は、その理想は偽りで、共産党幹部をはじめとする一握りの特権グループに権力と富が集中する一方、働いても働かなくても同じ、という悪平等が支配していることを知り尽くしながらも、「親分赤旗」の下での安逸な日々を送ってきた。

アフガニスタンへの軍事介入の長期化があったが、人々の心の深層にいつも暗い影を落としてきた大戦争の脅威は遠のいていたし、毎日の生活でとにかく食べる心配はなかった。アメリカや日本におけるように、一部の人たちが途方もない贅沢な生活を過すといったこともなかった。食料品価格はとりわけ安く定められていた。政府は毎年の国家予算に価格差補給金を計上して、小売価格を農民からの買上げ価格をずっと下回る安い価格に定めていた。つまり、日本における米の食管会計をあらゆる食料品について適用して、低い価格を維持していたわけである。
しかし、このことは当然ながら、国家財政に大きな負担を強いてきており、そうした状況を改善するため、食料品価格を引き上げるべきだという意見は、ブレジネフЛеонід Брежнєв時代全盛期の1970年代半ばから出されていた。また、弱体な輸送・流通システムが主因となって、大都市や北方に偏した中小の工業都市では、公営小売店の店先にはいつも食料品が不足し、長い行列がみられていた。このため、市民の間では食品の入手を職場における配給やいわゆる「コネ」に頼るところが大きかった。
一方、農民たちが自留地でつくった野菜や果物、肉やバターなどを自由な価格で販売できる「自由市場(ルイノックрынок)」が市民に対する食料品供給できわめて重要な役割を担ってきた。私は長い間ソ連経済の実証的調査・研究を仕事とし、訪ソも80回を越え、地方への旅行も多い。そしてモスクワでも地方都市でも、必ずルイノックにいってみるが、そこで肉や野菜が無かったことは一度もなかった。
モスクワは人口約800万人の大都市であり、市の行政区画は26区から成っている。各区には一つか二つの大小ルノイックがあり、いつも雑踏をきわめている。新鮮な肉もソーセージも街中の公営商店にはなくても、ルイノックに行けば買えたのである。農民が自営菜園として使用できた自留地は、旧ソ連の全耕地面積の3~4%を占めたにすぎないが、農業総生産高の4分の1近くを産出していた。ただし、もちろん公営価格と自由市場価格の違いには大きな問題があり、1990年末までは、後者は通常、前者の3~5倍が相場であった。しかしこれは、普通の勤労者の平均月収からみて、なんとか手の届く水準であったのである。
ところが、ゴルバチョフ政権が、パブロフВалентин Павлов首相(当時)の指導の下に、1991年4月に敢行した公定小売価格の全面的引上げ(値上げ率2~3倍)の後、安定した関係はくずれ、インフレが一挙に顕在化した。長年にわたり安価に馴れ切り、いわゆる「コネ」を活用して必要な物を手に入れてきた生活が苦しさを増したのは、明らかである。
エリツィン・ロシア大統領は、ポピュリスト的特性が強い政治家である、とよくいわれる。本来ならばその特性を発揮して、庶民生活の苦しさを和らげる施策をとって、国内経済の立て直しをはかってしかるべきであろう。ところが実際には、エリツィン大統領は、未曾有の経済不振という荒波のなかで、まだ30歳台半ばで経験も浅いガイダル副首相(当時)に巨船ロシアの舵とりを任せた。米国ハーバート大学ビジネス・スクールでマネタリズムを学んだ若き副首相は、国際通貨基金(IMF)や西側先進諸国政府の「市場経済への転換を示す具体的な証拠を明示しなければ、金融支援は実施できない」という強い姿勢に押されて、1992年1月初めより、価格の全面的自由化というショック療法を実行した。

*エゴール・チムロヴィッチ・ガイダル(ガイダール、ロシア語: Его́р Тиму́рович Гайда́р、ラテン文字転写の例:Egor Timurovich Gaidar、1956年3月19日 - 2009年12月16日)は、ロシアの政治家、経済学者。下院国家会議議員、右派連合(右派勢力同盟)共同議長。ソビエト連邦の崩壊後、エリツィン時代前期に首相代行、第一副首相などを歴任し、急進的経済改革を実施した。
*マネタリスト(英: monetarist)は、マクロ経済の変動において貨幣供給量(マネーサプライ)、および貨幣供給を行う中央銀行の役割など、経済のマネタリー(貨幣的)な側面を重視する経済学の一派およびその主張をする経済学者を指す。貨幣主義者または通貨主義者とも訳される。マネタリストの理論および主張の全体を貨幣主義あるいは通貨主義またはマネタリズム(英: monetarism)と呼ぶ。


この結果、小売物価は1992年の1年間に20倍と高騰、小売販売高は42%減と著しく減少した。労働者の平均月収もこの間に9倍に引き上げられたが、実質賃金は大きく目減りしたわけで、市場に出回る商品が増えて価格の自由化は成功したとみる向きもあるものの、高値で庶民には買うことができない状態になっているわけである。
IMFのような一方的な国際金融機関の勧告にもとづいたガイダル政府の経済療法は、重体の病人に大手術を施し、手術そのものは成功したと胸を張って、病人を死にいたらしめてしまう外科医たちのやり方と同じであるともいえるのではないか。

ガイダル政権の退陣とチェルノムィディン政権の登場
ショック療法の失敗は明らかになった。しかしそれでも、エリツィン大統領と若いガイダル・チームは自分たちが正しいと主張し続けた。ロシア各地でエリツィン大統領批判の集会やストライキが発生し、とりわけ、ガイダル首相代行に反対する気運が高まった。
1992年夏以降になると、「産業・企業家同盟」を中心とする企業家たちのガイダル経済路線に対する批判が著しく強まった。「産業・企業家同盟」は、依然として強力な軍産複合体を背景としており、かれらは反エリツィン政治勢力と連合することによって「市民同盟」を形成し、議会における多数派となって発言力を強化した。「市民同盟」にはルツコイ副大統領も「自由ロシア国民党」のリーダーとして参加している。
*ロシア産業企業家同盟(ロシア語:Российский союз промышленников и предпринимателей, РСПП)は、ロシアの企業家、実業家による公共組織。ソビエト連邦末期の1991年に産業界の首脳を集めて組織された。 日本の経団連に相当する。会員企業は100以上の団体および32万以上の企業から構成され、国内総生産の60%を占める。前会長は、アルカジー・ヴォリスキー、現会長は、アレクサンドル・ショーヒン。

*アレクサンドル・ウラージミロヴィッチ・ルツコイ(ロシア語: Александр Владимирович Руцкой, ラテン文字転写: Aleksandr Vladimirovich Rutskoi, 1947年9月16日 - )は、ソビエト連邦及びロシアの軍人、政治家。ロシア副大統領。空軍では少将まで累進している。のちに陸軍大将の称号を得る。ソ連邦英雄。

エリツィン大統領の政治力は著しく低下した。「市民同盟」の基本的立場は「現実主義」である。かれらはこの立場から、現実の諸条件を軽視し、米国流のマネタリズムを信奉するガイダル・チームの急進的改革に反対した。
「市民同盟」は、ロシア経済の現実に即した穏健な市場経済移行を志向し、中央政府の経済管理・調整能力をある程度強め、生産の回復および市民生活への配慮から、企業の保護と社会保障の維持に注力すべきであると主張している。
エリツィン大統領は、「市民同盟」の穏健改革路線にしだいに歩み寄る姿勢をみせていたが、1992年12月のロシア人民代議員大会では「市民同盟」を主力とする議会勢力に屈し、ついにガイダル首相代行を辞任させ、代わってY・チェルノムィディン氏が新首相に就任した。新首相は、エリツィン政権で務めていた経歴が示すように、エネルギーの専門家であり、テクノクラートである。「市民同盟」を代表し、右に述べた現実に即した穏健な改革路線をとるとみられる。石油・ガス部門の立て直しをてこにして、生産の回復を実現できるかどうか、新首相の手腕に期待したい。
旧ソ連・ロシアの改革議論では、後述する通り、経済システムの転換の是非、つまり、計画化経済システムか市場経済システムのどちらを採るかをめぐって議論が議論を呼ぶのであるが、克服が必要な経済問題はそうしたシステム選択論と直接は関係のない問題があまりにも多い。たとえば、生産の大幅減少と深刻な物不足の改善、高進するインフレの抑止、過重な軍事支出の削減、軍民転換の促進、財政の再建、輸送・流通システムや情報・通信システムの強化等々の重要課題の達成いかんなどは、市場経済への転換とは直接的な相関関係はない。

*グムまたはグム百貨(ロシア語: ГУМ 、ラテン文字表記 GUM)は、ロシアの首都モスクワの赤の広場に沿って建つショッピングモール(百貨店)[1]。赤の広場を挟んでクレムリンの城壁の反対側にある大きな建物がグムである。モスクワの観光名所にもなっている。「グム」という名称は、ソビエト連邦時代の名称である国営百貨店( ロシア語: Государственный Универсальный Магазин )の頭文字の略に由来する。民営化後は、 GUM の G を国営の G から主要、首席などの意味を持つ Glavnyj (ロシア語: Главный)の G としている。(ロシア語: Главный Универсальный Магазин)

*グム ГУМ(国営百貨店)。「グム」の名称は残しているが、民営化され今は株式会社、欧米の有名店が出店し贅沢なムードが漂う(著者撮影の写真及び解説)
現時点では、以上のような難題に立ち向かうためには、中央政府に統制能力が必要である。ロシアにおけるあらゆる改革は上からの改革である。この点を考慮に入れれば、逆説的ではあるが、市場経済への転換を促進するためにも、経済管理・調整能力を持った中央政府の存在が必要なのである。
1991~1992年にみられた無秩序で混乱した状況を是認することは、良識ある人にはできるものではない。現実に即した改革を進めようとするチェルノムィルディン政権の行方を注意深く見守り、西側諸国としては必要な経済支援を実施すべきであろう。「産業・企業家同盟」会長を務める実力者A・ウォリスキー氏はチェルノリムィルディン政権支持と市場経済への転換の堅持を明言している。

*アルカジー・イワノヴィッチ・ウォリスキー(ヴォリスキー、ボリスキー、Аркадий Иванович Вольский、Arkadii Ivanovich Vol'skii、1932年5月15日 - 2006年9月9日)は、ソビエト連邦及びロシアの党官僚(アパラチキ)、企業家、政治家。ソ連科学産業同盟会長、ロシア産業家企業家同盟会長を歴任した。

庶民の知恵
ところで庶民たちは、持前の知恵と我慢強さを発揮しており、CIS(独立国家共同体)・ロシア経済の奥行きの深さもあって、今までのところ難局は切り抜けられてきた。凍死者も出ないし、餓死者も出ない。このことの意味を考えるとき、庶民はしたたかであり、また、経済統計には表われてこない経済生活が非常に大きいことにも注意を払う必要がある。これは、1991年に8回、1992年にも6回、CISの各地をめぐった私の実感でもある。
たとえば、都市では、市内のフラットに住む市民が郊外にダーチャдача別荘と訳すが、山小屋的な簡易住宅+ダーチャ(ロシア語: дачаダーチャru-dacha、英語: Dacha)は、ロシア・旧ソ連圏で一般的な菜園付きセカンドハウスである)とそれに付属する菜園を持っているのはかなり当り前のことで、モスクワでは四季を通じて野菜やジャガイモ(ロシア人の食生活では非常に重要)をほとんど買わない家庭が全家庭の30%前後にも達するという。こうした状況であるから、大都市ではどこでも、金曜日には郊外へ向かう車で、日曜日の午後には市内へ帰る車で、どうしようもない渋滞が起っている。

私たちはモスクワ訪問の際には、経済関係省や機関、研究所など1日のうちに少なくとも三ヶ所は訪問し、懇談したり意見交換を行なったりするが、モスクワは広いし、交通の便は東京のように発達していない。このため、朝から夜まで車をハイヤーしているのが普通のであるが、そうしたハイヤーの運転手は隔日勤務で、かれらの多くは人品いやしからぬ中年男である。なかにはダーチャを持っている者も多く、休日には自家菜園で丹精して野菜や花造りに励んでいる、という話をしばしばきく。
菜園といっても、600平方メートルが標準で、かなり広い。世界最寒の土地の一つであるヤクーツク市(サハ共和国の首都+ヤクーツク(ロシア語: Якутск, Yakutsk, ヤクート語: Дьокуускай (ジョクースカイ))はロシア連邦に属するサハ共和国の首都。レナ川に面する河港を持つ。人口は約32万人)を夏に訪問した際、2人の市民からそれぞれのダーチャに招かれたことがあった。8月初旬というのに、午前中の気温は7~8度Cで冷たく、夏は短い。しかし、短い夏の間は内陸性気候のため暑く、気温は日中には40度Cまで上昇することもあるし、日照も十分ある。

*サハ共和国(サハきょうわこく、ロシア語:Республика Саха (Якутия)、サハ語:Саха Өрөспүүбүлүкэтэ、英語:Sakha (Yakutia) Republic)は、ロシア連邦を構成する共和国で、連邦構成主体の一つ。首都はヤクーツク。別名ヤクーチア(ロシア語形より)。旧称ヤクート自治ソビエト社会主義共和国(1922年から1990年ヤクート語: Саха автономнай сэбиэскэй социалистическэй республиката, ロシア語: Якутская Автономная Советская Социалистическая Республика (ЯАССР))、ヤクート・サハ共和国(1990年から1992年)。面積は3,103,200平方kmで、アジアロシアの約4分の1を占め、地方行政単位としては、世界最大である。連邦管区では極東連邦管区の範囲になる。主要な民族はサハ人(テュルク系)、ロシア人。
ということで、ダーチャの庭には、ジャガイモ、トマト、キュウリ、ニンジン、キャベツ等々が十分育ち、ニワトリも沢山飼われていた。周辺の森では野イチゴにきのこ、野獣や野鳥も多く、川では魚がいくらでもとれる。短い秋が終れば、周囲は天然の冷蔵庫となり、長期貯蔵も問題はない。われわれをもてなす豊かな食卓に盛られたものは、ウォッカとワインを除けば、ほとんどすべてが自家菜園でとれたもので作った料理であった。主婦たちの料理の腕も好く、大変結構な味であった。

大企業の食品自給
自留地を所有しているのは農民ばかりではない。旧ソ連の工業企業は数万人の従業員を擁する大企業が多い。そうした状態が民営化の促進を著しく妨げているという今日的課題を引き起こしているのは別にして、大工業企業はたいていは自前のコルホーズколхоз(協同組合農場)を経営したり、工業の周辺に大規模な自留地を持っていて、なかには牛数千頭とか豚数数万頭とかを飼育している場合もある。
大工業企業では、自前で生産した農畜産品を工業品、たとえばトラックや家電品を農民に直接供給して代りに入手した農畜産品を従業員に供給し、従業員の生活に配慮しているのが普通である。ゴルバチョフ体制下でグラースノスチが進み、以前にはできなかった工場見学がずいぶんできるようになって、私もこの2~3年の間に多数の大小工場を視察することができた。そういう工場視察の際、工場内における食料品自給について質問してみることにしているが、この自給率が30~40%にも達している例が多い。企業経営者たちが食料品調達に並々でない努力を払っている様子がうかがえる。
工場などの生産現場ではもちろん、官公庁や銀行のオフィス、研究所などでも、大小の食堂・レストランを持っていて、職員は通常、勤務先で昼食をとっている。夫婦共働きが当り前の社会であるから、朝食は簡単、平日は夕食も質素である。それにもっと重要な事実は、スラブ民族では1日の正餐は昼食であることで、大人は勤め先で、子供は学校で保育所で、スープをとり、肉料理を食べている。どんな立派なレストランでも、夕食にはスープは出さない。ついでに付け加えれば、スラブ語ではスープを「飲む」「吸う」とは言わないで、「食べる」という。
旧ソ連外国貿易銀行とか科学アカデミー付属経済国際関係研究所のような略式の高い銀行や研究所でも、午前中に訪問すると肉を煮るにおいが廊下や階段にまで漂っている。私の度重なる経験のなかで、この点が例外であったことはない。ごくたまに、銀行などで昼食をもてなされる機会があるが、料理の味はたいてい上々で、街中の高級レストランを凌ぐことが多い。

困窮する弱者
公営商店で肉をみかけないことを根拠にして、市民は肉を食べていないと結論づけるのは、あまりの短絡である。とはいえ、激しいインフレのもとで、生活に困窮する人々が増えているのも確かで、とりわけ高齢の年金生活者たちには辛い世の中となった。旧ソ連の総人口は約2億9000万人であったが、そのうち6000万人以上、つまり20%が年金生活者であった。通常男性は60歳、女性は55歳で年金生活に入り、年金生活者の収入が低いことはいうまでもない。
しかも、現在の年金生活者たちは、この世に生を受けて以来今日まで社会主義システムの下で暮してきたのであり、厳しかった第二次世界大戦で闘った老人たちも多い。かれらの生活価値観が社会主義的なものであったのは当然であったが、それはごく短い期間にくずれ、失われてしまった。生活苦に価値観の喪失が重なるかれらに対しては、まことに同情を禁じえない。


教育にも荒廃の危機が迫っている。教師たちが自信を失っているのは、当り前である。第二次世界大戦終結の年、つまり日本敗戦の年10歳であった私には、ロシアの現況で痛いほどよく分る部分が多い。しかも、インフレのため、子供たちに対する無料給食は今や現実に不可能となった。給食費を取る初等学校が著増している一方、それを払えない家庭が続出している。両親は共働きで日中は家に居ないわけで、子供としてはまことに暗然とならざるをえない。教育が国の将来を左右することを考えれば、早急な対応が必要である。
エリツィン大統領は、このような難局下に資本主義をめざすと断言し、1917年のロシア革命以来の70年間は「偽善」であったと片付けている。ロシアの指導者たちのあいだに強い、「市場経済へ転換すれば万事が円滑に運ぶ」という考え方が幻想であるのは明らかであるのに、つい昨日までの価値観を何もかも全部捨て去ってしまってよいのであろうか。

2 モスクワ、キエフ、アルマ・アタ
今日のモスクワ
ゴルバチョフ時代(1985年3月~1991年12月)の末期以降、大都市、とりわけモスクワでは、経済改革が失敗したことで、現状と将来について、総じて悲観主義が蔓延している。一方、ソ連邦解体によって完全独立を果した国々やペレストロイカとグラースノスチで分権化が顕著な地方では、人々の士気とモラルの高揚がみられている。
モスクワは、数百年にわたって大ロシア帝国の首都であり、大ソ連帝国の首都であった。それがソ連邦解体後の今ではどうなったか。ロシア一国の首都にすぎない。ロシア人たちとしては残念至極であろうが、エリツィン大統領は、ウクライナのクラフチューク大統領も、カザフスタンのナザルバーエフ大統領も、もはや牛耳ることはできない。

*レオニード・マカロヴィッチ・クラフチュク(ウクライナ語:Леонід Макарович Кравчукレオニード・マカーロヴィチュ・クラウチューク;Leonid Makarovich Kravchuk、1934年1月10日 - )は、ウクライナの政治家、ウクライナ初代大統領(在任1991年 - 1994年)。

*ヌルスルタン・アビシュリ・ナザルバエフ(ナザルバーエフ、カザフ語:Нұрсұлтан Әбішұлы Назарбаев、ロシア語:Нурсултан Абишевич Назарбаев、Nursultan Abishevich Nazarbayev、1940年7月6日[1] - )は、カザフスタンの政治家。現在、カザフスタン共和国国家安全保障会議議長。初代大統領(1990年4月24日 - 2019年3月20日)。ヌルスルタン・アビシェヴィチ・ナザルバエフとも[2]。1991のカザフスタン独立から2019年まで、約30年にわたって大統領を務めた。首都アスタナは彼の名前にちなんでヌルスルタンと名付けられた。
だが、モスクワにおける悲観主義の蔓延は、ソ連解体以前からである。ゴルバチョフ書記長をはじめとする最高指導者層から高級官僚や著名な経済学者たち、若いエリートたち、そして庶民にいたるまで、自由経済の将来について総悲観主義であり、自信を失っていたのである。
ペレストロイカを進めて経済の立て直しをはかったものの、実態経済は悪化する一方であり、庶民生活は、ゴルバチョフ氏が「停滞の18年」というレッテルを貼ったブレジネフ時代より悪くなったと実感されていた。しかし、私自身はそれは庶民の実感であって、事実ではないと考えている。生活はずいぶん向上したのが事実である一方、欲望もひろがり、それが満たされない不足感なのである。
いずれにしても、ゴルバチョフ政権は発足直後は、計画化経済システムを強化する方向の改革、日本的にいえば「行政改革」的なシステムの改編を実施し、節酒令というロシア人には全く不人気な政策まで敢えて実行して経済の立て直しを狙ったのであるが、結局は成功しなかった。そこで、計画化システムを緩め、市場原理を部分的に導入する改革、つまり旧ソ連・東欧で長い間模索されてきた「社会主義の経済改革」を試みたのであるが、時代はそのような中途半端な改革を荒々しく踏みにじって無意味なものにしてしまった。
東欧において政治の全面的民主化を自由化が実現し、市場経済への転換がめざされ始めたのをみて、ソ連でも1989年以降、市場化が基本的方向となり、その移行期間の長短をめぐって激しい議論が重ねられた。しかし、市場経済への転換は、後述の通り、長期的な過程であり、長い過渡期が必要である。そして、過渡期においては、「計画もなく、市場もない」状態が続き、そのような時期に経済が順風であろうはずもない。
モスクワでは、こうしていろいろ試みてみたが、何をやってもうまくいかないという諦めが出て、さらに悲観的気分に沈んでいるわけである。急進的「改革派経済学者」たちがとりわけペシミスティックであるのは印象的で、自分こそ一番ペシミスティックであると主張し合っている観さえある。
それにしても、名のある経済学者がついには「ロシア人はもともと経済が苦手である」と言ったりするのを聞くと、こちらとしては暗然となってしまう。だが、悲観主義はロシア・インテリゲンチヤの伝統的習性であることに注意する必要がある。ロシア経済は深刻な危機に見舞われていると強調する学者が、「明日から1ヵ月の休暇です」とにこにこしているのを見ると、ロシアについて真面目に取り組んでいる自分が馬鹿馬鹿しくさえなってくる。

活気づくキエフ
昔からヨーロッパの穀倉といわれてきた豊かなウクライナの首都であるキエフへ行くと、市の最中心部にある「ベッサラフスキー・リノック」や下町の人々でごったがえす「ジォトニッチ自由市場」では、肉も野菜もバターも山となって溢れている。価格も安く、豚肉も鶏肉も、モスクワの半額である。
だからウクライナの人々には、モスクワやサンクト・ペテルブルクで食料品不足が騒がれ、一時はパンにまで行列ができたというテレビ・ニュースを見ても、とても現実とは信じられないのである。
ソ連崩壊となって、ウクライナの完全独立の悲願は成就した。キエフが意気軒昂であるのは当然で、今、民族主義が燃えさかっている。1992年初めの頃から、日本商社のモスクワ支店の人々が、モスクワからキエフに飛んで行っても、モスクワから来たというだけで全く相手にされず、ビジネスが不可能になったという噂が絶えなくなった。
日本商社では、本社から直接キエフへアプローチするという例は少なく、ウィーンからウクライナを見る例が増えた。ヨーロッパ企業もウクライナを将来の有望市場と見て、積極的に進出し始めている。というわけで、ウィーンとキエフを結ぶ週二便(1992年7月現在)のオーストリア航空機はいつも超満席である。
我々も1992年6月、この便を利用してキエフを訪問し、ウクライナ経済省や対外経済関係省などでまだ40歳前後の文字通り意気盛んな次官や局長たちと懇談した。その際、だいたい予想していた不都合が起った。すなわち、若き高級官僚たちは、私たちが働いている「ロシア東欧貿易会」という名称が気に入らないで問題として持ち出し、ウクライナはロシアではないとロシア語で息巻くのであった。

*The association, which was originally named "Soviet Eastern European Trade Association", was renamed to "Russian Eastern European Trade Association" in May 1992 due to the dismantling of the Soviet Union. Ассоциация, первоначально называвшаяся «Советская восточноевропейская торговая ассоциация», была переименована в «Российская восточноевропейская торговая ассоциация» в мае 1992 года в связи с распадом Советского Союза.
会は、同年5月に開かれた年次総会で変更するまで、25年間も「ソ連東欧貿易会」という名称で活動し、SOTOBOという略称で親しまれて、モスクワや極東地域ではかなりよく知られてきた。ところがソ連が無くなってしまい、ソ連東欧貿易会の名称は死んだも同然となったわけで、改名が必要となったのは当然である。しかし、「ソ連」の一語が持っていた広い国・地域の概念は、他のどんな一語によっても置き換えることができない。非常に難しい事態が発生したわけで、紆余曲折の結果、ロシア東欧貿易会としたのである。
我々が以上のような事情を懸命になって説明し、かれらがようやく納得するまでに小半時もかかり、ではウクライナの経済状況は、と話が始まった頃には約束の時間が迫っていた。

民族主義には理性ではどうしようもない部分がある。旧ソ連の各民族の間で反ロシア感情が沸騰していることは、世界中に報道されているし、各民族間では武力衝突も頻発している。平常化までには何年もかかりそうであるということは、ウクライナを訪問しただけでも十分に実感できるのである。

*アルマトイ(Алматы, 発音 [ɑlmɑtə] アルマトゥ、英: Almaty)は、カザフスタンの南東部にある都市。人口153万人でカザフスタン最大の都市である。同国における経済・教育・文化の中心地であり、「南の首都」とも呼ばれる。ソ連時代はアルマ・アタ(Алма-Ата)。
アルマ・アタ
カザフスタンの首都アルマ・アタは古来名高い天山北路にある美しい都市で、人口は約115万を数える。アルマ・アタは「リンゴの父」の意味で、市周辺にはリンゴ園をはじめナシやブドウなど広大な果樹園がひろがっている。市内では文字通り「全て」の通りでボプラやカシや白樺の街路樹が美しく、世界60カ国、150近い都市を訪問したなかでも、アルマ・アタほど街路樹の見事な都市をほかに知らない。並木が二列あるいは三列となって続き、五階建ての建物を越すほどになった大樹が枝葉をひろげ、うっそうと繁る夏から秋にかけてはどの通りも同じように見え、外国人旅行者には自分がどこにいるのか見当もつかない。


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