日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Тоска по Родине祖国への郷愁【История Японии일본의 역사日本历史Geschichte Japans】Один день в Японии: 27 сентября《치안유지법治安維持法/특별고등경찰特別高等警察》Repentance/External pressures≪일본의 항복日本投降Capitulation du Japon≫記念日(CANADA🍁Long été chaud)Pray For Peace/2023/09/02②


①Кабінет Хігасікуні東久邇内閣 — 43-й кабінет міністрів Японії на чолі з принцом Нарухіко Хігасікуні з 17 серпня по 9 жовтня 1945 року②Prinz Higashikuni Naruhiko (jap. 東久邇宮 稔彦王, Higashikuni-no-miya Naruhiko-ō bzw. 東久邇 稔彦, Higashikuni Naruhiko; * 3. Dezember 1887 in Kyōto; † 26. Januar 1990 in Tokio) war ein japanischer Politiker und vom 17. August 1945 bis zum 9. Oktober 1945 der 43. Premierminister von Japan. Er war Kaiser Hirohitos Onkel, das einzige Mitglied der japanischen Kaiserfamilie, das jemals ein Kabinett leitete, und der Premierminister mit der kürzesten Amtszeit – genau 54 Tage – in der Geschichte Japans.
民主化には手をつけず
 敗戦前夜の8月14日、政府は、本土決戦に備えてたくわえておいた当時の価格で約1000億円にのぼる巨大な食料・生活物資・原材料などを、すべて放出することを決定した。価格は安く、すぐ全額支払わなくてもよいという好条件である。保管されている場所は、官庁・軍・工場などである。8月24日に、東久邇内閣は閣議でこの中止を決定したが、それまでの10日間に、それは、あっというまに、主として大企業家、高級官僚、軍人に流れてしまった。
 敗戦とともに、軍需生産はストップした。その失業者500万人、その他引揚者や復員軍人を合わせると、年末までには1300万人の失業者がでるであろうと予想された。このとき、政府がいちばん心配したのは、失業者のことではなく、会社の倒産であった。そこで政府は、戦争中に国や軍が注文したものについて、生産中止で納品がないのに、臨時軍事費という予算から費用をつぎつぎと支出していった。その額は8月15日から11月25日のGHQの中止命令がでるまでのあいだに、じつに266億円近くにはねあがってしまった。こうして戦後のインフレは、企業、とくに大企業をたすけるために、大金をバラまいた政府自身の手でつくりだされることになった。
 一方、国民にたいして、東久邇首相は、9月4日、国会の施政方針演説で「1億総懺悔」を説いた。「懺悔」というのは、もともと宗教上のことばで、自分のまちがいを悔いて神仏に告白することである。首相は、このことばを使って、戦争の責任は1億の国民全部にあるから、ともに懺悔しようではないかとよびかけ、戦争をおこし、国民を戦争に巻きこんでいった人々への責任追及をそらそうとしたのである。
 こうして東久邇内閣は、国体護持と大企業擁護の役割ははたしたが、軍国主義をうちやぶり民主主義をつくり上げていくことは、なにもしなかった。
*懺悔(ざんげRepentance、さんげКаяття회개(悔改)Buße (Religion)とは、それぞれの宗教における神、聖なる存在の前にて、罪の告白をし、悔い改めることをいうРаска́яние — признание своих действий, сожаление по поводу своего поступка, чувство вины за эти последствия.

マッカーサーと天皇
 こうした政府の動きと対照的に、GHQはポツダム宣言の内容にそって、つぎつぎと命令を発した。9月11日、東条英機ほか38人を戦争犯罪の容疑者として逮捕した。このとき東条は、自殺をはかったが失敗した。政府は、それをみて、天皇が戦争犯罪人に指名されることをおそれ、9月27日、天皇をGHQへ訪問させ、マッカーサーと会見させた。
 この会見で天皇は、「戦争の責任は、すべてわたしにあるI am responsible for all the war. わたしの一身はどうなろうとかまわないが、国民が生活に困らないよう、連合国の援助をお願いしたいI don't care what happens to myself, but I would like to ask for the help of the Allied Powers so that the people will not be in troubleと語り、それにたいしてマッカーサーは、「どんなことでも相談にきてくださいPlease come and talk about anything」と答えたといわれている。35分間の会談は、通訳1人をおいただけであったので真相はさだかでない。このときの2人がならんだ写真が、9月29日付の新聞にでた。マッカーサーにくらべて小がらな天皇が貧相にみえ、命ごいに行ったみたいだと感じたのであろうか、あわてた政府は、天皇の尊厳を傷つけるものだとして、写真を掲載した新聞の発売を禁止した。しかし、ときは戦争中ではなく占領中であった。GHQは、ただちにこれを撤回させた。これは、東久邇内閣がなにを目的とした内閣であったかをよく物語るできごとであった。

Kiyoshi Miki (japanisch 三木 清, Miki Kiyoshi; * 5. Januar 1897 in der Präfektur Hyōgo兵庫県出身 † 26. September 1945) war ein japanischer Philosoph.

Iwao Yamazaki (山崎 巌, Yamazaki Iwao?) (16 septembre 1894福岡県出身 - 26 juin 1968) est un avocat, homme politique et ministre japonais. Son frère, Tatsunosuke Yamazaki, est également politicien et ministre, et son neveu, Heihachiro Yamazaki, est plus tard un membre important du parti libéral-démocrate.
東久邇内閣の総辞職
 このころGHQを刺激したもう1つの事件がおこった。それは、世界的に著名な哲学者三木清の獄死である。三木清は1944年、治安維持法違反で捕われていた高倉テル(Такакура Тэру (14 апреля 1891 года, Коти (префектура), остров Хонсю, Япония高知県出身 — 2 апреля 1986 года) — японский писатель XX века)の逃亡を助けたために、特高警察の手で捕らえられていた。そのかれは、1945年9月26日、東京の豊多摩拘置所で死亡した。49歳であった。
 三木清の死は、治安維持法がまだ廃止されておらず、まだ多くの思想犯が獄中にいることを人々に知らせた。外人記者たちが最初にさわぎだした。GHQは、10月1日、警視庁に、治安維持法違反で獄中にある者について報告を求めた。
*ロベール・ギラン(Robert Guillain 1908年9月4日 - 1998年12月29日)は、フランスのジャーナリストで、アジア、特に日本通として知られる。

①Las Leyes de Preservación de Seguridad Públicas《치안유지법治安維持法》fueron una serie de leyes impuestas durante el Imperio del Japón. En conjunto, las leyes tuvieron como objetivo suprimir la disidencia política②La Tokkō (特高?), terme désignant la « Haute police spéciale » (특별고등경찰特別高等警察, Tokubetsu kōtō keisatsu?)Токубэцу кото кэйсацу, était une force de police politique homologue de la Gestapo et de l'OVRA établie en 1911 dans l'empire du Japon, pour enquêter spécifiquement sur les groupes politiques et les idéologies vus comme une menace à l'ordre public ainsi que pour les contrôler.
 こうした事態にもかかわらず、10月3日、山崎内務大臣はロイター通信の記者に、「思想警察はなお活動をつづけており、天皇制廃止を主張する者は、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕されるThe Thought Police continue to operate, and all those who advocate the abolition of the Emperor System are considered communists and arrested under the Peace Preservation Law」と語った。また、同じ日、岩田法務大臣は中国人記者に、「司法当局としては、現在のところ政治犯人の釈放のごときは考えていないAs a judicial authority, we are not currently thinking about releasing political prisoners」と語った。

Chuzo Iwata岩田 宙造 ( 1875 ( Meiji 8) April 7山口県出身 - 1966 ( Showa 41) February 22) was a lawyer and politician ( aristocrat) in the Meiji and Showa periods
 GHQは、東久邇内閣のこうした態度をみて、10月4日、政治犯の即時釈放、思想警察の廃止、天皇制批判の自由、山崎内相の罷免などの指令を発表した。作家の高見順(Jun Takami (高見 順 Takami Jun?, n. 30 ianuarie 1907, Fukui, Japonia福井県出身 – d. 17 august 1965, Kamakura, Japonia) a fost pseudonimul unui poet și scriitor japonez activ în perioada Shōwa)は、この発表を新聞で知り、「胸のうちがすっとしたI felt refreshed in my chest. 暗雲が晴れたおもいI remember the dark clouds cleared. しかし、これをどうして連合国軍司令部の指令をまたずしてみずからの手でやれなかったのかBut why weren't we able to do this on our own without receiving orders from the Allied Forces Headquarters?ーはずかしいEmbarrassingと、6日の日記に書きとめた。
 10月5日、東久邇内閣はGHQの指令を受けとり、「天皇にたいして自由な討論を国民に許すことは、とてもできないIt is impossible to allow the people to freely debate the emperor」という理由で、総辞職してしまった。

Ichikawa Shōichi (japanisch 市川 正一; geboren 20. März 1892 in Ube (Präfektur Yamaguchi); gestorben 15. März 1945) war ein führender japanischer Kommunist vor 1945は、戦前の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)の幹部。山口県宇部市出身・・・1928年4月、コミンテルン第6回大会に党代表として出席。1929年4月、治安維持法違反で特別高等警察に逮捕される。約2ヶ月にわたる拷問にも屈せず、公判では代表陳述として支配階級を徹底的に糾弾し、日本共産党の党史について述べ「党と人民の正義の事業が必ず勝利するだろうParty and people's righteous cause will surely win」と主張した。彼の陳述内容はその後『日本共産党闘争小史』として出版された。 1934年7月9日、控訴審で無期懲役の判決。 1935年7月、在獄中のまま、コミンテルン第7回大会で執行委員に選ばれる。1945年3月15日、肺浸潤、腸カタルなどを患いながら宮城刑務所で死去[3]。享年54歳。最後まで転向はしなかった。

①Political prisoners in Fuchu Prison府中刑務所: Kyuichi Tokuda徳田 球一 (second from left), Yoshio Shiga志賀 義雄 (third from left)Политические заключенные в Японской империи задерживались и преследовались правительством Японской империи за инакомыслие, попытку изменить национальный характер Японии , коммунистическую деятельность или связь с группой, заявленные цели которой включали вышеупомянутые цели. После распада Японской империи после Второй мировой войны все оставшиеся политические заключенные были освобождены в соответствии с правилами, принятыми в период оккупации Японии
союзниками.
牢獄の18年 
 哲学者三木清が豊多摩拘置所で皮膚病の体をかきむしりながら死んだその2日後の9月28日、安部磯雄(Abe Isoo (安部 磯雄, 4 February 1865福岡県出身 – 10 February 1949) was a Japanese Christian socialist, parliamentarian and pacifist)・高野岩三郎(Iwasaburō Takano (高野 岩三郎 Takano Iwasaburō?, 15 de octubre de 1871長崎県出身—5 de abril de 1949) fue un estadístico social y activista laboral japonés)・賀川豊彦(Kagawa Toyohiko (japanisch 賀川 豊彦; * 10. Juli 1888 in Kōbe, Japan兵庫県出身 † 23. April 1960) war ein japanischer christlicher Reformer, Pazifist, Autor und Gewerkschaftsaktivist)らのよびかけで、無産政党(日本社会党)の設立準備会が開かれた。そして、政府が手をつけないでいた政治犯・思想犯の即時釈放を、GHQに要求することにした。そのころ、外国の記者も獄中を取材し、釈放を早めるように訴えた記事を世界中へ送っていた。10月4日、さきにふれたように、GHQは、治安維持法や思想警察などの廃止と、すべての政治犯の釈放を政府に命令した。そして10月5日、戦後はじめての労働組合の全国組織である日本海員組合が創立された。廃墟と化した日本の国内では、いたるところで新しいいぶきがおこりはじめていた。

The Shidehara Cabinet幣原内閣 is the 44th Cabinet of Japan led by Kijūrō Shidehara幣原喜重郎 from October 9, 1945, to May 22, 1946.

Kijūrō Shidehara (幣原 喜重郎, 11 août 1872 à Kadoma大阪府出身 - 10 mars 1951) est un homme d'État, 44e Premier ministre du Japon du 9 octobre 1945 au 22 mai 1946.
 こうしたなかで、総辞職した東久邇内閣のあとを受けて、10月9日、幣原喜重郎を首相とする内閣が成立した。このとき、アメリカのジャーナリストのマーク=ゲイン(マーク・ゲイン(Mark Gayn、1902年 - 1981年12月17日)は、アメリカ合衆国およびカナダのジャーナリスト。本名はモー・ギンズバーグ(Moe Ginsburg)。30年間、カナダの新聞トロントスター(The Tronto Star)に勤めた。旧満州(中国東北部)生まれのロシア系ユダヤ人Русские евреиRussian Jewsרוסישע ייִדןは、この幣原首相を「非常にやせていて生気がなく、がくがくとあごをならし、手もふるえ、まことに老齢そのものVery thin and lifeless, clenched jaw, trembling hands, very old age」と批評している。また保守政治家である三木武吉(Miki Bukichi (japanisch 三木 武吉; geboren 15. August 1884 in Takamatsu, Präfektur Kagawa香川県出身 gestorben 4. Juli 1956) war ein japanischer Politiker)も、「戦争中のカスみたいな者が集結しているだけだIt's just a gathering of people like scum of war time」と評した。外相には吉田茂(Shigeru Yoshida (Japans: 吉田 茂, Yoshida Shigeru) (Tokio, 22 september 1878 - Tokio東京都出身, 20 oktober 1967) was minister-president van Japan juist na de Tweede Wereldoorlog)が留任した。

Kyūichi Tokuda (徳田 球一, Tokuda Kyūichi?) (12 septembre 1894沖縄県出身 - 14 octobre 1953) est un homme politique japonais qui fut le premier président du Parti communiste japonais de 1945 à sa mort en 1953.

Ёсио Сига (志賀 義雄Shiga Yoshio, 12 января 1901福岡県出身 — 6 марта 1989) — член Коммунистической партии Японии

Кендзи Міямото (яп. 宮本顕治; 17 жовтня 1908 року, Хікарі, Ямагуті, Японія山口県出身 - 18 липня 2007 року, Токіо, Токіо, Японія) - японський політичний діяч.
 幣原内閣が成立した翌10月10日、政治犯約3000人の釈放が行われた。そのなかには、最高18年も牢獄に入れられていた共産党員の徳田球一ら16人の府中刑務所組や、網走からの宮本顕治らがいた。それを聞いた豊田正子(当時23歳、戦争中、綴方少女として有名になったMasako Toyoda (November 13 , 1922東京都出身 – December 9, 2010) was a Japanese essayist)は、そのおどろきと自己への反省をつぎのようにしるしている。
 「10月10日には、徳田球一がその十余人の仲間といっしょに刑務所から釈放されたOn October 10, Kyuichi Tokuda was released from prison along with his ten companions. この新聞報道は、わたしに異常な感銘をあたえたThis newspaper report made an extraordinary impression on me. わたしが12から18まで働いたレース工場は、600人余りの工場だったが、組合ができていなかったThe lace factory I worked at from 12 to 18 had more than 600 workers and was not unionized. それでわたしは、労働運動にたずさわったことがなく、プロレタリアとか共産主義とかいうことばなど、口にしたこともなかったSo I had never been involved in the labor movement, never mentioned the words proletariat or communism. むろん徳田球一という名前も知らず、こんどの新聞ではじめて知ったにすぎないOf course, I didn't even know the name Kyuichi Tokuda, and I only learned about it from this newspaper. ところが、この徳球という人は、昭和2年から今日まで、18年間も、獄中にとじこめられていたが、その間いっかんしてその仲間といっしょに、日本の侵略戦争に反対してがんばりぬいたというのであったHowever, Tokukyu had been imprisoned for 18 years, from 1927 to the present day, and it is said that during that time he and his companions worked hard to oppose Japan's war of aggression. こういう人たちもきわめて少数ながら日本にはいたのか、とわたしは心の底からおどろいたI was surprised from the bottom of my heart that there were such people in Japan, albeit very few.
 徳田らの出獄をむかえに行ったのは約800人、うち朝鮮人が700人ほどを占めていた。釈放される人のなかに金天海(Kim Chon-hae ( koreanisch : 김천해 ; Hanja : 金天海; RR : Gim Cheon-hae , japanische Lesart: Kin Tenkai ; 10. Mai 1898, Ulsan-gun , Süd-Gyeongsang – 1969?) war ein Zainichi-Koreaner, der eine führende Rolle spielte Persönlichkeit der Kommunistischen Partei Japans)らの朝鮮人がいたこともあるが、日本人が100人ということは、日本の共産党のきびしい出発点を物語っていた。
その日、東京千代田区内幸町にあった飛行館ホールで、「自由戦士出獄歓迎人民大会Welcome freedom fighter out of prison people's rally」が開かれた。3000人近い人々が集まったが、このときもその半数以上は朝鮮人であった。この大会へは、徳田らは出席できなかったが、徳田らが獄中で用意した「人民にうったうAppeal to the people」という1枚のプリントが金1円で参加者に売られた。そこには、つぎのようなことが書かれていた。「米英および連合諸国の平和政策にたいしては、われわれは積極的にこれを支持するWe actively support the peace policy of the United States, Great Britain and the Allies」「われわれの目標は天皇制の打倒Our goal is to overthrow the imperial system人民の総意にもとづく人民共和国政府の樹立にあるEstablishment of a government of the People's Republic based on the will of the people」

GHQの民主化命令
 政治犯が釈放された翌日の10月11日、幣原首相は新任のあいさつをしにマッカーサーを訪問した。このときマッカーサーは、ポツダム宣言にそって憲法を自由主義化することと、人権確保のための5大改革を口頭で要求した。
 5大改革というのは、①婦人の解放 ②労働者の団結権・争議権・団体交渉権の無条件保障 ③教育の自由主義化 ④専制政治からの解放 ⑤経済の民主化、の5つである。これを5大民主化指令とよんでいる。
 GHQの最高司令官マッカーサーは、毎朝、午前11時にアメリカ大使館をでて、皇居まえの濠端にそびえ立つ第一相互ビルにあるGHQ本部へむかった。午後2時から5時まで昼食に大使館へもどり、あと9時まで仕事をつづけた。それ以外の外出は、ほとんどしなかった。日本は外国との関係をすべてマッカーサーをとおして行なわねばならず、マッカーサーは首相や天皇のうえに立って日本を占領し、支配した。

 そのマッカーサーを長とする、GHQの民主化指令は、どういう意味をもっていたのであろうか。9月22日、ワシントンで公表された「降伏後におけるアメリカの初期の対日方針Post-surrender early U.S. policy toward Japan」によれば、その究極の目的の第1には、「日本がふたたびアメリカの脅威となり、または世界の平和および安全の脅威とならないことを確実にすることTo ensure that Japan does not again pose a threat to the United States or to world peace and security」と書かれていた。つまりアメリカは、日本がふたたびアメリカをおびやかすことがないようにすることを、最大のねらいとしていた。そのため対日方針は、軍国主義の息の根をとめ、ふたたびもりかえさないようにすることであり、それには日本の自由主義化・民主主義化を進めることだとされた。
 ところで、第2次世界大戦で手を結んだアメリカ・イギリスとソ連は、片や資本主義国であり、片や社会主義国であって、たがいに警戒していた。したがって、アメリカは、日本の民主主義・自由主義化は認めても、社会主義化することはおさえなければならなかった。つまり、日本が社会主義化することは、資本主義国アメリカにとっては、日本が軍国主義化することと同じように許せないことであった。
 GHQの民主化政策は、あくまでも資本主義国アメリカの脅威にならないための、1つの手段にすぎなかったのである。

„ Ringo no Uta “ (リンゴの唄, Lied des Apfels )Ринго-но Ута (песня Митико Намики и Нобору Киришимы) ist ein Lied aus dem japanischen Film Soyokaze aus dem Jahr 1945 . Es wurde vom Dichter und Texter Hachirō Satō [ ja ] und dem Komponisten Tadashi Manjome [ ja ] geschrieben , der auch der Produzent des Films war. Das Lied wurde als Duett zwischen der japanischen Schauspielerin Michiko Namiki [ ja ] und der Sängerin Noboru Kirishima [ ja ] gesungen und im Januar 1946 als Aufnahme veröffentlicht. Es gilt als der erste Hit in Japan danachZweiter Weltkrieg.
解放のよろこびと苦しみ
りんごの歌
 「赤いりんごに くちびるよせて だまって見ている 青い空・・・」街には、戦争中にはとても聞かれなかった軽快なメロディーが流れはじめた。サトー=ハチロー作詞、万城目正作曲の『りんごの歌』(映画『そよ風』主題歌)である。もう空襲の心配はない。生きてさえいれば、外地にいる肉親も帰ってくる。なによりも死なないですんだというほっとした気持ちが、この歌にはこめられていた。
 しかし、生き残ってはみたものの、この廃墟と化した日本、家にもどっても職はなし、食べるものもない日本では、生きることがたいへんであった。
 1945(昭和20)年11月18日付の『朝日新聞』は、冬をまえにして「はじまっている死の行進 餓死はすでに全国の街に」という大見出しで、全国の悲惨なようすを伝えている。くわえて、この年の米作は大凶作であった。前年より20パーセント減の4661万石(約699万t)で、明治30年代と同じ数字である。新聞は「この凶作のもたらすべき影響は、未曾有のものといわねばならない」と書いた。
 もっているものは着物でもなんでも売って、とにかく必死で生きていくしかなかった。ヤミ市が全国どこでも繁盛した。そこへいけばなんでもあった。金さえだせばなんでも買えた。以下は、新聞の伝えた銀座のようすである。
 「戸板でにわか古着屋 銀座八丁ずらりと闇市 尾張町(いまの銀座4丁目)の角から北側を銀座方面へー最初に四つ身と一つ身の子どもの着物を2枚戸板にのせて売っている。いずれも中古品。とにかく着物2枚でどうどうと銀座八丁へ店が張れ、つぎが種物屋。野菜不足のおりから満員の客足、大根と白菜の注文が多いという・・・」(『朝日新聞』1945年11月13日)
 復員、引き揚げ、失業、主食の欠乏・・・という混乱のなかで生きていくためには、人が集まり何でも手軽に現金にすることができるヤミ市に、多くの人は自然と足が向いた。一方、こうしたどさくさにまぎれて、不法・不当な値段で物資を売りつけ、ひともうけ(ヤミ肥り)を図る人々もいた。ヤミ市は、そのころの人々の喜怒哀楽をあらわす縮図であった。
 『りんごの歌』は、そうしたころ、つぎつぎにかえ歌にされ、メロディーだけは確実に全国すみずみにまで流れていった。

こんな日本にだれがした
 戦後まもない9月11日午後、東京の世田谷区玉川用賀町の東条宅で、1発の銃声がひびいた。玄関には、マッカーサーの命令を受け、東条英機を逮捕しようとMP(米軍憲兵)が立っていた。それを知らされた東条は、ピストル自殺をはかったのである。しかし、弾は急所をはずれ命はたすかった。
*General Hideki Tojo (former Prime Minister) is cared for by U.S. Army medics after failing his attempted suicide, September 11, 1945.
 同じ年の12月6日、天皇の重臣といわれた木戸幸一や近衛文麿のところにも、マッカーサーから逮捕令状がとどけられた。GHQから戦争犯罪人として逮捕令状のだされた者の数は、286人に達した。近衛文麿は自殺した。
*Aux premières heures du 16 décembre 1945, Fumimaro Konoe, qui a été Premier ministre à trois reprises avant la guerre, s'est suicidé en utilisant du cyanure de potassium à Ogigaiso, à Ogikubo, Tokyo.
 ちょうど太平洋戦争開始の日にあたる12月8日がきた。この日、東京神田の共立講堂では、「戦争犯罪人追及人民大会People's Congress to Pursue War Criminalsが開かれた。主催者はGHQでも政府でもない。自由懇話会・救援会・新日本文学会・労働組合促進会などの共同主催の会であった。アメリカの新聞記者として日本にきていたマーク=ゲインの記事によって、その大会のようすを再現してみよう。
「大会が開かれる共同講堂のまえには、MPの白いジープが2~3台とまっていた。何人かの諜報隊員がろうかで機関紙を売っている若者たちに質問していた。大きなうす暗い講堂は、まるで天井まで人がつまっているかのような盛況であった。聴衆は1つの型にはまっていた。男性、中年、貧弱な服装。みな開会をまちかねてワンワンうなり声をあげていた。・・・弁士はつぎつぎと立ち、演説は3時間余におよんだ。共産党は戦争犯罪人1600人余りの第1次リストを発表し、志賀義雄がその説明に壇上へ上がった。『・・・われわれは、さらに多くの名前をつけ加えなければならないWe have to add more names. われわれは成年に達した皇族のすべてをこれに加えるWe add to this all the members of the royal family who have come of age. 皇后良子もだEmpress Nagako too.・・・』演説は熱気をおび、クライマックスに達した。志賀はしばしばだまった。やがて沈黙が広がり、緊張がみなぎった。やがて志賀は、『いまやわれわれは最後の名前に達したNow we have reached the last name. それは天皇だIt's the emperor.・・・』聴衆は歓呼し怒号し足をふみならした。会場のなかは、洞穴のようなうすぐらさであったが、いまや騒音と熱狂にみたされた」
 この共産党の天皇制批判は、国民一致の支持を広く受けたとはいえなかった。逆に反発した人々が多かった。また、戦犯リストが国民の意識をこえて広くおよんだこともあり、国民の一致した戦犯追及にもり上がっていかなかった。
 しかし天皇制批判の声は、マスコミでも活発に論ぜられ、またアメリカをふくめ、アジアの諸国やソ連などからも強くだされていた。
 こうしたとき、1946(昭和21)年の新年をむかえた。その元旦、天皇の人間宣言が発表された。天皇は現人神ではなく人間であると宣言したのである。こうして、明治憲法下の神である天皇から、新憲法である象徴天皇への布石がしかれることになった。
*Die Meiji-Verfassung (jap. 明治憲法 Meiji-kempō), offiziell die Verfassung des Kaiserreichs Groß-Japan (大日本帝國憲法 Dai-Nippon teikoku kempō), war die Verfassung des Japanischen Kaiserreichs.

*The Humanity Declaration (人間宣言인간선언, Ningen-sengen) Декларация о человеческой природе is an imperial rescript issued by Hirohito, the emperor of Japan, as part of a New Year's statement on 1 January 1946 at the request of the Supreme Commander for the Allied Powers. In the rescript, which started with his citation of the Five Charter Oath of 1868,[1] the Emperor denied the concept of his divinity, which would eventually lead to the promulgation of the new Constitution, under which the Emperor is "the symbol of the State and of the unity of the people".
 これは、ひとつには、アメリカの求めた天皇観でもあった。アメリカは内外での天皇制批判をおさえながら、アメリカにとって「20個師団のみかた」に値するといわれた天皇の権威を温存しようと考えたのであろう。また、それは急激な天皇制の解体まで求めるにいたっていない日本の国民感情にも、うまくのったものでもあった。

Placard incident: On the occasion of Food May Day in 1946, Shōtarō Matsushima, one of the demonstrators who gathered in the plaza in front of the Imperial Palace held a placard criticizing the Emperor and was arrested and cha
rged with Lèse-majesté.  In accordance with the orders of the Supreme Commander of the Allied Powers (Potsdam Declaration and Surrender Document), the government had released the perpetrators of Lèse-majesté since October 5, 1945. In addition, the divinity of the Emperor, which was the basis of the 不敬罪Lèse-majesté, had been denied in the so-called Emperor's Declaration of Humanity in January 1946.

At the Food MayDay in May of the same year, placards were seen that read,「ヒロヒト 詔書 曰ク 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)"Hirohito, imperial edict, the national government has been protected. “Chin” (the emperor) is eating a lot. Nanji people, starve and die, “gyomei gyoji” (the emperor)".The Tokyo Public Prosecutor's Office prosecuted Matsushima Matsutaro, who was responsible for creating the placards, on the grounds that this was a Lèse-majesté. In November of the same year, the first instance court ruled that the Lèse-majesté did not exist and found him guilty of defamation. Then, he pleaded not guilty to both charges and appealed. In June of the same year, the second trial ruled that he was guilty of Lèse-majesté, but that he was exonerated because the GHQ enacted "the act of grace for the Lèse-majesté", which made the people who has been convicted in Lèse-majesté lose the effect of the sentence

Le nom d'histoire contemporaine du Japon désigne la période ayant suivi la fin de la Seconde Guerre mondiale (soit depuis le 2 septembre 1945). La Constitution d'après-guerre a été modifiée, le nouveau texte entrant en application en 1947. Cette période est appelée l'après-guerre (戦後, Sengo?) ou le Japon d'après-guerre (戦後日本, Sengo-Nihon / Sengo-Nippon?). Après la défaite dans la Seconde Guerre mondiale, le Japon est devenu un état de la démocratie parlementaire. Mais, cette période d'après-guerre se caractérise par l'Alliance américano-japonaise avec par exemple la création de l'United States Forces Japan act (USFJ) (在日米軍 Zainichi Beigun en japonais).

日本国紀 – November 12, 2018 by 百田 尚樹 (著)
私たちは何者なのかWho we are―。神話とともに誕生しBorn with a myth、万世一系の天皇を中心にfocusing on the unbroken line of emperors、独自の発展を遂げてきた、私たちの国・日本Japan, our country, has achieved its own development. 本書は、2000年以上にわたる国民の歴史と激動にみちた国家の変遷を「一本の線」でつないだThis book connects more than 2,000 years of national history and the turbulent changes of the nation with a "single line"、壮大なる叙事詩である!A great epic!当代一のストーリーテラーが、平成最後の年に送り出す、日本通史の決定版!The definitive edition of Japan's comprehensive history, sent out in the last year of the Heisei period by the best storyteller of our time!


Кандзи Нисио (西尾幹二, Нисио Кандзи , род. 1935) — японский интеллектуал и почётный профессор литературы Университета электрокоммуникаций в Токио , Япония.

Saburō Ienaga (家永 三郎이에나가 사부로, Ienaga Saburō, September 3, 1913 – November 29, 2002) Сабуро Иэнага was a Japanese historian. In 1953, the Japanese Ministry of Education published a textbook by Ienaga, but censored what they said were factual errors and matters of opinion, regarding Japanese war crimes. Ienaga undertook a series of lawsuits against the Ministry for violation of his freedom of speech. He was nominated for the Nobel Peace Prize in 1999 and 2001 by Noam Chomsky among others.[1][2] He also recorded the history of the Japanese resistance in World War II in his book The Pacific War, 1931–1945.

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