日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

그래픽 보고서 청산되지 쇼 - 조선인 강제 연행의 기록 숲 栄代 [사진 · 글]/清算されない昭和 ー朝鮮人強制連行の記録/ 林 えいだい【写真・文】/Graphic report: Showa not liquidated-Record of forced compulsory Koreans③

국가 총동원법(國家總動員法, 일본어: 国家総動員法, 영어: National Mobilization Law)은 일본 제국이 중일 전쟁을 일으킨 뒤, 전쟁에 수행하기 위해 한반도와 타이완등, 일본제국의 식민지 내에서 노동력과 물자 등을 수탈한 뒤 이를 전쟁에 동원하여 수행한 전시 체제의 법령을 말한다. 1938년 4월 1일에 공표하였다.
Българскиブルガリア語→Законът за национална мобилизация (на японски: 国家総動員法) е закон, предложен от министър-председателя Фумимаро Коное и приет от японския парламент на 24 март 1938 г.
ーそれに基いて政府は「昭和14年度労務動員実施計画」を閣議決定して、朝鮮人労働者の集団移入に踏み切った。7月には、内務・厚生両省次官通牒「朝鮮人労務者内地移住に関する件」によって、各事業所に合計8万5000人の徴用が許可された。この決定によって、9月から朝鮮半島の各地で強制連行が始まったのである。朝鮮での募集は、実際には総督府の許可を受け、そこで初めて地域が決まる。事業所の募集係が何処へでも勝手に行って、募集することはできない。面での募集業務の責任者は書記であるが、彼らは村人たちの反対を考えて面巡査に協力を依頼した。表向きは自由募集でありながら、権力を利用して募集業務が行われるので、実質はお上の命令による徴用と同じであった。
ー1940年(昭15)11月、慶尚南道固城郡下二面に住んでいた鄭正漠さんは、友人と3人で三千浦の市場に買物に行く途中、路上で巡査から逮捕されてトラックに放り込まれ、九州の三菱鉱業所鲶田炭鉱へ強制連行された。鄭さんは親が決めて3歳上の李岳只さんと結婚したのが、広島の中学1年の冬だった。2男1女に恵まれて、これからという時に、突如として家族の前から姿を消したのだ。千葉県柏市に住んでいる鄭さんから、私宛にきた手紙の1部をここで紹介しよう。
「韓国で息子の消息が分かり、1964年に帰国しましたが、22年間にわたって家族は私が強制連行されたことを知らずに、探し続けていたということです。それまで私は何度も故郷に手紙を出しましたが、返事がもらえず、朝鮮動乱で行方不明になったとばかり思っていました・・・」
ー鄭さんのいう1940年(昭15)に、そんな無謀なことが果たしてあったのか。私にはとても信じられないことだった。私は千葉のお宅に鄭さんを訪ね、約1週間一緒に暮らしながら、夜を徹して話を聞いた。10日後、韓国の故郷を訪ねて夫人の李さんに会い、また関係者に会って事実かどうか確かめた。そして強制連行された場所に立って見た。
ー医師の健康診断によって、労働に適した体格の者が選別された。募集する事業所によっては、前もって国民服や戦闘帽、地下足袋などをソウルの出張所に送っておいた。支度金といった渡航準備金を1人5円渡したところもあったが、こうれは募集費がかかり過ぎるというのですぐ廃止された。1939年(昭14)、朝鮮民事令が改定された。日本人化政策の1つとして、”創氏改名”が行なわれ、朝鮮民族固有の姓名を日本名に変えることが強要された。改名しない者は、非国民とか不逞鮮人といわれたが、1部の朝鮮人は最後まで抵抗して変えようとしなかった。戸籍謄抄本の照合を行なう時にこれが表面化して、面書記によって強引に改名の手続きがとられた。
ー朝鮮巡査だった宮司照吉さんは、募集事情が終わって、日産化学工業遠賀鉱業所から料亭に招待された。そのとき労務係に「日本語を話せる者を隊長にすること、そして全員を班組織にして、必ず班長を作らせない」とアドバイスした。朝鮮巡査としての長い経験から分かったというが、そのことがあって後に労務係としてスカウトされた。大体1カ月間の現地訓練が義務づけられていたが、実際には2,3日で打ち切られた。小学校の校庭に全員を集め、各自に番号がつけられた。在郷軍人会の人たちによって、軍事訓練が始められた。日本語を知らない彼らは、号令に戸惑い、足並みが乱れると殴りつけられた。
ーソウル市南山には、長い石段の朝鮮神宮を、さらに全土282ヶ所に神社を建てさせた。1936年(昭11)になると1邑(町)面(村)に1神社を目標に神社を建てることを義務づけた。面事務所や学校にも神社を建てて参拝させたのである。皇国臣民化教育の一環として、神社参拝、宮城遥拝、国旗の掲揚が行なわれた。Françaisフランス語→皇国臣民化教育La japonisation désigne le processus par lequel la culture japonaise domine, assimile ou influence d'autres cultures, en général.
朝鮮半島=皇民化政策是日本為使朝鮮人成為「皇國的臣民」,即成為忠誠於天皇之日本國民而推進之政策;其目的在於朝鮮人實施戰爭總動員,以參加日本發動之侵略戰爭[7]:140。朝鮮總督南次郎說:「內鮮一體正是統治的最高指導目標。形態上、心靈上、血液上、肉體上都必須成為一體。」[7]:140日本雖然已經擴大對華侵略規模,正式推進戰時體制,但單憑日本人之力量來應對戰爭卻是很吃力;因此有必要動員朝鮮人參加戰爭;為盡可能使朝鮮人自發加入戰爭,因而一再強調「內鮮一體」,即日本之「內」與朝鮮之「鮮」成為整體[7]:140。每天正午,朝鮮人無論做什麼,都必須面向日本天皇所在之東京方向深深低頭行禮;所有學校學生每天都要在運動場上集合,向日本皇宮所在之東方朝拜,還要背誦《皇國臣民誓詞》,即「宮城遙拜」[7]:141。為徹底達到「內鮮一體」之目的,日本殖民當局教育要所有朝鮮人都能使用日語;學校裡不再教授朝鮮語;1942年正式開展日常生活中使用日語[7]:141。從1940年開始,日本強制要求朝鮮人之姓名都必須改成日本式,即創氏改名[7]:141。
ー内地への出発にあたっては、全員が群庁のあるところの神社に参拝させられ、戦地の兵士の武運長久を祈り、御国へ奉公してくることを誓い、神主のお祓いを受けた。神前では大声で、皇国臣民の誓詞が唱えられた。
一、我等ハ皇国臣民ナリ忠誠以テ君国ニ報ゼン 一、我等皇国臣民ハ信愛協力シ以テ団結ヲ固クセン 一、我等皇国臣民ハ忍苦鍛錬力ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣揚セン
ー全羅北道任実郡聖寿面出身の沈石万さんは、任実郡50人の引率隊長となった。沈さんの話では、出発する時に郡長は「郡の代表で行くからには、名誉の戦死をして帰ってこい」と激励した。任実駅前広場には200人ばかりが集まった。家族や親戚の者が大勢見送って、警察署長の音頭で「万歳!」を三唱したという。
국민 징용 령 国民徴用令(국민徴用레이 쇼와 14 년 7 월 8 일 칙령 제 451 호)은 국가 총동원 법 에 따라 1939 년 (쇼와 14 년)에 제정 된 일본 의 칙령 이다 . 일부 지역에서는 백지 등으로 불렸다.  
朝鮮における施行 - いわゆる「朝鮮人強制連行」はこの徴用令に基づく内地等への労働力移入を指す。
Esperantoエスペラント語→La Nacia Recruitment Ordinance (Kokuminchoyo Rei Reĝa Dekreto Nº 451 de julio 8, 1964) estas a reĝa dekreto de Japanio establita en 1939 (Showa 14) bazita sur la Nacia Mobilizado-Leĝo. . Ĝi estis nomata malplena papero en iuj lokoj.
2、官斡旋、徴用令の強制連行
ー1941年(昭16)の夏、長田信俊さんは日産化学工業遠賀鉱業所から、忠清北道の清州を中心に200人の募集に行った。その時、中央病院の医師3人を同行して、募集を有利にするため現地治療というサービスを行なわせた。
「清州に着くと、すぐ群庁から挨拶に行った。うちの炭鉱ではソウルに事務所があったので、専門の募集労務を置いて1年中かかりきりで仕事をしていましたから、群庁には相当のお土産を持っていかないと、ハイそうですかとは動いてくれませんからね。群庁は管轄内の面長に命令する権限を持っているので、人がまったくいないような田舎を割り当てられたらそれこそ大変です。それからすぐ面長と面巡査のところに、お土産をどっさり持って顔つなぎに行った。面巡査はどちらかといえば、面長以上の絶対的な権限を持っていたからね。面書記が人が集まらないと渋っても、巡査自らが命令して引っ張ってきた。こっちが巡査を取り込むかどうかが、最後には募集の決め手となりました」
ー朝鮮に募集に行けば、割り当てられた人数は必ず確保して連れて帰らないと、その人の責任問題となる。医師の診察の甲斐もなく、結果的には予定の3分の2しか集まらなかった。雨の中では、若い働き手をすべて募集できるとは限らない。一家の主でもおうし、2年契約といっても、長期間にわたって家を留守にする不安もある。途中で一度も帰国させないので、大事な先祖の法事もやることができない。面で募集業務を担当している書記は、割り当てを達成するためには強制的にならざるをえない。もし自分の兄弟とか親戚の者を外すと、他の者からは身内びいきだと非難された。身内の者を決めると、親戚のくせして思いやりがないと、こんどはまた責められた。無理に連れて行くと、一生恨まれて面におられなくなる。小さな面になるほどいろんな人間関係があって、送り出す側も深刻な問題を抱えていた。―田舎の旅人宿をシラミや南京虫に噛まれながら転々とするので、たまに町に出てくると芸者を呼んで慰労会ということになる。郡庁の幹部を料亭に招待して、期日までに集めてくれるように頼んだ。長田さんと一緒に行った池田という労務係が、酔った勢いでからみはじめた。朝鮮時代はこの地方の警部補で、警察署長は昔の部下だった。出席している郡長も、その労務係りに頭が上がらないほどの顔だった。
「お前たちは俺の顔を潰す気か!もう一度それぞれの面に命令して集め直せ。そして2日以内に確実に集めて報告しろ。もし不足したら承知せんぞ!」と、いきなり立ってテーブルを足蹴りして出て行った。
―募集慣れした郡長の幹部は、事業所が困っていることを知っているから、いろんな理由をつけて無理だといい。暗にリベートを要求した。募集する者とされる者、両者はお互いに火花を散らして、人狩りの駆け引きを演じた。朝鮮巡査出身の労務係は、長い間の経験を生かして本領を発揮した。在任中のコネを利用して、朝鮮での強制連行の中心的役割を果たすようになった。炭鉱に限らず他の事業所も朝鮮巡査を採用したので、各地の治安状態が悪化して総督府をあわてさせた。
―北朝鮮の重工業の発展と、国内の労働者需要の増加で、だんだん朝鮮内での募集が困難となり、1941年(昭16)になると許可数の7割程度しか強制連行できなかった。特に炭鉱や鉱山における過酷な労働と、自由のない拘束された生活は敬遠された。それに加えて炭鉱は事故が多いことを知っているので、危険を感じて嫌がる傾向にあった。
―太平洋戦争が勃発すると、国内の労働事情はさらに逼迫して、朝鮮人労働者の確保が一層重要になり、企画院は1942年の労務動員計画を12万人と予定した。同年2月、閣議で「半島人労務者活用に関する方策」を決定した。総督府はこれに基づいて「鮮人内地移入斡旋要網」を制定。これまでの自由募集を改め、総督府の斡旋によって強制的に連行する“朝鮮人狩り”が公的機関で公然と行なわれるようになった。
―朝鮮ではすでに労働者は底をつき、強制連行を逃れて山の中に隠れる者もいた。面書記の職務としては、総督府が決定した割り当て人員は揃えなければならない。いままでのように、彼らの裁量による募集では済まされなくなった。畑で仕事をしている農民であろうと、道路を歩いている者であろうと、手当たり次第に捕まえたのである。
―元朝鮮巡査の宮司照吉さんは、京畿道の広州へ行って肝が潰れるほど驚いた。真夜中に一つの部落を巡査と労務係・面書記が取り囲んだ。その輪を縮めながら一軒一軒土足のまま家に上がり込み、寝ている男を家から連れ出した。抵抗する者は木刀で殴りつけ、血まみれになって動けなくなると引きずった。泣き叫びながら狂ったようにトラックに追いすがる女房や子供を、巡査は上から蹴りつけた。部落の襲撃が終わると、面長室で酒が出されて慰労会が行われた。
―宮司さんはあきれて、どうしてあんな乱暴なことをして集めるのかと隣の面長にたずねた。
「あのことを‘兎狩り作戦’というんですよ。昼は山の奥に隠れて、夜になると必ずわが家に帰ってきますから」。自分の同胞を、犬や猫のように扱って平然としている面長の顔を、宮司さんはある驚きをもって見つめたという。嫌がる者を無理に連れてくるので、強制連行された者はあらゆる機会をねらって逃げようとした。そのために明治鉱業所では、警備のために、わざわざ特高を連れてきたのだった。

조선총독부(일본어: 朝鮮総督府 조센소토쿠후[*])는 일본 제국이 1910년 8월 29일 한일 병합 조약 체결일부터 1945년 9월 2일까지 한반도에 대한 통치를 위해 운영하던 직속기관이었다. 본부의 소재지는 당시 경기도 경성부(현재의 대한민국 서울특별시)에 있었다.朝鮮总督府是大日本帝國统治朝鲜期間,在朝鮮京城(現首爾)景福宫内设立的最高政府机构。

Русскийロシア語→Токубэцу кото кэйсацу (яп. 特別高等警察 токубэцу ко:то: кэйсацу, «Особая высшая полиция»),часто сокращается до токко кэйсацу (яп. 特高警察 токко: кэйсацу) или токко (яп. 特高 Токко:) — тайная политическая полиция, существовавшая в Японской империи с 1911 по 1945 год[1]. Токко была также известна как полиция общественной безопасности (яп. 治安警察 Тиан кэйсацу) и более известна под названием полиция мысли (яп. 思想警察 Сисо: кэйсацу)[2]Polskiポーランド語⇒Tokubetsu Kōtō Keisatsu (jap. 特別高等警察, Specjalna Wyższa Policja), w skrócie Tokkō (jap. 特高) – japońska tajna policja polityczna utworzona w 1911 roku. Znana była także pod nazwą shisō-keisatsu (pol. policja myśli) lub chian-keisatsu (pol. policja bezpieczeństwa publicznego).


3、関釜連絡船
なにを恨もか 国さえ亡ぶ 家の亡ぶに 不思議ない 運ぶばかりで 帰しちゃくれぬ 連絡船は 地獄船
ーこの連絡船の歌は、1937年(昭12)に流行した「連絡船は行く」の替歌である。連絡船といえば、普通はロマンチックな旅情をかり立てるが、朝鮮民族にとって、それはまさに地獄船であり奴隷船であった。関釜連絡船は、朝鮮海峡をへだてた釜山と下関間、僅か320キロの航路であるが、海の中に暗い航跡を描いてきた。1940年に路上で逮捕された鄭正漠さんは、固城警察署の隣りにある木造の道場へつれていかれた。そこには40~50人の男たちが板張りの上に寝そべっていた。彼らに行先をたずねても、誰も知らないといって不安な目で鄭さんを見た。理由も告げずに連行するからには、軍隊の秘密工事じゃないかと鄭さんは疑った。午後になると握り飯が2個配られた。お茶を飲んでいると、道場の前に迎えのトラックが2台着いた。
ー夕方、釜山水上署に連れて行かれた。そのとき人数を数えたら、全員で140人になっていた。私服の特高がみんなの前に立った。「お前たちはよく聞け。いまから内地へ行く。いいか、国家のために尽してこい」。日本へ行くことは分かったが、何処へ何のために行くのかは知らされなかった。釜山水上署を出ると、一般乗客が乗船する前にタラップを上がり、船底の貨物室に押し込まれた。再び特高が姿を現すと、上の船室に行ってはならない、便所は隅に置いてあるバケツの中でやれといって、ボーイに5個持ってこさせた。鄭さんはいままで何度となく日本との間を往復したが、こんなひどい取り扱いを受けたことはなかった。エンジンの音が急に高まって船が揺れ始めると、ステッキを持った男たちが5,6人タラップを降りてきた。
ー「俺は三菱鯰田炭鉱の労務だ」。そういうと、側に立っている目つきの悪い男たちを紹介した。鄭さんたちは、そこではじめて炭鉱へ行くことを知らされたのだった。「あんた炭鉱といったが、一体、どんな仕事なんだ」。日本語を話せる鄭さんが口火を切った。その労務係は、表情を固くして炭鉱のことを説明した。1日3交代で1人2円払うといった。一般の土木工事などの人夫が1日40銭、釜山港の沖仲仕が60銭、それに比べて炭鉱が2円とは、相当きつい労働だと思われた。
-1940年(昭15)、すでにこうした無謀なことを、国家と企業は朝鮮人に対して行なってきている。前もって日本へ行くことが分かれば、彼らとて家族との別れをするなり、心の準備をして家を出ることができたであろう。強制連行の移送は釜山港だけでなく、麗水港から下関港へ就航する連絡船でも行なった。全羅南道霊岩郡徳津面出身の文有烈さんは、16歳の時に両親が亡くなって、5人の弟妹を親代わりに育てた。1942年、明後日が大晦日という日、家族で夕食をしている時だった。「ナオラ!(出てこい)」と、家の前で叫ぶ声がして、面巡査たちが5,6人土足で上がってきた。「私たちを置いていかないでおくれ。これから先弟妹の面倒は誰が見るのよ!」。文さんの女房は取りすがって叫んだ。面巡査に哀願する女房を後に、文さんは吹雪の麗水港へと連行された。
―海岸にある米倉庫に入れられると、すぐ身体検査をするので真っ裸になれといわれた。文さんは不合格になるために、わざと背中を丸め弱々しい格好をした。「よか体しちょる」。労務係の一声で、故郷に帰る道は破れた。「お前たちは九州の麻生炭鉱へ行くことになった。1年したら帰国させるから、お国のために頑張れ!」。右手にステッキを持った男が演説した。敵の潜水艦の攻撃を受けたら、みんな海に飛び込めと指示した。正月の冬の海にどうして飛び込めるか、数分して凍死してしまうことは確実だ。こうした無差別な強制連行は、戦況が末期症状を示すにしたがってひどくなった。
―慶尚南道居昌郡南上面出身の廉燦淳さんは、家族との悲しい別離の涙も乾かないまま釜山へ到着すると、後を追うかのように、「チチシススグカエレ」の電報が釜山水上署に届いた。その電報を三井鉱業所の労務係に見せ、長男だから親の葬式を出さなければならないから、すぐ家に帰してくれと頼んだ。それを聞いた労務係は「貴様は何を甘えたことをいうか。父親が死んだくらいで葬式に帰りたいとは何ごとか。産業戦士として、いまから戦地に行きよるから帰れないと返電を打て!」。廉さんは、みんなの前で怒鳴りつけられた。
―釜山港は、満州(中国東北部)、朝鮮と日本を結ぶ接点で、朝鮮独立運動家や社会主義者が通過するところでもあった。釜山水上署の特高が綱を張って、何時もきびしい監視の目を光らせていた。怪しいとこにらまれただけで検束され、特別室に連れていかれた。釜山水上署の特別室は、その部屋だけは物音が外部に洩れない構造になっていた。ストーブの中に火箸を入れて、真っ赤に焼けたものを朝鮮人の体に押し付けた。拷問する無気味な音は消され、朝鮮人の「アイゴー!」の叫び声だけが窓越しに洩れて聞こえた。
―関釜連絡船に乗船した特高で、福岡在住の満生重太郎さんいたずねると、拷問を受ける人の殆どは朝鮮独立運動の関係者で、強制連行を利用して日本へ脱出するときに捕まえたと語った。関釜連絡船の桟橋をわざと長くしたのは、いわゆる不逞朝鮮人を監視するためだと、彼の話ではじめて知った。大正鉱業所中鶴炭鉱の労務係で、強制連行30数回の体験を持つ、福岡県中間市の竹原三二さんは、朝鮮募集のベテランである。現在、竹原さんと同じ市内に、彼が強制連行してきた2人の朝鮮人が住んでいるが、それは偶然の一致ではなかろう。その1人である趙永熙さんは、竹原さんに会うと「あんたがわしを無理矢理引っ張ってきたからだ」というので、竹原さんは趙さんの顔を見ると逃げ出したいと正直に語る。

ー竹原さんは、朝鮮の浦項で商売をしていたが、女房が亡くなってから店をたたんで、故郷の福岡へ帰ってきた。そこへ大正鉱業所から話があって、1942(昭17)に労務係となった。竹原さんは、朝鮮募集と現地教育の仕事を担当した。「募集が困難になると、1人でも逃亡させるわけにはいかない。集めると各地で駐在所というか警察の留置場に入れて、割り当て数を達成するまで待たせておきました。一定の人数が集まると、総指揮をとる私に、これこれにおるからと連絡がある。留置場に入れて監視しておかないと、逃げるからね」竹原さんが募集に行ったところ、期限が迫っても2人だけどうしても足りなかった。最後の2人のときに、趙永熙さんが運悪く捕まったのだった。趙さんは平壌で石炭商をしていて、親子3人で暮らしていた。たまたま父親の住む黄海道に里帰りしていた。そこへ面事務所から出頭命令がきて、何ごとかと驚いて行ってみた。すると徴用隊として日本の炭鉱へ行くことになっているから、家に帰ってはならないと留置場に入れられた。
-1943年(昭18)5月、平壌にいる家族に連絡が取れないまま、心を残して出発した。列車が上り坂になったり、カーブでスピードが落ちると、何人かは素早く窓から外の木の枝に飛びついて逃走した。趙さんは竹原さんの指名で隊長になっていたので、みんなが逃げるからといって同調するわけにもいかず、むしろそれを止めさせる立場であった。輸送途中の逃走は、どちらかというと朝鮮人たちに微妙な影響を与え、目に見えない動揺を起こさせた。関釜連絡船の乗船手続きもあって、釜山の旅館にはどうしても1泊することになる。最後のチャンスをねらって、彼らは便所に行くふりをして2階から飛び降りて逃げた。募集係たちは朝鮮人の逃走を警戒して、現地を出発する前に電報を打ち、労務係や巡査の応援を求めた。
―1941年の関東軍特別演習以後、関東軍の兵士と武器を南方へ輸送するために、鉄道と関釜連絡船は軍の使用が優先された。そのため朝鮮人は全員旅館に足止めされ、数日間も乗船を待たされることがあった。朝鮮海峡にアメリカの潜水艦が出没するようになり、関釜連絡船の欠航が多くなった。釜山港に行っても、何時出航するか分からない日が続いた。1943年、玄海灘で 丸がアメリカの潜水艦に撃沈されて以来、ジグザク航海に切り替えたので、8時間で着くところが10時間かかるようになった。船底の貨物室に入れられた朝鮮人は、攻撃されて連絡船が沈没すると逃げ場がなく閉じ込められてしまう。
―興安丸のボイラーマンだった福岡県小郡市の中村清熊さんは、終戦まで船と運命を共にした。うるさい朝鮮人は、3段の蚕棚の最上段に上げたそうである。下関に到着すると、まず一般乗客を降ろし、それが終わると連行者全員の足を紐で結んで、数珠繋ぎのまま岸壁の倉庫に入れたこともあったという。

關東軍特種演習(日语:関東軍特種演習,通稱「關特演」[2])是日本帝國於第二次世界大戰期間實施的一次為對蘇聯發動戰爭而對駐紮於滿州的「關東軍」所進行的大規模戰爭動員,為掩飾其戰爭目的而冠名為「演習」。
관동군 특종 연습関東軍特種演習 (관동군 특종 연습)은 일본군 이 실시한 대 소련 전략 준비. 약어가 関特演 . 1941 년 ( 쇼와 16 년) 6 월 22 일 동부 전선 이 시작되면 7 월 2 일 어전 회의 는 「정세의 추이에 따른 제국 국책 요강 '을 채택하고 독소전이 유리하게 진전 일단 무력을 행사하고 북방 문제를 해결한다는 방침을 결정했다. 이에 따라 7 월 7 일에関特演대 동원令이 내리고 제 1 차 동원로 13 내지 약 300의 각 부대를 동원, 16 일에는 제 2 차 동원으로 14 개 사단 기간 주한 만주 · 조선 부대를 전시 정원 충족하고 내륙보다 2 개 사단을 동원 북만에 육군 의 방대한 병력과 자재가 통합되었다.L
La Speciala Ekzerco de la Kanto-Armeo (Kantou Guntoku Shuenshu) estas preparado por la operacio de Sovetunio farita de la japana armeo . Mallongigo estas Seki speciala agado . Kiam la germana-soveta milito komenciĝis la 22an de junio 1941 ( Showa 16) , Gozenkai la 2an de julio adoptis la "Imperian politikan skemon laŭ ŝanĝoj en la situacio", kaj la germana-soveta milito progresis favore.


IV 銃後の勤労報国 
1、朝鮮人寮 
-関釜連絡船で下関に下船すると、長い桟橋を渡って岸壁に整列した。そこには各炭鉱の労務係たちが大勢出迎えにきていた。それは歓迎ではなく監視のためであり、取り囲むようにして三菱、三井、林業の倉庫の中に入れた。倉庫の扉に外から頑丈な鍵をかけて閉じ込めたので、人の体臭と糞尿の臭いで息がつまりそうになった。列車と貨車の配車が決まるまで、長い時には1週間も倉庫内で過ごさなければならなかった。山口県労務報国会下関支部から、握り飯とタクアンが配られた。その時点ですでに彼らは人間ではなく物扱いを受け、奴隷とすこしも変わらなかった。

―筑豊の炭鉱へ行く者は、関門連絡船で下関から門司に渡った。関門トンネルが開通してからは、下関駅からそのまま直行した。福岡県粕屋郡や三井三池方面の場合は、博多港から利用した。朝鮮人たちは、高くそそり立つ黒いボタ山の風景を見て、あれは石炭だろうかと驚くほど、炭鉱に関しては無知であった。慶尚南道出身の張三龍さんは粕屋郡の西戸崎炭鉱に着くと、さっそく山ノ神の前に整列させられた。「お前たち半島人は穢れとるから、神主さんのお祓いを受ける。そこの手洗いで身を清めろ」。労務係が叫ぶと、1人1人手洗場に立たされて水をかけられた。労務係や特高の威圧的な言動に対して、大変なところに連れてこられたものだと、それから先の炭鉱生活が思いやられたという。
―神社には地元警察署長、地方職業紹介所長、県協和会幹部、炭鉱幹部がずらりと姿を見せて訓辞した。朝鮮語を話せる寮長か労務係が通訳をした。最後に引率してきた朝鮮人隊長が神前に玉串を捧げた。たどたどしい日本語で「皇国臣民として産業報国のために頑張ります」と宣誓文を読み上げて入所式は終わった。警察署長や特高が入所式に出席していたことは、強制連行の性格を端的に物語っている。

ー朝鮮人寮を、訓練所とか合宿所と呼ばせた炭鉱もある。朝鮮の故郷を出発するときに編成した班が、入寮する際にそのまま生かされた。寮の規模によって異なるが、6人から10日が1班となった。部屋が決まると同時に、寮の労務係が全員の所持品検査を始めた。現金は勿論のこと、私物までが取り上げられてしまった。そして朝鮮人坑夫専用の国防色の菜っ葉服と地下足袋、軍手などを与えて着替えさせた。身元調査と称して、日本在住の親戚、友人の住所を詳しく聞いた。兄弟とか親戚、同郷人はいっさい同室させず、部屋と部屋、棟と棟を完全に分断して接触を避けた。自分の班以外は、他の部屋で何が起こっても分からない仕組みになっていた。
―入寮すると最初の3日だけは、特別に白米飯を腹いっぱい与えた。生まれてはじめての白米飯に感激したのは3日間だけで、この間だけは確かに募集条件を満たしていた。朝鮮人寮は、寮とは名ばかりのタコ部屋同然で、強制労働させるための収容施設であった。坑口のすぐ近くに寮があるのは、労働時間のロスと逃亡を防止するためである。にわか造りの兵舎式のバラックか、それとも炭住を急遽改造したもので、冬になると布団の上に雪が吹きこんだ。隙間からは雨が降り、慣れないうちは朝まで眠れなかった。建物の一方あるいは中央を通路にしているので、部屋の内部の動きが手に取るように分かった。
―ただ1つ設けられている寮の入口には、労務係の監視室があって、必ずその前を通らないと外には出られない。監獄なみの構造になっており、ただ足を鎖で繋がれていないというだけだった。

2、訓練
―朝鮮人寮の管理は、寮長(舎監)が中心となり、そのほかは庶務的な仕事をする内勤と、入坑督励をする外務労務係に分けられた。寮長と労務係には、朝鮮語が自在に話せる元朝鮮巡査が最も適任者だった。労働助手は、入寮者の中から教育を受けた統率力のある者を選び、通訳を兼ねさせた。現地に着くと3ヶ月の訓練が必要だったが、実際には4日目には入坑して実習の名目で採炭させた。朝鮮人坑夫を担当する坑内の現場責任者のことを、指導員とか先生と呼ばせた。訓練期間中は、炭鉱の幹部が炭鉱の仕組みや坑内作業の話をし、指導員は坑内用語と道具の名前など、これから働く採炭現場を中心に教育した。各寮には、「皇国臣民の誓詞」を掲げていた。教育勅語と日常用語は、教師出身の労務係が専門に担当した。天皇陛下のために内鮮一体となって石炭増産に励めと、徹底した皇国臣民化を行なった。
―「毎朝5時になると<全員起床!>の号令がかかって叩き起こされる。<伏せ!>とか<進め!>とか、それから1ヶ月というもの、軍隊出身者の軍事訓練を受けて、服もズボンも穴だらけになった」と語るのは、済州島出身の金昌淳さんである。日産化学工業遠賀鉱業所第1坑では入坑する日、スコップを肩に軍隊式の分列行進を行なった。そこで坑長は次のような訓辞をした。
「日本が戦争に勝つためには石炭が必要である。諸君は産業戦士として、国のため天皇陛下のために働かなければならない。天皇陛下のお陰でご飯を食べて生きていることを忘れるな。お前たちは天皇陛下の赤子として、お国のためにご奉公する。これが忠義というものだ。事故に遭って死ぬことがあっても、即ちこれは名誉の戦死であり、敵と戦って死ぬことと同じだ。喜んでお国のために命を投げ出してくれ」
―坑口から4,5キロ地底の採炭現場で坑内実習が始まった。ドリル(砕岩機)がうなり、炭塵が舞いガスが充満してい息苦しくなってくる。「よく注意して見ると朝鮮人ばかり。みんな汗と炭塵で真っ黒に汚れ、ぼろぼろの作業衣を着て、これが人間の姿かと思った」と、全羅南道出身の沈石万さんは、入坑したときの驚きを語った。いままでの農作業や土方とは全く違った地獄の底を見て、声もなくなるのだった。

3、坑内
―炭鉱にきて数日すると、朝鮮人坑夫たちは予感が的中したことを体で知ることになる。自分の命が、2年後の契約満期までもつであろうかと、彼らは真っ暗闇の中で死の恐怖におののいていた。彼らの労働は、坑内と坑外に分れた。しかし坑外の賃金はべらぼうに安く、飯の量も半分に減食された。坑内作業は最先端で坑道をつくる掘進夫と、ドリルやつるはしで石炭を掘る採炭夫で、後は仕繰夫、棹取夫(運搬)などである。彼らの大部分は、筋肉労働の掘進夫と採炭夫として配置された。甲、乙、丙番方の3交代勤務であった。甲番方が朝6時に繰込場に行って伝票を渡し、安全灯室でキャップ・ランプを受け取る。労働時間は建て前としては10時間制だが、現実には、3函取りのノルマが優先された。2トン入りの炭車で3台分のノルマが優先された。2トン入りの炭車で3台分のノルマがあり、それを果たさない限り絶対に昇坑させないのだった。1943年(昭18)末には、4函取りが強制された。それ以外に1ヶ月に2,3回は、休日前の“大出し日”が設けられ、特別残業で24時間労働となった。それが入ると結果的には休日がなくなり、疲労が蓄積されて事故が多くなるのは当然だった。
―彼らの賃金は、大体1日に2円50銭から3円程度で、朝鮮出発の際に炭鉱側が約束したものとは大きな開きがあった。元田川警察署の特高主任の満生重太郎さんは、管轄下の炭鉱の労務担当者を集めて、次のように注意を与えたという。
「朝鮮におる時、彼らは食うや食わずの生活をしているから、粗食には慣らされとる。問題は彼らの使い方にある。それさえちゃんと心得ておれば、彼らほど強健で便利なものはない。坑内で採炭させると、どんな強健な男でも1日目には必ず悲鳴を上げるものだ。きつくて歩けなくなる。そこが諸君たち労務係の目のつけどころで、いくら疲れたからといっても翌日は叩いても強制的に坑内に追いやることだ。絶対に休ませてはならない。途中で1日でも手を抜いて休ませたら、それから先はいっさい駄目だ。少々無理をしても、この苦しい峠を越えさせたらもうしめたものだ。朝鮮人をこき使うコツというものがあることを頭にしっかり叩き込んでおいてもらいたい」
―特高ともなると、炭鉱での強制労働の本質を誰よりもしっかりと把握していることに驚かされる。朝鮮人坑夫たちの殆どは、1ヶ月のうちにほんの僅かしか太陽を見ることがなかったと語るが、昼と夜の感覚させなくしてしまう。麻生赤坂炭鉱や豊州炭鉱では、寮内に高さ10メートルもある監視塔を建て、24時間監視させた。その監視員は、勤労報国隊としてきた山口刑務所員だったというから、寮からの逃亡は先ず不可能であった。奴隷のごとき労働と寮での拘束された生活は、彼らをして絶望的にさせたのである。

협화 회 수첩과 외국인 등록증協和会手帳 -  협화 회는 조선인 창씨 개명, 신사 참배, 근로 봉사 등을 강제하는 기관이었다.  李寛得(금촌清吉) 씨의 협화 회 수첩 (1940 년 발행)의 시작 부분에 '기미가요'와 '황국 신민의 서사'가 난간 연재 비고란에는 신사 참배 근로 봉사, 국방 헌금 횟수 등 국가에 '충성'의 일상이 기록되어 있었다.  그로부터 5 년이 지난 1945 년 8 월 이씨는 수첩의 속박에서 해방되었다. 그러나 2 년 후 어느 날 갑자기 외국인 등록증 휴대가 의무화되고, 또한 그 5 년 후에는 지문 날인까지 강요되었다.  李寛得씨의이 두 인증서의 사이에 무엇을 볼 수 있는지, 국가의 사정에 의해 동화 강요에서 배외 감시의 대상이되는 재일 동포의 인권 무시의 실태가 부상하는.
協和会=协和会是二战期间在日本成立的,针对日本朝鲜人的控制组织,其核心是特别警察。它的建立是在日本建立战时系统和由于严重的劳动力短缺而动员朝鲜劳动以及战争期间朝鲜人在日本的安全措施和日本化(=帝国化)的背景下进行的是有意的。
4、協和会の役割
―納屋時代に朝鮮人頭領たちによって発足した相愛会は、炭鉱資本の援助もあって次第に勢力を増していった。1928年(昭3)の普通選挙以来、国会に同胞を送り込んだり、市町村など地方議会にも当選させた。筑豊では鞍手郡鞍手町や宮田町でも頭領たちが町会議員となった。麻生朝鮮人争議にみる相愛会の争議介入によって生じた両者の対立は、同じ朝鮮民族でありながら悲劇的であった。1939年(昭14)6月、協和会の中央機関として中央協和会が発足した。これでいままでの相愛会は発展的解消となった。その後政府は、県、郡、町、村へと全面的に下部組織をつくるように指導した。県の場合は、県知事が会長となった。下部組織の幹部は、警察署長、市町村長、労務係、朝鮮人寮長、朝鮮人納屋の頭領たちが、役員として名を連ねた。
―協和会の仕事は、強制連行してきた朝鮮人坑夫のために、作業訓練の基本方針を立てて教育すると同時に、日本語の習得や神社崇拝などの皇国臣民化教育に力を入れた。その根底にあるものは、植民地からきた朝鮮人を徹底して内地化しようとする内鮮融和であった。彼らは自動的に入会をさせられ、協和会手帳(会員証)が渡されて、常時携帯を義務づけられた。朝鮮人が協和会手帳を携行していないと、警察に留置した。協和会員として登録されることは警察の管理下に置かれることであり、つねに取締りの対象となった。官制の協和会は、実質的には警察の手足となって、逃亡朝鮮人坑夫の摘発、皇国臣民化教育を行なうのであった。創氏改名運動の旗振りをして、日本人化の橋渡しをした。

―契約満期の際、強引に契約更新を働きかけたのも協和会の幹部だった。強制連行の最初の段階では、2年後は一旦帰国させるか、再雇用して家族を呼び寄せることにしたが、朝鮮での労働力が底をついてくると、せっかく炭鉱に慣れた熟練坑夫を炭鉱側としては手放したくなかった。炭鉱側は契約を更新させるため、協和会幹部を使って継続するように働きかけた。たとえ拒否したくても、寮という強制収容所にいる彼らは、必然的に認めざるを得なかった。労務係とか労務助手になった朝鮮人は、炭鉱側と朝鮮人坑夫とのパイプ役をさせられた。炭鉱の管理体制の中で、いつのまにか同胞の分断支配に利用されたのである。協和会役員たちは徹底して同胞を監視したり、同胞をスパイに仕立てて動静を探るなど、あらゆる手段を使って監視を怠らなかった。
ー福岡県協和会本部は、協和会事業の1つとして、飛行機や戦車の献納運動を始め、“1日献金”といって、毎日1日分の賃金を差し出すことにした。田川郡川崎町の豊州炭鉱では、集めた金はすべて大隊長の徐泳鎬寮長が管理したので、それがどういう形で献金されたか分からないという。炭鉱側は、賃金計算が複雑であることを理由に、賃金の内訳を公表したがらない。愛国貯金、退職金積立金、普通貯金、国債など、強制的に貯金をさせられるが、通帳を寮長が管理して本人に渡さないから内容が分からない。朝鮮への送金も、殆どが家族の許に届いていないのだった。
국민 근로 보국 협력 령 国民勤労報国協力令(こくみんきんろう보고 협력 레이 쇼와 16 년 11 월 22 일 칙령 제 995 호)은 1941 년 (쇼와 16 년) 11 월 22 일 에 공포되어 동년 12 월 1 일 에 시행 된 일본 의 칙령 . L'Ordonnance de coopération nationale du Service national du travail国民勤労報国協力令 (Kokuminkinrou Hokukukyoryokurei, décret royal n ° 995 du 22 novembre 1964) a été promulguée le 22 novembre 1941 (Showa 16) et en décembre de la même année. Un jour est entré en vigueur au Japon de l' édit .
여자 정신대 女子挺身隊(제외하고 신체)은 대 일본 제국 이 제 2 차 세계 대전 중에 발견 한 근로 봉사 단체의 하나로, 주로 미혼 여성으로 구성되어 있었다. 전시 일본의 노동력이 핍박하는 가운데, 강제로 직장을 재배치하는 국가 총동원 법 아래 국민 총동원 체제의 보조로 이루어 공장 등에서 근로자 노동에 종사했다 [1] . 1944 년 8 월의 여자 헌신하지 않는 근로 령 에 의해 12 세 ~ 40 세 내지 (일본)의 여성이 동원 된 [2] . 일본 통치 하의 조선 의 여성에 대한 적용은 검토되었지만 적용되는 것은 아니었다 [2] . 1945 년 의 국민 근로 동원령 에 의해 조선 여자 근로 정신대는 국민 의용대 로 개편되어 소멸했다.Svenskaスウェーデン語→Japanska Kvinnors Frivilliga Arbetskår 女子挺身隊eller Teishins Arbetskår var en organisation i Japan. Dess syfte var att organisera främst ogifta kvinnor mellan 12 och 40 år för att på olika sätt bistå i krigsansträngningen under andra världskriget i enlighet med det allmänna mobiliseringssystemet under den nationella mobiliseringslagen i augusti 1944.

5、石炭増産
―「明日の10トンより今日の1トンを!」「石炭なくして兵器なく、石炭なくして国防なし!」石炭増産のスローガンが、戦況の悪化とともに叫ばれるようになった。だが採炭現場では、熟練坑夫の不足、資材の不足、食糧難に陥り、石炭生産は低下する一方となった。精神運動のかけ声ばかりかけても、朝鮮人坑夫たちの疲労は限界にきていた。彼らは寮に帰って食事をすると、風呂に入る時間も惜しんで、布団の上に倒れるように眠った。食べることと眠ることが最大の楽しみとなった。労働意欲が低下してると判断した炭鉱側は、生産向上のために寮単位に中隊組織にした。そして“半島切羽”という、朝鮮人坑夫だけの採炭現場を設けた。これは日本人坑夫との仕事上の摩擦を避けるためといわれたが、半島切羽ごとに出炭競争をさせた。その成績を毎月寮の廊下に貼り出して表彰したので、それを”半島表彰“と呼んだ。
―石炭成績の優秀な寮の朝鮮人坑夫にだけ賞与を出したので、それが結果的に各寮の出炭競争をあおった。労務係は自分の成績を上げるために、無理に入坑督励を行なった。アメとムチを両手で使い分けたので、朝鮮人坑夫は塗炭の苦しみを味わうことになった。病気だと訴えても、炭鉱側は医師の診断書がないと決して休ませないのだ。骨折した場合のように外傷があり、目で見て分かるものに限られた。頭痛とか腹痛などは理由にならず、「お前は病気だと嘘をついているんじゃないのか」と、診察をしてもらえないまま、医師からは仮病だといわれた。労務係からはお前は怠けていると嫌みごとをいわれ、叩いてでも入坑させられた。普通、炭鉱では5%程度の公傷や私傷は、必ずといっていいほど出る。99%と信じられない稼働率が記録されている。こういうところに労務係の虚勢労働と、圧制の実態が潜んでいるのである。
―黒十字章が設けられたのも、石炭増産がねらいであり、模範坑夫を選んで与えた。黒十字章が2つになると、東京で商工大臣表彰があり、褒美として伊勢参拝が許された。日産化学鉱業遠賀鉱業所第2坑の金貴洪さんは、1943年(昭18)に黒十字章を受け、鉱士制度ができると1級鉱士の称号が与えられた。炭鉱側は第2の金さんを目指せと、朝鮮人坑夫にハッパをかけた。増産だ増産だとせき立てられると、彼らは自分の手や足の指を坑内ヨキでわざと切り落して、事故で負傷したと偽り、病院へ行って診断書をもらって何日か休んだ。生きることに絶望して、ダイナマイトに身を投じて自殺する坑夫もあった。

6、事故
―炭鉱というところは、生命にかかわるような大事故が多い。誰でも少なからず事故に遭い、炭鉱の恐ろしさを身をもって体験している。三菱鉱業所飯塚炭鉱では、1944年(昭19)3月3日、坑内のガス燃焼で死者4人、重傷者2人、軽傷者7人の犠牲者を出した。続いて22日、再び爆発事故があって、死者41人、重傷者8人の犠牲者がでた。49人のうち殆どが朝鮮人坑夫であったことは、ついに発表されないままであった。社会にショックが大きく、煎じ国民の士気に影響するからという理由だった。
―北九州市若松区の伊藤秋蔵さんは日産化学鉱業遠賀鉱業所第2坑の保安係をしていた。同じ年の秋、ガス爆発の知らせを受けて、伊藤さんはすぐガス検知器を下げて人車で入坑した。水平坑道を歩いていると、足音がして誰かが近付いてきた。キャップ・ランプの光を当てると、その朝鮮人坑夫の顔は煤で真黒になり、うつろな目で伊藤さんを見た。「おい、この場を動くんじゃないぞ」と、肩を押さえてその場に坐らせた。そこへ5,6人がよたよたと歩いてきたので、伊藤さんは同じように動かないよう注意すると現場へ急いだ。
―そのうち救助隊が入坑して、負傷者を担架で上げた。伊藤さんは現場でメタンガスの残留度を計り、2次爆発がないと判断して昇坑した。坑口では医師と警察によって、検死が行なわれていた。よく見ると、伊藤さんが動くなと注意した3人の朝鮮人坑夫の遺体があった。
―「私があれだけ動くなと注意しても、朝鮮人には言葉が分からない。早く助かろうと昇坑すると、むだな体力を消耗してしまうんですよ。ベテランの坑夫だったら絶対にその場を動かず、ガスが通過するのを地に伏せて待つ」と伊藤さんは語るのだった。ガス爆発に限らず、落盤、出水、炭車の暴走事故、坑内では命の保障はない。落盤の前兆があって危険を知らせても、言葉が通じずに事故に遭ってしまうこともあった。
―貝島鉱業所大之浦炭鉱の殉職者名簿によれば、敗戦の年の1月から8月に33人が事故死している。そのうち朝鮮人坑夫は20人(60%)、1ヵ月に2人以上が犠牲になっているのだった。当時、炭鉱側にはえ、石炭増産のためには1人や2人の朝鮮人坑夫が死んでもしょうがないという雰囲気があったという。1人死ねば1人だけ強制連行してくればいいと、人間の命を消耗品と考え、事故の場合もいろんな差別をした。炭鉱によっては弔慰金の額に差があるが、大きい炭鉱で1200円、小さい炭鉱で300円と、生命の値段の安さにまずあきれてしまう。
―落盤事故などで半身不随になった重傷者は、1人で朝鮮まで帰れないので、一生を炭鉱病院で過ごし、死を待つしかなかったのである。

7、少年坑夫
―数えきれないほど発生する坑内事故は、寮の少年坑夫たちに炭鉱に対する恐怖心を起こさせ、その日からしばらくは稼働率がぐっと落ちる。死亡した仲間の変わり果てた姿を見て、それが明日の自分と重なってくる。まだいたいけな13~4歳の少年坑夫にとって、事故現場を目撃することは身のすくむ思いであったろう。②の記念写真は、日産化学工業遠賀鉱業所浅川訓練所のものである。元舎監の水上敏英さんが保存していたが、裏をめくると3年満期記念と書いてあった。3年でこの少年の姿であるから、強制連行された当時のことを想像してみた。
―水上さんが浅川訓練所の舎監になったのは、1944年(昭19)の夏のことだった。秋になると新しく13~4歳の少年がどっと入所してきた。少年たちが仲間同士で遊んでいる姿をみると、とても入坑して採炭しろとはいえなかった。福利課に頼んで久留米のゴム会社に特注して、地下足袋とズックを送らせた。採炭は無理なので、坑長と交渉して坑木運搬と資材倉庫の仕事を見付けた。
―「故郷のこと、両親のこと、兄弟のことを思うと幼いだけにつらい思いをしたでしょう。夜中に訓練所を回ると、しくしく泣く声が廊下まで聞こえたからね」。入所した当時の少年たちのことを、水上さんはこう語ってくれた。強制連行する労務の募集係は、割当て数が決まっていて、人数を揃えると一応の責任は終わる。老人であろうと少年であろうと集めてくるが、使う方からすると重労働の採炭現場では戦力にならないのだった。
―「少年とはいえ、石炭増産のために炭鉱で働くという。そのけなげな気持に応えなければならないからね。怪我をしないように、お腹を空かせないように、私は舎監として特別の注意を払いましたよ」。水上さんの寮での労務管理は、炭鉱側の方針と激しく対立した。

「もう朝鮮の現地では労働力は底をついているので、炭鉱としては満期になっても帰すつもりはないから、お前もそのつもりでいてくれ。逃亡する者が出るだろうが、そのときは労務で徹底して締め付けろ」と、坑長は水上さんを怒鳴りつけたという。その話を聞いてはじめて、写真の裏に書いた3年満期記念の謎が解けた。
―田川市の安龍漢さんは、1943年2月、慶尚北道青松郡から川崎町池尻の豊州炭鉱上田鉱業所に強制連行されてきた。兄の身代わりにきたので、坑夫名簿にある彼の名前は違っている。上田鉱業所の坂田九十百坑長によると、彼が坑長に就任した1944年には月産2300トンだったのが、半年後には1万トンに増産したという。出炭量が4倍に増えたことは、それだけ採炭現場の労働強化となり、当然のように朝鮮人坑夫にしわ寄せがきたはずである。
―安さんと同じ親和寮に、岩田三郎さんと光山康夫さんという14歳の少年がいた。2人はまだ小学生のような子供で、みんなは「子供さん」と呼んでかわいがった。岩田少年のほうは体が弱く、あるとき40度の高熱で休ませてくれと労務係に申し出た。すると労務係は「お前の精神がたるんでいるからだ」と、いきなり岩田少年を殴り倒した。
―岩田少年は入坑すると急にぐったりして、とても採炭どころではなかった。それをみつけた宮崎という坑内係が、仕事にかかれといって岩田少年を追い回した。逃げる途中に落盤があって、彼は石炭の中に埋まってしまった。大急ぎでボタを除けると、両足の間に頭を突っ込むようにして死んでいた。8人が一緒に埋まって、もう1人の光山少年も腰の骨を砕いて呻いていた。それでも坑内係は、怪我人を昇坑させようとしなかった。安さんはその時の光景が忘れられず、とうとう帰国せずに炭鉱の近くに永住してしまった。

8、勤労報国隊
太平洋戦争が勃発する直前の11月、政府は「国民勤労報国協力令」を公布して、勤労報国隊組織による労働力の総動員体制を固めた。植民地朝鮮からの移入だけでは不十分なので、軍隊に召集された者以外の残っている労働力は、すべて動員するというものであった。
国の法令で勤労動員が決まると、政府から福岡県を通じて、勤労報国隊の地域別割当てが発表された。全国的には東京と新潟を結ぶ線が1つの境界で、それより北の地域は常磐と北海道、南は九州、山口県の炭鉱などの募集地域となった。日産化学工業遠賀鉱業所では、北陸4県と群馬、埼玉、静岡、奈良、大阪、山陰、山陽、九州全県が指定された。
勤労報国隊は徴用のような強制力はないが、一般募集という形を取りながら、町内会や団体に呼びかけた。その中には商売人もあるし、学校の教師、宗教家もいた。新潟あたりは農民が主で、農閑期だけ炭鉱へくる季節労務者的なものもあった。
第2坑の伊藤秋風さんは、奈良県丹波市町の天理教会で、信者50人が集まっていた。伊藤さんが坑内保安と設備、もう1人の千田松雄さんが採炭技術を教えた。奈良県からは、退役の陸軍大尉と軍曹の2人が派遣されて、教練、銃剣術、体操を指導した。伊藤さんはまず炭鉱に対する恐怖心を除くことから始め、八幡製鉄所よりも負傷率はぐっと低いと説明した。1ヵ月の訓練が終わって出発するときは家族はじめ親戚、町内会の人たちが、出征兵士さながら駅まで見送りにきた。
彼らは炭鉱に到着すると、報国寮、親和寮などの直宮の合宿所に入って集団生活をしながら、2ヶ月間坑内で採炭した。天理教の信者は“ひのきしん隊”と呼ばれ、奉仕隊として教会から派遣された。当時の炭鉱では「神様、仏様、天理教様」といわれ、給料も要求せず、炭鉱では多きな戦力になったという。ひのきしん 隊で主人が殉職し、身代わりに妻が志願して働いたと、新聞に美談として報じられたこともある。
勤労報国隊とは別に、徴用工というのがあった。これは徴用令によって集めるもので、軍隊の赤紙と同じ拘束力があった。徴用工の場合は県が各事業所に人数を割り当てて、提出させた名簿の中から命令した。勤労報国隊の2ヶ月間と違って、徴用工には期限が決まっていなかった。
福岡県折尾高女の女学生たち動員学徒は、各訓練所に派遣されて、朝鮮人坑夫たちの布団修理とか、シラミ退治の蒸気洗濯の奉仕をした。
1944年(昭19)8月には「学徒勤労令」が公布され、11月から女子にも徴用が始まった。女子挺身隊は、炭鉱の近隣地域の隣組から何人供出するかが決められ、坑外の選炭場、坑内の採炭、掘進、仕繰りの手伝いをした。
第1坑労務係だった遠賀郡水巻町の中園信敬さんは、女子挺身隊員を坑内に送り込んだ。当時の責任者の1人でもある。「第1坑では女の人を100人ほど入坑させて、朝鮮人坑夫と一緒になって働かせました。何といっても馬鹿にならなかったのは、昔坑内で働いた経験のある女坑夫がいましてね。男もかなわないほどの力になりました」。
1933年(昭8)以後、女子の坑内労働は法律で禁止されていた。女子を採炭夫として投入することによって、石炭生産はぐっと伸び、表彰された炭鉱もある。生命がけの坑内の力を合わせて採炭するうちに、朝鮮人坑夫との間でロマンスが芽生え、結婚して所帯を持つ者が何人かいた。

9、虐殺
福岡県嘉穂郡碓井町の長明寺の納骨堂に、朝鮮人坑夫の遺書が安置されている。過去帳には1936年(昭11)1月の麻生鉱業所吉隈炭鉱の火災事故で殉職した、朝鮮人坑夫25人の名前もある。火災が発生したと知るや、日本人坑夫たちは危険を察知して逃げ出した。その中の1人、係員の深野繁雄さんは「俺が使っとった朝鮮人が坑内におるから、ちょっと様子を見てこよう」といって再び入坑した。
坑内全体に火が回るのを恐れた炭鉱側は、最深部で働いているのが朝鮮人坑夫だと分かると、火災現場と本卸の坑道を粘土で密閉して空気を遮断した。鎮火して密閉場所を開けると、そこには壁に爪で引っ掻いた跡が残って、朝鮮人坑夫は折り重なるように倒れていた。その29人のうちに、日本人の坑内係深野さんの遺体もあった。
炭鉱側は、朝鮮人坑夫を救助することよりも、火災によって炭層に燃え移り、生産がストップすることの方を心配して、坑内を密閉したのだった。29人の中に、深野さんはじめ日本人坑夫4人の遺体を見て、炭鉱側はあわてふためいた。そのためか坑口の近くの丘に、徳香追慕碑を建てた。その慰霊碑には何の説明もなく、宅地造成で倒されるまで戦死者の忠魂碑ではなかろうかといわれてきた。
豊州炭鉱上田鉱業所で働いていた安龍漢さんは、坑内事故よりも労務係のリンチで殺された方が多いのではないかと証言する。1944年(昭19)麻生鉱業所赤坂炭鉱では、1人の朝鮮人坑夫が、酔っ払った労務係からカミソリでキン玉を切り取られ即死した。証拠を隠すために遺体を引込線に引きずり込んで、貨車に轢かれたように見せかけようとした。その夜空襲警報が発令されて、貨車は赤坂駅に足止めされ、積込み場に入ってこなかった。
夜勤帰りの朝鮮人坑夫2人がそれを発見して寮の仲間に知らせた。それを聞いた仲間が騒ぎ出し、入坑している者も昇坑して、労務事務所を襲って投石、山の神も叩き壊した。毎日400-500人が暴れて、3日間採炭がストップした。同年、古河鉱業所大峰炭鉱でも、労務係による虐殺事件があり、朝鮮人労務を含めて5人が逮捕された。

10、抵抗
監獄と同じ状態におかれた寮の中で、朝鮮人坑夫たちは何を考えたのであろうか。いわれなき強制連行と強制労働のなかで、解放されることの願望は人一倍強かったであろう。夢にまで見るほど待ち望んだ契約満期は、炭鉱側の一方的契約破棄によって黙殺された。
採炭現場では事故が多発して、毎日、朝鮮人坑夫の命が奪われた。それに加えて、凶暴な労務係や坑内係によって繰り返された暴力行為は、彼らを絶望の淵に叩き込んだ。死の恐怖から逃れるためには、死を選ぶか逃亡という方法しかないのだった。逃亡に失敗して捕まると、死のリンチが待っていることを彼らは知っていた。命がけの逃亡は失敗も多かったが、たまに成功した例もあった。炭鉱によっては、100人強制連行してきて、満期の時には20人になった。逃亡による労働力の消耗で、時には出炭計画が立てられなくなった。炭鉱側は、逃亡を防ぐための寮の管理や逃亡者の捜索に、余分なエネルギーを費やさなければならなかった。逃亡は消極的な方法に見えるが、炭鉱全体に与える物的・心理的影響は計りしれないほど大きいものがあった。炭鉱の労務係は、彼らが逃亡しないように監視するだけでくたくたになったという。そのことを考えると、逃亡とはむしろ彼らのひとつの積極的な抵抗であった。
他にもさまざまな抵抗が試みられた。坑内係がいるところで働き、姿が見えなくなると仕事を意識的にサボタージュする朝鮮人坑夫もいた。ダイナマイトを坑内の保管箱から盗み出してそれを全く別の場所に隠したりした。
ダイナマイトは朝鮮人坑夫にとって最大の武器であったが、手に入れようと思えば簡単に盗み出せた。ダイナマイトを坑口に仕掛けて爆破すると、石炭生産は完全にストップする。ダイナマイトが紛失すると、炭鉱側は警察署に報告した。特高がやってきて、全員を昇坑させてシラミ潰しに坑内を捜索した。
「特高月報」には、朝鮮人坑夫は付和雷同して集団的行動に出る傾向がある、と記述されている。これはあくまで権力側の解釈であって、暴動やストライキが起こるにはそれだけの理由があった。
逃亡したからといって、残っている者の待遇がよくなるわけではなく、奴隷的な生活はいつまでも続いた。むしろ残った彼らに対する監視と暴力がきびしくなるだけだった。その怒りを炭鉱側に向け、ストライキや反乱を起こすなど、力による対決を考えるようになったことは当然であった。反抗のエネルギーはさまざまの形となって爆発し、命がけの闘いだけに激しかった。
その闘いにの影に、朝鮮独立運動や反日抵抗運動の思想的背景があるのではないかと、官憲側は考えるようになった。


×

非ログインユーザーとして返信する