日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

После распада Советского Союза Экономическая реальность☭Кадзуо Огавы/After the dissolution of the Soviet Union Economic reality☆Kazuo Ogawa/Après la dissolution de l'Union soviétique Réalité économique★Kazuo Ogawa『ソ連解体後―経済の現実☭小川和男』②


カザフスタンのナザルバーエフ大統領は今、ロシアのエリツィン大統領と互角で話し合える数少ない人物として国際的にも注目され、国民的信望も高い。カザフスタンの人口は約1700万人であるが、そのうちカザフ人が約40%、ロシア人が38%と拮抗し、次いでウクライナ人とドイツ人がそれぞれ約6%、その他ウズベク人、タタール人、ウイグル人、ベラルーシ人などが住みなしている多民族国家である。
ナザルバーエフ大統領は、積極的指導力を発揮しており、豊富な天然資源の開発促進をてこにして、経済のテークオフを実現しようとしている。農業の条件も良好であり、食料品不足などは起っていない。このため、カザフ人以外の諸民族もナザルバーエフ大統領支持で、カザフスタンの政治的安定は強固である。
天然資源に関しては、カザフスタンは、石油、石炭、天然ガス、非鉄金属(銅、亜鉛、鉛、エッケル、クロムなど)、鉄鉱石、貴金属(金)などに恵まれている。原油の年間生産量は約2800万トン(1991年)に達しており、米国シェブロン社を中心とする国際電力プロジェクトとなっているテンギス油田の開発が本格化すると、2005年頃の産油量は三倍と大幅に伸びる見込みである。また旧ソ連の全キャビア生産量の約60%がカザフスタン産であるのはあまり知られていない。さらに旧ソ連のなかの有力な産金地でもあった。
Қазақшаカザフ語⇒Chevron Corporation (қаз. Шеврон корпорациясы) – байырғы аса ірі мұнай компаниясы.
資源開発や生産の近代化に関して、日本の協力を求める声が強い。米国、フランス、ドイツ、韓国(カザフスタンには約12万人の朝鮮系市民が居住)、トルコなどの企業がカザフスタンに積極的に進出している。だが、ナザルバーエフ大統領をはじめ多くの人々が寄せる最大の期待は日本の協力と日本企業の進出である。
1992年9月、アルマ・アタを再訪してみると、折から「全世界カザフ人大会」が開催中で、世界中からカザフ人が集まり、市街に活気が溢れていた。ロシアでもウクライナでもない中央アジアのカザフスタンの今後の発展が期待される。

ビシケク
アルマ・アタから西方へ240キロメートル、途中の約100キロメートルは大平原の中を文字通り一直線のかなり立派な道路をロシア製乗用車「ボルガ」で時速120~130キロのスピードで走ると、キルギスタンの首都ビシケク(旧名フルンゼ)に着く。カザフスタンとキルギスタン両国は今やともに独立国であるが、国境らしきものもなく、車は一時停止することもなしに通り過ぎていく。
*ヴォルガ(Волга)ソ連(現ロシア)のGAZ(ゴーリキー自動車工場)が1956年から生産している乗用車シリーズの名前。中型車から高級セダンまでラインナップされている。
*ビシュケクまたはビシケク(キルギス語・ロシア語: Бишкек、Bishkek)は、キルギスの首都。同国を構成する特別市(shaar)である。人口98万人、キルギス北部のイリ・アララト山脈の麓に位置し、海抜は800mである。市の北方を流れるチュイ川はカザフスタンとの国境になっている。1991年までの旧名はフルンゼ(Frunze、ロシア語・キルギス語 Фрунзе)。ビシュケクという都市名は、キルギスの国民酒である馬乳酒 (Кумыс) を作る時の撹拌器の名前に由来する。
ビシケクからさらに西方へ約600キロメートル行くとウズベキスタンの首都タシケントに到る。日本から中央アジア諸国を眺望しても、なかなか実感を得られないし、地図を見ても広漠として、つかみどころがない。しかし実際に現地を訪問してみると、一挙に全ての現実が迫ってきて、中央アジア諸国間の距離が案外に近く、人々が頻繁に往来しているのが実感をもって判るのである。

*タシュケント(ウズベク語: Toshkent, Тошкент [tɒʃˈkent]、ロシア語: Ташкент, Tashkent, [tɐʂˈkʲent])は、ウズベキスタンの首都。人口219万人は中央アジア最大級である。ウズベキスタン北東部、シルダリヤ川の支流であるチルチク川の流域に位置する歴史的なオアシス都市。
ビシケクでは、われわれの受け入れ機関となった国家対外経済委員会が、遠来の客ということで、近郊の山間の景勝地にエルタ(いわゆるパオ)を張り、仔牛をつぶして宴会を開いてくれた。その席では若いキルギス女性が料理をサービスしてくれた。日本人を現実に見るのは初めてで緊張していたのだが、キルギス人によく似ているのでびっくりしたという。ビシケクのテレビでは時折、日本紹介の番組が放映されるが、つい最近は激しい台風のためリンゴ生産地で大被害が出た模様が写し出され、ビシケクもリンゴの大生産地であることから、遠い外国のできごととは思えず身につまされたという。
キルギスタンのごく普通の若い女性が素朴な親近感を込めて日本について話すのをきいていると、こちらの中央アジアに対する感情も自ずと深まっていく。日本政府は、独立した中央アジア五カ国(カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンおよびタジキスタン)に対して、いわゆる「ODA(政府開発援助)を考える意向を示している。中央アジア諸国もそれに大きな期待を寄せている。中央アジアの生活水準は、ロシア・ヨーロッパ部やウクライナと比べ、かなり低い。日本のODAのできるだけ早い具体化を期待していたが、1993年初めから供与が決まった。
*政府開発援助(せいふかいはつえんじょ、英語: Official Development Assistance, ODA)とは、発展途上国の経済発展や福祉の向上のために先進工業国の政府及び政府機関が発展途上国に対して行う援助や出資のことである。Русскийロシア語⇒Официальная помощь в целях развития (ОПР) — один из видов иностранной помощи, один из основных инструментов предоставления помощи развивающимся странам международной политики содействия развитию.

3 ペレストロイカと分権化
「ペレストロイカ」というロシア語は、世界各国で訳語を付けないで使われている。日本でもそうだが、訳を付ける時は「改革」と訳す場合が多い。だが、ロシア語をちょっとでも学んだ人は、「改革」とはなかなか訳せないと思う。「立て直し」とか「再編成」という意味であり、アメリカでもドイツでも「リコンストラクション」あるいは「リコンストラクチャー」と正しく訳している。
ゴルバチョフ政権のペレストロイカは、本来立て直しを目ざして出発したのだが、グラースノスチの進展と相まって、政治・経済・社会の全面的変革を目標とする奔流となり、日本的表現でいえば「世直し」運動となった。したがって、ペレストロイカは、言い方はいろいろと違っても、エリツィン政権の諸方策に引き継がれているのである。ペレストロイカのもっとも基本的な方向は、分権化であり、民主化である。それには、上部機構から下部機構への分権化と、中央から地方への分権化の二つの大きな方向がある。そして、旧ソ連・CISのような広大な領土的広がりをもつ国では、地方分権のもつ意味が大きく、良い意味の「地方主義」が台頭し、政治的にも経済的にも、民主化の大きな潮流になっている。
地方行政庁や地方企業は今では生産や輸出入取引で、相当に大きな自主裁量権をもち、地方の自主性の発揮される余地が広がり、それにともなって各地方に活力が生まれてきている。しかも、地方の行政府や機関、地方企業では、責任のあるポストに30歳台半ばから40歳台初めの若い優れた人材が多数就任して積極的役割を担い始め、経済的主権の拡大をはかっているのである。

「地方企業」と「民族主義」
ここで私が言う「地方主義」とは、文字通りの「地方分権主義」であり、それはきわめて中央集権的なシステムであった旧システムを打破して、中央モスクワから地方への分権化を実現しようとする方向のことである。したがって、「地方主義」は、共和国単位の「民族主義」とは直接的な関係がない。
しかしソ連邦解体(1991年12月)とCIS成立にいたるまでの約1年間、国際報道では「民族主義」の高揚と「共和国」の独立気運を集中的に取り上げ、それが「地方主義」と密着した関係があると解説する場合が多かった。確かに、地方分権の潮流が小共和国の独立意欲を刺激したところがある。また旧ソ連邦を構成した15の共和国は基本的には民族国家でもあったから、国際報道の解説がまったくの誤りであったとはいえない。
しかしながら、ロシアが100を越える民族から成る多民族国家である点を考慮に入れる必要がある。旧ソ連の行政組織では、15の構成共和国の下に民族単位の自治共和国があり、その下にさらに民族単位の自治州があった。そして、ロシアには16もの自治共和国があり、そのなかには、人口が500万人を越えるタタール自治共和国をはじめ有力な自治共和国がいくつもある。

*タタール自治ソビエト社会主義共和国(ロシア語: Татарская Автономная Советская Социалистическая республика)またはタタールASSRは、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内に存在した構成国。1920年5月27日に建国された。タタール自治ソビエト社会主義共和国は十月革命以前のロシア帝国時代の行政区分グベールニヤのうちカザン県、シムビルスク県、ウファ県の部分を領域としており、カザンを首都としていた。1917年、ロシアにおいて二月革命に続き十月革命が起きると、イデル=ウラル地方でも独立運動が起こり、1918年にイデル=ウラル国が成立した。しかし、1920年5月27日にはタタール自治ソビエト社会主義共和国が成立。その後はソ連の構成国として歩みを残した。1990年にはタタールスタン・ソビエト社会主義共和国に変更され、1992年の連邦崩壊後にタタールスタン共和国となった。
かれらの間でも民族主義が高まり、それぞれの自治共和国が完全独立か共和国への昇格を主張し、多くが独立や共和国昇格を宣言した。そうなると、ロシアはソ連邦と同じ分裂・解体の危機に直面し、エリツィン大統領は自分が倒したゴルバチョフ氏と同じ運命を辿ることになる可能性があるわけである。ロシアが今、「ロシア連邦「でもあるのは、以上のような昇格があるからであるが、タタール共和国などは「タタールスタン」を名乗り、ロシア連邦への加盟を拒否している。

*タタールスタン共和国(タタールスタンきょうわこく、タタルスタンとも、タタール語キリル文字:Татарстан Республикасы、ロシア語:Республика Татарстан)は、ロシア連邦地域管轄区分のひとつ沿ヴォルガ連邦管区の中央に位置する共和国である。公用語はロシア語とタタール語。1992年には主権宣言を行った。小惑星(2668) Tatariaはタタールスタンにちなんで命名された。
グルジアやモルドバのような小国に住む少数民族がきわめて狭い範囲内で独立を宣言し、民族紛争が転じて激しい武力抗争となり、それが果てしなく続く悲劇も起きている。また、各共和国にかなり高い割合で住むロシア人の民族主義が刺激されて紛争が生じた場合、ロシア本国政府がどのような対応に出るのかは、きわめて重大な懸念材料である。
そして「地方主義」が右のような民族主義とは直接の関係がないことは、以上からも明らかであると思う。ロシア国内には、サンクト・ペテルブルク、ウラル、クバン、シベリア、極東などの地方主義がそれぞれあるわけである。極東ではさらに、沿海地方とハバロフスク地方の地域間対立が最近目立ち、日本へのアプローチにも違いが出てきている。
*クバン州(ロシア語:Кубанская область)は、南ロシアのクバン川沿岸に設置されたロシア帝国の州(オーブラスチ)の1つ。首都はエカテリノダール(現在のクラスノダール)。

*ペルミ(ペルム;ロシア語:Пермьピェールミ;ラテン文字転写の例:Perm’)はロシアの都市である。ウラル山脈西側のふもと、カマ川の両岸に広がる。沿ヴォルガ連邦管区に属するペルミ地方の州都。
*ペルミ地方(ペルミちほう、Пе́рмский край、Perm Krai)は、ロシア連邦の沿ヴォルガ連邦管区に属する連邦構成主体。首都はペルミ。地方内の下位行政区画としてコミ・ペルミャク管区が置かれている。
地方経済の活性化ーウラル地方の今
地方主義はとくに経済圏でめだち、地方の人々に「やる気」が出ている。自分たちの地域の経済は自分たちでやっていこうという気運が高まっていて、中央モスクワの悲観主義と比べて際立った対照をなしている。
1990年5月に初めて、ウラル地方ペルミ州のペルミ市(人口約120万)を訪問した。ウラル地方は旧ソ連の主要な重工業地帯のひとつで、旧ソ連の工業生産高の約10%を生産していた。
ウラル地方には人口100万人を越える大工業都市がペルミ市のほかに二都市、つまりスベルドロフスク市(旧名のエカチェリンブルクに復帰)とチェリャビンスク市があり、三都市とも1988年頃までは外国人に対して閉鎖都市であった。私たちはペルミ市開放後初めての外国人訪問者であった。その後も同市を二度訪ねたが、1992年の訪問時には、シャピロ同州知事から「ペルミ市にとってのコロンブス」と紹介されたりした。

*エカテリンブルク(ロシア語: Екатеринбург、ラテン文字表記:Ekaterinburg、またはYekaterinburg)は、ロシア連邦の中央部に位置する大都市。スヴェルドロフスク州の州都。エカチェリンブルクと表記されることもある。1924年から1991年までは革命家のスヴェルドロフを記念してスヴェルドロフスク(Sverdlovsk, Свердловск)と呼ばれていたが、現在は旧名に戻された。なお、州の名称は現在もスヴェルドロフスク州となっている。

*チェリャビンスクまたはチェリャービンスク(ロシア語: Челя́бинск;ラテン文字転写:Chelyabinsk Ru-Chelyabinsk.ogg 発音)は、ロシア連邦の都市で人口は113万人。ウラル山脈東麓、ミアス川沿いに位置する。チェリャビンスク州の中心都市で、重工業が盛んである[1]。チェリャビンスク駅はシベリア鉄道の正式な起点。
ウラル地方は、ゴルバチョフ時代の首相ルイシコフ氏やエリツィン・ロシア大統領の出身地でもあり、エリツィン政権を支える有力な人たちにスベルドロフスク出身が多く、かれらは「スベルドロフスク・マフィア」と呼ばれている。ルイシコフ氏はかつて、有名な重工業企業「ウラルマン」の経営責任者として敏腕を振って業績を上げ、それを基盤に中央に登場していった。ウラル地方出身の政治家たちの背景には、強力な重工業生産があるわけである。

*ニコライ・イワノヴィチ・ルイシコフ(ロシア語: Николай Иванович Рыжков、ラテン文字転写の例:Nikolay Ivanovich Ryzhkov, 1929年9月28日 - )は、ソビエト連邦及びロシアの政治家。ミハイル・ゴルバチョフ時代のソ連閣僚会議議長(首相、在任期間1985年9月27日から1991年1月15日)。ソ連崩壊後は、ロシア連邦議会下院国家会議議員を務めた。
ペルミでは、州政府の経済官僚や企業長たちが、地方分権の潮流に乗って、今や至上課題となった軍民転換を促進するに当り、日本をはじめとする先進諸国から直接指導を受けたいと、きわめて熱心である。他方、中央モスクワに対する批判には、強烈なものがある。「モスクワでは空論ばかりが進行し、何も生産していない。ウラルのわれわれは生産し、これまでモスクワを養ってきた。これからは、モスクワの面倒をみるのはやめにすることにした」と、まことに意気盛んであった。
ウラル地方の工業全体の半分は軍需産業で、宇宙開発関連産業などもここに集中している。軍民転換政策の遂行で軍事支出が大幅に削減され始めたことから、ウラルの軍需産業の半分以上は、民需への早急な転換を迫られている。

*極東ロシア(きょくとうロシア、英語: Russian Far East、ロシア語: Дальний Восток России、IPA: [ˈdalʲnʲɪj vɐˈstok rɐˈsʲii])は、ロシア連邦の内、極東に分類される地域を表す用語である。極東ロシアには東シベリアのバイカル湖から太平洋に接する地域までの範囲が含まれる。ロシアの広域行政区画である極東連邦管区はこの地域全体を含み、西はシベリア連邦管区と接している。
極東の地方主義
地方主義は、モスクワから遠く極東地方にも及び、新しい息吹きを吹き込んでいる。ペレストロイカ以前は地方からの国外出張は、中央モスクワの許可がなければ不可能であった。今では地方行政府も企業も、学者も、自主的に決定でき、極東地方から来日する人は引きも切らない。開放化・自由化の波は顕著で、地方の独自性が発揮され始めている。
極東地方は、バイカル湖から東の日本海・オホーツク海にいたる広大な地域的ひろがりをもち、面積は日本の国土の16倍もある。しかし、人口はわずか800万人にすぎない。ロシアの領土のなかで日本に一番近く位置し、歴史的かかわり合いも浅くはない。このため日本人にとって、ハバロフスク、ウラジオストク、ナホトカ、サハリンなどなどの極東の地名はかなり身近なものである。一方、北方領土の問題も厳存している。

*ハバロフスク(ロシア語:Хабаровск、中国語:伯力)は、ロシア極東部の都市で、ハバロフスク地方の中心都市である。人口は約62万人でロシア極東部では最大である。

*ウラジオストク(ロシア語:Владивосток ヴラヂヴァストーク、IPA:[vlədʲɪvɐˈstok]、ru-Vladivostok.ogg 発音[ヘルプ/ファイル];ラテン文字表記の例: Vladivostok、漢語: 海参崴、拼音:hǎishēnwǎi)は、ロシアの極東部に位置する都市で、極東連邦管区の本部があり沿海地方(プリモールスキイ地方、Приморский край)の州都である。人口は約61万人でロシア極東部では、ハバロフスクについで2番目の人口を擁している。

*ナホトカ(ロシア語: Находка、ラテン文字転写:Nakhodka)は、ロシア連邦の極東部、沿海地方に属している商港都市である。日本海の北西部にあるナホトカ湾に面し、日本との関係が深い。清朝時代の名称は灠溝崴であった[2]。人口は約15万人。
だが、極東地方は、モスクワやサンクト・ペテルブルクからみれば、文字通り「ダーリニー・ボストークДальний Восток(遠い東)」であり、経済開発は遅れ、あらゆるインフラストラクチャーが悪く、住民の生活水準も低い辺境である。私は旧ソ連訪問を重ねて、極東地方の遅れを痛感してきた。
旧ソ連の極度に中央集権的な計画化経済システムの下で、極東地方への配慮は小さく、投資の優先順位は非常に低かった。極東地方は、実際には、豊かな鉱物資源、木材、水産資源に恵まれ、それらは日本に輸出されて多額の外資を旧ソ連にもたらしてきた。しかし、外貨はほとんど全部が中央モスクワに吸い上げられてしまう一方、極東地方への投資配分はきわめて小さかったのである。
中央の対外経済関係省庁の日本担当官たちでさえ、年に一度の極東出張があるかないかで、極東地方の現状をよく把握していたわけではない。かれらに比べれば、日本の商社マン、木材や水産関係者たちは、ペレストロイカ以前の厳しい情報管理の下でさえ、限られた範囲ではあったが、極東地方の情況についてはるかに多くの知識をもち、よく理解していた。
ゴルバチョフ時代以降、極東地方には旧ソ連・CISの日本海から太平洋への出口の役割が与えられ、対外開放化が進む過程で地方主義が著しく高まっている。旧ソ連政府もロシア政府も、地方がその地方の産物を輸出して外貨を取得した場合、総額の20~30%は地方の自主裁量権にゆだねる方針を打ち出していた。
地方の外貨使用権が拡大されれば、地方は自主判断によって、外国から消費物資や産業用機械・資材を輸入することができるようになる。このことにより地方行政府が外貨を経済的・社会的インフラストラクチャー整備に投入する可能性が高まり、地方経済の発展を促することになろう。これを極東地方にあてはめてみれば、木材、石炭、石油、非鉄金属、魚介類、そして金とダイヤモンド等々、日本や韓国に輸出して外貨を獲得できる産物が多いことから、外貨使用権拡大の利益が大きくなることは明らかである。
極東にも、旧ソ連の日本への輸出金額は、1989~1991年と3年連続して30億ドルを上回り、3年間の合計金額は97億ドルを記録した。主要品目は上述のような極東地方の産物であり、極東地方が占めるシェアは三分の二に近い。極東地方がもしその30%を使用できれば、約30億ドルにもなったわけである。
極東地方の人々が、地方分権化の趨勢のもとで、外貨使用権か拡大を要求しているのは当然で、かれらの士気は高く、日本との経済関係強化に寄せる期待は熱いほどである。エリツィン大統領は地方分権化を基本的には継承している。だが、1992年夏の時点では、中央モスクワによる地方行政への管理が強化される傾向が顕在化し、ウラル地方でも極東地方でも、実態経済がますます悪化して生産が大幅に落ち込むもとで、行政府と企業の双方にやはり中央に頼らなければ生きられないのかという一種の挫折感が出ており、今後の成行きが懸念される。


*コーカサス(英語: Caucasus)、またはカフカース、カフカス(ロシア語: Кавказ (ラテン文字転写例: Kavkaz)、グルジア語: კავკასია、アルメニア語: Կովկաս、アゼルバイジャン語: Qafqaz)は、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる面積約44万km2の地域である。コーカサスの漢字表記は高加索。英語のコーカサス、ロシア語のカフカースとも古代ギリシア語: Καύκασος (Kaukasos; カウカーソス)に由来する[1]。 「カウカーソス」自体は、プリニウス『博物誌』によるとスキタイ語のクロウカシス(白い雪)に由来するとされる[2]。
4 カフカースー民族主義とマフィアの里
グラースノスチと民族主義
ゴルバチョフ派が推進した「ペレストロイカ」は、「グラースノスチ」は、ソ連の政治・経済・社会の各分野に大きな変化をもたらし、最終的にはソ連共産党とソ連邦そのものを解体に導き、ロシア革命以来70有余年の歴史に幕を引き、改革者ゴルバチョフ氏自身をも歴史の舞台から引きずり下ろしてしまった。「グラースノスチ」はとりわけ、政治・社会に民主化・自由化の新風を吹き込んだ一方、複合民族国家ソ連が抱える民族問題に火をつけ、民族国家の独立を刺激したわけで、まさに両刃の剣であった。

あらゆる民族問題が複雑であり、複雑でない民族問題などないわけであるが、百数十の民族が居住する旧ソ連のなかでも、カフカース(英語ではコーカサス)地域はとりわけ民族問題が複雑で、各民族の民族意識が強い。バルト三国の民族主義が、三国の完全独立後(1991年8月政変の直後)落着きをみせ、中央アジア五カ国でも、タジキスタンを別にして政情は比較的平穏であるのに対して、カフカース各地域では騒然とした状況が続き、アゼルバイジャンとアルメニア間では武力衝突が繰り返され、グルジアでも国内に住む少数民族アブハジア人とグルジア人との間で緊張した状態がある。
*アブハジア(アブハズ語: Аҧсны́ Apsny [apʰsˈnɨ]、グルジア語: აფხაზეთი Apkhazeti [ɑpʰxɑzɛtʰi]、ロシア語: Абха́зия Abkhа́ziya ロシア語発音: [ɐpˈxazʲɪjə]、英語: Abkhazia)は、コーカサスの一地域。国際的にはジョージア(グルジア)の一部とされている。ジョージア(グルジア)はアブハジア自治共和国(グルジア語: აფხაზეთის ავტონომიური რესპუბლიკა、Autonomous Republic of Abkhazia)として自国に属すると主張しているが、事実上、アブハジア共和国(アブハズ語: Аҧсны Аҳәынҭқарра、Republic of Abkhazia)として独立状態にある。その独立は国際的には認知されていなかったが、2008年8月26日にロシアが承認を発表した。また、2008年9月にニカラグアが、2009年9月にベネズエラ[2]、12月にはナウル、そして2018年5月にシリア[3]が独立を承認している。首都は共和国/自治共和国ともにスフミ。
*南オセチア(みなみオセチア、オセット語: Хуссар Ирыстон)またはツヒンヴァリ地域(グルジア語: ცხინვალის რეგიონი)は、南コーカサスのジョージア(グルジア)北部に位置するオセット人の居住地域。北はロシア連邦の北オセチア共和国と接している。2018年現在、南オセチア共和国・アラニヤ国(みなみオセチアきょうわこく・アラニヤこく)または単に南オセチア共和国、アラニヤ国としてジョージアより事実上独立している。
*アブハズ人(またはアブハジア人、英語:Abkhaz、Abkhazians)は、主として南コーカサスのアブハジア地方に住む民族。アプスア人(アブハズ語:Аҧсуа、Apswa)と自称する[9]。

カフカース地域の民族対立
カフカース地域には、旧ソ連ヨーロッパ部の位置する黒海と中央アジアに含まれるカスピ海にはさまれた地域である。地図上では濃い焦げ茶に塗られた狭い山岳地帯であるカフカース山脈を中心にして、その山中および病魔と北麓には古くからの少数民族が住み、連邦解体にいたるまで、共和国や自治共和国や自治州を形成していた。カフカース山脈には、ΠρομηθεύςプロメテウスPromētheúsが鎖につながれたという伝説の名山で最高峰のElbrusエルブルス山Эльбрус(5642メートル)や美しいMount Kazbekカズベク山Гора Казбек(5033メートル)などの高峰がつらなり、いわば「平地の民」であるスラブ民族が帝政時代以来深くかかわり、畏敬の念を込めて讃美してきた。
*Чёрное море黒海(こっかい)Black Seaは、ヨーロッパとアジアの間にある内海で、大西洋の縁海(地中海 (海洋学))の一つである。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。
*カスピ海(カスピかい、ロシア語: Каспийское море、アゼルバイジャン語: Xəzər dənizi、ペルシア語: دریای خزر‎、トルクメン語: Hazar deňzi、カザフ語: Каспий теңізі英語: Caspian Sea)は、ユーラシア大陸の中央アジアと東ヨーロッパの境界にある塩湖。世界最大の湖である。2018年締結の沿岸5か国の協定によって「海」と定義されている。
カフカース山中と周辺地域の民族構成はきわめて複雑であり、グルジア人、アルメニア人、アゼルバイジャン人、チェチェン人、イングーシ人、アバール人、カバルディン人、ダルギン人、オセト人、アブハジア人等々の古い民族が今も固有の言語を守って生活している。
グルジア人、アルメニア人、アゼルバイジャン人はそれぞれ、カフカース南麓に民族の共和国を形成し、アゼルバイジャン人がイスラム教徒である。しかし、グルジア国内にはアブハジア自治共和国(アブハジア人、イスラム教)、アジェリア自治共和国(グルジア人、イスラム教)、南オセチア自治州(オセト人、イスラム教)がある、という複雑な構図がある。アゼルバイジャン国内にはナゴルノ・カラバフ自治州があってアルメニア人が住むが、アルメニア国内にはアゼルバイジャンの飛び地のナヒチェワン自治共和国がある。

*ナゴルノ・カラバフ(アルメニア語: Լեռնային Ղարաբաղ Leṙnayin Ġarabaġ, アゼルバイジャン語: Dağlıq Qarabağ, ロシア語: Нагорный Карабах Nagorniy Karabakh)は、アゼルバイジャンの西部にある地域(ナゴルノ・カラバフ自治州[1])である。面積は約4400平方キロメートル。人口は約14万7000人で、その9割以上がアルメニア人系であり[1]、1991年9月2日[1]に「アルツァフ共和国」としてアゼルバイジャンからの独立を宣言したが、国家の承認は得られていない。中心都市はステパナケルト。
カフカース北麓は、ロシア領であるが、ダゲスタン、チェチェノ・イングーシ、北オセチアなどの自治州がある。チェチェノ・イングーシは1992年6月、チェチェンとイングーシに分れた。

*チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国(チェチェン・イングーシじちソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、ロシア語: Чечено-Ингушская Автономная Советская Социалистическая Республика、チェチェン語: Нохч-ГІалгІайн Автономни Совецки Социалистически Республика、イングーシ語: Нохч-ГІалгІай Автономни Советски Социалистически Республика)またはチェチェン・イングーシASSRは、ソビエト連邦内ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国およびロシア連邦に、1934年から1944年までと1957年から1992年まで存在した自治共和国。チェチェノ・イングーシとも。

*チェチェン共和国(チェチェンきょうわこくロシア語:Чеченская Республикаチェチェン語:Нохчийн Республика)は、北カフカース(北コーカサス)地方の北東部に位置するロシア連邦北カフカース連邦管区に属する共和国。設立は1991年で首都はグロズヌイ。北カフカースの先住民族のひとつのチェチェン人が住民の多数を占める。
*イングーシ共和国(イングーシきょうわこくロシア語:Республика Ингушетияイングーシ語:ГӀалгӀай Мохк)は、ロシア連邦の北カフカース連邦管区にある共和国。北カフカース(コーカサス)に位置する。東はチェチェン共和国、西は北オセチア共和国(共にロシア連邦内の共和国)、南はジョージアである。
*北オセチア・アラニヤ共和国(きたオセチア・アラニヤきょうわこく、Республика Северная Осетия - Алания)は、ロシア連邦を構成する共和国で連邦構成主体のひとつ。北カフカース連邦管区に属する。首都はウラジカフカス。主要な都市にはモズドクやベスランなどがある。
カフカースの諸民族は進取の気象に富み、商才にも長け、中央計画化経済システムの下でも全国各地を渡り歩き、自由市場をはじめ流通・サービス部門で重きをなしていた。かれらの地下経済での活躍が目立ちすぎると、経済犯罪として摘発されることがよくあったが、市場化をめざす時代が到来して、かれらの多くが経済マフィアの幹部となって暗躍するようになった。グルジア、アゼルバイジャン、オセチア、ダゲスタン、チェチェン等々はマフィアの里でもあるのである。
民族主義がグラースノスチによって解決されて高揚するもとで、カフカース地域では、自治共和国と自治州がそれぞれ共和国と自治共和国への格上げや現在の共和国からの離脱を要求しており、それを力づくで押えようとする共和国との間で大変緊張した関係が形成されて、流血事件も発生した。
グルジアでは、離脱を要求するアブハジア人や南オセト人とグルジア人との間が内戦状態に近くなっている。アゼルバイジャンから離れてアルメニアへの帰属を求めるナゴルノ・カラバフのアルメニア人とこれを阻止しようとするアゼルバイジャンとの緊張も武力衝突にまでエスカレートして、1988年初めから起ったアルメニア人とアゼルバイジャン人の民族抗争は5年を経てなお続いている。

カフカース山脈
1989年の夏、カフカース北麓にある北オセチア自治共和国の首都オルジョニキッゼ(今は旧名に復してウラジカフカース市)からグルジアの首都トビリシまで、帝政時代に建設された「グルジア軍用道路」(全長208キロメートル)を通って、カフカース山脈を横断したことがある。
*ウラジカフカス(ვლადიკავკაზიヴラジカフカースДзæуджыхъæロシア語: Владикавказヴラヂカフカース;ラテン文字転写の例:Vladikavkaz)は、ロシア連邦の北カフカス地方に位置する北オセチア共和国の首都。ორჯონიკიძეオルジョニキーゼОрджоникидзе
*トビリシ(グルジア語: თბილისი, Tbilisi [tʰb̥ilisi] 略称TBS)は、ジョージア(グルジア)の首都。邦訳表記はティビリシとも。時にティフリス(Tiflis)とも呼ばれる。トビリシとは「あたたかい」を意味するトビリに由来し、温泉と関係あるとされている。

ウラジカフカースの町は、市の中央をカフカース山脈の雪どけ水を集めたテレク川の急流が貫き、外壁を赤褐色に塗った平屋か二階屋の家が多い街並みが街路樹の緑の陰にほの暗く、趣が深かった。
思い出してみれば、私たち一行6人を二台の「ボルガ」に乗せた運転手は、2人とも中年のオセト人であった。市街をはずれるとすぐ山間に入り、テレク渓谷沿いにしだいに上りとなり、約1時間でカズベキ村に着く。そこにはもうグルジア領内で、19世紀後半のグルジアの大作業カズベキの名を冠している。西方にそびえる高峰カズベク山は快晴の青空に白い山塊が屹立し、まことに美しい。グルジア語ではムキンバリ山(氷の山)、オセチア語ではウルスホフ(白い山)と呼ぶ、と「ソビエト大百科事典」に書いてある。
標高1750メートルのカズベキ村から道はさらに上り、四方に氷河が下がる山々が迫り、風景はまことに雄大である。テレクの川幅は狭くなる。羊の大群が道路をふさぐと、羊飼いが道をあけてくれるまで、車は立往生となった。最高峰に近いあたりにバスや乗用車が何台も駐車し、人々がみな水を飲んでいた。味の良いミネラル・ウォーターが噴出しているのである。私たちの運転手が持参したコップでそれを飲んでみると、まさに「名水」というべきであった。ソ連旅行では、とりわけ日本人のなかには、炭酸の強いミネラル・ウォーターに苦しむ人が多いが、このカフカース山中の名水を味わせてみたいと思った。
クレストーブイ峠(十字架峠)という絶頂点(2379メートル)を過ぎると、道はうねうねと曲りくねり下りとなり、雪の峰々はどんどん遠くなっていく。やがて左手に見える灰白色の川がベーラヤ(白い)・アラグビ川であり、バサナウリという小保養地でチョールナヤ(黒い)・アラグビ川と合流してアラグビ川となる。旧ソ連の首都モスクワには有名な郷土料理店が数多いが、グルジア料理店では「アラグビ」が有名である。グルジア人がアラグビ川に抱いている愛着は格別なのであろう。モスクワの「アラグビ」は、かつては味の良いことで評判であったが、協同組合営レストランや個人レストランが多数開店し、外貨が入った豪華なレストランも目につく最近では、「アラグビ」も客層が落ちたようであり、店内は荒れてきている。
アラグビ川に沿ってなだらかな下りをさらに走り、途中グルジア最古の都市といわれるムツヘタで古い正教教会を見て、トビリシに到着したのはもう夕刻であった。
折から民族舞踏祭の真最中で、大変な賑いであった。私たち一行のなかには10年以上も西ヨーロッパで暮し、各地を旅行した経験が豊富な銀行家Q氏が居たが、カフカースの魅力はアルプスの魅力をはるかに凌ぐと語っておられた。グルジア軍用道路沿いは今、戦闘状態であると思う。まことに残念というほかにいいようがない。
*ムツヘタ(グルジア語: მცხეთა, Mtskheta)はジョージア(グルジア)、ムツヘタ=ムティアネティ州の古都。

5 人々は復古主義に生きるのか
復古主義の台頭
自信を喪失したロシア人たちは今、生来の夢想癖を強める一方、懐古趣味にのめり込み、アナクロニズムの傾向さえ出ている。ロシアでは、5月1日の「メーデー」と11月7日の「ロシア革命記念日」を国民の祭日からはずし、ロシア正教のクリスマスである1月7日を正式に休日とした。
ロシア革命後の70年を「偽善」の一語で片付けたエリツィン大統領は、パリ訪問の際、ロマノフ王朝の末裔に会い、正統なロシア文化を固守してくれたとして最大級の謝辞を呈した。帝政時代の懐旧が日増しに強まり、レニングラードはサンクト・ペテルブルクに、ウラルの重工業都市スベルドロフスクはエカチェリンブルクに、カフカース山脈北麓のオルジョニキッゼはウラジカフカースに戻った。モスクワでは、通りの名が毎日のように革命前の旧名に替えられ、タクシーの運転手たちでさえ困惑している。
旧名に復する必要がどうしてもあるとはとても思えないのであるが、人心とはそうしたものなのであろう。しかし、日本人が東京を江戸に戻すことはないだろう。「ウラジカフカース」への改名などはカフカースの少数民族にとって全く不愉快であるに違いない。「ウラジВлади」はロシア語で「征服せよ」の意味であり、「カフカース征服」という無神経な旧名に戻したわけである。カフカースでは、今も少数民族間の武力紛争が続いている。なお、日本の対岸にある極東地域最大の都市ウラジオストクは、「東方征服」の意味で、これこそ改名が必要という主張もある。

サンクト・ペテルブルク
サンクト・ペテルブルクの都市美はヨーロッパ最高という評価がある。少なくとも、パリやロンドンに劣ることはない。そのサンクト・ペテルブルクが今、レトロのなかに輝いている。最大の繁華街ネフスキー大通りは約4・5キロの広い通りで、両側には高さを一定に統一した瀟洒な建物が並び、世界でもっとも美しい通りの一つといわれている。しかも、商店街であるということもあって、いつも殷賑をきわめている。
*ネフスキー大通り(ネフスキーおおどおり、ロシア語:Не́вский проспе́кт(ニェーフスキイ・プラスピェークト))は、ロシアのサンクトペテルブルクにあるメインストリートである。ネフスキー大通りは、ピョートル1世(大帝)によって、ノヴゴロドとモスクワへの街道として建設が計画された。「ネフスキー」の名は「ネヴァ(川)」が、ロシア語の文法規則により語尾変化したものである。
ネフスキー大通りの周辺は、社会主義の時代に新しい建物の建造を厳しく禁じてきた。このためもあり、19世紀に文豪ドストエフスキーДостое́вскийが数々の傑作の中でえがいてみせたそのままの景観が残っている。最近では、夜の帳がおりると、昔ながらの街灯に灯がともり、自分が21世紀に近い時代にこの大都会に身をおいているとはとても思えないのである。

キエフ
独立の悲願を達成したウクライナ人たちも、懐古趣味の点では人後に落ちない。首都キエフはロシア発生の地であり、歴史は5世紀頃に始まっている。聖ソフィア寺院(1037に建立)をはじめ古い寺院が多い。近年、多くの寺院がすっかり改修されて、日曜日には信徒で賑わっている。
宗教が著しく復活しているわけであるが、現世の苦しみに耐えかねた人々が神に救いを求めているのであろうか。私はエコノミストという職業がら、寺院改修の莫大なコストを思わざるをえない。しかも、どの寺院もどの寺院も、大屋根に新しく金が かれ、燦然と輝いているのを見ると、旧ソ連の金保有量が底をついているとの報道も本当なのだと思えてくる。
*聖ソフィア大聖堂(ウクライナ語: Собор святої Софії[1])はウクライナの首都、キエフの真中心にあるキリスト教の大聖堂である。ウクライナ最初の中央政権国家キエフ・ルーシ最大の聖堂として1037年に建立された[2]。10世紀~13世紀、15世紀~18世紀の間、キエフ府主教の主教座大聖堂であった。現代において、11世紀から18世紀までのウクライナ建築史上最も名立たる教会であるとされる。
ウクライナの経済が順調であるわけではないし、経済改革がうまくいっているわけでもない。キエフでは最近、帝政時代末期の政治家ストルイピンの人気が高まり、1991年には有名なべチェルスカヤ修道院の構内の人目につく場所に新しく立派な墓がつくられ、献花が絶えない。ストルイピンは、数ヶ月間に1000人以上のテロリストを絞首台に送った独裁者であったと同時に、「ストルイピンの農業改革」の名を残した改革者でもあった。ウクライナでは、今ストルイピンが居れば、改革は進む、という声がきかれるのである。

*ピョートル・アルカージエヴィチ・ストルイピン(ロシア語: Пётр Арка́дьевич Столы́пин, Pyotr Arkad'evich Stolypin, 1862年4月14日〈ユリウス暦4月2日〉 - 1911年9月18日〈ユリウス暦9月5日〉)は、帝政ロシアの政治家。
救世主信仰
スラブ民族(ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)の夢想癖は、救世主待望の深層心理にいつもつながっている。スラブ民族の苦しみは、必ずや救世主の出現によって救われる、という信仰があるのである。しかし、庶民の間では、その救世主は誰でもよい。レーニンか、スターリンか、フルシチョフか、ゴルバチョフか、果てはエリツィか、苦しみを救ってくれれば誰でもよいのである。米国やドイツや日本の経済援助が今は待望されている。
自ら刻苦して自分の人生を切りひらき、着実に自分の城を築いていくという近代的精神には乏しいといわざるをえない。だが、自明の精神と努力が無い人たちを外国がどうして助けることができよう。
レオニード・アバルキン教授については次章で詳しく述べるが、かれは、ゴルバチョフ時代のペレストロイカでもっとも重要な役割を果した経済学者の1人である。1989年夏に発足したゴルバチョフ政権の経済改革委員会議長(副首相)に就任し、最初の市場化プログラムを策定した。今はロシア科学アカデミー会員で、もともとのポストである経済研究所所長に復帰している。

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