日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

「夜はオカマバーに出現し、『麿じゃ』などと冗舌?」Calling himself Prince Satohito Arisugawa+Анна Андерсон⇔Анастаси́я Никола́евна Рома́нова?有栖川宮詐欺事件(2003年)わが港区赤坂「カナダ大使館」Ambassade du Canada au Japon皇族「詐称」比較=帝政ロシアと日本

みなさん、2016/08
アメリカ出発の時間が迫ってきましたが、ちょっと具合がもう一つで1~2日のばそうと思っています。さて、そんなとき思い出したのが「暴露ナイト」でみたこの事件でした。ですのでわたしの専攻「ロシア史」から、またスケールの違う、世界中を巻き込んだ大事件について英仏語を中心に参照してみました。
結論として「帝政」「皇族」だの「宮様」なんてのは「百害あって一利なし」。「人類皆平等」→「新興宗教」以下。それより日本の場合、ロシアと違って「外部」の血が入っていない。おまけに皇族内での近親相姦(鵜野晋太郎氏(広島県出身(元陸軍中尉)B級戦犯)による大作『菊と日本刀』(谷沢書房・1985年)なども参照)。
知的障害があったといわれる大正天皇(ドイツ語→Der Taishō-tennō (jap. 大正天皇) (* 31. August 1879 in Tokio; † 25. Dezember 1926 in Hayama) war der 123. Tennō von Japan und der zweite der modernen Periode. Sein Eigenname war Yoshihito (嘉仁))など顕著な例になるはずだ⇒①Nov 25, 2019 — 大正天皇遠眼鏡事件Emperor Taisho Telescope Case「大正天皇はある年の帝国議会開院式に臨んだ際、詔書をくるくる丸めて望遠鏡の様に議員達を眺められたWhen Emperor Taisho attended the opening ceremony of the Imperial Diet one year, he rolled up his edict and looked at the members like a telescope」②1921年に小学2年生であった丸山眞男は、当時、「大正天皇が脳を患っており、勅書を丸めて覗いた」という噂が流れていたことを1989年(平成元年)のエッセイで回想しているMasao Maruyama, who was in the second grade of elementary school in 1921, essay in 1989 (Heisei 1) that there was a rumor that "Emperor Taisho was suffering from a brain and he rolled up his decree and looked into it." Recollecting inロシアの場合は半分以上が西欧・イギリスなどの出身。代表例・エカテリーナ(大帝)2世(ドイツ+アレクサンドル1世、ニコライ1世の祖母)ニコライ2世の母はデンマーク人(デンマーク語⇒Marie Sophie Frederikke Dagmar, i Rusland kaldet Marija Fjodorovna (russisk: Мария Фёдоровна) (26. november 1847 – 13. oktober 1928) var en dansk prinsesse, datter af kong Christian 9. og russisk kejserinde, gift med Kejser Alexander 3.Dagmar blev moder til Ruslands sidste kejser, Nikolaj II, der blev myrdet efter den russiske revolution i 1917)。皮肉にもニコライ2世の末妹(オリガ・アレクサンドロヴナ(ロシア語: О́льга Алекса́ндровна Рома́нова, ラテン文字転写: Olga Alexandrovna Romanova、1882年6月13日 - 1960年11月24日)は、ロシア皇帝アレクサンドル3世と皇后マリア・フョードロヴナの第2皇女。ロシア大公女。兄に皇帝ニコライ2世とゲオルギー大公とミハイル大公、姉にクセニア大公女がいる)はここトロントで長い亡命、隠棲生活をひっそりと終えました⇒(母の死後、クリコフスキーとともに郊外の農園に移り住んだ。1948年にカナダのトロント近郊へ夫と子供とともに移住した後、1960年に亡くなった。質素な生活ぶりだったが莫大な財産を残していたという[4])フランス語→Olga Alexandrovna Romanova (en russe : О́льга Алекса́ндровна Рома́нова), grande duchesse de Russie, née le 13 juin 1882 au palais du cottage à Peterhof en Russie et morte le 24 novembre 1960 à Cooksville (en) au Canada, est une princesse de la Maison Romanov et une artiste-peintre.イギリス国王のジョージ5世(George V (George Frederick Ernest Albert; 3 June 1865 – 20 January 1936) was King of the United Kingdom and the British Dominions, and Emperor of India, from 6 May 1910 until his death in 1936.はニコライ2世の従兄(前述のロシア皇帝ニコライ2世とは、入れ替わっても親族さえ気付かないほど容貌もよく似ていた。ロシア革命後イギリスに亡命した皇帝の家臣がジョージ5世に拝謁した時、ニコライ2世が生きていたと思って跪いたという。また、ニコライ2世の皇后アレクサンドラも従妹にあたる+ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も従兄
この参照に出したのはニコライ2世の第4皇女アナスタシア(
ドイツ語→Großfürstin Anastasia von Russland (Anastasia Nikolajewna Romanowa, russisch Великая Княжна Анастасия Николаевна; * 5. Junijul./ 18. Juni 1901greg. in Peterhof; † 17. Juli 1918 in Jekaterinburg) war die jüngste Tochter des letzten russischen Kaiserpaares, Nikolaus II. und Alexandra Fjodorowna, vormals Alix von Hessen-Darmstadt. Trotz späterer Legendenbildung ist seit 2007 erwiesen, dass sie zusammen mit der gesamten Familie von den Bolschewiki ermordet wurde)を「詐称」(記憶喪失といわれていた。ながら恐らく確信犯精神病質及び妄想狂。自ら信じてしまったんでしょう)して生涯を終えたポーランド人女性のこと

自称「皇女」アンダーソンの正体はポーランド人農家の娘フランツィスカ・シャンツコフスカ(Franziska Schanzkowska、1896年12月16日生 - 1920年3月失踪)ポーランド語→Franziska Schanzkowska/Anna Anderson (ur. 22 grudnia 1896, zm. 12 lutego 1984) – kobieta podająca się za cudem ocalałą carewnę Anastazję (brata carycy Aleksandry Fiodorowny Romanowej)Przeprowadzone po śmierci w 1984 roku Anny Anderson badania DNA wykluczyły jej pokrewieństwo z rodziną Romanowów.
なぜ生存が長らく噂になっていたか。レーニン政府がウソの情報を流したため。「ニコライ2世は処刑されたが、家族は安全な場所にいる」と。あとただでさえ敵意にみちた帝国主義国に睨まれ、包囲され孤立無援だったソ連。さらなる批判と介入の口実をつくらせないため。
1991年、エカテリンブルク(旧スヴェルドロフスク)近郊の森の中でニコライ2世一家とその使用人とみられる遺骨が大量に発見された(埋葬地は79年に発見されていたが、当時はまだ共産主義体制下であったためにその事実は公表されずに元の場所に再び埋められた)。主治医・召使なども含め、皇太子アレクセイ(13歳)と第3皇女マリアを除く合計9体。皇帝、皇后、第1皇女オルガ・第2皇女タチアナと第4まさに「アナスタシア」も(
アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(ロシア語: Анастаси́я Никола́евна Рома́нова, ラテン文字転写: Anastasia Nikolaevna Romanova、1901年6月18日 - 1918年7月17日)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第四皇女。ロシア大公女。1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日にエカテリンブルクのイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、家族・従者とともにわずか17歳の若さで銃殺された。2000年にロシア正教会によって新致命者として列聖された)。
共産党独裁で発表できなかっただけ。ソ連崩壊後、欧米科学者や医師たちが共同調査。遺骨がDNA鑑定により本人たちと認められた。そして2007年に残りの2人、残骸が発見された。「断片」しか見つからなかった皇太子アレクセイと第3皇女マリア(殺害後(この2人だけ、何かしらの不手際が生じた様子)遺体は切断され、別の地点に投棄されたため)以外は94年、複顔術によって生前の姿に顔面が再建され「復元像」が作られた。
つまりひとりも生きてでられなかったということ。みんな銃殺。ちょうど内戦が激化。白軍の方面軍(第一次大戦中捕虜になったチェコ軍団が主力)部隊がエカテリンブルクに迫り、当地に幽閉されていた皇帝一家が救出される可能性が出てきていた。安全に避難させることは困難と現地幹部(ウラル地区ソビエト)は判断。たとえ子どもでも統一した「権威」(たとえば豊臣秀頼や遺児の国松がひっぱりだされた場合を想定)が加わることにより、反革命勢力が合同されるのを懸念。広大な戦線に分散して、勝手に各個戦っていた白軍がかつての「帝政軍」よろしく団結されてしまうのを恐れた(ソビエトが撤退した後(1918年7月)同市はコルチャックに占領された)。
下に日本の皇族関連の資料もそえておきました。
最後に:
山本ベンダサン氏や加瀬英明氏。さらに改竄出版が新聞の一面を飾った’有識者’田中正明「先生」の本はまだ’売れて’いる。そういう人間はいくら悪いことをしようが、ウソやインチキそして法律無視だろうが、ちっとも裁かれない。どころかいつのまにか舞い戻ってきてデカイ顔する。
このインチキ宮さま夫妻も選ぶところない。「暴力マスコミ」(こっちのほうがよけいにたちが悪い)にぶったたかれ、さんざんやられ精神に苦痛を受けた。訴えは受理され補償金が払われた。
まだ相変わらず「有栖川」宮をなのって、「記念団」うんぬんをまたしてもでっちあげて平然としている( *自称・有栖川識仁(ありすがわさとひと)と名乗っていた男の本名は北野康行、当時41歳。 出身は京都府宇治市で、実家は皇族とは何の関係もない普通の八百屋 )。
一方、「重慶大爆撃」や「香港軍票ふみたおし犯罪」の原告は入国すら許さず、門前払い。性奴隷もだめ。
じゃあ、誰が裁かれるんだ?責任を問われるんだ?日本という国は・・・「何でも屋」代表(オールマイティー)→よしりん企画社長?松本人志?)が好き勝手やりたい放題、いかなることでも口出ししてる。まあ、『女性セブン』だと思って読んでください。最後の皇族の戦後は価値があります。
*8歳の少年だった。1615年の「夏の陣」(国松は秀頼と5月8日に盃を交わし、乳母夫妻に連れられて城を落ち延びた)後、京都で捕えられ公開斬首刑(童子とは思えない立派さ「伝へる所によると、不敵な小児は、最後に臨んで内府様の太閤様と秀頼に対する背信の罪を責め、勇しく首を刑手に差延べたといふ事である」レオン・パジェスLéon Pagès)。異母妹天秀尼(大阪落城時6歳)は辛うじて助命され、秀頼未亡人(千姫)天樹院(父、2代将軍徳川秀忠(家康(祖父)3男(秀頼の義父)母は(お愛の方)西郷局)・母、(江)崇源院(織田信長の姪(父、浅井長政(『信長公記』によると、信長は宴席の酒の肴とすべく、朝倉義景、浅井久政・長政父子の頭蓋骨を薄濃にしたという)・母(信長の同母妹)、お市の方(柴田勝家と再婚=北ノ庄城(旧朝倉領)落城時、夫とともに自決(勝家(織田家筆頭家老)と同じく秀吉を軽蔑し、嫌っていた)→後に、福井藩主となり、越前松平家を輿した「越前黄門」結城秀康(家康次男(秀吉の養子=秀頼の義兄)母は(於万の方)長勝院)が改修し、「福井城」となる)・長姉(茶々)淀殿は秀頼の母、次姉(初)常高院は京極高次の正室)の長女(3代将軍家光、駿河大納言忠長の同母姉、保科正之(秀忠4男(長兄、次兄(33年に改易、翌年(配所高崎にて)自害=享年28歳)ともにこの謹直で有能な弟をかわいがり、信頼していた「天守はもはや必要なし」と主張し、江戸城天守閣再建計画は廃棄された)幕閣の長老)の異母姉)の養子となる(享年36歳・生涯を読経に過し、独身で死去)=豊臣家は根絶やし。秀吉の血縁は残されなかった。千姫(秀頼との間に実子はいなかった)は、本多忠刻(父は本多忠政(家康の片腕だった忠勝の(嫡子)長男・母は(国姫)妙高院(父、岡崎信康(家康(曾祖父)長男・母は父の正室(’瀬名’(史料にこの名はなく)実名は不明だそうです)築山御前(今川義元の親族))・母、(徳姫)見星院(信長(外曽祖父)長女)織田信忠(異母との説あり)北畠信雄(常真入道)の同母妹、神戸信孝の異母妹、岐阜中納言(信長の嫡孫)織田秀信(信忠(嫡子)長男)の叔母)の次女))と再婚。しかし忠刻も30歳で病死(きりないながら(苦笑)男子が生まれず、千姫(享年69歳(大奥では最高顧問的な権威を持っていた)同じく甥である甲府宰相徳川綱重(家光次男、兄は4代将軍家綱、弟は5代将軍綱吉、嫡子(長男)は(綱豊=綱吉の養子)6代将軍家宣+尾張藩2代目当主徳川(光義)光友(尾張義直(家康(祖父)9男)「御三家」(10男紀伊頼宣(母は(蔭山殿)養珠院)11男水戸頼房(頼宣と同母+「水戸黄門」光圀(実際は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく(隣接する勿来と熱海を除けば)現在の関東地方の範囲から出た記録はない)は頼房の三男))筆頭(江戸の対抗馬=家康の子であるという自負が強く)甥の将軍家光とは仲が悪かった・母は(お亀の方)相応院)の(嫡子)長男)とは義兄弟だった)の養母)は亡夫秀頼の怨霊の仕業だと考え(終生秀頼への想いは尽きなかったらしい)供養・慰霊(お祓い)祈祷の儀式をしたといわれる(二木謙一『大坂の陣 証言ー史上最大の攻防戦 』(中公新書)1983年))。

有栖川宮詐欺事件(ありすがわのみやさぎじけん)は、2003年(平成15年)4月に東京で発生した詐欺事件。華族・有栖川宮の祭祀継承者であると偽った男性が偽の結婚披露宴を開催、招待客から祝儀等を騙し取った
概要: 2003年(平成15年)4月6日、東京の青山において偽の結婚披露宴を開催、約400人の招待客から祝儀等を騙し取った。同年10月、「有栖川識仁」と詐称した男(当時41歳)と、その「妃殿下」(当時45歳)を警視庁公安部が詐欺罪で逮捕した。公判中、2人の間には一切の恋愛関係、内縁関係、婚姻関係が存在しなかったと事実認定されている。
有栖川宮: 有栖川宮は江戸時代に創設された宮家であったが、10代目当主の威仁親王(イタリア語→Il principe Arisugawa Takehito(有栖川 宮威仁親王; Kyoto, 13 gennaio 1862 – Kōbe, 5 luglio 1913) è stato un militare e nobile giapponese, parte di un ramo cadetto della famiglia imperiale del Giappone e ammiraglio della Marina imperiale)が1913年(大正2年)7月5日に嗣子なく薨去したため、旧皇室典範の規定により断絶が確定、その後、威仁親王妃慰子(やすこ=威仁親王妃慰子(たけひとしんのうひ やすこ、1864年3月15日(文久4年2月8日) - 1923年(大正12年)6月29日)は、日本の皇族。有栖川宮威仁親王の妃。有栖川宮家最後の皇族である)の薨去により正式に断絶した。有栖川宮家の祭祀は、歴代当主の勲功により大正天皇の特旨を以って、第3皇子の光宮宣仁親王が新たに高松宮家を興した上で継承した。宣仁親王(ロシア語→Принц Нобухито из линии Такамацу ( 高松宮宣仁親王 Такамацу но мия Нобухито синно:, 3 января 1905 — 3 февраля 1987) は1987年(昭和62年)2月3日に世を去ったが、事件当時は妃の喜久子が在世中であったため、有栖川宮家の祭祀は引き続き高松宮家で執り行われていた。「有栖川宮家の祭祀継承者」はあり得ない話だったにも拘らず、石田純一などの芸能人を含む多くの人が欺かれた。
本人歴: 被疑者の男性は、『有栖川宮記念事業団』(1990年5月1日設立届出)なる政治団体の代表者「有栖川識仁」(名刺の肩書は総裁)として、様々な活動を行っていた。同団体は事務所所在地同一のまま1998年(平成10年)に代表者・会計責任者が別人に交替していたが、2002年(平成14年)団体名を『有栖川記念』に改称すると共に「有栖川識仁」が代表者に復帰、2003年(平成15年)には京都市内から東京都内に事務所を移転すると同時に会計責任者として「有栖川晴美」が登場、結審・収監後の2006年(平成18年)に解散した。また、右翼団体日本青年社が、男性を名誉総裁に推戴していた(但し、逮捕前の10月1日に任期満了を理由に退任させられている)。
本人は
、「京都のホテルのレストランで、高松宮よりご落胤である旨を告げられたAt a hotel restaurant in Kyoto, Prince Takamatsu informed me that I was his lost child」と説明していた。これが事実だとすれば皇位継承順位の高い皇族であるとして、一部の右翼団体が信用する事態になり、警察も看過できない状況になっていたと言われている。しかし皇室典範第6条(旧皇室典範も同様)では、皇位継承順位に列する皇族の要件を、「嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫」と規定しており、本人が言うところの「ご落胤」では非嫡出子となるため、皇位継承要件を満たさない。
裁判: 一審(東京地裁)が、2006年(平成18年)7月7日に結審した。検察側は、「
皇族への畏敬を利用した大胆不敵な犯行。公判でも、被告人は『殿下』と呼び続けるなど、一切反省していないのは明らかだ」と指摘し、2人に懲役3年を求刑した。同年9月11日に、2人とも懲役2年2ヶ月の実刑判決が下された。2人とも同年9月25日の控訴期限までに控訴せず、また検察側も控訴しなかったため、一審判決が確定した。
朝日新聞2008年(平成20年)1月4日付けの紙面によれば、
自称「殿下」の男性は出所しており、自身の政治団体再興を目指し、以前のように「有栖川宮」として活動しているというThe man who calls himself "His Royal Highness'' has been released from prison and is said to be working as "Prince Arisugawa'' as before, aiming to revive his own political group.
また平成20年度版政治団体名簿』(政治資金制度研究会編、財団法人地方財務協会刊)に依ると、2007年(平成19年)5月1日付で京都府宇治市に政治団体『有栖川宮記念』(代表者:有栖川識仁、会計責任者:有栖川晴美)が新規設立届出されている。

有栖川宮“新郎”ら逮捕…十二単サギの中身夜はオカマバーで「麿じゃ」(ZAKZAK)2003年10月21日(火) 00時00分
「殿下」と名乗った男(左)と「妃殿下」を称した女(右) 大正時代に断絶した皇族「有栖川宮(ありすがわのみや)」を名乗り、タレントの石田純一さん(49)らを招いて、ド派手な結婚パーティーを開催、祝儀などを詐取したとして警視庁公安部は21日、「有栖川宮識(さと)仁(ひと)」と称した北野康行(41)と、新婦となっていた元女子アナを自称する無職の坂本晴美(45)ら3容疑者を詐欺容疑で逮捕した。いかにも怪しい古典的詐欺を演出した男たちの事件を徹底追跡した。
疑惑の“式”で配られた引き出物 【詐欺の大挙式】
調べだと、北野容疑者らは今年4月6日、東京・赤坂のカナダ大使館地下のパーティー会場で、「有栖川宮記念奉祝晩餐会」なる名称で、結婚披露宴を開催。招待客に本物の旧皇族夫妻と信じ込ませ、高額の祝儀や、夫妻の記念写真まで1枚1万円で売りつけ、代金を詐取した疑い。
関係者によると、3人は面識のあった約1000人に招待状を送り、式には約400人が出席。北野容疑者は陸軍大将の大礼服、晴美容疑者は十二単の姿で登場した。
披露宴には石田さん(左)と伊東さん(右)が出席した 出席者は「“有名人”では、石田さんやデーブ・スペクター夫人、羽柴誠三秀吉さんがいた。会場が何部屋にも分かれた立食式パーティーで、別室の儀式がモニター中継されたが、夫妻の近くに袈裟姿の坊さんがいたので『ヘンだな』と思った」と振り返る。
古典的詐欺にひっかかってしまったエスパー伊東さんは「料理も安っぽく、引き出物はなぜかバウムクーヘン。祝儀を3万円包んだが、だまされたなら、それなりに価値があったと思う」と苦笑する。
会場ではブロマイドなどグッズも販売、「引き出物には有栖川宮家の家紋と酷似した印の入った皿を配るなどしていた。1人当たり数万から10万円を集め、被害額は約1200万円に及ぶ」(捜査関係者)。
東京拘置所による手紙の紛失と週刊新潮の手紙掲載
事件を起こした男女2人は東京拘置所に収監されていた。2004年(平成16年)に男らから同拘置所内の女に対し手紙が送られていたが、この手紙を同拘置所が紛失。さらに紛失した手紙が週刊新潮に掲載された。このため、男女2人は2007年(平成19年)4月に「精神的苦痛を受けた」として国を相手取り京都地裁に訴訟を起こした。2009年(平成21年)7月9日に同地裁で、国が手紙の流出を認め妻に対し解決金150万円を支払い謝罪することで和解が成立した。また、紛失した手紙を掲載した週刊新潮についても、同誌を発行する新潮社を相手取り「精神的苦痛」を理由に京都地裁に慰謝料を求める訴えを起こし、同地裁は2009年(平成21年)10月28日に2人の主張を認め、慰謝料200万円の支払いを新潮社側に命じた。新潮社は控訴していたが、その後2010年(平成22年)3月11日付で大阪高裁で和解が成立した。

ロシア語⇒アンナ・アンダーソン=Анастаси́я Чайко́вская (в замужестве — Манахан), более известная как А́нна А́ндерсон(16 декабря 1896 — 12 февраля 1984 в Шарлоттсвилле, штат Виргиния, США) — наиболее известная из женщин, выдававших себя за великую княжну Анастасию, дочь последнего российского императора Николая II, которая, по общепринятому мнению, была расстреляна вместе со своей семьёй 17 июля 1918 года большевиками в Екатеринбурге. На протяжении многих лет страдала психическим расстройством. По наиболее распространённой версии, в действительности Анна Андерсон была полькой Франциской Шанцковской (польск. Franziska Schanzkowska), получившей серьёзные травмы во время работы на берлинском заводе, выпускавшем взрывчатые вещества. 

↑左が1913年頃のフランツィスカ・シャンツコフスカFranziska Schanzkowska。右がアナスタシアАнастаси́я 
アンナ・アンダーソン(Anna Anderson、1896年12月16日 - 1984年2月12日)は、ロシア皇女アナスタシアを自称したポーランド生まれのアメリカ人女性。王族偽装者の一人である。アンダーソンは1984年に死去したが、1989年にアナスタシアの弟であるアレクセイ皇太子と、第3皇女マリア以外のニコライ2世一家と推定される5人の遺骨がロシアで発見された。ミトコンドリアDNA鑑定の結果、これらの遺骨は確かにロマノフ家の一員の物であることが確認された。
生涯: 1920年にドイツのベルリンで、記憶喪失の自殺未遂者として精神病院に収容されたアンダーソンは、自分はロシアから処刑を逃れ脱走してきたアナスタシアであると周囲に説いた。というより、最初に周囲が勝手にアナスタシアではないかと騒ぎ、やがて記憶を失っていた本人も「アナスタシアだったことを思い出した」のであり、意図的な詐称というより、一種の虚偽記憶(もしくは嘘を繰り返しているうちに、自分自身が真実と信じ込んでしまった)と思われる。彼女には、赤の他人を説得する天性の才能があり、耳の形や足の異常形態などアナスタシアと酷似する身体的特徴もあった。さらに、旧皇室に関わった者しか知り得なかった子細な事柄についての知識があったことから、ロマノフ家に連なる旧ロシア貴族の一部を含む、多くの支持者を得た。ついには、1920年代にドイツでロシア帝室の莫大な遺産をめぐる訴訟を起こすが、ロシア語が話せない、苦手であったはずのドイツ語を話す、記憶が肝心なところであやふやになる、顔が明らかに違うなど多くの疑問点が生じた(但しこれらの疑問点にも反論の余地があるとされている)。訴訟は長期化し、最終的には真偽の確定が不可能として却下された。ロシア帝室生存者も一部を除いてアンダーソンを拒否し、アナスタシア本人をとりわけよく知る祖母マリア・フョードロヴナ皇太后Мария Фёдоровнаも決して会おうとはしなかった。しかし、ロシア帝室主治医エフゲニー・ボトキンの息子でアナスタシアの遊び相手であったグレブ・ボトキンやその姉のタチアナ・ボトキナなど、根強い支持者も多かった。その後、支持者の援助で1968年にアメリカ合衆国に定住、アメリカ人ジャック・マナハン(Jack Manahan)と結婚してノースカロライナ州に居住、最後まで自分はアナスタシアであると主張し続けた。この結婚はアンダーソンにアメリカ市民権を取らせるためのものであり、アナスタシアの信奉者のひとりであった裕福な夫は、自分は将来ロシア皇帝になる男であるとことあるごとに吹聴し続けた[2]。発見されて以来1984年に死去するまでアンダーソンは生涯一度も職業を得ず、支持者からの援助金で暮らした。晩年は奇行が目立ち数十匹の猫を放し飼いにしたため、しばしば町から追放されそうになった。アナスタシアを名乗る偽者は、1920-30年代に少なくとも30人が確認されているが、その中でこれほどの支持を集めたのは、アンダーソン一人だけで、彼女の類稀なる才能のおかげといえる。1920年代にはヨーロッパ社交界の華となり、ハリウッドで2度も映画化され、少なくとも3本のTVドキュメンタリーが作られ、ニクソン大統領の就任式にも呼ばれた。これほど彼女が成功した間接的な理由は、ロマノフ一族全員の殺害命令を下したレーニンが、ニコライ2世一家処刑後に、「ニコライ2世は処刑されたが、家族は安全な場所にいる」という嘘の公式発表をしたことや、ソヴィエト政権がアナスタシアを含むロマノフ一族を処刑した事実を、ソ連崩壊まで隠蔽し続けたことによる。
アンダーソンの死後10年を経た1994年に、イギリスのFSS(Forensic Science Service)が彼女の小腸標本からのミトコンドリアDNA鑑定を行った。これはアレクサンドラ皇后の姉がイギリスの女王エリザベス2世の夫君エジンバラ公の母方の祖母にあたることから、エジンバラ公・ロマノフ家の一員であることが確認されている皇女・アンダーソンの三者のミトコンドリアDNAを較べるという、かつてない科学的な検証だった。その結果、エジンバラ公と遺骨のDNAは確かに一致したが、アンダーソンのDNAはこのどちらとも一致しなかった。その代わりにフランツィスカ・シャンツコフスカの甥のカール・マウハーとはDNAが一致した。アンダーソンの正体はポーランド人農家の娘フランツィスカ・シャンツコフスカ(Franziska Schanzkowska、1896年12月16日生 - 1920年3月失踪)である可能性が少なくとも99.7%である、と学術誌『ネイチャージェネティクス(Nature Genetics)』に発表された。 
出稼ぎ労働者としてベルリンの爆弾工場で働いていたフランツィスカは、手榴弾を誤って落とした事故で重傷を負い(その際、同僚は爆死)、精神不安定となって、アナスタシアとして現れる数週間前に消息不明となっている。事実、フランツィスカとアンダーソンの写真は酷似しており、1927年にアンダーソンを認めていなかった元ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒが私立探偵に調べさせて、アンダーソンがフランツィスカであると発表していた。さらに1930年代に彼女の兄弟がアンダーソンと面会した際(この面会は、ヒトラードイツ総統府の催促で実現した)兄弟は自分たちの姉妹であると認めている(しかし、その後兄弟は「姉の新しい“仕事”を邪魔してはいけない」と前言を撤回)。アンダーソンはこの爆発による体中の傷を、銃殺処刑をかろうじて逃れた証拠と主張していた。
しかしアナスタシアを信奉する信者の活動は、アメリカ人作家ピーター・カース(Peter Kurth)を始め根強い。アメリカではいまだにほぼ毎年アンダーソン関連の著作が出版されている。小腸の標本が本人のものではない可能性を示唆する論者も存在する。 

①『アナスタシア』は、1997年のアメリカ合衆国のアニメanimated映画。1956年の映画『追想』のリメイク②"Once Upon a December" is a song from the 1997 Fox Animation Studios film Anastasia. The song was nominated for a Golden Globe Award for Best Original Song.

③『追想』(AnastazjaついそうАнастасия)は1956年のアメリカ合衆国のドラマ映画。監督はАнато́ль Литва́кアナトール・リトヴァクAnatole Litvak、出演はЮл Бриннерユル・ブリンナーYul Brynnerとイングリッド・バーグマンIngrid Bergmanなど。ロシア帝国のアナスタシア皇女が存命するという巷間の伝説を元にした、マルセル・モーレットMarcelle Mauretteによる1955年の戯曲『アナスタシア』の映画化

平成15年10月21日、有栖川宮を名乗り不正に金銭を得たとして北野康行容疑者(41)、坂本晴美容疑者(45)、並びに番組企画会社経営楠信也(42)の三名が警視庁に逮捕されました。この件についてテレビ朝日、朝日新聞から取材の要請があり、10月3日(金)と10月21日(金)の二回にわたってニュースステーションで私のコメントが放送されました。インタビューで放送されなかった部分もあるため、以下に詳細を記すことにします。
https://www.takenoma.com/article/2003/10/22/550/
竹田 恒泰(たけだ つねやす、1975年(昭和50年)(誕生日非公開) - )は、日本の法学者(専門は憲法学)、政治評論家、作家、タレント。皇學館大学現代日本社会学部非常勤講師。学位は学士(法学)(慶應義塾大学・1998年)。竹田宮家⇒The Takeda (竹田) ōke (princely house) was the tenth and youngest branch of the Japanese Imperial Family created from branches of the Fushimi-no-miya house.
記者 「この事件をどのように受け止めていますか?」
竹田 「実は私の友人がこの事件で問題になっている結婚式に招かれていて、当時その友人からこの不可解な結婚式について聞かされたときに非常に驚いたことをよく覚えています。皇室を冒涜する事件だと思います。」
記者 「皇室関係者を語る人が現れた場合、本物と偽者をどのように見分けたらよいのか教えてください。」
竹田 「皇族というのは法律で定められた身分であり、六法全書に収められている『皇室典範』に詳細に規定されています。現在六宮家存在しており、それ以外は皇族ではありません。また、旧皇族や祭祀を継承しているなどどいって近寄ってくる人がいた場合、それは間違いなく偽者だと思って間違いはありません。本当に流れを受け継ぐ人であれば、自らをそのようにアピールして、しかもそれをビジネスのネタに利用するようなことはするはずがありません。」
記者 「以前竹田さんの回りに似たような事件はありましたか?」
竹田 「周辺ではいろいろな話を聞いています。しかし私の前に直接当人が現れたことはありません。私の目の前に現れたらすぐニセであることがばれますから。」
記者 「なぜ犯人は『有栖川宮』を選んだのでしょうか?」
竹田 「二つ理由があると思います。ひとつは『有栖川宮記念公園』という有名な公園があり、そのイメージを利用したということです。この公園が余りに有名であるため、『有栖川宮』が現存していると思っている人も多いことでしょう。そして第二に、なんと言っても『有栖川宮』は幕末に大活躍した宮様であり、日本史を勉強した人であれば強い印象を持っているからです。ですから犯人は意図を持って『有栖川宮』という名前を利用したと考えられます。」
記者 「犯人は『有栖川宮の祭祀を継ぐように言われた』と説明しているようですが、そのようなことは起こりえるのでしょうか。」
竹田 「まずあり得ないと考えていいです。まず前例がありません。そして、親族以外に祭祀を継承させる理由がない。しかも、有栖川威仁親王の御孫様でいらっしゃる高松宮宣仁親王妃喜久子殿下を差し置いて第三者に祭祀を継がせるのは、理論的にも構造的にもありえない話です。」
記者 「宮家というのはどのような理由で存在しているのでしょうか。」
竹田 「江戸時代までの制度と現在の制度では異なっています。現在は六つの宮家が存在しており、天皇陛下の執務を補佐する役目以外に、天皇家にいざということが起きた場合に皇位を継承することができる位置にあり、そのことは『皇室典範』にも規定されています。今回の事件で問題になっている『有栖川宮』というのは、江戸時代を通じて存在していた四つの世襲親王家の一つにあたります。世襲親王家というのはやはり天皇家に皇位の継承者がいない場合に皇統を途絶えさせないために設置された経緯があります。光格天皇は世襲親王家の一つである閑院宮から即位した天皇であり、実際に機能して皇統を守った前例もあります。」
記者 「犯人は『有栖川宮識仁(サトヒト)親王』を名乗っているのですがなにか気づくことはありますか?」
竹田 「皇族男子は皆様天皇陛下から『仁(ヒト)』のつく御名、つまり一般に言う名前を賜ることになっています。したがって皇族の流れを受け継ぐ者であればその尊い名前を使うことは余りに恐れ多いために憚られるものであり、犯人のように自ら『仁』の付く名前を名乗るとなればそれだけで偽者であると指摘できます。そもそも幕末までは天皇の代替わりがある度に、新たに即位された天皇の御名に近い名前の個人や地名は、似た名前を持つことが畏れ多いということで、その名前を呼び変える『敬避』という習慣があったほどです。その習慣を知らずに自らを『識仁』と称するところが、余りに無知と言うか、浅はかではないでしょうか。」

【被害続出】
北野容疑者周辺には、別の詐欺疑惑も浮上する。
「とにかくけしからん」と憤るのは天孫降臨伝説で名高い宮崎県高原町の高天ケ原神社管主、田中千宗氏。10数年前、福祉事業を計画していた田中氏に、北野容疑者が「協力したい」と接近。田中氏は「皇族の方と聞き、信頼した」と事業の名誉総裁に迎え入れた。
その後、北野容疑者は東京などに事務所を設置し、一口1万〜2万円で会員を募集。有栖川家の“お印”と神社の紋を併記し、会員ツアーやグッズ販売を開始した。
「3年前、事業を援助する役場に『40億円を寄進する』と言いつつ、何の報告もない。集めた金の行方もわからない。神社と有栖川宮の名にだまされた人も多いと思い、警察に資料を提出した」(田中氏)
【ナゾの容疑者】
北野容疑者は何者なのか。披露宴で配布された文書には「威仁親王(大正2年崩御)の継嗣がなく、祭祀(さいし)は高松宮宣仁親王に継承され、識仁殿下が御遺徳を継承」とあるが、宮内庁は当然、「皇族でないことは明確」と断言。
前出の田中氏は「取り巻きばかりがしゃべり、本人は黙っていた」。一方、知人からは「昼はダンマリだが、夜はオカマバーに出現し、『麿じゃ』などと冗舌だった」なる証言も…。
北野容疑者は平成2年、「有栖川宮記念」なる政治団体を設立、自ら代表を名乗った。だが、政治資金収支報告書の収支項目にはゼロが並び、活動実体はほとんどないとみられる。また、今月1日に退任するまで、有栖川の名で右翼団体の名誉総裁に就任していた。
【ワイドショーで反論?!】
渦中の“夫妻”はワイドショーの取材に「詐欺ではない」と反論。スポークスマン役で、元女子アナを自称する晴美容疑者が「自殺を考えるくらいノイローゼ状態となった。詐欺にあったという話は聞いていない」と主張すれば、北野容疑者も「私の親が有栖川家の外戚で、(名前は)親からいただいた」などと話していたが、同部の聴取には「有栖川と言っただけで有栖川宮とは名乗っていない」などと供述していた。
2004年(平成16年)2月20日、東京地裁で初公判が開かれた。北野康行は「披露宴で着た(皇族のような)服装はどうかと思うけど、あえて皇族を装ったことはない。有栖川と名乗っただけだ」と起訴事実を否認した。坂本晴美は「夫と結婚して知人を招待しただけです」と無罪を主張した・・・北野は自分が皇族関係者だと抗弁し、坂本は北野が有栖川宮だと信じていたと主張し、2人とも「詐欺に当らない」と無罪を主張していたが、裁
判長は北野が少なくとも3代にわたり皇族と血縁がなかったことなどから、「北野被告の供述は旧宮家をかたるための荒唐無稽な作り話であるのは明らか」と述べた。一方、裁判長は起訴事実の被害者137人のうち76人については「皇族関係者でないことを知っていた」と述べ、詐欺は成立しないとした。
2007年(平成19年)5月、京都府宇治市に政治団体「有栖川記念」(代表者・有栖川識仁、会計責任者・有栖川晴美)を改めて設立し直す。また、そのころ、『週刊ポスト』(小学館/2007年4月20日号)などの雑誌に北野と坂本2人揃って登場し、仲良く生活していることをアピールし、坂本はセミヌードまで披露し、「今回、この撮影に臨んだのも、過去と訣別し、殿下と一緒に温かい家庭を築いていきたいから。怖いものなんて、もうないんです」と語った(この事件を元に書かれた『有栖川の朝』(文藝春秋/久世光彦/2005)がある)。
北野康行は1961年(昭和36年)、京都府宇治市に3人兄弟の長男として生まれた。両親は八百屋を営んでいたが、貧しかった。中学卒業後、清水焼の工場に就職するが、長続きせず、その後は新聞配達などのアルバイトを転々としていた。北野は家を出てからは「伏見博」と名乗っていたが、周りから伏見宮家の血縁と誤解され、「宮さん」と愛称で呼ばれていた。1984年(昭和59年)ころからは「有栖川識仁」と名乗るようになり、高松宮宣仁(のぶひと)親王から有栖川家の祭祀を継承するように言い渡されたとウソを言っていた。北野はさまざまな会合に出ては車代名目の金を受け取り、1990年(平成2年)には政治団体「有栖川宮記念事業団」を設立し、いくつかの会社に出入りして顧問料を受け取っていた。中にはマルチ商法で摘発された「グランドキャピタル」もあった。2000年(平成12年)、「有栖川記念」に改称。丁度このころ20歳近く年下の女性と「できちゃった婚」をしたが、その後、離婚した。
坂本晴美は1958年(昭和33年)、熊本県熊本市で生まれた。父親は郵便局員、母親は営林署勤務の公務員という一家だった。18歳のとき、ミス・インターナショナル熊本地区予選大会で準ミスに選ばれている。その後、地元のバス会社に就職し、20歳で結婚した。坂本は15歳のときから家族のなかでひとりだけ「エホバの証人」の信者だったが、結婚した相手は同じ信者だった。やがて子どもができるが、夫が教団からの金の使い込みや借金、浮気などをしたことが原因で離婚し、子どもは実家に預けて、テレビのレポーターや化粧品のネットワークビジネスをした。そのとき、仕事のマネージメントをしていた実業家と2度目の結婚をし、この男との間にも子どもをつくるが、詐欺商法の補正下着ビジネスに引っ掛かって大きな借金をかかえてしまう。その後、上京して坂本は銀座のホステスになり、客と深い関係になって離婚した。2002年(平成14年)8月、ウェスティンホテル東京のパーティーで北野康行が坂本晴美と出会ったのをきっかけに2人は親密な関係になっていた。会ってすぐに北野は坂本に夢中になり、真剣な交際を求めて自分がニセモノであることを告白している。だが、坂本は利用価値があると考えて偽装を続けるよう迫った。もともと気の小さい北野はウソが発覚するのを恐れて結婚披露宴での祝儀金詐取にあまり乗り気ではなかったが、坂本に強引に押し切られた。2人は結婚届を出していないが、そのことについて取材では「(皇族なので)婚姻届を出す必要がない」と言っていた+Oct 8, 2018 —有栖川宮詐欺事件!坂本晴美は現在その後も有栖川を名乗りAffaire de fraude Arisugawa Miya ! Harumi Sakamoto continue de s'appeler Arisugawa
30.占領時代(2):臣籍降下 (2006年7月3日記載)
http://www.zakzak.co.jp/top/t-2003_10/1t2003102116.html
戦後、GHQの指令によって多くの改革が行われた。その中で、今回は、11宮家の臣籍降下(皇籍離脱)を取り上げる。現在、皇統の持続を巡って、「男系天皇か女系天皇か」の問題がホットな話題となっているが、この問題の淵源を辿れば、GHQの政策によって、昭和22年(1947年)10月14日付けで行われた「11宮家の臣籍降下(皇籍離脱)」がある。鈴木貫太郎(終戦時の首相)は、11宮家の臣籍降下が検討されている際に、「将来、皇位継承者がいなくなったらどうするか」と心配したそうである。この鈴木の心配が、平成の今日、現実となったわけである。もし、皇太子様と秋篠宮様に男子のお子様が生まれない場合、「男系天皇」を守るために、この11宮家の独身男性を「天皇家の養子」とする、という考えがある。今回は、その「養子案」の可能性を探る意味で、「歴史群像シリーズ79 実録 日本占領」(学習研究社)をベースに、臣籍降下の経緯と現状をまとめた。
Ⅰ.皇族の系譜: 
神武天皇からの天皇家の系譜は、右の図の通りである。室町から江戸期には、伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の四世襲親王家が存在した。このうち、桂宮、有栖川宮の両家は、後嗣がなく、明治維新の前に断絶した。そして、幕末から明治時代にかけて、以下に述べるように、多くの宮家が創設され、敗戦時には、昭和天皇の3人の弟からなる、三つの直宮家(秩父宮・高松宮・三笠宮)のほかに、11宮家が現存していた(下の左側の「旧11宮家の略系図」を参照)。
(1)伏見(ふしみ)宮: 北朝3代目崇光(すこう)天皇の皇子栄仁(よしひと)親王を始祖とする最も古くから続く宮家であり、四親王家の中でも最も古い家柄である。二代貞成(さだふさ)親王の皇子彦仁(ひこひと)親王が、1428年に即位して後花園天皇(第102代)となって以来、宮家としての格が高まった。以後、敗戦により24代博明(ひろあき)王の臣籍降下(皇籍離脱)するまで存続した。
(2)閑院(かんいん)宮: 四宮家の一つで、新井白石の建言により、1710年に、第113代東山天皇の第6皇子直仁(なおひと)親王を始祖として創立された。5代愛仁(なるひと)親王が夭折し後嗣なく、閑院宮家は中絶する。明治5年(1902年)に伏見宮邦家親王の第16王子載仁(これひと)親王が閑院宮家を継承した。 臣籍降下時の当主は第7代春仁(はるひと)王である。
(3)山階(やましな)宮: 江戸末期の1864年、伏見宮第20代邦家(くにいえ)親王の王子、晃(あきら)親王によって創立された。臣籍降下時の当主は、第3代の武彦(たけひこ)王である。
(4)梨本(なしもと)宮: 明治3年(1870年)、伏見宮第19代貞敬(さだたか)親王の王子、守脩(もりおさ)親王によって創立された。臣籍降下時の当主は、第3代守正(もりまさ)王である。
(5)北白川(きたしらかわ)宮: 明治3年(1870年)、伏見宮第20代邦家(くにいえ)親王の王子、智成(さとなり)親王によって創立された。第2代、第3代、第4代と事故死、病死が続き、「悲劇の家系」と言われる。臣籍降下時の当主は、第5代道久(みちひさ)王である。
(6)久邇(くに)宮: 昭和天皇の皇后、香淳(こうじゅん)皇后の生家で、明治8年(1875年)に伏見宮から別れて創立された。臣籍降下時の当主は、第3代朝融(あさあきら)王である。
(7)賀陽(かや)宮: 明治33年(1900年)、久邇宮家から分かれて創立された。臣籍降下時の当主は、第2代恒憲(つねのり)王である。
(8)東伏見宮: 明治36年(1903年)、伏見宮家出身の依仁(よりひと)親王によって創立された。依仁親王には、後嗣がなく、東伏見宮家は一代で断絶している。その祭祀は久邇宮家第2代邦彦(くにひこ)王の王子邦英(くにひで)王

が臣籍降下した際に東伏見姓を賜り、東伏見伯爵となっている。
(9)竹田宮: 明治39年(1906年)、北白川家第二代能久親王の王子、恒久王が創立した。臣籍降下時の当主は第二代恒徳(つねよし)王である。
(10)朝香宮: 明治39年(1906年)、久邇宮第一代朝彦王の王子、鳩彦(やすひこ)王によって創立された。臣籍降下時の当主は、この鳩彦王である。
(11)東久邇宮: 明治39年(1906年)、久邇宮第一代朝彦王の王子、稔彦(なるひこ)王が創立した。旧宮家では、最後に創られ、戦前の皇位継承順位も宮家の中では7番目であったが、稔彦王のもとには明治天皇の皇女が嫁いでいる。この稔彦王が、終戦直後に組閣を命ぜられ、初めての皇族出身の首相となった。

Ⅱ.臣籍降下の経緯: 
(1) 昭和20年(1945年)8月15日の終戦当時、各宮家には、これまでと同様に多額の歳費が支給されていた。また、各宮家には、株券、山林などの財産から潤沢な収入があり、食糧も特別に配給されていた。
(2) だが10月になると、東久邇宮稔彦王が、敗戦の道義的責任を負って三直宮家以外はすべて臣籍降下すべきであると発言、賀陽宮恒憲王も臣籍降下を願い出ている。これに対し、閑院宮春仁(はるひと)王は、皇族には皇族としての使命があるとして、臣籍降下には強硬に反対した。
(3) GHQは10月末に皇室財産の全容を発表、11月18日には「皇室財産の凍結」を指令した。また12月始めには皇族最長老の梨本宮守正王を戦犯として指名し、巣鴨拘置所に拘留している(翌年4月釈放)。
(4) 翌年(昭和21年)5月23日、GHQは、皇族の「財産上の特権を剥奪」する指令を発した。宮家に対する歳費支給が停止され、財産に対しては莫大な税金が課せられた。このため、経済的に逼迫した宮家では、別荘や土地などを次々と手放すことになった。
(5) GHQは、このように各宮家を財政的に圧迫しながら、他方で臣籍降下を裏からアドバイスして圧力をかける、といった手法をとった。これは、「教育基本法」等と同じく、背後で舵取りをしながら、あたかも日本側が自主的に改革を進めたような体裁をつくろうためである。臣籍降下の場合、裏でアドバイスしたのは、GHQ民間情報局(CIE)であった。
(6) 昭和21年11月29日、ついに、昭和天皇は皇族たちを招集し、「三つの直宮家以外は、臣籍降下せざるをえない、まことに遺憾であるが了承してもらいたい」旨の説明をした。そして、12月24日、皇室会議が開かれ、11宮家の臣籍降下が確定した。
(7) 昭和22年1月16日、新皇室典範が公布され、5月1日には、宮内省は11宮家に「請願書」を配布、臣籍降下を宮家からの自発的申し出によるものである、という形式をとった。そして、10月14日、宮内府長官(当時の職名)名で各宮家に皇籍離脱決定の通知が発せられ、この日より、11宮家51人の皇族は平民(一般国民)としての道を歩むこととなった。
(8) 10月18日には臣籍降下した元皇族が全員皇居に参内、賢所参拝の後、朝見の儀が行われ、夕方からは赤坂離宮で晩餐会が開かれた。その折、昭和天皇は、「臣籍降下しても、皇室との交際はちっともかわらぬ」とのお言葉を賜っている。このお言葉どおり、臣籍降下した元宮家の人々は、その後も天皇家の親族として「菊栄会」や「菊栄親睦会」の集まりを催してきた(右の写真参照)。

Ⅲ.11宮家の現在:
上の右側に示した「旧11宮家略系図」をみればわかるように、各宮家の現状は、以下の通りである。
(1)伏見(ふしみ)宮: もっとも格式の古い宮家であるが、現在の当主には、3人の女子がいるだけで、男性の後嗣はいない。したがって、「男系天皇」の助けにはなれない。
(2)閑院(かんいん)宮: 臣籍降下後、春仁王は婦人の恋愛事件がもとで離婚し、継嗣もなく、今は断絶した。
(3)山階(やましな)宮: 武彦王は、夫人を関東大震災で死亡しており、継嗣もなく、今は断絶した。                
(4)梨本(なしもと)宮: 現在の当主は80歳を越えているが、後継者はおらず、今のままでは、当主が死去すれば、その時点で断絶となってしまう。
(5)北白川(きたしらかわ)宮: 臣籍降下後、高輪の本邸を売却、現在、衆議院議長公邸となっている。現在の当主は、平成13年より伊勢神宮大宮司を務めている。3人の子がいるが、いずれも女子で、男子の後継者はいない。
(6)久邇(くに)宮: 臣籍降下後、いろいろな事業に手を出すが、すべてに失敗し、別荘や麻布の本邸まで売却した。現在の当主は、神社本庁の統理を務めている。次男と、弟の息子さんの二人が、現在も独身で、天皇家養子の有資格者である。     
(7)賀陽(かや)宮: 臣籍降下後、「野球の宮様」として知られ、野球の事業家を試みたり、特別養護老人ホームを完成させたりしている。後継の邦寿(くになが)氏は、昭和43年に旧皇族として始めて参議院全国区に出馬したが、落選した。昭和61年、邦寿氏の死去により、賀陽宮家は断絶
した。
(8)東伏見宮: 前述の如く、現在は既に断絶している。
(9)竹田宮: 臣籍降下後、事業に乗り出したが失敗し、芝高輪の本邸を西武鉄道に売却した(今は、高輪プリンスホテルとなっている)。その後、日本スケート連盟の会長となり、以後、「スポーツの宮様」としてアマチュアスポーツの振興に活躍し、東京オリンピックの組織委員長やIOC委員などを歴任した。恒徳王の長男で現当主の恒正(つねまさ)氏には独身の長男が、恒徳王の次男の恒治(つねはる)氏には二人の息子(今は独身)が、そして三男で現在JOC会長の恒和(つねかず)氏にも二人の息子(今は独身)がいる。これらの子息は天皇家養子の有資格者である。
(10)朝香宮: 現在の当主は、民間会社に勤務しており、その息子さんはすでに結婚している。
(11)東久邇宮: 臣籍降下後の稔彦王は、次々と事業に失敗したり、新興宗教の教祖に祭り上げられたりしたが、平成2年、102歳のの長寿を全うした。稔彦王の長男盛厚(もりひろ)王は、昭和天皇の第一皇女と結婚、5人の子をもうけた。盛厚(もりひろ)王の次男には、二人の男子がおり、次男はまだ独身なので、「養子候補」の有資格者である。      
Ⅳ.まとめ:
臣籍降下から59年目を迎えた現在、11宮家のうち、既に5宮家(閑院宮、山階宮、梨本宮、賀陽宮、東伏見宮)は、断絶してしまった。また、3宮家(伏見宮、北白川宮、朝香宮)では、独身男性はいない。「養子候補」の有資格者は、3宮家で合計8名おられる(久邇宮家に2名、竹田宮家に5名、東久邇宮家に1名)。






グレブ・エヴゲニエヴィチ・ボトキンГлеб Евгеньевич Боткин (Gleb Evgenievich Botkin、1900年 - 1969年12月)は、アメリカ合衆国の小説家、イラストレーター。1918年7月27日にエカテリンブルクでロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世の家族とともに殺害された皇室主治医、Евге́ний Серге́евич Бо́ткинエフゲニー・ボトキンYevgeny Sergeyevich Botkinの息子である。
アンナ・アンダーソンとの繋がり:1927年5月にドイツにあるゼーオン修道院でアンナ・アンダーソンと初めて会った。アンダーソンはボトキンが「おかしな動物も連れている」のかしきりに気にしていた。アナスタシアはボトキンが描く絵を好み、彼の絵から物語を創って一緒に遊んでいた。ボトキンはこの子供の頃に描いた絵だと直ぐに理解した。アンダーソンがドイツ語でしか話さないと聞かなかったために彼女とはドイツ語で話したが、彼女の付き添いとはロシア語で話し続けた。しかし、彼女はロシア語で話してもその内容を理解していたという。1928年10月13日、息子ニコライ2世とその家族はロシアを逃れてどこかで無事に暮らしていると信じ続け、アナスタシアの祖母マリア皇太后は祖国デンマークで息を引き取った。アンダーソンが無言で沈み込んで誰とも話そうとしない状況が何日も続き、ボトキンもひどく心配していた。ところが、亡くなってから丸一日も経たぬうちにマリア皇太后の娘でニコライ2世の妹であるクセニア大公女とオリガ大公女、クセニアの夫アレクサンドル大公、クセニア夫婦の6人の子供、彼女らのいとこ2人の合わせて11名のロマノフ家の人間がニコライ2世一家全員が暗殺されたことを正式に認め、アンナ・アンダーソンを詐称者として非難する「コペンハーゲン声明」を発表した。このうちアンダーソンに会ったことがあるのはオリガ1人だけであった。ボトキンは声明に対抗してこの4日後にクセニアへ向けた長大な手紙を公開した。彼女がイングランド銀行に預けられているニコライ2世の4人の娘の持参金の相続権を狙っていると指摘した。「 母上が亡くなられてから丸一日も経たぬうちに・・・貴女は御自身の姪ごさんを騙して財産を奪おうとする陰謀をまた一歩進められた・・・。明らかに貴女は、貴女方があのような声明を発表することを皇太后陛下がお許しにならないことをよくご存知だった。だから貴女は、とにかく陛下が亡くなられるのを待って、あのようなものを公にされたのです。母上の死の床の傍らにあってさえ、貴女の一番の関心は姪ごさんの相続財産を搾取することだったのでしょう。そう思うと戦慄を覚えるばかりです。そして、世間一般の作法すら弁えず、母上の死からせめて二、三日のあいだ待つこともなく、貴女の下劣な闘いを公然と始められるとは、開いた口が塞がりません。・・・行っている罪悪に比べれば、ボリシェヴィキによる皇帝、その家族、私の父の殺害ですらまだマシに思えます。気の狂った酔っ払いの野蛮人の一団が犯す罪の方が、貴女の一族の一員―運に見放され、悩める、全く罪の無い若い娘―アナスタシアに対する冷静で、計画的な、とどまるところを知らない迫害よりもまだ理解しやすい。・・・ 」ボトキンはこの手紙で本物のアナスタシアだと裏付ける証拠も並べている。アンダーソンがアナスタシアの身の回りで起きた子供の頃のごく些細な出来事を記憶していること、生まれつきのアザを含めて彼女が身体的な相似点をすべて持っていること、彼女の現在の筆跡がアナスタシアの若い頃と同じものであること、アナスタシアを子供の頃から知っている誠実と認められている人々の多くが本人と認めていること、診察した医師の全員が、彼女が自分で名乗っている人物以外である可能性は科学的に見て不可能であるという点で全員が一致していることである。しかし、このおおっぴらにロマノフ家を困惑させようとするボトキンの試みはアンダーソンを支持する人々からもあまり賛意が得られなかった。この後もロマノフ家の様々な生存者に対してアンダーソンを擁護するために手紙を送り、彼女やロマノフ家についての本を著した。そして、生涯を通じてアンダーソンへの経済的支援を続けた。他の支持者が彼女を捨てても、ボトキンは最後までアンダーソンの友人であった。一方で、アンダーソンに次いで著名なアナスタシア詐称者となったЭугения Драбек Сметискоユージニア・スミスEugenia Smithの主張には懐疑的だった。


↑(左)キング・ジョージ5世(中央)カイザー・ヴィルヘルム2世(右)ツァー・ニコライ2世


↑『神よツァーリを護り給え』(かみよツァーリをまもりたまえ、ロシア語: Боже, царя храни)"God Save the Tsar!"は、ロシア帝国の国歌+白系(反革命)ロシア人(ベラルーシ(白ロシア)とは無関係)=(白衛軍)(1)ゲオルギー大公(ニコライ2世次弟・父アレクサンドル3世(ニコライ1世(アレクサンドル1世(長兄)の弟))の孫・第1皇子アレクサンドル2世が父)の第3皇子・1899年、27歳で病死)(2)ミハイル大公(ニコライ2世の末弟・第4皇子、1918年処刑)(3)ムラーチー・二コライ大公(ニコライ2世の従叔父・ニコライ1世の孫・第3皇子スタルシー・ニコライ・ニコラエヴィチ大公(アレクサンドル2世の弟)が父・第一次世界大戦ロシア帝国軍最高司令官。革命、内戦敗北(ニコライ2世はすでに処刑死)後の22年まで極東アムール地方で反抗し「全ロシア皇帝」に選ばれている(結局フランスへ亡命。1929年、73歳で死去)(4)白衛軍の首領(将軍)たち①コルニーロフ(↑の写真(元ロシア臨時政府軍最高司令官)戦死)②コルチャック(元黒海艦隊司令長官(ロシア帝国海軍提督)処刑)③デニキン(元南部軍師団長(中将)フランスへ亡命。戦後、アメリカに移住し当地で死去)④ユデーニチ(元カフカース(コーカサス)軍参謀長(歩兵大将)イギリスへ亡命。後にフランスに渡り当地で死去)⑤セミョーノフ(元中隊長(大尉)ザバイカル・コサックの統領(アタマン)ザバイカル軍事政府首班(日本の傀儡国家⇒Сибирская экспедицияシベリア出兵  (1918—1922) を参照)処刑)⑥ウランゲリ男爵(白軍最後の指導者=敗北しクリミア半島からトルコへ撤退後も生涯、反ソビエト活動に奉じる⇒後にユーゴスラビアへ亡命。ベルギーにおいて死去)⑦ウンゲルン男爵(バルト・ドイツ系貴族(オーストリア生まれ)出身・1921年処刑)などなど出てきます。


「ツンツンしててさあ~なんか’しもじも’のように扱うわけよ俺たちのこと(苦笑)」(ダイヤモンド・ユカイ氏)

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