日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

그래픽 보고서 청산되지 쇼 - 조선인 강제 연행의 기록 숲 栄代 [사진 · 글]/清算されない昭和 ー朝鮮人強制連行の記録/ 林 えいだい【写真・文】/Graphic report: Showa not liquidated-Record of forced compulsory Koreans⑤


사할린섬(러시아어: Сахалин, 만주어: ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨᡠᠯᠠᠠᠩᡤᠠᡥᠠᡩᠠSahaliyan Ula Angga Hada, 일본어: 樺太 가라후토[*], 아이누어(키릴): Крафто/Карафуто/Карафто, 문화어: 싸할린 섬)은 러시아의 섬이다. 남북의 길이 950km, 최대 폭 160km, 면적 약 72,492km2이다.[1] 또한 러시아에서 가장 큰 섬이자, 세계에서 23번째로 큰 섬이기도 하다. 타타르 해협과 오호츠크해 사이에 있으며, 쿠릴 열도와 함께 러시아의 사할린주를 이룬다. 사할린주의 주도는 유즈노사할린스크이다.쿠릴 열도(러시아어: Курильские острова, 아이누어: Кур/Čupka/Kurumise, 문화어: 꾸릴 렬도)는 러시아 사할린주에 있는 총 길이 약 1300km의 도서군이다. 캄차카 반도와 일본 홋카이도 사이, 오호츠크 해와 북태평양을 가르는 위치에 펼쳐져 있으며, 크고 작은 약 56개의 섬으로 이루어져 있다. 일본에서는 이 열도를 지시마 열도(일본어: 千島列島)라고 부른다.
4、凍土の嵐
韓国に取材に行くと、サハリン(旧樺太)と千島に強制連行された者は帰ってきた例がない、とよく聞かされる。サハリンに強制連行された彼らに会って一番驚いたことは、千島がどこかサハリンがどこにあるかも知らず、関釜連絡船の着く下関のすぐ隣りぐらいとしか考えていなかったというのだ。10日も15日もかかり、船と汽車を乗り継いできて、はじめてその遠さに気が付いた。
サハリンには、製鉄用の石炭が無尽蔵にある。伐採したことのない原始林が豊富で、内地で不足したパルプ原料にはこと欠かない。そうした資材を運ぶための道路と鉄道が必要になった。漁業資源も豊富で、サケ、マス、ニシンなどの漁場に恵まれていた。氷点何十度と下がる凍土の地に、日本人は行きたがらなかった。朝鮮人労働者をそこへ投入することによって、サハリンの開発と資源の確保ができると政府は考えたようだ。
小樽市稲穂町の姜穂時さんは慶尚南道昌原郡東面出身で、8人兄弟の上から3番目だった。1939年(昭14)12月のある日、2人の男が面にやってきて、北海道の仕事だが行かないかといった。連れて行かれたところは、サハリンの三菱鉱業所塔路炭鉱だった。小樽から乗船して、恵須取に着いたのはちょうど正月で、驚いたことに胸の辺りまで雪が積もっていた。
「全員出発だ。1日も早く石炭増産しなければならない」と、労務係が叫んだ。着ているものといえば作業服の上下だけ、慶尚南道とは比べものにならないほどの寒さでみんな震え上がった。1メートル先も見えない吹雪の中を、朝まで雪中行進した。立ち止まると全身が化石のように凍りつきそうで、できるだけ前の者に体をつけて歩いた。
朝方、やっと塔路炭鉱に着くと、1部屋に15~16人ずつ入れられた。姜さんはストーブに当たるうちに手足の先が痛み出し、凍傷にかかっていることを知った。
「うっ、痛い」。突然うめき声がするので駆け寄ると、その男が座り込んで泣き出した。隊列の先頭を歩いていた隣の面出身の男で、急に体の前部をストーブで暖めたから、凍傷したモノが急に痛み出したのだった。その翌日も部屋の隅にうずくまって、労務係が呼びにくるが入坑できる状態ではない。どうしたわけか逸物が長く伸びきってしまい、タオルで包むようにして股に結びつけた。数日するとその部分が腐り始め、部屋中に悪臭が立ち込めるようになった。
「お前、もう役に立たんごとになっとる。このまま塔路におっても、病人じゃお国のためにならん。早う国さ帰れ」。労務係はその男にいうと、朝鮮人寮から追い出した。いわば強制送還であるが、付添人も付けずに帰国させた。果たして1人で朝鮮まで帰り着いたのかどうか。姜さんはもし自分が先頭に立っていたら、同じ運命になっていたのではないかと心を痛めるのだった。
今年(1990年)の2月、サハリンのコルサコフ(旧大泊)から、韓国の釜山の弟の許に一時帰国している崔圭性さんを訪ねていった。崔さんは、慶尚南道の晋州市で洋服の仕立て職人をしている時に、徴用令状がきたという。
1943年(昭18)10月10日、晋州府庁の前で白地に赤で書いた「内幌燃料工場」の腕章をつけた。「こんなに大きく育てたのに、日本に取られて行くのは見たくない」と、母親は悲しんで寝込み、父親だけが晋州駅まで見送りにきた。朝鮮を出発する時、崔さんは短靴だったが、寒いサハリンで草鞋をはいた農夫出身者もいた。崔さんは内幌炭鉱へ着くと、坑内では仕繰夫として働いた。
サハリンの上敷香(現レオニドーヴォ)で軍用鉄道工事をしていた慶尚南道居昌郡出身の卞徳万さんは、冬は積雪で作業ができないため、西海岸にある北小沢炭鉱で採炭させられた。雪解けの4月になると再び工事現場に戻った。
1944年8月、宗谷海峡と日本海にアメリカの潜水艦が出没するようになった。日本はすでに南方海域で船舶を失い、サハリンから内地へ石炭を輸送する船がなく、石炭政策の転換が迫られた。8月11日の閣議で、釧路とサハリンの西海岸の炭鉱の休廃が決まり、そこの坑夫と、施設、資材をすべて北海道の夕張や、陸送に便利な常磐、九州へ配転することになった。サハリンからは坑夫7354人、運搬夫1958人、職員347人の配転が決まり、これを”樺太転換坑夫”と呼んだ。
慶尚北道大邸市の鄭聖胎さんは、父親が1940年に樺太の西柵丹炭鉱に行き、契約満期になると朝鮮に残した家族を呼び寄せた。16歳になった鄭さんは、父親と一緒に坑内に下がって採炭した。
西柵丹炭鉱が閉山したので、父子は家族を置いて、福岡県の三井田川鉱業所第1坑へやってきた。出発の時炭鉱側は、船便があり次第家族を行かせると約束したが、いつまで待ってもこなかった。戦後になって、父親はサハリンに残した家族を迎えに行くといって、青森から漁船で密航した。鄭さんは祖父のもとへ帰国したので、それっきり両親には会っていない。
労働力不足にあえいでいた筑豊の炭鉱では、サハリンからの転換坑夫は救いの神で、重役たちを派遣して、もらい受けをした。一方で筑豊にやってきた朝鮮人坑夫たちは、第2次強制で再び家族と引き裂かれたのである。

731부대(일본어: 731部隊 나나산이치부타이[*])는 일본 제국 육군 소속 관동군 예하 비밀 생물전 연구개발 기관으로, 중국 헤이룽장성(黑龍江省) 하얼빈에 있던 부대이다. 공식 명칭은 관동군 검역급수부(일본어:
Polskiポーランド語⇒Jednostka 731 (jap. 第731部隊 Dai-nana-san-ichi butai) – tajna jednostka wojskowa cesarskiej armii japońskiej. Realizowała ona program badań i rozwoju broni biologicznej i chemicznej, zainicjowany przez generała-porucznika Shirō Ishii, prowadzony w czasie II wojny chińsko-japońskiej oraz II wojny światowej.

関東軍防疫給水部 かんとうぐんぼうえききゅうすいぶ[*])이다.731部队是旧日本帝国陆军關東軍防疫給水部本部的通稱號。該單位由石井四郎所領導,因此也稱之為「石井部隊」。“731部队”同时也可以是指在抗日战争和第二次世界大战期间,旧日本帝国陆军於日本以外領土从事生物战、细菌战和人體試驗相关研究的所有秘密军事医疗部队,也代指大日本帝国陆军在占领满洲期间所做的生物战和人体试验研究。
Русскийロシア語→«Отряд 731» (яп. 731部隊 нанасанъити бутай); кит. трад. 七三一部隊, упр. 七三一部队, пиньинь: qīsānyi bùduì, палл.: цисаньи будуй) — специальный отряд японских вооружённых сил, занимался исследованиями в области биологиче
5、生体実験
ハルピン(中国東北部)の白系ロシア人街だったキタヤスカヤは、現在は中央大街と町名が変わり、ロシア風の石だたみが続いている。街角で赤ん坊を抱いている中国系老人にカメラを向けると、何故無断で撮影するのかと怒り出した。そこに朝鮮人の老人がいて「イルボンサラム(日本人)だろう。早く現場を離れなさい」といって、私を次の通りまで連れて行ってくれた。ハルピンで、朝鮮人の老人から助けられるとは全く意外だった。あれだけ迫害された民族が、どうして私を安全地帯まで連れていってくれたのか、昂奮していたのでゆっくり礼をいうこともしなかった。
通訳は真っ青な顔をして戻ってくると、いきさつを私に話してくれた。撮影したのは日本人の旅行者であるから許してやれというと、その老人はさらに怒り出したそうである。自分の家族が2人も日本軍に殺されたと抗議され、ほうほうのていで逃げてきたというのである。もし朝鮮人の老人と通訳がいなかったら、あるいは身の危険にさらされていたことであろう。翌日、731部隊跡に行くことにしていたが、老人の一件は心に重かった。
731部隊は通称石井部隊ともいうが、正式には関東軍防疫水部本部である。作家の森村誠一さんの「悪魔の飽食」でその狂気にみちた状況は一般に知られ、ポーランドのアウシュヴィッツの大虐殺と比較される。
現在、731部隊の本部建物はハルピン市第25中学校の校舎になり、その1部を「731部隊陳列館」として、毒ガス爆弾や細菌を培養した容器類が並べられている。中国全土から歴史学習の見学者がひっきりなしに訪れている。
人体実験した数千体の”マルタ”の遺体を焼却した高さ20メートルの赤レンガ煙突が、無気味な姿をさらしていた。ソ連軍が侵入してきて撤収する際、741部隊の施設はすべて特殊工作隊によって爆破されたと聞いていただけに、恐るべき化学兵器の実態を自分の目で見て背筋が寒くなった。
当時17歳だった付早岐さんは、広野に立たされて細菌の人体実験をされたと、自ら体験を語った。付さんはその後、731部隊から雑用を命じられた。平房駅から731部隊への引込線に、時々貨車がはいってくる。貨車の扉を開けると、目隠しされた朝鮮人が数十人うずくまっていた。ひとりひとり貨車から降ろすと、付さんは独房のある地下室の入口まで連れて行った。実験後の”マルタ”の体温を計ったり、体の消毒を手伝わされることもあった。アイゴーといって泣く朝鮮人の叫び声は耳について離れないという。
「スパイ容疑で捕まえた朝鮮人は、みんな憲兵隊に渡した」と証言するのは、特務機関員だった北九州市の安藤ミツエさんである。


하바롭스크 재판(러시아어: Хабаровский процесс 하바롭스크 프라쩨스[*])은 제2차 세계 대전 후 1949년 12월 25일부터 30일에 걸쳐 소비에트 연방 하바로프스크의 장교 회관에서 일본군 전범 피고에 대해 6일간 열렸던 군사 재판이다. 일본인 피고들은 소련군에게 포로가 된 관동군 지도부와 생체실험 및 세균전 관계자들이었다.
The Khabarovsk War Crime Trials were hearings held between 25–31 December 1949, in the Soviet Union's industrial city of Khabarovsk (Хаба́ровск), the largest city within the Russian Far East (Дáльний Востóк) adjacent to Japan. There, twelve members of the Japanese Kwantung Army were tried as war criminals for manufacturing and using biological weapons during World War II.
ハバロフスク裁判(ハバロフスクさいばん)とは、第二次世界大戦後の1949年12月25日から12月30日にかけてソ連のハバロフスクの士官会館で6日間行われた旧日本軍に対する軍事裁判の通称。主にソ連への進攻計画としての関特演、日本の対ソ攻撃、731部隊などが裁かれた。また近年の研究では1949年12月3日付で出された判決に外務人民委員のヴャチェスラフ・モロトフが署名した資料が発見されている。被告人はいずれも有期刑の実刑判決を受け、そのままシベリアで抑留されたが、1956年の日ソ共同宣言締結による国交回復で服役者全員に刑期途中での釈放と日本帰国が認められた。


광복절(光復節)은 한반도가 일본제국으로부터 독립한 것을 기념하는 날로, 대한민국에서는 이를 국경일로 법제화함으로써 매년 양력 8월 15일에 기념하고 있다.
Deutschドイツ語→Gwangbokjeol光復節 (조국해방의 날 Chogukhaebang’ŭi nal in Nordkorea) ist ein Nationalfeiertag, der in Nord- und in Südkorea jährlich im Gedenken an die Unabhängigkeit von Japan zum 15. August 1945 stattfindet. Davor waren beide Staaten Teil des Japanischen Kaiserreiches unter dem Provinznamen Chōsen
.光复节(韓語:광복절)朝鲜民主主义人民共和国(以下简称“朝鲜”)和大韩民国(以下简称“韩国”)的公立假日,在每年8月15日庆祝。这一天是为了纪念1945年8月15日第二次世界大战对日战争胜利纪念日,其意味着日本殖民统治的结束。
VII 敗戦と欺瞞の更新
1、祖国への船待ち
1945年(昭20)8・15の敗戦時、在日朝鮮人は250万人とも230万人ともいわれた。日本政府は8月21日、次官会議でようやく朝鮮人の徴用解除を決定した。九州全体の坑夫25万2000人のうち、朝鮮人坑夫は7万6000人いた。
帰国を急ぐ朝鮮人のところへ、下関、若松、戸畑から闇船が出ているとの情報が入った。1人300円が相場だという。金のある朝鮮人たちは、日本政府の送還計画を待たずに、西日本の港に続々と集まってきた。
北九州若松区の徐大錫さんは、家財道具を売り払って戸畑港へ向かった。海岸倉庫で前進にDDTの白い消毒液を撒かれた。いよいよ乗船しようと桟橋まで行ったところ、急に雲足が早くなってきた。
「台風だ。出港は中止する!」。船長の一声で、みんなはがっかりしてその場に座り込んだ。それ以後、戸畑港からは出港しなくなり、徐さんは帰国のチャンスを逃してしまった。若松港の北湊では、定員がせいぜい20人ほどの漁船に、かまわず100人も詰め込んだ。一刻も早く帰国したい気持から、気象条件を無視してひたすら祖国へ向かって出港した。人と荷物の重みで出港して間もなく沈没する船もあった。
9月17日の枕崎台風は、帰国船を一呑みにしてしまった。台風が通過した翌朝、北海岸には約60人の遺体が打ち上げられていた。市の清掃課にいた若松区の厳正男さんは、オート三輪に乗っていて、それを目撃した。
数日後、脇田海岸に20数体の遺体が漂着した。厳さんは仕事から帰ると、スコップを持って自転車で行き、海岸に穴を掘って埋葬した。
枕崎台風の犠牲者の遺体が埋葬されている小田山墓地は荒れ放題だったが、さいきん市民団体の手で整地され、朝鮮のムクゲの木が植えられた。
法務省入管局が参議院日韓特別委員会に提出した資料によると、敗戦から翌年3月までに、。日本の各地から94万人が南朝鮮に帰国し、同年4月から12月にかけて、さらに8万2900人が帰国したと報告している。この数字は闇船利用者が含まれないので、実際はずっとそれを上回わるであろう。
厚生省が出している「引揚げと援護30年の歩み」では、次のように述べている。
「朝鮮人は、8月15日から9月30日にわたり、1日当たり仙崎1000人、博多2000人ずつ送還するよう命ぜられた。7月から8月の釜山に於けるコレラ発生、ついで南朝鮮の洪水による鉄道損害などによって、つぎつぎと朝鮮への送還が停止されたため、博多に於ける朝鮮人の滞留は6000人を超え、日々外地から引揚げてくる日本人6000人と合わせて、博多引揚援護局は、12,000人を突破する滞留者の援護を数十日続けた。
関門海峡と付近の海域にはアメリカ軍が投下した機雷があって危険なので、帰国船興安丸は山口県の仙崎港から出港した。仙崎では倉庫を改造して、臨時の朝鮮人収容所を設けた。彼らはそこで乗船の順番を待った。8月31日第1便として、ようやく仙崎と釜山間に興安丸が、博多からは徳寿丸が就航した。
国策で朝鮮人を強制連行してきた以上、当然日本政府の責任で祖国まで彼らを送り届ける義務があった。それが通り一遍の地方長官宛の通達を、政府は出したに過ぎなかった。県知事の管内の事業所に対して、釜山まで引率して行くように指示したが、事業所では過去において過酷な扱いをしているだけに、報復を恐れて引率していくのを嫌がる傾向があった。下関や博多まで送り届けると、無責任にもすぐ引き返した。港で投げ出された朝鮮人は、自らの手で船便を探して帰国せざるをえなかった。
船待ちのため、海岸の倉庫や民家の軒下に野宿をし、外で七輪を焚いて炊事をした。大勢の排泄物で海岸には悪臭が漂った。
1回の船便で1000人運んだとしても、そこに集まってくる朝鮮人の方がはるかに多かった。10月中旬になると、博多港には毎日2500人が集まり、11月には1万5000人、12月には2万5000人と膨れ上がったのである。
博多港からの送還が限界に達したので、進駐軍の指示で毎日1500人が、佐世保へと回された。船待ちをしている朝鮮人の間に、引き揚げの途中、満州(中国東北部)や朝鮮で乱暴された日本人が、その報復として朝鮮人を皆殺しにするという噂が流れた。11月9日には、船待ちしている朝鮮人と日本人の間に乱闘事件が起こった。
運よく港についても、乗船の順番が回わってくるとは限らない。金のない朝鮮人たちは港にとどまって、正規のルートである興安丸や徳寿丸の順番を待つしかなかった。
港での滞在が延びるほど出費は重なり、帰国船を待つ間に所持金を使い果たして、祖国を目前にして帰国を断念する朝鮮人も出てきた。食べる糧を求めて流民となり、再び日本の各地に散って行かざるをえなかった。
現在の在日韓国・朝鮮人の大部分が、こうした歴史を背負いこんでいる。日本政府がちゃんとした送還をしなかった不手際から、今日の悲劇が生まれたのである。
1950年(昭25)、送還は一応の終止符が打たれ、11月9日以後は自費帰国となった。問題は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への帰国である。1959年8月13日、日本赤十字社との間でカルカッタ協定が結ばれ、12月には新潟港から第1陣が出港、それ以後、北朝鮮への帰国者は10万人を超えた。

재일 조선인 북송사업(在日朝鮮人北送事業)은 1950년대 중후반부터 1984년사이에 조선민주주의인민공화국, 재일본조선인총련합회 그리고 일본정부 간에 의해 진행된 총련계 재일동포의 북송사건이다. 북한사회의 일부사람들이 이렇게 일본에서 북송되어 정착하게 된 재일동포들을 '째포'라며 비하적 표현을 하기도 하였으나, 정작 재일동포들의 재력은 북한사람들이 결코 무시할 수 없는 수준이었다. 그러나 북한사회에 적응하지 못하고 거의 대부분 숙청을 당하거나 북한 사회의 주변인으로 살고 있다고 한다.在日朝鮮人の帰還事業(ざいにちちょうせんじんのきかんじぎょう)とは、1950年代から1984年にかけて行われた在日朝鮮人とその家族による日本から朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)への集団的な永住帰国あるいは移住のこと。北朝鮮では帰国事業(きこくじぎょう、귀국사업)と呼び、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)が推進した運動という側面からは帰国運動(きこくうんどう、귀국운동)または帰還運動(きかんうんどう、귀환운동)と呼ばれる。朝鮮総連と対立関係にあった、大韓民国(以下、韓国)系の在日韓国人団体である在日本大韓民国居留民団の立場からは、北送事業(ほくそうじぎょう、북송사업)と呼ばれる[1][2]。

히로시마·나가사키 원자폭탄 투하(広島・長崎原子爆彈投下, 영어: Atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki)는 제2차 세계대전이 다 끝나갈 무렵 1945년 미국은 일본에 두 개의 원자폭탄을 투하했는데, 8월 6일 히로시마시에 한 개의 원자폭탄을 떨어뜨렸고 8월 9일 나가사키시에 나머지 한 개의 원자폭탄을 떨어뜨렸다. 
Íslenskaアイスランド語→Kjarnorkurárásirnar á Hiroshima og Nagasaki eru árásir sem bandaríski flugherinn gerði á japönsku borgirnar Hiroshima og Nagasaki undir lok seinni heimsstyrjaldarinnar í ágúst árið 1945. Þær voru fyrstu og einu kjarnorkusprengingarnar sem gerðar hafa verið í stríði.

VIII 終わりなき旅路
1、 ヒロシマ・ナガサキ
1990年(平2)4月13日、ソウルから長崎空港に着いた韓国原爆被害者協会の13人は、小雨の中を長崎の平和公園にやってきた。彼らの殆どは戦時中に日本へ強制徴用され、広島と長崎で被爆して、帰国したが、いまなお後遺症で苦しんでいる。・
慶尚北道からきた金分順さんは、献花のさいに急に泣き出した彼女は広島で被爆したが、同じ会員で彼女の近くに住む奥さんのご主人が、長崎で亡くなったというのだ。
そのご主人は長崎県香焼島の川南造船所の飯場を経営していた。食糧不足の時代、みんな腹一杯食べさせようと、150人分のところを200人と偽って配給を申請した。それがバレて長崎刑務所に入れられた。その刑務所跡が、金さんが立っている平和公園なのだ。原爆が投下された日、その奥さんは刑務所の辺りに行ってご主人を探したが、建物も受刑者の人影も残っていなかったという。
13人の在韓被爆者の中で、ただ1人長崎での被爆者は、京畿道軍浦市の梁永哲さんである。40数年ぶりの長崎の空を仰ぎながら、地獄と化したあの日を回想していた。
「梁さんの被爆したのはどの辺りですか?」とたずねると、左耳に手を当てた。被爆した瞬間に10メートルも吹き飛ばされ、爆風で右耳の鼓膜が破れて聞こえないという。
梁さんは1945年(昭20)1月、長崎の三菱兵器トンネル工事建設のために徴用されてきた。まだ15歳になったばかりの時で、爆心地から2,3キロの赤泊で被爆した。当時、6本の地下トンネルが東西に平行して掘られ、梁さんは爆心地に近い方から5番目で、削岩機を使っていた。直接被爆していたら、おそらく即死したであろうが、トンネル内だったこともあり、命だけは取り留めた。
入り口から50メートルのところで働いていたから命は助かったというが、トンネルの外で岩石を運搬していた人は殆ど死んでしまった。
「ここのトンネル工事は、朝鮮人だけでおよそ800人働いていました。確かここら辺りにトロッコ用のレールを敷いていたはずだ」といった。梁さんが故郷の韓国へ帰国したのは1945年9月で、それまで市内に散らばる遺体の処理をしたので、ある意味では二重の被爆をしたことになる。
韓国式に紙切れを燃やし、手で土をかき集めてお線香を立てた。話し出すと胸がつまるのか、あまり多くを語りたがらなかった。
梁さんが長崎を訪ねた目的の1つは、被爆者手帳の交付申請がある。しかし、被爆を確認するだけの保証人が見当たらないのだった。
「ただ私を知っている人は、日本人の娘さんでニシハラウメコさんです」記憶の中にあるニシハラウメコさんも、被爆して死んでいるかも分からない。トンネルのすぐ前に家があり、現場付近を通勤していて、一度だけ誘われて家まで遊びに行ったという。
広島、長崎での被爆朝鮮人は約7万人、そのうち韓国に住む被爆者は2万人とも3万人ともいわれる。韓国原爆被害者協会13人の来日は、日本で被爆死した韓国・朝鮮人の慰霊と高齢化している在韓被爆者への補償を、日本政府に訴えるためであった。辛泳洙会長は「われわれが日本に要求している23億ドルの補償は、それは治療費にすぎないんです。とにかく日本政府は誠意を見せてほしい」と語った。

今年3月には、ソウルの日本大使館前でデモをするなど、救済を訴えて行動した。その気持の中には、日本政府が当時の被爆者の実態を、こんにちまではっきりさせないもどかしさがある。それと同時に補償はもちろんだが、先ず被爆者に心から謝ってもらいたいのだ。彼らの話を聞いていると、日本人被爆者と同じように扱ってほしいという願いが強く感じられる。
長崎を訪問した一行は、次に広島市の原爆慰霊碑に参拝した。この韓国人原爆犠牲者慰霊碑は、平和記念公園の外に建てられている。
「生きているだけでなく、死んでからも差別されるのか」と、彼らの怒りは尽きない。
長崎と広島で被爆した朝鮮人は、戦後傷だらけの姿で帰国して北朝鮮と韓国に住んでいるが、その実数もはっきりしていない。今回の来日は、日本政府が被爆者を放置し続けたことに対する抗議行動であった。
在日の被爆者も病状の悪化と高齢化で、櫛の歯が抜けるように亡くなっている。長崎で会った被爆者たちは口を揃えて「徴用さえなかったら」と、徴用と被爆の二重の苦しみを訴えるのである。


피폭자 수와 조선인의 피해 상황 전체 피폭자 수 조선 인원수 피폭자 총수 폭사 자수 피폭자 수 폭사 자수 생존자 귀국 자 일본 재류
히로시마 420,000 159,283 50,000 30,000 20,000 15,000 5,000
나가사키 271,500 73,884 20,000 10,000 10,000 8,000 2,000
총 691,500 233,167 70,000 40,000 30,000 23,000 7,000
(피폭자 원 호법 재판 팜플렛보다)

현재 생존자 수
현재 한국에서는 원폭 피해자 협회에 등록되어있는 사람 만 약 2262 명. 등록하지 않은 사람을 포함 추정 인원 13,200 명 (한국 원폭 피해자 협회 99. 4 월). 매년 등록하는 사람이있는 반면, 도움이받지 못한 채 사망하는 사람도 많다. 조선 민주주의 인민 공화국은 현재 알려진 피폭자 1020 명 중 551 명에 피폭 인증서가 발행되고있다. ( 전쟁과 원폭 전 실행위원회보고 에서)

Number of A-bomb victims and damage to Koreans Total number of survivors Number of Koreans Total number of survivors Bomb dead Number of survivors Bomb dead Survivor Returnee Resident in Japan
Hiroshima 420,000 159,283 50,000 30,000 20,000 15,000 5,000
Nagasaki 271,500 73,884 20,000 10,000 10,000 8,000 2,000
total 691,500 233,167 70,000 40,000 30,000 23,000 7,000

Current number of survivors
Currently, in Korea, there are only about 2262 people registered with the Atomic Bomb Victims Association. The estimated number of people including unregistered people is 13,200 (Korean Atomic Bomb Victims Association 99.4). While some people register every year, many people die without assistance. In the Democratic People s Republic of Korea, there are currently 1020 survivors of the atomic bombings, of which 551 have been issued a certificate of exposure. (From the War and Atomic Bomb Exhibition executive committee report )


2、戦後
朝鮮寺
福岡県飯塚市の郊外、嘉穂郡波町にある朝鮮寺慶尚院の住職は崔龍洛さんである。寺はまだ未完成だというが、中に入るともう立派な寺である。慶尚院は、崔さんの故郷慶尚南道からその名を取った。私が最初に慶尚院を訪ねたのは1973年(昭48)の夏、強制徴用されてきて筑豊の炭鉱で亡くなった朝鮮人坑夫の、無縁仏が安置されていると聞いたからだった。
2階の本堂に一対の白い猫の陶器が置いてあった。その猫を持ってきたのは飯塚市内に住む老夫妻で、元三菱鯰田炭鉱病院の看護婦をしていた人から頼まれたという。その看護婦の夫は鯰田炭鉱の坑内係で、朝鮮人坑夫を殴り殺した。その遺体は病院の地下室の死体置場に置いた。その遺体から流れ出た血を、2匹の白い猫がなめていたという。朝鮮人坑夫を虐殺したことをなじったことで夫婦喧嘩が絶えず、戦後アルコール中毒になって夫は死んでしまった。地下室で見た遺体のことが忘れられず、慶尚院のことを聞いて、供養してくれと人に頼んで猫を奉納したのだった。
戦時中、長兄が日本軍の軍属として岡山県の水島飛行場で働いていたとき、監督から木刀で殴られ、後に亡くなった。次兄も軍属として輸送船に乗っていたが、台湾沖でアメリカの潜水艦に撃沈されて戦死。崔さん自身も軍属として、中国戦線へ日本から武器を運ぶ輸送船に乗っていた
戦後大阪の実家に帰り、若松で闇船をチャーターして、母親と弟を連れて釜山へ渡ったが、兄弟は朝鮮語を話せないため、引揚者に混って博多港へUターンしてきた。
筑豊に住みついたが、戦後の炭鉱では朝鮮人を使わず、無認可の炭鉱を30数ヶ所転々とした。焼酎の密造をしていたが、税務所に摘発されて罰金を払うことの繰り返しで商売にならなかった。結婚して子供が大きくなると、市内の市場で小さなホルモン屋を始めた。
商売がうまくいくようになると、崔さんは民芸風の喫茶店を開くことを考えた。上野焼、高取焼、小石原焼などの窯元を夫婦で見て回わった。そこでつくらされた陶工たちが残してくれた。尊い遺産であることを知った。
もしや陶工たちの遺骨が窯元の近くの寺にあるかも知れないと、寺回りを始めた。すると過去帳に、大正時代から戦時中にかけて亡くなった朝鮮人坑夫の殉職者の名前を発見した。それからは陶工と朝鮮人坑夫の霊を弔うことを考えるようになった。喫茶店<山小屋>の収入をすべて注ぎ込み、家族とともに自力で慶尚院を建てたのである。

門司港
石炭輸出港としての門司は、1886年(昭19)から筑豊の石炭を外国へ積み出した。石炭荷役で栄えた門司には、沖仲仕納屋が密集していた。町名が変わって風師町となったが、白木崎、広石、葛原、旧門司など、威勢のいい声が聞こえたものだ。
門司区広石町の金性岳さんは、ベテランの沖仲仕で、戦後は長男の嫁の菊子だんも働いていた。金さんが日本へ渡ってきたのは1925年(大14)、夫が八幡製鉄所の下請飯場にいるときだった。八幡から門司に移ったのは、同郷の人が沖仲仕をしていて、稼ぎがいいからこないかといわれたためだ。金さんと港との付合いは昭和の歩みとともに、始まり、半世紀のあいだ体を張って生きてきた。
朝鮮人の女沖仲仕が大勢働いていたが、資金は荷役した量で計算するので、一人前にやれば男女の差別は一切なかった。
金さんの所属する梶原組は石炭船のバンカーが主だったが、場合によっては鉱石の瀬取りをした。船は鉱石の一部を艀に降ろして船体を軽くし、八幡製鉄所のある洞海湾に入港した。
石炭船になると3日間連続、一睡もせずに50数時間働いた。1つの船を積み終わると、また次の船に転船して、それを延々と続けるのである。
「3日間オールナイトをやると、体重は確実に3キロは減ったからね。働くことを苦にせんやったらいくらでも稼げた。それはもう日本人に負けまいと意地で働いたよ」
こんにちの若い女性には想像もできないきつい労働であるが、金さんには誰にもひけを取らないで仕事をしてきた誇りがあった。
1950年(昭25)6月25日に始まった朝鮮動乱は、門司港の荷役を一変させた。7月1日には外貿岸壁が強制接収されて、港はアメリカ軍の専用機となった。アメリカ軍のトラックが小倉の山田弾薬庫から、けたたましくサイレンの音を響かせて疾走した。
アメリカ本国からは武器弾薬、それに兵士たちが送り込まれ、門司港は特需景気に沸き返った。手配師たちは筑豊から失業者を集めてきたが、その半数が朝鮮人だった。彼らはアメリカ軍と一緒に釜山へ行き、さらに前線で弾薬輸送を行なった。1航海8日間で、戦時危険手当を入れて1人23万円もらった。港で荷役する金さんたちは、同胞同士が殺し合う祖国の戦争に複雑な思いにかられた。沖仲仕たちは、ずっしりと重い武器を荷役するとき、最初のうちは生活のためと割り切ったが、いつのまにか自分たちの積み込む兵器のために、朝鮮人が傷つき殺されて行くことがに気が付いた。朝鮮人の沖仲仕たちは「同胞を殺すための武器を送るな!」と、反戦闘争を開始した。
ダンブルに積み込む時に戦車の砲身を曲げたり、軍用トラックの計器を取り外して捨てた。甲板のロープをゆるめたので、玄界灘に出た途端に海上へ落ちた。船に反戦ビラを入れると、数ヵ月後に「日本の労働者諸君に心から感謝する」とチョークで書かれたハングルが見付かった。
送り返されてくる遺体の中に娘婿たちの姿がないかと、金さんは心が凍りつく思いをしたという。

3、アリラン峠
全国いたるところのアリラン峠には、朝鮮民族の苦難の歴史が刻まれている。北海道夕張炭鉱の山頂にあった35の協和寮への道もアリラン峠であった。松代大本営の地下壕、大阪の地下工場のトンネル掘りも、朝鮮人にとっては抜け道のない暗闇だった。
筑豊の貝島炭鉱の露天掘り現場近くで、ある朝鮮人の老婆に会った。本人が「私はマツオカさんです」というだけである。本名をたずねると、自分の名前も年齢もみんな朝鮮においてきたと笑った。老婆は日本語を忘れて、近ごろはどうしたわけか朝鮮語に返ってしまったともいった。
朝鮮に住んでいた期間よりも、日本での生活がはるかに長い年月でありながら、年を取ると自然に母国語に戻るのであろうか。
「日本にきて、それはひどか目に遭いましたばい」。つらかった日々が老婆の胸に深い傷跡を残しているのか、腹の底から絞り出すようにいった。それから記憶にある忘れかけた日本語のかけらを、ひとつひとつたぐり寄せるように語り始めた。彼女が怒り出すと、激しい朝鮮語がほとばしり出て、とどまるところを知らなかった。25歳で日本にきてからの彼女の人生は、ともなおさず朝鮮人全体の歴史であるといえるかもしれない。
「朝鮮でボッシュウ(募集)に引っかかって、関釜連絡船で下関に着きました。山口県の宇部炭鉱に行って、着いたあくる日から坑内に下がれですたい。夫婦で石炭ば掘りましたと。
きつうして、世の中にこげな仕事があろうか、もっといいとこ思うて、3ヶ月でケチュ割り(逃げ出す)してな。転々と炭鉱を渡り歩いて、こんどは一、直方の三菱新入炭鉱に志願ですたい。1円くれるというので喜んで行くと、半分の50銭しかくれん。約束が違うというと、お前は文句ばっかりたれて、ここの炭鉱じゃもう使わんちいわれて、その月のうちに追い出されよった。朝鮮人はお前1人じゃなか。なんぼでも掃き捨てるほどおるけ、早う出て行けちくさ。隣の納屋の大将がムコさんの同郷の人で、貝島炭鉱を世話してくれた。露天掘りは男も女もパンツ一つの真っ裸で、石炭を掘ってトロッコに入れたよ。雪の日や雨の日はコムカッパ着て、夏になるとかんかん照りのお天道さんの下で、鰯を焼くように火あぶりですたい。
体ん皮が火ぶくれして破れて、そこに石炭の粉と汗が流れて、体中が練り化粧ですたい。貧乏人のくせしてどういうわけか子供だけはぽろぽろ生まれて、そのたんびに役人さんから金を借りる。ああ、これで借金が終わって、やっと今月からは少し楽になると思うと、またヤヤ(子供)ができとる。
大きなどん腹抱えてトロッコ押しですたい。もう体裁も何もあったもんじゃなか。両足を踏んばって力一杯トロッコを押すもんで、びっくりしたお腹のヤヤが下から出かかってな。うちがウーンち呻いて引っ繰り返ったもんで、その場は大騒ぎですたい。役人さんが飛んできて<赤不浄はダメだ。朝鮮人はどこでもおかまいなしに子を生むから困る。早う家に帰れ!>と怒ったばって、出かかったものはしょうがなか。女の人が人垣つくってくれて、男たちに見えんごと煙幕を張ってくさ。うちをリヤカーに乗せて家まで運んでくれたよ。入口に抱き降ろした途端にヤヤが転がり出て、本当に助かったよ。
ガキどもにご飯を食べさせると、ムコさんとうちは小さか茶碗に1杯しかなか」2人で分けて水かけて食べよった。山行って草の新芽を取ってきて食べたところ腹が緩んで、こんどは下痢ばっかり、痩せこけてトロッコ押す力もなか。人の話じゃ下剤の薬草ちたまがりましたばい。
戦争が終ると、もうお前たちには用はないけ朝鮮に帰れちいわれたですたい。急に使わんちいわれても困るけ、ムコさんが腹を立てて労務の役人さんに突っかかったばっかりに、叩かれて歯を3本も折られよった。使うだけこき使うてから、もう用はないち朝鮮人を鼻紙んように捨てるんやけんね」
日本に帰ってきてからの苦労を思い出したのか、老婆は袖でそっと涙をぬぐった。

사할린 한인在樺コリアン(러시아어: Сахалинские корейцы, 영어: Sakhalin Koreans)은 사할린 섬에 거주하는 한민족을 말한다. Sakhalin Koreans在樺コリアン are Russian citizens and residents of Korean descent living on Sakhalin Island, who trace their roots to the immigrants from the Gyeongsang and Jeolla provinces of Korea during the late 1930s and early 1940s, the latter half of the Japanese colonial era.在樺朝鮮人、在樺韓国人、サハリン残留朝鮮人、サハリン残留韓国人とも呼ばれる。

庫頁島朝鲜族(俄語:Сахали́нские коре́йцы;韓語:사할린 한인)多是日韓合併后至三十年代被日本三井招募至庫頁島樺太廳当勞工的朝鲜族。他们多数来自全罗道与庆尚道,苏联向日本宣战后入侵桦太廳後,一些人回去南韓与日本,一些留下来成为庫頁島朝鲜族。现在人口55000人。
4、望郷の丘
シベリアのハバロフスク市内、駅の近くのバザールに行くと、朝鮮漬けのキムチを売っている朝鮮人のグループが目につく、「お前、日本人か?何しにここにきたのだ」と、話しかけてくる。50代以上の朝鮮人なら少しは日本語が通用するが、若い世代はロシア語しか通じない。
冬場には野菜が少ないせいか、どこでもソ連人がキムチなどを買っている。花売場では、カーネーションが3本10ルーブルで売れ、月に500ルーブルは稼ぐと教えてくれた。普通の年金生活者が月に120ルーブルであるから、バザールの商売は相当の収入だ。
毎日バザールに行って話をしていると、親しくなった。彼女たちに出身地をたずねた。
何人かは戦後サハリンの大洪水で家を失い、大陸へ移住してきたといった。大部分が日本の植民地支配後に流浪の民となって、祖父の時代に満州(中国東北部)や、沿海州に移住してハバロフスクへきたんだといった。彼女たちの話によると、スターリン時代にアムール河沿いに住んでいた朝鮮人が、中央アジア方面に強制移住させられ、ソ連のペレストロイカ政策以後、再びハバロフスク周辺に帰ってきたとのことだった。
一方、サハリンのユージノサハリンスクのバザールで会った朝鮮人の婦人たちは、夫が強制徴用されてきたという人は少なかった。両親が募集でやってきて、そのまま住みついたという。そういう婦人たちは、サハリンで小学校に行っているので標準語に近い日本語を話した。
サハリン在住の朝鮮人は、ソ連国籍が70%、北朝鮮籍が25%、残りの5%は無国籍を通して韓国への帰国を希望しているようだ。国籍が何であれ年金はもらえ、医療は無料という社会主義のお国柄である。だが大学進学などの子弟の教育だけは、ソ連国籍でないと優遇措置はない。そのため北朝鮮籍からソ連籍への書き換えが多くなった、とも聞いた。1世たちはその中にあって、日本国の手によって無理矢理に連れてこられたので、ことのほか望郷の念が強い。いまでも韓国KBSラジオにしがみつき、韓国の情報を知ろうとしている。
ユージノサハリンスクで車を運転してくれた金エンナムさんの父親金ジュンリさんは、1984年の夏に亡くなった。息を引き取るまで故郷に帰りたがり、自分が死んだら遺骨を海に流してくれと頼んだそうである。金さんは父親の願い通りにアニワ(旧留多加)湾で海に流してやった。
「1世の父親たちの望郷の思いは強いんですよ」。遺骨だけでも故郷へ流れつきたいと願う1世のせつない思いは、海峡をへだてて政治の厚い壁にさえぎられている。


Русскийロシア語→Сахали́нские коре́йцы在樺コリアン (также корейцы Сахалина; кор. 사할린 한인 сахаллин ханин) — субэтническая группа корейцев численностью около 45 000 чел. На долю сахалинских корейцев приходится около 10 % корейской диаспоры (корё-сарам) бывшего СССР. В большинстве своём это потомки южнокорейских по своему происхождению рабочих, привезенных в качестве рабочей силы на Южный Сахалин в период аннексии Кореи Японской империей (1905—1945)[2]
5、鎮魂の碑
北のサハリン、北海道から九州・沖縄にいたるまで、日本列島はまさに朝鮮人の白骨で埋められている。炭鉱や鉱山などの虐殺現場で亡霊が出るというのも、無念の涙をのんで朽ち果てた朝鮮人たちの、さまよえる魂であるかもしれない。
日本国内でも、戦時中に百数十万人という朝鮮人が強制徴用されたことは、歴史教育の中で教えていないのが現実である。そのため戦後生まれの世代は、日本の植民地支配の実態を知らないのである。このままでは朝鮮人の被害史もまた幻となりかねない。
福岡県飯塚市の観音寺には、20数体の朝鮮人坑夫の遺骨がある。前住職の古賀博演さんは、異国の地で亡くなられた方のためにと、納骨堂の一番いい場所に安置している。遺骨の前には、強制連行された時の一連番号だけのものや、荷札に半島とか鮮人と書いたものもある。「番号だけとか、鮮人とだけ書いていたんじゃ、故郷を探すことは絶対に不可能だ」と、古賀さんは引き取り手のない遺骨のことを語るのだった。
古賀さんは戦時中、麻生鉱業所下三緒炭鉱に勤労報国隊としてはいり、朝鮮人坑夫と一緒に採炭をした。赤坂炭鉱では、重傷の坑夫をトロッコに乗せて昇坑すると、いずれ死ぬからと生きているのに埋めて、ボタ石を置いて立ち去ったと語った。石炭増産命令で気違いのようになっている時、そんな野蛮な行為を止めさせるとすれば国賊といわれる時代、古賀さんにとっては一生悔いが残ることだった。赤坂炭鉱や鯰田炭鉱の犠牲者を埋めた無縁墓地には、今でも朝鮮式の土まんじゅうの墓がいくつか原型をとどめている。
1975年(昭50)の春、飯塚市伊岐須の日鉄二瀬鉱業所高雄第2坑の跡地を訪ねた。高雄分譲住宅団地の空地の一角に“倶会一処”と書いた慰霊碑がある。それを囲むように、無縁墓が20数基ある。昔から地元の人たちは、その丘の無縁墓地のことを“旅人墓”と呼んだ。
慰霊碑の裏には、「昭和44年4月、明星菊一建之」と刻まれている。この“倶会一処”は日鉄が建てたのではないのである。従兄の明星菊市さんが、造成工事の責任者だと古賀さんに聞いて、私は訪ねて行った。
「造成地はちょうど3000坪でした。ブルで竹薮を地ならしすると、あちこちから人骨が出てくるので、もう仕事どころではなかったですよ。1ヵ所から50~60体一緒に出てくることもありました。あんまり気持が悪かもんで、供養せないかんと思いまして、遺骨を全部集めさせてもらいました。10人の人夫がかかりきりで集めて石炭箱に入れましたが、その作業がちょうど20日間かかりました。全部で400体はあったでしょうか。
慰霊碑を建てる半年前、工事を始めると同時に白骨が出てきたわけであるから、工事をする者が気味悪がるはずである。工事場に鉄柱を並べ、もう一度火葬をし直したというのだ。すぐ近くに住む久保ハルエさんは、次のように説明してくれた。
「日鉄は大きいヤマで、それこそ死ぬのも大仕掛けですたい。落盤とかガス爆発とか毎日のようにあって、それを全部あの竹薮に埋めとりました。とにかく朝鮮人の死に方は並外れとりましたからね。朝鮮人ばっかり死にましたもん」
朝鮮人坑夫が事故死しても、葬式をしたのを見たことがないと久保さんは語るのだった。
犬や猫の死体と同じように、旅人墓の周辺に投げ捨てた過去の無責任さが、土地造成ではからずも暴露されたのである。
同じようなことは嘉穂郡桂川町にある麻生鉱業所吉隈炭鉱の納骨堂でもいえる。宅地造成中に掘り出された遺骨は、番号を書き入れただけで、納骨堂の棚の上に約200個並べられていた。
10年後にもう一度確かめに行ったところ、その骨壷が全部消えてしまっていることに気が付いた。強制連行を考える会の大野貞光さんに頼んで、炭鉱関係者に当たってもらったところ、地下の収骨所に投げ落としたことが分かった。朝鮮名を書いた遺骨が数体あったが、それもなくなっていた。小さい穴があって、冷い風とともにカビ臭い遺骨の匂いが鼻をついた。
飯塚市上三緒の教元寺は、明治時代から麻生系炭鉱の専属寺で、殉職者名簿には炭鉱で亡くなった坑夫の名前がずらりと並んでいる。1960年(昭35)には、引き取り手のない朝鮮人坑夫の遺骨が160桂あった。納骨堂の脇の箱を手に取ると、「引き取り手なし、朝鮮人」とあるだけ。名前さえも書いていなかった。
僧侶のいない無人寺や、道端にひっそりとあるお堂に残された朝鮮人坑夫の遺骨は、数え上げると限りがないほどである。石炭産業をはじめ全国の事務所で、戦時中から朝鮮人たちは大きな犠牲を強いられてきた。
筑豊の炭鉱における朝鮮人の犠牲者は、1000人とも2000人ともいわれるが、実態は全く不明のままである。それは筑豊に限らず、全国でも同じことである。
筑豊の各寺に保存されている、遺骨や過去帳でしか推測できないことは悲しいことではないか。国家の名において朝鮮人を強制連行してきたわけであるから、企業はもちろんのこと、政府が最後まで責任を取るべきなのは当然のことである。












×

非ログインユーザーとして返信する