日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

그래픽 보고서 청산되지 쇼 - 조선인 강제 연행의 기록 숲 栄代 [사진 · 글]/清算されない昭和 ー朝鮮人強制連行の記録/ 林 えいだい【写真・文】/Graphic report: Showa not liquidated-Record of forced compulsory Koreans①

①Esperantoエスペラント語→Grafika raporto  Showa ne likvidita-Rekordo de devigaj devigaj koreoj  Hayashi Eidai ②Deutschドイツ語→Grafischer Bericht  Showa nicht liquidiert - Aufzeichnung der Zwangspflichtkoreaner  Hayashi Eidai③昭和未清算图形报告-强制韩国人记录  林栄代
*Eidai Hayashi 林栄代 (Hayashi Eidai, real name Hayashi Shigenori, December 4, 1933 - September 1, 2017 ) is a Japanese record writer. He is the president of Arirang Bunko. He is a caller for the forced mobilization truth-finding network . . . Born in Saidosho Village, Tagawa District , Fukuoka Prefecture (currently Kawara Town ). His father, a priest, concealed a Korean coal mine worker who had escaped, was arrested by the Special Higher Police , and died shortly after torture. Hayashi said in a 2017 newspaper article, "What inspires me? If I trace the origin, I'll get there."

징용(徵用)은 전쟁 때 혹은 이에 준하는 비상사태에 필요한 정부의 행정상 혹은 군의 작전상 필요한 인적 자원을 강제적으로 착취하는 일이다. 일반적으로 약간의 보상을 지급하기는 하지만 모집과 일을 시키는 행위는 강제이다. 넓은 의미에서의 징용은 종군 기자와 수행원들의 동원까지도 징용으로 보기도 한다. 물건을 강제로 거두는 일을 징발, 군인을 모집하기 위한 것을 징집이라고 한다.
I 地図にないアリラン峠
1、北海道からの手紙
ー1982(昭57)年のある日、民衆史発掘運動を続けている北海道深川市の森岡武雄さんから、1通の手紙が私のもとに届いた。近くに住む在日朝鮮人の蔡晩鎮さんの代筆であった。蔡さんは1940年(昭15)1月、慶尚北道聞慶郡山陽面から、福岡県遠賀郡水巻町の元日産化学工業遠賀鉱業所(後に日炭高松炭鉱)に強制連行されてきた。当時の訓練所(朝鮮人寮)の関係者に会いに行きたいから探してくれというものだった。1ヵ月後、本人から直接電話があって、訓練所から第3坑へ向かう途中、本多という雑貨屋の前を通ると、そこの女房が握り飯をくれたことが忘れられない、死ぬ前にもう1度会ってお礼がいいたいと、蔡さんのせつない声が響いてきた。雑貨屋を頼りに第3坑付近を訪ねたが、それらしい店は見付からなかった。蔡さんが2年の契約満期のころには、朝鮮人坑夫はすでに200人ほどいた。地下数千メートルの坑底にの採炭作業は、農業や土方作業になじんだ彼らにとって地獄の苦しみだった。労務係の暴力行為、最初の約束と違った低賃金、それらの不満が爆発してストライキに発展した。トラックに分乗してきた折尾警察署員と憲兵は「半島なんか殺してしまえ!」と叫んで、抗議する朝鮮人に襲いかかった。指導者の1人だった蔡さんは、捕まると必ず殺されると思い込んだ。
ー熊本県八代まで逃げたが捕まえられて、折尾警察署へ留置された。ストライキの首謀者は誰か、思想的背景はないかと1ヵ月にわたって拷問を受け、仲間18人とともに手錠をかけられて釜山へ強制送還された。蔡さん自身にとって第3坑の訓練所は、日本に強制連行されてきて最初に働いた炭鉱であり、家族を炭住に残したまま脱走した忘れられない場所であった。妻の鄭学南さんは、住んでいる炭住をすぐ出て行けといわれて、長男の鴻水さん、長女の清正さん、次女の仁淑さんを連れて、1週間後に故郷へ帰った。家族に迷惑がかかったら大変だと、蔡さんは釜山で沖仲仕をしながら様子を見た。釜山と慶尚北道、蔡さんに家族はすぐ近くに住みながら、お互いに連絡がつかなかった。そこで北海道のタコ部屋の募集に引っかかり、家族とは別の人生を歩み始めたのだった。
ー彼が故郷の家族のもとへ帰国したのは、1945年(昭20)8・15による朝鮮解放後の12月26日のこと、36年間の日本の植民地支配から解放されたとはいえ、土地も財産ももたない蔡さん一家の生活はどん底であった。「日本へ行って金儲けをしてくるから、そのうち帰る」と、鄭さんにいい残して、蔡さんは再び日本へUターンしてしまった。朝鮮動乱で家族との音信は途絶えた。帰国を諦めた蔡さんは、日本人の未亡人保子さんと新所帯を持った。2男1女をもうけたが、そのうち彼女は胃がんで亡くなった。炭鉱が1971年(昭46)に閉山して坑夫たちは県外就職などで去り、炭鉱跡はいまや北九州のベッドタウンに変わっている。訓練所の労務担当者に会ったが、いまさら過去のことをほじくり出してどうするのかと、誰も口を閉ざして語りたがらない。せめて訓練所の舎監(寮長)の名前が分かれば手掛かりをつかめると思って、北海道の蔡さんに電話をいれた。
ー記憶を呼び戻しているのか、長い沈黙の末「舎監の名前は忘れたが、確かアリラン峠が近くにあった」とぽつんといった。アリラン峠といえば、第2坑へ行く途中の浅川しかない。筑豊の炭鉱跡には、当時の朝鮮人坑夫たちの名残りをとどめて、10数ヶ所の通称アリラン峠と呼ばれるところがある。それはもちろん地図に載っていはいない。水巻町梅ノ木と北九州市八幡西区浅川の境に、今でもアリラン峠という坂道があり、すぐ近くにはアリラン部落もある。その辺りを何度か訪ねるうちに、朝鮮へ募集に行った労務係や舎監などが見付り、当時の記念写真も出てきた。そのことを蔡さんに早く知らせようと電話を入れると、半年前に肺がんで亡くなったことを知った。1986年11月、私は蔡さんの家族に会うために、慶尚北道の鄭さんを訪ねることにした。日本からの突然の訪問者に家族は戸惑い、真っ先に夫に何ごとかあったのかとたずねた。通訳の李源愛さんと相談して、蔡さんが亡くなったことを知らせた。途端に「アイゴー、アイゴー」と、顔をくしゃくしゃに歪めて手で激しく床を叩いた。それはいつまでも続いた。
Françaisフランス語→徴用(強制連行)Coréens conscrit époque coloniale japonaise (défi poussière Changyang du Japon et de la servilité intérieure à la plus forte), la Seconde Guerre mondiale en Corée sous la domination japonaise au Japon est coréenne travailleurs Septembre 1944 , le de Mobilisation du travail. Lorsque les Coréens étaient des "Japonais d'origine coréenne" qui avaient la nationalité japonaise, il y avait un débat sur l'expression de la mobilisation (mobilisation des travailleurs) et du recrutement de Coréens pendant la guerre comme une "prise forcée". La mobilisation des travailleurs pendant la guerre est également appelée transfert de travailleurs coréens.

吉田 清治. 본명 요시다 유토(吉田 雄兎), 1913년 10월 15일 – 2000년 7월 30일.일본의 저술가, 활동가. 일본군 위안부 납치 관련 증언을 한 인물로 나름 유명했다. 하지만 그의 증언이 허구성을 의심받으며, 일각에선 위안부 문제에 있어 첫단추를 잘못 끼운 인물이라는 평도 받는다.

↑In 2017, Sankei Shimbun launched the English language online website Japan Forward(ジャパンフォワード)産経新聞社のニュースサイト.Yūto Yoshida (吉田 雄兎, Yoshida Yūto, 15 October 1913 – 30 July 2000) was a Japanese novelist and member of the Japanese Communist Party. He has published under a variety of pen names, including Seiji Yoshida (吉田 清治, Yoshida Seiji), Tōji Yoshida (吉田 東司, Yoshida Tōji), and Eiji Yoshida (吉田 栄司, Yoshida Eiji). He wrote "My war crimes", which is the origin of a dispute over comfort women 30 years after World War II; he admitted it was fictional in an interview with Shūkan Shinchō on May 29, 1996. Later, his fictional work was used by George Hicks in his "The Comfort Women: Japan's Brutal Regime of Enforced Prostitution in the Second World War".

Publications Sankei Shimbun (publiées en juin 2017)아버지의 사죄비를 철거합니다 - 위안부 문제의 원점 '요시다 세이지' 장남의 독백 오타카 미귀【저】/Suppression du monument d'excuses de mon père - l'origine de la question des femmes de réconfort "Seiji Yoshida" confession du fils aîné Miki Otaka [Auteur]

2、 謝罪の旅
―ソウルから南に約84キロの忠清南道天原聖居 邑に、マンヒャンイトンサン(望郷の丘)がある。この望郷の丘の墓地には、異郷の地で故郷を思いながら亡くなった人々の霊が祀られている。第二次世界大戦中の戦没無名韓国人墓碑のすぐ近くに、1メートル四方の謝罪の碑が埋められているのに気付く人は少ない。だが、次に碑文を読むうちに、それが何のために建てられたかが分かって、身を引き締めずにはいられなくなる。
「あなたは日本の侵略戦争のために徴用されて、強制連行されて、強制労働の屈辱と苦難のなかで、家族を想い望郷の念もむなしく、貴い命を奪われました・・・」
―朝鮮人を強制連行した張本人である。当時山口県労務報国会動員部長だった吉田清治さんが、1983年(昭58)12月自費で建てた謝罪の碑文の一節である。―植民地支配の責任を回避し続けている日本政府や、戦争中だから仕方なかったとし、過去に犯した罪を他人ごとのようにいう関係者の中にあって、吉田さんは自ら加害者責任を認め、頭を地面にすりつけて謝罪した。吉田さんは軍隊と警察を動員して、朝鮮半島全体から労働力となるような者を根こそぎ狩り出した。吉田さんが県知事から表彰された1944(昭19)には、その動員数は5000人に達していた。陸軍病院の洗濯婦だと騙して、女子挺身隊員の名目で集めて、従軍慰安婦として送った。その数は5,6回で950人にもなった。

―「私1人だけのお詫びではありますが、自責の念で死ぬにも死ねない気持ちで・・・」と謝罪の碑の前で挨拶すると、会場からはすすり泣きの声が聞こえ、刺すような視線が彼に注がれた。40数年後に自らの罪を認めて謝罪の碑を建てたところで、被害者にとっては絶対に許せないことだった。吉田さんはお国のためといって国策に忠実に従い、その任務を遂行したのである。その時点では、強制連行に対する罪悪感も、良心に対する呵責の念ひとかけらも無かったという。吉田さんが謝罪の碑を建てた翌年の11月のことだった。筑豊の炭鉱へ強制連行した責任上、無縁仏になっている朝鮮人のお墓にお参りしたいから案内してくれと私のところへやってきた。最初の日は元古河鉱業所大峰、峰地炭鉱を案内した。大峰炭鉱では全羅南道から強制連行した務安隊の陽信寮跡へ、李興麟さんが労務係によって虐殺された現場に立つと、彼はそのまま動かなくなった。足元が小刻みに震え、眼鏡の底にきらっと光るものがあった。「この大峰炭鉱にはずい分送り込みました。1度だけですが、彼らがどういう労働をしているか、労務報国会から視察にきたことがあります」と、言葉少なに語ってうなだれた。私が強制労働の実態を説明す出すと、突然真っ青な顔を向けると、帰るといった。午前中で案内を打ち切ると、吉田さんはホテルの一室にこもって出てこなかった。
ー翌日、麻生鉱業所吉隈炭鉱の坑口付近にある無縁墓地を案内した。こんもりと盛り上がる丘には、高さ3メートルほどの桜が10数本ある。その桜の木の根元からは、今も青片が出て人々を驚かせている。もともとこの場所は、炭鉱が始まって以来、渡り坑夫などの無縁墓地であったが、戦時中は朝鮮人坑夫たちの遺体を埋めた。案内してくれた地元の大野貞光さんが、棒先で土をまさぐるだけで、掌に青錆びた骨片がいっぱいになった。炭鉱跡地には宅地造成のブルドーザーが入り、掘り返すだけで数えきれないほどの遺骨が出る。納骨堂の中には、そうした身元不明の遺骨が、番号だけ書いて棚に並べてある。吉隈地区の住民によって徳香追慕の碑を建てさせた。毎年お盆になると、炭鉱で殉職した朝鮮人坑夫の慰霊祭を地域挙げて行なっている。嫌がる朝鮮人を無理やりに強制連行した吉田さんにとって、筑豊に残された深い傷跡には心をえぐられたようだ。「私ほど罪深い人間はいません」と、徳香追慕の碑に手を合わせた。
Русскийロシア語→徴用(強制連行)Корейцы мобилизована японская колониальная эпоха (проблема пыль Changyang Японии и внутренняя подчиненность тем сильнее), то вторая мировая война в Корее под управлением Японией в Японии является Корейским рабочего сентябрем 1944 из Трудовая мобилизация. Когда корейцы были «японцами корейского происхождения» и имели японское гражданство, велись споры о том, чтобы выразить мобилизацию (мобилизацию труда) и вербовку корейцев во время войны как «насильственный захват». 


Nederlandsオランダ語⇒Een troostmeisje (Japans: 慰安婦 ian-fu) was een vrouw die voor en tijdens de Tweede Wereldoorlog door particulieren en de Japanse officiële instanties ter beschikking werd gesteld aan de Japanse militairen. Officieel luidt het dat deze meisjes en vrouwen zich vrijwillig aandienden om troost te bieden aan militairen. In werkelijkheid waren deze vrouwen seksslavinnen die tegen hun wil werden vastgehouden en gedwongen werden zich te laten misbruiken en was het een vorm van oorlogsverkrachting.
Italianoイタリア語⇒Le donne di conforto erano donne e ragazze costrette a far parte di gruppi di schiave prostitute creati dall'Impero del Giappone. La locuzione italiana, al pari di quella inglese comfort women, è una traduzione del termine giapponese ianfu (慰安婦). Ianfu è un eufemismo che sta per shōfu (娼婦) che significa "prostituta/e". I documenti relativi alla Corea del Sud affermano che non fosse una forza volontaria e dal 1989 diverse donne si sono fatte avanti, testimoniando che i soldati giapponesi le avevano rapite.

①1998.7-Neo Gomanism Declaration SPECIAL War Theory author Yoshinori Kobayashi (Author)
Are you going to war? Or do you quit Japanese? A new Japanese theory that urges the ultimate choice. What is a war and what is a nation? And what is "individual"? ②2020/01/30-Comfort woman author Yoshinori Kobayashi (Author)This is neither anti-Korean nor a human rights issue for women! The 25-year history of the manga artist Yoshinori Kobayashi's struggle, and recommendations for Japan, South Korea, and the future. All of the "comfort women" that are symbols of anti-Japan tribalism, cartoons ...
http://www.japanfocus.org/data/Uesugi_in_Japanese.pdf
①"Comfort women" problem as abduction case-The Asahi Shimbun withdrew from the "compulsory take" problem-Satoshi UesugiSecretary General of Japan War Responsibility Center②납치 사건으로 '위안부'문제- "강제 연행"문제에서 철수 한 아사히 신문 -우에스기 사토시일본의 전쟁 책임 자료 센터 사무국 장③Le problème des "femmes de réconfort" comme cas d'enlèvement-Le Asahi Shimbun s'est retiré du problème de la "prise obligatoire" -Satoshi UesugiSecrétaire général du Japan War Responsibility Center④“慰安妇”问题被绑架案-《朝日新闻》退出了“强制服用”问题-上杉聰日本战争责任中心秘书长
上杉 聰(うえすぎ さとし、1947年 - )は、日本の評論家、部落史研究家、関西大学講師、日本の戦争責任資料センター事務局長。朝鮮人強制連行に関する強制動員真相究明ネットワーク共同代表Satoshi Uesugi (Uesugi Satoshi, 1947-), le secrétaire en chef des femmes de réconfort , est un critique japonais, un chercheur en histoire du village, un conférencier à l'Université du Kansai et le secrétaire général du Japan War Responsibility Data Center.Co-représentant du réseau de recherche de la vérité sur la mobilisation forcée concernant l'entraînement forcé des Coréens.

①Neo-Gomanismus-Erklärung SPEZIELLE Kriegstheorie Autor Yoshinori Kobayashi (Autor)
Ziehst du in den Krieg? Oder hörst du mit Japanisch auf? Eine neue japanische Theorie, die die ultimative Wahl fordert. Was ist ein Krieg und was ist eine Nation? Und was ist „individuell“? ②Frau trösten Autor Yoshinori Kobayashi (Autor)Das ist weder antikoreanisch noch ein Menschenrechtsthema für Frauen! Die 25-jährige Geschichte des Kampfes des Manga-Künstlers Yoshinori Kobayashi und Empfehlungen für Japan, Südkorea und die Zukunft. All die "Trostfrauen", die Symbole des Anti-Japan-Tribalismus sind, Cartoons ...
<Femme de confort>La question des femmes de réconfort qui continue de couver entre le Japon et la Corée du Sud. Combien de temps les Japonais doivent-ils être influencés par ce problème qui a été créé en premier lieu ? Que font les Japonais quand ils sont anti-japonais ? Ce n'est plus un cas de mélancolie. Vous pouvez clairement voir "l'histoire des mensonges" qui s'est propagée non seulement en Corée mais aussi au Japon, qui apparaît comme un fantôme, peu importe le nombre de fois où elle est réglée.
主張=小林よしのり著『ゴーマニズム宣言』において自らの日本の慰安婦についての主張を批判された事を受けての反論として『脱ゴーマニズム宣言』を著した。その中で小林の記述に事実誤認が多く、詐術的論法を多用していると批判したAffirmation = La «Déclaration de Gomanisme» de Kobayashi Yoshinori a critiqué son affirmation sur les femmes de réconfort au Japon et a écrit «Déclaration de Dégomanisme» comme contre-argument. Parmi eux, la description de Kobayashi a souvent été mal comprise et critiquée pour avoir beaucoup utilisé un raisonnement frauduleux.
自慰史観=上杉は、1999年に発表された「小林よしのり『戦争論』を考える」というエッセイにおいて、(小林よしのりの戦争論について)「この考えを「自慰史観」とでも銘打って大いに茶化したい。だが、こうした傾向は何も彼だけの特性ではないことに注意すべきだろう」と書いているHistoire de la masturbation = Uesugi, dans son essai "Thinking about Yoshinori Kobayashi's" War Theory "" publié en 1999 (à propos de Yoshinori Kobayashi's War Theory), "J'aimerais appeler cette idée" Masturbation History View "dans une large mesure. Mais il convient de noter que ces tendances ne lui sont pas propres. »

①2002.6-Declaration of De-Gomanism Yoshinori Kobayashi's "Comfort Women" Problem New Revised Edition
author Satoshi Uesugi (Author)Does the "New Gomanism Declaration" really have the content that readers can believe in? Historical researchers are in direct opposition to the "New Gomanism Declaration."②Déclaration du problème des "femmes de réconfort" de Yoshinori Kobayashi sur le dégomanisme Nouvelle édition révisée auteur Satoshi Uesugi (Auteur)La "Déclaration du Nouveau Gomanisme" a-t-elle vraiment le contenu auquel les lecteurs peuvent croire ? Les chercheurs historiques s'opposent directement à la "Déclaration du Nouveau Gomanisme".

우에스기 사토시 上杉 聰(우에스기 사토시, 1947 년 -)는 일본 의 평론가 부락 역사 연구가, 칸사이 대학 강사, 일본의 전쟁 책임 자료 센터 사무 총장. 조선인 강제 연행 에 대한 강제 동원 진상 규명 네트워크 공동 대표.
3、趙金順さんの里帰り
―北九州市小倉北区田町に住む趙金順さんが、韓国の故郷に里帰りする話を聞いて、1986年(昭61)11月、私は一足先にソウルへ向った。
「死ねる時はやっぱり故郷よね。こっちで心から幸せち思うたことないし、心は淋しいなあ。男の子4人を育てても心は韓国に飛んでから、うちの子が1人でも故郷におったら、うちはずっと向こうに住むよ」
―趙さんは会うたびに韓国の故郷を懐かしむので、1度は訪ねたいと思っていた。全羅北道任実郡只沙面は豊かな農村である。稲刈りの後の田園は麦播きの準備で、耕運機がコマネズミのように走り回っていた。趙さんがいつも話している農村風景が広がり、部落の中心に特別目立つ立派な門構えの家があった。そこは趙さんの亡き夫崔春鎬さんの先祖崔畑村師を祀る書院で、李朝から供物を持って参拝したと彼女は誇りにしている。その夜は趙さんと一緒に、姉の趙順禮さんの家に泊めてもらった。面長(村長)をしていた親戚の崔斗鎬さんもやってきて、夜を明かして語り続けた。故郷へ帰りたがる気持が、私には手に取るように分かった。翌朝、先祖の法事があるから行かないかと誘われた。11月ともなると韓国は法事の時期で、いたるところで親戚の者が土まんじゅうの墓の前に集まった。日本でいえば春秋のお彼岸であろうか。長老の1人がチョッポ(系譜)を持って、崔家の家柄を若い者に説明した。趙さんは見晴らしの良い高台で、夫が強制連行される前の、暮らし向きは苦しかったが楽しい農作業のことを目を細めて私に語ってくれた。結婚するとすぐ夫は北朝鮮のダム工事の出稼ぎに行き、盆と正月だけ家に帰っていた。

―趙さんたち親子3人の平和な家庭が崩れたのは、1940年年(昭15)日産化学工業から坑夫募集にきてからだった。
「徴用がきたからお前行けちいうけ、もう判掠した。24ヶ月だけ辛抱しなさい。きっと帰ってくる」。ある日、夫が家に帰ってくるなり、3日後に日本の炭鉱に行かなくてはならないといった。近所の30歳になる親戚の男が、妻子3人を残して満州(中国東北部)の軍事施設の工場から徴用された。僅か1回送金があっただけで、2ヵ月後に工事現場で転落死した。そのみじめな遺族の姿をみるにつけ、他人ごとではないと思った。農作業や牛馬の世話をしながら、子育てをすることは女にとっては負担になる。もう1つ心配なのは、生理が止まって3ヶ月になることだった。そのことを夫に話すと、残した家族のことを心配して事故を起こすかもしれない。もし夫が炭鉱事故で死んだら、2人の子供を抱えて生活ができるだろうか、と真剣に考え始めた。
「うちの父ちゃんが徴用された12月3日ちいう日を死んでも忘れんけ。いま考えたら戦争しに行くやろ、それと同じやったよ。炭鉱ち朝入ったら、夜はボタ被って死んで帰るち。おう生きては帰れんち。そんな気持でうちはやっぱり苦しかった。誰にも話したことはないけど、これだけはうちの胸の中よ」といって顔を曇らせた。
―夫の出発後、趙さんは妊娠3ヶ月のお腹の子を誰にも相談せずに堕ろそうと決めた。
「あの黒い森の横に、1つだけ枝の張った大きな木があるやろ、あれがテアランナムよ。あの根っこを煎じて飲んだら独りでに子供が堕りるち。昔からそういわれよった」
と私にいうと、背伸びして東の小高い丘を指差した。貧しい朝鮮の農民たちは、テアランナムを掘っては生れる前にわが子をまびいてきたのだという。
「真夜中の闇ちいうもんは、人の心を決めさせるんよ」
煎じ薬は一時の激痛をともなっただけで、後は海の潮が引くように治まった。趙さんはそれから数ヶ月、罪の意識にさいなまれて夜も眠れなかったという。翌年6月次男の浩俊さんを生んだ。

4、41年ぶりの再会
―戦後41年ぶりに、はじめて母国の土を踏むことになった在韓日本人妻12人の中に、福岡県山田市出身の中村フジエさんがいた。中村さんは敗戦直後、2人の子供を残して韓国人の宋元周さんを頼って嫁ぎ、それ以来音信が絶えた。親子は韓国と日本に離れ離れに暮らした。田川郡金田町に住む娘の木戸可根美さんが母の帰国を知ったのは、ソウル出発4日前だった。可根美さんが自宅で新聞を読んでいたところ、里帰りする婦人たちの中に母親に似た写真を見てピンときた。名前も旧姓のまま、最後に別れた母親の面影と同じだった。すぐ新聞社に問い合わせた。1986年(昭61)11月6日夜、中村さんは福岡空港ロビーで待つ可根美さんの前に姿を現すと、2人は駆け寄って抱き合った。
「親を捨てる子はあっても、子を捨てる親なんかいません。私が悪かった。可根美こらえてちょうだい。帰りたくても帰れなかった・・・」と、とぎれとぎれにいった。「うれしいです。本当になんといっていいかわからないくらい」。別離の歳月を越えてやっと2人は再会した。
―中村さんは日本で6日間過ごし、両親と長男の久仁保さんの墓参りをすませると帰国した。数日後、私は全羅北道淳昌邑に中村さんを訪ねた。光州市から車で約1時間、6畳ほどの店には、小さなテーブルが2つあるだけ。七輪に網をかけて肉を焼くので、店内は煙でむせかえった。近くの人たちが仕事着のままやってきて、どんぶり一杯のマッカリーをぐいとあおって出て行った。
「あんた本当に来たんやね。息子の家に行って話そう。ここじゃ誰もうちが日本人ち知らんからね」
と、店の近くに住む長男の淳龍さんの家に私を案内した。そこへ夫の宋さんもやってきた。中村さんは山田市内の同じ炭鉱に働いていた測量技師と結婚した。加根美さんたち2男1女をもうけたが主人が応召してすぐ戦死した。その後、百々谷炭鉱の安全灯室に勤めて子供を育てた。そこで炭鉱の朝鮮人寮の協和訓練所にいた宋さんと知り合った。宋さんは1942年(昭17)12月、日本語を話せることから淳昌郡の隊長として、96人を引率して百々谷炭鉱へやってきた。
―敗戦直後、宋さんは全員を引率して引き揚げた。中村さんは妊娠していたこともあり、宋さんの後を追って、末っ子の則久さん1人を連れて海峡を渡った。残してきた子供のこともあり、2人は日本に戻って生活することを決めたが、食べるのがやっとで旅費どころではなかった。そのころ同じように韓国人と結婚した2人の日本人妻は、1年しないうちに離婚して帰国した。
「主人がよかったからいままで辛抱できた。日本人が誰もいなくなって、はじめて韓国で生きる覚悟が決った」と、永住した動機を私に語るのだった。

―言葉も文字もわからず、風俗習慣や食べ物も違う異国の地で生きることは、並大抵の苦労ではなかったであろう。戦後、植民地支配の反動から反日感情が強く、日本人だというだけで激しく排撃された。中村さんは言葉を憶えるまで、いっさい啞で押し通した。少し話せるようになると、果物の露店商を始めた。相手が強引に値切ろうとするが、中村さんはそうはさせまいと頑張り、つい日本語で怒り出すこともあった。しかし、日本に残した2人の子供を思うと身を切られるように悲しく、妹宛に何度も手紙を書いて出した。朝鮮動乱で淳昌は戦場となり、家族は森の中に蛸壺を掘って身を隠した。両軍の戦闘で市民の多くが犠牲になり、砲撃のために町は全壊してしまった。
―そうした苦難の中で、3男3女を育て上げた。4歳で韓国へ連れ子としてきた則久さんは、言葉が通じないことから友達に虐められ、それが原因でいじけてしまった。異兄弟の中で暮らすことを嫌って家を出て、ソウルの夜間中学に入学した。韓国社会での差別と身の不遇を嘆き、アルコール中毒になって37歳の若さで自らの命を絶った。則久さんの死後、その責任は自分にあると思い込んで、宋さんは酒に溺れて体を壊してしまった。共同墓地に眠る則久さんの墓が日本に向けてあるのは、宋さんの心尽しであろうか。


5、三夕の島・三無の島
―福岡県遠賀水巻町吉田に住む金昌淳さんは、故郷を離れて以来47年になる。私が韓国へ行くことを知らせると、済州島へ寄って故郷の様子を見てきてくれないかと頼まれた。「わしの故郷はどうなっているのか。生まれ故郷やから一度は帰ってみたい。けど親もおらんし兄弟もおらんもんな。体もパンクして帰れんよ。帰りたい時は、いつも金ないもんな」と、金さんは弱々しくいって親指と人差し指を丸めてみせた。土方作業がたたって肝臓障害で入退院の繰り返し、年老いて病弱であれば一層故郷が懐しまれるのも人情であろう。私が帰国するまでに金さんの健康がもつだろうかと、一抹の不安を残しながら韓国へ出発した。
―金さんは1918(大7)年、済州島旧左面の海岸近くで生まれた。父親は北朝鮮の鉄道工事に行き、日本人監督から叩かれて内臓破裂で死亡した。4歳だった金さんは、父親の面影は全然記憶にないという。ただ毎日泣き狂う母親の姿だけが、強烈な印象として残っている。母親の話では、現場監督に反抗した方が悪いといわれ、遺骨だけ郵送されて補償金はもらわず泣き寝入りとなった。父親の死後、収入の道はなく、上の兄は栄養失調で死亡した。金さんが7歳になると、母親は隣の面に再婚したので、天涯孤独の身となって親戚に引き取られた。成長して漁師になると、17歳の時に同じ面の娘と結婚するが、金さんが長い漁から帰ると彼女は実家に帰って、いなかった。
-1942(昭17)年12月のこと、北朝鮮の漁場から半年ぶりに済州島に帰ると、待ち構えたように面事務所の募集係と面巡査がやってきた。「お前は徴用で日本の炭鉱に行くことに決まった。4日後には出発するから逃げるな」と、2人は念を押して帰った。再婚した母親のところへ最後の挨拶に行くと、「お前の父さんは北朝鮮の飯場で殺されて、またお前は日本人のところへ行くのか」と怒り出した。「母さん、2年満期で帰るから、こんどは親孝行する」と、母親を慰めた。網元をしていた叔父は、漁船を出すから北朝鮮の漁場へ戻れと金さんに奨めた。どこへ逃げても徴用は逃げられないと、叔父の申し出を断わった。金さんは済州島から強制連行される100人とともに、関釜連絡線で下関に着いた。強制連行されたところは、日産化学工業遠賀鉱業所高松炭鉱第1坑第3協和訓練所であった。

―済州島の中央にでんと腰をすえた漢拏山(1950メートル)は、火山島特有の山裾が扇状に広がっている。風光明娼で一見してのどかに見える済州島は、生活のすべてが自然との闘いに費やされてきた。済州島の“三夕”といえば、石・女・風の3つ、火山の熔岩が流れてできた島なので、石ころばかりで耕地面積が少ない。畑の周囲には、小さい石を1メートルも積み重ね、それが城壁のようになっている。だから稲作には不適で、もっぱら麦と栗が主食となり、島民は昔から米の飯など1年中口にすることはなかった。周囲が海に面しているので特別に風が強く、家は泥壁で頑丈に塗り固められている。屋根瓦は風で吹き飛ぶのっで、屋根はワラの束を重ねしっかりとゆわえつけてある。耕地面積が狭いので農業の依存度は低く、どうしても漁業が中心になる。男たちは出稼ぎに頼らざるを得なくなり、女たちが留守を守りながら、海女をして生計を立てている。
ー1910年(明43)韓国併合以来、日本と済州島の交通路として大阪航路があったので、関西との往来は昔から盛んである。植民地統治の間に済州島の人口は約半数が大阪を中心に移り住んでいることは、そうした歴史的な背景があるからであろう。
「ここは三多の外に三無もあるんだ」
―旧左面で金さんの写真を持って知った人をたずね歩いているとき、宋京翼さんが私に教えてくれた。1つは泥棒がいないこと。2つには乞食がいない。3つにはどの家にも門がないことを強調した。そういわれてみると、どの家にも門らしきものがなくて開放的だ。済州島は天国のように見えるが、実は男が強制連行された後に、残された女たちが女子挺身隊として徴用された悲劇の島でもあった。


사할린주(러시아어: Сахали́нская о́бласть, 문화어: 싸할린 주)는 사할린 섬과 쿠릴 열도를 관할하는 러시아의 주로, 면적은 87,100km2이며 인구는 546,695명(2002년 인구 조사 기준)이다. 주도는 유즈노사할린스크이다.
6、サハリンー第2の別離
ー韓国に行けば農村を回ることが多いが、どこへ行っても、強制連行された家族の消息がいまだに分からないから探してくれといって訪ねてくる。1986年(昭61)の秋、大邱の中蘇離散家族会(李斗勲会長)をたずねた時、夫をサハリンへ強制連行された3人の婦人たちに会った。その中の1人具伊順さんの夫は、1942年の真夜中、寝ているところを巡査に叩き起こされ、トラックで何処ともなく連れ去られた。しばらくしてきた手紙には、サハリンの内淵炭鉱で働いていると書いてあった。4歳の子供を抱えて具さんは、部落内の親戚の家を転々として農作業を手伝いながら生活した。
―解放後、夫からの手紙がぱったり途絶えたが、朝鮮動乱前にきた手紙で生きていることだけは分かった。「夫が生きているのか死んでいるのか、40数年待つ身になってもみなさい」と、叩きつけるように叫んだ。それから慶州の金東蓮さんを訪ねた。彼女は新婚6日目に夫が強制連行された。韓国では新婚1年目は、夫が妻のもとへ通う習慣があり、夫婦で暮らしたのは僅かに3日間である。そこへ金さんのところへ、夫の実家から連絡があって、サハリンへ連行されたことを知った。金さんのところでは、自分のお父さん、そして嫁ぎ先のお父さんと夫、夫の兄弟2人、合わせて5人が強制連行されたのである。姑を養うために行商を続け、ひたすら夫の帰りを待ち続けた。強制連行されてから40年近くたって、夫の李世雨さんから手紙が届いた。返事を出すと、続いてきた手紙で、再婚して6人の子供があることを知った。戦争、そして戦後を通じて夫なき後の家庭を女手ひとつで守り、生き抜いてきたのは一体誰のためだったのか。
ー夫に裏切られた悲しさと、それから先の人生を考えると絶望的になった。韓国では儒教の教えが深く根を降ろして、たとえ夫が行方不明だからといって再婚することはない。嫁いだ以上はあくまでその家の嫁であって、親を捨てて家を出ることは考えられない社会である。現在、韓国では夫の帰りを待つ妻たちは約500人。老齢化と押し寄せる生活苦のために路頭に迷っている。「夫の徴用によって、私の人生はがたがたになってしまった。もう青春は戻らない」。家族を引き裂き、妻たちの生涯を台なしにした日本に対する恨みを見る思いだった。1990年(平2)1月5日、新潟空港でハバロフスク行きの時間待ちをしていると、ソウルから毎週金曜日に到着する大韓航空機から、持ち切れないほどの荷物を両手に下げた客が降りてきた。その人たちの殆どは、ソ連から韓国への一時帰国者である。その1人慶尚北道金泉郡へ里帰りした、金斗植さんの顔色はさえない。ハバロフスクで3日間滞在してサハリンに着くと、金さんは2日前に亡くなっていた。もともと肝臓が悪いところに旅の疲れが重なったということだが、長年の夢であった帰国が実現して、その翌日に亡くなろうとは、本人も家族も想像もしていなかったに違いない。
ーそれまでにサハリンの1世たちが早死にをするのは、日本に置き去りにされたことが原因であった。1976年(昭51)、日本への入国許可が59所帯におりていたが、ミグ25戦闘機が国境を越えて函館空港に強行着陸して亡命を申し出てから、ソ連側は出国の門を閉ざしてしまった。激しい戦時中の強制労働の無理がたたって体を損ねている上に、最後の帰国の望みを断たれたことで精神的な打撃をうけ、それが朝鮮人をどん底に陥れた。絶望のあまりに強いウォッカをあおり、人生をはかなんで自殺する者もあった。死ぬ時は故郷で死にたい。一目だけでも残した妻子に会いたいと願うのは、世の人情というものであろう。ソ連のペレストロイカ政策の雪解けで、1世たちの永住帰国の道が開け、わずかではあるが韓国への帰国が認められた。問題なのはサハリン妻とその家族のことで、新しい別離の悲劇が生まれつつある。
ー2週間後、マイナス40度を体験した私はサハリンの空港へ行くと、偶然なことに2人の韓国人永住帰国者と一緒になった。白東基さんのサハリン妻は数年前に亡くなり、韓国で待つ妻子のもとへ帰るといって、5人の子供が見送りにきていた。もう1人の李徳相さんは、サハリン妻とその連れ6人が同じように見送りにきていた。夫が去って行くのを見送るサハリン妻は、一種のあきらめにもにた表情をしていたが、別離の淋しさはたとえようもないであろう。これは決して去って行った永住帰国者の責任ではない。1ヶ月後、帰国した2人が、故郷でどんな生活をしているか、慶尚北道に訪ねて行った。
ー白さんは大邱市内の娘さんのアパートで暮らしていたが、帰国の疲労から病床にあった。李さんは漆谷郡の農村に妻と2人ですんでいた。耕す田畑もなく、これからどうして生活するか思い悩んでいた。今後の生活の保障をしてくれるよう日本政府に頼んでくれと最後まで訴えた。サハリンにおれば年金生活者として一生の保障はあるが、現在の韓国ではそういう制度はない。故郷で死にたい思いが強い彼らは、ただ帰国したいばかりで将来の暮らしのことは考えない。
―韓国に帰ってみれば現実はきびしく、もう1度サハリンへ帰れないかと訴える者もいる。たとえ親子の関係であっても、親の生活を見られるほど裕福な家庭はそうざらにはない。海峡をへだてて1世たちの帰国の夢は実現したが、ソ連と韓国の両国で新しい社会問題となっている。一時帰国者を含めて、遅ればせながら日本政府がこの問題に対してどう取り組むか、いまこそその対応が迫られているのである。


①「欧米や中国や韓国などと違って、市民革命の実績がない大後進国・日本Unlike Europe, the United States, China, and South Korea, Japan is a major underdeveloped country with no track record of civil revolution(本多勝一Katsuichi Honda1992年7月19日)」ニセモノを祭り上げるマスコミ産業Media industry that celebrates fake things「いちばんの問題は、石原慎太郎もそうだけど、これら当人にあるのではないと思うんですよThe biggest problem is Shintaro Ishihara too, but I don't think it's the person in questionこんな連中はほかにもいくらでもいるわけで、問題はこんな生物どもを持ち上げるマスコミの方にあるThere are many other people like this, so the problem lies in the media that lifts these creaturesテレビでも何でも、彼らにあんなに場を与えなかったら、あんなインチキは出ようがないでしょうIf they didn't give them such a place, whether it's the TV or whatever, there wouldn't be such a fake他方On the other hand、かれらを批判するわれわれには場を与えないいまのマスコミthe current media that doesn't give us a place to criticize them (本多勝一Katsuichi Honda2002年10月22日)」③「『よく考えThinking carefully』ることは、日本で”主流”を占める「国民の皆さん」はもうできまいcan no longer be done by the“ people ”who occupy the“ mainstream ”in Japan再びなんらかの「8月15日」的なものにぶつかるまで止まらぬだろうIt won't stop until it hits something like "August 15" again(本多勝一Katsuichi Honda2005年9月16日)」




【2000.5】Datsu gōmanizumu sengen/war theory After a trial with Yoshinori Kobayashi author Satoshi Uesugi (ed.)Yoshinori Kobayashi's "War Theory" has spread misunderstandings and misinterpretings about history to people through the unique effects of manga. The authors who confronted Yoshinori Kobayashi in the "Declaration of De-Gomanism" trial again solved the history ...

①「日本人ほど過去のことを忘れやすい民族は、世界に類がないと思うI don't think there is a race in the world that is as easy to forget about the past as the Japanese自国にとって都合が悪いことは、故意に消そうとしているのが現状であるThe current situation is that they are deliberately trying to eliminate things that are inconvenient for their own country歴史の教訓に学ばない民族は、結局自ら滅亡の道を歩むしかないだろうDo not learn from the lessons of history. The people will have no choice but to go on their own path of destruction(故林えいだい氏the late Eidai Hayashi1990年8月7日)」②Mar 30, 2012 —日本の朝鮮植民地支配と植民地的近代Japanese colonial rule and colonial modernity「日本の植民地支配によって韓国は近代化できたKorea could be modernized by Japanese colonial rule」「欧米の植民地支配に較べればずっとよかったmuch better than Western colonial rule」という言説は未だに消えないsuch discourses still remain日本の植民地支配は、はたして朝鮮半島を近代化したのかDid Japanese colonial rule really modernize the Korean Peninsula? What kind of modernity did you bring?さらにはいかなる近代を持ち込んだのかWhat kind of modernity did you bring?多角的、実証的に検証する論文集A collection of treatises for multifaceted and empirical verification(明石書店Akashi-shoten)③Dec 7, 2021 —「韓国を植民地支配したことの重さThe weight of colonizing South Korea日本はまだ十分理解していないJapan does not yet fully understand(内田雅敏Masatoshi Uchida弁護士Lawyer)」

The "Gomanism Declaration" has led and continued to move not only the world of thought and speech, but also Japanese society. The last decade of the 20th century is truly a “go-sen”

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