日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Canadian National Exhibition 2018 +Ma fille est ici maintenant From Brooklyn NY +Pesimismul se definește ca atitudinea +Encore=☆拳闘☆こそ我命(笑)

17  AUGUST 10:00 - 23:59Canadian National Exhibition210 Princes' Blvd # 210 Princes' Boulevard, Toronto, Ontario M6K 3C3 The official ceremony that will launch the 140th year of the Canadian National Exhibition takes place in front of the historic Princes’ Gates on Friday, August 17, 2018 at 10 AM. 
ブルックリン区(Borough of Brooklyn)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市に置かれた行政上の5つの区の一つ。ニューヨーク州のキングス郡(Kings County)の郡域もブルックリン区と同じである。ロングアイランド最西部に位置しイースト川、ニューヨーク港、大西洋に囲まれクイーンズ区と接する。名称は、オランダ人入植者が母国の地名を取り同地にブルーケレン(Breuckelen)という小さな町を築いたことに由来する。キングス郡はイギリス王のチャールズ2世にちなんでつけられた郡名。ちなみに、隣のクイーンズはこのチャールズ2世の后のキャサリン王后にちなんでつけられたフランス語→Brooklyn est l'un des cinq arrondissements (en anglais : borough) de la ville de New York (les quatre autres étant Manhattan, Queens, le Bronx et Staten Island). Il coïncide avec le comté de Kings (Kings County), découpage administratif de l’État de New York, mais ce dernier ne fonctionne pas comme un comté à proprement parler, car il n'a aucun pouvoir et dépend entièrement de l'autorité municipale. Avec une population de plus de 2 636 735 habitants en 20151, c'est l'arrondissement le plus peuplé de la ville de New York
.Hello Maintenance Team, Hope everyone had a great week so far. I just wanted to touch base with you all before I leave for my holiday.  I had done my walk-through of the club today and I have to say that you all have done a wonderful job since my last walk-through earlier in the month.  Please keep up the great effort and try not to falter from doing your tasks.  A great job consists of a great team.  Please continue to communicate with your fellow team to ensure that the job gets done on time.  If you have any concerns, please speak with Sammy to get his support.  I will not be able to receive any messages or calls while I am away, so please do your best to take care of one another and ensure that our club is at it's best.  Please know that there are members and staff who appreciate all your hard work.  It's too bad most of them aren't able to document these positive feedback.  I assure you, although there are a few who may think otherwise, know that you all have our support as long as you do your job to your best of your abilities.  Give yourselves a pat on the back because you all deserve it.  :)
2018年8月17日(金)Vendredi(Friday) みなさん、こんにちは☆ また1週間終り、「週末ノットイエット」明日(土曜=安息日)明後日(暗い日曜日?)休みです。↑はテレビで、かつて「治療師」として参加していた。何度か語った例の「イベント」が始まったのをニュースで知った。あとは、娘がトロントに帰って来て明日。会います。もうひとつは、これから2週間休暇に入る職場のマネージャー女史から。嬉しい知らせをメールで受けたのを紹介。・・・ながらホンマ、私は心底「悲観」「否定」面に覆われた人格(本性)なのを再び実感(苦笑)。これまた幾度も語った「悪い面」にばかり注目してしまい。しかも「悪い方向」にばっかり考えが爆走する帰来は相変わらず。たとえばむかし大学時代も仮に「A-」(80%)をとったとする。さらに「8割」肯定面の評価を受けた。しかし「2割」の訓戒や批評に傾いてしまう・・・とりわけ「自身」に関する面(いつでも、ちっとも変わらない)。今回もいっしょ(「9割」よくても「1割」に目が向いてしまう(涙)。Self-Confidence=自信・・・いつも先生や友人たちに指摘されること=いつも欠落していて、なかなか持てない(涙)これらも幼少より積み重なったもの。「克服」は容易ではないんでしょう。
悲观主义是一种哲学思想。有幾種意義:相信事情只會越來越糟糕,每況愈下。不管我們所見為何,其實事件的本質是醜陋的、邪惡的。認為人性是自私的、世界是醜惡的等等。值得注意的是,悲觀主義未必會和積極的態度起衝突悲観主義(ひかんしゅぎ)とは、ペシミズム(pessimism)の訳語の一つ。厭世観(えんせいかん)とも言う語源はラテン語で最悪のものを意味する pessimum に由来する+ルーマニア語⇒Pesimismul se definește ca atitudinea omului care privește cu neîncredere viața și pe semenii săi și care consideră că toate situațiile au un deznodământ fatal.[1] こればっかりはどう克服しようにも、厄介な内情(苦笑)negativeness. , negativity. 1 contradiction, contradictoriness, contrariness, denial, dissent, opposition, recusancy, refusal, rejection, resistance. 2 antagonism, colourlessness, contrariness, cynicism, gloom, neutrality, pessimism, uncooperativeness, uninterestedness, unwillingness, weakness.今日はまたすっかりなじみのやさしいおじさん(恐らくイラン系)が「きみはどこの人だ?」「日本です」というと珍しがりびっくり。「はじめて会った」そうです(笑)。この間も「きみはフィリピン人か?」「違います」「あなたは?」と聞いたら「そうだ」と笑っていた。やさしい人たちばっかり。ながら、「我正体」という関連が上がってきたのも手伝い。今日はMy NIP parents and JAP familyのことばっかり頭に浮かんできて閉口(涙)。やっぱいままでのことはどうにもならん。にせよ「永遠にさようなら」。それだけ。 そんなこんなで少しづつ追加していきますので。またよろしくお願いします☆ とりいそぎ サム 
 I met my daughter yesterday and had a lunch together .  She was really the North American girl while I had been wondering who am I?(苦笑) 昨日は娘と会いました。側のラーメン屋(あんまりうまくなかった(苦笑)で昼食。またまた一層「北米人」となっていた(「車」運転で来ていたのにびっくり=とはいえもう21歳ですので)。ニューヨークの話をたくさん聞いた(あと幼馴染の「2世」や「混血」子供たちについてなどなど(最後にみたのはずいぶん前)=いまはみんな成人)そのあと自転車では結構めんどうくさい「コンビニ」(タバコを安く売っている)に連れて行ってもらって。助かりました。「日本語」はひさしぶりに話した(案外、うまくしゃべれた気がする)。来週NYに帰るそう。さて、明日からまたがんばります☆ とりいそぎ サム 



(1)、1982年4月26日 WBA世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者故デビー・ムーア(モスクワ五輪米代表(96勝6敗)+9連勝(6KO)無敗=18勝(14KO)5敗)VS挑戦者チャーリー・ウェアー(南アフリカ=29勝(26KO)2敗=31勝(28KO)3敗)南アフリカ・ヨハネスブルグ
ームーアが合計5度のダウンを奪い圧勝。5回KO勝ちで初防衛に成功。強打のウェアーはグラスジョーと打たれ脆さを暴露。ボクシングマガジンの紹介欄で「写真ほどハンサムではない」(ホンマにいい男に見えた)と書いてあったのに笑った記憶が鮮明(苦笑)。ムーアは前回の日本に続く、敵地での一戦を難なくノックアウトで乗り切った。
Davey Moore (9 June 1959 – 3 June 1988) was an American world junior middleweight champion boxer, the second of two professional champions who shared the name in the second half of the 20th century. Each died around the age of thirty, the first Davey Moore (born 1933) as a result of punishment in a fight, the second in an accident at his home.
(2)、1982年7月17日 WBA世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者デビー・ムーア(10連勝(7KO)無敗)VS前王者アユブ・カルレ(ウガンダ(デンマークに亡命・コペンハーゲンに移住=世界選手権(74年ハバナ大会)優勝金メダル(241勝9敗)+35連勝(18KO)無敗(レナードに9回KO負け(初黒星)5度目の防衛ならず)=40勝(19KO)1敗=46勝(23KO)4敗)ニュージャージー州アトランティック・シティ
ームーアが苦戦しながらも10回TKO勝ちで2度目の防衛に成功。カルレは王座復帰ならず。前半はサウスポーのカルレが優勢だった。特に3回はボディーから顔面に返す連打を命中させ、ムーアをたじろがせる。ながら徐々に調子が上がってきたムーア。若さでカルレをストップ。カルレは日本・秋田で工藤政志から15回、大差の判定勝ちでタイトルを奪取(工藤(元アマレスリング王者)の初黒星(ラストファイト)=23連勝(12KO)4度目の防衛に失敗)その時点ですでにピークは過ぎていた)。強すぎるがゆえ(元世界王者やランカー(東洋関連では元東洋王者羽草勉(福岡県出身(北九州ジム)=15勝(6KO)15敗1分)を地元コペンハーゲンで3回TKO+同じく元東洋王者朱虎(韓国+11勝(5KO)3敗1分=工藤に挑戦し判定負け(初黒星→11連勝中)&羽草と12回引き分け))をデンマークに迎え、2回KO勝ち)をたて続けに連破)警戒され、挑戦を敬遠された「無冠の帝王」時代に峠を越えてしまったよう。
デンマーク語⇒Ayub Kalule (født 6. januar 1954 i Kampala, Uganda) er en tidligere bokser og nuværende boksetræner, der i sin professionelle karriere som bokser havde base i Danmark. Som amatør blev han i 1974 verdensmester i letweltervægt og som professionel vandt han i 1979 WBA-verdensmesterskabet i letmellemvægt.



(1)、1980年8月2日 WBA世界J・ウェルター級タイトルマッチ 王者アントニオ・セルバンテス(コロンビア=87勝(40KO)10敗3分=通産16度防衛=91勝(42KO)12敗3分)VS挑戦者故アーロン・プライヤー(アマ204勝16敗(モントリオール五輪国内予選決勝でハワード・デービス(金メダル)に負けた)+24連勝(22KO)無敗=39勝(35KO)1敗+享年61歳)オハイオ州シンシナティ
ー地元の英雄プライヤーが4回KO勝ちで王座強奪。新旧交代劇。セルバンテスは老いたり。「シンシナティの荒鷹」の異名を持つ新鋭プライヤーの時代が始まった。
スペイン語⇒Aaron Pryor (Cincinnati, 20 de octubre de 1955 — 9 de octubre de 2016) fue un boxeador profesional estadounidense que llegó a consagrarse campeón mundial de los pesos superligeros y ser considerado campeón lineal de 1983 a 1986.1
(2)、1982年11月12日  WBA世界J・ウェルター級タイトルマッチ 王者アーロン・プライヤー(31連勝(29KO)無敗)VS挑戦者WBC世界ライト級王者故アレクシス・アルゲリョ(ニカラグア(72勝(58KO)5敗=77勝(62KO)8敗+79年(革命勃発(全財産没収)、サンディニスタ社会主義政権誕生(旧アルゲリョ邸は迎賓館に使われていた+注)。アメリカに亡命、マイアミ在住+2009年、自殺(冷戦終了後、祖国へ帰国。議員だった=享年57歳))フロリダ州マイアミ オレンジボールスタジアム
ープライヤーが14回TKOでアルゲリョを破る。4階級制覇ならず。アルゲリョ(3度来日)は動きがぎくしゃくしていて。スピードがなかった。プライヤーは中盤から足を使い旋回。ジャブを突いてアウトボクシングに徹する。ながら11回にアルゲリョは右ストレートを何発も命中させ。チャンスをつかむ。連打(絶対左右ボディーブローが組み込まれている)をまとめ、もう一歩まで追い込んだ。13回、再びアルゲリョの豪快な右ストレートが炸裂したが後続打がなく。ノックアウトには至らず。14回、滅多打ちにされストップ負け。↓のように議論と疑惑を呼んだ試合。
ドイツ語→Alexis Argüello Bohórquez (* 19. April 1952 in Managua, Nicaragua; † 1. Juli 2009[1] ebenda) war ein Weltmeister im Boxen und später nicaraguanischer Politikerブラックボトル事件 1982年11月12日、フロリダ州のオレンジボウルでアレクシス・アルゲリョ(ニカラグア)と対戦し、試合前半はいつも通りのインファイトを挑んだが後半は普段はあまり見せないアウトボクシングに徹し、14回にスタミナが切れてきたアルゲリョに連打を叩き込み失神させ14回TKO勝利を収め、プライヤーは160万ドル、アルゲリョは150万ドルのファイトマネーを稼いだ。しかし、プライヤーのトレーナーのパナマ・ルイスが試合中に取っていた行動が試合後大きな論争を巻き起こすことになる。13回までプライヤーの劣勢で試合が進みジャッジのスコアカードでも2者がプライヤーの負けと採点していた。ここからプライヤーは14回に逆転TKO勝利を収めるが、13回終了後のインターバル中にパナマ・ルイスが「そのボトルじゃない、俺が混ぜたボトルを寄こせ」とアシスタントセコンドのアーティー・カーリーに指示を出し黒いボトルを受け取っていた場面を試合を中継したテレビカメラに捉えられていた。この言動からパナマ・ルイスが精神刺激薬を混ぜた水をプライヤーに与えたのではないかと疑惑が浮上し、大きな論争が巻き起こった。ルイスとプライヤーは不正行為を行ったことを否定し、カーリーはペパーミントシュナップス(蒸留酒)を混ぜた水を使ったのだと語ったが疑惑が晴れることはなかった。なお、2009年に製作されたドキュメンタリー番組の中で、パナマ・ルイスがトレーナーだったボクサーのルイス・レストが、パナマ・ルイスは抗ヒスタミン薬を砕いて混ぜた水をスタミナを強化するために選手に使っていたと証言している。
(4)、1983年9月9日 WBA世界J・ウェルター級タイトルマッチ 王者アーロン・プライヤー(33連勝(31KO)無敗)VS挑戦者元3階級王者アレクシス・アルゲリョ(74勝(60KO)6敗)ネバタ州ラスベガス・シーザーズパレス
ー再戦(アルゲリョのリング入りはよく見返すひとつです)。初顔合わせ同様、初回から乱戦模様、激しい打ち合いとなる。アルゲリョ(必勝を決し「最後の血の一滴まで戦う」と宣言)は前回より調子がよかった(とはいえ、プライヤーの波状攻撃は一層凄みを増した感がある)。たびたび右のカウンターを命中させるがプライヤーの右を受けダウン(前戦のダメージが残っていたのかもしれない)。しかし3回はロープに詰め、右ストレートを繰り返し当てダウン寸前に追い込む(例によってボディーブローも強烈だった)。ながらプライヤーは4回にダウンを追加。こうなってくるとアルゲリョの衰えは顕著で、だんだん劣勢になり。10回連打を浴びダウンしたアルゲリョはそのままテンカウントを聞いた。プライヤーは8連続KO防衛を達成、全盛期だった。
(注)サンディニスタ革命(サンディニスタかくめい)は、ニカラグアの革命運動。ニカラグア革命ともいう。サンディニスタとは、正式名称サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)で、アメリカ海兵隊相手に戦い、1934年にアナスタシオ・ソモサ・ガルシアに暗殺された革命家アウグスト・セサル・サンディーノ(A.C.Sandino)にちなむ名称。この運動はキューバ革命の影響を受けており、1961年にカルロス・フォンセカ(1976年に暗殺)の指導のもとに、独裁的支配を続けてきたソモサ王朝体制に反対して起こった。ホンジュラス国境地帯のジャングルや山岳地でのゲリラ活動を主としていたエスペラント語⇒Nikaragva Revolucio estis la proceso kiu okazis en Nikaragvo inter julio 1979 ĝis februaro 1990, farita de FSLN (Sandinista Fronto de Nacia Liberiĝo) kiu finis la diktatorecan periodon de la familio Somoza puĉante al Anastasio Somoza Debayle
.サンディニスタ民族解放戦線(サンディニスタみんぞくかいほうせんせん、西: Frente Sandinista de Liberación
Nacional、FSLN)は、ニカラグアで発生した左翼政治運動、後に政党となった+インターリングア語⇒Le Fronte Sandinista de Libration National (espaniol: Frente Sandinista de Liberación Nacional) es un partito politic de Nicaragua fundate super principios generalmente socialista. Illo ha ducite un revolution popular que in 1979 subverteva le dynastia politic Somoza. Post lor captura del poter, le sandinistas regeva Nicaragua durante circa 12 annos inter 1979 e 1990


(1)、1978年12月30日 WBC世界J・ウェルター級タイトルマッチ 王者故センサク・ムアンスリン(13勝(10KO)1敗(ベラスケス(スペイン)をゴング後のパンチでノックアウトし4回失格負け(再戦は2回KO勝ち=王座奪回)通算7度(5KO)防衛)=14勝(11KO)6敗+元ムエタイ(キック)王者=59勝(55KO)9敗)VS挑戦者金相賢(24勝(16KO)2敗2分=42勝(25KO)4敗3分)韓国・ソウル
ーサウスポー対決。金が13回にセンサクをストップし新王者に就く(2度目の防衛戦は日本で強打の用階政弘(19勝(13KO)5敗)を11回ノックアウト)。センサクの練習嫌い。さらに雑な調整が批判された=とはいえ年齢的な衰えもあり。全盛期は過ぎていた。センサクは国際式転向後、3戦目に戴冠。日本選手は誰も敵わなかった(キック時代は玉城良光に内臓破裂の重傷を負わせノックアウト+古山に2勝(7回TKO+15回判定勝ち)・ガッツ・石松を6回KO)。金は3度目の防衛戦において、マンビーに14回KO負けし王座転落。後にプライヤーのWBAタイトルに挑戦したが、3回TKO負け(金のラストファイト)。
ドイツ語→Saensak Muangsurin (thailändisch: แสนศักดิ์ เมืองสุรินทร์; eigentlich: Boonsong Mansri (บุญส่ง มั่นศรี); * 13. August 1950 in Phetchabun, Thailand; † 16. April 2009 in Bangkok, Thailand) ist ein ehemaliger thailändischer Boxer im Halbweltergewicht.
김상현(金相賢, Sang-Hyun Kim, 1955년 1월 18일 ~ )은 대한민국의 전 권투 선수이다. 전 세계복싱평의회(WBC) 슈퍼라이트급 챔피언이다.



(1)、2014年6月28日 WBO世界ライト級タイトルマッチ 王者テレンス・クロフォード(23連勝(17KO)無敗=33連勝(24KO)無敗)VS挑戦者前2階級王者ユリオルキス・ガンボア(キューバ・世界選手権(2005年錦陽大会)優勝金メダル+アテネ五輪優勝金メダル(110勝15敗+23連勝(16KO)無敗=28勝(17KO)2敗)ネブラスカ州オマハ 
ースイッチヒッターのクロフォードが4度ダウンを奪い、9回KO勝ち(ガンボアの初黒星)。ガンボア(ドイツに亡命しプロ入り。後にアメリカ、フロリダ州マイアミに移住(L・ヘビー級のヨルダニス・デスペイン(ワールドカップ(2001年ベルファスト大会)銅(2003年バンコク大会)銅(2005年モスクワ大会)銀(345勝5敗+9勝(4KO)2敗(プロでは大成せず))がいっしょ)は前年、奥さんに対する家庭内暴力で2度目の逮捕(本当に悲しい)。ライト級では体が小さく、柔軟なクロフォードに翻弄されてしまう。
Terence Allan Crawford (born September 28, 1987) is an American professional boxer. He is a world champion in three weight classes, having held the WBO welterweight title since June 2018; previously he held the WBO, Ring magazine and lineal lightweight titles from 2014 to 2015.
イタリア語→Yuriorkis Gamboa Toledano (Guantánamo, 23 dicembre 1981) è un pugile cubano, attuale campione WBA dei pesi piuma.
(2)、2017年12月9日 WBO世界スーパーフェザー級タイトルマッチ ワシル・ロマチェンコ(ウクライナ+9勝(7KO)1敗=11勝(9KO)1敗)VSギルレモ・リゴンドー(キューバ+17連勝(11KO)無敗1NC(ノーコンテスト))ニューヨークMSG
*五輪2連覇同士による決戦
1、ロマチェンコ(アマ396勝1敗)=世界選手権(2007年シカゴ大会)銀(2009年ミラノ大会)優勝金メダル(2011年バクー大会)優勝金メダル+北京五輪優勝金メダル・ロンドン五輪優勝金メダル
2、リゴンドー(アマ463勝12敗)=世界選手権(2001年ベルファスト大会)優勝金メダル(2005年綿陽大会)優勝金メダル+シドニー五輪優勝金メダル・アテネ五輪優勝金メダル+ワールドカップ(2002年アスタナ大会)優勝金メダル(2005年モスクワ大会)優勝金メダル(2006年バクー大会)優勝金メダル
ーサウスポー対決。初回から緊迫した睨み合いが続いた(玄人受けする試合展開)。6回終了、リゴンドー(一度ブラジルからの亡命に失敗(スーパーウェルター級のエリスランディ・ララ(世界選手権(2005年綿陽大会)優勝金メダル(320勝10敗+25勝(14KO)3敗2分)といっしょ)。後、アメリカに亡命。フロリダ州マイアミ在住)が突然棄権(呆気ない初黒星)。不可解な幕切れとなり残念。プロ向きのスタイルに適応したロマチェンコと違い(加えてウクライナはすでに社会主義国ではない)。リゴンドー(キューバは依然として「社会主義」でプロはなし)はプロ入りが遅すぎたかもしれない。

ウクライナ語⇒Васи́ль Анато́лійович Ломаче́нко (нар. 17 лютого 1988, м. Білгород-Дністровський, Одеська область) — український професійний боксер. Чемпіон світу за версією WBO в напівлегкій та другій напівлегкій вазі, легкій вазі за версією WBA та журналу «The Ring».
 スペイン語⇒Guillermo Rigondeaux Ortiz (La Prueba, Santiago de Cuba, 30 de septiembre de 1980) es un boxeador cubano. Fue campeón mundial de la Asociación Mundial de Boxeo (AMB). Es considerado uno de los mejores boxeadores libra por libra por la revista The Ring.

(1)、1983年6月16日 WBA世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者デビー・ムーア(12連勝(9KO)無敗=3連続KO防衛中)VS挑戦者元2階級王者ロベルト・デュラン(76勝(56KO)4敗)ニューヨークMSG
ーデュランが8回KO勝ちで3階級制覇(ムーアの初黒星)。初回から体格で勝るムーア(WBC王者ハーンズとの統一戦を盛んに提唱していた)を、デュランのうまさが凌駕する展開。ムーアの強打はほとんど当らなかった(デュランの防御勘は圧巻)。デュランは的確にパンチを当て、徐々に追い込み。8回に2度ダウンを奪いノックアウト。
(2)、1984年12月10日 世界ランカー対決 J・ミドル級ノンタイトル10回戦 元王者デビー・ムーア(14勝(11KO)1敗)VSルイ・アカリエス(フランス+38勝(21KO)5敗=39勝(21KO)6敗)パリ
ーアカリエスが9回反則勝ち。優勢だったムーアは(故意か偶然か)ゴング後に右ストレートを叩きこんでしまい(アカリエスは、ロープに背中から倒れこんだ)。失格負け。



(1)、1982年11月20日 世界ランカー対決挑戦者決定戦 J・ミドル級ノンタイトル10回戦 1位故ト二ー・アヤラ(アマ140勝8敗+21連勝(18KO)無敗=31勝(27KO)2敗)VS2位カルロス・エレラ(アルゼンチン+47勝(33KO)6敗=56勝(36KO)11敗2分)アトランティック・シティー
ーアヤラが3回、豪快にサウスポーのエレラ(WBC王者サウスポーのホープ(ベニテスに12回KO負けでタイトル喪失)に挑戦=2-1の判定負け)を沈め快勝(左フックのダブルを顎とテンプルに叩き込まれたエレラ(大分後に衰えたベニテスに7回TKO勝ち)は、仰向けに倒れた=痛烈なKO劇)。ムーアへの挑戦が決定「次はお前だ。もうどこにも逃げ場はないぞ」といきまいていた。2人とも故人になってしまったが。是非見てみたかった1戦(ムーアは「あっちでは彼の方が強い、こっちでは俺の方が強い、もう彼の名前は聞き飽きたよ」とぼやいていた)。不祥事が続いたアヤラ。ながらアルコール依存リハビリセンターから退院(インタビューでもアルコール問題を認めていた)。圧倒的な強さを発揮した。しかし、この試合の直後。再び住居不法侵入及び婦女暴行で逮捕されてしまう(懲役35年(30年に減刑)の実刑判決=20歳の天才は、塀の中へ消えた)。
(2)、2000年7月28日 J・ミドル級ノンタイトル10回戦 元IBF王者ヨリボーイ・カンパス(74勝(65KO)4敗=107勝(82KO)17敗3分)VSト二ー・アヤラ(27連勝(24KO)無敗)テキサス州サン・アントニオ
ーカンパスが8回TKO勝ち。健闘空しくアヤラは拳を痛め、試合放棄(初黒星)。35歳、模範囚として半分(15年)の刑期を終え仮釈放。その後、再起し5連続KO勝ち。まさかしばらく後にまた、深夜の泥酔状態で住居不法侵入。婦女暴行未遂で逮捕されようとは想像すらできなかった(しかも18歳の被害者女性に、肩をライフル銃で撃たれたあげくの拘束)。短期間の留置及び72時間の奉仕労働のみで仮釈放。再起戦(判定勝ち)では足につけられた「探査装置」(テキサス州内のみでの行動許可+飲酒と夜間外出禁止)を膨らませた惨めな姿で現れた。ホンマ、残念で悲しい限り。その後、4連勝(3KO)1敗(11回TKO負け=ラストファイト)。2004年に再び逮捕(保護観察(執行猶予)違反・無免許・薬物不法所持及び酒気帯び運転・スピード違反(車内に大量の児童ポルノDVD・雑誌も発見された)=懲役10年の実刑判決を受け、刑務所に逆戻り)。2014年に釈放された翌年に死亡(麻薬の過剰摂取・享年52歳)。

Antonio Ayala Jr. (February 13, 1963 – May 12, 2015) was an American boxer who fought in the light middleweight division. He began his professional career in 1980, and by 1982 he had compiled a record of 22 wins and no losses, with 19 knockouts. Ayala had three brothers who were boxers, Mike Ayala , Sammy Ayala
PS:実は、日本の「ワールド・ボクシング」誌にアヤラの「更正」ぶりを讃える投稿を送り。載ってしまったんです(涙)。その直後の「再犯」・・・なんともはや。この1戦で7千万円のファイトマネー。家を購入し、長らく待っていた奥さんと新たな生活を開始したばかり。信じられなかった(呆然自失)。アヤラは幼少時代、性的虐待を受けていたことも雑誌インタビューで語っていた。そんなうんたらの正当性が一切吹っ飛んだ(同情の余地なし)。悲しいというより、呆れ果てた(がっかり)。確か「拳キチ」あるいは「カナダ男」名だった記憶。ちなみに「賞品」は畑山隆則VSリック・吉村戦(引き分け防衛)の額入り写真(結構遠い国際用「郵便局」まで取りに行ったけど、額のガラスが割れてしまっていた+対堀口昌影(4回KO勝ち)戦=ライブ観戦しました☆里帰り中→最後の後楽園ホール)。★追悼★前座で出ていた故佐藤晃(大雅アキラ)選手(サウスポー(協栄ジム+元アマ高校王者・岩手県出身)千葉大介(ビクトリージム)に4回判定勝ち)。松倉義明(サウスポー(宮田ジム)+4回戦時代、無敗の佐藤(3連勝(3KO))に判定勝ち=初黒星を与えていた)との日本タイトル決定戦で7回KO負け。そのまま意識不明となり、担架で退場。病院で帰らぬ人となってしまった(享年23歳)+★追悼★その日のメインだった故李東春(グレート・金山)選手(折田実に判定勝ち、日本タイトル防衛成功)
이동춘(李東春, Dong-Chun Lee, 1963년 3월 8일 ~ 1995년 9월 9일)은 대한민국의 전 권투 선수로, 한국과 일본에서 활동했다. 일본명은 그레이트 가나야마(グレート 金山)이다.
(後楽園ホールからの帰り道。歩道橋の上からファンたちに「グレート・金山、がんばれよっ!」との声援を受けて「おお~!」って手を挙げてた後姿が忘れられない(川益(瀬川)設男(岩手県出身・ソウル五輪代表)との再戦に敗れ、4日後に死去した(享年32歳))。



(1)、1984年 アマチュア(パン・アメリカン)選手権 キューバ対アメリカ ラモン・レドン(世界選手権2連覇(どの大会かが、はっきりしません)+275勝(169KO)19敗)VSジェシー・べナビデス(320勝20敗+40勝(25KO)5敗1分=3度世界挑戦(1、パターソンに判定負け2、ケリーに判定負け3、バレラに3回KO負け)したが、王者にはなれなかった)
ネバダ州リノ
ーサウスポー対決。レドンが2回、ボディーブローでべナビデスをノックアウト(解説陣はローブローだといっていたが。そうは見えなかった)。レドンはアマ時代、後の世界王者ミゲル・アンヘル・ゴンザレス(東京三太(デビュー以来40連勝(32KO)+WBC世界ライト級タイトルを10度防衛(デラホーヤとの統一戦で判定負け(初黒星))=51勝(40KO)5敗1分+ソウル五輪メキシコ代表(63勝6敗=1回戦で韓国の李在赫(銅メダル)に判定負け)にも勝っている。
(2)、1998年10月24日 IBF世界スーパーフェザー級タイトルマッチ 王者ロベルト・ガルシア(アマ48勝12敗+30連勝(23KO)無敗(日本でデビュー=3連続KO勝ち)=34勝(25KO)3敗)VS挑戦者ラモン・レドン(12連勝(9KO)無敗1分=13勝(10KO)1敗1分)アトランティック・シティー
ーレドン(粗末なボートに乗ってキューバを脱出(甥のイヴァン(アマ約80戦(75勝?)+11連勝(10KO)1分=12勝(11KO)12敗1分)がいっしょ)。サメがひしめく海上を漂流(米軍に救助された=アメリカ領グアンタナモ基地(不法占領中)に抑留)=アメリカに亡命)が2回に左ストレートを炸裂させ。先制のダウンを奪う。その後、コーナーに詰め滅多打ち。しかしガルシアは盛り返し、5回逆転KO勝ち。初防衛に成功。日本にも馴染みの深いイスマエル・サラスコーチ(元キューバ国家アマチュアチーム一軍トレーナー)が渡米中。レドンについていた(感慨深かった)。私見として、’ウィティカーの技術+タイソンの強打’といわれ期待されたレドンは、プロ入りが遅すぎたかもしれない(デビュー時すでに30歳=ガルシア戦は33歳)。
(3)、2001年1月6日 WBA世界スーパーフェザー級タイトルマッチ 王者ホエル・カサマヨール(キューバ=世界選手権(93年タンペレ(フィンランド)大会)銀+バルセロナ五輪優勝金メダル(363勝30敗+23連勝(14KO)無敗=38勝(22KO)6敗1分)VS元IBF王者ロベルト・ガルシア(33勝(25KO)2敗) ラスベガス
ーカサマヨール(アトランタ五輪強化合宿中だったメキシコから(L・ヘビー級のラモン・ガルベイ(世界選手権(91年シドニー大会)銅(93年タンペレ大会)優勝金メダル(358勝17敗+14連勝(11KO)無敗=19勝(14KO)4敗(プロでは大成しなかった)といっしょ)。アメリカに亡命)が7回TKOでガルシアを破った。強打のガルシアは前半優勢だった(カサマヨールは絶好調とはいえない出来)。しかし7回に2度ダウンを奪われ、ストップされる。WOWOW放送の小泉氏によれば、デビュー当時カサマヨールは天才にありがちの練習嫌い。そういう面もあったそうだ。しかしジョー・グーセン氏がトレーナーとなり、トレーニングに励み大成した(グーセン氏は、コラレス(カサマヨールに初戦では、6回TKO負け)との再戦では、逆にコラレスのトレーナーとなる(ダウンを奪われながらも、判定勝ち)=その戦略のお陰で勝てたともいえる(3戦目はカサマヨールが、判定で勝ち越した)。
ロシア語⇒Рамо́н Ледо́н Гонса́лес (исп. Ramon Ledon González; 23 февраля 1965, Гавана) — кубинский боксёр лёгчайших весовых категорий, выступал за сборную Кубы в середине 1980-х годов.
スペイン語⇒Joel Casamayor Johnson (12 de julio de 1971, Guantánamo, Cuba) es un boxeador profesional que fue medalla de oro de peso gallo en los Juegos Olímpicos de 1992 en Barcelona al derrotar a Wayne McCullough.Se convirtió en profesional tras competir en las Olimpiadas del año 1996 en Atlanta.
フランス語→Ramón Garbey est un boxeur cubain né le 31 mars 1971 à Santiago de Cuba.
PS:長いアマキャリアのため、プロスタイルに変換できなかった(キューバやソ連)選手は多い(ガルベイやデスペインなども同じ)。アメリカの選手と異なり、もともとプロ入りは想定外。あるいは既に峠を越えてからの転向=別の頁で紹介した、ヘビー級のホルへ・ルイス・ゴンザレス(ソウル五輪キューバ代表(祖国のボイコットで不参加)220勝13敗(91年、フィンランドでの大会中。アメリカ大使館に退避(故フィデル・カストロは「彼と話がしたい」と語っていたが、そのまま亡命)+23連勝(22KO)無敗=31勝(27KO)8敗)なども最たる例(プロ入りが遅すぎた+天才が故、自信過剰と練習嫌い=トレーナーすらつけない自主管理)。しかしアマ時代のゴンザレスは、まさに無敵だった(同国人五輪3連覇の故ステベンソンと3勝1敗。バルセロナ五輪金の2人=故バラド(スーパーヘビー級)サボン(ヘビー級)も敵わなかった。レノックス・ルイス(ソウル金)、リディック・ボウ(ソウル銀)そしてタイレル・ビッグス(ロス金)、みんなゴンザレスに負けている。
ドイツ語→Jorge Luis González (* 19. Oktober 1964 in Havanna) ist ein ehemaliger kubanischer Schwergewichtsboxer.




(1),1995年6月17日 WBO世界ヘビー級タイトルマッチ 王者リディック・ボウ(ソウル五輪銀メダル(104勝18敗)+36勝(30KO)1敗1NC=43勝(33KO)1敗1NC)VS挑戦者ホルへ・ルイス・ゴンザレス(23連勝(22KO)無敗)ラスベガス
ーボウ(ホリーフィールド(ダグラスに3回KO勝ちで王座奪取=大スクリーンで観戦)との再戦(初戦はボウがダウンを奪い判定勝ち→ホリーフィールドの初黒星(28連勝(24KO))で判定負けするまで、34連勝(29KO)無敗)がアマ時代に負けている、宿敵ゴンザレスに圧勝。6回、強烈な右を叩き込んで豪快に沈めた。また試合前レセプションでも乱闘寸前になった(2人は犬猿の仲)。ボウは再起後、バルセロナ五輪米代表(2回戦で故バラドに判定負け)
、無敗のホープ・ラリー・ドナルド(16連勝(12KO))に判定勝ち(記者会見においては、喧嘩っ早いボウが激昂。左右フックを放ち、素手でドナルドの顔面を殴りつけた)。前戦で無敗のWBO王者ハービー・ハイド(英・26連勝(25KO))に6回KO勝ちでタイトル奪取(「次はあのチャンピオン気取りのデカイ乞食野郎(ゴンザレス)をぶっ倒したい」)。ゴンザレスはこの試合以降、打たれ脆くなる。6回開始直後、すでにボウの右を繰り返し浴びて、グロッキーのゴンザレス。アナウンサーが「スペイン語通訳によれば、ゴンザレスのセコンドから、何も有効な指示はなかった。完全に1人だ」「一方、ボウにはエディ・ファッチ(歴戦の名トレーナー)がついている」と語り。試合後、ゴンザレスは「誰でも負けることはある・・・また帰ってくる」と意外にサバサバしていた。アナウンサーはトレーナーの必要を説き、それを受けてフォアマンも「彼は戦略がなにもない。誰かコーナーについて、ボクシングの試合でどうやって戦い勝つか指示するのが必要だ」といっていた。でもアナウンサーと2人でゴンザレスの「潜在力」「才能」を高く評価し「あれだけひどく打たれながらも、あきらめなかった。あの根性はすばらしい」と讃えていた。
(2)、1996年5月10日 ヘビー級ノンタイトル戦 ホルへ・ルイス・ゴンザレス(23勝(22KO)1敗)VS元WBA・WBC王者ティム・ウィザスプーン(44勝(30KO)4敗=55勝(38KO)13敗1分)ニューヨーク
ー古豪、豪打のウィザスプーン(ドナルドに判定負け)が3回にダウンを奪い。5回にゴンザレスをストップした。文句のない快勝。ゴンザレスは、ボウ戦より15ポンド(約7キロ)も重い体重で登場した(明らかに、締りが足りない=もうひとりの解説、ラリー・マーチャントも不快そうだった)。展開はボウ戦とほぼ同じ。ゴンザレスはロープに詰められ、ウィザスプーン得意の大きな右のスウィングでつるべ打ちにされてしまう。敗北後、たてつづけに右を浴びるゴンザレスをスローで検証しながらアナウンサーが「これを克服しなければ、ゴンザレスをこのレベルで見ることはなくなるだろう」と言及(まさしくそのとおりとなったその後)。また、ゴンザレスも「トレーナー不在」(を批判された)に気をとめたらしく。「なんと’元キックボクシング’のトレーナーを雇った。それならばいないほうがいいと大方は話している」(アナウンサー)。しかし前戦でもゴンザレスのスター性と「カリスマ」に注目していた解説のフォアマン。この試合後も、「この男に必要なのはトレーナーだけだ」と強調していた。マーチャントの「いや遅すぎるだろう。この男は傲慢で自信過剰だから」という意見に、「遅すぎるということは絶対ない」と付け加えていた。この試合以降、ゴンザレスはどんどん坂道を転げ落ちて行く。次戦で大物食いの中堅ピュリティー(アトランタ五輪優勝金メダル、無敗のウラジミール・クリチコ(ウクライナ=24連勝(21KO)無敗)に9回KO勝ち=初黒星をなすりつけた)に7回ストップ負け(実際はまたロープを背にして打ちまくられ。ダウンを奪われ、そのまま試合放棄した)。グラント(ルイスに挑戦し、2回KO負け)に初回KO負け。ピュリティにKO負けした記事は、「リング誌」か「KOマガジン」で読んだ。「ボウとウィザスプーンに負けたのはともかく。この敗北は今後のキャリアに影響しそうだ」とあった(事実

そのままの後年となる)「噛ませ」的存在になってしまった。晩年、ここから車で4時間のナイアガラのカジノ(アメリカ側)。無敗の白人ホープイタリア系ジョー・メシ(ニューヨーク出身・39勝(26KO)無敗=のまま引退した。(トニーに負けた後の)ジロフ(カザフスタン+アトランタ五輪優勝金メダル)に3度ダウン(9回に1度、最終回に2度倒され。ノックアウト寸前)を奪われながらも、10回判定勝ち)に7回TKO負け(まったく往年の面影はなかった)。次戦でサウスポー無敗の新鋭ブライアント(11連勝(8KO))に初回KO負けしたのが、ラストファイトとなった(現在どうしているか?ダメージが心配)。なぜ、ほかと比べてこんなに詳しく書いたか。このゴンザレスはやはり、キューバ出身であることに加え。デビュー当時から期待し、注目していたからです。それだけに、例えば(非現実的だったながら)イスマエル・サラスコーチ(一時はリゴンドー・ガンボア・ララ・デスペインなどのトレーナーだった(先輩であるカサマヨールとガルベイがアシスタント)
+むろん、むかし、アマ時代のゴンザレスにも関っていた)でもがついて徹底的に鍛えなおしたらどうだろか。なんて考えました(残念だった)。







マレー語⇒Shaolin Wooden Men adalah sebuah filem aksi Hong Kong arahan Chen Chi-hwa. Filem ini dibuat di Lo Wei studios di Golden Harvest selepas era Bruce Lee.+ポーランド語⇒Zemsta tygrysa z Shaolin (oryg. tytuł Shao Lin mu ren xiang) – hongkoński film akcji z elementami sztuk walk z 1976 roku w reżyserii Chi-Hwa Chen.
2018年8月22日(水)Mercredi(Wednesday)
↑小さい頃、さんざんみた「ジャッキー・チェン」初期(2000年頃、トロントに来た=当時働いていた香港人夫妻経営の日本食。奥さんがいっしょに撮った写真をパネルにして。店に飾ってあったのも懐かしい)。ここ2~3日は不意に思い出した。この映画をボケーッと見ていました。日本のテレビ吹き替え版ではカットされた部分だけ「広東語」。あとはうまく70年代、オリジナルの声優陣のまま編集してある。あと2日で「週末ノットイエット」(これすっかり癖になった(苦笑)。またがんばります☆ とりいそぎ サム 




~♪I thought I heard your voice yesterday When I turned around to say That I loved you then I realized And it was just my mind Playing tricks on me It seems colder lately at night And I try to sleep with the lights on Every time the phone rings I pray to God it's you I just can't believe That we're through I miss you (I miss you) There's no other way to say it And I, and I can deny it I miss you (I miss you) It's so easy to see I miss you and me~♪
再び★追悼★愛しの★星さん★へ(号泣+涙) Sammy from Canada 2020/10/23 Vendredi=Friday(金曜日)
Suomiフィンランド語→Igarashi Aya (jap. 五十嵐彩) eli Sei Ashina (jap. 芦名 星; 22. marraskuuta 1983 Fukushima – 14. syyskuuta 2020[1]) oli japanilainen näyttelijä, joka tunnetaan varsinkin Kamen Rider Hibiki -sarjasta. Lisäksi hän esiintyi muun muassa elokuvassa Silk (2007).本当に残念で、悲しいです・・・ご冥福・慰霊・鎮魂・黙祷


1997年10月13日 日本J・バンタム級王座決定戦 松倉義明(16勝(14KO)2敗1分→23勝(19KO)5敗1分)VS大雅アキラ(15勝(5KO)2敗2分)水道橋後楽園ホール
ー1位松倉(北海道出身・1分をはさみ9連続KO勝ち中)が7回TKO勝ちで新王者に就く。雪辱を期す大雅は本来出場するはずだった2位名護明彦(高校王者=興南高・沖縄県那覇市出身)が負傷したための代役として出場。前半は大雅が巧さで松倉をきりきり舞いさせ、優勢だった。この両選手の場合も相性が左右したかもしれない。最後は松倉の豪打が爆発。見事なノックアウト勝ちだった。大雅は
意識が戻らないまま、5日後の19日に病院で死去した。しかし松倉は初防衛戦で(サウスポー対決「北の狼VS南の冠鷲」)名護に9回KO負け(初回と2回にダウンを奪われ、ワンサイド。王座転落)。私が観戦した夜、ちょうど前の席に陣取っていた後援者たち。試合が終わり、挨拶に現われた故佐藤選手のあどけない表情を思い出す(物静かで、礼儀正しい青年だった)。追悼・慰霊・鎮魂・黙祷

1985年年3月6日 WBA世界J・バンタム級タイトルマッチ 王者カオサイ・ギャラクシー(25勝(22KO)1敗→47勝(41KO)1敗+19度防衛(16KO))VS挑戦者李東春(20勝(8KO)5敗1分→45勝(26KO)10敗1分)タイ・バンコク
ーカオサイの初防衛戦。李の果敢な攻撃に大苦戦。ずっと劣勢だったながら、7回逆転KO勝ち。しかし最後にカオサイが、ロープ際で放ったノックアウトパンチの左ボディーブローは明らかに「エルボー」です(しかも「意図的」な反則→元キック王者の肘は「鉄筋」みたいなもの)。カウンターとなり、肝臓とアバラの間をえぐられた李はもんどりうって倒れ、キャンバス上で悶絶(その後、再び王者の地元ジャカルタでエリー・ピカル(インドネシア)のIBF王座に挑戦し10回KO負け)。来日したときはすでに全盛期は過ぎていた(不運なボクサーだったと思う)。折田実戦、故李選手の調子はもうひとつだった(加えて会場は「オーリータッ!」コール一色。孤立した中での奮闘だったのもよみがえる)。KOを狙っていたが、倒せなかった(もう晩年、限界だったのかもしれない)위령慰靈 カオサイは周知のとおり、兄弟ボクサー。双子の兄カオコー(サウスポー・同じく元ムエタイ王者)はWBAバンタム級王者だった。

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