日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

O boxe ou pugilismo★懷舊★Nostalgie (sentiment)=노스탤지어(Nostalgia) 또는 향수(鄕愁)☆黄金の80年代☆Super Fights(往年の拳豪たち⇔古きよき時代)



(1)、1979年1月14日 WBC世界ウェルター級タイトルマッチ 王者カルロス・パロミノ(27勝(16KO)3敗3分→31勝(19KO)4敗3分)VS挑戦者元WBA世界J・ウェルター級王者ウイルフレド・ベニテス(36連勝(22KO)無敗1分→53勝(31KO)8敗1分)カリフォルニア州・ロサンゼルス
ーベニテスが強打の技巧派パロミノを完封。15回判定勝ちで2階級制覇達成。ベニテスは強い王者だったセルバンテスに判定勝ちし、J・ウェルター級王座に就いたのが17歳(史上最年少)のとき(プエルトリカンに多い、早熟の天才)。パロミノは8度目の防衛に失敗。童顔のベニテスは、’ディフェンシブ・マスター”の異名を遺憾なく披露。防御勘の見事さは圧巻。カウンターも有効で冴えいていた。
*Polskiポーランド語→Carlos Palomino (ur. 10 sierpnia 1949 w San Luis Río Colorado) – meksykański bokser, zawodowy mistrz świata kategorii półśredniej.
*Italianoイタリア語→Wilfred Benítez (New York City, 12 settembre 1958) è un ex pugile portoricano.
(2)、1979年11月30日 WBC世界ウェルター級タイトルマッチ 王者ウイルフレド・ベニテス(38連勝(22KO)無敗1分)VS挑戦者シュガー・レイ・レナード(モントリオール五輪優勝金メダル(165勝5敗)+25連勝(16KO)無敗→36勝(25KO)3敗1分)ネバダ州ラスベガス
ー期待のホープ、レナードが最終15回にベニテスをストップ。無敗対決を制し、戴冠した。レナードは3回に先制のダウンを奪う。その後は一進一退、高度なテクニック合戦となった。レナードは15回にダウンを追加。ベニテスは額からの出血も激しく、連打を浴びそのままストップされた。ベニテス21歳、レナード23歳だった。
*雷·查爾斯·倫納德(英語:Ray Charles Leonard,1956年5月17日-),綽號蜜糖(Sugar),人稱舒格·雷·倫納德(英語:Sugar Ray Leonard),生於美國北卡羅萊那州威爾明頓,前職業拳擊手,曾獲得五座世界冠軍,為史上第一位累計獲得獎金超過一億美元的選手,入選國際拳擊名人堂。


(1)、1976年10月27日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者ホセ・ピピノ・クエバス(メキシコ+15勝(13KO)4敗→35勝(31KO)15敗)VS挑戦者辻本章次(元アマ全日本王者(近畿大(92勝10敗)奈良県出身)+24勝(12KO)2敗2分→27勝(14KO)4敗2分)石川県金沢
ー若武者弱冠19歳のクエバスが6回に3度ダウンを奪い、サウスポーの辻本をノックアウト。初防衛に成功。5回までは辻本が巧く戦い、優勢だった。クエバスはこの後、9連続KO防衛に成功。ハーンズに2回KO負けで王座転落まで、11度(10KO)防衛した(WBC王者レナードとの統一戦もほとんど決まっていた)。辻本は龍反町の東洋タイトルに挑戦しながらも、引き分けに終る。しかし、「リングの親善大使」の異名を持つ元J・ウェルター級王者エディ・パーキンス(米黒人・日本選手(兄英守(10回KO負け)も含め)は辻本以外全敗→高橋美徳(世界戦・13回KO負け)ライオン・古山(判定負け)龍反町(判定負け))に判定勝ちして世界ランク入り。同じく元アマ王者(新旧交代劇)、鳴り物入りだった新鋭亀田昭雄に5回KO負け(サウスポー対決)でタイトル喪失まで、日本王座を12度防衛した(辻本のラストファイト)。
*Deutschドイツ語→José „Pipino“ Cuevas (* 27. Dezember 1957 in Santo Tomás de los Plátanos, Mexiko als José Isidro Cuevas González) ist ein ehemaliger mexikanischer Boxer.
*Latinaラテン語→Shoji Tsujimoto辻本章次 (Shoji Tsujimoto , September XXV, 1948) est pristini professional pugilem in Japan. Nara praefecto natus est . Pertinet ad Yonekura pugilatu gym .
(2)、1983年1月29日 元王者対決 前WBC王者ロベルト・デュラン(74勝(55KO)4敗→103勝(70KO)16敗)VS前WBA王者ホセ・ピピノ・クエバス(29勝(26KO)6敗)ネバダ州ラスベガス
ーデュランがクエバスに4回KO勝ち。デュランはレナードとの再戦に敗れ王座転落後、ベニテスのWBCJ・ミドル級タイトルに挑戦し判定負け。さらに伏兵ライング(英黒人)にも判定負け。一方、クエバスはハーンズに負けた後、世界ランカー(同国人パドラに2回KO勝ち・ハンセン(デンマーク)に初回KO勝ち)相手に2連勝(2KO)しながら(再びレナードへの挑戦が日程に上っていた)、スタフォード(米黒人、カリー弟のWBAタイトルに挑戦し初回KO負け)にダウンを奪われ判定負け(「クエバスの時代は終った」(ゴング誌)試合終了後、鼻血を流してる写真)。生き残り戦だった。デュランは92年に来日、プロレスラー船木(優治)誠勝と異種格闘技戦に臨む(3回ギブアップ負け)。
*로베르토 두란 사마니에고(스페인어: Roberto Durán Samaniego, 1951년 6월 16일 ~ )는 파나마의 은퇴한 권투 선수이다. 돌주먹(Manos de Piedra)이라는 별명으로 잘 알려져 있다.



(1)、1980年6月20日 WBC世界ウェルター級タイトルマッチ 王者シュガー・レイ・レナード(27連勝(18KO)無敗)VS挑戦者前世界統一ライト級王者ロベルト・デュラン(71勝(55KO)1敗)モントリオール・カナダ
ースーパーファイト(両者10億円近いファイトマネー)。デュランが15回判定勝ち。無敗のレナードに土をつけ、2階級制覇達成(J・ウェルター級を飛び越えての挑戦を成功させた)。デュランの圧力と突進が、レナードの技巧を封じた一戦。レナードは足を使えなかった。最終15回、勝利を確信したデュランがレナードのお株を奪う「アリシャッフル」を披露し、「打ってみろ!」と顎を叩いて挑発(レナードは逆転KOを狙って、繰り返し連打を放っていた)。ゴングが鳴り、歓喜のジャンプをする横でレナードが手を挙げているのに激昂したデュラン。すれ違いざまに、後ろから手で跳ね飛ばし。面と向かうと、スペイン語でわめき散らしていたのが印象深かった(いかにもデュランらしい(笑))。この当時はむろん「イングリッシュ」だの「フランス語」云々や。まさか将来、「カナダ人」となりそこに合計「5年」も住むなどとは想像外だったのは断るまでもない(レナード縁の地「モントリオール五輪」の開催地として、記憶にあった程度)。レナードは3度来日したことがある(1、88年、タイソンVSタッブス戦の解説2、タイソンVSダグラス戦の解説3、大分後に辰吉と対談+「寿司は最高だ」(大好物だという))。
(2)、1980年11月25日 再戦 ルイジアナ州ニューオリンズ
ーレナードが8回TKO勝ちでタイトル奪回。雪辱を果たした。デュランは突然、試合放棄(批判を浴びた)。今回レナードは、フットワークを駆使。速射砲のような連打をまとめては離れ、デュランは何もできなかった。レナードは序盤から過剰なパフォーマンスも交え、デュランを眩惑。翻弄した(デュランは途中で、やる気をなくした感じ)。
(3)、1989年12月7日 WBC世界スーパーミドル級タイトルマッチ 王者シュガー・レイ・レナード(35勝(25KO)1敗1分)VS挑戦者WBC世界ミドル級王者ロベルト・デュラン(85勝(59KO)7敗)ネバダ州ラスベガス
ーレナードが判定勝ち。およそ9年ぶり、3度目の対決(むろん↑↓どの試合も両者、10億~20億円のファイトマネー)。デュラン(前戦でバークレーからダウンを奪い、判定勝ちで4階級制覇)との、ラバーマッチに決着をつけた。とはいえ、凡戦だった(両者ともとっくに全盛期は過ぎた晩年。「賭け率」も一方的で、デュラン(この試合は気合が入っており、体もよく締まっていた)
が勝つと予想していた人はほとんどいなかった)。レナードは距離を取り、打ち合いに応じず。前に出て来るデュランに対しときどき、カウンターを放つだけ。デュランは追いきれず。モントリオールのホッケー会場(街中心部の由緒あるところ→↓のヒルトン兄弟(長兄デーブ・ジュニア(再起戦、KO負け→初黒星)次兄アレックス(再起戦、KO勝ち)の試合もライブで見た)の大スクリーンで観戦。デュランは次戦も、郊外にある別の室内スタジアムの大スクリーン(メインはタイソンVSラドック(1)セミがブロッカーVSブラウン・チャべスVSデュプレシス)。ロラー(来日し上山仁に判定負け)に6回TKO負け(ボタついた体で、調整不足がありあり)。


(1)、1981年9月16日 世界ウェルター級タイトル統一戦 WBA王者トーマス・ハーンズ(アマ155勝8敗(全米ゴールデングローブ覇者)+32連勝(30KO)無敗(3連続KO防衛中)→61勝(48KO)5敗1分)VSWBC王者シュガー・レイ・レナード(30勝(21KO)1敗)ネバダ州ラスベガス
ー両者20億円以上のファイトマネーを得た、世紀の一戦。レナードは13回に2度ダウンを奪い(ロープ外に叩き出した→1度は数えられず)、14回逆転TKO勝ち(そこまでの採点は、ジャッジ3者ともハーンズが勝っていた)。試合前の予想はハーンズ有利、私もハーンズがノックアウト勝ちすると思っていました。ともあれ歴史に残るスーパーファイト、大激戦だった(両者とも全盛期、スピードあふれる攻防は永遠に語りつがれる)。前半はハーンズが’ヒットマン’スタイルで前に出て、プレッシャーをかける。レナードは6回、7回とカウンターを炸裂させ、猛反撃に移りダウン寸前に追い込んだ。ハーンズは以降、足を使い長いリーチを生かしながら、強くて速いジャブ1本のアウトボクシングに徹する(レナードは左目が腫れあがり、敗色濃厚だった)。レナードの勝負強さが発揮された一戦(ながら、「ストップ」は議論を呼んだ)。この試合はレナードを応援していた。ただし、当時は東京の某ジム(中学1年生)練習生(全然真面目にやらない(今だに反省と後悔は尽きない)。サボってばかりの甘ったれ根性なし。どうしようもない木端小僧だったながら)だった(先輩たちが「レナードが勝ったらしいよ」と話していたのが、「地獄耳」に届いてしまう(苦笑))。帰宅後、録画放送で観戦(けど、「結果」に関するそんなこんなを吹き飛ばす展開だった名勝負。最後までハーンズが勝つと考えながらみていたのを回想する)。この後、レナードは網膜剥離で1度引退を強いられる。後に相当する現代版世代の同階級対決(事実上の統一戦)デラホーヤVSクォーティー戦の試合前。展開予想のためスタジオに招かれた両者。この試合しか流されなかったのにハーンズは「なんでこれだけなんだ?2戦目(↓)の方が、よかったのに」と冗談を言っていた。しきりに横に座るレナードに3度目の対決を求め、レナードは苦笑し肩を叩きながら「ゴルフで勝負しよう」とはぐらかし。「俺はゴルフはやらない」とハーンズ(ムスっとしていた)。
*Nederlandsオランダ語→Thomas Hearns (Memphis, 18 oktober 1958) is een Amerikaans voormalig bokser.
(2)、1989年6月12日 WBC・WBO世界スーパーミドル級タイトルマッチ 王者シュガー・レイ・レナード(35勝(25KO)1敗)VS挑戦者前4階級王者トーマス・ハーンズ(46勝(39KO)3敗)ネバダ州ラスベガス
ー約8年ぶりの再戦となった。再び両者とも20億円以上が賭かった大試合。ハーンズが3回と、11回にダウンを奪いながらも三者三様の引き分けに終る。気迫で増すハーンズは絶好調。レナードはちょっとハーンズ(バークレーに痛烈なKO負けを喫したばかり。全盛期は過ぎていた)をなめていた帰来あり。そしてハーンズはこの試合直前、自宅で弟ヘンリーが彼女を拳銃で射殺し逮捕される大事件(第2級殺人罪=懲役25年の実刑判決)が起こっていた(その混乱と悲しみを隠して決戦に臨んだ)。けど、前戦に勝るとも劣らぬ白熱の好ファイト。私は僅差でレナード(全般的に有効打では上回っていたように見えた(後半失速気味だったハーンズの方が、ダメージは深かった)。特に5回と最終12回は連打を命中させ、ハーンズはグロッキー。KO寸前)が勝ったように思えた。モントリオール、ポール・ソーヴェ・アリーナの大スクリーンで観戦(地元の英雄(アイルランド系)ヒルトン兄弟(むろん3人(周知のとおり、みんな「素行」が悪い大問題児たち)ともいた)の末弟マシュー(その下、4男スチワートは17歳(デビュー以来、4連続KO勝ち中だった)で病死)がベニテスを9回にノックアウトした場所)他の頁でも触れたよう、観客は「アンチ・レナード」一色。すさまじいブーイングの嵐。ラスベガスの会場および、アリーナでもハーンズへの声援が響きわたっていた。私もむろんハーンズを応援していました。でも、試合終了と同時に、両者ともすがすがしい笑顔を見せ。抱き合い、健闘を讃え合っていたのはいつもながらボクシングのすばらしいところです。実はアマ時代、ハーンズと戦ったことがある日本人選手がいる(元全日本アマ王者だった瀬川(名前忘れました)選手(確かハワイでの1戦だった覚え)→目を傷めて引退(プロ入りはしなかった))。初回RSC(レフェリー・ストップ・コンテスト)負け(サミングされた)→後に大スターとなったハーンズにびっくりしたと感慨深く思い出しながら「握りの悪かった選手だとしか、記憶にはないんです」。元WBA王者だった三原正(初渡米(テキサス州ヒューストン)カルレVSレナードの前座でディニシオ(比)を5回にノックアウト)も、ハーンズの地元デトロイトでWBC王者への挑戦が日程に上っていた(「三原にハーンズは遠し」(ワールドボクシング誌)ラストファイトとなった(日本タイトル戦→冴えない判定勝ちで防衛成功)トリッキー・川口戦を報じる記事(この試合後、(持病の腰痛悪化)三原は引退した)。


(1)、1983年11月10日 統一世界ミドル級タイトルマッチ 王者マービン・ハグラー(アマ55勝1敗(全米王者)+57勝(48KO)2敗2分→62勝(52KO)3敗2分)VS挑戦者WBA世界J・ミドル級王者ロベルト・デュラン(77勝(57KO)4敗)ネバダ州ラスベガス
ー再び王者同士のスーパーファイトとなったが、”Marvelous”(マーべラス=感嘆すべき(素晴しい)驚異的な)の異名を持つハグラーが3-0で12回判定勝ち(ながら、予想は一方的にハグラー有利。ライト級上がりのデュランが勝つとは誰も思っていなかったのが舞台裏)。デュランの4階級制覇の野望を砕いた。8度目の防衛に成功(しかし、連続KO防衛は「7」で途絶えた)。ハグラーがノックアウトを逃がしたのは。デュランの底力を過度に警戒。尊重して、大事に戦ったためといわれる。19歳の若きデュランと戦った小林弘氏の談話(ハーンズVSデュラン戦(84年)の解説において)「当時はここまでなる選手だとは思っていなかったんですよねえ~」(笑)「非常にオーソドックス(正統派)なボクシングをしていましたから」。
*Русскийロシア語→Марвин Хаглер (англ. Marvin Hagler; 23 мая 1954, Ньюарк, Нью-Джерси, США) — американский профессиональный боксёр, выступавший в средней весовой категории.
(2)、1987年5月4日 統一世界ミドル級タイトルマッチ 王者マービン・ハグラー(62勝(52KO)2敗2分)VS挑戦者元3階級シュガー・レイ・レナード(33勝(24KO)1敗)ネバダ州ラスベガス
ー世界中が注目した宿命の対決。両者とも20億円以上のファイトマネー。レナードが2-1の僅差、奇蹟の判定勝ちで3階級制覇達成(圧倒的不利の予想を覆した)。ハグラーは13度目(12度(11KO))の防衛に失敗(判定に納得せず、不満をぶちまけていた)。この一戦に至った経緯については(その後同様)いろいろ批判も浴びたレナード(「ビジネス」達者な人)。当初は「60億円ファイト」といわれ、雪辱を賭けたハーンズが再びハグラーに挑戦することが決まっていた。そこへレナードが強引に割り込んだ(いきなり「1位」にランクされる)。約4年のブランク明け。再起戦も行なわず、ハグラーに挑んだ。


(1)、1988年11月7日 WBC世界L・ヘビー級タイトルマッチ 王者ドニー・ラロン(31勝(26KO)2敗→41勝(33KO)5敗1分)VS挑戦者前4階級王者シュガー・レイ・レナード(35勝(24KO)1敗)ネバダ州ラスベガス
ーレナードが4回に先制のダウンを奪われながらも、豪打の王者ラロン(自信満々だった。「レナードは、肥ったウエルター級に過ぎない」と記者会見で豪語)に9回逆転KO勝ち。ライバルのハーンズに続く、史上2人目の4階級制覇を成し遂げた(空位の新設WBO世界スーパーミドル級王座決定戦も含まれていたので、正式には「5階級制覇」)。カナダのオンタリオ州キッチナー出身(ブリティッシュ・コロンビア州ビクトリア生まれ)の我が同胞ラロン(マニトバ州・ウィニペグ(20歳のとき、バスで通った)在住だった)は2度目(初防衛戦(空位の王座決定戦ではデービスに2回KO勝ち)は敵地トリニダード・トバゴに飛び、前王者の難敵スチワートに5回KO勝ち)の防衛に失敗した。’ゴールデン・ボーイ’のニックネームを持つ金髪白人。ハンサムなラロン(フランス系+モデルも兼業)は、少年時代にホッケーの競技で左肩を負傷。ほとんど右の強打一本でKOの山を築いてきたが、この試合はよく左を使ったといえる。アメリカにいました(後日、テレビの録画放送で見た+↑の通り。この頃は、まさか自分が将来カナダ(ケベック州・ニューブロンズウィック州と国境を接するメイン州だったながら)に赴き、「帰化」することになろうなどとは全く思ってもみなかった(笑))。
*Françaisフランス語→Donny Lalonde est un boxeur canadien né le 12 mars 1960 à Victoria, Colombie-Britannique.
(2)、1991年2月9日 WBC世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者テリー・ノリス(アマ291勝4敗+26勝(13KO)3敗→47勝(31KO)9敗)VS挑戦者シュガー・レイ・レナード(36勝(25KO)1敗1分)ニューヨーク・MSG
ーノリスの圧勝だった。老いたりのレナードから2度のダウンを奪い、12回判定勝ち。2度目の防衛に成功した。ノリスはムガビに初回KO勝ちでタイトル奪取。初防衛戦は前王者ジャコ(仏・カリーに判定勝ち・ムガビに初回TKO負け)からダウンを奪い、判定勝ち。レナードはL・ヘビー級まで上げた体を、一気にJ・ミドル級(現スーパーウェルター・約14キロの差)まで落として体が干からびてしまった様子(スピードもパワーもなかった)。昔の自分を髣髴させるような、ノリスのスピードについていけなかった。34歳のレナードはリング上で引退を表明した。しかし、6年後にカムバック(40歳)。こちらもとっくに全盛期は過ぎていた故カマチョに、痛烈なダウンを奪われた挙句。何もできないまま5回TKO負け。ノリスは往年の英雄、あこがれだった大先輩のレナードに敬意を払いすぎ、勝ちに徹したためKOを逃がしたといえる。試合後のインタビューでも物静かにレナードを讃え、(畏れ多いといった感じで)神妙な表情をしていた。モントリオール時代、テレビのライブ中継でみた(レナードの衰えが悲しかった)。なおノリスはその後、通算16度(12KO)防衛しながらも結局'スーパースター’にはなれなかった(1度負けているジャクソンとの再戦に挑んで欲しかった)。2度の王座転落(1、ブラウンに4回KO負け(再戦で判定勝ち、奪回)2、サンタナとの3戦(1.5回失格負け(ブレーク時のパンチでノックアウト)2、3回失格負け(同じく)3、2回に3度ダウンを奪い圧勝。王座奪回))。そしてトリニダードとのスーパーファイトを控えた1戦でムリングスに9回KO負け(再び王座転落)。再起戦において、上昇中の新鋭ローゼンブラット(サウスポー)に判定負け(サラスコーチがついていたが、バランスが悪く、別人のようだった)。次戦でブードウアニ(ソウル五輪銀)と空位のIBF王座を争い、いいところなく9回TKO負け(すでに昔日の面影はなかった)。これがラストファイトとなる(脳を痛め、引退勧告。現在はパンチドランカー)。ながら、「殿堂入り」を果たしたよう「名王者」だったのは間違いない。
*Suomiフィンランド語→Terry Wayne Norris (s. 16. kesäkuuta 1967) on yhdysvaltalainen entinen nyrkkeilyammattilainen ja pitkäaikainen maailmanmestari.


(1)、1989年2月24日 WBC世界ミドル級タイトルマッチ 王者アイラン・バークレー(25勝(16KO)4敗→43勝(27KO)19敗1分)VS挑戦者元3階級王者ロベルト・デュラン(84勝(59KO)7敗)ニュージャージー州アトランティック・シティー
ーデュランが後半11回にダウンを奪い、判定勝ちで4階級制覇の快挙。バークレーはハーンズに3回KO勝ちで奪ったタイトルの初防衛に失敗した。試合前の予想は圧倒的にバークレー有利。賭け率も一方的だった。バークレーは体格とパワーで勝り、常に前に出ていたがあまり有効打はない。デュラン(防御勘は抜群の天才)はうまく、いなしながら随所でタイミングのいいパンチを当てていた。とはいえ、デュランのここ一番での集中力と勝負強さには感服。たいしたもんだ。今だからこそ信じられないけど、移民局に不法労働及び滞在で「ご用」となり(現地の「新聞」に載った名前をみたときは何とも言えず、悲しかった)。弱冠20歳。国外退去、日本に帰った約10日後だった(久しぶりに思い出しました(苦笑))。帰国するとまず「アメリカ大使館」におもむいて、現地の移民局で発行された「帰国証明書」を提出しなければならない(そのときのみじめな気持ちは永遠に忘れられないです。約2年近く前は、なにもわからずドキドキしながらビザ(観光(6ヶ月有効)当時はまだ日米間必要→つまりはじめから「不法労働・滞在」(パスポートも「1次」(アメリカ入国のみ+何年先だろうが「出国」するまで有効(普通のは一般で知られる「数次」(当時は「北朝鮮」以外はどこでも=5年間))を決めこむという設定(その頃はなんだかよおわからんかったながら(「永住権取得」云々ってのも着いてみりゃ「インチキ結婚」が前提だというムチャな話だった)、現在からみればとんでもないこと(苦笑)でもこれしか方法がなかった(別天地で、腐り切った「人生やりなおす」積もりだったのでコネ、先方に頼み込んで雇ってもらったものだから文句はないです)を申請してたな、などと回想しながら・・・(もうカナダ(新しい数次パスポート及び「ワーホリ」(日加間の協定発足(87年=故中曽根・マルルーニー間)の2年後、まだ閑散としていた)ビザ)に行くことは決めていました)。2020年10月29日 サミー カナダ
(2)、1992年3月20日 WBA世界L・ヘビー級タイトルマッチ 王者トーマス・ハーンズ(50勝(40KO)3敗1分)VS挑戦者IBF世界スーパーミドル級王者アイラン・バークレー(28勝(17KO)7敗)ネバダ州ラスベガス
ーバークレーがハーンズを返り討ち。4回に痛烈なダウンを奪い、12回判定勝ちで3階級制覇達成。この両選手も相性が大きく作用したように思える。無敗の王者ヒル(ロス五輪銀)に判定勝ちで、L・ヘビー級王座2度目(はじめは王者アンドリュースから6度のダウンを奪い、11回KO勝ち)の戴冠だったハーンズは初防衛ならず。師匠故エマニエル・スチワードからは離れた後の試合だった(また直ぐ戻った)。バークレーは白人ホープの王者バンホーンに2回KO勝ちでスーパーミドル級タイトルを強奪。その勢いを駆って挑んだ一戦。約3年半ぶり、再びハーンズに苦杯をなめさせた。ハーンズは前半からロープを背負い、カウンター戦法に徹する。バークレーは終始前に出て、攻撃一辺倒。そのまま押し切った。けど、ハーンズの衰えは顕著だった(すでに31歳、体の締まりも往年のようなわけには行かなかった様子)。
番外編:竹原VSジョッピー戦前の激励、レナード→(Takehara(竹原), if you want to keep your title
(もしタイトルを守りたいなら), you must be smart, brave, intelligent and use your long job利口に、勇敢に、知的にならなくてはいけない。そして長いジャブを使え)に続き、How are you doing Takehara?(竹原、調子はどうだ?)Thomas Hearns.(トーマス・ハーンズだ)Once again, take a hard work.(もう1回いうぞ、しっかり練習しろ)Hard hard work. . .(きつい、きつい練習だ)When your work is done.(それが終ったら)I will see you.
(俺が会いに行く)I wanna see you Take(タケ(とかいってた(笑))俺はやりたいぜ)「誰か日本で、俺をプロモートしてくれないかな」(この頃、さかんに来日したがっていた)日本食は未知だといい「寿司もまだ食べたことはない」(ハーンズ)
*Беларускаяベラルーシ(白ロシア)語→Айрэн Барклі (англ.: Iran Barkley; 5 мая 1960) — амерыканскі баксёр-прафесіянал, які выступаў у сярэдніх вагавых катэгорыях.



(1)、1980年3月31日 WBC世界ウェルター級タイトルマッチ 王者シュガー・レイ・レナード(25連勝(16KO)無敗)VS挑戦者デーブ・グリーン(英+33勝(26KO)2敗→37勝(29KO)4敗)メリーランド州ランドオーバー
ーレナードが強打のグリーンを6回にノックアウト。速射砲コンビネーションに続き、左フックを命中させ。仰向けに倒した(グリーンはしばらく起き上がれないほどのダメージ)。ベニテスから奪ったタイトルの初防衛に成功、見事なKO劇だった。地元ファンを前に勇姿を飾る。’ボーイ’(少年)の異名を持つグリーンは以前パロミノに挑戦し、11回KO負け(さらに欧州王者ヨルゲン・ハンセン(デンマーク)にもKO負けした)。「レ(オ)ナード特急、突っ走る」(ゴング誌)。クエバスとの統一戦を控えていた前哨戦。クエバス11度目の防衛戦(サウスポーのボルブレヒト(南ア白人)に5回KO勝ち)も解説はレナード(試合後、席に呼ばれたクエバス。アナウンサーを挟んで統一戦について語っていたのが忘れられない)。まさかレナードはデュランに負け、クエバスはハーンズに惨敗してしまうとは(「イチファン」として、この2人の対決も是非見てみたかったです)。
(2)、1982年2月15日 世界統一ウェルター級タイトルマッチ 王者シュガー・レイ・レナード(31勝(22KO)1敗)VS挑戦者ブルース・フィンチ(28勝(19KO)3敗1分→29勝(19KO)10敗1分)ネバダ州リノ
ーレナードのベストファイトのひとつ。2回に先制のダウンを奪い。フィンチを3回、豪快にKOした。ハーンズとの統一戦に勝った次の試合。記者会見において「な~に、簡単に料理してやるよ」と余裕しゃくしゃくだったレナード。一方、「一攫千金」を夢みたフィンチは試合前。カーボーイハットを被った姿で満面の笑顔を浮かべ。「$」文字が書いてある袋を持ち上げて拳銃を突きつけていた写真がよみがえる。懐かしい限りです。なお、レイの兄ロジャーも元ボクサーである(ずっとセコンドについていた(アマ約100戦+(世界J・ミドル級2位)16勝(7KO)1敗)。
(3)、1984年5月11日 ウェルター級ノンタイトル10回戦 シュガー・レイ・レナード(32勝(33KO)1敗)VS世界9位ケビン・ハワード(20勝(11KO)4敗→21勝(12KO)8敗1分)マサチューセッツ州ウースター
ー「レナードの復帰戦はラストファイトとなった」(ボクシングマガジン)。レナードが4回に喫したダウンをはね返し、9回にハワードをストップ(再び、当てるうまさを披露。さらに勝負強さは見事だったといえる)。およそ2年のブランク(やはり錆びつきは隠せなかった)。脂の乗り切った全盛期を棒にふった感があったながら、レナードはもともと「五輪」を集大成とし、プロ入りする気はなかったそうだ(しかし前妻(彼女)の妊娠が判明。生活のため路線変更)。そして、この一戦を最後に再び引退した。この当時、4階級制覇を志しハグラーへの挑戦が騒がれながらもレナードは「(ハグラーは)私にとって大き過ぎる」と語っていたのを思い出す(解説者としてハグラーの防衛戦を観戦後の談話)。加えてレナードは少年時代(母親によれば、内気で寡黙だったそう)、はじめのトレーナーが頻繁に性的虐待(オラル・セックスを強要)を行なっていたと暴露(それが後の「アルコール・ドラッグ依存」。前妻への家庭内(夫婦間)暴力につなっがった要因なのかもしれない)。




(1)、1981年4月25日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者トーマス・ハーンズ(31連勝(29KO)無敗)VS挑戦者ランディー・シールズ(アマ88勝3敗(全米ジュニア王者)+38勝(20KO)6敗1分→41勝(21KO)9敗1分)アリゾナ州フェニックス
ーハーンズが強豪シールズを12回TKOで破り、2度目の防衛に成功。ハーンズは慎重に戦い、勝ちに徹したといえる(この頃のハーンズは「コブラ」そのものだった)。シールズはクエバスの連続KO防衛を「9」でストップした選手。クエバスはノックアウトを狙っていたけど、倒せなかった。さらにベニテス(TKO負け)、レナード(判定負け)とも戦った。
(2)、1994年9月15日 WBA世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者トーマス・ハーンズ(39勝(33KO)1敗)VS挑戦者フレッド・ハッチングス(27勝(17KO)1敗→31勝(19KO)7敗)ミシガン州サギノー

ーハーンズが’ヒットマン’スタイルで、ハッチングスを3回にストップした。ハーンズは初回に2度ダウンを奪い、圧倒的勝利(最後の連打はすさまじかった)。ハッチングスはデュランに土をつけたライングに9回TKO勝ちし浮上してきた選手。デュラン戦の見事なノックアウトで完全によみがえったハーンズ(一時期、負傷した拳をかばい(判定勝ちが続く)アウトボクシングだった)。次戦においてハグラーとの決戦を迎える(3回KO負け)。ハーンズが一番強かった頃だった。東京テレビの放送を録画観戦。
(3)、1987年3月7日 WBA世界L・ヘビー級タイトルマッチ 王者デニス・アンドリュース(28勝(22KO)6敗2分け)49勝(30KO)14敗2分)VS挑戦者前2階級王者トーマス・ハーンズ(43勝(36KO)2敗)ミシガン州デトロイト
ーハーンズが地元ファンを前に、3階級制覇を達成した(ミドル級を後回しにしての戴冠)。アンドリュースを11回にノックアウト。6回に3度倒し、以後ワンサイドだった。アンドリュースは後にクロンク入り(同門)し、WBC王者となる。この試合も東京テレビで放送があった。



(1)、1980年9月27日 統一世界ミドル級タイトルマッチ 王者故アラン・ミンター(英・ミュンヘン五輪銅メダル(125勝20敗)+38勝(23KO)6敗→39勝(23KO)9敗)VS挑戦者マービン・ハグラー(49勝(41KO)2敗2分)ロンドン・イギリス
ーまず★追悼★故アラン・ミンター(先月死去・享年69歳)。サウスポー対決。「無冠の帝王」(アンツォフェルモ(米・イタリア系+俳優兼業=映画「ゴッド・ファーザーIII」にボディガード役で出演)に挑戦するも、(優勢だったながら)引き分けに終わった+4回TKO勝ちで雪辱)だったハグラーが地元王者ミンターに3回TKO勝ち。念願の新王者に就く。(ミンターの大ファン)速報で知りがっくりだった(苦笑)。ミンターはアンツォフェルモから判定で奪ったタイトル(初防衛戦で返り討ち→8回TKO勝ち)の2度目の防衛に失敗。ミンターは試合前「私はアメリカ人は大嫌いだ」と語り「苦労して手に入れたタイトルをそう簡単に渡しはしない」と勇ましかった。ながら蓋を開けてみれば、’ボストンの稲妻’のニックネームを持つハグラーのワンサイドだった。ミンターは初回早々と左目蓋を切り、出血が激しく(2回はいいパンチをもらったあと「打って来いっ!」と気合は入っていたが)。いいところないままストップされてしまう。期待していた地元王者があえなく惨敗したのに憤慨したファンたち。会場は大荒れに荒れた(次々ビールの缶などがリング上に投げ込まれ。ハグラーはセコンドに守られながら退場した)。ミンターは対アンツォフェルモ(1)を東京テレビで見ていた(14回にダウンを奪われる苦戦だったながら、戴冠)。そのときはアマ出身らしいきれいなサウスポーだと感心していたが。ハグラーと対すると、なんとなくぎこちないスタイルに思えたものだ(それほどハグラーは完成されていた)。ジャブの伸びも格段の差があり、びっくりしたのも回想する。ミンター最後の世界戦だった(このあと、ランカー対決でハムショ(シリア・ハグラーに2度挑戦(11回TKO負け・3回KO負け)に判定負け。さらに新旧交代同国人の新鋭シブソン(ハグラーに挑戦(6回KO負け))に3回KO負けしたのがラストファイトとなる)。
Españolスペイン語→Alan Minter (Londres, 17 de agosto de 1951 - 9 de septiembre de 2020) fue un boxeador británco que obtuvo el título lineal de peso mediano.
(2)、1981年1月17日 統一世界ミドル級タイトルマッチ 王者マービン・ハグラー(50勝(41KO)2敗2分)VS挑戦者フルヘンシオ・オベルメヒアス(ベネズエラ・30連勝(28KO)無敗→52勝(41KO)5敗)マサチューセッツ州ボストン

ーハグラーが圧勝(地元ファンを前に、高度なテクニックと強打を遺憾なく披露した)。無敗のオベルメヒアスを寄せつけず8回にストップ(7回にダウンを奪い、問題にしなかった)。初防衛に成功。ハグラー時代の幕開けを飾る完勝。ハグラーは(無冠時代)私がいたポートランドの市民会館(ナザロフがガマチェをノックアウト)でも数度試合を行なっている(もちろん住んでいた前の話)。
(3)、1982年10月3日 統一世界ミドル級タイトルマッチ 王者マービン・ハグラー(54勝(43KO)2敗2分)VS挑戦者フルヘンシオ・オベルメヒアス(38勝(36KO)1敗)サンレーモ・イタリア
ー再びハグラーが5回、強烈な右フック一発でオベルメヒアスを仰向けに倒した。オベルメヒアスはハグラーに敗れ初黒星を喫した後、8連続KO勝ち中(東洋王者朴鍾八に8回KO勝ちも含む)。この階級イチの実力者だったのは間違いない。だが、今度も及ばなかった(とにかくハグラーは強すぎた)。


(1)、1982年10月23日 世界ウェルター級王座挑戦者決定戦+全米・北米タイトルマッチ12回戦 王者(1位)ドナルド・カリー(モスクワ五輪米代表(400勝4敗)+14連勝(12KO)無敗→34勝(25KO)6敗)VS挑戦者(2位)マーロン・スターリング(アマ97勝3敗+25連勝(17KO)無敗→45勝(27KO)6敗1分)ニュージャージー州アトランティック・シティ
ーホープ同士の無敗対決。カリーが"Magic Man"(魔術師)の異名を誇るスターリングに2-1の判定勝ち。接戦を制した(次戦でレナードが返上したタイトルを韓国の黄俊錫(東洋王者)と争い、15回判定勝ちで王座に就く)。ハイレベルな玄人受けする試合内容だった。実力はほぼ互角。両者ともそうは簡単にクリーンヒットを許さない、攻防一体のボクシング。「スターリングに勝ったカリー」(ワールドボクシング誌)笑顔の写真を鮮明に記憶している(実際に試合をみたのは、かなり後になってから)。大贔屓のカリーでしたので、朗報に大喜びしたのを思い出す。モスクワ五輪代表から鳴り物入りでプロ入りしたカリーは、バンファス、故シュラーと並びもっとも期待されていた選手。
Italianoイタリア語→Donald Curry, pseudonimo di Donald Sample (7 settembre 1961), è un ex pugile statunitense, soprannominato Lone Star Cobra. Fu campione del mondo dei pesi welter dal 1983 al 1986 e dei medi junior dal 1988 al 1989.
(2)、1984年2月4日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者ドナルド・カリー(17連勝(13KO)無敗)VS挑戦者マーロン・スターリング(31勝(21KO)1敗)ニュージャージー州アトランティック・シティ
ー今度は世界戦での対決となったが、再びカリーがスターリングに15回判定勝ち(初顔合わせより差をつけ、3-0で2度目の防衛成功)。自信満々のカリーは王者の風格が感じられた。現在から回想しても、やはりカリーは偉大な選手だった( "Lone Star Cobra"(テキサス州のコブラ)のニックネーム
。もっともっと「大スター」になれる、資質と潜在性を兼ね備えていたので残念です)。後に統一王者となる実力者スターリングに2連勝したのはすごい。リングジャパンの「カリー特集」のビデオで鑑賞(16歳のとき)。後にカリーがナンのミドル級タイトルに挑戦した(10回TKO負け)後の座談会において。故スチワードが同席していたスターリングと開始前に合意したという検証→「ドナルド・カリーは最高のウェルター級選手だった」。
*Gaeilgeアイルランド語→Dornálaí Meiriceánach, a bhí ina churadh marcmheáchan, is ea Marlon Starling, a rugadh ar 29 Lúnasa, 1959 i Hartford, Connecticut.


(1)、1985年12月6日 世界ウェルター級タイトル統一戦 WBA王者ドナルド・カリー(23連勝(18KO)無敗)VSWBC王者ミルトン・マクローリー(アマ100勝5敗+27連勝(23KO)無敗1分(デビュー以来17連続KO勝ち→35勝(25KO)4敗1分)ネバダ州ラスベガス
ーカリーのベストファイト。2回KO勝ちで見事、タイトル統一成る。左フックのカウンター1発で最初のダウンを奪う(マクローリーは仰向けに倒れた)。立ち上がったところへ、今度は右ストレートで顎を打ちぬき。マクローリーは再び仰向けに倒れそのまま、テンカウントを聞く(カリーが勝つとは思っていたが、こんなに差が出るとは意外だった)。マクローリー(ハーンズの後輩、兄弟弟子)はイギリスのコリン・ジョーンズとの決定戦では分の悪い引き分け(「ジョーンズに非情のドロー」(ボクシングマガジン)1-0)に終わる(再戦ではダウンを奪い、12回判定勝ち+カリーは後に、敵地イギリスでジョーンズの挑戦を受け、4回TKO勝ち)。強打は湿っていた感があったが(4連続判定勝利(スタフォード・ランザニー・シールズ)だったながら、みな強敵(世界ランカー)相手)。でも「アイスマン」の強打復活、3連続KO防衛中だった(カリーは5度(4KO)防衛中)。なお、ミルトンの弟スティーブはロス五輪金メダリストである(プロ入り。五輪で勝っているフェネックに挑戦したが、14回TKO負け)。さらにあまり仲がよくないといわれていた、兄ブルース・カリー(この試合前に、ブルースは問題をおこし逮捕された=すでに王座転落後→コステロに10回KO負け)が弟ドナルドのセコンドについていたのも嬉しかった(涙、チャンピオンベルトを掲げ先頭に立ってリング入り。弟の快勝に満面の笑顔で歓喜していた)。加えて、妹のアンジェラがこのスーパーファイト前に交通事故死(享年18歳)。
*Milton McCrory (born February 7, 1962 in Detroit, MI) is a former professional boxer in the welterweight (147lb) division.
(2)、1986年3月9日 統一世界ウェルター級タイトルマッチ 王者ドナルド・カリー(24連勝(19KO)無敗)VS挑戦者エデュアルド・ロドリゲス(パナマ+19勝(12KO)6敗→23勝(16KO)14敗)テキサス州フォートワース
ー王者の地元での試合。カリーが2回にロドリゲスを倒し、7度目(6KO)の防衛に成功した。同じくベストファイトの1つといえる。カリーはこのまま、マッカラムへの挑戦が実現していればといまさらながら惜しい(すでにJ・ミドル級テストマッチ(グリーン(ミドル級世界ランカー)パエス(ハーンズに挑戦))に2連勝)。この次戦でハニガンに6回TKO負け(初黒星とともにタイトルを失った)。しかし兄ブルースはこの試合では冷え冷えと扱われ、取り巻きたちに「おまえは出てろ」「向こうへ行け」とリングから閉め出されてしまう。


(1)、1977年11月18日 ノンタイトル10回戦 前WBA世界J・ウェルター級王者 ウイルフレド・ベニテス(32連勝(23KO)無敗1分)VSブルース・カリー(アマ315勝11敗→13連勝(7KO)無敗→33勝(17KO)8敗)ニューヨーク・MSG
ー無敗対決。弱冠18歳、まだ少年の風貌そのものだったベニテスが2度ダウンを奪われながらも、強敵カリーに判定勝ち。とはいえ、判定は大いに議論を呼んだ。ベニテスはJ・ウェルター級タイトルを2度防衛した後、剥奪されていた。カリーはこの2戦前に、後楽園ホールにおいて世界ランカーのライオン・古山を5回にノックアウト(4回はダウン寸前に追い込まれながら、逆転KO勝ちだったといえる)。
(2)、1978年2月4日 ノンタイトル10回戦 再戦 ウイルフレド・ベニテス(33連勝(23KO)無敗1分)VSブルース・カリー(14勝(8KO)1敗)ニューヨーク・MSG
ー再びベニテスがカリーに判定勝ち。カリーはこの試合の前、同じく後楽園ホールでデビュー以来7連続KO勝ち中の杉谷実(北海道出身・満(東日本新人王(西日本新人王(無敗対決)の六車(後の世界王者)とダウン応酬の末、判定負け)・日本王者・世界ランカー(エスパラゴサ(ベネズエラ)に挑戦し、10回KO負け)の兄)を3回にノックアウトしたばかり(2度目の来日)。後に周知のとおり、弟と史上初兄弟同時世界王者となる。この当時のカリーは見ればわかるよう、後に再び来日して赤井英和を7回にKOした頃(晩年、とっくに全盛期は過ぎていた)とは別人の感がある(両者とも若さみなぎる、スピードあふれる攻防は忘れられない)。
*Françaisフランス語→Bruce Curry est un boxeur américain né le 29 mars 1956 à Marlin, Texas.



(1)、1987年8月22日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者マーク・ブリーランド(世界選手権(82年ミュンヘン大会)優勝金メダル・ロス五輪優勝金メダル(110勝1敗)+18連勝(12KO)無敗→35勝(25KO)3敗1分)VS挑戦者マーロン・スターリング(41勝(26KO)4敗)サウスカロライナ州コロンビア
ー大番狂わせ。スターリングが11回にブリーランドをノックアウトし颯爽新王者に輝く。ブリーランドは決定戦においてボルブレヒトに7回TKO勝ちで手にしたタイトルの初防衛に失敗した。予想は圧倒的にブリーランド有利だった(スターリングはカリーに連敗した後、元J・ウェルター級王者のバンファス(モスクワ五輪代表)に8回負傷判定負け)。まだアメリカに慣れない到着2ヶ月半後の試合(ESPNチャンネルの速報で知り、ブリーランドのよもやの敗戦に驚いた)。ロス五輪メダリストのホープたちの中で、一番期待されていた選手だった(ハンサムな貴公子ブリーランドは、俳優とモデルも兼業)。現在はトレーナーとして活躍している。
Svenskaスウェーデン語→Mark Breland, född den 11 maj 1963 i Brooklyn, New York, är en amerikansk boxare som tog OS-guld i welterviktsboxning 1984 i Los Angeles.
(2)、1988年4月16日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者マーロン・スターリング(43勝(27KO)4敗)VS挑戦者前王者マーク・ブリーランド(20勝(13KO)1敗)ネバダ州ラスベガス
ー再戦は、引き分けに終わった。ブリーランドには分の悪い結果(1-0)。スターリングが勝ったようにみえた(ブリーランドはもうひとつ、攻めあぐねていた感じ)。スターリングはこの前の試合に、日本の尾崎富士雄の挑戦を判定で退けている(アトランティック・シティー)。ブリーランドは後にWBA王者に返り咲き(韓国の李に初回TKO勝ち)、来日し尾崎富士雄に4回TKO勝ち(アマ時代以来2度目の来日だった)。3度目の防衛に成功(事実上の統一戦で、WBC王者ハニガン(この試合のセミで東洋王者韓国の鄭栄吉を5回にストップした)に勝ったスターリングが返上したため)。むろん、アメリカにいました(ホンマ、なつかしいかぎりです(夜空にきらめく「天の川」がきれいだった。自然と環境(一層静かな田舎町)はこのリッチモンド・ヒルとそうかわらない。経営者の家で見た)。




(1)、1989年2月4日 WBC世界ウェルター級タイトルマッチ 王者ロイド・ハニガン(33勝(22KO)1敗→43勝(30KO)5敗)VS挑戦者WBA王者マーロン・スターリング(43勝(26KO)4敗1分)ネバダ州ラスベガス
ー事実上の統一戦は、スターリングがハニガンに9回TKO勝ち。ボディーブローでダウンを奪い、そのまま連打でストップ。 ハニガンはいつものパワーがなく、もうひとつ元気がなかったように見えた。すでに移民局にとっつかまって「自主退去」帰国(裁判を受け、「強制送還」とお達しを食らった場合「旅費」は国(アメリカ)持ちになるにせよ(おまけにその期間ずっと「拘留」される)、2度と再びアメリカに入国できない→「自主退去」すれば、「5年」(カナダの移民権(「帰化」したのは97年)を取得した95年頃、遊びに行って入れた+(厳重な審査の挙句で時間がかかり)緊張しました)でまた行ける可能性もあるといわれた)待ち状態だったのも思い出しました(苦笑)。捕まった夜はなんともはや(「密告」により→大抵の場合は、その個人ではなく経営者(に恨みを抱く者による)の商売を潰そうとする者による「ちくり」(「賞金」も出るらしい)が圧倒的多数(莫大な罰金を払わされた挙句、へたをすれば「営業停止」に追い込まれる))「現場」を抑えられた=現行犯)。連行された真新しい移民局の「留置場」(個室)の中で、「ついにこの日が来てしまった」(よく「悪夢」をみて、汗びっしょりで目覚めていた)とぼんやりしていた(涙)。この試合は、経営者宅に居候しているときに観戦。じわじわと「国外退去」の実感が湧いてきて、「これからどうしようか」と毎日考えていたのが記憶に残ってます。捕まるとまず家に連行され、すぐ「パスポート」を没収される(その後「投獄」(;_;幸い、正直に全部白状(「ウソをついたら「一般留置場」に叩き込む」と脅された(苦笑))したから次の日、釈放されたけど+予約した飛行機のチケットを持って出頭すると、交換に返してくれる)。試合に戻れば、ハニガンの1敗はバカ(メキシコ)に負傷判定負けでタイトル喪失(初黒星)。再戦で3回KO勝ちで雪辱、タイトル奪回(これは台湾人おばさんの地下部屋でみた)。通算5度防衛(3KO)した。
(2)、1990年3月23日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者マーク・ブリーランド(26勝(19KO)1敗1分)VS挑戦者前統一王者ロイド・ハニガン(34勝(22KO)2敗)ロンドン・イギリス
ーブリーランドが3回、強敵ハニガンをストップ(すさまじい連打だった)。4連続KO防衛(この頃のブリーランドは強かった)。すでにモントリオール、カナダにいました(立ち読みした雑誌で知った)。ブリーランドはこの後、デービスに10回KO負け(再び転落)。続いての再起戦はバカに6回TKO負け。「天才」だったのは間違いないとはいえ、期待されていたほどは伸びなかった。一時期、クロンク門下にいたこともある。
*Русскийロシア語→Ллойд Хониган (англ. Lloyd Honeyghan; 22 апреля 1960) — ямайский боксёр-профессионал, выступавший в полусредней весовой категории.
(3)、1990年4月14日 IBF世界ミドル級タイトルマッチ 王者マイケル・ナン(34連勝(23KO)無敗→58勝(34KO)6敗)VS挑戦者WBC世界ウェルター級王者マーロン・スターリング(45勝(27KO)4敗1分)ネバダ州ラスベガス
ーナンがひとまわり小さいスターリングに12回判定勝ちで防衛成功。前戦のバークレー戦(無気力ファイトでがっくり評価を落とした)と同じく、消極的だった(すでにグーセン兄弟と離れ、マネージャーなし状態)。モントリオール、雑誌で結果を知りました。試合をみたのはようやく、アメリカ人のマニアから手に入れたビデオ。ずっと後の話(再びながら、この当時(国際便のビデオ売買)を考えればYoutube感慨深い)。しかも同時にみなさんに映像を紹介できるというのが信じられない(アメリカ時代なんか、スマホやネットどころかEメールだのPCすらない。まだ「国際電話」も結構、料金は馬鹿にならなかった)。スターリングは次戦でブロッカーに判定負け(王座転落、そして引退した→ラストファイトとなる)。ナンは
次戦からアンジェロ・ダンディーをトレーナーに迎え、フランスでカリーに10回TKO勝ち(衰えたカリーの敗戦は悲しかったです)。しかしナンは、この試合は気分を一新した様子。積極的に攻撃した。雑誌に「この戦い方ならずっと人気を維持できるだろう」と書いてあった。後にナンは、2階級制覇する。ながら「スター」にはなれなかった(「ポカ」負けをしてしまう選手)。
*Deutschドイツ語→Michael Nunn (* 14. April 1963 in Davenport (Iowa)) ist ein ehemaliger US-amerikanischer Boxer.


(1)、1986年2月15日 世界J・ミドル級ノンタイトル10回戦 マシュー・ヒルトン(19連勝(15KO)無敗→32勝(24KO)3敗2分)VS元3級級王者ウイルフレド・ベニテス(49勝(30KO)4敗1分)モントリオール(ポール・ソーヴェ・アリーナ)カナダ
ー期待の新鋭、強打のヒルトンがベニテスを圧倒。9回、痛烈なKOで沈めた。トレーナーは元選手だった父のデーブ・ヒルトン・シニア。兄弟の中で一番素質があり、またスター性があったと思う(パンチ力もすごかった)。一方、ベニテスの衰えが目立った(加えて気迫、練習不足の兆候ありあり)。私が住んでいた頃は、すでに落ち目だった(兄2人同様「刑事事件」ばかり起こしていた)。むろん兄弟全員、(英語なまりが強いながら)フランス語もできる。
*Françaisフランス語→Matthew Hilton est un boxeur québécois ancien champion du monde des poids super-welters né à Montréal le 17 décembre 1965.
(2)、1987年6月27日 IBF世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者バスター・ドレイトン(32勝(25KO)9敗1分→40勝(28KO)15敗1分)VSマシュー・ヒルトン(26連勝(21KO)無敗)モントリオール(フォーラム)カナダ
ーヒルトンがドレイトンに15回判定勝ち(マシューの人生、最高の瞬間だった)。もちろん、まだアメリカについたばかりだった18歳当時の話。だけど、このまま突っ走るかな、と期待していました。スイッチヒッター、強打のドレイトンはモントリオール五輪代表だった世界ランカー、クリント・ジャクソン(サウスポー)に番狂わせの3回KO勝ちするまでは中堅選手だった(突如開眼)。ヒルトンは2度目の防衛戦においてハインズ(米黒人・サウスポー)から2度のダウンを奪いながらも、判定負けで王座転落(試合中、肋骨を骨折)。後に、ディウィット(米白人・シムズ(ハグラーの異父弟)との決定戦で判定勝ち)のWBO王座に挑戦したが、11回TKO負け(チャンピオン返り咲きはならなかった)。
*Deutschドイツ語→Buster Drayton (* 2. März 1952 in Philadelphia, Pennsylvania, USA als Moses Buster Drayton) ist ein ehemaliger US-amerikanischer Boxer im Halbmittelgewicht und Weltmeister der IBF.

×

非ログインユーザーとして返信する