日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

De la position d'un débat semi-réfugié sur la responsabilité d'après-guerre et les Coréens au Japon/반 난민의 위치에서 - 전후 책임 논쟁과 재일 조선인/半難民の位置から - 戦後責任論争と在日朝鮮人(서 경식 徐京植Suh Kyung-sik)⑦

梁政明の苦悩
梁政明の遺稿集『いのち燃えつきるとも』(山和書房)が1971年6月に刊行されている。同書に収められた「抗議・嘆願書」は早稲田大学の学内闘争に関することがらも書かれているが、「被植民地支配下の異民族の末裔として、この国の社会の再底辺で25年間うごめき続けてきた者の、現代日本に対するささやかな抗議」と自分の行為を位置づけている。末尾に列挙された9項目の要求のなかには、「南北朝鮮の自主的平和的統一実現!」、「在日朝鮮人の民主的民族権利の弾圧を許すな!」、「金嬉老同胞の法廷闘争断固支持!」などの項目が見られ、末尾は「神よ、背教者の私を許してください!」と結ばれている。梁政明はクリスチャンであった。
梁政明は1945年6月、山口県に生まれた。両親は小作農で、7人兄妹の3男である。一家はきわめて貧しく、梁政明が9歳の時、そろって帰化した。
「私たち兄妹だけに浴びせられるあざけりのことば「チョーセン、チョーセン」、幼かった私は何のことか分からず、ただ悲しみと口惜し涙にくれるばかりだった。・・・貧しく育たなければならなかった人には理解できるだろう。他の家の子供たちが嬉々として遊びたわむれている時、野良仕事やたきぎ取りに小さな身体を従事させねばならない悲しみを。・・・父母は屈辱のすべてを忘れようとした。帰国のメドのつかないままに、国籍帰化を決意したのだった。乏しい家計の中から贈り物を整えて町の有力者たちに平身抵頭していく父母の姿は、私にはあわれでもあったし腹立たしくもあった。」
彼は工業高校を卒業したのち、地元企業の東洋工業に就職したが、「歯車のような生活」に失望して半年で、退社、1964年、ロシア文学を学ぶため苦学を覚悟で上京した。ペンキ屋、トラック助手、倉庫要員、新聞配達、牛乳配達、夜警、土工などのアルバイトに明け暮れ、「10円のコロッケ一枚で自炊したり、メシ屋でみそ汁だけ注文して失笑を買ったこと」もあった。
梁政明がキリスト教に出会ったのは、退職して上京するとき、その手続きをとってくれた職場の女性(遺稿には「M姉」と記されている)が熱心なクリスチャンで、上京して苦しむことがあれば教会を訪ねるよう助言したことがきっかけである。「M姉」と上京後も文通を続け、自分が朝鮮人であることを手紙で告白している。
彼は最初に代田教会、のちに高井戸教会に通ったが、彼の手記には、教会に通いはじめてからも解決されなかった葛藤と苦悩がありのままに綴られている。
「神が愛なら、どうして人間はこんなにみじめに苦しまねばならないのか。神が正義と公平をその属性とするなら、どうして人間社会の邪悪と不公平を許しておくのか。/強者は弱者を虐げ、日本人は朝鮮人を故なく侮辱する。神の存在は信じてもいい。けれども、神が愛なる存在であることを信じることはできない。」
二度めの受験で早稲田大学に合格した。だが、徹夜で働いてそのまま授業を受けるという生活に体をこわし、第二文学部(夜間)に転部したが、その際、無慈悲にもまた新たに入学金をとられた。この間、彼は内面における「信仰的な戦い」を続けた結果、「一つの結論」に達した。

권희로(權禧老[1], 1928년 11월 20일 일본 시즈오카현 ~ 2010년 3월 26일 대한민국 부산광역시)는 재일 한국인 2세, 기업가, 범죄자로의 일본 최장기수였으며 일본인 조직폭력배를 살해한 죄로 체포되어 24년간 복역하였다. 그는 1999년 대한민국에 돌아올 때까지 김희로(金嬉老)라는 이름을 사용했다. 따라서 김희로라는 이름으로도 불린다. 일본 시즈오카현 시미즈 출생이지만 그의 고향을 모친의 출생지인 부산으로 간주하기도 한다. 1999년 대한민국 귀국 이후 부산광역시와 서울특별시에 주로 거주하였다.


「私はキリスト教が単に個人の心の問題のみにとどまることにあき足らなかったのだ。殊に、社会や国家の責に帰すべき問題のために、暗い人生を歩まなければならなかった私は、キリストの福音が社会から避難した所においてのみ語られていることに不満だった。キリスト教が中上階級、インテリ層の宗教とされていることに怒りを覚えた。/キリストは社会の底辺でうごめく人たちにまず福音を語られたのではないか。キリスト教はこの現実社会のあらゆる悪や矛盾となれ合うことをせず、初代教会に見られるごとくの地の塩、世の光として社会の問題とも対決すべきではないか。(中略)悲しいことに現在多くのキリスト教会は、社会の現実と対決することから逃避している。」
手記の最後にピリピ書3章20節が書きとめられている。
「わたしたちの国籍は天にある。そこから救主、主イエス・キリストの来られるのをわたしたちは待ち望んでいる。」
*필립비인들에게 보낸 편지, 필립비인들에게 보낸 서간 또는 빌립보서는 신약성경의 11번째 책이다. 바울로가 디모테오와 함께 빌립보 교회에 쓴 저작으로 인정된다.[1] 그리스의 필립비는 바울이 2차 전도여행중에 실라와 함께 서기 49-51년에 방문한 장소이며, 그리스에 세워진 첫 번째 기독교 공동체가 위치했던 장소이다. 『フィリピの信徒への手紙』(ふぃりぴのしんとへのてがみ)は新約聖書中の一書で使徒パウロがフィリピ(ピリッポイ)のキリスト者共同体にあてた書簡。
梁政明は大学でクラス委員に選ばれ、代々木(日本共産党)系の学生運動に接近する。しかし、彼はここでも苦悩から逃れられない。当時の代々木系全学連のスローガンは「祖国と学問のために」というものだった。「ぼくにとって祖国とは何か?ぼくはこの日本のために情熱を捧げることはできない。」
しかも、代々木と学生自治会執行部(革マル系)は激しく対立していたため、梁政明は「自由にキャンバスを歩くこともできない」立場に追い込まれていた。この間、恋もしたが、出自を明かしたところ恋人の母親が交際に反対し、結局、失恋に終わった。
梁政明は早稲田大学に当時存在した朝鮮文化研究会と韓国文化研究会という在日朝鮮人学生のサークルを双方とも訪ねている。実は私自身、早稲田大学で彼の1学年後輩にあたり、その当時、韓国文化研究会に属していた。直後に顔を合わせる機会はないままだったが、彼の自殺のあとになって、彼が同民族との交わりを求めて自分たちのサークルに接触していたことを知って衝撃を受けた。彼を抱きとめることのできなかったという苦い思いは、30年後の現在まで心から消えていない。

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「裏切り」
梁政明は「抗議・嘆願書」に「自らの意志によらずとはいえ、自民族と祖国を裏切り、日本籍に帰化したことは苦悩を倍増」した、と書いている。植民地支配と差別の犠牲者である彼が、なぜ自らを「裏切り者」と責めなければならなかったのか。
「ぼくは何故、この時代に、この国に生きなければならないのか?この国の人々によって虐げられてきた異民族の一員、しかも、その貧しい民族をも、極言すれば裏切った家族の一員。そのどす黒い宿命の血が、ぼくの体内を逆流している。・・・父母、兄妹は日本人になりきろうとのみ努力する。その悲しい努力は、ぼくとも決して無縁ではない。しかし、ぼくは日本人にではなく、朝鮮人になりきる努力をむしろ望む。・・・他外国人ならいざ知らず、僕らがこの国に帰化することは許され得ないのではないか?それは犯罪的ですらないか?なぜならあの醜悪な日帝の後継者たる現支配階級の、民族同化の反動的政策のみがそれを期待しているのであるから。・・・まして分断された祖国の受難は未だ解決の日から遠い。その民族の苦悩から逃亡し、日本人の列に加わろうとすることが、果たして許されるのか?・・・祖国に帰る。同胞のもとに帰る。それがとるべき道だ。しかし、あまりに日本人化してしまっているぼく。」
梁政明のように、日本に生まれ、自民族の言語、文化、歴史を学ぶこともできないまま成長し、生活の基盤も日本にある人々にとって、祖国に帰ることはまったく不可能ではなかったにせよ、きわめて困難であることは明らかだ。まして、貧しさ故に日々の暮らしに追われなければならない状況では。梁政明は自分の両親に対し、たとえどんなにつらく苦しかったにしても日本国籍に帰化するということだけはしてほしくなかった、と繰り返し書いている。
「ぼくはこんな国に生まれたくはなかった。どんなに貧しくとも、祖国朝鮮で生きたかった。ぼくは、9歳の少年でなかったら、国籍帰化を拒んでいただろう。」
手記の「日本の友へ」という章で、彼は次のように述べている。
「「彼ら」(在日朝鮮人)は何も好きこのんで異郷の地で、みじめな生活をすることを選んだのではない。多くの日本人は簡単に言う。馬鹿にされるのがいやなら自分の国に帰ればいいじゃないかと、けれども彼らは日本にのみ生活の基盤を持ち、純粋な民族性をも剥奪されてしまっているのだ。」
彼の自殺を伝えた日本の新聞記事は、「日本人になりきれなかった悩み」が原因であるとほのめかしている。だが、かれの苦悩の本質はそこにはない。彼の苦悩は植民地支配の被害者である自分が、支配・差別する日本人の側に引きずり込まれたことにあった。被害者でありながら、加害者の罪までも背負わされたのだ。帰化は自分の意志ではなかったが、それでも自らの中に入りこんでしまった「日本人」を処罰するため、彼は、無実の自己を処刑したのかもしれない。

梁政明と同世代の朴実が書いた「朝鮮人であることを否定し続けた少・青年時代」という手記にも「裏切り」という言葉が使われている(『民族名をとりもどした日本籍朝鮮人』明石書店)。
朴実は京都市の東九条に生まれた在日2世である。貧困と差別のため、中学卒業後、自分が朝鮮人であることを隠して中小企業に就職したが、その職場では民族差別的な言葉が当然のように飛び交っていた。教会で知り合った日本人女性と恋愛し、結婚しようとしたところ、女性の家族から自殺をほのめかすほど強硬な反対にあい、最後にはどうしても結婚したいのなら帰化しろと要求されて、それを受け容れてしまう。その後、朝鮮の歴史、文化、言葉を知る中から差別の不当性に目覚め、たいへんな苦労をしながら名前を本名(朝鮮名)に戻した。朴実はこれを「自身をとりもどす闘い」と規定している。
「私は自分の犯した重大な過ちに気がついた。(中略)彼女との結婚と、(彼女の)両親が自殺をしないか、そのことだけを考えていたが、それでは私のオモニ(母)はどうなるのか。日帝に祖国を追われ、40代半ばで夫と死別し、7人の子供を育て上げたにもかかわらず、子供達からは卑下され、自分達を苦しめた日本人と結婚をし、「帰化」をしてしまう。オモニは何も言わず、ただ黙々と日雇い労働を続けて来られた。その穏やかな顔からは胸の内をくみとることはできなかったが、恐らく言語に尽くせぬハン(恨)を抱いておられるだろう。私は大切なオモニを裏切ったのである。」
梁政明や朴実にとって「帰化」は、「オモニ」に象徴される被差別・被抑圧の朝鮮民族への許しがたい「裏切り」であると観念された。しかも、いっそう悲劇的なことには、彼らは「帰化」が既成事実となってしまった後で、そうした自覚をもったのだ。その主要な原因もまた日本社会にある。学校教育の場をはじめ日本社会においては牢固とした自民族中心主義が貫かれているため、在日朝鮮人が自民族の歴史、文化、言語を学ぶ機会すらほとんど奪われているからである。
梁政明や朴実と同世代の徐勝は日本の東京教育大学を卒業したのち、1968年に韓国のソウル大学大学院(社会学)に「母国留学」した。弟の徐俊植は一足早く、すでに1967年に留学していた。そして、1971年春、彼らは逮捕された。取調中に焼身をはかった徐勝は大火傷に焼けただれた姿で法廷に現われたが、死刑の求刑を受けたあとの「最終陳述」でこう述べている。
「在日僑胞(在日朝鮮人)は、日本の植民地時代に、植民地統治下の本国において辛酸をなめ、強制的、半強制的に日本に連行されてありとあらゆる苦労の末に解放を迎えました。解放後においても、日本で、その社会的構造の故に民族的蔑視の下で多くの差別と苦痛を受けました。在日僑胞社会においては、このようなことに起因する大きな事件として、金嬉老事件あるいは李珍宇事件(「小松川事件」)を挙げることができます。(中略)何故このようなことが起こったのかといえば、一つには日本での(韓国人にとっての)困難な生活条件のためともいえるが、また一方では、自己の民族に対する自負心を持ち得ないことに起因していると考えることができます。このことがきわめて大きな原因であると思います。日本にいる僑胞は韓国人としての意識をもってはいても、それはどこまでも基礎的なものにすぎず、差別されるが故に自らが韓国人であることを感じ、意識する。逆にいうならば、積極的意味での真の民族意識を自覚し得ないでいるのです。」(『獄中19年』岩波新書)。
徐勝は、このような自覚から、祖国である韓国に留学し、韓国の闘う学生たち、民衆たちと連帯して生きようとした。梁政明や朴実の場合とは異なり、徐勝が韓国に渡ることができたのは、彼の家庭にそれを可能とする経済的条件があったからだ。それに、徐勝の両親は民族意識を失っておらず、血縁や地域の在日朝鮮人たちとの関係を保っていた。徐勝には子どもの頃から朝鮮の歴史や文化、在日朝鮮人に共通する諸問題を知り、それを同胞たちと論じ合う機会もあった。他方、日本人社会で孤立し、貧しさに追い立てられていた梁政明や朴実は、そのような機会に恵まれなかった。

つまり、梁政明や朴実のほうが、徐勝よりももっと虐げられ、もっと奪い取られた存在であったのだ。だからこそ、彼らは母国留学のような道を選択することもできず、帰化せざるをえないような場所に囲い込まれていったのだ。その囲い込まれた場所で、朝鮮人としての自分を発見した彼らは、自らのなかに無実の「裏切り者」を発見したのである。
私は梁政明と同じ在日朝鮮人だが、彼より恵まれていた。そのために、彼のような存在の苦悩は長い間、私の視野に入っていなかった。もっとも恵まれない場所から発せられていた彼の声に、私は耳を傾けていなかった。しかし、彼は私たちのために死んだ。その死をもって在日朝鮮人の苦悩の原型を私たちに示した、いまはそう思えてならない。彼は「抗議・嘆願書」の末尾で「神よ、背教者の私を許してください!」と叫んでいる。だが、私にはそこから、「わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのですか・・・」という声が聞こえてくるような気がするのだ。
全泰壱の死と梁政明の死を対比して、一方は栄光であり他方は暗黒だと言いたいわけではない。だが、許されるならば、ここでひとつ問いかけてみたい。朴聖焌氏はかつて「全泰壱は自殺したのではない。あれは自殺ではなく、自分の憎しみいっさいを分け与えたのだ」と言われた。あれは自殺ではない、敗北や挫折ではない、というのである。
しかし、ふたりの死に違いがあるだろうか。全泰壱の焼身を「イエス事件」にし、いわば火山脈の噴出にしたのは、そのような社会状況があったからであろう。民衆神学は、全泰壱の焼身の後になって事件の現場に駆けつけたけれども、民衆神学がその事件を起こしたのではなかった。つまり、神学があって火山が爆発したのではなく、火山が爆発したところに神学があとから駆けつけたのである。誰も駆けつけていなかったら、全泰壱の事件も敗北と挫折の自殺におわっただろう。同じように梁政明の自殺も、その意味を正しく受け止めて駆けつける者がいたなら、いわばある種の預言的な死、もうひとつの「イエス事件」であることができたかもしれない。梁政明の事件が敗北や挫折の自殺であったとすれば、そのようにしたのは彼ではなく、彼の叫びを聴きとらず、駆けつけることもしなかった私たちではないのか。
*코마츠 카와 사건小松川事件 (코마츠 카와 사건)은 1958 년 ( 쇼와 33 년)에 도쿄 에서 발생한 살인 사건 . 일명 코마츠 카와 고교 사건 또는 코마츠 카와 여학생 살인 사건.


在日朝鮮人とは?
現在、日本で外国人登録している「韓国籍」ないし「朝鮮籍」の人は、あわせておよそ65万人で、在日外国人総数の5割強である。90年代に入ってから帰化者がどんどん増えており、現在およそ年間1万人以上が帰化している。
1952年、サンフランシスコ条約の発効にともなって、日本政府は朝鮮や台湾など旧植民地出身者の日本国籍を一方的に剥奪した。在日朝鮮人の帰化はその時点から始まるのだが、90年代までの帰化許可総数が約20万人といわれている。
帰化という手続きは、「生計要件」、つまり生計を維持していく財産や技能があるかということ、「治安的要件」、日本国の憲法体系を暴力的に破壊するような団体と関係がないかというようなこと、さらに「同化要件」、つまり日本社会にどれぐらい溶け込めるか、いいかえれば「日本人らしさ」の程度、これら三要件を法務省が一方的に審査し、法務大臣の自由裁量で決定することになっている。つまり、生殺与奪の権を法務大臣がもっているわけである。
「帰化」という言葉を『広辞苑』で引くと、「①遠い地方の人が君主の徳に感化されて帰服すること」と書かれている。現に天皇が存在している日本では、天皇制に屈伏することを意味するほかない。天皇制こそは朝鮮植民地支配と侵略戦争に責任のある制度であり、現在の諸差別の源泉であるにもかかわらず、ここに梁政明や朴実が帰化を「裏切り」と観念した根拠のひとつがある。

20代30代の在日朝鮮人(韓国籍)を対象にしたある調査(福岡安則・金明秀『1993年在日韓国人青年意識調査』『在日韓国人青年の生活と意識』東京大学出版会)によると、父親の職業は7割以上が零細企業や自営業で、一般従業者は2割未満となっている。父親の世代(つまり私や梁政明の世代)に対して日本の労働市場は「圧倒的に閉鎖的である」ということがわかる。調査対象の青年たちは、一般従業員が6割をこえるが、実はそのうち25パーセントが在日朝鮮人の企業で働いている。彼らの世代に対しても、上の世代はないにせよ、依然として日本社会は閉鎖的であるということが読み取れる。
彼ら在日朝鮮人青年のうち民族教育を受けたことがある者は1割以上であり、朝鮮語がまったく読めない者が7割である。通名(日本名)を使用して暮らしているというのが8割弱、民族差別を受けたことがあると答えたのは、約4割である。
近年は在日朝鮮人の国際結婚がふえている。およそ8割が国際結婚、それも日本人との結婚である。国際結婚によってハイブリッドな家族が増えていくと国境や国籍の意味が薄れるから望ましいという論者もいるが、そうした家族の内部にも当然ながら、差別と抑圧の構造が内在している。私の講義を履修した学生のレポートを例に挙げると、この学生が20歳になったときにいとこの結婚式に行ってみると、一文字の姓の見慣れぬ人たちがいた。家に帰ってから尋ねると、母親があれは自分の親戚だ、つまり自分は朝鮮人なんだと告白した。そして母親は、このことを決して世間にいうなと念を押した。母親が家族のなかですらそのようなことを息子に隠し、自分の夫にしか言わず、夫に対してすら気兼ねしながら生きている。そんなふうに萎縮して生きている母がとても可哀そうだ、とそのレポートに記されていた。このレポートのような例が現実には多数あると思われる。
在日朝鮮人とは、日本による植民地支配の結果、旧植民地宗主国・日本の領域内にとり残されて生きることになった朝鮮人とその子孫である。自由意志による移民ではなく植民地支配の結果であるということ、そして、まさしく自民族を植民地支配した旧宗主国に住んでいるということ、このふたつの要件が重要だ。
在日朝鮮人を「祖国」「故国」「母国」の分裂した存在と定義することも可能だ。言語学者の田中克彦の概念規定では、「祖国」は祖先の出身地(ルーツ)、「母国」は自分が現に国民として所属している国家、「故国」は生まれたところ(故郷)を意味する(『ことばと国家』岩波書店)。この分類に基づいて考えると、日本人の圧倒的多数はこの三つがぴったり重なりあうが、在日朝鮮人はそうではない。私の場合を当てはめてみると「祖国」は「朝鮮」、「母国」は大韓民国、「故国」は日本ということになる。

在日朝鮮人のかかえるアイデンティティの問題は、ただ単に「祖国」、「母国」、「故国」が分裂していることによるものだけではない。その「故国」と「祖国」とが価値において対立しているということが、いっそうの問題なのである。「故国」である日本社会の多数派は天皇制をはじめとする植民地支配の時代以来の価値観を改めようとしない。それどころか近年では、日露戦争は正義の戦争であった、日本の朝鮮植民地支配は善政だった、劣った朝鮮人を日本人なみに引き上げてやった、などという醜悪な自己中心主義の言説が台頭している。そうした価値観は「祖国」朝鮮のそれと真っ向から衝突するほかない。
帰化とは国籍を変更することで「母国」と「故国」とを一致させようとする行為だといえるが、たとえそうしたところで、「祖国」まで一致させることはできない。したがって在日朝鮮人は自己意識の内部で支配者と被支配者との二重性から逃れることができない。この二重性の苦しみを多少でも軽減する者は、日本社会が真に植民地支配の罪を反省し、民族差別を根絶した社会へと変わるところにしかないのである。
在日朝鮮人は特定の「地域」に集中して住んでいるわけではない。マスコミなどでとりあげられる典型的在日朝鮮人は神戸の長田区とか、大阪生野区の通称「猪飼野」、あるいは川崎市などに住んでいる例が多いが、そうした人々よりむしろ在日朝鮮人社会の周縁の人びと、日本社会に砂粒のようにばらまかれた人たちの苦しみにこそ着目しなければならないと考える。
在日朝鮮人を「階級」的に見るとどうか?かつては在日朝鮮人の圧倒的多数はプロレタリアート、あるいはルンペン・プロレタリアートであった。しかし現在、在日朝鮮人の職業別構成は零細企業、自営業、家内工業がとくに多く、業種も日本社会のいわば隙間産業をうめるような形になっている。日本の企業社会の底辺で賃労働に従事している人たちは、在日朝鮮人として自己表出することもなく、ひっそりと暮らしているというのが現実であろう。総聯(在日朝鮮人総聯合会)とか民団(在日大韓民国民団)といった民族団体の組織を財政的に支えているのは商工人であり、これら民族団体は商工人の利益団体として機能している側面がある。貧しく無力な在日朝鮮人は、ここでも行き場がない。

では「文化」はどうか?日本社会では80年代半ばから、「国際化」がスローガンのもと「多文化主義」とか「異文化共生」が各地で言われるようになった。しかし、そうなると在日朝鮮人は、あらためて自分の「文化」とは何かということを問われることになった。そして、自分にとっての民族文化はすでに失われたということに気づくのである。もちろん、民族学校で、あるいは大阪や川崎など在日朝鮮人集住地域の一角で、朝鮮民族の言語、舞踊、歌など、いわゆる「文化」を学ぶ人たちはいる。しかし、大多数の在日朝鮮人に、その機会はない。
「朝鮮文化を持っている者が朝鮮人だ」という定式に潜む罠にも、私たちは敏感でなければならない。完成された「民族文化」なるものが存在し、それを備えている人が十全な民族の成員であって、そうでない者は民族の資格に欠けるという考え方からみれば、大半の在日朝鮮人は朝鮮民族ではないという結論になってしまう。このように民族への帰属を「文化」の有無で決定する文化本質主義および文化還元主義では、在日朝鮮人のアイデンティティの問題に答えることができない。なぜなら、在日朝鮮人は他の在日外国人と違って、日本人との「文化」の違いの故に苦悩しているのではないからだ。そうではなく在日朝鮮人は、本来自分が属していたはずの朝鮮民族の文化的共同体から引き剥がされたために苦悩しているのである。
まとめていうと、在日朝鮮人は「祖国」「母国」「故国」が三様に分裂しており、「故国」(日本)で排除の圧力(「いやなら出ていけ」)にさらされる一方、「祖国」(朝鮮半島)は分断されているという、縦横に引き裂かれた存在である。在日朝鮮人が経験している「分断の痛み」には「民族の分断」と「民族からの分断」という二重性がある。彼らの大多数は、自らのアイデンティティの拠り所としての「地域」も、「階級」も、「文化」もなく、日本社会という大海で、砂粒のようにアトム化して浮遊しているのである。

*타나카 카츠 히코田中克彦 (兵庫県出身타나카 카츠 히코, 1934 년 6 월 3 일 -)는 일본 의 언어 학자 . 전문 사회 언어학 . 몽골 연구도 실시한다. 언어 와 국가 의 관계를 연구. 히 토츠 바시 대학 명예 교수 . 2009 년 몽골 북극성 훈장 수여.

민중 신학의 형성과 전개 - 1970 년대를 중심으로 박 성 [의] 朴聖焌"박 / 선준"Formation et développement d'une théologie populaire axée sur les années 1970 Park Sei 〓 [Auteur] 《朴聖焌Park / Sung Jun》

民族神学への問い
このような在日朝鮮人を、民族神学は「民衆」と認めるだろうか?
『民衆が時代を拓く』(新教出版社)に収められた宋基得の報告(「民衆神学の正体」)にはこういうことが書かれている。
「韓国のための神学をすることである。韓国のためということは、韓国人のためということである。韓国人のためということは、韓国民族のためということである。韓国民族のためということは、その実態を形成している韓半島の民衆のためということだ。したがって、韓国や韓民族というとき、それは、支配イデオロギーとしての国家主義や民族主義を意味するのではなく、解放イデオロギーとしての「民衆的民族主義」のことを意味する。この点から、民衆神学と韓国神学は、同じ意味の言葉となる」。
ここでは「韓国」「韓国人」「韓国民族」「韓半島の民衆」がイコールで結ばれている。しかし、実際の数式はもっと複雑なのではないかと私は考える。この文章には註が附されていて、ひとこと「韓半島外で生活している韓国人は民衆という次元で共に連帯しうる」と書いてある。本国の民衆と在外朝鮮人(在日朝鮮人)とが、いかにして「民衆という次元で共に連帯」することができるかは、実は理論的にも実践的にもきわめて困難な問題である。そのことを民衆神学はどう捉えているのか。「同じ民衆だから」と簡単にいえるだろうか。在日朝鮮人は、梁政明が典型的にそうであったように、自分が民衆の一員であるかどうか。むしろ民衆を裏切ったのではないか、どうすれば民衆に繋がることができるのか、といった問題に苦悩しているのであるから。
朴聖焌著『民族神学の形成と展開』(新教出版社)をみると、民衆神学の土着的、共同体的な立脚点が随所で強調されている。「恨」(ハン)とか、「クッ」つまりムダン(シャーマン)が行なう祭祀、あるいは「イヤギ」つまり身世打鈴や民譚など、いわば、伝統的共同体に立脚した精神文化や芸能などによって脈々と受け継がれてきた民衆的経験というものが、ある社会状況のもとで火山脈のように噴火するのがイエス事件だというのである。しかし、前述のように在日朝鮮人は、このような伝統的共同体から引き剥がされた存在である。在日朝鮮人の大多数は、ハン、イヤギ、民譚、クッなどという民衆文化を保持していないどころか、それを奪われたという記憶すらも奪われているのである。
民衆神学が伝える民衆のイメージは、一種の理念化されたものである。平和市場の女性労働者を例にあげると、まず韓国という第三世界の人間であり、階級は労働者、ジェンダーは女性、出身地は差別されている全羅道、すなわち、どの点から見てもいわば完全無欠の「民衆」である。ところが在日朝鮮人は、日本資本がその韓国民衆を搾取していたとき、主観的意図は別にして、その搾取のおこぼれを享受していた。在日朝鮮人はここでも、日本社会では疎外され差別されているが、祖国の民衆からみれば加害者に加担している。あるいは少なくとも受益している。そういう二重性を帯びてしまっている。在日朝鮮人と韓国民衆は是非とも連帯すべきだが、このねじれた関係を解明しなければ、「同じ民衆」として連帯できると簡単に言うことはできないのである。
재일 한국인(在日韓國人, 일본어: 在日韓国人 자이니치 칸코쿠진[*]) 또는 재일 조선인(在日朝鮮人, 일본어: 在日朝鮮人 자이니치 조센진[*])은 일본에 거주하는 한국인[1]이다. 대한민국과 조선민주주의인민공화국에서는 이들을 재일동포나 재일교포라고 부른다. 1965년 한일국교정상화 전부터 살고 있던 재일 한국인인 올드커머(old comer)는 특별영주자이고, 국교정상화 이후에 이주한 뉴커머(new comer)는 일반영주자가 많다. 올드커머는 일제강점기와 1948년의 제주 4·3 사건 전후에 이주한 한국 남부 출신자가 많으며, 이들은 대한민국 국적자와 정식 국적이 아닌 조선적(朝鮮籍)[2]인 사람으로 구분된다. 일본 법무성 산하의 입국관리국의 2007년 말 기준 통계에 따르면, 등록 재일 한국인의 수는 59만3489 명[3]으로 전체 재일 외국인 가운데 재일 중국인(재일 대만인 포함)에 이어서 2번째인 27.6%를 차지하고 있다. 조선적 보유자는 2012년 4만617 명에서 2013년 3만8491 명, 2014년 3만5753 명, 2015년 3만3939 명으로 계속 줄어들고 있고, 2017년 말 기준으로 3만0859 명이다.[4]

「苦難の僕」をめぐって
次に徐俊植の獄中書簡から引用してみる。1982年に韓国の清州保安監護所という監獄で書かれたものである。(『徐俊植獄中書簡』柏書房)
「ときどきオモニの夢を見る。友人たちと道を歩いていて、或るバス停でオモニが独りでたたずんでおられる姿が見えた。とても嬉しくて私はオモニの方に駆けていったのだが、私をご覧になったオモニの表情と態度はつれないことの上なかった。ギクリとしながら私はオモニにどちらにおいでになるのかと尋ねた。オモニの返事はこうだった。「お前たちがみんな立派な人になってくれるようにと大学に入れてみたら、大学で難しい勉強をしてきては、みんなこの母さんを無学だと言って蔑むではないか。お前たちは学のない母さんを恥に思っているのではないか。だから、私独りでどこか違うところへ行って暮らすつもりだ。」
その表情!なんと悲しそうな顔だったことか!オモニが涙の込み上げてくるのをお堪えになったときはいつもそうだったように、あの小さな鼻が赤くなっていたのだった。私はオモニがあまりにも可哀そうで、袖をつかんでワッと泣き出した。(中略)眠りから覚めて、静かに横になっていようとすると、数日前に読んだ宗教雑誌の或る部分が思い出されて、あらためて探してみた。胸が締め付けられるように悲しく、また恐ろしい詩があった。

(筆者注:以下にイザヤ書53章3~8節「苦難の僕」の抜き書きがあるが、ここでは略す。{本書17頁に参照})
私はこの部分ばかりを4,5日の間に20回以上も読んだだろう。われわれのオモニは<神の僕>ではないけれども<いや、そうではないと誰が断言できるだろうか>、私はこれを読むたびに、まるでオモニのことを言っているような気がしてならないのだ。いま私の目には、むかし私との面会に通われていた頃のオモニの姿が次から次と浮んでくる。殺風景な事務室で、机に座って新聞ばかり見てオモニに目もくれない<お偉方>に10回以上もひとりでペコペコ頭を下げて挨拶されていたオモニを見て私は、なぜか恥しくて見たくないと思っていたのだ。だからそのとき私は、人々と一緒になってオモニを心から虐待していたのだ・・・(以下略)」

このように徐俊植は獄中でイザヤ書に出会った。「苦難の僕」は韓国では70年代から民衆神学によって繰り返し引用され、民衆神学のいう「民衆メシア」というイメージの中心的な拠り所とすらいえるものになっていたが、徐俊植はそれを民衆神学のいう「民衆メディア」というイメージの中心的な拠り所とすらいえるものになっていたが、徐俊植はそれを民衆神学からではなく、差し入れられた日本の宗教雑誌で発見している。
徐俊植(서준식: XXV Maii, 1948) Coreanica socialis activist est in Japan. Suh Sung est fratris Suh Kyung-sik esse minorem.

*함석헌(咸錫憲, 1901년 3월 13일 ~ 1989년 2월 4일)은 대한민국의 독립운동가, 종교인, 언론인, 출판인이며 기독교운동가, 시민사회운동가였다.
安炳茂は咸錫憲の思想について、「結局、なぜ世界のすべての腐ったものが、この地(朝鮮半島)に流れこまざるをえないのか、彼は、イザヤ書53章の苦難の僕を連想しながら、それは世界の罪を背負う行為であると大胆に主張する」と述べている(『民衆神学を語る』)。彼は韓国が世界の罪悪が流れこむ下水道の役割を担わされているのだと説き、全泰壱のような人々を苦難の僕になぞらえる。私自身、これは素晴しい思想だと思う。70年代から80年代前半まで、軍事独裁政権の圧制にうちひしがれ、最悪の罪のなかで「主よ、いつまで・・・」とつぶやきながら、自分に課せられた苦難の重荷は自分たちのみでなく、世界のためのものなのだと自らに言い聞かせる。そのようにして、韓国の同胞たちは信じがたいほどの勇気と倫理的高潔さを発揮してきた。
しかし、正直にいうと、私はどこかの時点から、これはある種の選民思想のようなものに足をすくわれるのではないかというかすかな危惧を感じていた。その金芝河の「大説(テソル)『南(ナム)』」の末尾は、要するに韓国の全羅道に全世界の終末的な解放をもたらす震源地があるという話になる。金芝河はその後、「東北アジア生命共同体」というようなことを唱えて政治的課題から遠ざかり、韓国国内においても批判を浴びた。韓国が世界苦のすべてを担っているのだというとき、前述した、韓国イコール韓国民衆イコール韓国民衆という定式が形骸化し公式化していくと、「苦難の僕」は自分だ、という混同が生じるのではないか。どこかからある種の自己中心主義、ナルシシズムへと転倒するのではないか。そういう疑問を禁じ得ないのである。人類の普遍的な課題のなかで韓国人が負うことになった特別な役割を否定するつもりはないが、「苦難の僕」をいわば一国的なカテゴリーjの中で解釈することには無理があると考えるからだ。
朝鮮民族の苦難は、在日朝鮮人がそうであるように、ディアスポラ(離散)の朝鮮人のなかにも複雑化された形で入り込んでいる。逆に、韓国民衆といっても第三世界人、労働者、女性、全羅道出身という典型化されたイメージで提示される一体のものではなく、実は韓国企業が第三世界に進出して現地の民衆を搾取するという現実があり、そのおこぼれにあずかって、韓国の経済発展、民衆生活の相対的な向上があった。そうすると、韓国民衆が苦難の僕であり韓国が震源地だといってしまうことはもはや許されない状況になっているのではないか。
そこで再び徐俊植の語る「苦難の僕」をよくみると、そこには虐げられ差別され抑圧されてきたオモニ(母)があり、その姿に「民衆」の原像を見出して駆けよったところが思いがけず拒絶されて泣いている自分がいる。自分自身が政治囚として苦難のただ中にありながら、母(民衆)を心で虐待していたのだと悟る。この位置関係が重要だと私は思うのである。自分と民衆がイコールなのではない。ひょっとすると自分は母(民衆)。そういうものとして「苦難の僕」がある。そこに、二重性の苦しみを負った人間にとっての「苦難の僕」像があると私は思う。
前述のように梁政明の自殺にも、在日と本国、朝鮮と日本、第三世界と先進資本主義、民衆と知識人中産階級・・・こうした引き裂きを自己の内部にかかえこまされつつあるのではないか。そういう二重性を視野に収める神学。もちろん、ただ二重性を容認するのではなく、現状を無批判に肯定するということでもなく、この二重性の苦しみから解放される道筋を指し示す神学。それが、ポスト民衆神学への私の期待である。    

(初出:富坂キリスト教センター編『鼓動する東アジアのキリスト教』新教出版社、2001年7月)
*追記
本稿は、富坂キリスト教センター主催の「東アジアにおける宣教と神学」研究会における報告(1998年7月11日)をもとに加筆したものである。同研究会は、1995年に韓国から民衆神学研究者である朴聖焌氏が来日されたことをきっかけに、日本側からも神学研究およびさまざまな実践にたずさわるキリスト者数名が加わって始まり、2001年1月まで5年あまりの間に15回にわたる研究会を重ねた。
キリスト者でない私がこの研究会に参加した理由は、旧知の朴聖焌氏に強く誘われたからだが、本稿で述べたような内容を民衆神学にぶつけて批判を受け、掘り下げて考えてみたいという希望をかねてから抱いていたからでもある。朴氏との議論は残念ながら噛み合わないままだったが、この研究会が私にとって貴重な学びの場であったことに変わりはない。とりわけ、1997年3月、特措法反対運動が昂揚する沖縄での研究会に参加したことは、忘れがたい体験として心に残っている。同研究会の成果は、『鼓動する東アジアのキリスト教―宣教と神学の展望』(新教出版社、2001年)として刊行されているので、ご参照いただければ幸いである。


記憶・証言・断絶―植民地認識の継承に関する私論(1)
はじめにーなぜ私はここにいるのか?
筆者は日本生まれの在日朝鮮人である(2)。筆者の問題提起を、なぜ私はここにいるのか?という二重の問いから始めたい。私はなぜこのシンポジウムの場にいるのか。そもそも、朝鮮民族の一員である私がなぜこの日本に生まれ、ここにいるのか。
いうまでもなく「在日朝鮮人」という存在は、日本による朝鮮植民地支配の所産である。1910年の韓国「併合」によって、朝鮮半島は日本の領土となり、朝鮮民族の成員はすべて、同意なく日本国臣民の枠内に繰り入れられた。日本による植民地支配の期間中、朝鮮人の日本本土(当時の「内地」)への渡航は累増し、とくに1939年から45年にかけては、いわゆる「労務動員」政策によって少なくとも70万人以上の朝鮮人が日本へ強制連行された。1945年8月の日本敗戦の時点で日本本土に200万人以上の朝鮮人が生活しており、その内の多くの者が翌年にかけて朝鮮に帰還したが、さまざまな止むを得ない事情から、およそ60万人が引き続き日本国の領域内で生活し続けることとなった。これが現在の「在日朝鮮人」である。
日本敗戦直後から1952年のサンフランシスコ講和条約発効まで、在日朝鮮人の法的地位はきわめてあいまいな状態におかれ、敗戦直後の日本政府は連合国との講和条約成立まで朝鮮人は引き続き「日本国籍」を保持しているとの見解をとったが、一方で、1945年末に朝鮮人・台湾人など旧植民地出身者の参政権を停止し、1947年には外国人登録令にもとづく登録を義務づけた。

*外國人登錄令(日语:がいこくじんとうろくれい,是1947年(昭和22年)5月2日,即日本國憲法頒布前大日本帝國最後一道敕令,是日本外國人登錄法的前身。這道敕令宣布在日本的朝鮮人與內務大臣所指定的台灣人不再是日本臣民,喪失公民權與參政權,視同外國人,外出必須帶外國人登錄證,違反者處以離境或監禁。舊金山和約簽訂後佔領解除,這道敕令雖然在1952年廢除,但仍保留了外國人登錄法,2012年(平成24年)7月9日才廢除
サンフランシスコ講和会議には韓国、朝鮮民主主義人民共和国いずれの代表も招請されず、もちろん在日朝鮮人代表も参加することがなかった。朝鮮民族の代表が不在のままで条約が調印され、52年4月の条約発効とともに、日本政府は一片の通達によって朝鮮人の「日本国籍喪失」を宣言した。これにより、日本敗戦以前から引き続き日本国内に在住してきた在日朝鮮人も一律に「外国人」として処遇されることとなり、日本国民(日本国籍保持者)でないという理由によって公務員就任権を否定され、さまざまな社会保障の対象から除外される等、いちじるしい不利益と差別を受けることとなった。また、民族教育権をはじめとする民族的諸権利も抑圧されてきた。比喩的にいえば、日本による朝鮮植民地支配は朝鮮半島においては日本敗戦とともに終了したが、在日朝鮮人に対しては未だ終わっていないのである。
*샌프란시스코 강화 조약サンフランシスコ講和条約(영어: Treaty of San Francisco, Treaty of Peace with Japan, San Francisco Peace Treaty, 일본어: 日本国との平和条約 니혼코쿠토노헤이와조야쿠[*]→일본국과의 평화 조약)은 1951년 9월 8일 미국 샌프란시스코 전쟁기념 공연예술 센터에서 맺어진 일본과 연합국 사이의 평화 조약이다. 1951년 9월 8일 미국 샌프란시스코에서 48개국이 참가하여 서명하여 1952년 4월 28일에 발효되었다. 조약의 발효로 연합군 최고사령부에 의한 일본의 군정기가 끝나고, 일본은 주권을 회복하였다. 이 조약에 의거해 설계된 국제 질서를 샌프란시스코 체제라고 한다.[1][2]
在日朝鮮人という存在は、植民地支配という過去の日本国の悪業から、現在の日本社会にまで伸びた長い影である。日本人マジョリティにとって在日朝鮮人は、たんなる文化的マイノリティなのではない。在日朝鮮人は、「証人」である。他民族を侵略し、支配し、差別し、そのような不正義を真摯に反省することも十分に償うこともないまま現在にいたった日本国のマジョリティにとって、自らの近代国家建設と戦後の経済大国化という「サクセス・ストーリー」につきまとう疚しい記憶の証人なのである。自国の歴史を美化して自己満足を得たい日本人マジョリティにとって、在日朝鮮人はこの上なく目障りな証人である。だからこそ、「日本にいたければ日本人に同化せよ、さもなければ出て行け」という決まり文句が、たえず在日朝鮮人に向けられるである。
筆者は作家であり大学教育にもたずさわっているが、歴史学や教育学の専門研究者ではない。それでも、この場に参加し発言しようとするのは、在日朝鮮人である自らの、「証人」としての務めに忠実でありたいと考えるからである。その際、筆者がおおいに関心を抱き、つねに参照しているのはヨーロッパ・ユダヤ人の経験、とくにナチ・ドイツによるジェノサイドを生き延びた「証人」たちの経験である。それは、ひとことで言うなら「断絶」の経験といえる。ヨーロッパ・ユダヤ人と東アジアの戦争被害者、この両者の経験を照らし合わせながら、現代日本において植民地支配や戦争責任の認識が広く共有されることを妨げている「断絶」の諸相を検討することが本稿の課題である。


*엘리에저 "엘리" 위젤(Eliezer "Elie" Wiesel, 1928년 9월 30일 ~ 2016년 7월 2일)은 루마니아 태생 미국의 유대계 작가 겸 교수이다.
日本における「証言の時代」とその反転
20世紀は、2度の世界戦争をはじめとする恐るべき政治暴力の時代であった。犠牲者の総数は1億7千万人にものぼるといわれる。そのため、世界のいたるところに暴力の傷痕があり、その記憶と、記憶の場所がある。そして現在、このような記憶そのものが、否定論者や歴史修正主義者によって、隠蔽、否認、抹消といった暴力にさらされている。「記憶の戦争」とも称されるこうした現実を、アウシュヴィッツの生き残りエリ・ヴィーゼルにならって「証言の時代」と呼ぶことにする(3)。(中略=この部分は前出)


*Italianoイタリア語→Se questo è un uomo è un'opera memorialistica di Primo Levi scritta tra il dicembre 1945 ed il gennaio 1947. Rappresenta la coinvolgente ma meditata testimonianza di quanto vissuto dall'autore nel campo di concentramento di Auschwitz. Levi sopravvisse infatti alla deportazione nel campo di Monowitz, lager satellite del complesso di Auschwitz e sede dell'impianto Buna-Werke proprietà della I.G. Farben.

Deutschドイツ語→Ist das ein Mensch? (Se questo è un uomo) ist Primo Levis (1919–1987) autobiographischer Bericht über seinen elfmonatigen Zwangsaufenthalt im KZ Auschwitz III Monowitz (1944–45), aus dem er als einer der wenigen Überlebenden befreit werden konnte. Das Buch wurde zwischen 1945 und 1947 verfasst. Durch die Sachlichkeit des Berichtes, bei der sowohl auf Urteile als auch auf explizite Gefühlsäußerungen verzichtet wird, unterscheidet sich das Werk von anderen autobiographischen Holocaust-Romanen.


「アウシュヴィッツは終わらない」
プリーモ・レーヴィは1919年、イタリアのトリノでユダヤ系の家庭に生まれた。トリノ大学で化学を学んだ。第二次大戦の後半、連合軍の反攻によってムッソリーニ政権が崩壊し、ドイツ軍がイタリア北部を直接占領すると、レーヴィは「正義と自由」という対独レジスタンス運動に参加した。しかし、1943年12月に逮捕され、ユダヤ系であったためにアウシュヴィッツに送られたのである。
アウシュヴィッツでは即時のガス室行きはまぬがれ、モノヴィッツのアウシュヴィッツ第3収容所に送られた。そこは通称「プチ」と呼ばれ、IGファルベンの化学工場に付設された強制労働収容所であった。そこでは囚人の平均寿命は2,3ヶ月に過ぎなかった。レーヴィによると、そこは「自分以外の全員に対する消耗戦」を強いられる戦場であり、「考えることが死につながる」巨大な人間破壊工場だった。ソ連軍による解放までの約1年間、レーヴィはこの「プチ」で生き抜き、1945年10月にトリノの生家に帰還した。
生還直後からレーヴィは収容所での極限的体験を証言するための作品『アウシュヴィッツは終わらない』(原題:『これが人間か』)を執筆した。それは人類社会に「危険を知らせる不吉な警鐘」を打ち鳴らそうとする、証人としての使命感による行為でもあった。同書は1947年の初版発行当時はほとんど注目されなかったが、1958年に出版社をかえて再刊されると第一級の証言文字として高い評価を受け、ドイツをはじめヨーロッパ各国とアメリカ合州国で翻訳出版された。その後もレーヴィは化学工場に技師として勤務する一方、アウシュヴィッツ経験に根ざした文学作品を次々に発表、イタリア戦後文学の代表的存在になると同時に、「一種の文化的英雄」とみなされるようになった。                       

しかし、今日、彼の作品がとりわけ注目されている理由は、彼がその最初の作品の中ですでに、予言的な悪夢について語ったという事実なのである。収容所の囚人たちが毎夜、苦しめられた同じ悪夢。無事に生還して地獄での見聞を物語っているのに、そして懸命に警告を発しているのに、誰も真剣に耳を傾けてくれないという悪夢である。
「そこには妹と、だれだか分からないが、私の友人と、ほかに人がたくさんいる。みな私の話を聞いている。(中略)自分の家にいて、親しい人々に囲まれ、話すことがたくさんあるのは、何とも形容し難い、強烈で、肉体的な喜びだ。だが誰も話を聞いていないのに気づかないわけにはいかない。それどころか、まったく無関心なのだ。私など存在しないかのように、自分たちだけで、他のことをがやがやとしゃべっている。妹は私を見て、立ち上がり、何も言わずに出てゆく。すると心の中にひどく心細い悲しみが湧いてくる。幼い時に味わった。ほとんど記憶に残らないような悲しみだ。(中略)なぜこんなことが起こるのだろう?なぜ毎日の苦しみが、夢の中で、こうも規則的に、話しても聞いてもらえないという、いつも繰り返される光景に翻訳されるのだろうか?(13)」
プリーモ・レーヴィは平和のための証人となる義務を自らに課したが、帰還後の生涯は、前記のような悪夢との格闘に終始したともいえる。
人生の艱難辛苦には耐える価値があり、生還して証言するために生きぬかねばならないと私たちに教えたプリーモ・レーヴィ。彼は1987年、トリノ市の自宅で自殺した。トリノ市の公営墓地にある墓碑には、174517と、アウシュヴィッツで刺青された囚人番号が刻まれている。遺書はなく、自殺の原因は特定できない。しかし、筆者としては、その前年の「ドイツ歴史化論争(14)」によって、アウシュヴィッツ生存者の証言を否定ないし相対化しようとする言説が台頭してきたことが、少なくとも自殺の原因の一部であることは疑いないと考えている(15)。もっとも著名なアウシュヴィッツの生き証人が自殺したことは、大きな衝撃をもって受け止められた。多くの人々が彼の自殺の報せに震撼したのは、それが、誰も警告に耳を傾けないというあの悪夢の勝利を告げるしるしかもしれないからだ。もしそうであるならば、生存者の証言は第二第三の「アウシュヴィッツ」に対する歯止めにはなり得ないという結論が導かれるほかないのである。
「アウシュヴィッツの表象不可能性」という言葉がある。今世紀における戦場(日本軍「慰安所」もその一部分である)や絶滅収容所での経験は、人間の理解能力や表現能力を超えたのである。そうした出来事を証言するということは「表象不可能性」の壁に挑むという、本来的に不可能ともいえる作業を自らに課すことを意味する。しかし、不条理なことに、他の誰でもなく被害者こそが、理解不能な地獄の経験を証言するという重荷を担わなければならないのだ。それなのに聴衆の多くは真面目に耳を傾けようとせず、そんなこと想像できない、実感がもてない、信じられない、重い、暗い、はては「ルサンチマンはもうたくさん」などと、冷ややかな無責任な批評を浴びせるのである。
こうして、プリーモ・レーヴィはアウシュヴィッツの証人となったでけでなく、その証言が一般社会に伝わらない、理解されない、真摯に受け止められないという「断絶」の存在を証言する証人にもなったのだ。
こうした「断絶」は、ヨーロッパだけのものではない。
前述のとおり、ヨーロッパに遅れて到来した日本における「証言の時代」は、日本国と日本人が生まれ変わるための好機であった。日本国が国民大多数のコンセンサスを形成しつつ、アジアの戦争と植民地支配の被害者に謝罪し、賠償することは、過去の犯罪の償いという意味からだけでなく、未来の東アジアにおける相互信頼の醸成と平和の確保のためにも避けて通ることのできないプロセスである。元日本軍「慰安婦」などの被害者証人は、その意味で、いわば未来の平和のための証人であった。しかし、日本において、この証人たちは尊ばれなかった。むしろ、しばしば辱めを受けた(16)。
プリーモ・レーヴィたちアウシュヴィッツの「生き残り」、南京事件の「幸存者」、元日本軍「慰安婦」・・・これら平和のための証人たちの証言を真に証言として成立させるかどうかは、むしろそれを聞く側の姿勢にかかっている。証人の数は多くないが、いないわけではない。証言がないのではない。しかし、ほとんどの人々は、無知と無関心、愚かさと浅薄さ、利己主義、根拠のない楽観主義、想像力の貧困や共感力の欠如・・・その他どんな理由からにせよ、証人の姿を見ず、証言に耳を傾けないのである。ここに、20世紀を特徴づける深い「断絶」が口を開けている。

*《呐喊》自序 [1] ,是现代文学家鲁迅为自己的小说集《呐喊》写的序言。作于1922年12月3日北京。这篇序文,勾勒出了作者前期思想的发展脉络,同时对游荡在当时背景中的自弦灵魂进行了深入的剖析。
*루쉰(중국어 간체자: 鲁迅, 정체자: 魯迅, 병음: Lǔ Xùn, 1881년 9월 25일 ~ 1936년 10월 19일)은 중국의 소설가이다. 본명은 저우수런(중국어 간체자: 周树人, 정체자: 周樹人, 병음: Zhōu Shùrén)이며, 자는 예재(豫才), 루쉰은 새롭게 지은 필명이다. 이외 영비(令飛), 하간(何幹) 등 100개 넘는 필명을 사용하면서 반정부 논객으로 많이 활동하였다.

大学生たちの感想文にあらわれた「断絶」の諸相
東アジアにおける「断絶」を語る際、筆者がつねに想起するのは魯迅の「呐喊自序」に記述のある「幻灯事件」である(17)。魯迅が仙台の医学校に留学中のこと。授業の後の余った時間に、スライドで報道写真を映すことがしばしばあった。ある日、そのスライドで日露戦争を伝える報道写真を上映したとき、日本人が中国人の首を軍刀ではねる場面が出てきた。日露戦争中、「露探」(スパイ)の疑いをかけられた中国人や朝鮮人は、裁判もないままそのようにして処刑されたのである。これを見た魯迅は、治療を要するのは身体よりも精神であると考え医学の道を捨て文学の道を選ぶ、というのがそのおおよその内容である。

しかしここに、日本でこの話がされる時いつもあまり強調されない記述がある。それは、その処刑場面が映されたとき、魯迅以外の学生たちは、全員拍手喝采した、そして魯迅もそれに合わせなければならなかったというくだりである。ここに、近代を通じて日本とアジア、日本人とアジア人とを隔てる断絶の最初のものが現われている。これは1905年、日露戦争直後の話である。日露戦争の過程で朝鮮は日本に軍事占領され、「保護国」にされてしまう。つまりこの時、朝鮮植民地化が決定的になったのだ。
それは95年前のこと、過去のことだ、といえるだろうか。いま日本では、日清・日露戦争が「よい戦争」だったという人々が増えている。司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んで、あの時代の日本人に帰ろうとか、誇りを持とうという人々が増えている。魯迅が味わった「断絶」は克服されていないどころか、むしろ深まっているといえるのではないか。

現在の「断絶」の諸相を、筆者自身が複数の大学で担当した講義を通して得た学生諸君の感想文によって見ていくことにしたい。ただし、これは学生のみを批判の対象にする意図からではない。学生は90年代における日本マジョリティの意識状況を正直に反映していると考えるからだ。筆者の本意は、学生の意識状況を手がかりに日本人マジョリティ全体のそれを推理することにある。
*「幻灯事件」民族主义是近代以来一直强烈存在的社会思潮,虽然每一个民族进入文明史以来便有对自己本民族的自觉意识,但现代民族主义无疑是西方文明全球化的产物。西方帝国主义对中国的殖民侵略,不但引起了中国与帝国主义的民族矛盾,也激化了封建统治者与被压迫民众的矛盾。在东西方文化的碰撞中,致力于民族觉醒和现代化的先进知识分子学习西方强国经验,西方的现代民族国家意识便被中国所接受。

*《언덕 위의 구름》 (일본어: 坂の上の雲)은 시바 료타로의 장편 역사소설이다. 작가의 대표작 중 하나이다 시바 료타로(일본어: 司馬 遼太郎, 1923년 8월 7일~1996년 2월 12일)은 일본의 소설가이다. 본명은 후쿠다 데이이치(일본어: 福田 定一)이다. 오사카부 오사카시에서 태어났다.
以下に[A]から[E]にわたって、「断絶」が特徴的に現われているケースを例示し分析してみる。(後掲[添付資料]参照)ただし[A]から[E]のすべてに共通する前提として歴史の事実に対する圧倒的な「無知」があることを明記しておかなければならない。日本の公教育における歴史教育、とくに加害の視点からの近現代史のはなはだしい欠如は、今日までたびたび指摘されてきたところである。1982年のいわゆる「教科書問題」以後、近現代史教育の充実は中国、韓国などアジアの戦争被害国に対する国際公約であるとすらいいうる。この「国際公約」は1998年の金大中韓国大統領の訪日の際にも日韓両首脳によって再確認された。にもかかわらず、状況は遅々として改善されないどころか、むしろ、前述のようにアジア蔑視と自己中心主義を隠そうとしない「新しい歴史教科書」が登場しようとしている。このことは、端的に、国家自身が被害者の「記憶」の黙殺、隠蔽、歪曲、相対化に荷担していることを意味している。しかし、ここではそのことを前提としつつ、さらに分析的に見ていきたい。なぜなら、「断絶」の原因をもっぱら「無知」のみに求め、歴史の事実を知りさえすれば「断絶」は克服されるだろうというような、単純な楽観論は戒めなければならないと考えるからである。現実には、微に入り細にわたる歴史的知識を備えた帝国主義礼賛者や差別者が存在し、他方にはほとんど具体的な知識を持ち合わせないままに被害者の苦悩に深く共感できることのできる人々が、残念ながら多くはないが、存在する。
[A]国民的自己愛、自己正当化
日本の植民地支配に「良い面」もある「強者にもたれかかるという朝鮮の軟弱な精神をきたえ直した」ことだ。帝国主義は「諸科学の進歩を促し、そして、元植民地の民族に間接的に民主主義を広めた。」(資料①)
「戦争とは人類の歴史であり、戦争なくして現在の人類の発展はありません。(中略)未来にあなたの国が侵略国になる可能性もあるのです。それを忘れないで下さい。」(資料②)
「日本は不当あるいは過大に非難されているが、良いこともした。」「他も同じようなことをしているのに、なぜ日本だけが。」「立場が変われば、相手だって自分と同じことをするだろうに。」・・・これら幼稚というほかない自己正当化の言説は過去から一貫して存在してきたが、90年代になって日本社会の一部で再び頭をもたげ、ついに国民的な広がりを見せるにいたった。その模範例が、前述した「戦後50年国会決議」への挿入句である。

[B]「経済大国」意識、「豊かさ」へのしがみつき
「僕はなぜ朝鮮人や中国人、タイ人などを見下す意識をもっているのだろうか。理由の一つは経済的な問題である。単純にいえば、彼らが僕たち日本人と比較して見栄えの良い家に住んでいるのか否か。また恰好の良い服を着ているのか否か。まったく、くだらないことだともいえるが、これは僕自身の思い込みというよりは人間の歴史がそうなのである。」(資料③)
「アジア諸国では日本に対して保証金を訴える人が大勢いる。たぶん、すべての言い分をきいたならば、日本は賠償金を払いきることはできなくなるだろう。・・・少しことばが悪いが、ほとんど日本に対するひがみのような訴えをそのままきくのではなく、もっと進歩的な謝罪、保証をしていくべきだと思う。」(資料④)
学生たちはさしたる根拠もなく「自分たちは豊かだ」という幻想にとらわれており、それにしがみついている。そこには「豊かさとは何か」という洞察もなければ、自分たちの享受している「豊かさ」によって犠牲にされた影の部分を見つめようとする視線もない。むしろ、それを見まいとする心的機制が働いているようだ。
1960年代後半以降、日本はいわゆる「高度経済成長」から「経済大国」への道を歩んだが、その過程で国民的な成功神話と経済的豊かさを唯一の尺度とする価値観とを国民のほとんどが共有した。バブル崩壊後もこの価値観に代るものは創出されず、むしろ漠たる不安をかかえたまま、「豊かさ」の残照に包まれていたいという気分が蔓延しているようだ。「貧しさ」への蔑視は、当然のことのように広がっている。学生たちの間で、「ビンボー」というカタカナ語は貧しい者への軽侮のみならず、自分自身を「貧しい」と感じている者が劣等感を冗談に紛らわすための屈折した表現として多用される。「豊かさ」の影から出現したように見えるアジアの戦争被害者は彼ら/彼女らにとって、そうした気分をかき乱し、「豊かさ」を脅かす存在なのである。
しかも彼ら/彼女らは、このような経済的貧富のみを尺度とする優越意識を、そのまま国家対国家、民族対民族の関係に当てはめる。資料④の「日本に対するひがみ」や、資料⑧の「貧乏くじ」という言葉が、そのことを端的に表わしている。こうした優越意識を克服しないままでは、被害者への補償を行なうべきだという立場をとる場合でも、自分たちは豊かであり、被害者は貧しくて可哀そうなのだから、という差別意識にとどまらざるを得ない。慈善意識は、「豊かさ」が失われると感じたときには容易に変質ないし反転する。
いうまでもなく、こうした意識は学生たちの独創ではなく、この社会の大人たちの意識の正確な投影である。一例をあげれば、評論家の小浜逸郎氏は著書で、「一部で盛り上がっている元従軍慰安婦などの声が、日本の経済力への依存に対する韓国の屈折した反日コンプレックスを基盤として湧き起こってきたものであるという、現在の政治的背景を見抜く視点」をもつべきであると主張している(18)。

①오바마 이치로小浜逸郎Ицуо Кохама⇔②1997/6/1ーゴーマニスト大パーティー〈3〉従軍慰安婦・脱正義論大論争Gomanist Big Party <3> Comfort Women and De-Justice Theory Big Controversy小林よしのり、小浜逸郎③小林よしのりと61人の読者たち+小浜逸郎Yoshinori Kobayashi and 61 Readers + Itsuo Kohama④Apr 16, 2018 — 西部邁氏追悼/小浜逸郎; 保守思想のパイオニア、西部邁/橋爪大三郎 ... 西部邁氏の思想との出会い/小林よしのりMemorial to Susumu Nishibe / Itsuo Kohama; Pioneer of Conservative Thought Susumu Nishibe / Daizaburo Hashizume ... Encounter with Susumu Nishibe's Thought / Yoshinori Kobayashi

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