日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

De la position d'un débat semi-réfugié sur la responsabilité d'après-guerre et les Coréens au Japon/반 난민의 위치에서 - 전후 책임 논쟁과 재일 조선인/半難民の位置から - 戦後責任論争と在日朝鮮人(서 경식 徐京植Suh Kyung-sik)④

*하세가와 데루(일본어: 長谷川 テル, 중국어 간체자: 绿川 英子, 정체자: 綠川 英子, 병음: Lǜchuān Yīngzĭ, 1912년 3월 7일 ~ 1947년 1월 10일)은 일본의 항일운동가이자 에스페란티스토이다. 중국에서 일본 제국의 중국 침략을 반대하는 운동을 펼쳤다. 베르다 마요(에스페란토: Verda Majo, 푸른 5월)라는 필명을 사용하였다.
*강수차(姜修次, 일본 이름; 다케다 세이지(竹田青嗣/たけだ せいじ), 1947년 10월 29일-)는 오사카부 출신의 재일 한국인 철학자, 문예 평론가이다. 평소에 쓰는 한국 이름은 강수차이지만, 호적상의 이름은 강정수(姜正秀)이다. 다케다 세이지(竹田青嗣)라는 이름은 다자이 오사무의 소설 "죽청"에서 따온 이름으로 별명, 필명일뿐 정식 일본 이름은 아니다.竹田 青嗣(たけだ せいじ、1947年10月29日 - )は、日本の哲学者、文芸・音楽評論家、早稲田大学国際教養学部名誉教授、大学院大学至善館教授。在日韓国人二世。通常用いている韓国名は、姜修次(カン・スチャ、강수차)。戸籍名は、姜正秀(カン・ジョンス、강정수)。「竹田青嗣」とは、太宰治の小説「竹青」から付けた筆名であり、日本名ではない。

(1)ハンナ・アーレント「集団の責任」大川正彦訳『現代思想』青土社、1997年7月号(2)徐京植「もはや黙っているべきではない」拙著『分断を生きる』影書房(3)本書17頁に収録、初出は小森陽一・高橋哲哉編『ナショナル・ヒストリーを超えて』東京大学出版会、1998年5月(4)竹田青嗣・小林よしのり・橋爪大三郎『正義・戦争・国家論』径書房(5)アーレント前掲論文(6)竹田・小林・橋爪前掲書、281-3頁(7)同前、145-6頁(8)上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』青土社、188頁(9)竹田・小林・橋爪前掲書、166頁(10)同前、151頁(11)上野前掲書、189頁(12)同前、同頁(13)同前、187頁(14)同前、197頁(15)竹田・小林・橋爪前掲書、198頁(16)加藤典洋『敗戦後論』講談社、54頁(18)同前、55頁(19)加藤典洋『敗戦後論』『群像』1995年1月号、279頁。なお、この部分は単行本では削除されている。(20)前掲『敗戦後論』講談社、60頁
(初出:『ナショナリズムと「慰安婦」問題』青木書店、1998年9月)

*追記 前項で述べたシンポジウムの記録『ナショナリズムと「慰安婦」問題』(青木書店)を刊行するに際し、主催の日本の戦争責任資料センターは、当日は時間の制約等の事情で議論を十分に展開することができなかったとの判断から、パネラーなどに対し、「論争、その後」として寄稿を求めた。本稿は、その求めに応じて執筆したものである。
なお、韓国においては近年、朝鮮戦争中の米軍による民間人虐殺事件が次々に明るみに出される一方、ベトナム戦争時の韓国軍によるベトナム民間人虐殺事件などについても元ベトナム派遣軍軍人の中から告白書が現われはじめている。日本や米軍による被害の記録と同時に、自国による加害の記憶もまた公的空間で語られるようになったきたわけだが、これを受けて、在郷軍人組織など保守勢力の激しい反発にもかかわらず、真相究明とベトナムに対する公式謝罪と補償を求める市民運動が一定の広がりを見せている。加害と被害の重層的関係を丹念に見つめながら、自律的市民としての責任を担っていこうとする指向性をそこに読み取ることができる。


「日本人としての責任」再考ー考え抜かれた意図的怠慢
一般のドイツ市民は無知に安住し、その上に殻をかぶせた。ナチズムへの同意に対する無罪証明に、無知を用いたのだ。目、耳、口を閉じて、目の前で何が起ころうと知ったことではない。だから自分は共犯ではない、という幻想を造り上げたのだ。知り、知らせることは、ナチズムから距離をとる一つの方法だった(そして結局、さほど危険でもなかった)。ドイツ国民は全体的に見て、そうしようとしなかった。この考え抜かれた意図的な立場こそ犯罪行為だ、と私は考える。-プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』竹山博英訳、朝日新聞社、1980年


1 はじめに
1999年10月1日、東京地裁において、在日朝鮮人(1)の元日本軍「慰安婦」宋神道さんが日本政府に対して謝罪と補償を求めていた訴訟の判決が言い渡された。
判決は「請求棄却」。成田喜達裁判長は数秒のうちに主文のみを言い渡し、事態が飲み込めない様子の原告・宋神道さんに背を向けて早々に退廷した。
1993年4月5日の提訴から6年余、70歳だった宋さんが76歳になるまでの歳月が費やされた。その間、宋さんは思い出したくない記憶を呼び起こし、語りたくない苛酷な経験の数々を、心を励まして語ってきた。住んでいる地域で、「生活保護で食っているくせに」とか「金めあてだろ」などと、心ない中傷を受けてきた宋さんは、判決を前にして、「もし裁判に負けたら、家に帰れねえ」とたびたび漏らすほどの緊張をみせていた。その結果がこの判決である。筆者は傍聴席から判決の模様を見届けていたのだが、予想されたこととはいえ、あまりのことに言葉を失う思いであった。結審の際に、陳述する宋さんに笑顔でうなずきかえす裁判官の温和な表情を見て、いかにも好人物ふうな印象が心に残っていただけになおさらである。
法廷の外では、韓国から駆けつけた元「慰安婦」の李容洙さんが、ハンドマイクを手に支援者たちに向かってこう述べていた。「日本の若い人たちのことを考えて対話的にやってきた。それが、この判決とは・・・こんなことでは、もう日本に来たくない。これからは、あなたがたの方が韓国に来るべきだ。」
その場に韓国報道陣の姿がないので、韓国から来た支援者に尋ねてみると、98年10月の金大中大統領訪日の際、韓国側から、もはや政府レベルではいわゆる「過去の清算」問題に絡んで補償等を日本に求めることはしないとのサインが送られたことから、韓国内でも「慰安婦」問題に対する関心が急速に薄れつつあるという説明であった。国家間の談合によって「過去の清算」がはかられ、半世紀以上の時を隔ててようやくわれわれの眼前に浮かび
上がってきた被害者の記憶、決して「清算」されることのないその痛みは、ふたたび封印され忘却の淵に送り返されようとしている。
この日の光景は、「証言の時代」の、とくにその反動局面での、もっとも象徴的な一幕として筆者の記憶に焼き付けられた。
1990年代になって、冷戦体制の崩壊、アジア諸国における民主化の一定の進展と人種意識の伸張などにともない、それまで沈黙を強いられてきたアジアの戦争被害者たちが、誰の目にも見える「証人」として立ち現われ、自らの権利と正義のために「証言」を始めることとなった。それは従来の日本とアジア諸国との関係史にはなかった。まったく新しい時代である。この意味で筆者は、高橋哲哉とともに、1990年代の10年間を日本における「証言の時代」と呼んだ(2)。
宋神道さんの裁判において、原告側の主張の要点は、被告(日本国)が報告(宋神道)を「慰安婦」にした行為は、「人道に対する罪」「強制労働禁止条約違反」などの国際不法行為に該当する、重大な人権侵害を行なった国家は国際法と国内法に基づく法的責任において被害回復の措置をとるべきだ、というものであった。これに対し、東京地裁の判決は、日本軍の慰安所制度についても、宋さんが「慰安婦」にされたことについても事実を認定している。それどころか、「言語に尽くし切れない苦痛と悲惨さをともなったであろうと推測される」とまで述べている。それにもかかわらず、原告側の請求を全面的に斥けたのである。
判決は国際法に基づく請求は国家間においてのみ該当し、個人のそれは例外的な場合以外は許容されない、とした。また、国内法については、国家無答責(3)、除斥期間(4)の成立などを理由に請求を斥けた。さらに、いわゆる「下関判決(5)」との関連で注目されていた「立法不作為」の争点についても、判決は、立法により何らかの救済策を創設することは「選択肢の一つ」としながら、「だからといって、憲法の明文からもその解釈からも(中略)補償立法義務が存在することが一義的に明確であるとすることはおよそ無理」であり、「そのような補償立法がされないからといって国家賠償法上違法視される謂れはなく」云々と述べて、原告の請求を斥けたのである。原告側は控訴の手続きを取り、現在は東京高裁で審理が行なわれている。
宋さんに対する東京地裁判決があらためて露呈したものは、日本国がかつて国際法に反する「慰安婦制度」をもっていたこと、ならびに、「慰安婦」に対して重大な人権侵害が行なわれたことが否定できない事実であったにもかかわらず、誰もその責任を負おうとしない日本社会の現実である。


*김대중(金大中[1], 1924년 1월 6일 ~ 2009년 8월 18일)은 대한민국의 제15대 대통령이다. Kim Dae-jung (1925 til 2009) esis politikisto en Sud-Korea. Lu esis duktisto dil opozanti dum longa tempo, e fine divenis prezidanto pos Kim Young-sam en 1997 til 2003.
2、証言の時代、その反動局面
筆者はこの間、「日本人としての責任」という気の進まないテーマをとりあげて論じなければならないことが何回かあった(6)。そのたびに「日本人としての責任」という設問そのものに対する日本人多数からの強い拒絶を感じさせられてきた。こうした拒絶感は、つきつめて整理すると2つの異なった心情に由来するように思える。ひとつは言うまでもなく「責任」そのものを拒絶する心情であり、もうひとつは「日本人」という枠組みに自らを括り込まれることを拒絶しようとする心情である。これらは一見相互に対立するように見えるが、現に目前に存在している「日本人としての責任」を否認している点において、客観的にみれば補い合っているものである。
「証言の時代」は日本人にとって、自国による加害の歴史を直視し、その責任の所在を明らかにし、そして被害者への謝罪や補償という行為を通じてアジアの隣人たちと新しい友好と連帯の関係を築いていくための好機でもあった。実際、その可能性は、なかったわけではない。
1991年8月、韓国ソウルで金学順さんが最初に名乗り出て以来、韓国のみならず挑戦民主主義人民共和国(北朝鮮)、台湾、中国、フィリピン、インドネシアなど、かつて日本の侵略や軍事占領をうけたアジア諸地域から元「慰安婦」の生き証人たちが次々に名乗り出てきた。元「慰安婦」だけでなく、元軍人・軍属・強制連行・強制労働の被害者など、さまざまな生き証人たちが名乗り出て、日本国に謝罪と補償を求め始めた。1990年以降、日本の裁判所に提起された外国籍の報告による戦後補償訴訟は47件に及んでいる(『朝日新聞』1998年2月6日)。
慰安婦制度への国家・軍の関与を否定し続けていた日本政府も、生き証人たちの登場と証拠資料の発見とによってやむなく従来の見解を改め、1993年8月4日の河野洋平官房長官談話によって、あいまいながらも国家・軍の関与および「強制性」を認め、「お詫びと反省の気持ち」を表わした。自民党単独政権に代わった連立政権の細川護熙首相は1993年8月10日の記者会見で、日本の戦争は「侵略戦争」であったという認識を明らかにし、同年11月に訪問先の韓国で、日本語の強制使用、創氏改名、「慰安婦」強制連行などを具体的に列挙して、植民地支配の「加害者として心から反省し、深く陳謝したい」と表明した。

こうした認識が広く日本国民に浸透し、さらに深められ、幅広いコンセンサスを形成することができていたならば、事態は今日とは大きく異なっていたはずだ。しかし、細川発言の直後から、右派勢力からの猛烈な巻き返しが起こり、細川首相は「侵略戦争」から「侵略的行為」へと発言を後退させた。
1994年、自民党は社会党および新党さきがけと連立を組んで与党に返り咲くが、3党の共同政権構想には「戦後50年を契機に、過去の戦争を反省し、未来の平和への決意を表明する国会決議の採択」に積極的に取り組むことがうたわれた。この「戦後50年国会決議」構想は、もともとは1988年に社会党の土井たか子委員長(当時)が提唱した「朝鮮植民地支配謝罪決議」に由来する。それが自・社・さ連立による村山富市政権が誕生するに及んで現実化に動き出したのである。
しかし、94年末、村山政権の与党である自民党内で前記の国会決議に反対する「終戦50年国会議員連盟」が旗揚げされ、自民党所属の衆参両院議院の約三分の二がこれに加入した。その活動方針は「一方的なわが国の断罪と自虐的な歴史認識を見直し、公正な忠実の検証に基づいて歴史の流れを解明し、日本および日本人の名誉と誇りの回復を帰すべきである」としている。野党の新進党でも決議に反対する議員による「正しい歴史を伝える国会議員連盟」が結成されたが、呼びかけ人の1人は「南京事件はでっちあげ」と発言して法相を更迭された永野茂門参院議員であった。民間でも「日本を守る国民会議」(黛敏郎議長)などが中心となり、草の根の右派勢力を総動員して、国会決議阻止500万人署名運動や日本人戦没者への追悼と感謝を内容とする地方議会決議を推進する運動を展開した。「あの戦争が侵略だったというのなら、戦死者は犬死にだったというのか」という、およそ論理性を欠いた主張(いわゆる「犬死に論」)が右派によって執拗に繰り返された。この主張は、しかし、元軍人や軍人遺族の、戦死者を国家的な顕彰の対象にしておきたいという誤った名誉感情と、恩給や年金を失うまいとする利益感情に訴え、右派の結集をうながす効果を発揮した。
国会決議は95年6月9日に衆議院で採択されたが、最大野党の新進党が欠席し、与党にも欠席者が続出して、出席議員の数が定数の半ばを下回るというみすぼらしい姿を天下にさらけだした。しかも、その決議文は、自国の行為を反省するという文言に先立って、「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略行為に思いをいたし・・・」という文言を無理やり挿入した一事が如実に物語るとおり、植民地支配と侵略の責任を否認ないし相対化しようという右派勢力の意向を大幅に取り入れたものになった。当然のことながら、こうした過程を注視していたアジア諸民族からの評判はすこぶる悪く、決議は所期の目的とは逆に、むしろ日本への不信感や警戒感を募らせる結果に終わった。ある海外メディアは、これによって日本はアジア民衆との和解の「最後の機会を逃した」と評した。
この年8月15日の記者会見で自・社、さ政権の村山富市首相は、「過去の戦争や植民地支配は『国策を誤った』ものであり、日本がアジアの人々に苦痛を与えたことは『疑うべくもない歴史の事実』」と表明した。これは従来の自民党単独政権の見解からみれば一歩踏み込んだものに見えるが、天皇に戦争責任があると思うかという質問に対して「それは、ない」と、あっさり否定している。また、村山政権は、いわゆる韓国「併合」条約についても、道義的に不当であったことは認めながらも法的に不法であったことは認めず、その点では従来の政府見解を固守したのである。
1996年になると、「終戦50周年国会議員連盟」を引き継ぐかたちで「「明るい日本」国家議員連盟」が結成され、自民党の衆参両議員116名が名を連ねた。その趣意書では、「(自国を)侵略国家として罪悪視する自発的な歴史認識や卑屈な謝罪外交には同調できない」と主張している。同連盟の会長に就任した奥野誠亮元法相は記者会見で、「慰安婦は商行為に参加した人たちで強制はなかった」と述べ、「慰安婦」問題を記述する中高の教科書を非難した(『朝日新聞』1996年6月5日)。また、日本遺族会顧問の板垣正参議院議員は、韓国から来日中だった元「慰安婦」の金相喜さんと会見した際、「信じられない」とか「カネをもらっていないのか」などと侮辱的言辞を繰り返し、河野官房長官談話についても「私は認めていない」と述べた(同前)。
こうした動きを、いわゆる「靖国派」を中心とする旧来の右派からの反動攻勢だったとするなら、民間からこれに合流しようとする新しい右派の動きも表面化してきた。現時点から振り返れば、日本における否定論や歴史修正主義の動きは、この頃から勢いを強め一般日本国民のなかに広がっていったといえる。

96年後半に注目を集めた「自由主義史観研究会」はディベート方式を採りいれた活気ある歴史教育の実践をうたう一方、右派の「皇国史観」にも左派の「コミンテルン史観」にも偏らない「自由主義史観」なるものを標榜したが、実際には早々に、自らが掲げた看板を裏切ってみせた。同研究会代表の藤岡信勝が同年末に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」の中心人物となり、中学校教科書から「慰安婦」に関する記述を削除せよと要求する運動を開始したのである。教科書攻撃に標的を絞ったこの運動に新旧の右派勢力が結集し、そこから藤岡に続いて、小林よしのり、西尾幹ニといったプロパガンディストたちが登場したが、小林の著作『新ゴーマニズム宣言Special-戦争論』(幻冬舎、1998年)と西尾の『国民の歴史』(産経新聞ニュースサービス、1999年)とは、いずれも数十万部を売るベストセラーとなった。もちろん両書の販売にあたっては右派勢力の組織的バックアップがあったし、とくに『国民の歴史』の場合は大量に無料配布されているという事実はあるにしても、日本国民の一定の部分が、こうしたプロパガンディストたちの粗野で差別的な論調を歓迎していることは否定できない。
2000年4月9日、石原慎太郎東京都知事が陸上自衛隊練馬駐屯地での創隊記念式典のあいさつで、いわゆる「三国人」発言をして批判を浴びたことは記憶に新しいが(7)、石原は「慰安婦」問題に関しても、たとえば次のような発言を公然と行なってきた人物である。
「慰安婦に関しては、単に日本だけを貶める狙いがあるので、目下の情勢で教科書への記述はまったく不要だしあくまで反対です。/強制連行なんぞされなくても一種のボランティアとして、有償ボランティアとして金を稼ぐということで娼婦になった女の人はたくさんいたはずだし、ごく自然なことです。それをもって、日本の戦争遂行が汚れたものだったというようなことは、性と経済に関する人間の摂理からしても作為的非難でしかない。/第一、個人の証言は検証しようがない。彼女たちが今は攻成り遂げミリオネアになっていたらそんなことは恥ずしくて言い出せるわけがない。依然として貧乏しているから、これで少しでも金が入ればいいという思惑で、今度は肉体でなしに自分の名誉を代償にして稼ごうとしているだけです。そういうことは見え見えなのに、そういう人間の卑しい本性に引きずられて教科書に載せる必要が一体どこにあるのか。どうしてもやるなら慰安婦を可哀想な被害者という視点からだけでなく現在の彼女たちの卑しい本性の部分も記述しなくてはなるまいに」。(『「父」なくして国立たず』光文社、1997年、/は改行)
こうしたあからさまで口汚い否定論、欧米では人種差別や民族間対立を煽る罪として刑事訴追されても不思議のない言説が、数万、数十万の読者に受け入れられている。いまや否定論者のレイシスト(差別主義者)が首都の知事の座を占めているのである。そんな異常な現象が、さして異常とも思われないまま歯止めもなく増殖しているのが日本社会の現状であろう。

*高橋 哲哉(たかはし てつや、1956年3月28日 - )は、日本の哲学者。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授。


Histoire nationale  Par Kanji Nishio 국민의 역사  니시오 줄기 두

*니시오 줄기 두西尾幹ニ (東京都出身로 직접 느끼고, 1935 년 ( 쇼와 10 년) 7 월 20 일 -)는 일본 의 독일 문학자 , 평론가 . 니체 연구 시라된다. 학위 는 문학 박사 ( 도쿄 대학 ). 전기 통신 대학 명예 교수 .

Nation can't stand 
without "father" Shintaro Ishihara [Author] "아버지"없이는 국가 서지 않고 이시하라 신타로 [저]
*이시하라 신타로(일본어: 石原 慎太郎(兵庫県出身), 1932년 9월 30일 ~ )는 일본의 작가, 정치인이다. 1999년부터 2012년 10월까지 도쿄도지사를 지냈다. 배우 이시하라 유지로의 형이며 슬하에 4남(장남 이시하라 노부테루 (중의원 의원), 차남 이시하라 요시즈미 (배우 겸 기상 캐스터), 삼남 이시하라 히로타카 (자민당 심사원 의원), 사남 이시하라 노부히로 (화가))을 두고 있다.
*제삼국 인第 三国人(だいさんごくじん)는 본래는 "당사국이 아닌 제 3 국의 국민"일반을 가리 키지 만, 연합군 점령 하의 일본 에서는 정부 [1] [2] 와 국회 [1] 를 포함 일본인 과 GHQ 가 특히 일본 에 거주하는 구 외지 ( 대만 · 조선 등)에 귀속하는 사람들을 가리키는 데 사용 된 호칭 (원래는 행정 용어 후술). 단순히三国人(山嶽먼지)이라고도한다.第三国人(日语:第三国人/だいさんごくじん dai sangoku jin */?),簡稱三国人(三国人/さんごくじん sangoku jin ?),是一个日语贬义词,用以称呼來自前日本外地(殖民地)的日本居民,包括朝鲜人與臺灣人(本島人)。此詞的意思是「當事國以外的第三國之國民」(當事國係指二戰的各宣戰國),最开始是为前日本外地居民制造一种隔离的种族和政治身份,特别是为了朝鲜人(韩国人)。
*고노 요헤이(일본어: 河野 洋平(神奈川県出身), 1937년 1월 5일 ~ )는 일본의 정치인이다.
*무라야마 도미이치(일본어: 村山 富市(大分県出身), 문화어: 무라야마 도미이찌, 1924년 3월 3일 ~ )는 일본의 정치인이다. 오이타현 오이타시에서 태어났고 제81대 내각총리대신과 일본사회당 위원장, 사회민주당 당수를 역임했다.
*호소카와 모리히로(일본어: 細川護煕(東京都出身・本籍熊本県), 1938년 1월 14일 ~ )는 일본의 정치인이자 구마모토 번의 번주 가문이었던 히고 호소카와가(肥後細川家)의 제18대 당주로, 1993년 8월 9일부터 1994년 4월 28일까지 일본의 제79대 총리를 지냈다. 그의 외할아버지는 제2차 세계 대전 기간 동안 2번이나 총리를 지낸 고노에 후미마로이다.

*나가노しげと永野茂門(大分県出身), 1922 년 (다이쇼 11 년) 6 월 28 일 - 2010 년 (헤세이 22 년) 1 월 4 일 )는 일본 의 육군 사람 과 육상 자위관 . 퇴임 후 참의원 의원 (2 기)을 지냈다. 영전 은 종 3 위 훈 이등旭日重光章.
*일본을 지키는 국민회의日本を守る国民会議 (일본을 지키는 국민회의)은 과거에 존재했던 개헌을 목표로 한 일본 의 보수 단체.
*黛敏郎(日语:黛 敏郎(神奈川県出身/まゆずみ としろう Mayuzumi Toshirō,1929年2月20日-1997年4月10日),日本作曲家。日本二戰後古典音樂、現代音樂界代表人物。黛敏郎在東京藝術大學擔任講師時培育了很多年輕作曲家。
*일본을 밝게하는 모임日本を明るくする会 (일본을 밝고 할래)는 일본 의 의원 집단. 제 46 회 중의원 의원 총선거 에서 첫 당선 한 자민당 의 중의원 의원 들로 구성되어있다.


3 混迷する中間勢力ー自己正当化の欲望
しかし、現在の危機の特徴は前述のような右派ないし極右派の伸張のみにあるのではない。むしろ、80年代まで右派への牽制勢力、制御勢力として不十分ながら一定の役割を果していた旧社会党・総評ブロックがその思想的浅慮さを露呈してほとんど自滅したこと、さらに、市民的リベラル派とみられていた中間勢力が、「女性のためのアジア平和基金」(国民基金)をめぐる知識人や市民運動の分裂によって露呈されたように、はなはだしい混迷を続けていることが、いっそう深刻な問題だといわねばならない。
1997年に刊行された加藤典洋著の「敗戦後論」が意外に多くの読者に歓迎された現象は、アジアの被害者からの訴えと右派勢力の反攻との板挟みとなった中間勢力の動揺、さらにいうなら自己正当化の欲望の反映であった。同書のタイトルとなった論文「敗戦後論」が1994年末、すなわち「犬死に論」をかかげる右派の反動攻勢が強まる中で発表されたものであることは、同論文が駆使するレトリックの背後にあるものを読み取るためにも、想起されておくべきであろう。
日本という人格が改憲派と護憲派とに人格分裂している、「自国の死者」の弔いを通じてそれをまず統一させなければ被害者への謝罪もできない、という加藤のレトリックは、実際には、何もできない(あるいは、したくない)中間勢力が、何もできない状態に自ら納得し、何もしないことを自らに言い訳するために恰好のものであった。いうまでもなくそれは、日本社会内部の身勝手な自己了解にとどまるほかなく、他者(被害者)に対しては何の説得力も持たない。
加藤典洋は西谷修との対談で、アジアの戦争被害者が過去の事実の承認と謝罪を求めているとき「それに答えうる「主体」を立ち上げるという要請に迫られている」という西谷修に答えて、次のように述べた。
「日本人はおかしいじゃないか、おまえたちはおかしいじゃないかと言われたときに、その「おまえたち」に合致する「われわれ」というものはもはやいないし、その「おまえたち」を引き受ける人は誰もいない。「敗戦後論」というのは、だったらおれが全部引き受けてやるよ、と書いたものなんですよ。」(「世界戦争のトラウマと『日本人』」『世界』1995年8月号)加藤は「国民」という概念が現在の日本では責任回避の機制として働いている、そこで、謝罪することのできる「責任主体としての国民」という立場を新しく作り出すのだという。(対談「敗戦後論とアイデンティティ」『情況』1996年1-2月号)

日本の戦後の問題は、戦後日本社会の人格が分裂し、わたし達の人格の甕に補修することだが、そのための手がかりの一つに、死者の弔いという問題がある。(『石の前に立つこと』『この時代の生き方』講談社、1995年、195頁)
日本ネーションという割れた「甕」(かめ)を張り合わせるため、「無意味に死んだ自国の死者を、無意味なままに弔う」というのである。無意味なままに弔うのだから靖国派の主張とは違う、というわけだ。しかし、加藤は同時に「300万の自国の死者」を指して、「汚れていても父は父だ」とも言っている。「無意味なまま」と言いながら、そこにはすでに「意味」が充填されているのだ。「自国の死者」という集合をイメージし、それを一括して「父」と観念するということこそ、模範的なほどの血統主義的国民論の表明だからである。
加藤は「300万の自国の死者」を代表するものとして、吉田満の小説『戦艦大和ノ最期』(講談、文芸文庫)に登場する臼淵大尉を挙げる。特攻作戦に出航した戦艦大和の艦上で自殺的作戦のもつ意味、避けがたい死の意味について論争が起きたとき、「敗れたことによって日本が目覚める。それでいいじゃないか」と述べ、従容として運命を受け入れたという人物である。一見して明らかなとおり、これは「無意味」どころではない。臼淵の言葉はあからさまに、当時、日本の若者の多くがとらわれていた「共同体のための犠牲」としての崇高な死という美意識の枠内にとらわれたものである。その枠内に若者を引きずり込んだのは天皇制国家だった。

長いスパンで見れば日清戦争以来の、短くとっても日中戦争以来の侵略と殺戮の歴史、そのもっとも最終的な局面で、日本の若者たちが特攻という名の自殺を国家から強いられ、無駄死にさせられたのである。日本軍兵士の中には特攻隊のような「崇高さ」とは無縁な、戦場で女性をレイプした者、南京で非戦闘員を虐殺した者、ニューギニア戦線の飢餓地獄で現地人や仲間の人肉を食った者、臼淵の死と同じ時に沖縄で民間人に「集団自決」を強いていた者等々もいた。にもかかわらず加藤は、長い殺戮の歴史の最終局面、それもナルシスティックな美意識で飾られた一部分だけをあえて取り出し、それを「300万の死者」の代表に捉えているのである。
特攻作戦で死んでいく日本人将兵は、逃れがたい自己の死だけを見つめている。彼らは、ともすれば崇高な「犠牲者」のように見える。ひいては戦争が天災ででもあったかのように、あるいは日本国そのものがまるで被害者だったかのように思えてくる。しかし、それは大いなる錯覚でしかない。彼らには被害者という側面もあることはあるが、彼らへの加害者はほかならぬ自国権力なのである。加藤は彼自身錯覚しているか、でなければ、読者の錯覚を期待しているのではないか。
加藤は、臼淵大尉の思想に戦後思想の可能性が潜んでいるという。しかし、そもそも臼淵自身は、戦後日本への構想らしきことを述べていない。彼はただ、自らの死を「共同体」の再生のための犠牲と「意味」づけ、そう思い込もうとしているだけである。つまり、臼淵の念頭には日本という「甕」があるだけで、そこにどんな水が湛えられるべきかについては何も語っていないのだ。加藤にとってはそこが好都合なのであろう。なぜなら、かりに臼淵が戦後日本の構想について何か具体的に「意味」のある言葉を残していたら、彼の死を「無意味な死」と呼ぶことはできず、その弔いを「無意味なままの弔い」と称することもできないからだ。
いうまでもなく日本が行なった戦争は、帝国主義侵略戦争であったという「意味」と本質的に不可分である。「無意味な死者を無意味なままに弔う」というのは、そもそも無意味であるはずのない侵略戦争の「意味」を不問に付すためのレトリックであり、右派の「犬死に論」との対決を回避し、むしろそれとの妥協点をさぐるためのものであることが容易に見て取れる。
加藤はいちおう、自分が立てようとする「戦後日本人」という国民主体は、血統主義ではなく出生地主義の原則と居住の事実に基づいて構成されるもので、戦前のような「共同的」主体ではなく「公共的」主体だとも言っている。しかし、これはつじつまが合わない。考えてもみよ、「汚れていても父は父だ」という発想は血統主義そのものではないか。血統主義を捨て出生地主義を採用するということは、契約主義的国家観に立って、在日朝鮮人などの定住外国人をも含む新しい「国民」を形成することであるはずだ。そうだとすれば、臼淵大尉を代表とする「自国の死者」を「父」として弔い、その弔いの儀礼を通じて国民的主体を立てるというような「共同的」な言説に侵略と植民地支配の被害者たちが同意できるはずがないであろう。
加藤の議論は、日本が戦争被害者に「謝罪」できないのは国民主体の人格分裂のためでもある、「謝罪」を実現するには、その前提として統一した国民主体を立ち上げなければならない、という構成になっている。しかも、その国民主体は「自国の死者」を「父」として弔うことを通じて形成される「哀悼共同体」(高橋哲哉)なのである。もし不幸にして、加藤のいう手順で日本という国民主体の統一がなされたならば、それは侵略戦争の「意味」を不問にし、「共同体のための自己犠牲」というナルシスティックな美学を国民的に共有する、はなはだしく自己中心的な主体になるだろう。そのような主体が加害の責任を深く自覚することは論理的にいってあり得ず、したがってそれが被害者にまともに謝罪する主体にはなりえないことは明らかである。加藤自身、こんなことを述べている。
「(加藤のいう筋道で考えていくことが・・・引用者)国民共同体への恭順になり、主体の形面上学に陥ることだとしても、しかし、わたし達は、この道を、この道がこのような危険をもつということを組み込んだうえで、この順序で、進んでいくのがいい、そしてそれが現実の問題として現われたら、そこで、これを解決するのがいいのである。」(『敗戦後論』あとがき)
「それが現実の問題として現われたら」とは、信じがたいまでの無責任さである。そのような「危険」は、いま、「現実の問題」として目の前に現われているではないか。
結局、過渡の議論の眼目は、アジアの戦争被害者たちに対して、どうにかして「謝罪」を実現しようという点にはなく、国民主体なるものが立ち上がるまでは「謝罪」はできないのだし、それが立ち上げられた後に「謝罪」ができるかどうかは、そうなってみなければわからないということなのである。ここには、他者(被害者)の呼びかけを真摯に受け止めた形跡は見られない。自国が行なった侵略戦争の「意味」を直視し、その責任を明らかにすることなしに、戦前日本人の「公共的」主体を作り上げることなど不可能なのだ。加藤の比喩を借りていえば、亀裂のはいった「甕」は、貼り合わせようとするではなく、むしろ徹底して割らなければならないのである(8)。



4 (非)国民主義的(無)責任論
加藤典洋の前述のような議論に対して、西川長夫は次のように述べている。
「戦後50年決議をめぐるごたごたや大臣たちの失言騒ぎは別として、「謝罪」が憂鬱なのは、この問題は自分自身に深くかかわってくるが、その責任はとうてい背負いきれないからである。それをあえて引き受けようとするとどうなるかを如実に示しているのが、創刊50周年記念の『世界』に載った加藤典洋と西谷修の対談「世界戦争のトラウマと「日本人」である。(中略)それまで日本人や日本という共同体に距離をおいていた戦後生まれの2人の評論家は、戦後50年の「謝罪」を契機にこうして「子供」から「おとな」になり、日本回帰をはたす、彼らの論理は一見絶対的な正しさをもって迫る。だが、そこに罠がありはしないか。自分を共同体に同一化させずに、非国民をつらぬきつつ責任を果たす(あるいは果たさない)狭いわずかな可能性も残されているのだから。(1995年8月の幻影、あるいは「国民」という怪物について)『国民国家論の射殺』(17頁)
「謝罪」すらも契機として「国民という怪物」を立ち上げようとするものだという西川の加藤批判は、たしかに一面の真実を言い当てている。しかし、西川の側にも、「責任」をめぐる議論に混乱があることは事実であり、そこに加藤からの「責任回避の機制」としての(非)国民論であるという反論を許す弱点があるといえよう。そもそも、前記のように一見して問題点が明らかな加藤の議論が、なぜ西川には「一見絶対的な正しさをもって迫る」のか、理解に苦しむと言うほかない。この問題を整理するため、まず、「靖国派」など右派の国民観を右端に置き、西川のような国民国家論的(非)国民観を左端に置く横軸を想定してみよう。右端は本質主義的国民観、左端は構成主義的国民観ということもできる。加藤は中間から右に向かうペクトルにおいて西川を批判していることがわかる。
しかし、このような横軸のみを尺度としては、現在の混乱した「責任」論を整理することはできない。ここに「日本人としての責任」を認め引き受けるか、それを否認し拒絶するかという縦軸を加えてみる必要がある(次々頁図参照)。図の上で諸言説の位置を考えてみると、もっともわかりやすいのは本質主義的国民観をもち、「責任」を否認するDの立場である。すなわち、「靖国派」を代表とする右派ないし極右派がこれに該当する。「自由主義史観」グループや小林よしのり(『戦争論』)のように、90年代後半の反動局面でここに合流した新しい右派勢力もある。
Cは、本質主義的国民観をもちつつも「日本人としての責任」をいちおう承認する立場である。ここには、「慰安婦制度は日本の恥だから、誇りの回復のためにこそ謝罪すべき」というような、かりに「道義的国家主義」とでも呼びうる立場から、「謝罪問題は日本の外交や経済活動の国際的展開にとってマイナスだから、あっさりと謝罪したほうが国益にかなう」といった国益主義、さらに、憲法9条んの改廃を経て「普通の国」路線を突き進もうとする新自由主義的な右派まで含まれる。彼らは実用主義的な観点から謝罪や補償の必要を限定的に承認する一方、近隣諸国にナショナリズムがあるように日本人もナショナリズムがあって当然だという相互主義の論法を用いて(被害者側の民族感情を逆利用して)、外国に無名戦士の墓があるように日本にも、外国の軍隊があるように日本にも、などと主張する。これを筆者は、「グローバルスタンダード・ナショナリズム」と呼んでいる。「謝罪」をテコとして「哀悼共同体」の形成を説く加藤典洋は、かつての市民的リベラル派などの中間勢力を、国の中央あたりの曖昧な位置からCの方向へと誘引する「ハメルンの笛吹き」を演じているのである。

Bは構成主義的な立場からの「国民国家批判論」だが、その中には一種の「無責任論」というほかない諸言説がある。先に引用した西川長夫の文章には、そうした混乱ぶりが現われている。「『謝罪』が憂鬱なのは、・・・その責任はとうてい背負いきれないからである」と西川はいうが、だから「謝罪」はできないという論理は成り立つまい。そもそも「責任」とは他者との間に発生するものであるから、「背負いきれるか」どうかが問題なのではなく、「ある」かどうかが問題なのである。かりに「責任がある」ことを認めるのならば、「背負いきれないから負わない」などということはできないはずだ。可能なかぎり「責任」を負う姿勢を示すことだけが被害者から理解を得ることのできる道であろう。「背負いきれない」というのは曖昧であり、それだけに危険な表現である。ここでは「倫理的責任」「政治的責任」および「補償責任」などの各レベルが想定されるが、そのいずれのレベルにおいても、まず、誰にいかなる責任があるのかを丹念に吟味するべきであり、それをしないままで「とうてい背負いきれない」とだけ言うと、被害者側の要求が法外な無理難題であるかのような既にある偏見をいっそう助長することになりかねない。なお、日本の軍関係者とその遺族に対して今日まで計40兆円にものぼる恩給や年金が支払われてきたことを想起するならば、「補償責任」に関しては、日本国民にとって「とうてい背負いきれない」ものになるという根拠は薄弱である。
「自分を共同体に同一化させずに、非国民をつらぬきつつ責任を果たす(あるいは果たさない)狭いわずかな可能性」というが、この文章は少なくとも、その「狭いわずかな可能性」を追求して「責任」を果たそうという呼びかけにはなっていない。「責任」を果たそうとすると「共同体に一体化」してしまうおそれがある。だから「責任」は負えない、といっているのである。西川は別の文章でも、こう繰り返している。「私の内なる気弱な男が、俺はもう日本人をやめたいよ、とつぶやいている。それは私はいかなる権利があって、この未来永劫の大罪を私の子や孫や、コスモポリタン志向の若者たちに押しつけることができるのだろうか。」(『戦後50年と、ある非国民のつぶやき』前掲書11頁)
「もう日本人をやめたいよ」というが、「国民」をやめることは実際には簡単ではない。自身ユダヤ人難民だったハンナ・アーレントの言葉を、ここで想起してみよう。
「わたしたちがこうした政治的な、厳密な意味で集団的な責任を免れうるのは、当の共同体を離れることによってでしかない。そして、だれしも何らかの共同体に帰属せずには生きることはできないのだから、このことが意味するのは、ある共同体を別の共同体と交換し、したがってある責任を別の責任と交換することにほかならないだろう。20世紀が、国際的に承認されうる共同体のどこにも帰属しない、真のアウトカーストである人たちというカテゴリーを生み出したことは真実である。すなわち、じっさいには政治的には何にたいしても責任を負わされ得ない亡命者や国家なき人々を生み出したことは真実である。(ハンナ・アーレント「集団の責任」『現代思想』1997年7月号、81頁)

*한나 아렌트(독일어: Hannah Arendt, 1906년 10월 14일 ~ 1975년 12월 4일)는 독일 출신의 정치 이론가이다. 종종 정치 철학자로 평가되지만, 아렌트 자신은 항상 철학은 "단독자인 인간"에 관심을 갖는다는 이유로 그러한 호칭을 거절했다. 그는 대신에 자신을 정치 이론가로 묘사했는데, 그 이유는 그의 업적이 “‘한 인간’이 아닌 ‘인류’가 지구에 살며 세계에 거주한다.”는 사실에 중심을 두고 있기 때문이다.
アーレントはここで、個々の行為の「罪」は個人に帰すが、共同体の成員(国民)にはつねに政治的な意味での「集団の責任」が課されると論じている。「国民」をやめるというのは、国家の庇護の外に出ることである。しかし、自発的に、「真のアウトカースト」「亡命者や国家なき人々」、つまり「難民」になるのでないかぎり、ある国家の国民をやめたところで、どこか別の国家の国民になるしかないのであるか、そうなれば、別の国家の国民としての政治的責任を担わなければならないことになる。
国家議員は主権者である国民の投票によって選出され、政府は国会の承認を得て政策を実行する。国民の税金はある場合には戦争費用にも用いられ、別の場合には戦争被害者への補償金に用いられることもあるが、その使途を決定するのは窮極的には納税者である国民である。国家が政策を誤ったとき、それを変更させる責任は第一義的に国民にあるのであり、国家が他者に被害を与えてしまった場合、それへの謝罪と補償を政府に行なわせる責任もまた国民にある。
戦後世代の責任は、戦争時に不在だったという意味では戦前・戦中世代と同じ質のものではない。戦後世代には、過去の犯罪行為に関する限り、法的な意味での「罪」はない。その限りで、彼らに犯罪行為の当事者と同質・同量の責任を問うことが合理的でないことは明らかだ。しかし、戦前からの連続性をもち、現在なお被害者への謝罪と補償を満足に実行していない国家の主権者として、戦後世代の国民もまた、前述した政治的な意味での責任を負わなければならないことは否定できないであろう。そして、その政治的責任に背を向ける行為は、たんに倫理的に非難されるのみならず、構造的に見れば自国の国家犯罪との共犯関係を形成することになるという意味で、限りなく「罪」に近いものといわねばならない。
戦後補償実現のための運動を自発的に担っている戦後世代の日本人の一部からも、ときとして、「いわれのない責任をあえて負う」といった、誤解の余地の多い声が聞こえてくることがある。その人々の善意や誠意を疑うものではないが、その声が発せられる余地のありようや、その声が客観的にもつことになる効果については疑問がある。彼ら彼女らにとっての「責任」は倫理的かつ普遍的なものばかりではない。それと同時に、それに重なって、前述の意味での「日本人としての責任」もまた彼ら彼女らに課されているからだ。それは「いわれのない」ものではない。
「日本人」の国民的責任を問題にする際、しばしば提起される疑念や反論は、「日本人」は均一で等質な実体をもつ集合的主体ではない、「日本人」の中にはアイヌなど北方民族、沖縄の人々、帰化して国籍を取得した朝鮮人なども含まれているというものである。これはこの限りではしごく当然な指摘だが、こうした人々(かりに「周縁日本国民」と呼んでおく)が存在するからといって、「日本人としての責任」という範疇そのものが雲散霧消してしまうことはあり得ない。まして「周縁日本国民」の存在を利用して、「中心部日本国民」(日本国民のなかの圧倒的多数派を占めるエスニック・ジャパニーズ)の免責を図ることなどは論外であろう。誰を国民に繰り入れるか、誰を排除するかといった支配権を事実上独占しているのは、この「中心部日本国民」なのである。

「日本人としての責任」とは、第一義的には、国民(主権者)であることによって生じる政治的責任なのであるから、その国民の民族的出自や、その個人が国民となった経緯といった事情は第二義的な考慮の対象にとどまる。「日本国民としての責任」といわず、「日本人としての責任」と言い続けることに意味があるとすれば、「日本国民」と多数派エスニシティとしての「日本人」とが、前述のように癒着している現実があるからである。
「帰化」について朝鮮人についていえば、植民地支配と戦後の系統的差別政策という不当な圧力の結果として日本国籍への「帰化」を余儀なくされた事情があるとはいえ、あるいはそれだからこそ、日本国の国民(主権者)となった以上、この人々は日本国に植民地支配と侵略戦争の謝罪と補償を実行させる政治的責任をいっそう自覚的に担うべきであると筆者は考える。原則的にいって、日本社会をその人自身にとって生きやすいものに変えていくためにも、そうすることが必要なのである。
ちなみに筆者は、在日朝鮮人二世である筆者自身にも、韓国籍保持者である限り、ベトナム戦争への「韓国人としての責任」はあると考えている。その中心的な内容は、被害者への謝罪と補償を韓国政府に実行させる政治的責任である。「国家」や「国民」という観念の自明性を解体しようと努めることは必要かつ正当だが、自分の頭の中でそれらへの帰属意識を否定したところで、「国民」をやめたことにはならない。国家ないし民族(集団)への「帰属意識をもつ」ことと、「国民である」という現実とは同じではない。ある個人が「コスモポリタン志向」であろうとなかろうと、つまりその個人が集団への帰属意識をもとうがもつまいが、国籍を保持し、そのことによって国家から有形無形の拘束と庇護とを受け、パスポート取得から参政権にいたるまで多岐にわたる国民的特権を享受しているという現実があるかぎり、その人はまぎれもなく「国民」なのである。多くの場合、日本の国民国家批判論者はこの明白な区別を認識することができないか、でなければ、意図的にこの点を混乱させているようだ。このような言説の最悪の例として、たまたま目にしたある法哲学者の文章を紹介しておこう。
「集団的アイデンティティを持とうとしない人々にまで一体化を強要する民族国家(中略)の理念は正反対である。私の目から見れば、「自虐史観」を批判して日本人としての誇りを主張する人も、戦後世代に戦争責任や罪悪感を押しつけようとする人も、政治的な立場こそ違え、民族への帰属を強いるという点では変わらない。(中略)責任の償いがたさを情緒連綿と語るような人は、私には「金が問題ではない。誠意をみせろ」と無理難題を吹きかけてくるやくざを連想させる。」(森村進『シンポジウムへの補足』第47号、日本倫理学会)
この文章は、「責任」をテーマとしてとりあげた1998年の日本倫理学会大会のシンポジウムに関連して書かれたものである。「やくざ」云々という表現も聞くに堪えないが、結びのことばもまた、この人物らしいものだ。立論からすると、これは冗談や反語ではない。
「人生は楽しむのが本当である。『日本一の無責任男』といったキャラクターに人々が共感をもつのも理由のないことではない。」(同書)
重ねていうが、筆者はこの法哲学者や、西川のいう「コスモポリタン志向の現代の若者たち」に、日本民族への帰属意識を求めているのではない。自分たちが「国民(主権者)である」という事実をありのままに認識し、加害国の国民として、被害者への政治的責任を果たしてほしいだけなのである。人生を楽しむのは自由だが、それが被害者への責任を放擲する理由にはならない。それに、被害者への責任を放擲していては、人生をほんとうに楽しむこともできないであろう。

それでは図のAは、いかなる立場だろうか。それは一方で戦争被害者への「日本人としての責任」を承認し担いつつ、同時に他方で、「日本国」や「日本人」という観念の自明性に挑戦し、これを解体しようとする立場である。2000年12月の開催に向けて「女性国際戦犯法廷」の準備をすすめている人々は、おおむねこのような指向性を共有しているものと考えられるが、現在の日本の言説界において、このような立場をもっとも鮮明に打ち出しているのが高橋哲哉であるといえよう。高橋は1997年9月28日に開かれた日本の戦争責任資料センター主催のシンポジウムで、こう述べている。
「私は日本ナショナリズムを批判しつつ、しかし同時に、日本人として責任を負うことを肯定したいと思います。(中略)日本人が戦争責任を負おうとするとき、日本という政治共同体への帰属をあらためて確認することになります。問われているのは日本の戦後責任だからです。しかし、これはナショナリズムの掟への服属である必要もなければ、国民国家への融合や同一化である必要もありません。私がこの場合「日本という政治共同体」と言うのは、公的・政治的存在、したがって私たち自身の政治的行為によって変えることができる存在、という側面を強調したいからです。(「責任とは何だろうか」『ナショナリズムと「慰安婦」問題』57頁)
高橋のこのような立場は、その後刊行された『戦後責任論』(講談社)や、筆者との共著『断絶の世紀 証言の時代』(岩波書店)においてさらに緻密に展開されているので本稿では詳述しない。加藤典洋は99年5月、日の丸・君が代の国旗・国歌法制化が目前の問題として迫っていたとき、日の丸を「戦後日本を象徴する国旗」として容認するとともに、君が代については「歌詞を別のものに変える」ことを提案し、日の丸は侵略国家日本の象徴だから別の旗に代えるべきだという意見に対しては、「もしこれを簡単に捨て去るなら、そのことこそ、被侵略国の心ある住民の不信の種になるはずである」という、奇怪千万な転倒した見解を披瀝している(以上『毎日新聞』夕刊、1999年5月11日)
いうまでもなく、日本国が侵略の象徴である日の丸を捨て去ろうとしないこと、法律にまで定めて国民に強制しようとすることこそが被侵略国の住民の不信の種なのである。もし日本国がこれを「簡単に捨て去る」ことができたなら、被侵略国住民が心から快哉を叫ぶだろうことは疑いない。「簡単」どころか、この間の経緯によって、現在の日本で日の丸を捨て去ることがどれほど困難であるかが明らかになった。加藤がほんとうに「戦前とは違う戦後日本」を望んでいるのなら、日の丸との決別という困難な課題は避けて通れないはずだ。加藤はその課題に正面から立ち向かうことを回避しながら、回避している自分を正当化するために、あたかもそれが賢明な「代案思想」であるかのように言い繕っているのである。このレトリックは、『敗戦後論』と同じように、現在の日本社会において、かつての市民的リベラル派など、少なからぬ中間勢力の人々の自己肯定の欲望によく合致している。結果をみれば明らかなとおり、国旗・国歌は昨年の国会で圧倒的多数の賛成によって成立し、加藤の(後に言わせると)「一歩踏み込んでの提案」は実際には法制化推進の流れを利する結果になったほかには、いかなる意義ももち得なかった。

ところで加藤は、彼のこうした「提案」が「ナショナリズムへの回帰」としてしか受け取られない「牢固とした見方」が存在していると述べ、それを最も強力に支えているのは「ポストモダン思想に立脚した反国民国家感情」であるとして、高橋哲哉の著書『デリダ』(講談社)を「一例」に挙げている(同前)。一方、前記のシンポジウムにおいて上野千鶴子は、「日本人」として「責任」をとるという高橋の立場は、国家への国民的同一化を前提とする橋爪大三郎の議論と「そう距離がないことになる」として、ナショナリズムへの罠にとらわれたものではないかとの疑念を表明した(上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』青土社、1998、188頁)。
高橋は、加藤からはポストモダン派のアンチ・ナショナリストと名指され、上野からはナショナリストの嫌疑をかけられたわけだ。これを図の上でみると、高橋はCからBであると、BからCであると見なされていることになる。上野と加藤の両者の希薄で濃厚なものは、被害者(他者)の呼びかけに応答しようとする「責任」の自覚である。ここに、90年代の日本の言説界において、Dへの引力が急激に強まる磁場の中で、曖昧なままに図の中央あたりにあった一般日本市民の意識がBあるいはCへと引き裂かれていった様子が端的に現われている。別の言い方をするなら、BまたはCへと向かう一見対立する引力が、Dへの引力の加速化に有利に作用しているのである。現在のところAの勢力は少数である。BないしCへの流れを、今後どれだけAの方向に引きつけていくことができるかが問われている。



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